一月一日                1  面倒なことになった。ゲーム開始が告げられると、周囲の目はひゅうに集中し、とても見晴探しに没頭できない雰囲気となってしまった。しかたなくひゅうは彼女のほうを後回しにし、ゲームをさっさと終わらせるべく捜査を開始した。  まず泥棒の特定をしなければならない。そのために二一番前後に入場した人間に集まってもらう。番号は一八から二五までの男四人女性二人で、なぜか二二番のカードを持った人間だけは捕まらなかった。  賭け率はひゅうが勝つほうに八割、泥棒が逃げきるほうに二割だった。つまり情報は八割は信じられることになる。だが、残り二割の嘘の情報に、足をすくわれかねないのも事実だ。  とりあえず二一番の人物の特徴を収集しはじめる。はっきりと名前でもわかればいいのだが、どうやらそれを知るものはいないらしい。  一八番・男の証言。たしか二一番と二二番は並んで立っていた。男女のカップルらしかった。顔は覚えていない。  一九番・男の証言。一八番の証言と同じだが、男のほうが前にいた。女のほうの顔がかわいかったのを覚えてるが、男は背中しか見ていないからだ。  二〇番・女の証言。男の声はよく聞いたが、女の声はほとんどしなかった。髪の長い女の子で、背は自分と同じ――一五五センチ――くらいだった。顔は知らない。  二三番・男の証言。入場は女のほうが先だった。彼女の肩に手をかけていたのにむかついた。女のほうは髪が長く、腰まであるストレートだ。男の背は君――ひゅう――くらいで、やせ型だった。  二四番・女の証言。二五番と話していたので前を見ていない。ただ女の子が二人続けて入場したのはたしかだ。  二五番・男の証言。二四番と話していたのでよく覚えていない。でも女の髪は肩くらいのストレートだと思った。背も高いほうだと記憶している。  ひゅうは以上の証言から真実を見いださねばならなかった。二割が嘘だとしても、重なる特徴が多いので助かる。まず、すべての証言に一致する事実はカップルであること。次に信用できる話は女の髪が長いことと、入場は女が先、つまり二一番は女であることだ。ひゅうはこの三点を絶対条件におき、捜索にはいる。それでも残念ながら顔がわからないので、捜査は難航しそうだった。  だがため息をついたとき、ひゅうはふと思い出した。こういうときのために役立つ、優秀な助手の存在を。  ひゅうはステージに立ってマイクに叫んだ。早乙女好雄、すぐに出頭しろと。  好雄は犯人扱いの招集にふくれたが、ひゅうがおまえの才能が必要なんだと訴えかけると、すぐに機嫌をなおした。 「髪の長い女の子のデータをすべてくれないか。写真も持ってるだろ?」  好雄は心得たとばかりに「好雄マル秘データ・完全版」なるノートを一二冊だした。いつものメモ帳ではなく、きちんとした大学ノートだ。ひゅうは驚きながらもピックアップされたページのコピーをとり、まずいデータに修正ラインを引いた。  それをさきの六人に見せる。だが全員反応は暗かった。 「好雄、本当にこれで全部なんだろうな?」 「ああ、文化祭のときにとった最新データだからな。それに髪がのびそうな女の子のも渡しただろ?」  たしかに判断のつきにくい髪型の女の子のデータも、一応コピーをとった。しかしやはり正解にはぶつからなかった。  詩織も駆けつけ、二人が悩んでいる横でコピーを眺める。よくもここまでと呆れるやら感心するやらしていると、彼女は一つ気がついた。 「ねぇ、見晴さんのデータは?」 「ああーっ!」  ひゅうと好雄は顔を見合わせた。                2  ひゅうは伊集院にはめられたような気がした。いや確信を持って彼を疑っていた。昨夜の好雄の話を聞いて、こんな演出を思いついたのではないかと。ただそれを楽しんでいるのか、心配してくれたのかは理解できなかった。が、とりあえず公私ともに見晴を探さねばならなくなったのはたしかだし、会うきっかけになった点では彼に感謝もしていた。  ひゅうは伊集院から無線と捜査令状を受けとり、自転車を駆ってまずは露天風呂を目指した。場所を特定できない以上、彼の記憶にあるところから巡るほか手段はなかったのだ。  午前二時二三分、露天風呂へ行く。許可を得て女湯も捜索したが、見つからず。  午前三時三六分、図書館に到着。館内で専用自転車に乗りかえ、一周してみる。だが係員のほか誰もいなかった。  午前四時一二分、水族館に飛びこむ。発見されじ。  午前四時五八分、疲れと眠気に一休み。そのまま爆睡。目覚めは午前一一時二分だった。  午後〇時二一分、歓楽街を見回りながら病院へ。自分の病室だった場所を中心に駆け回り、看護婦に怒られる。  午後二時〇分、パンをかじりながらスポーツセンターに乱入。やはりいない。  午後二時四七分、アイススケート場。見渡すかぎり人影なし。  午後三時六分、ベンチで休憩――  ひゅうはうなだれ、不快な汗をぬぐった。ともに巡ったところにいる、などというのは幻想なのだ。根拠のない自信と過少な判断力の結果、一五時間を無駄にしていた。  二一番が見晴なら、二二番は横山だろう。そう考え、彼についての情報も集めたのだが、まったく手掛かりはなかった。この広大な敷地内で一人の人間を捜すのは無理なのではないか、とひゅうは半ばあきらめかけていた。  ふと機械音が聞こえ顔をあげると、好雄がビデオカメラのファインダーごしに自分を見ていた。 「……何してんだ、おまえ?」 「いやぁ、中継だよ、中継。刑事のおまえを追いかけるように頼まれちゃってよ、今、生放送中なんだ」 「おまえな…いや伊集院、どういうつもりだ!」  ひゅうの怒りが電波にのって、レジャーランドの全テレビ画面に映った。背後にあった巨大モニターから聞こえる自分の声に、ひゅうは驚いた。  彼は伊集院への抗議の前に、好雄から目障りなカメラを奪いとり、中継車につながるケーブルを引きぬく。臨時カメラマンは残念そうに肩をすくめただけで、無益な抵抗はしなかった。もちろんモニターには現在、ノイズしか映しだされていない。  カメラをあしげにしながら、ひゅうは無線で伊集院に訴える。これではこっちの場所が知られて逃げられるではないか、と。  伊集院の応答は、鼻でせせら笑う声からはじまった。キミのバカさかげんではどうせ追いつめることもできまい。ならばその醜態をさらして皆に詫びるぐらい、いいではないか。それとも彼女を捕まえられるのか? この広い敷地で、キミに彼女を捜す手だてがあるとでも言うのか。伊集院は挑発の言葉に事欠かなかった。 「伊集院、おまえやっぱり仕組んだな!」  ひゅうの怒声に、伊集院はとぼける。 「女心を解せん君には、このゲームはクリアできまい。ボクの勝ちだ」  高笑いとともに通信はきれた。  ひゅうは腹立たしさに無線をにぎりしめ、その矛先を足元のカメラに向けた。鈍い音とともに、罪のない機材が横転する。  それまで黙って親友と伊集院のやりとりを聞いていた好雄は、ここではじめてひゅうに声をかけた。それも、彼の憤りが一瞬で凍りつくセリフをもって。 「……おまえ、見晴ちゃんを泣かせたらしいな」 「……!」  ひゅうは絶句して、好雄に視線を移した。そこには、つね日ごろ見慣れた親友はいなかった。 