國宗本家のつどい

日時 2004年8月14〜15日
       訪問先
       津山市高福寺 津山市林田667
       國宗本家   岡山県久米郡中央町
                打穴里國宗764番地



編集 国宗 直      写真 永山靖子  国宗直子

 熊本の國宗家の呼びかけに応えて、久米郡打穴(うたの)里の國宗本家を訪問して、祖先の墓参と一族の懇親を深める一日を持つことが出来ました。本家の皆さん、千葉在住の國宗登さんのご協力と、歓迎に心から感謝致します。特に本家当主の國宗順さんの奥さんのお父さんの初七日というご不幸があったことも知らずに、大変ご迷惑をかけたことを心からお詫びします。
 88歳の高齢を押して参加された平尾睦さん、田口良恵さんともども、國宗家の古い話をしていただいたことは、大変参考になりました。
 熊本の國宗徹一家、福岡の國宗真は初めての打穴訪問でしたので、皆さんの歓迎と盛大な集いに感動していました。一生の思い出として、いつまでも記憶に残る事でしょう。
 今回の津山と打穴訪問とお会いした方々を紹介し、記録に残しておきたいと思います。


 京都、福岡、熊本組津山で合流
 異常気象と思われる酷暑のこの夏でしたが、夏休みとお盆休みを利用して、子どもや孫たちに、國宗家のルーツを見せておく必要があると思い立ち、家族総出の旅行を計画しました。この計画を福岡の兄真、と京都の従姉妹甲斐荘久仁子へ連絡、賛同を得た上で、打穴の國宗家、千葉の國宗家にご協力を依頼しました。いずれも快くご同意頂き、 実現の運びとなりました。この二日は曇り日で暑さもほどほどだったことは幸いでした。

  熊本の國宗直、黎夫婦と長女直子は8月14日、JRの11時30分熊本駅発リレー つばめ42号で熊本を出発、博多駅で國宗真、礼子夫婦と合流、新幹線のぞみ20号で 岡山に到着、津山線で京都から来た甲斐荘久仁子とさらに合流、目的地津山に16時30分到着しました。ただちに駅隣の「ホテルα1津山」にチェックイン。しばし休憩の後タクシーで、林田(はいだ)にある高福寺を訪れ、國宗家の墓所を訪ねました。

 国宗次郎一族の墓参
 ここに、國宗次郎之墓、國宗家累代之墓、國宗千衣之墓、國宗はわかるが他の字が判読できない墓がありました。
 國宗次郎は私たちの祖父、國宗千衣は父晋の姉で若くて亡くなった女性、よく判読できない墓石は、赤ん坊の時になくなった私たちの姉(双生児)國宗聖子、霊子のものではないかと推測しています。
 國宗家累代之墓には次のように墓誌が刻まれています。

   國宗雄一(國宗次郎の長男) 昭和4年12月3日寂
                       行年58歳(戒名略)
   吉村マサ(雄一の妻)  昭和24年6月29日寂
                       行年68歳( 〃 )
   國宗七五三子(雄一の次女) 昭和24年3月26日寂
                       行年32歳( 〃 )
   國宗淳平(國宗次郎の次男) 昭和4年9月18日寂
                       行年56歳( 〃 )
   國宗たか(國宗淳平の妻)  大正9年11月30日寂
                       行年42歳( 〃 )
   國宗 晋(國宗次郎の三男) 生 1889年6月27日
                 死 1970年6月24日 82歳
   國宗かね(晋の妻)     生 1889年3月19日
                 死 1975年5月1日  87歳

 お盆と言うことでお寺で墓地も清掃され、お花も供えてありました。住職夫婦は以前の住職と代わって、初対面でした。墓の清掃や供養のお礼を申し述べました。

真 久仁子 直       礼子 黎






 熊本の國宗徹一家4人は、熊本から津山まで中国自動車道を自家用車で往復しましたので、14日夜遅く到着しました。従って翌15日午前中に再度墓参に赴きました。
 福岡の國宗礼子、京都の甲斐荘久仁子のお二人は用件が あり15日には帰宅することになっており、夕食の時本家の國宗順さんがわざわざホテルまでお出でになり、お会いすることができました。私もメールや手紙で連絡を取ってはいたのですが、このときが初対面でした。

