「天皇は神ではない」
ー弾圧に屈しなかった一牧師の記録ー
國宗  直

 天草郡五和町に鬼の城キリシタン墓碑公園があります。山中に埋もれた苔むしたキリシタンの墓石を探し当て,散在していた墓石を海を見下ろす小高い丘に集めて公園にしたものです。この仕事に汗を流した一人が、この五和町で生を受け、その生涯をキリスト教の伝道に身を捧げた、日本基督(キリスト)教団熊本城東教会森田豊熊牧師でした。
この森田牧師が戦争中,その宗教的な教義を守り、「天皇は神ではない」という説を曲げず、治安維持法違反で二回にわたって逮捕投獄されたことはよく知られてい
ます。
激しくなる宗教弾圧  満州事変から日中全面戦争へと戦時体制が強化されていく中で、宗教団体に対する弾圧はますます激しさを加えてきました。この間大本教、ひとのみち教団など民衆宗教への弾圧は苛烈を極めました。
 この宗教弾圧の根拠とされた法律には刑法第七四条などの「不敬罪」や治安維持法があります。
 治安維持法は、大正一四年(一九二五)普通選挙法とだきあわせで制定されたものですが、

 第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結  社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタルモノハ一〇年以下ノ懲役又   ハ禁錮ニ処ス
  前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

となっており、もともと共産主義者や無政府主義者に対する弾圧法規として制定されたものです。これはさらに昭和三年(一九二八)緊急勅令によって死刑が追加されます。しかしこの段階においても宗教に対する弾圧法規とはなっていません。政府は治安維持法制定直後から、国民の思想善導に宗教界を役立たせるために宗教法の制定をねらいますが、仏教やキリスト教の抵抗にあい成功しませんでした。ところが昭和一〇年(一九三五)の第二次大本教弾圧事件を契機に、この治安維持法が宗教弾圧法規として大きく利用されるようになります。その教義が「国体を変革するものである」というのです。
 日中全面戦争から太平洋戦争へと戦線が拡大され日本の国内は戦時一色にぬりつぶされていきます。政府は国民精神総動員運動、国民総動員法制定などで、国民の中にあるわずかの民主主義あるいは自由主義的要素を根こそぎひねりつぶすために、宗教に対する弾圧を強化します 
政府は昭和一四年(一九三九)懸案の宗教団体法を制定し、宗教団体は認可を受けなければならない(三条・六条)認可の取り消しはその宗教団体の解散となる(五条)などにより宗教団体を政府の監視下に置くことにし、いっそう宗教団体に対する弾圧を強めました。
 一九四〇年には政府は神武天皇即位皇紀二六〇〇年の奉祝運動を展開し、「金鵄輝く日本の栄えある光身に受けて、・・・・・紀元は二六〇〇年」の奉祝歌を歌わせ、紀元節(二月十一日)を中心に大祝賀行事を開催するとともに、「天皇を神とする」国家神道の思想統一をいっそう強め、各宗教団体にも「皇紀二千六百年奉祝行事」に取り組むことを強要しました。熊本においても一一月一〇日、日本組合基督教会(現在の日本キリスト教団熊本草葉町教会)にて、市内教会連合による「紀元二六〇〇年奉祝礼拝」が行われたとの記録があります。
救癩活動を続けた回春病院の弾圧  この頃からキリスト教のカトリック、プロテスタントを問わず、外国人宣教師をスパイ容疑としての追及が激しさをまします。 
 森田豊熊牧師がスパイ容疑で逮捕されたのは一九四〇年九月のことでした。
 ハンナ・リデルの遺志を継ぎ、救癩活動を地道に続けてきた回春病院(聖公会の癩病院−熊本市竜田町)の院長エダ・ライトがスパイ容疑で迫害を受けました。日本の救癩事業に貢献した著名なイギリス人であったライトは逮捕されることはありませんでしたが、ひどい尋問にさらされています。事務長の飛松甚吾は逮捕されました。同時にたびたびライトを訪問していた森田牧師も逮捕され一年間投獄されました。 
 ライトは翌一九四一年四月、外人強制帰国の政府方針により追放されオーストラリアに避難します。回春病院は福田令寿に任されましたが、ついに解散を余儀なくされ、患者は九州療養所(現在の恵楓園)に移されました。ライトは戦後帰ってきますが、頼みとする病院はなく、病院跡は荒れ果てていました。
このときのことを森田牧師は、「あのときの苦しみは耐え難かった。飛松事務長と二人で、出獄したらあの警部に復讐してやろうと相談していた。」と語っています。警察での取り調べのひどさがわかるような気がします。飛松事務長は三ヶ月後げっそりやつれて釈放され、回春病院解散の処理をしますが、敗戦を待たずして亡くなり、帰ってきたライトを迎えることはできませんでした。