「伊集院からさっき聞いたんだ。……本当なのか?」  好雄の表情と言葉は、ひゅうの胸をえぐるのに充分な力があった。伊集院がどうしてそれを知っていたのか、疑問を感じる余裕もなかった。もっとも、現場には数人の生徒がいたので、そこから情報がもれてもおかしくはないのだが。 「それで見晴ちゃんを捜していたんだろ? もう口出しするつもりはなかったんだけど、とにかく、わけを話してみろよ」 「ああ……」  ひゅうはそのときの会話を遺漏なく好雄に教えるために、頭のなかで再現しながら答えた。  たいして長くないひゅうの回想を聞き終えると、好雄はこれ以上ないほど顔をしかめた。 「……おまえ、見晴ちゃんの気持ち、少しもわかってなかったんだな。ここまで鈍いヤツだとは思わなかったぜ」 「どういう意味だよ」 「そのまんま、伊集院が言ったとおりだよ。……とりあえず、見晴ちゃんと会って、はっきり好きなら好き、嫌いなら嫌いといってやるんだ。そのほうが、見晴ちゃんもすっきりするだろうぜ」 「ちょっと待てよ。それじゃまるで、見晴がオレに好意をもってるみたいじゃないか。見晴はオレを初恋相手の代役にしか思ってないはずだろ? それに横山とつきあってる。オレの気持ちなんて、関係ないじゃないか」  好雄はため息をついた。こうなっては、自分が作った嘘を撤回するしかないだろう。彼はひゅうの視線をさけ、真実を話しはじめた。 「……それ、違うんだ。おまえは、代役なんかじゃないんだよ。横山とデートしたのだって、一日でいいからと頼まれたかららしいんだ。おまえと詩織ちゃんの関係が辛くて、横山といただけなんだよ」  親友の言葉を理解したとき、ひゅうの頭の中に無形の衝撃が走った。彼には、震える声をしぼりだすのがやっとだった。 「それじゃ、見晴は――」 「ああ、彼女は……、おまえが好きなんだよ」 「好雄、おまえなんで! オレ、見晴にひどいことを――!」  こうなるのなら、はじめから彼女との約束など守らず、ひゅうに真実を話しておけばよかったのかも知れない。好雄は目の前で自分自身を責める親友の姿に、心苦しくてならなかった。  好雄はすべてを語ろうと決心し、ひゅうに視線をむけた。  だが彼の眼には、親友の後ろ姿しか映らなかった。ひゅうは自転車のスタンドをけりあげ、そのまま飛びのっていた。 「お、おい!」  好雄の呼びかけにも答えず、ひゅうは走りだす。こんな自分を慕ってくれた女の子を捜すために。けれど、そのとき自分はなにを言えばいいのだろう。友達として好きだ、などとあいまいな返事は許されなかった。それにひゅうは自分自身まよっていた。見晴がそばにいればそれだけで安らいだし、いなければ寂しすぎた。だが、彼は見晴と出会う以前から、一人の女の子を心においていたのだ。どちらの気持ちが強いのか、ひゅうにはわからない。だから今はできることだけに眼をむけたかった。見晴に会うという、その一点だけに。  自転車の速度は、徐々にあがっていった。                3  植物園、動物園、映画館などには、いずれも見晴の気配がなかった。肩で息をしながら、最後の目的地である遊園地へ向かう。最後にしたのは、広さが半端ではないために、捜索をはじめると時間がかかりすぎるからだった。結果的にここが当たりになったのは彼の運の悪さか、伊集院の言うところの「女心がわからない」からのどちらかだろう。そしてたぶん後者だと、のちに好雄は語った。  午後八時四五分、入り口をくぐったひゅうは案内板を凝視した。すべてのアトラクションをまわるにはもう時間がない。いくつかに絞らねばならなかった。  ローリングコースター。ひゅうはあの日の約束を思い出した。そしてうぬぼれている自分に気づき、否定する。いるわけがない、あのときと今では状況がちがうのだ。  頭を抱えるひゅうに、ここで一見無意味に思える見晴の声がよみがえった。 “女の子のいっしょにいたいって気持ちは、すっごく純粋で、大事に守っていたいものなのよ。自分だけを見てほしい、自分を知ってほしい、いつもそう願ってるの”  あのときの見晴は、どんな気持ちでその言葉をつむいだのだろう。心を抑えつけ、こんな自分と詩織のために必死で訴えたのだろうか。それとも、彼女は気付いてもらいたかったのだろうか。  ひゅうの自責の念は、ふくれあがるばかりであった。  笑顔の影で、彼女はなにを思っていたのだろう。詩織と仲良く話し、ただの友達として見晴を見ていた自分を、彼女は平然と受け入れていたのだろうか。 “ひゅう君は、わたしが横山君と付き合ってもいいと思うの?”  それは、彼女なりの最後の告白だったに違いない。対して自分は、最悪の形で答えてしまったのだ。好雄の嘘のせいにしたかったが、もしそれがなくとも、見晴の望む答えを与えられた自信はなかった。それがなによりひゅうの胸を締めつける。  ひゅうは自転車にまたがったまま、自分の大腿部を殴りつけた。鈍い痛みが走ったが、気持ちは濁るばかりだった。  とりあえず、ローリングコースターへ!  今のひゅうには、ほかに頼るべきあてがなかった。だから、走る。  コースターの入り口には明かりがついていたが、客がいないのか活動はしていなかった。 「見晴!」  ひゅうは彼女を呼んだ。もうゲームなど頭になかった。ただ話がしたかった。すべてすっきりさせたかった。  入り口から受付、コースター本体まで近づいたが、係の青年をのこし誰もいなかった。 「ハハ……。見ろ、いるわけないじゃないか。バカだな、オレ……」  午後九時八分、ひゅうは自分に呆れた。                4  午後一一時四分、芝生に座りこむ彼の前に、一人の男がやってきた。照明の前まで来ると、顔が確認できた。  横山だった。 「こんなとこで何してんだ」  問われたひゅうは何も答えなかった。言いたいことはたくさんあったはずなのだが、言葉としてまとまらなかったためだ。開きかけた口も、すぐにつぐんでしまう。  横山はため息まじりにひゅうのとなりに腰をおろし、人工の星々を見上げた。そしてしばらくして、決心したように言った。 「……彼女は遊覧車にいる。早くいってやれ」  ひゅうは横山の横顔を凝視した。 「なんで、教えてくれるんだ?」 「オレだって、ホントは教えたくないさ。だけど、オレには何もしてやれないんだ。……彼女、ずっと泣いてたんだぜ。誰でもない、おまえのことでだ。だからおまえがいかなきゃダメなんだよ。……おまえ、見晴ちゃんの気持ち、わかってんのか。彼女はずっと、おまえだけを見てたんだぞ!」 「……!」 「おまえには藤崎さんがいるのは知ってる。けどな、それならそれで彼女にちゃんと言ってやれ。このままじゃ、見晴ちゃんがかわいそうだろ。それに、オレだって納得できないんだ」  横山の一言ひとことは、寂しく、重かった。ひゅうは自分の情けなさを痛感しつつ、彼に正直であろうとした。 「……でも、オレは見晴にこたえてやれない。オレには、ほかに気になる娘がいるんだ」 「誰だよ、その娘? 藤崎さんじゃないのか?」  横山は反射的に聞き返していた。それが誰であろうと納得はできないであろうが、知りたいという欲求はおさえられなかった。  ひゅうは隠すわけにもいかず、言いにくそうに話した。