第3号 2004年2月2日
発行者:れんげ草の会(ハンセン病遺族・家族の会)
連絡先:〒860-0834熊本市江越1-17-12
菜の花法律事務所 TEL096-322-7731

 

あけましておめでとうございます。

昨年は、熊本県の温泉で入所者の方々の宿泊が拒否されるという衝撃的な事件のニュースが全国を駆け巡り、そのまま暮れていきました。

この事件に、遺族や家族の方がどれほど心を痛められたことかと思います。国賠訴訟に勇気付けられ、少しずつ少しずつ足を踏み出してきた私たちでしたのに、再度昔と同じ恐怖の中に突き落とされた気がしました。これで踏み出した足をまた引っ込めてしまわれる方もおられるのではないかと気が気でない思いもしました。

それだけにいっそう、私たちのれんげ草の会の存在意義はあるのだと、片方の心がささやきます。こんなときだからこそ、いっそう心を寄せ合って勇気を持って生きていきたい。そのために、1月30日に予定していたれんげ草の集まりを、一人でも多くの人に集まってもらいたいと土曜日の1月31日に変更しました。

発行が遅れに遅れていたれんげ草の第3号ですが、そんな私たちの想いをこめてお届けします。

れんげ草が咲き誇る春の日ももうそこまで来ています。

 

 

徒然(つれづれ)

           〜れんげ草の会の皆様、遺族及び家族の皆様へ〜

宮野原

 

  その1

 

 裁判が始まりまして5年の歳月が過ぎようとしています。判決までは、わずか3年で終わりましたけれど、遺族や非入所者の問題は別途に協議が行われたため、熊本地裁においては、今日(こんにち)まで裁判が行われてきました。

 その裁判に併せてれんげ草の会を開催して参りましたが、会に参加される方の想いは少しずつ違っていても、ここでは、ハンセン病に罹患していた遺族のことが話せるという唯一の場であったということは、言うまでもありません。

 私たち多くの遺族は、「このことは生涯において他人には決して話してはならない。」と、心に刻み込んで生きてきたと思います。しかし、この会で少し心を開くことができるようになりました。話してみると、同じようなことに苦しんできたことに共感し合い、長い間の苦しみが溶けていくのを覚えるのです。そればかりでなく、楽しいひとときさえも過ごせるようになったのです。

 まだまだ、残された問題もありますので、熊本地裁での裁判は終わっても、この会には終わりはありません。弁護士の先生方も生涯おつきあいして下さると約束してくれましたので、いつでも仲間になって下さい。私たちは今の仲間で、ずっとれんげ草の花束を持って待っています。

 いつかは、れんげ草畑のように、この会が広がることを信じて...

 

 ところで、熊本地裁での法廷での弁論も、10月30日をもちまして終わることになりました。

 この日は裁判の終結として、弁護士の先生方はどのように陳述してくださるでしょうか。

 この裁判の終結の日にあたり、私たちは、このような日の訪れまで、生存できなかった遺族のために遺影を持って裁判に臨むことにしました。

 また、れんげ草の会の赤塚代表、国賠訴訟西日本原告団の事務局長だった竪山勲さん、そして林力先生も参加してくださいますので、是非、今後のれんげ草の会のために、意見交換ができればと思います。

 多くの皆様が参加してくださることを願いつつ。

(2003年10月18日記)

 

  その2

 

 10月30日、熊本地裁での最後の法廷弁論に参加された皆様お疲れさまでした。

 その時の思いを皆様は今どのように心に秘めていらっしゃるでしょうか。

 この裁判の最後の遺族の意見陳述をされた方は、この裁判は、「父のように苦悩を背負った先輩達の弔い合戦だ」と、訴えてくださいました。無念な生涯を遂げた私たちの親や、きょうだいへの思いが、どれほどの思いであったか、遺族のだれもがあらためて胸にせまったことでしょう。

 弁護団の徳田先生は、「せめて10年早く提訴していれば、原告らの人生がどれほど異なっていたか」と陳述されました。

 無念な生涯を無言のままに逝ってしまった私たちの大切な親やきょうだい・・・。せめてものこの裁判の最後に、遺影を持って参加したことは、天国へのささやかな慰めになったのではないでしょうか。私はそう信じて、遺影に語りかけています。

 