回春病院長エダ・ライト女史
 
リデル・ライト記念館(往事の研究室、大正7年建設)
熊本市黒髪5丁目23−1 電話096-345-6986
 ホーリネス系聖教会所属の森田牧師がなぜ聖公会(イギリスの国教)の教会がある回春病院のライトをたびたび訪問していたのだろう。もちろん当時でも、プロテスタントの教会は各教派に分かれていたと言ってもいろいろな面での交流、協力はやられていましたが。
 この点について森田牧師の家族は次のように語っています。「森田豊熊は天草で生まれましたが、父親はイギリス人、母親は日本人でした。どういうことで結婚したかはよくわかりませんが。体格や容貌も父親の血を思わせるものでしたので、イギリス人のライトとの交際も当然ですし、警察にスパイと疑われたのもそのためではないでしょうか」
 そういわれてみると、森田牧師は背も高く、でっぷりとして威風堂々としていましたし、肌色は白く赤みがかっていました。よく見ると目の色は茶色でした。
 森田牧師は、一九〇三年天草郡五和町御領で出生。長崎東山学院に学び、十六歳で洗礼を受けました。一九二八年東京淀橋聖書学院を卒業し、金森通倫(玉名郡天水村出身、熊本洋学校・熊本バンド参加者)の推薦と中田重治監督の指名を受けて、熊本ホーリネス教会の開拓伝道に従事、京町本丁、東坪井町などで伝道。一九三三年長崎へ転任、つづいて京城(ソウル)へ。一九三七年召集を受け北支に出征したが、二年後病気のため応召解除となり帰国。一九三九年熊本市の中心、手取本町三−一一に家族と合流、再び開拓伝道をはじめました。やっと落ち着いた頃に最初の弾圧を受けたのです。
燈台社弾圧と村本一生  森田牧師の逮捕に先立つ一九三九年六月に、キリスト教系の日本燈台社が治安維持法違反で摘発されています。
 日本燈台社は、アメリカに総本部を持つワッチタワー・バイブル・アンド・トラクト・ソサイエティの日本支部として、明石順三が昭和二年(一九二七年)に結成したキリスト教再臨派の一教派です。ワッチタワーの教義がめざしたものは、聖書の真理に対する直接的な信仰で、「世界各国の政治機構も、既成のキリスト教団を含む社会制度も、悪魔が人類を宇宙の創造主であるエホバから離反させるためにつくられ利用されている悪魔の組織制度である」と主張し、そしてこの悪魔の組織制度は「予定のときがきたときに終末を告げる。そのときエホバの代理執行者であるイエス・キリストが再臨してハルマゲドンと呼ぶたたかいによって地上の悪魔の組織制度を一掃し、エホバの証者だけが生き残り、神の国がつくられる」というのでした。
 日本燈台社は、一九三三年五月、千葉県下で不敬罪容疑であげられ、明石順三も四日間留置されたことがあります。その後も治安当局は燈台社の活動について監視してきましたが、一九三九年順三の長男真人ら三人の兵役拒否を契機として、急遽、燈台社の摘発に踏み切ることになりました。
 明石真人は、同年一月、野砲兵第一連隊に入隊しましたが、聖書の「汝殺すなかれ」という教えに従って、銃器を返上する行為を行った。当時の空気の中で、しかも軍隊の中では、非常に勇気のいる反逆行為でした。取り調べに当たった憲兵の調書にもとづいて、不敬・抗命の罪名で起訴され、同年六月第一師団軍法会議で懲役三年の刑を宣告されました。また、村本一生は熊本市の第六師団歩兵十三連隊に入隊しますが、宮城遙拝拒否、脱柵(脱走)をこころみ、銃器返上、軍事教練拒否を行ったため、第一師団軍法会議で同日、同じ罪名で懲役二年の刑に処せられました。このほかにも善通寺師団管内で、燈台社の三浦忠治が兵役拒否を行い、懲役二年の刑を受けました。
 特高警察は、明石真人、村本一生の判決一週間後の六月二十一日の早朝、「燈台社はイエス・キリストの再臨による地上神の国の建設を究極の目標とし、その神の国建設の為現存せる一切の国家組織及社会制度を根本的に破壊撃滅せんと企図活動しつつあること」の確証を得たとして、治安維持法違反および不敬罪の嫌疑で、全国一斉に検挙を断行しました。明石順三以下百十五人が検挙され、うち五十二人が起訴されました。起訴とと同時に結社禁止の処分を受け、解散させられました。 
 燈台社事件の被疑者に対しては、警察の取り調べおよび予審の過程で、転向の強要がしきりに行われ、兵役拒否者の一人明石真人にまで及びました。真人は陸軍刑務所の獄中で転向を表明し、仮出獄を許されました。戦時下非転向を貫いた父親順三は、転向した長男と戦後になっても会おうとしなかったそうです。