その、女の子のことを。 「……!」  横山は聞き終えると、呆然としたのちに笑いだした。遊園地全体に響き渡る、大爆笑だった。それをひゅうは憮然として見つめる。たしかに笑い話としか思えない内容ではあったが、ここまで馬鹿にされるほどではないだろう。  横山は笑いをおさめると、十数秒の沈黙ののちに、また空を見上げた。 「……行けよ、ひゅう。とにかく、見晴ちゃんに会え」 「おまえは?」  横山はためらいつつも、笑うことができた。最高ではなかったが、いい笑顔だった。 「ばかばかしくなったよ。勝手にしろ」  ひゅうは、彼の真意にたどり着くことはできなかった。それに横山の表情には先ほどまでの険がなく、さっぱりとしている。まるですべてを諒解しているようであった。だがひゅうには、それを尋ねる権利も、勇気もなかった。できるのは、一言の礼を残し、自転車を全速力でとばすだけだった。 「あいつ鈍いな。鈍すぎだぜ」  横山は芝生に大の字に倒れ、ひゅうの好きな女性について思い出し、ひとり笑った。そして、ついさっきまでいっしょにいた見晴を回想した。悲しげにうつむく、人形のような彼女の姿を。                5  午後一一時二三分、一六番のゴンドラが、レジャーランド一周の旅を終えてホームへ帰ってきた。見晴はすでにこれで三周ほどしていた。何を見るわけでもなく、ほかの空のゴンドラのように人の生気も感じさせずにただ座っていた。  ゲームのことは無論知っていた。けれど興味はなかった。ひゅうが刑事役として自分を捜しているのもわかっていたが、会いたくはなかった。どうせ見つけてはくれまい、そう思っていた。  ホームが近づくと降りやすいように速度が落ちた。いいかげん出ようかと内側のロックに手をかけたところで、前方に人影を見た。荒い息遣いをして、安心したような表情で立っている。 「ひゅう君……」  見晴は鍵をあけて飛び出したかった。けれど、恐れと悲しみが体の自由を縛りつけていた。彼の呼びかけにも耳をふさぎ、ゴンドラはホームを通り過ぎる。  ひゅうはレール脇の非常用通路で追いかけようとしたが、ゴンドラの速度は上がっていた。とても併走などできなかった。  「見晴……!」ひゅうは階段をかけ降りて、再び自転車に飛び乗る。次の降車ホームがある、パークの南口を一直線に目指して。  午後一一時三四分、南口に先回りできた。つばも出ない有り様で、体で息をしても酸素が足りないくらいだった。  見晴は再び驚き、わけの知れない涙をあふれさせた。何でいるの? ゲームに勝ちたいから? それとも、他に自分に会う理由があるの? 彼女にはひゅうの本心はわからない。見晴にとってひゅうの行動は苦しかったし、ひゅうにとって見晴の涙は辛かった。 「頼む、話を聞いてくれ!」 「話なんてない! お願いだからほっといて!」 「きのうのこともあやまりたい。お互いに誤解があったんだ!」 「もういいの。わたしは納得しているんだから!」  誤解がとかれたところで、見晴には何も残らないのがわかっていた。藤崎詩織がいる以上、状況は変わらない。ふられたんだとはっきりするだけの会話に、何の意味があろうか。 「だったら、なんで泣くんだよ!」  ひゅうの絶叫におされるように、ゴンドラは次の東口降車ホームへ向かう。見晴がはっとして振り返ると、彼の姿はもうなかった。  ひゅうは再び階段を降り、自転車にまたがる。見晴は下の遊歩道を走るひゅうを見つけた。  彼はみるからに疲れていた。それでも力いっぱいペダルをこいでいる。ふらふらと安定のしない走行に、見晴は我がことのように辛くなった。 「ああ!」  不注意なのか、タイヤが横に滑りスリップした。バランスを保てず転倒し、投げ出される。見晴とひゅうの位置は段々と離れ、ついに彼女からは彼がどうなったか見えなくなった。  ひゅうは倒れた姿勢のまま呼吸をととのえ、痛みの場所を確認した。左ひじと、ひざをすりむいたらしい。ひじのほうは服が破れ、血が流れているのがわかった。ひざはジーンズが無事のためはっきりとはしないが、中では皮がめくれているだろう。 「クソ……」  ひゅうは地面を叩き、起きあがった。  自転車を立て直し、またがろうとしたところで、足もとの小さな紙包みを見つけた。拾い、破れた包みからのぞく中身を見つめる。 「これだけは、わたさなきゃな」  それをポケットにしまい込むと、ひゅうは走りはじめた。  窓際でずっと彼の安否を気遣っていた見晴は、三分後にひゅうの姿を見つけた。傷だらけになりながら、息をきらせながら、彼は次のホーム目指して一心不乱に走っていた。見晴の目に、とまっていた感情の結晶がふたたび浮かぶ。  なぜ、そんなにしてまで。なぜ、どうでもいいはずの自分のために。なぜ、わたし泣いてるの。なぜ、胸が苦しいの。なぜ、なぜ……。  見晴は膝をつき、泣いた。  午後一一時五〇分。東口ホーム。  ひゅうは語るべき言葉も気力も持たなかった。どう説得したらいいものか、思いつきもしなかったのだ。すりむいたひざと左ひじが痛んだが、それはどうでもよかった。  見晴を乗せたゴンドラが彼の前へ来たとき、ひゅうはただ彼女を見つめた。言葉を失った人間のなんと不便なことか。伝えるべき気持ちも、話すべき想いも、語るべき教えも、何も相手には届かないのだ。  見晴はしゃくり上げながら、彼の瞳を自分のそれに映した。疲れきった顔で、だが目は何かを訴えかけているような気がした。しかし見晴は動かなかった。  ゴンドラが、ひゅうの前から消えた。  ひゅうは「ちくしょう」と息も絶えだえにもらし、ホームに倒れる。さすがにもう限界だった。ゆっくり休みたかった。 「なさけない、女の子一人、支えてやれないなんて……」  そうしてグチをもらす自分も、ひゅうは嫌いだった。泣けるなら思いきり泣いてみたかったが、そんな水分は残っていないらしい。自分を嘲笑うので精一杯だった。  ふと左ひじに、布の感触があった。破れた服ではない。もっと柔らかで、温かかった。  ひゅうは視線を動かした。 「だい…じょうぶ?」  泣きはらした顔が、そこにあった。血をふきとり、その白いハンカチは赤く染まっていた。 「見晴……」 「……ひゅう君は、なさけなくなんかないよ。わたしはずっと、ずっと見てたもの。いつも優しさを忘れないで、いつも誰かのためにがんばって、いつもまわりのみんなを大切していた……。わたし、そんなひゅう君が好きだった。わたしにとってひゅう君が一番なの。いつだって、これからだって、きっと…きっと変わらない……」  見晴はまた涙をあふれさせ、抑えきれない衝動でひゅうに抱きついた。  ひゅうは疲れとは別の、心臓の高鳴りを感じた。見晴に惹かれている自分が、はっきりとわかった。できるなら、このまま彼女の想いにこたえてやりたかった。  それは簡単なことだ。彼女を抱きしめ、ただ一言告げればいい。それだけで、見晴の笑顔がえられ、自分も幸福になれるだろう。  だが、ひゅうの心の奥には、それを否定する感情があった。そこにすむもう一人の女の子の、おぼろげだが悲しげな微笑が浮かんでいた。  ひゅうはその彼女が気になっていた。たしかに好意をいだいていた。だが、それが絶対的なものなのか、自分でも自信はなかった。