ベトナム紀行  
2009年1月12日〜18日  
 1月12日から18日まで、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟という長い名前の団体の組んだ「ベトナム連帯・平和の旅」に参加しました。あのアメリカの大軍を追い出し、独立を勝ち取って34年、「ドイモイ(刷新)」政策で市場経済の導入のもと急速に工業化の政策で、経済成長を遂げつつある「ベトナム社会主義共和国」には一度は行ってみたいと思っていましたので、大きな期待を持って参加しました。心に残ったことを少しづつ書いてみたいと思います。  
バイクの大軍に囲まれて  成田空港を飛び立って、ベトナムのホーチミン市(旧サイゴン)のタンソニャット空港まで6時間半の空の旅。時差2時間で、到着したのは現地時間で15時過ぎ、空港からホテルまで約40分。まず私たちを迎えてくれたのは、バイクの大軍でした。とにかくバイクの隊列の間を縫って私たちの車が進んで行ってるのに驚かされました。
 自転車は殆ど見かけません。ちょうど仕事帰りの労働者の群れにぶっつかったようでした。まさにバイク優先で交通渋滞が起こる始末でした。
 
 
 
 これは余程徹底されているのかバイクに乗っている人はみんなヘルメットをかぶっていました。そして特に女性はマスクをしている人が多かったようです。大きな道路は舗装されていますが、とにかく乾期で埃が多いためでしょう。
 バイクは大人2人子供1人、3人乗りまでは許されているそうですが、子供2人を乗せた夫婦らしい4人乗りも結構見かけました。
 道の狭い商店街で買い物客がごった返しているところでも、バイクが警笛を鳴らして我が物顔に通り抜けていました。
 まさにバイク天国でした。
 バイクは日本のホンダ、スズキ、ヤマハが多く見かけられました。ホンダはフランスの支配から独立した直後、アメリカの南ベトナム進出の頃から、ベトナムに上陸し、バイクの製造を始めたとのことです。そのため南ベトナムではバイクのことをホンダというようになっています。よく町で「HONDA]」の看板を見かけますが、そこはバイクの販売、修理のお店でした。
 
1円が188ドン  ベトナムの通貨はドンですが、ドルも結構通用する仕組みになっています。
 ベトナムに出発するとき、成田空港で円をドルと交換しました。1ドル87円で交換しました。ベトナムの空港で今度はドンに交換しました。1円188.68ドンの交換比率でしたので、さしあたり3千円を交換しましたら、566,040円ドンを札束で受け取ることになりました。1万ドン札が56枚余、急にお金持ちになった気分です。
 ところが、実際使うときにはとっさの計算に弱い人間にとっては大変だということがわかりました。「これいくらですか」「10万ドンです」「えっ!」これだけで「どきっ」とします。「エー10万ドンを188でわると530円」ああそんな値段かと胸をなで下ろします。 
 
 
   
 ドルで言われるとおおよそ100を掛ければ大方の値段が判るのですが、ドンにはなかなか慣れなくて困りました。日本語の通訳に「デノミで1000円以下を切り下げることは考えられないのか」と聞くと「農村では100ドン以下の取引があり、デノミをやると収入がなくなる」との説明でした。
 ドンが無くなるに従ってドルを使うことが多くなりましたが、17ドルと言われて20ドルを出したら、ドンでおつりが来たのには、いよいよ混乱してしまいました。
ドンのお札は表にはすべてホーチミン元国家主席の顔が描かれています。「ベトナム人はどんな立場の人でもホーチミン主席を悪く言う人はいません。全国民の尊敬の的です」という通訳の言葉は、この旅のなかで何度も思い知らされました。
 
 
濃いくて苦い  ホーチミン市(旧サイゴン)での第1日目の夕食はホテルを出て、町の食堂に中華海鮮料理を食べに出た。何が出たかあまり覚えていないが、コーヒーの味にはちょっと驚いた。色は濃いくて黒に近い茶色、みただけで濃い味を思わせる。私は毎日コーヒーを飲んでいるので、味が濃いとは思ったが、それほど気になりませんでしたが、「これはどうも」という人もありました。このコーヒーの味では旅の間中話題になりました。
 私は全然知らなかったのですが、ベトナムは世界的なコーヒーの産地だということでした。私はいつもブラジルやアフリカのコーヒーを飲んでいるのだといつも思っていました。しかし、ベトナムからも大量に輸入していると聞かされて、びっくりしたわけです。
 いろんなブレンドを飲んでいるのでその中にはベトナムのコーヒーも含まれているのかもしれません。そのコーヒーを生産地のベトナムで飲んでいるのです。
 ホーチミン市では色と味が濃いと感じたのですが、中部ベトナムのフエを訪問したときには、その上に味とにおいが苦くてさすがの私も少し閉口しました。ベトナムではホテルでも食堂でもコーヒーのカップが空になるといくらでも注いででくれるのですが、少々困りました。北部ベトナムのハノイに行ったときには、またホーチミン市と同じくらいの色と味だったので安心しました。安心ついでに土産にコーヒーを買って帰って、いつもの通りサイフォンで沸かして飲んでみたら、フエのコーヒーの味と同じでした。そこでサイフォンに入れるコーヒーの量を減らして煎じることにしたら、結構飲めることがわかった。
 
