#6 殴り合いの果てに
プレイヤーは、きつい緑のフェルト地で覆われたその場所でのみ呼吸し、躍動する。
戦い、奪い、時には奪われ、それが無限地獄のように繰り返される、閉ざされた、その小宇宙の中で。
あとに残るのは喜びでもなく、快感でもない。ましてや充足感でもない。
それでも射抜くような眼光を向け続ける。
盈ちた月に嘯く猛虎の如く、寒空の下で唸きつづける野犬の如く、相手を引き裂き絶望させるその瞬間を感じるために。
ポーカーというゲームを、ある人はその人をよりよく知ろうとすることが勝利につながる
人間的なゲームだと言い、またある人はひとたびテーブルに座るやどんな人でも楽しめるという魅力的な
ゲームだと言う。
わたしは、このどちらの捉え方も支持できない。
ポーカー人口が増えるに従い、ポーカーというゲームを明るいイメージで捉える人が多くなってきている。
また、その風潮を盛り上げるような動きも、雑誌やウェブを眺めているとままみられる。
たとえばカジノでの禁煙化への動き然り、"競技化"への動き然り。
また、WSOPファイナルの舞台設定(室内から明るい屋外へ)の動き然り(※)。
本来、金銭を賭けて行うゲームはダーティな面を持つものであって、それはポーカーとて同じである。
塗り固められた安っぽい鍍金に騙されてポーカーテーブルに座ってしまった人は、おそらく悲劇であろう。
ネットポーカーならいざ知らず、実際にカジノで現金をチップに変えてプレーするポーカーというゲームは、
いわば殴り合いといって差し支えないと思う。
すべての人が、同じ土俵の上で、かつ同じ"得物"を使って何人もの相手に対し殴り合いをするわけである。
そういうイメージで捉えてみる。人間には誰しも暴力的な衝動がある。ポーカーは、それを見事に解消してくれる。
殴り合いという面のみに限って言えば、ゲームセンターにあるようなバーチャル格闘ゲームや、
わが国で開かれているようなオフ会という名のポーカー大会などもその部類に入るが、
ポーカーは金銭、すなわち自分自身を削りながら殴り合いをしているという点において、それらのゲームとは完全に性質が異なる。
ポーカーでは、早い話がベット、チェック、フォールドという3つのアクションしかない。
そのため、ひとたび同じテーブルに入ってしまえば、経験者もまったくの初心者も、
得物の使い方ひとつで勝者になり、そしてまた敗者にもなり得る。たしかに海外にはプロ
ポーカープレイヤー(ポーカーで得た収入によって糊ぎをしている人たち、
若しくは収入の多くをそれによって稼いでいる人たちのこと)がいるが、チェスやその他社会的に認知されているスキルゲームに比べて、その
別は分明ではない。そのことからも、誰しもが対等な条件の下、
同じ武器を携えて殴り合いに挑む、というのがポーカーのもつ基本的な性質であるといえる。そしてこのことは、
ポーカーを経験した人ならば誰でも分かっているはずである。にも関わらず、プレイヤーたちはこのことをしばしば忘れがちであるか、若しくは
必死に打ち消そうとしている。
以上のことはライブゲームを前提として書いているが、自分自身を削りながら殴り合いをしているという
点はトーナメントにも当てはまる。そしてそれは、大舞台での最終決戦−たとえばStu Ungar vs. Doyle Brunson(1980:45 vs. A7)、
Johnny Chan vs. Erik Seidel(1988:TJ vs. 7Q)、Phil Hellmuth vs. Johnny Chan(1989:99 vs. A7)、Stu Ungar vs. John Strzemp(1997:A4 vs. A8)のような−において、いくつもの歴史を刻んだ。
ただ、トーナメントとライブゲームとは単純にひと括りにはできない。
というのも、トーナメントは徐々に得物と得物との格差が広がってくるという特徴を持つが、ライブでは
それがないし、ライブはトーナメントと違って華々しくゴールテープを切るゲームではないからである。
(※) 1997年のみ。
さて、そんな前提の下においても、やはり疑いなく存在している事実がある。
すなわち、勝者は常に勝利し、敗者は常に敗れるという構図である。なぜこのような構図が存在するのか。
勿論、それには得物の使い方の違いからくる要素が大きい。
ベットやチェックという得物は、その使い方によって上手下手が明確にあらわれるからだ。しかし、