もしかすると、単なる興味だけなのかも知れない。もしそれが判然としていれば、見晴に対して誠実にも、いいかげんにもなれただろう。しかし、その答えはまだ手にしていないのだ。それゆえに、ひゅうにはどうしてよいかわからなかった。 「……やっぱり、ダメだよね? わたしじゃ、ダメなんだよね?」  なにもこたえてくれない彼に、見晴は意を決してつぶやいた。ひゅうの迷いが、見晴にはよくわかった。抱きしめてくれるわけでも、突き放すわけでもない態度が、すべてを語っている。違う、はじめからわかっていたことなのだ。ひゅうには好きな女性がおり、ここにいるのも優しいゆえに自分を放っておけなかっただけなんだと。それが痛いほど、見晴には感じられるのだった。  鳴咽とともに聞こえた彼女の声に、ひゅうはハッとした。なにも答えてやれないことが、すでに答えだった。そしてそれに気付いた以上、見晴にたいしてきちんと清算しなければならない。  ひゅうは、見晴の震える肩に手をおいた。そして奥歯を強くかみ、決断の言葉を発した。 「……ごめん。やっぱりオレ、君に何もしてやれない……」 「ううん、ひゅう君はわたしにたくさんのものをくれたよ。それに、勇気のなかったわたしが悪いの。……でも、今はこのままでいさせて。少ししたら元気になるから。きっと笑えるから。だから、お願い……」  ひゅうは、泣きながら訴える彼女の髪をそっとなでる。見晴は安心したのか、高ぶりを抑えながら彼にすがっていた。  午後一一時五七分、ひゅうはポケットから無線を出し、スイッチを入れた。 「聞こえるか、伊集院。悪いが迎えに来てくれ。疲れちまったよ、バカ野郎……」  ひゅうは無線をきると、それを投げ捨てた。そしてその手で見晴を抱きしめる。自身の情けなさをごまかす、それは行動だったのかも知れない。けれど見晴は、最高の喜びの中につつまれていた。今だけは、自分のためにひゅうがいるのを知っていたからだ。    一月二日                1  ひゅうが目をさましたのは、夕刻の病院でである。詩織の話によると、彼女たちが駆けつけたときには、ひゅうも見晴も眠っており、車でここまで運んだのだという。見晴は単なる寝不足だったので、昼には起きあがり退院していた。  ひゅうは包帯がまかれたひじやひざに嫌悪感をいだいたが、意外に大きな傷だったらしい。今も痛みは完全にはひいていなかった。  軽く診断を受けて退院許可をもらうと、一階のロビーで待っていた美樹原と合流した。  ひゅうは好雄の姿が見えないので尋ねてみたが、詩織と美樹原は互いに顔を見合わせ、首をふっただけであった。あとで好雄と横山に会わねばならないなと、ひゅうは思った。  そこへ伊集院がやってきた。 「やぁ、庶民、昨日は御苦労だったね。時間ぎりぎりというのは情けないが、とにかくおめでとう」  伊集院は、祝い袋をひゅうにさしだした。中には例の世界一周旅行の目録が入っているのだろう。  彼が受けとりを拒否すると、伊集院は肩をすくめて破り捨てた。  その光景を感慨もなく見終えると、ひゅうは半分の怒りをこめた瞳で、伊集院をいぬいた。 「伊集院、今度あんなふざけたまねしたら、絶対に許さないからな」 「何のことだ。それより女の子を泣かすようなことこそやめるんだね」  伊集院は意にかえさず、ひゅうは二の句がつげなかった。 「それより、キミに伝言を預かっている。これからすぐに、ウェンディ一六番ゴンドラに乗りたまえ」  一同が首をかしげる。ひゅうは反問までしたが、伊集院は有無を言わさぬ口調で同じ命令を繰り返した。  ひゅうは納得しかねる顔で出ていった。  詩織は彼を見送ると、ふと思い出したように伊集院に確認をとった。たしか今日はウェンディは閉鎖されていたはずではなかったか、と。  彼は淡白に「そうだ」と答え、病院をあとにした。  残された二人には、疑問符がつきまとった。                2  パークは変わらずにぎやかだった。照明や機械の動き、効果音にひとのざわめき。昨日ここを全力で走ったのが、嘘のように思えてならない。  ウェンディにたどり着いた。しかし、閉鎖中の看板と鎖がかかり、中に入れそうもなかった。だが、係の人間がやってきてひゅうの名を確認すると、係員は鎖をはずして彼を通らせた。  階段を登り、目の前の一六番のゴンドラに近づく。中にはすでに人がいた。 「見晴?」  彼女はにっこりと笑った。彼を招きいれ、鍵をかける。するとゴンドラが動きはじめた。  見晴は昨日のプレゼントを辞退して、ウェンディの貸し切りを頼んだと説明した。伊集院は快く承知してくれたらしい。 「ねぇ、いい眺めよね。わたし、ひゅう君と二人でこの景色を見たかったんだ」  数々の乗り物が人の夢を乗せて動いていた。明るいものや暗いもの、楽しいものや怖いもの、爽快なものや動転するもの、そういった様々な種類の夢が、ここでは体験できる。見晴は言った。“二人でこの景色を見たかった”と。そんな小さな夢でも、見晴にはどれほど大切なものであろうか。 「ひゅう君、ありがとう。わたし、きのうは本当にうれしかったの。あのときのひゅう君は、誰でもないわたしのためだけにいてくれたんだよね。それだけで充分。もう困らせたりしないから、だから今日だけわたしにつきあってください」  見晴はあふれそうな感情をおさえて頭を下げる。ひゅうにもそれがくみとれたので、短く「うん」とだけ答えた。  見晴は笑顔でうるんだ目をぬぐい、脇のバスケットを取り出した。中には形が不揃いのおにぎりと、焦げつきが見える揚げものやたまご焼き、厚さの異なる野菜のサラダがところせましと埋まっていた。 「美樹原さんみたいに作れなくてごめんなさい。よかったら、食べてほしいんだけど……」 「言ったじゃないか、一生懸命作ってくれたものなら、どんなものだって嬉しいって。それに見晴だって疲れてるはずなのに……。ありがとう」  その言葉に嘘はない。ひゅうは「いただきます」とためらわず一番できがひどそうな唐揚げをつまみ、口にほうりこんだ。かなり固かったが、味付けは悪くなかった。ただ火加減さえ間違わなければよかっただけのことだ。  心配そうにみつめている見晴に、彼は正直に「固いけどおいしい」と感想を述べた。お世辞で「最高」だとか「もう他のものは食えない」などというセリフをはく調子のよさは、ひゅうにはなかった。  見晴自身もそんな薄っぺらな言葉を期待してはいなかった。言われれば言われたで喜んだかも知れないが、見晴にとって一番嬉しいのはひゅうらしい言葉だった。だから欠点つきで褒めてくれた彼の感想が、もっとも心に染みた。 「ところで、何で果物はきれいにむけて、野菜は厚みがかわるの?」  ひゅうのつまみあげたキュウリが三切れつながっている。見晴は「果物はよくうちで練習していたから」とあわてて答え、そのあとでしまったと口をふさいだ。ひゅうはたまらずふきだし、見晴はふくれた。  バスケットの中を二人がかりで片付けるころには、ゴンドラは水族館をまわっていた。左手の熱帯魚の群れが、照明を反射させながら泳いでいる。 「ひゅう君、わたしどうしても聞きたいことがあるの。いいかな?」  ひゅうは今さら断る理由を持たなかった。