明石順三(65歳)、1954年5月
鹿沼にて

左から村本一生、明石好枝、順三未亡人静子
1969年10月鹿沼の明石順三遺宅前にて
 明石真人と対照的な態度をとったのは村本一生でした。村本は一九四〇年十二月に出所釈放されましたが、翌一九四一年一二月、燈台社再建の罪を問われて、熊本県下で田辺トミ(獄死)、寺井幹彦(獄死)とともにふたたび検挙されました。村本は、熊本の警察で留置取り調べを受け、一九四三年熊本地裁で懲役五年の判決を受けて下獄しました。かれは、獄中で言語に絶する拷問を受け、敗戦後になって、虐待と栄養失調のため衰死一歩手前の身体でようやく解放されたと言われています。その後の消息は分かりませんが一九八五年一月八日栃木県(鹿沼市西鹿沼町125)で死去という記録があります。
 この村本一生は、一九一四年三月阿蘇郡永水村(阿蘇町赤水)の医師の家の長男として生まれ、熊本中学から五高、さらに東京工業大学染料科に進みます。同窓生名簿によると村本は熊本中学を一九三〇年三月四年終了、一九三三年五高理科甲類卒業となっていますから四年生から五高に入学したものと思われます。大学卒業の前年一九三五年夏休みに帰省したとき、たまたま父の書斎で燈台社の機関紙「黄金時代」を手にします。これが最初の出会いとなり、翌年三月東京工大を卒業した彼は、せっかく決まっていた就職もなげうって燈台社に住みつき、二・二六事件直後の一九三六年三月ごろから燈台社の伝道を手伝っていました。
教宗派の統合  宗教団体法(一九三九年制定)による取り締まりは、教義の宣布、儀式の執行または宗教上の行事が、安寧秩序を妨げるもの、または臣民たるの義務にそむくときは、主務大臣がこれを制限し、かつ禁止することができるというものでした。こうして、各教宗派は、宗教団体法をタテに教義、教則の改編を余儀なくされました。あいつぐ宗教弾圧を目のあたりにしてキリスト教会の関係者は、各派ごとに幹部が集まって協議しそれぞれ「基督教は些かも日本主義と相反するものにあらず、その伝道もまた専ら日本主義に立脚して行いつつある」という趣旨の答申を書くことで、受難をのがれようとしました。
 一九四〇年秋以来教宗派の統合が強行されていきますが、翌一九四一年七月には各宗派は神道十三派、仏教二十七派、キリスト教二派に再編され、宗教に対する権力の支配が一層強化されることになりました。
 キリスト教の新教各派は、日本基督教、メソジスト、組合教会、聖公会、バプテスト、ルーテル、聖教会の七教団は合同して日本基督教団を結成して、文部省に屈服してしまいました。森田牧師の教会も日本基督教団熊本城東教会となりました。

