Naturalidentity

 

 

手紙  1
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 長谷川真由は机の引き出しを開け、一番奥に収めてある聖書をそっと取りだした。
 真由はクリスチャンでも何でもなかったが、17歳の夏に訪れた避暑地で、この聖書を手に入れた。3年前のことである。

 林の中を真由は散歩をしていた。逍遙路の上にまで鬱蒼と茂った木々が枝葉を伸ばし、強い夏の陽射しを遮ってくれていた。その林の中に、小さな教会がひっそりと存在していた。信仰心のかけらもないのに、たたずまいに惹かれて、そっと教会に足を踏み入れる。
 本当に小さな礼拝のためのスペース。4人掛の椅子が、中央の通路を挟んで、左右にふたつづつ。全部で16席しかなかった。礼拝室だけの教会。神父が寝起きするスペースなどなさそうで、無人の礼拝堂とでもいうべきだろうか。
 通路をまっすぐ進み、前の右側の椅子に腰を下ろした。
 その時、「あなた、初めてですね」
 後ろから声をかけられた。教会の中は薄暗く、外界の明るさに慣れた目には見えにくい。先人の存在に気が付かなかった。
 「はい。。。。すみません」と、思わず真由は小さくなった。
 「どうして謝るのですか?」
 穏やかに微笑みかけられて、また「すいません」と、真由は繰り返した。
 「おやおや、懺悔に来られたのかな?」
 真由はキリスト教徒でも何でもないこと、なのに、たたずまいに惹かれて気が付いたら中に入ってしまっていたこと、そして、先人の静かな祈りの時間を邪魔したことなどを説明した。
 「気にしないで下さい。私は近くの教会の神父で、時々ここに来て、掃除などをしているだけですから」
 この林の中に別荘地が開発されたとき、キリスト教徒の有志でお金を出し合って、祈りを捧げる場としてこの小さな教会を造った。でも、今ではそれぞれの別荘の持ち主も変わってしまい、祈りを捧げに来る人もめっきり減って、散歩をする人の休憩所になっているという。
 「でも、いいんですよ。そうして人のお役に立っているのならね。それに、ここで一休みする人達は、間違いなく穏やかな気持になって下さるでしょうから」
 「はあ」
 それにしても神父とは驚いた。男は、神父でおなじみの黒い服ではなく、ジャージにタンクトップ、という姿だったからだ。なるほど、確かに清掃という作業に来ていたようだ。
 いいんですよと言われながらも、信仰心のない後ろめたさから、居心地の悪さは変わらなかった。
 そそくさと出ていこうとして、「これをお持ちなさい」と手渡されたのが、今机の中からとりだした一冊のバイブルだった。
 (こんなもの、受け取っていいんだろうか?)
 実は真由には、もうひとつ後ろめたい所があった。
 同級生の女の子と旅行に行くと言って家を出てきたのだが、本当は、大学生の彼と来ていた。別荘で数日間、ふたりきりの時間を過ごすために。
 聖書やキリスト教に関する知識など無い真由だが、「汝、姦淫するなかれ」というフレーズくらい知っている。あろうことか、真由は姦淫するためにやってきているのだから、さっそくキリストの教えに背いているのだった。
 (ま、いいか。わたしはキリスト教徒じゃないし。聖書だって、向こうが勝手にくれるって言うんだから)
 これが「お嬢さん、果物でもあげましょう」ということだったら、なんの遠慮もなくもらっていただろう。
 聖書と果物を一緒にするのは乱暴かも知れないが、「あげましょう」というのをむげに断るのもはばかられる。
 「どうも、ありがとう」
 真由は、小さくお辞儀をして、教会を後にした。

 机の中からとりだした聖書には、一通の手紙が挟んである。
 白い封筒は、少しばかり皺になっていた。手紙を受け取ったときにポケットに突っ込んだからだ。
 だが、その後は、聖書の真ん中あたりのページにきちんと挟んであったので、ピンと張りつめている。皺だけがまるでアイロンがけに失敗したシャツの筋のようにくっきり跡を刻んでいた。
 この皺は、今より3年分若くて純粋だった真由の動揺を、そのまま伝えていた。
 今は3年分歳をとり、純粋でなくなったのかもなあ、などと時々思う。