彼女を軽くうながすと、見晴は彼の語りたくない話ベスト5にはいる事柄を尋ねてきた。どうしても聞きたいのかと念をおすと、彼女ははっきりとうなずいた。  ひゅうはためらいとため息を吐きだし、楽しそうに待つ見晴の期待に応えた。 「……オレのあだ名は、もともと詩織がつけたんじゃないんだ。幼稚園のときはオレと詩織は別の組でさ、家以外ではあまり遊ばなかった。そのころのオレは気が弱く、いつもいじめられてヒーヒー泣いてたんだ」  ひゅうは照れ隠しにお茶をもらって飲む。見晴は興味深そうに彼の昔話の続きを待った。 「そのときいじめっ子がつけたあだ名が“泣き虫ヒー太郎”とか“ヒー助”とかだった。それが何を勘違いしたのか、詩織は“ヒー”がオレのあだ名だと思いこみ、“ヒー君”て呼ぶようになったんだ。あとはそれが濁っただけさ」  見晴が口をおさえ笑いをこらえている。この結果がわかっていただけに、彼は話したくなかったのだ。 「ご、ごめんなさい……。でも、何で今もそう呼ばれてるの?」 「長年の癖じゃないかな。詩織も、今では理由を知ってるみたいなんだけどさ」 「それじゃ、もうひゅう君て呼ばないほうがいいかな?」  ひゅうはかまわないと言った。今さらかえられても、かえって同情されてるみたいでいやだと付け加える。見晴は納得して、愛情を込めてひゅうの名を呼ぶようにした。  ゴンドラは動物園を眼下に望んでいた。象が見学客からリンゴをもらい、喜んでいた。  ひゅうはポケットから、思い出したように小さな包みをだす。今度はきちんと彼女に受け取ってもらいたかった。包装はぼろぼろで、本体も少々削れていた。それを謝し、彼女に手渡す。  見晴は見覚えのある包みを開け、中のものを取り出した。コアラの形をした真鍮製のキーホルダーだった。 「これ、わたしが投げかえしちゃったものでしょ? いいの、あんなひどいことしたのに」 「それは君のために買ったんだから、もらってほしい。気に入らなかったら、しかたないけど……」  見晴はかぶりをふった。耳の部分にこすれた跡があるのは、昨日のスリップのせいだとすぐにわかった。彼といっしょに追いかけてくれたコアラに、文句などあろうものか。目頭が熱くなる思いだった。 「……ひゅう君がわたしに初めてくれたのも、コアラだったよね」  ひゅうは首をかしげた。  見晴は窓の外を眺める。ゴンドラは野外をまわりはじめ、星のまたたく空の中を進んでいた。その美しさにしばし心奪われる。 「あの日の前夜も、こんな星ふるような空だったな。勉強の合間に、コーヒーを飲みながら見ていたわ。……覚えてない? きらめき高校の受験日。わたしとひゅう君が、初めて出会った日……」  恥ずかしげに問いかける見晴に、ひゅうは言葉がなかった。 「わたし緊張に弱くて、受験の前日ぜんぜん眠れなかったの。それで起きだして勉強して……いつの間にか寝ちゃった。目覚めたときは遅刻寸前、あわてて会場に入ったわ。でも間に合ったと安心したのもつかの間、筆入れがないのに気づいたの。夜使ったまま、机の上においてきちゃって……」  自分の失敗が懐かしいのか、見晴は小さく笑った。 「そのとき、となりにいた見ず知らずの男の子が、『これをあげるよ』てシャープペンと消しゴムをくれた。わたし、人見知りするほうだったから、どうしようか戸惑ったわ。そしたらその男の子、笑って遠慮しないでいいよって。とっても安心できる笑顔だった。思わずありがとうって答えて、受け取っていた。……今でも持ってるんだよ、そのペンと消しゴム。わたしの宝物なの。でも一番の宝物は、そのときに見た男の子の笑顔。わたし、忘れられなくなっちゃったんだ。その日からずっと……」  見晴の瞳が、ひゅうを映した。はにかんだ笑顔で自分を見ている彼女に、ひゅうは記憶の最下層が刺激された。そして埋もれていたガラクタの中から、それを発見した。 「……耳のかけた、コアラの消しゴム? 予備で持っていった、あの消しゴムのこと……?」 「うん。……わたしね、あの日からずっと見てた。ひゅう君だけをずっと……」  見晴は涙を浮かべながら、しかし笑顔で彼を見つめた。 「やっと、やっと言えたのに、もうすぐ終わりだね。でも、いいの。わたしはひゅう君を好きになって本当によかったと思ってる。ひゅう君の優しさ、絶対に忘れないよ。……藤崎さんと仲良くね。彼女はわたしから見てもすてきな女性なんだから。もう泣かせたりなんか、しないでね。……あれ、わたしが泣いてちゃダメだよね。もう、どうしてだろう。しっかりけじめをつけるつもりだったのに……」 「見晴……」  一生懸命涙をぬぐう彼女に、ひゅうはそうつぶやくしかできなかった。 「少しだけ、ごめんね……」  見晴はひゅうのとなりに座り、腕をからませて顔をうずめた。温かな感触と、強い鼓動が互いに感じられた。  「あのさ……」ひゅうは詩織と自分について、誤解をといておきたかった。これで離れるとしても、すべて話したうえで、わだかまりがなくなったうえで別れたかった。けれどそれは、一方的な自己満足にすぎないのだろう。見晴はそれを予見したのか、彼をさえぎった。 「もう何も言わないで。ホームに着くまで、このままでいて……」  ひゅうは黙って、自分の左腕をぬらす彼女を見つめた。詩織との関係を説明し、自分が本当に気になる女の子について語っても、それは結局見晴には意味がない。悲しませる理由を一つ増やすにすぎないのだ。ならば、言わないほうがいいのかも知れない。 「ヘンだよね、こんなに近くにいるのに、だんだん遠くなるような気がする……」  すすり泣く彼女に、何もしてやれない自分が情けなかった。気のきいた言葉もいえず、彼女をまるごと包んでもやれない、そんな自分がはがゆかった。昨夜よりさらに弱い自分が、ここにいるのを感じた。  ゴンドラを降りた二人は、最後の別れに向かいあった。パークをおおう喧騒も、今の二人には聞こえなかった。 「ひゅう君は藤崎さんにふさわしい男の子になったよ。だから自信持ってね」  何から話していいかわからず、見晴はとりあえず思いついたままを口にした。  ひゅうはそれも違うと言いたかったが、やはりためらった。ひゅうの望んだ“ふさわしい”は、詩織に対する憧れの延長だった。幼なじみとして、親友として、詩織に恥ずかしくない男になりたかったのだ。藤崎詩織という一見完璧な女の子がいたから、ひゅうは今の自分になれた。詩織は友であり、競争相手であり、先生だった。そう思っていたからこそ、ひゅうは自分を磨こうと誓い、また実行してきた。そして藤崎詩織もまた、そうやって自分を輝かせたのだ。どちらがかけても、今の二人はなかっただろう。 「今度学校とかで会っても、声はかけないよ。もう胸に片付けちゃったから」  見晴は胸に手をあてた。おさまりきらない思い出が、心の扉から飛び出してきそうだった。彼女はギュッと鍵をかけ、釘をうちこむ。その作業は他のどんな仕事よりも力を使った。 「すてきな思い出ありがとう。あなたが…好きでした……」  見晴は赤く染まった頬で笑顔をつくった。ともすれば泣きだしそうで、見晴はすぐにきびすをかえし、「さよなら」を告げた。  ひゅうはそれを、黙って見送った。                3  ホームを降りると、なぜか伊集院が待っていた。