41年治安維持法改正と宗教弾圧強化  このように治安維持法が宗教弾圧に適用されていましたが、もともと共産党その他の左翼結社を目標とした治安維持法を宗教団体に適用するには無理があって、司法当局は「法律技術上多大の不便を感」ずるようになっていました。とくに宗教団体が国体変革のための「結社」といえるのか、また、宗教活動が国体変革のための「行動」にあたるのかどうか絶えず問題にされていました。この点にも一九四一年(昭和一六年)の治安維持法改正を促す要因がありました。
 一九四一年の第七十六帝国議会は治安当局の宿願であった治安維持法の全面改正を原案通り可決しました。(三月一日可決、五月十五日施行)
 この「改正」の特徴は、「国体変革を目的とする『結社』」の取り締まりから、名実ともに「個人の思想取り締まり」へと転身したことでした。
 また、刑事手続きについて普通の刑事訴訟法とは違う取り扱いとしました。
 @ 被疑者の召喚、拘引、拘留を検事の権限でなし得ることにするなど捜査機関の権限の強化。
 A 弁護人は「司法大臣のあらかじめ指定したる弁護士」のなかから選択する2名以内に限られるなど弁護権の制限。
 B 裁判は特定の裁判所の思想係専門の裁判部に事件を取り扱わせる。
 C 第一審判決にたいして控訴を認めず、治安維持法事件では三審制をやめて二審制にする。
 などいっそう苛酷な取り扱いとなりました。
 さらに、この「改正」の眼目の一つは「予防拘禁」制度でした。刑の執行を終わり釈放されるべき場合に、釈放後さらに治安維持法違反の罪を犯すおそれが顕著なときは、裁判所は検事の請求によって予防拘禁に付するというもので、予防拘禁所に収容されることになりました。
もう一つ重要なことは、宗教団体の弾圧に治安維持法を流用することの無理をつくろい、新しい規制方式を作り出すことが,十六年改正の一つの目的だったことです。
 すなわち次の二箇条が規定されました。
 「第七条 国体を否定しまたは神宮もしくは皇室の尊厳を冒涜すべき事項を流布することを目的として結社を組織したる者または結社の役員その他指導者たる任務に従事したる者は無期または四年以上の懲役に処し情を知りて結社に加入したる者または結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は一年以上の有期懲役に処す。
  第八条 前条の目的を以て集団を結成したる者または集団を指導したる者は無期または三年以上の懲役に処し前条の目的を以て集団に参加したる者または集団に関し前条の目的遂行の為にする行為を為したる者は一年以上の有期懲役に処す。」
 この二か条の規定のうち、第七条は、結社としての性質をもつ類似宗教組織を規制しようとするものであり、第八条は、結社とはいえない集団(グループ)で行われる類似宗教活動の規制をねらったものです。
 ここで「国体を否定し」とはなにを意味するのか、「国体を変革し」(第二条)とどうちがうのでしょうか。この点について当局は、「第一に国体変革は、国体を具体的、積極的に変革しようとする能動的内容を持っているのに対して、国体否定は、国体観念を承認しないという、単に観念的、消極的な精神行為であるにすぎない。第二に、国体否定は、国体変革の前提思想であり、かつそれよりもはるかにひろい観念である。」と説明しています。すなわちこうなってくると、国民に許されることになったのは、ただ一つ国体を肯定し、承認することだけでした。国体観念という特定の思想体系の肯定、承認を刑罰によって国民に強要するという、まことに非近代的な法律が作られたのです。
 この「改正」治安維持法は宗教弾圧にもたちまちその効力を発揮し始めました。、新たな体制を整えた政府は、同年六月に内閣に思想対策協議会を設置して徹底的弾圧に乗り出しました。七月には,御国教(和歌山、十名検挙)九月には耶蘇基督教之新約協会(東京・高知・愛知・静岡・兵庫三十八名)、大自然天地日之大神教団(大阪市、二十六名)無教会派基督教者グループ(東京・大阪・兵庫、八名、軍刑法併合罪)、菩提堂(名古屋、六名)など一九四一年中に検挙取り締まりの対称になった宗教関係の総件数は実に一〇一一件に達しています。
 一九四一年一二月八日、日本は、太平洋戦争に突入して、アメリカ、イギリスを敵国とすることになりましたが、日中戦争末期から特高警察や憲兵隊によって米英のスパイ扱いされ、絶えず動静を監視されてきたキリスト教徒たちは、いっそう困難な状況におかれることになりました。
 一九四二年一月日本基督教団の看板を掲げていた北海道函館の教会の牧師小山宗祐(ホーリネス教会)は、隣組が輪番制で毎朝参拝することにしていた護国神社へいくのを拒否したという理由で告訴されましたが、判決がでる前に未決監房で自殺しました。絞殺されたのではないかと疑う者もいました。 