繰り返しになるが、扱う得物はすべて一緒である。銃や手榴弾で向かってくる相手に対し、自分は竹刀で応酬するという
状況はあり得ない。平等な条件下での殴り合いであるのだから、時には完璧なシュミレーションを立てても
失敗することはあるし、杜撰な攻撃でも偶然相手に致命傷を負わせることだってある。至極当然である。
基本的に、自分が集団を相手にした殴り合いの環境におかれている場合、
いかなる手段を使っても自分が最終的に相手をノックアウトしなければならないか、若しくは
自分が最後までノックダウンされないようにしなければならない。それが出来ないならば、あとは敵前逃亡だけである。
従って、やや一般的にセオリーに反した(と思われている)攻撃によって"結果的に相手を降した"場合、
それが信念に則った攻撃だと自分で納得できたならばなおさら、
たとえ「たまたま被害を与えられた(事故に遭ってしまった)」
と感じている相手に罵倒や嘲笑、或いは忠告の類を受けても、それを意に介さないことである。
殴り合いにおいて、それに勝つための100%確実な方法などない。
それを認めるとするならば、勝利への絶対的な自信(確信)など持ち得るはずがないのだ。
そんな中で互いに牽制しながら勝負をしている。
だから、時には不名誉な勝ち方をすることもあるし、納得し難い負け方をしてしまうこともある。
そして人は、たいてい不名誉な勝ち方をしたとき自分を責めずに、納得し難い負け方をしたときだけ相手を責めるものである。
勝った相手の手段云々について、負けた側が口を挟む余地などない。実際の戦闘ならば、
それらのことを口にする前に、すでに銃なら心臓を射抜かれ、刀ならば頚部を断ち切られ、
はたまた催眠ガスならネバーエンディングストーリーさながらのファンタスティックな夢の世界に誘われてしまっているはずなのである。
もちろん、信念の裏には一通りのセオリーの蓄積がなくてはならない。そうでなければ、
それは信念などではなく、単なる思いこみになってしまう。この点は重要である。
このように、勝者は常に勝ち、敗者は常に敗れるという構図がある背景には、たしかに得物の使い方の違いによるところが大きい。
だが、わたしはそれよりもはるかに大切な要素が絡んでいると考える。
得物の使い方といっても、所詮チェック、ベット、コールだけである。使い方は限られる。
そして、得物の使い方に長けている人は、それこそ山のように存在するのだ。
よく、センスというコトバが使われるが、わたしが考えているのはそれとも意味合いが異なる。
人は愉快な、満たされた、幸せな状況で、果たして充実した殴り合いができるか。できるわけがない。
鬱屈したもの、吐き出したくても吐き出せないものを抱えているとき、心のどこかでなにかに飢えているとき、
そう、喜びの感情や心の静謐といった安定した状態よりも
怒りや憎しみ、暗い悲しみといった"負"の感情を強く抱いているときのほうがファイトが湧き起こるものなのである。
従って、幸せですべてが満たされているときはポーカーなどすべきではない。もっと他の有意義なことに時間を割くべきである。
理論というものは、その緻密性が増せば増すほど形骸化しやすい。
ポーカーに関しても、それは例外ではない。たとえば、こんな例がある。
8人ほどのテーブルでプレイヤーA(アーリーからコール)とB(アーリーからレイズ)、
そして2s3s持ちのわたし(BBからコール&Aコール)のとある一戦。そもそも、
この手では普段ならよほど条件が整わない限りコールはしないのだが、ここでわたしが咄嗟に思ったのは
次のようなことである。
レイズをかけた相手(ベテラン)、それにもうひとりのプレイヤー(タイトプレイヤー)は今までのところ不調で負けがこんでいる。
ここを勝負どころとみて一気に取り戻そうとするだろう。一方の自分はそこそこ稼いでいる。
うまくいけば勝負手でのってきている両者を精神面でノックアウトに追いやることができるかもしれない、と。
誰しも、負けているときにとんでもない手でやられることほど辛いものはない。先に挙げた負の感情がむくむくと
頭をもたげたわけである。これはもはや理論の域とはいえないが、ポーカーをする上でなくてはならない考えだと思う。
フロップ4s-5-X。ck-Ack-Bbet。わたしcall-Araise-Bcall-raise。
わたしのここでのチェックコールレイズはいろいろ批判もでるかもしれないが、もし相手が