 夏の熱い日々を真由と一緒にすごした大学生は、時任雅之という。
 雅之とは夜の街で知り合った。いわゆるナンパ。
 真由は仲良し3人組で学校帰りにカラオケに行き、3時間ほど熱唱してカラオケボックスを出たところだった。
 3人は食事をしてそれぞれ帰宅するつもりだったのだが、雅之を含む大学生3人組に声をかけられて、合流した。雅之と真由は意気投合して、つきあい始めた。
 恋愛経験はそこそこあった真由だけれど、雅之との恋愛は同級生の男の子との付き合いとは全然違った。痒いところに手が届くデート、なんて言ったら相手に失礼だが、雅之は恋愛に付き物の不安や不満を真由に与えることなく、トキメキや幸福だけを振りまいた。真由はいつしか雅之のペースに引き込まれ、そして酔った。
 大学生の男の子って、こんなにも大人だったんだ。
 当時、真由が雅之に抱いた印象である。
 クラスメイトとの幼い恋に一喜一憂している級友達を横目で見ながら、大学生の恋人を持つ自分が誇らしかった。
 自分が大学生になった今、全ての男子大学生が雅之のごときではない、ということはわかる。器用なのも不器用なのもいる。雅之はちょっとばかり女の扱いに慣れているだけの、うわべが素敵な男の子だった。
 当時の雅之が、うわべだけで中身のない男だったのか、それとも、芯のあるしっかりした青年だったのか、真由には判断できなかったし、今でもわからない。わかっているのは、確かな幸せの実感が全身に降り注いでいたことと、3年という歳月が二人をしっかりと大人の男と女に成長させた、ということだ。
 真由は思う。かつての雅之がどうであったにしろ、今はお互いにプラス方向に影響しあえる仲である、と。
 雅之は毎年夏になると、家族で別荘に避暑に出かけていた。
 ところがその年、予定していた日程と重なって、雅之の父に海外出張の命令が出た。1カ月程度の出張である。現地法人の寮があてがわれたため、母も一緒に行くことになった。雅之には兄がいたが、今年入社したばかりの新人で、夏休みを言い出せるような立場ではなかったから、「家族旅行」には最初から欠席のつもりだった。
 両親も兄貴もいない今年の避暑に、雅之はここぞとばかり真由を誘ったのだった。
 雅之の父はいわゆる一流企業のエリートサラリーマンでそれなりの地位にいて、レポート作成のために別荘にこもるという理由を付けて一人別荘に出かける雅之に、ポンと資金を出すのに何の苦も無かったのだが、そんなことを真由が知るのはもっと後のことである。
 夏の数日を彼と二人っきりで過ごせると思うと、真由は舞い上がってしまうのだった。
 雅之の運転する車で別荘に着くと、真由は雅之の案内で一通り内部を見聞する。
 広いダイニング兼リビングルーム。片隅にはカウンターがあり、その内部はミニキッチンになっている。本格的なキッチンは扉の向こうにあったけれど、二人分の料理をするにはミニキッチンで十分に思えた。
 ダイニング兼リビングルームはフローリングで、一段高くなった畳のスペースに続いている。8畳の広さのそこには、ちゃぶ台と座椅子が置かれ、床の間には掛け軸がかかっていた。一階部分にはこの他に、バス、トイレ、そして広い窓がしつらえられたサンルームがあった。
 二階には部屋が4つ。和室がふたつと、ダブルベッドが置かれた洋室、そして、シングルベッドのある少し小さめの洋室。自分たち家族だけでなく、お客を迎えたときにはその多寡に応じてそれなりの部屋割りをすることが出来そうだ。
 各部屋をざっと案内された真由は、私達は今夜どこで寝るんだろうと思ったが、急に恥ずかしくなって訊くことが出来なかった。
 リビングにカバンを置き去りにして、二人は近くのスーパーに買い物に出かけた。夏のシーズンだけ別荘滞在者のために、簡易スーパーが出来るのだ。
 年に一度、夏の期間に滞在するだけの別荘なので、キッチンに食材はほとんど残されていない。若干のカンヅメがあるだけだ。だから、細々した調味料から揃えなくてはいけない。
 明日はサイクリング、明後日には渓流釣りの予定なので、その間買い出しに行けないし、お弁当の材料も仕入れなくてはいけない。
 真由はこの先数日間のメニューを頭の中で思いめぐらしながら、あれこれと食材を買いそろえていった。
 時々、雅之は遠慮がちに何かを買い物籠に放り込んでいる。柿の種、チーズ鱈、イカクンなど。
 「いや、ちょっと夜のお酒のアテに」
 言い訳がましい雅之に、真由はおかしくなった。
 どのみち今回の費用は全て雅之が出すことになっていたからだ。
 自分が稼いできたのに奥さんに遠慮しながら支出する世間にありがちなサラリーマン夫婦みたいだなと、真由は思った。
 夫婦、かあ。
 真由は思わずため息をつく。
 一緒に買い物をして、料理を作って、お風呂を沸かして。。。。お風呂には一緒にはいるのかしら。
 真由は、私達まるで新婚夫婦みたい、と思った。
 まだ身体も許していないのに。
 といってもそれはおそらく目の前に迫っている。
 きっと、今夜。
 真由は甘酸っぱい気持に全身が包まれ、夢見心地になった後、途端に恥ずかしくなった。

