新田義貞とは

 

  • 清和源氏の嫡流で、「八幡太郎義家」の後裔と由緒ある出身!

  • 新田荘の基盤を築いた源(新田)義重より8代目として新田本宗家に生まれる。父は朝氏とされる。また、出生については諸説あるが、義重の三男 里見義俊の6代里見義忠の五男が養子に入ったとの説もある。

 

  • 生品神社で旗揚げし、新田荘をはなれてから故郷の土を踏むことのなかった無念の人生!

 

  • 後醍醐天皇に最後まで忠義を尽くし、合戦に次ぐ合戦に明け暮れて三十八年の苦闘の生涯を閉じた!

 

 

 


 

 

人情味あふれるエピソード

 

年表中 ※1

敗走の途中、天龍川の舟渡しで全軍渡河の後、家臣が敵の追撃を止めるため舟橋を切り落とそうとした時、義貞はこれを抑止し、「橋を切り落としたところで勝に乗って追撃する鎌倉軍が、架橋するのに時間はかからない。橋を切り落としてあわてふためいて逃げたとあっては末代の恥辱である」といい、舟橋をそのままにして帰京したという。

 

 

 

年表中 ※2

先頭の者がばたばた撃たれたので、家来は引き返すことを勧めた。だが義貞は「勇士を失って、我れ一人生き残るのは、我が意ではない」と云い放って馬に鞭を入れ、敵中に駆け入ったという。

 

 

 


 

 

動乱の世の中を太平記は

 

これより四海大いに乱れて、一日もいまだ安らからず。狼煙天をかすめ、鯨波地を動かすこと、今に至るまで四十余年、一人として春秋に富めることをえず。万民手足をおくに所無し。