賑わいを見せる夜店  夕食を終わってホテルに帰るまでの間に、夜店見物に出かけました。大変な賑わいで食料品、果物、衣類、あらゆるものが売られていました。
 驚いたことに夜店は昼間自動車の行き交う大きな商店街の道路に100メートルほどの距離に3列ほどの屋台店が並んでいるのです。大変な賑わいを見せ、日本人だとみると「今晩は」「いらっしゃいませ」という日本語も飛び出し、「これ1ドル」と執拗に売りこむ商魂も豊かでした。
 特に目を引いたのは果物屋でした。南の国だけにマンゴー、バナナ、メロン、イチゴ、柑橘類など豊富な種類の果物が並んでいる横にリンゴがあったのは意外でした。
 
 
知恵は力 −ク・チ解放区を尋ねて−
 ベトナムを訪問した人たちが必ず訪れるところにク・チ解放区があります。この土地はベトナム戦争当時の解放戦線の最前線基地があったところです。しかもアメリカの傀儡政権南ベトナムの首都であったサイゴン(現在のホーチミン市)から25km、車で1時間半という目と鼻の先にあった基地でした。
 旅の2日目、ホーチミン市を出発、ク・チに向かいました。いまでは観光地になり外国人が訪問して当時を偲ぶ場所になっています。
 ベトナムに来て驚いたことに、観光に来ているアメリカ人の多いことでした。日本人よりアメリカ人が多いのです。この人たちは世界最強と信じていたアメリカ軍がベトナム人民に完敗したことをどう受け止めているのだろうかと思ったものでした。

 
ク・チの到着するとまず、戦争当時のビデオ映像で、圧倒的な武器や物量で攻撃されながら、トンネルや落とし穴、自給自足のための知恵を発揮してたたかいぬいた記録に圧倒されました。
 ジャングルの中に総延長250kmにも及ぶ地下トンネルの中には、作戦司令部、兵舎、病院、食堂から学校まであったそうです。歩いていると直径10メートルもある砲撃の後がいくつも見かけられます。壊されても壊されても、トンネルを造り続けて抵抗を続けた知恵と努力が、勝利を勝ち取ることが出来たのです。
 トンネルの出入りに使った穴がありました。その穴は40センチ四方の穴で、枯れ草を乗せてふたをしめれば判らなくなると言うものです。みんな「メタボ」に心配しながら出入りに挑戦していました。
 
 
 観光客がトンネルをくぐっていくように残してあるところがあり、みんなくぐって行きましたが、高さが1メートルあるかないかで前屈みで30メートルもくぐるのは大変きついと言っていました。
 ジャングルの中には動けなくなったアメリカ軍の戦車の残骸もありましたし、半地下の武器修理や衣料品修理のミシンなどをそろえた工場も残されていました。食料のためのライスペーパーの製造現場や主食としていたタロイモも試食しました。
 
自由ベトナム行進曲
 今回の旅でもっとも印象深かったのは、ベトナム解放戦争をたたかった退役軍人との夕食交流会でした。 クチ解放区の見学、戦争証跡博物館で当時の戦利品や、武器の展示などを見物した後、夕食の席に五人の歴戦の闘士が見え、楽しく懇談しました。
 今回の旅の通訳と案内を担当してくれた、ホー・シュアン・フンさんの父親で新聞記者だったホー・シュアン・グエンさん(七〇)のきもいりで集まってもらった人たちは、恋人同士で二人とも逮捕され、獄中で不屈に闘いぬき、解放後、一五年後に再会して結婚したという、レイ・ホン・ツーさん(七四)、同夫人グエン・ティ・チャオさん(七二)、八歳の時から解放軍の連絡係をして、その後海軍の兵士としてたたかったというグエン・ミン・チャオさん(六九)、一〇歳で解放軍の連絡係となり、ベトナムに残留した日本兵から武器の使い方を習ったという、現在大学で先生をしているというグエン・フク・アンさん(七三)たちでした。
 新聞記者だったホーさんはレイ・ホー・ツーさん夫妻の物語を新聞に書き、ベトナム中に有名になりました。
 当時のたたかいのなかで、口々に旧日本兵の果たした役割について感謝の言葉が述べられました。
 