 この事件はホーリネス教会派内部に大きな衝撃を与えました。
 一九四二年六月二六日、森田牧師らの属する日本聖教会、きよめ長老派、きよめ教会正統派などホーリネス系の各派に対する一斉の手入れが行われ、二六府県にわたって牧師、伝道師百二十余名もが検挙され、治安維持法、治安警察法、宗教団体法違反で多数が起訴されました。
 このとき熊本では、森田豊熊、その妻森田政子、宮崎好徳、矢野すみえ等が逮捕されました。特高や検事の取り調べは、改正されたばかりの治安維持法の「国体を否定すべき事項を流布することを目的とする結社」に関係したということで被疑者を追及しています。「天皇は現人神(あらびとがみ)か」「世界の創造主はエホバの神といっているが、それは天照大神(あまてらすおおみかみ)ではないか」などと尋問され、これを否定したと言って起訴されました。
 森田牧師も自分の信仰の主張を曲げす、福岡での裁判の時にも栄養失調で二度たおれましたが、「天皇は神ではない」と最後まで主張して獄中生活を送りました。
苛酷な取り調べと獄中生活  森田牧師はこのときのことを知人に次のように語っています。
「あのときの苦しみは耐え難かったよ。恨みは骨髄に徹してね。この私を捕らえたのは某警部だ。私のみならず家内、子供までも苦しめた。この恨み晴らさないでおかれようか。仕返しを考えたことも幾度かあった。刃をもって八つ裂きにしてもなお足らない、と激情に駆られた。その苦しみの中でロマ書十二章十九節のみ言葉が与えられた。ー愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りにまかせまつれ。主いい給う、復讐するは我にあり我これに報いん・・・汝の仇、飢えなばこれに食わせ、渇かばこれに飲ませよーこのみことばにわたしは服従しましたよ」
 またこのときの心境を「しかしわたしはキリストの正義と愛を伝える伝道者としての使命を思い、パウロやその他の使徒たちの殉教にならって、自分も同じ足跡をたどる者とされたことを光栄に思った。」と語っています。
 森田牧師は逮捕された後、転々と留置場めぐりをさせられましたが、「そのほとんどが独房で川尻が一番ひどかった。そこは狭いし便所もあるので息が苦しくて小さい高窓に顔を寄せて、そこから息を吸っていた。はじめは原因が分からずそのことで困った。結局再臨信仰が日本を否定し皇室の尊厳を冒涜する者と見なされ、治安維持法違反にかけられたのであった。取調中東京ホーリネスの群の先生方の調書を見せつけられて誘導尋問で日頃の信仰とだいぶん違ったことが書かれていて、とてもとまどった。」と取り調べのひどさを話しています。
 また森田牧師の妻政子は当時のことについて「その日は小雨降る夜明けであった。熊本の夜明けはまだ暗かった。特高警察が土足で教会に上がり込み、無断で畳を上げたり書籍を押収したりした。牧師が出征中に戦地から出した手紙やその他の郵便物も出すように求められたが、ないままに出さなかった。それから小六、小三、小一、五歳の子供たち(特に幼い長男は急性肺炎の病後であったが)を残して私は北署に連行された。
 S特高警官からさっそく信仰の話を聞かれた。そして東京のホーリネスの群本部から出された本の聖書解釈の箇所を出された。私は難しい議論や神学のことはわからないが、キリストによって見たこと、聞いたことを証する時が来たと喜んだ。・・・・・・・・
 S特高警官はよく話を聞いてくれた。そしてこれも時代だから仕方がないのだといって私を帰してくれた。そのころ夫がどこにいたのかはわからなかったが、後で聞くと、南署に連行されていたそうである。」と語っている。
 長女の偕子は「突然親が目の前から消えてしまい、留守を守らなければならなくなった長女の私は私達の家族に起きたことがなんなのか理解できぬまま呆然と立ちすくんでおりました。そして、おびえながらひたすら両親の帰りを待ちわびた数日のことを思うと、今でも身体がふるえてきます。当時は隣組活動が盛んでしたのでこのことはすぐ評判になり、私達家族はいつも人々の冷たい目を意識して過ごさねばなりませんでした。教会の方はなぜか一人もおいでになりませんでした。
 収入も全く途絶えましたので、帽子裏の賃仕事をしたり、印刷屋でアルバイトをしたり、母は家事住み込みもしておりました。生計のこと、学資のこと、差し入れのこと、裁判、弁護士の費用のことについてよく母と話し合いました。」
 この事件を契機にして一九四三年四月にはホーリネス系全教会に「宗教結社禁止令」が伝達され、その理由書には「神宮に対する不敬、天皇に対する不敬、治安維持法違反すなわち国体変革を企図せる罪」と書いてありました。
 森田牧師の牧する日本基督教団城東教会も閉鎖されました。

