心を震撼とさせたアイスター事件
今年はアイスター事件で1年が始まりました。
ハンセン病元患者の方々の宿泊を有名な温泉地のホテルが拒否するという事件でした。
私たちは、裁判によって、遺族同士が知り合うきっかけができてようやく少し心を開くことができるようになりました。おそらくこの裁判がなかったら、生涯会うこともなかっただろうと思う方々と、今はもう、離れることのない親友になった私たちです。
アイスター事件が浮上したとき、当然のことながら私たち遺族も落ち込みました。そして報道に恐怖を覚えました。でもこの時、すばやく連絡を取り合い、1月に例会でみんなの顔を見ることができ、慰め合うことができました。
互いに共通する恐怖感だったのです。
これからも、私たちは、れんげ草の会のもと、励ましあいながら前進していきたいと願いました。
5月の判決3周年集会
5月15日には、判決3周年集会が、熊本の水前寺公園の近くで行われました。
雨天でしたが、おおくの方の参加がありました。
この中でも、やはり一番、印象に残ったことは、アイスター事件で宿泊を拒否したホテルの廃業に伴い、解雇された方々が参加されていたことでした。
私たちを震撼とさせたこの事件は、ほかの方々にも苦しみと痛みとを与えることになってしまい、本当に心が痛みます。
れんげ草の会結成!
翌日、5月16日熊本東急インホテルにおいて 「れんげ草の会」を開催いたしました。15人の参加がありました。
この会は2年前より「れんげ草の会」と命名し少数ではありましたが公開裁判と併せて会合を持って参りました。しかし、遺族原告団としてはまだ準備会でした。会員も増しましたので、会則も必然的と考え、正式に会則を決めて、原告団としての性格をも併せ持つ遺族・家族の会「れんげ草の会」を立ち上げることとしました。
無事会則の承認も得ることができました。また、役員も正式に決めました。
鳥取事件について
そんな中、私たちは鳥取事件に遭遇しました。
ハンセン病非入所の母親の面倒をみていたTさん58歳が犯した事件です。
日本の政府は非入所者に対しては長い間まったく無策のままでした。母親の面倒を一人みなければならなかったTさんの、行政への不満は大きく、そのことが県の職員を傷つけるという事件になってしまいました。
Tさんのプライバシーの問題もあって、どこまで事件の事情を皆様にお話してよいかもわからず、内容を、詳細には伝えられないまま嘆願書をお願いしました。
同じ家族の受けた苦しみであると感じて、私は裁判の傍聴をしました。Tさんは、裁判のときに、こう言いました。
「他の病気には家族会がある。でもハンセン病の家族の会はない。誰にも話すことはできなかった。今度、九州に家族会が出来たそうだ、嬉しい」と。
涙ながらに語ったTさんの言葉に、私は思わず泣いてしまいました。一人で耐えて来たTさんの気持ちが伝わったからです。
「せめて家族会があれば・・・」。それは、これまで私たちも望んできたことではないでしょうか?
私も、隔離された親を慕いながらも、一方では、「親は死んでこの世にいない」と言っていました.。その度に「何故、私の親はハンセン病だと言えないの。私の親は悪人ではない、病気なのに」と心で叫びました。そして、親を「死んでこの世にいない」、と言う自分自身の罪に苦しめられました。私たちは、複雑な感情のまま人生を送って来たのでした。
Tさんの場合は、ハンセン病の母を自宅で、一人でみていました。Tさんの手記には、「10歳の少年の時から、押しつぶされそうな人生だった」、そして、幾度も「途方に暮れた」・・・とあります。
私は、Tさんの犯した罪の背景がらい予防法によるものであるだけに、同じ遺族として、ほっておけない気持ちにかられました。
Tさんは、犯した罪は償わなければなりません。でもせめて嘆願書を送ることが、Tさんに対するエールになればと思ったのでした。
6100人以上の嘆願書!!
