Naturalidentity

 夏の風が胸元をかすめていった  1  

 

 渡辺マリン、16歳。
 人生16年目にして初めて出来た彼氏と、つい先日初体験をしたばかり。
 母親との関係が微妙に変化したのも、携帯電話を持つことになったのも、携帯電話の維持のためにアルバイトを経験するのも、マリンにとっては新しい出来事だった。
 男の子からマリンにかかってくる電話といえば、これまではもっぱらクラスやクラブ関係ばかりで、いわば高校生にとって「公的」な連絡だった。
 母親は電話の度に「今のは何だったの?」なんてことを訊いたりはしなかった。むしろマリンの方から進んで電話の内容を語っていた。
 特別な理由など無い。ただ、それが今まで育んできたマリンと母親の自然な関係だった。
 もっとも、電話の内容をある程度知られていた方が便利だった、という面はある。
 「マリン、今日の朝練は中止じゃなかったの?」
 「日曜日だからっていつまで寝てるの? 文化祭の打ち合わせがあるって言ってなかったっけ?」
 とまあ、こんな具合に、日常生活のマネージメントを母親に押しつけていた節がある。
 だから、彼氏が出来たからってとりたてて隠し立てしなくてはいけないような間柄でもなかったし、むしろ恋人が出来た喜びを伝えたいとすら感じていた。
 ただ、これまでそんな会話を交わしたことが無かったせいもあったろう、機会を逸したままになっていた。
 母親に恋人の存在をうち明けることなく、失ってしまったヴァージン。
 「今更言えない」というのが、マリンの出した結論だった。
 だって、「どういうお付き合いの仕方をしているの?」と訊かれれば、口ごもらざるを得ない。しゃあしゃあと「綺麗なお付き合いよ」と言い切る図太さはマリンにはない。
 「彼とはもう寝たのよ」なんて言えば、頭ごなしに叱られるだろうというマリンの思いこみが、余計に告白をしずらくさせ、いつのまにか母と娘の距離が広がっていった。
 恋人との関係をあけすけに語れる親子関係もあれば、そうでない場合もある。どちらがいいとか悪いとかいう問題ではない。マリンはこれまで「語れる関係」だと思っていたので、恋愛事が実は語れないままでいるということに、奇妙な違和感を自分の中で抱き始めていた。
 そのせいだろうか、つい長くなりがちな電話が終わると、母親がマリンに投げかける「今の電話は何だったの?」といいたげな視線がこころにひっかかる。
 「私は幸せな恋をしているの」
 ただそう伝えれば済む。なのに、それができない。
 出来ないことが心の澱になり、電話を終える度に逃げるように自室に引っ込んでしまう。
 そもそも「何だったの?」ときかれれば、「何でもない」としか答えようがない。ほとんど中身のない世間話をしているだけなのだ。たわいのない言葉のキャッチボールが楽しい。
 そういえば、今まで男の子からかかってくる電話といえば、なにがしかの「用事」があり、どうでもいいことも喋ったけれども主題は用事だったことに思い当たる。
 ダラダラと用件以外のことを話そうとする男の子もいたし、それが友達感情からなのか、マリンに気があって少しでも長く話していたいからなのか、ある程度見分けもついた。用事にかこつけたあからさまな電話もあった。けれど、電話を切った後、「これこれという用件で」と母親に伝える程度の中身はあったのだ。
 今から思えば、「何らかの用事」があったので「今の男の子ね、私に気があるのよ」と言わなくても済んでいたし、それでホッとしている部分があった。
 母親には何でも話しているようでいて、実はそうではなかったのではないか。フランクな関係など築けてはいなかったんだということに思い当たるマリンなのだ。
 マリンの変化に母の佳子が気付かないわけがない。
 それがおそらく、恋人の出現によるものであることも佳子は察していた。
 今までは何でも語ってくれていた娘が急に無口になったことが、気がかりでもあった。
 だから本当は根ほり葉ほり聞いてみたい、だが現状では、さりげなく話題を向けることもできなかった。
 2回ほど、「よく電話がかかるようになったね。彼? お付き合いしているの?」と、佳子はマリンに水を向けたことがある。
 図星だったので、マリンの思考は固まってしまった。
 マリンは母親の干渉が嫌というわけではない。むしろ、楽しく話題にしたいとさえ思う。
 それは佳子も同じ気持ちだった。
