「白村江の戦い」を知っていますか。
日本の古代史を学ぶとき、白村江をはくすきのえと読むと教わり、その特異な読み方に強い印象を持ったことを思い出します。7世紀の後半、唐と新羅の連合軍に滅亡に追い詰められた百済の救援をめざして出撃した倭軍は朝鮮半島の南西側黄海に望む入り江の白村江で新羅と唐の連合軍と戦い大敗を喫します。倭軍は火攻めで敗れたといわれますが、この戦いが、白村江の戦いです。
金田城とは?
その白村江の戦いに敗れた大和の王権が、唐・新羅の連合軍による大和侵攻を恐れて、大和防衛の最前線として築城したのが金田城です。金田城はかねたのきまたはかなたのきとも訓読されますが、対馬を上島と下島にわける浅茅湾を一望する城山に築かれた朝鮮式の山城です。同時期に築かれた城には、九州の基山城、四国の屋島城、大和の入り口に築かれた高安城などがありますが、金田城は、当時のままの遺構を最もよく残しているとして昭和57年に国の特別史跡に指定されました。


史跡探訪
その後同史跡の保存整備が続けられてきましたが、今年、これまで知られていた三の城戸、二の城戸、一の城戸に続いてあらたに南門の遺構が発見されました。そこで、島内各町の文化財担当者と文化財保存審議委員で構成される対馬文化財協会は、この金田城を今年の巡検地にあげ、11月26日巡回研修を行いました。

 《三の城戸近くの石垣の遺構》

  金田城の築城は西暦667年とされますが、1300年以上も前の石積みを前にすると、その歴史の重さに圧倒されます。遠くに黒瀬の港と集落が見えます。














《三の城戸の石垣》
この石垣の下に、今も機能している水門がある。この城戸にも柱穴を穿った礎石が現存するが、ここは崩壊が一番進んだところで、礎石ももともとの位置にはない。
















 《今年7月に新たに発掘された南門》
ちょうど中央部左右に、観音開きになる門の柱穴が見える。柱穴には水抜きが掘られているのが大変珍しいという。また、写真は北から南を望んでいるが、手前が城内。門扉まで3段の石段が築かれている。門外のすぐ先は急峻な崖なので、城門に向かう道路はすぐ前の左右(東西)にあったものと思われる。












《ビングシ山の土塁》
文字通り急峻な岩山である城山の中で、やや平坦な地をもつこのビングシ山(写真右上方向)は金田城の中枢部があったのではなかろうかという。掘っ立て小屋跡の柱穴が何箇所も確認されている。























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