 雅之と二人の別荘生活をはじめて四日目、雅之と真由は別行動をとった。
 これはあらかじめ予定されていたことだった。
 雅之は課題のレポートに取り組むのだ。レポート作成のために別荘にこもると親に説明していたのは、まんざら嘘ではなかったのである。
 事前の準備や資料集めは既に出来ていて、あとは集中的に書き上げるだけらしかった。
 真由は、朝食と夕食は一緒に食べることにしたが、昼食はおにぎりやサンドイッチを作っておいて、邪魔をしないように自分は外に出かけることにした。
 一人であっても、行くべきところはたくさんある。
 森林の中を歩くコースはいくつかあるし、植物園やビジターセンター、蕎麦打ち体験のできる店もある。
 雅之がレポートに取り組み始めた初日、真由はとりあえず付近を歩き回ってみることにした。これまでは全て雅之主体であれこれ連れまわされていた感があるので、自分で気ままに歩いてみたかったのだ。
 このとき、真由はささやかなたたずまいの教会を見つけ、聖書をもらった。
 そして、聖書に挟んでとっておいた手紙は、教会からの帰りに出会った同年代の男の子から受け取ったものだった。
 彼は「朝霧」と名乗った。苗字か名前かわからない。本名ではないのかも知れない。
 真由よりもひとつかふたつ年下のように見えたが、本当の年齢もわからない。いわゆる「自己紹介」など二人の間に存在しなかったからだ。
 真由は「背伸びをしている少年」という印象を朝霧に持った。
 「ずっとあの人と二人でいたのに、今日は一人なんだね」と、朝霧は言った。
 あの人とは、雅之のことだろう。
 「あの人は、毎年来てる。僕もここには毎年来てる。でも、キミは初めてだね」
 どうやら近くの別荘の子らしい。
 年下のくせに言葉遣いがなってないなあ。真由は最初そう思ったが、必死になって真由と対等になろうとしているのだと思うと、健気で可愛らしくさえあった。
 「これからどこへ行くの? それとも戻るの?」
 「特に考えてないけど」
 「何してるの?」
 「ぶらぶら」
 「ふうん」
 会話を交わしながら、真由と朝霧はいつしか並んで歩き始めていた。
 教会から別荘地へ、引き返すように道を辿っていた二人だったが、「ねえ、こっちへ行ったことある?」と、朝霧は脇道の前で立ち止まった。
 「ううん、ないけど」
 「綺麗な滝と滝壺があるよ。行こうよ」
 朝霧は真由の手を取った。

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