 娘が幸せな恋愛をしているのなら一緒に喜んで上げたいし、かっといって心配ごともあるから伝えておきたい注意もある。女としての興味本位すらある。
 母親の気持をマリンは全く察していないわけではない。
 しかし、いや、だからこそ、本心とは裏腹に、母親に対してうとましげな態度をとらざるをえなくなってしまった。
 「語りたくないの。放っておいて」というように。
 装いの感情が重なれば、それが本当になっていく。
 携帯電話を持てば取り次いでもらう必要もなくなるし、時間も気にしなくていい。
 電話代を払うためにはバイトをすればいい。
 こうしてマリンは、それまでとは異なった日常をおくるようになっていった。
 昼間は学校だからバイトは夕方からになり帰宅が遅くなる。バイトをしていなければ決して知り合うことの無かったであろう人達との出会いがあり、身体は疲れるけれど今まで得ることの無かった刺激が新鮮に思えた。
 バイト仲間との付き合いは仕事が終わってからになるから、ますます時間が遅くなる。
 時間が遅くなれば、遊びの内容も限られた。
 バイト仲間には大学生もいたし、マリンと同じ高校生もいた。昼間学校へ通い、人によってはクラブ活動をし、それからバイトをこなした後である。行き先は座って飲み食いできる店か、カラオケ、そうでなければせいぜいゲームセンターといったところ。
 未成年が混じっているとはいえ、私服になれば見分けは付きにくい。とくに女の子は化粧ひとつでどうにでもなる。
 いきおい、お酒がはいることもある。
 わずかにアルコールの力を借りて、愉快な仲間達と一時の遊びやおしゃべりに興じる。
 そして、「お疲れさま」とねぎらい合って、きちんと家に帰るのだ。
 夜通し悪い仲間と遊び歩いているのではない。まさかバイト終了後のちょっとした楽しい時間が「夜遊び」だなどと非難されるなんて、マリンは思ってもみなかった。
 もちろんカツアゲや喧嘩、麻薬、援助交際、万引き、親父刈り...そういったものとは全く無縁ですらある。
 だからマリンに言わせれば自分の行動をして「夜遊び」だの「不良」だのと称されるのは心外以外の何ものでもなかった。
 運が良くなかっただけかも知れない。タイミングが悪かったと言うこともあろう。自分がまわりにどのようにみられているかを考えるには若すぎたともいえるだろう。
 夏休みを前に、1学期の期末試験のために、マリンはしばらくアルバイトを休止した。自分では意識していないがマリンは頭がいい。受けた授業はほぼマスターしていたから、試験範囲を集中的に復習すれば定期テストはそこそこの結果を出した。
 マリンは今までずっとそうしていたように、試験前の短期集中詰め込み大作戦を実施した。これまでのペースで勉強すればいいと思っていた。
 これまでと違っていたのは、机の上に携帯電話があることだ。彼とのホットライン。
 「どう、進んでる?」
 「まあまあかな」
 「がんばろうね」
 会話の中身はいたって健全な励まし合いだ。
 。。。。。。しかし。
 思ったほどの成績を上げることは出来なかった。電話が試験勉強の時間を少なくしたのも事実だし、バイトや「夜遊び」が翌日まで影響し、授業中の集中力を低下させていた。居眠りすることもまれにあった。
 だが、これまでに比べて試験の点数が良くなかったという結論が出る前に、マリンは窮地に追い込まれたのだった。
 試験終了後のアルバイトで、「そう、マリンちゃんもこれで自由の身ね。おめでとう」
 「ありがとう」
 などという会話の末に、打ち上げと称して呑みに行ったのがアダとなったのだ。
 たまった疲れ、試験が終わったという事実、そして間もなく夏休みという開放感。これらにアルコールがいつもより少し多めに加わって、マリンの身体と意識はけだるい幸福感に包まれていた。
 楽しいな、フワフワフワ。でも、酔っているというわけでもないし、もう少し飲もうよ、カラオケも唄おうよ、何だか今日は本当に心の底から楽しい!
 この状態が「かなり酔っている」ということだとマリンはもちろん気付いていない。
 時間の観念もなくなっている。ただひたすら遊び続けられる錯覚に陥っていた。
 決してこれも悪くはない。ただ、マリンが不幸だったのは、彼女が高校生で、深夜の街を酔っぱらいながら時々声高にはしゃぎ、いつの間に口説かれたのか大学生のバイトの先輩に肩を抱かれながらラブホテル街を既にその気で歩いていたことだ。