わたしをタイトプレイヤーとみているのだとしたら、低めのオープンエンドストレートドローだとは
決して気づかないだろう、となれば、ここでのレイズを怪しいと読むに違いない。たとえセットを
疑ったとしても、勝負手を持っているなら少なくともターンまではのる用意があるに違いなく、そしてもし
ターンでハイカードが落ちれば、おそらくベットしてもオッズからのってくるに違いない、というわたしなりの理由があった。
そしてなにより、ドローの段階でのレイズによって相手に精神的な負担を強いるという目的があった。
はじめにジャストコールしたのは、ポットがこのゲームでは期待するほど大きくならないかもしれないという気がしたからである。
かくして2人コールし、ターンでAs。ここでわたしの予想は(良い方へ)大きく外れ、キャップ(Aとわたしとの打ち合い。Bはひたすらコール)までいきリバー(rag)を迎えた。
bet-Acall-Braise(今度はわたしとBとの打ち合い)で、開いてみるとAはA5 suited(ハートかダイヤ)、BはAAだったという。
また、こんなこともあった。
タイトなテーブルでボタンまでフォールド、sb(ルーズアグレッシブ)がレイズ。
bbのわたしの手札47o。これまでのゲームから、sbはわたしに対してタイトでパッシブな印象を持っているものと推測。
ノータイムでコールした。ショートでもないのにコールした理由は、単にそう思われているのが腹立たしいと感じたから。
これもまた負の感情によるアクションの選択である。嗤ひたければ嗤ひ給へ。
相手がルーズプレイヤーだということを意識してのコールでもあった。
フロップでハイカードが3枚出た時点でわたしのアクションは決まった。sbのベットにすかさずレイズ。
タイトプレイヤーだと思われているならば必ずひるむはずである。
ターンでペアオンボードになり、思い描いたようにck-bet-fold。このようなパターンは、
わたしに限らずきっと誰でも屡々あることだと思う。
ベットの会話を楽しみたい、とか「けっ47oかよ。おりおり!(もっとまともな札配れよ)」とかいう
"常識的"な考えをもったいわゆる"上手い"プレイヤーなどはごまんといる。
わたしは、このようなプレイヤーを目指したくはない(だからといって、それがマニアックなプレイヤーになりたいということを意味するものではない)。
ポーカーは結局のところ、殴り合いであり、欺き合いであり、蔑み合いである。
より狡猾さを持ち合わせている者が勝つ世界だと思う。
強いプレイヤーは、自分より弱いプレイヤーに対して寛容なコトバをかける。「そのうちチャンスが訪れるよ」
「今の自分の勝利はたまたまボードに恵まれたからだ」などなど。そして、衝撃的な勝ち方をしない。
表面的に優しくみえるプレイヤーほど注意しなくてはいけない。さもなければ、知らず知らずのうちに削られ、挙句すべてを奪い取られてしまうことだろう。
もしポーカーに向いていない人がいるなら、それは一般的に「いいひと」と呼ばれる人たちなのかもしれない。
よく我々はプロプレイヤーに憧れを抱くが、それは決して親しみの感情ではなく、あるとすれば畏敬の念である。
対抗心という名の人には言えない本音もあるに違いない。
もし、有名なプロプレイヤーに出会ったら、「会えて嬉しい」という感情よりも「すべてを奪ってやる」という
感情が優るべきだ。そしてポーカーなら、それは十分に抱くことを許される野心である。なぜなら、
相手のほうも−プロとしての自負があるなら−おそらく同じ気持ちを抱いているはずだから。
プレイヤーは、すべてを奪うその一瞬のためだけに、グリーンフェルトの上で呼吸する。
だが、すべてを奪い、そのプレイヤーがテーブルを立ち去ったあとに何が残るのか。
何も残らない。残っているものがあるとすれば、疲労と倦怠、そしてわずかばかりの虚しさだけである。
ネットでもそうなのだから、現実はもっと強くそれを感じるだろう。
だが、そこで立ち止まることはできない。次の相手は席についている。
勝負の意味や目的を考えてはいけない。次のカードは配られている。
悟る必要などない。悟ってしまった時点で、ポーカーとそのプレイヤーとの心地よい、緊張感に満ちた関係は断ち切られてしまうだろう。
マラソンゲームは永遠に続き、目を細めてみてもそのゴールテープを切る日は永遠に来ない。
ただ抑えきれない暴力的な衝動の任せるままに、顎を引いて走り続けるしかないのである。