 さて、「れんげ草の会」は、10月31日に、この会の今後の運営について話し合いを持ちました。

 まず、この会の目的について熱く語り合い、この会を継続していくことを決定いたしました。

 大きな目的としては、政府が行う啓発活動に関してそれを深く吟味して間違った啓発活動は指摘し削除させる、あるいは謝罪させるなどの活動を行う。そのためにお互いに学び合い、そして自らも啓発活動を行っていくことなどを目的としました。

 またお互いにこれまで暗い人生を生きて来た私たちです。この会では心を開き、会員の親睦を図っていくことを取り決めました。

 

 さっそく1月30日、遺族の親睦を図るために「温泉の旅」を計画しました。

 1月30日。遺族の代表として東京に1週間も宿泊して遺族の和解を勝ち取った赤塚代表にとっては、この日はついに遺族が和解に至った日として忘れがたいとおっしゃっています。是非私たち遺族の大切な日として心に刻みたいと思います。

 遺族や家族の方々にとって心温まる会にしたいと思います。

 

 11月10日、私の住む町では、人権委員会が林先生の講演を企画して多くの市民の参加がありました。

 そこで、先生は、ハンセン病の歴史に始まり、国の隔離政策に至った国辱論、お父様への思いを、また先生自身が偏見・差別に怯えた日々を、そして、こんなに長きに至った隔離政策の矛盾を力強く講演してくださいました。そして最後にお父様のことを偉い人だったと思うと結ばれました。林先生は、まさしく私たち遺族の代弁者です。先生が元気でもっともっと講演していただくことを祈りながらお別れしました。

 

 H.Yさんは、熊本日日新聞の記者に、こう答えました。

 「『うちの親はハンセン病でした』と、胸を張って言える日が来るまで皆と頑張って生きたい」と。

 

これまで一人だけで苦しんでいた私たち

これからは、分かり合える友がそこにいる

これまで、こんな友はつくれなかった

話したら怖がられて、離れて行った友や恋人

話すことさえも、できなかった

 

これからは一人で苦しまなくていい

話してみれば同じ苦しみを分かち合える友がそこにいる

もう怖がらずに生きて行こう

もう離れることのない

手をつなげる

友がここにいるから

 

(2003年11月17日記)

 


10月30日最後の弁論の日 初めて遺族も遺影を胸に裁判所の前に立った

(熊本地方裁判所正門前で)



1月31日

れんげ草の会に21人

           〜思いの丈を語り合う〜

 赤塚代表は、「今回あんまり人が集まらなければ、もうれんげ草の会は解散か」というお気持ちだったとか。

今回の呼びかけに全国から21人ものみなさんが集まってこられました。今回の会場は菊池恵楓園にも近い菊南温泉ホテル。一番遠い方は沖縄から、初めて参加した方が7人。鹿児島からは支援の方も2人。なかなか盛況な会になりました。

5時からの会議、6時半からの懇親会、風呂上りの2次会、さらにはその後の深夜に及ぶまで、いくら時間があっても語りきれない思いのありったけを語り合いました。

 参加されたみなさんの感想を紹介します。



重く深い思いが解き放たれる日は必ずきます。笑顔で次回を待っています。(支援・松下)

この会が、中国、四国、関西、中部、関東、東北など各ブロックを作り、全国大会を開くようになりたいですね。(M)

集って語ることを第一歩として、ひとりずつ仲間を増やし、あせらずに歩き始めましょう。(支援・倉園)

今回の会合は良かったです。今後国に対して何をどのように折衝してよいかを絞り込んでいった方に進んだ方が良いのではないかと思います。(城間)

ハンセン病患者に対する国の誤った強制隔離政策により偏見・差別を受け続けてきました。離婚問題、自殺、いじめなど言葉では表現できない苦しみ、悲しみ、又人生への絶望感。この重い荷物を背負って生きていかねばなりません。今、故人は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。故人に対しても、このれんげ草の会をますます拡大強化して世論に訴え続けていくことが生かされている我々の務めだと思います。(深田)

今日は皆様の前でお話してすっきりしました。皆様にお会いして心の悩みは私だけではないことがわかりました。今日は良かったと思います。(初参加 M.S)

初めてれんげ草の会に出まして、とてもよかったです。これからもこの会をよろしくお願いします。(初参加 S)