 補導されてしまったのだ。
 酔いが醒めたマリンが思ったこと。それは「わたしは何も悪いことはしていない」だった。
 人を傷つけたわけでもない、物を盗んだり壊したりしたわけでもない。誰にも迷惑を掛けてなんかいない。
 「ご両親はとても心配されているわ。それに、あなたがこういうことをしたおかげで、夜中に先生だって呼び出されるし、私達だって走り回っているのよ。迷惑を掛けていないなんて事はないわ」
 少年課の婦人警官は優しく諭すように言ったが、マリンには詭弁としか思えなかった。
 わたしは家出娘じゃない。放っといてくれたらちゃんと家に帰ったのに。補導なんかするから親や先生がかけずり回り、心配することになるんだと。
 「でも、そんなことはどうでもいいのよ。あなたがきちんとしてくれるようにさえなればね」
 私はきちんとしていないとでも言うのだろうか。
 「売春で得たお金で覚醒剤を買っている子も、同じ事を言うわ。『わたしは誰にも迷惑かけていない』って」
 それとこれを一緒にしないで!
 叫ぼうとして、マリンは馬鹿馬鹿しくなって、やめた。
 不良と呼ばれる人達の多くが、こうして造られていくのかも知れないな、そう感じたからである。
 彼氏が出来たことがきっかけで、学業がおろそかになり、遊ぶ金ほしさのためにアルバイトをし、悪い仲間と付き合うようになった。
 マリンはまわりの大人達が自分のことをそう評価しているのに気が付くまでに、それほど時間はかからなかった。
 マリンは登校停学という処分を受けた。
 学校へは行くのだが、基本的には「停学」なので、他の生徒と顔を合わせることは許されない。一足遅れて登校させられた。使われなくなった物理準備室に隔離され一日中反省文を書かされた。
 休み時間は物理準備室から出ることを許されず、逆にお手洗いなどは授業中に行くよう指示された。そして、他の生徒達の終業を待たずして帰宅させられる。帰宅をしたら学校にその旨電話を入れる。
 期末試験後なので、すぐに夏休みになった。授業はないが、それでもマリンの登校停学は続いた。
 処分が解けたのは、7月31日だった。
 あるひとつの事象だけを捕らえて補導し、紋切り型な不良パターンに当てはめられ、マリンは空虚な気持になっていた。
 おとなしく処分を受けたのは、もはや馬鹿馬鹿しさに反論する気にすらならなかったからだ。
 調子に乗ってお酒を飲んだのはまずかったけれど、不良の看板を掲げて「不良です」という行動をしているわけでもないし、これからする気もない。まじめに勉強をして、まじめに恋愛をして、まじめにアルバイトをする。それだけなのだ。
 それはこれからも変わらないだろう。
 疲れがとれないのならアルバイトの回数を減らせばいいし、試験勉強の妨げになるのなら、彼との電話の回数や時間をセーブすればいい。それくらい学習する。初めてのことだったからペースがつかめなかっただけだ。
 マリンはそれを過ちとすら感じていなかったが、過ちと断じるならそれでもいいと思っていた。釈然としないのは「たった一度の過ち」と、これからのわたしに期待をかけてくれなかったことだ。
 もっとも、処分が終わり、一足遅れの夏休みが許された今となってはそれもどうでもいいことだ。
 彼との愛はこれからも育んで、幸せな関係を作ってやる。彼が原因で成績が落ちたなんて今度は言わせない。次の定期試験ではいつも通りの点数をとってやる。
 意地になってそう思っているのではない。たまたま今回バランスを崩しただけであり、それを整え直す自信がマリンにはあるのだ。
 それまでは色々言われるかも知れないが、結果を出せばわたしの勝ちだ。
 わたしの一面だけをみて全てわかったような顔をしている大人達を見返すことが出来るだろう。見返すことが目的じゃない。自分流に自然にやれば、大人達が間違っていたことは彼ら自身で気が付くはずだ。わたしは関与しない。
 いずれにせよ、わたしは処分を受けて、それはもう終わったことなのだ。
 それでいい。
 ただ、気がかりなのは....
 「お前と付き合ったのが原因で渡辺マリンは不良になった」と罵られてしまい、傷ついたに違いない彼の気持と、母親との関係。
 マリンにはどうすればそれらを修復できるのか、全くわからなかった。

 


 

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