 津山の吉田夫婦との出会い
 15日は朝食後、9時から順さんが用意して下さったジャンボタクシーに乗り、高福寺を再度訪れ、孫達にも祖先の眠る地を伝えることができました。
 引き続き、出雲街道の城東むかし町家、津山藩の庭園衆楽園、津山高校を訪ねました。 津山高校を訪ねたのは父國宗晋が卒業した津山中学校当時の建物が残っているからでした。当時を偲ばせる木造の堂々たる建物に、しばし感慨にふけりました。

 
つづいて津山城跡にのぼって津山市街を一望しホテルに帰りました。
 
ホテルでは礼子、久仁子のお二人が津山在住の吉田郁也さん夫婦とお会いしていました。吉田さんの母親は吉田かめのさんといって、父の遠縁に当たる方で、生前ずっと高福寺の國宗の墓守をして下さった方でした。かめのさんのお葬式には私も参列したことがありました。その後吉田郁也さんご夫婦で引き続きお世話をして頂いています。私どもが津山を訪問することをお知らせして、ホテルでお会いすることになったのです。
 
かめのさんは父のことを「晋(しん)おじさん」と呼んでいらっしゃいましたが、宗家とどういうつながりががあるのか、父からも詳しく聞いていなかったのでわからないままこれまで過ごしてきました。今回のお話の中で、国宗次郎の妻、まつ、つまり私たちの祖母の実家の血筋だと言うことがわかりました。


黎 直 吉田夫人 吉田氏 久仁子 礼子 真

 いよいよ本家を訪問
 吉田さんご夫婦と別れ、それぞれ帰宅する礼子、久仁子ご両人を津山駅に送って、再びジャンボタクシーに乗って、いよいよ打穴に向けて出発しました。
  山深い津山市からさらに山に分け入るような道を進んで約30分、久米郡中央町打穴里につきました。県道から谷沿いの登り口に道標が立っており、矢印で國宗・亀甲と書いてあります。そこから急な坂を登った所に、谷の向こう側から橋が懸けられています。これが國宗橋、谷が國宗谷、流れる川が國宗川と呼ばれています。
 そこを少し登って本家に到着しました。 当主順さんと母親美智子さん、田口良恵さん (前当主金弥さんの姉)に迎えられ本家のお座敷に通されました。

国宗橋の上で  真
 床の間に仏像とご位牌が飾られていました。掛け軸に目がとまりました。仏像の絵を真ん中に右側に井上先祖代々、左側に山崎先祖代々と書かれ、その下に代々の戒名が書いてあります。「井上相続直道誌」となっていますのでこれを書いたのは、私の曾祖父 である「山崎友三郎直道」が書いたものです。直道は山崎家の出ですが、井上家に養弟として入家、長男唯八が家督を相続しています。つまり直道は山崎家と井上家の接点 にいたわけで、両家の家系について詳しかったに違いありません。直道が國宗次郎に書き与えた系図があり、その内容が資料として残されています。

 明治維新で戸籍法が制定され姓氏の届け出が命令され、村人が多くは名主や庄屋の姓を届けたため、山崎、井上の姓が多く使われることを見て、直道は古く使われていた姓に戻ることにし、山崎姓を直(あたい)姓に、井上姓を國宗姓に変えました。この掛け軸から以上のことが史実として確認できたのは収穫でした。
 そういうことを話題にしている間に、千葉在住の國宗登さんが見えました。手紙や電話では連絡を取り合いましたが、全くの初対面です。登さんは國宗唯八(國宗次郎の兄)の長男森太郎の孫に当たる人です。6年前に私たちが本家を訪問した時にはじめて「千葉にも分家がある」と聞かされ、熊本に帰ってすぐに文通を始め、系図を交換しました。今回の構想はこのときから温めていました。
 続いてお出でになったのは88歳の高齢の平尾睦さんでした。お子さんの平尾恒三郎さん、永山靖子さんとご一緒に参加して頂きました。平尾睦さんは本家の当主順さんの祖父國宗務の妹に当たる方で、國宗本家の長老です。