 
                                             15年後に再会して結婚したツー夫妻
 
 私たちもベトナム解放戦争の時代、ベトナム解放支援のため、アメリカ軍の撃墜された飛行機でつくられた、櫛や指輪を売って支援金をつくった話をしました。治安維持法犠牲者国賠同盟の事務局次長の小池さんはそのときの指輪を持参していました。
 私は、その当時うたごえ運動のなかで歌われた自由ベトナム行進曲を歌いました。

    若いわれら人民のため
      希望の道開く
    自由の国取り返すまで  
      強く闘うわれら
    奴隷のようにこきつかうもの
      占領者追いかえせ
    解放の国きづくわれら
       若いベトナム兵士

「その歌はよく歌っていました。ベトナムではみんな知っている歌です」と言うことでした。
 これをきっかけに、針谷事務局長は「その歌を思い出した」と言ってハーモニカで演奏するようになりました。
 各地の夕食で楽士が一弦琴や笛で演奏しているときに、「自由ベトナム行進曲」を所望すると気軽に演奏してくれ、はからずも日本とベトナムの交流の場となりました。
 
誰が一番乗りか ベトナム連帯・平和の旅3日目は、統一会堂の見学の後、ホーチミンから航空便で1時間半かけて,中部ベトナムの古都フエまで移動しました。
 ホーチミン市で統一会堂という建物を見学しました。この建物はかつて南ベトナムでは独立宮殿と呼ばれていた大統領官邸。12ヘクタールの広い敷地に建つ近代的な建物の中は、上階には中庭付きの大統領の家族の部屋、執務室、大小の会議室、レストラン、映画館、ビリヤード室もあったようです。地下には秘密の軍事施設や屋上にはヘリポートも残っていました。
   
 
 
  
1975年4月30日、解放軍が無血入場した映像を私たちは興奮して見たものでした。1945年日本の敗戦により独立宣言をしたベトナ民主共和国を再侵略し,再び支配しようとしたフランスとの民族独立の戦いに勝利したベトナム人民に,不当に襲いかかった世界最強のアメリカ軍と15年以上にわたる戦いの末、見事に打ち負かし,1975年4月30日に解放軍は当時の大統領官邸を無血占領し,ベトナム全土が解放されました。
 戦車を先頭に赤旗を立てて入場したときの感動的な瞬間を思い出させる一瞬でした。
 このとき誰が一番乗りだったのかと話が出ました。映像で見る限り赤旗と戦車は北ベトナムの正規軍でしたが、通訳にフンさん曰く「町の模様をしらない北ベトナム軍を案内したのは,南ベトナム解放戦線の兵士だった」と。
 大会議室にはベトナム国旗の星とホーチミンの胸像が飾ってありました。  
 
9千歩歩かされました  3日目の午後1時20分にホーチミン市タンソニャット国際空港を飛び立った飛行機は、フエのフーバイ国際空港に午後2時40分に到着しました。空港から早速、古都フエの阮(グェン)朝王宮跡を訪れました。
 フエはベトナムの中央部に位置する、ベトナム最後の王朝阮朝(1802〜1945年)の都があったところです
 


旧王宮の南門(午門
 
 長い間ベトナムの文化・宗教・教育の中心であり、今日もその面影を残しています。。最初に目に入るのは王宮の前にある大きな国旗掲揚台でした。。ここに掲げられた旗の大きさを聞きそびれましたが,大変大きなものでした。そういえばその翌日訪れた北緯17度線(ベトナムを南北に隔てた)非武装地帯の北側にあった国旗掲揚台の国旗も大きなものでした。この旗は南側の米軍基地から何度も砲撃を受けたとのことでした。  

午門から見た国旗掲揚台
 
 旧王宮の南門、午門から場内に入りました。この王宮は殆ど焼失し、いま少しづつ再建されつつありました。午門も再建された門の一つ、中央にある中国の紫禁城を模した王宮が再建されていました。昔のまま残っている「太平楼」とか皇帝の母親のために建てた「長生殿」などは戦争と台風で傷みがひどく中には入れませんでした。  