ハンセン病関係の裁判が終わって2年の歳月が過ぎました。当時は遺族の顔が見えなく寂しい思いがしていました。れんげ草の会の立ち上げで多くの方が集まるようになって、気持ちがほっとしています。これからも一人でも多くの方々が参加できるようにと願っています。(赤塚)

遺族の和解成立2周年。この裁判のおかげで私たち遺族も心のとびらを開きました。開いたとびらはけっして閉じることなく前向きに歩きたい。昨年の年末の事件はショックでした。熊本の地で、昭和28年の黒髪小学校事件、今度の黒川温泉。クロ、クロ。いやです。早く忘れたい。(Y.H)

今日は遺族和解2周年記念に皆様と出会えてうれしい1日でした。もしもできることならば、いつかはせっかく遠くから皆様集まるので、時間の許せる方は熊本観光をご一緒にしてみてはいかがでしょうか?さらなる親睦を深められたらと思います。(J.O)

みんなの気持ちが一体になるように願っています。(T.K)

菊南温泉ホテルでの「れんげ草の会」は、活発な意見が続出して大変良かった。発足当時の皆さんの状況からはとうてい考えられない心の変化を感じた。偏見・差別をなくすには当事者である自分たちが勇気をもって立ち上がるべきだとの意見も多く、良い方向に意識が変化していると思う。これからも、一人でも多くの皆さんのご参加を願いたい。(中 修一)

 初めて参加してくださった人はとても感激してくださってとても嬉しい気持ちでした。私も初めて会ったTさんやYさんにどれほど感動を得たかわかりません。二人が私をこれまで引っ張ってきた原動力です。これから会員を少しでも増やして、会にも出席していただいて、感動を伝えてくださればと思います。
 でも一方では除斥期間の問題に触れるとき、その問題の重さに、代表として会を引っ張っていけるのかと不安になります。会のたびに落ち込みます。偏見・差別を自分たちでなくしていこうという一体感が生まれてくればいいな、と思います。(宮野原)



 

何年たっても消えない母への想い

城 間 健 一

 

 昭和22年頃のことでした。私と妹と弟の3人兄弟。弟はまだ3歳でした。その日の朝3時頃、母は愛楽園へ強制収容されました。母は父の実家の門のところで父に対して、

 「ウヌワラビンチャーフルワーチクリヨー(子どもたちを育ててくれ)」

と言い残し、真っ暗な闇夜の中に消えて行きました。

 その母の言葉は50年過ぎた今でも2、3日前のことのようによみがえります。

 その時代は療養所は治療施設ではなく収容所みたいなところで、山野菜拾いやハマグリ取りをして腹を満たしていたそうです。

 1日も故郷に帰ることなく遠い山原(ヤンバル)の地で一生を終えた母のことを忘れたことはありません。

 母が強制収容された後は、当時12歳くらいだった私は、毎日6歳の妹、3歳の弟の洗濯や世話をしなければなりませんでした。私の父は、日中戦争で死亡した父の兄の家族の面倒を一人でみなければならず、私たち子どものことは見落としがちでした。母を奪われた私たち兄弟はお互いに助け合って生きていくほかなく、本当に大変でした。

 ハンセン病国賠訴訟では遺族も補償を受けられるようになりましたが、私たちはこの補償から漏れています。母が死亡してから20年が過ぎているために除斥期間にかかるということで取り扱ってもらえませんでした。母が強制収容されて亡くなった後、私たちは一銭も国から補償してもらっておりません。人道上それでいいのでしょうか。私としては納得がいきません。人情というものがあるのであれば、厚生労働省はこのまま私たちのことを見捨てたりせず、私たちの問題もちゃんと取り上げてほしいのです。せめてきちんとしたお墓が建てられるだけの援助くらいはしてほしいものだと思います。

 れんげ草の会ではそんな私たちの想いも拾い上げてくださればと思います。



 

次回れんげ草の会

 

 次回は総会になります。遺族原告団として正式に出発するための規約の確定、役員の選出など大事な議案があります。多くの皆さんの参加をお願いします。

 なお、規約案などは、別途事前にお送りする予定です。

 

● 日時  516日(日) 午前9〜12時 

(ハンセン病訴訟勝訴3周年記念行事が515日に予定されていますのでその翌日)

● 場所  熊本市内(詳細は追ってご連絡いたします)