 つながりを求めて
 勢揃いしたところで、私が増し刷りしてきた國宗家の系図を配って、お互いの紹介に 移りました。お茶菓子の接待を受け持っていた若い女性達も座ってもらって、紹介されました。本家の長女景山早苗さんとその娘たち、せい子さん、あすかさん、当主順さんとその子ども達、長女朝美さん、次女祐希さん、長男雅弥さんでした。
 その後はそれぞれに系図を見ながら懇談を深めました。家系についての質問には主に田口良恵さん、平尾睦さんが答えていただきまし た。
 千葉の國宗登さんの話には大変興味をひかれました。熊本の國宗徹が甲子園に熊本工業の選手として出場した29年前、登さんは甲子園の近くに住んでいましたが、「國宗」という選手を新聞で見て、何かつながりのある親戚ではないかと思い、その試合を見に行ったということでした。その後千葉に移り住んで、妹さんが國宗のルーツを求めて調査して、打穴の本家を見つけ出し、登さんと一緒に訪問して分家であることを確認したとのことでした。私の伯父、國宗雄一の書いたものに「唯太郎(後更む唯八)嫡子森之助(後更む森太郎)別居して死亡」というのがあり、その後の消息がわかっていなかったもののようです。巡り合わせというのは数奇なものです。
 また平尾睦さんは新聞で、「國宗直子弁護士」の記事を見て「これはきっと熊本の國宗家の人だ」と思ったそうです。嬉しい初対面の連続でした。



平尾睦        国宗登
 四国にも國宗家があり、全国に広がっていることが話題になりました。この國宗家と何らかのつながりがあるのではないかという話の中で「もともと平家の落人が岡山と四国に分かれて住み着いたのではないかという話もある」と紹介されました。四国國宗家との連絡を取ってみたいとの希望も出され、新しい課題ができたようです。

井上千代吉の墓
 本家の墓所を訪ねて
 本家の方々の案内で裏山の井上家・國宗家の墓所へ向かいました。細い山道を登り、切り開かれた林の中に、よく手入れの行き届いたいくつもの墓石が行儀良く並んでいました。下の段には、山崎友三郎直道の墓石を先頭に國宗唯八、國宗友弥、國宗務、國宗金弥と歴代の当主の墓石が並んでいました。そのほかに登さんの祖父となる 國宗森太郎、直道の三男児島太郎の墓石もありました。
 そこから一段高い所には、明治以前の 國宗家の前身井上家の墓所となっており, 天保6年(1805年)10月15日に亡くなった井上鐵五郎、安政3年(1856年) 6月22日に亡くなった井上千代吉夫婦の墓石を見かけました。
井上家と國宗家の墓所の間に供養塔と思われる石塔が建てられています。これは前当主の金弥さんが新しく立て直したものといわれました。
 ひとつひとつ墓石を確かめながら、過ぎた祖先達の業績に思いをはせ、いまに生きる私たちの希望と未来への展望を探す糸口となる事を願いつつ、山を下りました。
 順さんはこの日のために墓所の清掃に汗を流されたそうです。またこのときにたくさんの蚊取り線香を用意してくださった心配りにも感謝します。


国宗本家墓所
 夕食をともに
 墓参の後、本家で用意して下さった料理を囲んで、夕食会を開きました。少しのビー ルで、にぎやかな懇談ができました。この中で名刺の交換や再会の約束など一層つながりを深めることができました。
 途中で、順さんが「中座するのですみません」と挨拶に見えました。それは、順さんの奥さんのお父さんの初七日だといわれ、知らぬ事とはいえ全く恐縮してしまいました。私たちのこの訪問に支障ないように、大変な配慮を頂いたのでした。そういえば奥さんの顔が見えなかったことに初めて気がつきました。本当に奥さんには悪いことをしました。心からお詫びをしたいと思います。 

 楽しい有意義な集いを終えて、本家を出たところで元気のいい人達は下の方に見えていた國宗橋まで歩いて行き、盛んにカメラに収まっていました。
 ここからまた、ジャンボタクシーで津山に向かいました。この日のうちに帰宅する予定の千葉の登さんも、津山駅まで同乗されました。

 
 この計画にご協力頂き、歓迎して下さった本家の皆さんに心から感謝を申し上げます。ありがとうございました。遠くから足を運んで頂いた千葉の登さん、京都の甲斐荘久仁子さんありがとうございました。また会う日までお元気で。
                    
(國宗直 記)
 
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