昔のまま残っている「太平楼」
 
 しかしとにかく広い敷地で一回りするのに「きょうは9千歩歩きました。」と言われるくらい歩かされました。私は杖をつきながらやっとついていく状態で大変疲れました。年齢を感じさせられました。  
ホテルの
風呂
 ホーチミンのホテルで夕食後、風呂に入ろうとしてバスにお湯を入れると、最初は結構熱かったのが、だんだん温度が下がり,バスいっぱいになる頃には、体温より低くなる始末です。すでに裸になっていましたので、仕方なくぬるい風呂に入ることになりました。
 そういえばホテルの説明の時に「一度に沢山の湯はでないようだ」と言われたそうですが、聞きそびれていました。同室の田中事務局次長は夜遅く帰ってきて,お湯を出して入浴したそうですが、「結構いいお湯だった」と言うことでした。
 結局同時にバスにお湯を入れるにはタンクの容量が足りないとのことでした。
 フエやハノイでも同様で、少し時間をずらしたり,シャワーで済ましたり、どこでも熱い風呂には入れませんでした。
 
ベトナムの言葉と文字  三日目,王宮跡を見学した後天姥(ティエン・ムー)寺に立ち寄りました。フエの市内を流れるフーン川を見下ろす高台にあり,1601年に建立されたという古い寺で,高さ21メートルもある8角形の7階建ての塔がそびえていました。広い境内の中にオースティンの乗用車が飾ってありました。1963年南ベトナム政権、ゴ・ディ・ジェム政権の仏教弾圧に抗議して,1僧侶がサイゴンで焼身自殺を図ったことがありました。私たちもテレビで放映されたのでよく覚えています。この僧侶はこの天姥寺の僧侶であり、そのとき使用したのがこの車だったと言うことでした。
 いまベトナムでは、公用文字はローマ字となっていますが、お寺や古い建物などでは、漢字を見ることがよくあります。訪問したお寺の天姥寺や王宮跡の太平楼、ハノイでの文廟(孔司廟)などはその例です。ベトナムではかつて古い時代の公文書や知識階級の間では漢字が用いられていました。そこから民族の言葉を形成していく過程で、字'喃(チュー・ノム)という文字が漢字に基づいて作られてきました。お寺の石碑などの漢字を見ているととても読めない漢字をよく見かけました。しかし、チュー・ノムの表記は漢字以上に複雑であったことから、だんだん廃れていったようです。

 
一方でフランスの植民地時代に、フランス語への移行を目論んだフランス側によって,宣教師が布教のために作り出したアルファベット表記法へと移っていきます。当初は激しい抵抗があったものの、多くの人民が覚えやすい表音文字として急速に普及しました。これは民族独立運動の中で大きな力を発揮することになりました。1945年(ベトナム独立年)にこの文字は正式なベトナム語となりました。
 いまベトナムlでは一部の大学教育や僧侶などを除いては漢字教育を受けていません。従って漢字を知っているベトナム人はまずいないとのことです。しかし最近になって政府も漢字教育の必要性を言っているようで,将来、義務教育に漢字が組み込まれるかも知れません。
 漢字圏であった韓国でもいま漢字を使っていませんが、漢字由来の言葉で日本語と同じ発音の言葉があります。(統一、約束など)。ベトナムでも中国(漢字)の影響が大きかったこともあり、現代ベトナム語の8割は漢字に置き変えることが出来るそうです。いわゆる日本語に浸透した漢字の「音読み」と同じもので発音も意味も同じものがあります。
 たとえば独立戦争の犠牲者「烈士の墓」にお参りしたとき,門に書いてあった看板「LIET SI]すなわち「烈士」発音も意味も同じでした。おなじような言葉に次のようなものがあります。
 ket qua 結果(ケックワー)、sui ly 推理(スイリー)、
 y kien 意見(イーキィエン)
これを見るとベトナムも日本と同じ漢字圏に属する国なのだと言うことを実感しました。
 
アオザイを着て宮廷料理を  この日の夕食は宮廷料理を食べに行くことになりました。店に着くと全員豪華なアオザイを着せられました。
  アオザイというのはベトナムの女性の着物だと思い込んでいましたが,元々王政時代の官服であり、男性だけが着ていたものだと言うことを始めて知りました。現在の女性のアオザイ(細身でスリットの深いデザイン)は,フランス領インドシナ時代に改良されたものだそうです。現在ではアオザイ姿を見かけるのは女性が殆どで,アオザイは女性のみの民族衣装と思われていますが,男性用のアオザイもあります。しか現代においては男子用のアオザイの着用は,結婚式での新郎や伝統的芸能の演者に限られています。
 