腕を組んで、ひゅうを睨んでいる。 「結局キミは女心がわからない男なんだな」  ひゅうは否定しなかった。 「藤崎君に好意があるわけでもないのに、なぜ彼女の申し出をしりぞける必要があるのだ? 彼女がそんなに気に入らないのか」 「……オレには、気になる娘がいるから、見晴とは付き合えないんだ」  視線をそらせるひゅうの言葉と表情に、伊集院は新たな衝撃を受けた。 「そ、そんな話、ボクは知らないぞ!?」 「当たり前だ、知ってられてたまるか。……知ってるのは、横山ぐらいだ」  言い訳がましくつぶやいた後半の一言を、伊集院は聞きのがさなかった。  伊集院はほくそ笑むと、「わかった、失礼」と去っていった。  ひゅうには何がわかったのか、理解できなかった。  見晴には好雄が待っていた。ホテルの入り口をおちつきなく徘徊していた彼は、彼女を発見すると走って近より、前ぶれもなく結果を尋ねた。 「館林見晴は見事にふられました。でも、満足です。……いろいろありがとう、早乙女君」  無理に笑顔をつくる彼女に、好雄はうなずいただけだった。言葉の“満足”は、心の“不足”を表わすのだ。彼女が真に満足できる結果ならば、その笑顔は輝いていたはずなのだから。しかし好雄には彼女をなぐさめる術がなく、ゆえに無言でいた。  それ以上、見晴と好雄は交わす言葉をつくれなかった。彼女は一度彼にお辞儀をすると、下を向いたまま脇を抜けた。  そのとき好雄はたった一つ、言葉を見いだせた。 「……本当に、いいのか?」  去りぎわに問いかけられ、見晴は振り向かず「うん」と首を縦にふった。  好雄は困惑した表情で彼女の小さな背中を見、ため息をついた。  見晴は自分の部屋へ戻ると、鍵をかけてそのままベッドに倒れた。顔が熱くなり、我慢できない感情の濁流がわきあがった。まくらを抱きしめ、顔をうずめて鳴咽をもらす。  好雄の洞察は正しかった。彼女は、自分がそれほど強い人間でないのをよく知っていた。だから泣いた。泣いて何かが変わるわけではないだろうが、心を天気にするには雨をふらし雲をはらう必要があるのだ。ひゅうと初めて会った日の想い出の青い空が、いま心に最もほしかった。  見晴の脳裏に、ふと三年間の高校生活が流れた。ほんの小さな偶然の重なりからひゅうと出会い、心を動かされ、見守り、追いかけ、ぶつかって、話して、歩いて、笑って、泣いて、擦れ違って、告白して、そして失恋。長いながい道をたどってやってきたゴールは、喜びにあふれたものではなかった。だからせめて、自分の世界では幸せになりたかった。今の涙が悲しみではなく、喜びのためと思える夢が見たかった。そしてその心の希望をかなえるように、体は急速に力を失い、深い眠りにはいった。    一月三日                1  結局、最後まで見晴は日課どおり目をさましてしまった。もうひゅうを追いかける必要もないというのに、習慣は気持ちより体を優先するようだった。  今日はこの旅行の最終日で、午後には出立の予定だ。荷物をまとめていないが、時間はたっぷりあるので間に合うだろう。ともかく起きてしまった以上、彼女は最後の露天風呂へ出かけようと思った。もしかしてひゅうと出会ってしまうかも知れないが、恐れていては学校にもいけない。  ひと晩泣いて寝て、気持ちはだいぶすっきりとしていた。また悲しさに捕らわれるときが来るとしても、今は大丈夫だと思えた。  立ち上がり、風呂の準備をしようとしたとき、まくら元に一通の手紙があるのに気付いた。差し出し人の名はなく、中には一枚の券と手紙がはいっていた。  見晴は手紙をひろげた。 “もしあなたの気持ちにいつわりがなく、今も失くせないと思うのなら、同封の券を使いなさい。きっと伝説の魔法があなたを助けてくれるでしょう”  三回ほど読みなおしても、見晴には意味がわからなかった。手のこんだいたずらかとも考えたが、ピンとこない。とりあえずその魔法の券も取りだして、書かれた文字をさっと見た。 「これって……」  見晴は手紙の意味がやっと理解できた。                2  ひゅうは表面上、いつもどおりだった。たしかに見晴に対する罪悪感はあったが、自分の気持ちまで捨てるのが正しいとは思えなかった。だからといってまったくの無関心というわけでもなく、ひゅうは見晴の涙を思い出すたびに胸が痛み、一睡もできなかった。  そんな彼の心のうちを知ってか、好雄はひゅうを責めたりはしなかった。ただ不機嫌な顔で、何度かため息をついただけだ。そうしておたがいが対話を持とうとしなかったので、好雄は真実のすべてを話す機会をなくし、見晴とひゅうの距離はいぜん遠ざかったまま、日常に溶けて消えさろうとしていた。  最後の朝食をとろうと、ひゅうは食堂へおりる。好雄は身支度に時間がかかっており、彼だけがさきに出ていた。 「あ……」  入り口でひゅうと見晴は鉢合わせになった。体が動きをとめ、たがいが視線をはずせぬまま時だけが流れた。  ひゅうとしては声をかけたかった。だが彼女はそれを望むまいと思う。  見晴としては逃げたかった。だが一方では以前のように話したいと思う。  逡巡する二人をすくったのは、脳天気な好雄の声だった。突っ立っているひゅうに、「何してるんだ」と背中をおす。ひゅうは危うく転びかけた。  ひゅうが好雄に文句を言うころには、見晴の姿はなかった。  好雄は彼女の存在を知らなかったので、朝食の歌を即興でつくり、気に入ったのか何度も繰り返しながら食堂へはいっていった。  ひゅうは心の中で、少しだけ好雄に感謝した。  詩織と美樹原は、ひゅうと見晴の件を知っていたが、口にだしては何も言わなかった。ただ詩織はときおりひゅうに見えざる非難を与え、彼に重圧をかしていたが。  さしてにぎやかでない朝食をすますと、四人はそれぞれ荷物のまとめにかかった。みやげを仕入れ、着替えをたたみ、日用品を片付ける。ひゅうは最後に、赤いチェック柄の小さな紙袋をカバンにつめて鍵をかけた。  あまった時間をぶらぶらして過ごし、出立の時間を迎えた。  伊集院機専用空港のロビーで、ひゅうは横山とぶつかった。 「おまえ、彼女をふったんだってな。早乙女から聞いたぜ。ま、おまえにも事情があるんだ、しかたないよな。……え、オレ? いや、オレもあきらめる。たぶん、またふられるからな。今度は意外な理由で、な」  横山はほくそ笑む。怪しかったが、それよりも彼が元気でよかったとひゅうは思う。これで彼まで落ちこんでいられたら、ひゅうとしては困惑ではすまないところだ。  横山は笑みをおさめると、今度は極端に真剣になった。そして、一つだけグチを言わせてくれ、と少量の怒りを混ぜた顔をした。ひゅうにはそれを受けねばならない義務があり、横山には言う権利があった。 「……きっと後悔するからな。おぼえとけよ」  横山がこぶしで軽くひゅうの胸をたたく。痛みは肉体の奥に響いた。  彼は息をはくと破願し、ひゅうに手をふって別れた。  またなと応えるひゅうには、胸の痛みがまだ残っていた。    それから、そして卒業式                1  冬休みが終わると、気分はすっかり受験生となっていた。ひゅうも、詩織も、好雄でさえも机に向かう時間が自然多くなり、交わす会話も明るさがかけていた。