有罪判決、敗戦で免訴  森田牧師は治安維持法違反で起訴され、一九四四年一二月懲役一年執行猶予五年の判決を受け、ただちに控訴しました。
 治安維持法違反に関しては二審制となっていたため大審院(現在の最高裁判所)で審議されていましたが,一九四五年八月、日本が連合国に無条件降伏した後、一九四五年一一月「原判決ヲ破毀ス、被告人等ヲ免訴ス」の判決をうけました。
 大審院はその理由として次のように述べています。
 「治安維持法ハ原判決後昭和二〇年一〇月一三日勅令第五七五号ニヨリ廃止ラセラレ、右犯罪ニツイテハ刑ノ廃止ヲ見ルニ至リタルヲ以ッテ、被告人ニ対シテハ刑事訴訟法第三六三条第二号ニ従ヒ免訴ノ言渡ヲ為スベキモノトス」
 森田牧師は「釈放され出獄の日自分を迎えてくださったのは、ルーテル教会の目の見えない老牧師一人であった。本当に嬉しかった。これは生涯忘れられないことの一つである。それにひきかえ、他の牧師からはなしのつぶて、なかには『貴兄の為にずいぶん迷惑をした』という者もいた。」と語っており、当時の基督教界の動向をうかがい知ることができます。ここで言われている「目の見えない老牧師」とは水道町ルーテル教会の石松量蔵牧師のことと思われます。
 森田牧師と共に逮捕された宮崎好徳についてもふれておきます。宮崎好徳は一八七一年七月二〇日、八代市に生まれました。熊本医学専門学校(熊本大学医学部の前身)を卒業後、軍医を経て八代市で約三〇年医院を開業。一九三〇年健康上の理由で開業医をやめ、当時大阪日赤外科部長をしていた養子の宮崎松記のもとに居を移しました。一九三四年宮崎松記が九州療養所(現国立療養所恵楓園)所長赴任と同時に熊本へ帰りました。若い頃東京で洗礼を受けクリスチャンとなった宮崎好徳は、信仰上ではジグザグの道をたどりながら、熊本へ来てから森田牧師との出会いがあり、共に歩み共に受難の身となりました。宮崎千代(松記の妻)は、当時を思い出して次のように語っています。
 「恵楓園の園長官舎にある日突然特高警察が現れ、父に有無をいわせず直ちに連行していきました。それから半年くらいの間北警察署に留置され、家族の面会も許されませんでした。森田先生も同じ時連れて行かれたと聞きました。北署の向かい側に差入屋があってそこに金を預けて差し入れを依頼するのがやっとでした。釈放された後父から聞いたところによると、天皇陛下とおまえの信奉する神とどっちが偉いか、という詰問があったそうです。当時ホーリネスが弾圧の矢面に立つことになったのは、信仰の表現が激しかったからでしょうか。
 父は獄中の麦ご飯を百回かんで健康保持につとめたといっていました。それはどうしても生き抜いてこの迫害を受けた苦しみと、それにうち勝った証しをせねばならぬ為だったといっていました。
 園長の家族が警察に引っ張られたというので、家族も、事情をよく知らない親戚もたいそう心配しました。松記は官吏の身であり、一時は辞職の事態に発展する憂いもありました。」
 ちなみに宮崎松記は恵楓園退職後、インドの救らい事業に献身し、「インド救らいの父」と慕われましたが、一九七二年六月、ニューデリーにおける飛行機事故のため没しました。
 