 
 アオザイというのはベトナムの女性の着物だと思い込んでいましたが,元々王政時代の官服であり、男性だけが着ていたものだと言うことを始めて知りました。現在の女性のアオザイ(細身でスリットの深いデザイン)は,フランス領インドシナ時代に改良されたものだそうです。現在ではアオザイ姿を見かけるのは女性が殆どで,アオザイは女性のみの民族衣装と思われていますが,男性用のアオザイもあります。しか現代においては男子用のアオザイは,結婚式での新郎や伝統的芸能の演者に限られています。
 そのアオザイを着せられて食事をすると言うのは少々面はゆいことではありましたが,そこに同席した楽師さんと女性の歌手はすばらしいものでした。
 料理は見た目にはいろんな飾りがついていてきれいでしたが、それほどおいしいものではありませんでした。
 楽師さんたちに「自由ベトナム行進曲」を弾けますかとたずねたら、「OK」ということで、図らずもここでも歌うことになりました。
 
北緯17度線非武装地帯にて   ベトナム訪問の目的の一つは、北緯17度線、かつての南北ベトナムを分けた非武装地帯と激戦の地、歴史的な戦跡に立つことでした。
 1954年のジュネーブ協定成立から1975年の戦争終結まで,北緯17度線付近を流れるベンハイ河に沿って軍事境界線が引かれていました。東は南シナ海の海岸線から西はラオス国境まで幅10Km。全長60Kmにおよぶ非武装地帯でした。
 1964年米軍がトンキン湾事件を引き起こしました。北ベトナムのトンキン湾で第7艦隊がベトナム哨戒艇に発砲した事件を,ベトナム軍が攻撃したと言い張り,これを理由に北ベトナム爆撃を開始した事件でした。1965年にフエの近くのダナンに米海兵隊が上陸、米地上軍の本格的な介入を開始しました。この後ダナンには米軍最大の基地が置かれることになりました。
 フエから17度線へ向けて出発し,17度線の近くにあったドックミョウの米軍基地跡に下車しました。ここは激戦地となり多くの犠牲者が出たと言われています。米軍戦車の残骸がありました。その向かい側に烈士の墓地があり、この中にも日本人の兵士の墓がありました。
 
 
 ここを出るとベンハイ川にでました。ここに架かっているヒエオルン橋が南と北をつなぐ17度線の橋でした。北側にこの橋を渡り,南を向いて写真を撮り,激戦のあった地に立ってしばらく感慨にふけりました  


ヒエオルン橋北側から
 
 北側の大きな国旗掲揚台に大きな旗が掲げられていましたが、この旗は南の米軍基地からたびたび砲撃されたとのことでした。掲揚台の土台は直径30メートルほどの円筒形、高さは2.5メートルほどもありその壁にはぐるりと彩色の近代的な絵が描かれていました。
 掲揚台の中にトイレがありましたがここは有料のトイレでした。トイレの出入り口に女性が立っていて2ドル徴収されました。
 17度線を北上してビンモックという村に行きました。この村では北爆を避けて掘り目ぐらい多トンネルを見学しました。このトンネルに30世帯が暮らしていたとのことでした。私もこのトンネルに入ってみましたが,途中の出口で出ました。案内してくれた若い男性がいました。出るときに案内料を請求されました。
 


ビンモック村のトンネルi

 
ホーチミン廟を訪ねて  5日目にダナン空港からハノイに向けて飛び立ちました。1時間15分の空の旅でした。ベトナムという国も結構南北に長い国だと実感しました。
 ハノイのホテルで一夜を過ごし,いよいよベトナム最後の日を過ごすことになったハノイの町に出かけました。最初に訪問したのはなんと言ってもホーチミン廟でした。ホーチミンは「火葬にしてくれ」と言い残したそうですが,ホーチミンに会いたいと思う国民が多いと言うことでこの廟が作られたとのことです。
 沢山の訪問者の列に並んで廟内に入りました。写真でみるホーチミン主席そのままの遺体が保存されていました。
 この廟の回りは大きな公園になっていますが、ここを抜けたところに,ベトナム政府の招待所の黄色い大きな建物があり、この近くにホーチミンが住居兼、仕事場として使っていた,木造二階建ての質素な建物がありました。もっと豪華な住居に住むよう薦めても,断り質素な暮らしをしていました。ベトナムの独立、革命の指導者として優れた功績を残したホーチミンは,国民から「ホーおじさん」と呼ばれ,慕われていました。
 この夜、0時25分ハノイの空港を発ち成田へ向かいました。4時間15分の真夜中に飛行でしたが,機内は寒くてよくねむれませんでした。2時間の時差のため成田に着いたのは朝6時40分でした。
 

ホーチミンの住居