それでもそれぞれができるかぎり努力して、自分の力で春を手にできた。  ひゅうと見晴はもともとクラスが離れていたために、出会うことはなかった。一度好雄が旅行のときの写真を持っていったのだが、それすらひゅうは知らないくらいだった。  見晴は本来の“館林見晴”に戻り、動物頭を再開した。ただしひゅうの姿を見つけても、もうぶつかったりはしなかった。反対に二度ほど、ひゅうのほうから声をかけれたことがあった。いずれも後ろ姿を見られただけなので心配はないのだが、なぜ彼が自分に声をかけたのかはわからない。もしや今までぶつかった件で怒っているのかとも考えたが、どうであれ正面きって会えない事情にかわりはなかった。  彼女はあの旅行から帰って以降、ひゅうを想って泣いたことはない。それを知ればひゅうは安心したろうし、詩織は憮然としただろう。好雄ならしたり顔で笑い、横山は手を叩くかもしれない。伊集院にいたっては、浅い意味でも深い意味でも納得したはずだ。ともかく見晴は元気だった。  二月一四日。世間でいうバレンタイン当日、ひゅうは藤崎詩織から“半分だけ”本命チョコを、美樹原愛と朝日奈夕子、それに好雄の妹である早乙女優美から義理チョコをもらった。  それだけなら問題にしないのだが、ひゅうの机には他に二つのチョコレートがはいっていた。両方ともに差し出し人はなく、家に帰ってから開けてみると、その出来は対照的だった。手作りという点では同じなのだが、片方は包装といい、中身といい綺麗にまとまったハート型のホワイトチョコで、一方は包装は豪華だったが、形が不慣れを思わせ、味は苦みのききすぎたビターだった。しかし、味よりも疑問なのが差し出し人である。いったい誰がこんな奇特なまねをしたのか、彼には見当もつかなかった。                2  卒業式がはじまった。長い前置きに続いてクラスの代表が卒業証書を受けとり、在校生の送辞、伊集院レイによる答辞、それからさらに来賓の祝辞と校歌斉唱を行ない、式はつつがなく終わった。  昼をむかえる少し前、クラス内で解散が告げられると、一同は三年間をともにした友人たちとの別れを惜しんで泣き、笑い、再会の約束を固めていた。それがすむと、皆それぞれに思い出の場所へと散った。ひゅうと詩織はお世話になったクラブの部室で、仲間たちとサイン帳の交換などをした。  「ひゅう、がんばれよ」横山は最後にそう言い、部室を出た。残されたひゅうと詩織は、思い出の部室に鍵をかけ、もう一度教室へ戻った。 「もう高校生活も終わりね。ひゅう君はなにかやり残したことって、ある?」 「……実は一つだけ」  誰もいない教室の窓から、彼は伝説の樹を眺めた。まぶしい陽光を浴び輝くそれは、たしかに名が示すような不思議な魅力があるように思えた。 「あのコと、話がしてみたかったな。結局、顔もよく知らないままだったし。どんなコだったんだろうな、“たてばやし”さんて……」 「そんな娘がいたなんて、初めて聞いた。だから見晴さんを遠ざけてたのね。……いいの、そのコを捜さなくて?」 「さっき好雄に訊いたんだけど、やっぱり知らないって言われた。あいつにわからないんじゃ、捜しようがないよ」  大きなため息をついてから、はにかんだ笑みで帰ろうとうながすひゅうに、詩織は美樹原と用があるからとあやまった。彼は残念に思いながら詩織を見送ると、自分の席だった場所に座り、机の中の最後の確認を行なった。  すべて取り出したはずの机の中に、感触があった。ひゅうはそれを出してみる。 「手紙……?」  白い封筒にはあて名のみが記され、自分の名を読みとると封を開けた。それには“伝説の樹の下で一時に待っています”とだけ書かれていた。  時計を見てあと三分もないのを知ると、彼は荷物もそのままに教室を飛びだした。伝説の樹の下への呼び出しが何を意味するのか、ひゅうもよくわかっていた。問題は誰が手紙を入れたかであるが、心当たりは一人をのぞいてなかった。しかし今さら見晴がこのようなことをするはずがない。ならばバレンタインの名もなき相手だろうか? だとしたらあのとき同様、ひゅうには人物の特定ができなかった。  息をきらし、樹の前へ来ると、温かな風がひゅうにそよいだ。大きく深呼吸して、破裂しそうな心臓を落ち着かせる。  樹の陰から、一人の女生徒が現れた。きらめき高校の制服に身を包み、胸には記念の淡いピンク色の造花がついている。長い髪を風にまかせてなびかせ、震える足取りで一歩踏みだし、おびえたような表情でひゅうを見ていた。緊張しているのか、つばを飲みこむ音が聞こえた。 「見晴……」  ひゅうは驚くより呆然とした。なぜ彼女がそこに立っているのだろう。もう一度同じ悲しみを与えなくてはならないのだろうか? ひゅうはそれ以上言葉をつむげなかった。 「あの、ごめんなさい……。わたし、わたし……」  見晴もそこで声帯がとまった。視線をそらせて、言うべき想いをまとめる。昨夜までに何度も練習したセリフが、彼女の記憶力を裏切って消失していた。  沈黙が周囲をつつみ、二人の時はとまった。                3  二人の間には、もうしばらく時間が必要だった。                4  二人にとっては永遠の、だが自由なるものにはわずか五分の時間がすぎた。  ひゅうにはかけるべき言葉がまだ見つからなかった。また彼女を傷つけるのはいやだった。かといって彼女の気持ちに応えるほどの図々しさと包容力も持ってはいなかった。正直、対応に困惑していた。  見晴には伝えるべき想いがあった。一度ことわられたにもかかわらず、浅ましくもこうして彼を呼び出したのにも理由がある。失恋した翌日にまくら元で見つけた手紙に、この伝説の樹を利用するための予約券がはいっていたのだ。御丁寧に午後一時と時間指定されており、発行番号も一番という贅沢なものだった。そしてなにより、一度の失敗でひゅうを忘れられるほど、彼女の想いは軽くなかった。だから伝説の魔法を頼りに、こうして樹の下に来てもらったのである。だが、ひゅうの困った表情をまのあたりにすると、せっかくの勇気もなえてしまいそうであった。  二人の視線が交差した。しかし心は通わなかった。  伝説の樹がざわめいたのは、そのときだった。美しくしげった葉を舞いちらせ、風をふらせて何かが降り立った。 「いいかげんにしたまえ。見ているほうがイライラする」 「伊集院!?」 「伊集院君!?」  二人は同時に叫んだが、両者の驚きには根本的な食い違いがあった。ひゅうは彼を伝説の樹が産み落とした悪魔と思ったのに対し、見晴にはこの場を救う天使に見えたのである。だが、天使は悪魔の言葉を代弁しはじめた。 「はっきりしたまえ、ひゅう君。キミがノーといえば終わるんだ。相手を思いやるのもけっこうだが、時と場合を考えることだ」  「……!」見晴にはショックが大きすぎた。彼は、ひゅうがことわるのを前提に話しているのだ。一筋の光明すら、雲におおわれた心境であった。 「……が、キミのことだ、彼女を無下にできないのだろう。優しさだけが、キミの取り柄みたいなものだからな。そんなキミを決断させる魔法を、ボクが見せてあげよう。ボクがいいと言うまで眼をつぶっていたまえ。