新田義貞に関する史跡

 


源義国五輪塔:群馬県尾島町岩松

源義国は八幡太郎義家の三男として生まれる。新田氏の祖義重と足利氏の祖義康の父であり、平安時代の武将であった。時の左大臣藤原実能の屋敷を義国の郎等が焼き打ちしたことにより下野国足利荘に引きこもることになった。後に出家して荒加賀入道と称し新田荘に居住し1155年6月26日に没した。

 

岩松八幡宮:群馬県尾島町岩松

1166〜1169年に新田氏の祖義重が京都大番のおり山城国男山より小松を持ち帰り、猪沼(いぬま)郷に植えて岩清水八幡宮を勧請し岩松八幡宮と称した。これより猪沼郷から岩松郷に改めたといわれる。八幡宮は源氏の守護神として崇敬されている。

 

反町館跡(国指定史跡):群馬県新田郡新田町反町

中世平城の典型「反町館」の本丸の跡にあたり、今でも南、西、北、東に土塁と水をたたえる水濠が往時の面影を伝えている。新田義貞が1329〜1330年に居住していたといわれている。写真右は、本丸跡にある妙光院瑠璃山照明寺。義貞の母、妙光院殿蓮法大禅尼の位牌が保存されている。本尊は厄除薬師として有名で正月四日の大祭には、大勢の参詣人で賑わう。

 

生品神社(国指定史跡):群馬県新田郡新田町市野井

 

元弘三年(1333)、新田義貞は後醍醐天皇からの綸旨を受けこの生品神社で挙兵しました。境内には旗揚げ塚や義貞が腰を下ろしたといわれる床几塚、軍旗をかざしたクヌギの木があります。太平記では挙兵の様子を次のように記しています。「五月八日ノ卯刻ニ、生品明神ノ御前ニテ旗ヲ挙、綸旨ヲ被テ、三度是ヲ拝シ、笠懸野へ打出ラル。相随フ人々、氏族ニハ、大館次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・舎弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義、是等ヲ宗徒ノ兵トシテ、百五十騎ニハ過ギザリケリ。云々」

 

金龍寺:群馬県太田市金山町

 

延元三年(1338)越前国藤島で戦死された義貞公の菩提を弔うため、応永五年(1398)新田岩松系の岩松三河守 源満純が諸堂を建立し開基しました。その後、応永二十四年(1417)金山城主 横瀬貞氏(義貞公の三男、義宗の子)が越前国足羽(福井県丸岡町)より祖父義貞公の遺骨をこの地に移し、廟所と定め木像を安置しました。ここ金龍寺は春の新緑とツツジの名所、秋には欅・クヌギ・萩などが色づき金山の赤松の緑の中で紅色に映える景色は格別です。

 

新田神社:群馬県太田市金山町

金山丘陵の頂上、標高約二百三十メートル 金山城本丸跡に新田義貞を祀る新田神社が明治七年に造営されました。神社境内には樹齢四百年以上とされる大欅(子供たちと比較すると大きさがわかります)がそびえたっていて往時を偲ぶにふさわしいスポットです。

 

金ヶ崎城跡:福井県敦賀市金ヶ崎町

後醍醐天皇との縁が深い神社、気比神宮の宮司に迎えられた新田軍は1336〜1338年まで金ヶ崎城に籠城することになります。太平記では「義貞朝臣敦賀津に著給へば、気比弥三郎大夫三百余騎にて御迎に参じ」と記しています。足利軍はたびたび城攻めを決行しますが守りが堅く持久戦となりました。城内の食糧はしだいに底をつき、馬までを食糧とする有様だったようです。そのような状況の金ヶ崎城を救うため新田義貞は、弟 脇屋義助とともに城を脱出。杣山城の瓜生氏のもとへ援軍を求めに行きます。その直後城は総攻撃を受け落城してしまいました。

 

燈明寺畷:福井県福井市新田塚町藤島神社

義貞着用の兜(複製)        称念寺

藤島城を攻撃する途上の新田義貞は、燈明寺畷で斯波高経軍三百騎と遭遇。激戦のすえ弓矢を受け自刃してしまいます。太平記では、「義貞弓手ノ足ヲシカレテ、起アガラントシ給フ処ニ、白羽ノ矢一筋、真向ノハヅレ、眉間ノ真中ニゾ立タリケル。急所ノ痛手ナレバ、一矢ニ目クレ心迷ヒケレバ、義貞今ハ叶ハジトヤ思ケン、抜タル太刀ヲ左ノ手ニ取渡シ、自ラ頸ヲカキ切テ、深泥ノ中ニ隠シテ、其上ニ横テゾ伏給ヒケル。」と記しています。この戦死場所には「暦応元年閏七月三日 新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑が鞘堂に納めてあり「新田塚」と呼ばれています。また、1657年にこの燈明寺畷の水田で農民が「義貞の兜」を発見しました。この兜は藤島神社に保管されています。遺骨は越前国足羽の称念寺(福井県丸岡町)に埋葬されました。

 

善昌寺:群馬県勢多郡新里村

新田義貞の執事である船田義昌(善昌)が獄門にさらされている義貞の首を盗み取り新田荘の最北端の大同寺に葬ったとされている。そして、大同寺に住して義貞の菩提を弔ったので寺名を大同寺から善昌寺と改めたとされている。しかし、太平記によれば船田義昌は義貞より先に戦死しているはずなので真実は確かではない。いずれにしても、この善昌寺の裏山には「新田義貞公首塚」という大五輪塔がある。そのまわりには大小の数十基の五輪塔があり新田一族や家臣たちの遺骨が埋葬されている。また、義貞の首塚は、ここ善昌寺のみならず「京都嵯峨の滝口寺」、「小田原市酒匂の新田社」等がある。

 

花見塚公園と勾当内侍五輪塔:群馬県尾島町武蔵島

義貞は、内裏に召されて警護の任に当たっていた時、内侍の弾く琴の音に誘われた。その姿を見るとあまりの美貌に虜になってしまったといわれる。そんな絶世の美女を建武の中興に功績のあった義貞は、後醍醐天皇より恩賞として賜ったのである。そして、帰郷したときはこの地にツツジを植え、新しい館を構えるはずだったようである。義貞没後の内侍は、この地に来て儀源比丘尼と称して義貞の菩提を弔ったと伝えられている。写真花見塚公園の中に義貞と内侍の五輪塔がある。