 敗戦後、ホーリネス系の教会は再建され、日本基督教団に復帰、熊本城東教会も再建されました。
 熊本城東教会は当時市役所の裏手にあり、隣には日本共産党北部地区委員会の事務所がありました。戦後第一次の反動期といわれる一九五〇年代、占領軍の弾圧、レッドパージなどにより日本共産党の活動が困難な時期にも、森田牧師は自らの経験から日本共産党にも親しく接していたと、当時の活動家が語っています。
 この時代日本基督教団草葉町教会の熱心なクリスチャンであった私は、森田牧師と接する機会が多くあり、とくに基督教界の反戦平和の運動にも深い理解を示しておられました。 一九六七年、私が日本共産党公認で熊本市議会議員に立候補したときには、推薦者の一人になってもらうために、持病の喘息で宇土医院に入院しておられた森田牧師を見舞い、快く承諾していただいたことを覚えています。
 熊本城東教会はその後熊本市の都市計画により、現在地の熊本市国府二丁目に移転しました。
 森田牧師は一九七六年七月牧師を引退後、八月一三日に永眠されました。 七十三歳でした。                        (おわり)

 *参照文献
「治安維持法」松尾洋著、「治安維持法」潮見俊隆著、「熊本の近代史」熊本日日新聞編の中より「危機の中の宗教」猪飼隆明、「熊本草葉町教会物語」國宗晋著、「熊本県史 近世V」(熊本県編)より「第四節 キリスト教」潮谷総一郎、
「信教の自由を守る戦い ー第二次大戦下、熊本におけるー」日本キリスト教団熊本地区婦人部編、「ホーリネスの群略史」小出忍編著


 *写真転載
ライト女史、リデルライト記念館
 リデルとライトの生涯「ユーカリの実るを待ちて」内田守編 より
明石順三、村本一生ほか
 「兵役を拒否した日本人」ー燈台社の戦時下抵抗ー 稲垣真美著 より
  
この文章は
 「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」熊本県本部機関紙
 「不屈」(熊本版)
および
 「熊本民主文学」2000年6月 第4号
に掲載されました。

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