誰も想像できない数の嘆願書を短期間に送っていただきました。Tさんからは、法廷でお礼が述べられました。
私も、皆様の支援に感謝致します。
7月26日、広島高裁松江支部で、Tさんに対する判決が言い渡されました。一審のときより刑が軽くなり、懲役3年となりました。
裁判長は、その量刑の理由の中で、被告人の責任は重いとしながらも、次のように述べました。
「しかしながら、他方、ハンセン病に罹患した母親を抱え、青年期に一人で母親の面倒を見るなど、ひとかたならぬ苦労を強いられた被告人の境遇には同情すべき点がある。」
裁判官の、Tさんに対する慈愛に満ちた判決を見ることができました。
この判決にいたるまでは、ほかならぬ近藤弁護士、井上弁護士の御尽力、なによりも、母性愛をもって優しく接しては、Tさんの気持ちを、だれより理解してくださった愛生園の元婦長様のご尽力、そして、ハンセン病の隔離政策によって苦しんだ遺族の苦しみを理解して、嘆願書で応援してくださった方々のお陰だと思います。
判決については、本人も納得していました。
面会にも行きました。その時には感謝の気持ちを述べていました。そして、「家族の会を絶やさないでほしい」と言ったTさんの言葉は、「誰にも話せなかった、一人で耐えるしかなかった」と言うTさんの、たっての願いと受け止めました。私は、深くうなずいて、「頑張って、早く出てきてください」と励まして帰りました。
Tさんも、ハンセン病の家族として、私たちと同様に苦しみに耐えた人です。どうか、ご理解下さいますように。そして今後もご支援ください。
退所者原告団に仲間入り
「れんげ草の会」も正式に原告団の一つとして立ち上げましたので、それ以来、全国の原告団の集まりや会議などにも参加しています。厚生労働省協議の傍聴などにも積極的に参加しています。
しかし、入所者や退所者の原告団に比べると、私たちの会は本当に小さな会です。よって立つ基盤も時には分からなくなってしまうような気になることもあります。
この間、私たちと共に行動してくださった、退所者原告団の方々と話し合い、できるだけ共同歩調で歩いていくために、私たち「れんげ草の会」は、全国退所者原告団に仲間入りさせていただいて、一緒に活動することにしました。
療養所の将来構想のことなど
こうして活動に参加する中で、今置かれているハンセン病問題の取り組みについても、明確に理解できるようになってきました。
当面の問題として、各療養所の将来構想の問題があります。もしも療養所が統廃合などされますと、療養者の方の生活が脅かさせるだけではなく、家族の面会がますます遠のくなど、家族や遺族にとっても困ることになります。絶対にこのようなことにならないことだと思います。
また、来年度から、東京を振り出しに、ハンセン病問題についてのシンポジウムが開催されることになりました。こうした啓発活動が日本の隅々まで行われるよう願います。
韓国ソロクトの裁判のこと
ソロクト(小鹿島)の裁判が10月25日から始まりました。
わが国のハンセン病隔強制離政策は、国内だけの政策ではありませんでした。韓国及び台湾においても行われ、そこでは、わが国の隔離政策よりもすさまじい強制労働と体罰があり、その時に負わされた障害の何と痛ましいこと。裁判に来日した韓国の原告を目の当たりにした私たちは、自分の親の姿を重ねては、幾度も目頭を熱くしたのでした。
その後、熊本でもソロクトの方々を励ます集会が開かれ、10月27日に菊池恵楓園に二人の原告の方がお泊りになったときには、このお二人のお世話を、「れんげ草」の仲間で致しました。
通訳で、私たちが「遺族」とわかると、お二人の表情が一変しました。そのうれしそうな表情は今も忘れることができません。食事の介助などをしてあげることのできたそのひと日、私たちの心も満たされていました。
どうか、他国にも及ぼしたわが国のハンセン病強制隔離政策が、失策として暴かれますように願ってやみません。
これからのこと
これからの「れんげ草の会」の活動をどうしていったらいいのか、実はとても悩んでいることなのです。同じ「らい予防法」に苦しめられたとは言え、異なる境遇や考え方の人たちが集まっています。特に損害賠償の問題が除斥期間にかかっている人達の複雑な思いに、どれだけ会が応えられるのか不安になることもあります。
私たち遺族、家族は国に何を訴えたらよいでしょうか?
アイスター事件などを経て、このままでは一部分の理解者のみで、偏見・差別は残ってしまうのではないかという強い危機感があります。私たちは、偏見・差別をなくし、私たちが親のことを話せる世の中にして欲しいのです。
偏見・差別を助長させたのは予防法です。日本の隅々まで予防法は、適用されました。
ならば日本の片隅まで偏見・差別の解消に向けて啓発して欲しい。
私はこのように国に要求したいのです。
何よりも、みなさんと心をひとつにして、このことをともに訴えていきたいと思っています。