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< 百 歳 の 肖 像 11 >


初任給は十五円


大橋志を さん(明30年生れ)

    琵琶湖畔の愛知郡湖東町で農家の八人兄弟の長女として生れた大橋志をさんは、七人の弟や妹の子守りが日課。

 「背中にいつも誰かがいましたんで、汗の灰汁で、着物がボロボロになりましたんや。子守さんをたのまはったけど、いかしませんねん、私でないと。他の人の世話では駄目でねえ」

 炊事の支度もあって休む間もない一日だった。
「畑のもんをおこしては、炊いたりしてましたんや」

 近所でも評判の孝行娘で、利発な女の子だった。
 親は志をさんが勉強することを好まず、1本2銭の鉛筆を一度に5本も買って叱られた、ちょっぴり苦い思い出もある。
 幼い頃より先生になるのが夢。そのために、みなが寝静まってから、師範学校の受験勉強をした。
 それも、これも今では、懐かしい想い出だ。

 明治45年、15歳の時、みごと女子師範学校に合格。ちょうど平塚らいてうらによる女性解放運動の台頭期。海外ではタイタニック号が沈没する事件があった頃だ。

 両親は余り賛成ではなかったが、4年間の寄宿舎生活を楽しく過ごせたのは、「子供のない大連のおじさんがいつも気にかけ、応援してくれた」おかげだった。

 卒業後、小学校の教師に。初任給15円を、苦労をかけた両親に渡すと、母親が神棚に供えて拝んでいたのが忘れられないという。
 当時、一町百姓の儲けがおよそ15円。
 「娘さん1人で1町百姓やってんのと同じやなぁ」と近所の収入役さんから言われた。

 「学校から帰ってくると 、お父さんやお母さんの手ったいに、毎日田んぼに行きましたんや。
 私が手ったいまっしゃろ、まあほんな珍しいで、皆が感心な娘やて、よう褒めてくれました」

 と恥じらいがちに志をさんは微笑む。

 結婚後もその当時としては珍しい共稼ぎ。
 教職をやめてからは、一転して、ご主人が彦根市に開いた電気工事業を病弱な夫に代りきりもりする。

「女の電気屋が来た!って、お客さんが笑わはった」
 昭和20年頃のことだ。

 75歳まで仕事を続けた。かたわら民生委員、婦人会、町内会などの世話も続ける。

 今でも琵琶湖で獲れる小魚や鮒寿司が送られてくる。  「母の元気の源は琵琶湖の魚でしょう」
 と80歳を機に同居された一人娘慶子さんが話す。


 志をさんの自伝はこう結ばれている。

 朝、目を覚ますと仏様や神様にご挨拶して、その後は朝日新聞や日刊スポーツをすっかり読みあさって、珍しい出来事を頭に収めることが毎日の日課になっています。
 「白寿の祝」を親類・知人がしてくれて、幸せの極みで恐ろしい位です。


 自伝を書いてから2年後、お産以来の入院をした。
 手術のあと足が不自由になり車椅子で移動する志をさんだが、 「今にようなる!」と孫達に話す。

 今は優しく志をさんを見守る娘夫婦、孫3人、曾孫5人が誕生日や記念日に集ってくれるのが何より幸せだそうだ。

 この本が発行される3月中旬、志をさんは104歳になる。



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