抹茶と紅茶の出会い

鈴木 智子 さん
(芦屋・1905年生れ)





  やがて、岩崎智子さんが結婚することになるモダンボーイ、鈴木政雄さんとのデートコースは、 政雄さんの大好きな心斎橋のクラシック音楽専門のレコード店。
 「口には出さなかったけれど、えらいハイカラぶってるなと思ったの」
  喫茶店では、政雄さんは紅茶をたのみ、智子さんに蘊蓄をたれる。
 「飲んだことないでしょう。智子さんこうして飲むんだよ」
  智子さんは心の中でつぶやく。「飲み慣れたお薄と器から違うでしょ。えらいとこに入ったあるな〜。飲めるかな。 あぁ、これは息を詰めて飲まんならん……」
  また政雄さんは言う。
 「どうかすると英語で言うこともあるので、そのつもりで……」
  智子さんが心の中で反発する。
  「なんで私がそのつもりでおらんならんの……」
  さらに政雄さんは尋ねる。「大阪から出たことありますか?」
 「生田(生田神社)さんでお茶会しますから、出たことあります」
  私のこと、世間知らずと馬鹿にしている……智子さんは心の中でつぶやいた。

  別れ際、政雄さんに「お友達になりますか?」と聞かれて「もうお友達です」と答えたのは、せめてもの反発だった。
後で、母親から、簡単に返事するものでないと叱られるのだったが……。



  智子さんは、子供のいない岩崎家からの申し出に養女に入った。 養父は茶道の先生、養母は学校の先生で、一人娘として大事に育てられた。
 「しつけはお父さんが得心いくように言ってくれるし、裁縫はお母さんにきびしゅう教えられました」。
    一方、神戸のモダンボーイ、鈴木政雄さんはパルモア学院で英語を勉強し、日常会話にも頻繁に英語が出てくるほど。 歯科医に医療機器を販売する会社で重きをなし、アメリカへ行く予定になっていたが、社会情勢の変化がその希望をかなわなくさせた。
  智子さんがよく遊びに行っていた家に、たまたま政雄さんもきていて、2人は知り合うこととなった。

  


 当時は、親が決めた男性とよく知り合わないまま結婚することの多い時代だったが、智子さんの場合は何回かデートを重ね、 兄弟の多い政雄さんが岩崎家の養子に入ることで結婚がまとまった。
  結婚式は、岩崎家へなにわ神社の宮司さんがきて執り行われ、25歳と20歳の新婚生活が始まり、 1年後に長男謙一さんが生まれた。

大阪から神戸へ


  政雄さんが、父と兄の経営する会社を手伝うことになり、岩崎姓から鈴木姓に戻し、 一家そろって大阪の塩町から神戸の元町に移った。
  以来、智子さんは家族や従業員の賄いやら、身の回りの世話に追われる生活が始まる。 夜になってやっと、読書や、編み物の時間が取れた。
  先を見る人だった政雄さんは、当時では珍しいハーレー・ダビットソンのバイクに乗って商売に奮闘し、 10年間で会社を軌道に乗せた。

 


  鈴木夫妻は戦争中、警防団長と婦人会長の役を引き受けていた。
  前もって家財道具を安全な所に移したり、家族そろって避難することができず、 自分たちは後回し。空襲のとき、老人を背負って逃げるのが精一杯だった。
  戦争で、すべて焼失し、思い出の写真も残っていない。 世話をしていた若い従業員が出征し戦死したのがとてもつらかったと振り返る。

  インタビューに付き合ってくださった孫娘の定藤登紀子さんが
 「おばあちゃんはおじいちゃんを尊敬し、とても大切にしてましたよ」と一言。
 「モダンボーイの素敵なだんな様だったんですね」と語りかけると、満面の笑顔が返ってきた。

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