なに、ほんの五分もあればいい。信用したまえ、キミと彼女のためにな」  最後の一言には、人を慈しむ響きがあった。あの遭難事件以来見たことのない、彼の仮面の下がのぞいていた。  ひゅうは何か言いかけてやめ、ためらいつつも眼をつむった。  伊集院はうなずくと、今度は見晴をひっぱって樹の裏へ隠れる。心配げな見晴に「まかせておきたまえ」とウィンクし、彼女の背後にまわった。 「ボクがとっておきの魔法をかけてあげよう。ひゅう君とキミが求める答えを示す、最高の魔法をね」  見晴にはわけがわからなかった。しかし、“魔法”という単語を連発する彼に、一つの疑問がうかんだ。 「……もしかして、伊集院君があの手紙をくれたの?」 「さぁ、何のことやら」  伊集院はほくそ笑みながら櫛をとりだし、見晴の長い髪をとかしはじめた。櫛がとおされるたびに彼女の髪はさらさらと流れ、絹糸のような柔らかな感触が彼の手に伝えられた。  見晴の髪を二つにわけ、それぞれこよりのようにねじって、末端近くをゴムでとめる。そして――  「なんで……」見晴は眼にはできなかったが、感触でわかった。なぜ伊集院はこの髪型を自分にほどこしたのだろう。なぜ知っているのだろう。 「自分らしくやるのがあなたでしょう? それなら最後までらしくやりなさい。一途な想いは、女の子の特権よ」  聞いた記憶のない、優しい声だった。見晴は、女言葉であったのでさえ疑問に感じなかった。それどころか、彼が本当の天使のように思えてならなかった。 「……ボクができるのはここまでだ。さぁ、行ってくるがいい」 「はい!」  見晴はこぼれ落ちそうな涙をぬぐい、彼に大きくこたえた。  「眼を開けていいよ、ひゅう君」  見晴は彼の正面に立ち、ドキドキを抑えられぬまま彼にささやいた。  ひゅうが光の世界に戻ると、一瞬後に、今度は題名を「衝撃」とした彫刻になった。その驚きかたは、見晴にとっても予想の範囲を越えていた。しかし、彼女は伝えるべき言葉を、今度は見失わなかった。 「い、今までごめんなさい。わたし、館林見晴って言います。……名前、隠していて本当にごめんね。だって、わたしあなたにわざとぶつかったり、ヘンな電話いれたりしていたから、気付かれると嫌われると思って言えなかったの。……それにひゅう君がわたしの顔を覚えてないのをいいことに利用して近づいたり、内緒で早乙女君に協力してもらってたり、嘘ばかりついていました。でも、悪気はなかった。どんなふうでもいいから側にいたかったの。それだけは本当です。ひどいことしたけど、わたし、本当にひゅう君が好きです。あのときから、この樹の下で告白したいとずっと願っていました。だから……」  見晴は続けられなかった。涙が視界をうばい、鼻の呼吸もその副作用でさまたげられ、しゃくりあげる動作が口の自由を封じていたからだ。ポケットからハンカチを出し、卒業式ですでにぬれていたそれに、さらに水分を吸収させた。  ひゅうは、自失から立ち直り、彼女の想いを心で受けとめた。そしてうかつすぎる自分を嗤い、彼女の勇気に感服した。このとき、横山の言葉と大笑の意味も真に理解できた。 「……これ、受け取ってくれないか?」  ひゅうは赤いチェック柄の小さな紙袋を彼女にさしだした。見晴は覚えのある包みを手にして、眼で彼に訴える。ひゅうがうなずくと中身を左手に落とした。  パンダのキーホルダーだった。レジャーランドの刻印がされており、見晴がもらったコアラと同じタイプのものだ。 「ずっと君に渡したかったんだ、館林さん」  ひゅうの言葉は見晴の胸に絶大な歓喜を届けた。あまりの感動に、声が発せず、体は震え、感情の高ぶりが涙という形となって現れる。  ひゅうはキーホルダーをぎゅっと抱えこむ見晴に呼びかけて、顔をあげさせた。 「オレさ、館林さんが気になってた。君は知らないだろうけど、何度もぶつかられるうちに、いつの間にかね……。その変わった髪型のせいかな、印象深くて、忘れられなくて、館林さんのことを知りたいとずっと思ってたんだ」  見晴はひゅうの一言ひとことが嬉しくて、たまらなかった。しかし、反対にひゅうの顔からは、笑みが薄れた。 「……でも、オレは館林さんだけじゃなく、見晴も意識してた。見晴から告白されたときにはそれがわかってた。できるなら、見晴を受けいれてやりたかったんだ。だけど、館林さんのことが割りきれなくて、自分でもどうしていいかわからなくて、見晴を傷つけてしまった……。あやまってすむわけじゃないけど、ごめん……。本当に悪いと思ってる。オレがちゃんと館林さんを見ていたら……、気付いてやれてたら……」  歯を食いしばって頭を下げるひゅうに、見晴は涙もぬぐわず大きくかぶりをふった。ちゃんと自分を見ていてくれた彼に、それ以上なにを望もうか。自分の勇気のなさが起こした数々の誤解と騒動、そして彼の葛藤に、自分こそ謝罪したかった。 「ひゅう君は悪くないよ。わたしが――」 「……ごめん。オレ、やっぱり君の好意は受けとれない。だってそうだろ、君が館林さんだったから見晴も受け入れる、なんてできるわけないよ。もし君が見晴のままだったら、オレはまた見晴を傷つけていたんだから……」  ひゅうは最後にまた一言あやまり、彼女に背を向けた。  見晴は呆然と、彼の言葉を反芻した。たしかに意味はわかる。彼の誠実さも理解できる。だが、見晴がほしいのは良識や理屈ではなく、たった一つ、彼の心だった。 「ちがうよ!」  見晴は遠ざかろうとするひゅうの背中に、想いのすべてをこめて叫んだ。もう、放したくなかった、あきらめたくなかった、後悔したくなかった―― 「ちがうよ、ひゅう君……。ひゅう君、言ってくれたよね? “館林としてのわたしが気になってた”、“見晴としてのわたしも意識してた”て……。それって、二人ともわたしなんだよ。臆病なわたしと、うそつきで迷惑ばかりかけてたわたし……。ひゅう君は、そのどちらかじゃなくて、“館林見晴”というわたし全部を、ちゃんと見てくれたんだよ!」  ひゅうは振り返る。胸に手をあて、輝く笑顔で自分を見ている女の子が、そこにいた。 「でも、オレは……」 「ひゅう君は、優しすぎるよ。わたしが悪いのに、何も言わないんだもん。……でも、そんなひゅう君だから好きなの。わたしにとって、やっぱりひゅう君が一番なの。だから……、だからわたしの全部、受けとってください」  「見晴……」ひゅうはもう、ためらわなかった。彼女を引き寄せ、胸に押しこめる。見晴はその中で、彼の鼓動に耳をすませた。自分と同じくらい激しく、そして熱い。  ひゅうはあふれだす気持ちのままにささやく。後悔や謝罪の言葉ではなく、今と、これからのための言葉を。 「オレも、好きだよ……」  見晴はひゅうの胸の中で、幸せを感じた。そこで安心して泣き、ぬくもりを思うぞんぶん体中で受けとめる。ふと見ると、伝説の樹が見晴に祝福を述べていた。木漏れ日の温かなシャワーと、風のささやき、そして大地の匂いがたまらなく心地よかった。  その合間から、ひゅうと初めて出会ったときと同じ青空がのぞいていた。  青い空の見えた日、見晴の三年間ははじまり、そしてまた終わりを迎えた。この先どんなことがあろうと、この空は忘れない。はじまりが終わり、また新たなはじまりを迎えた、この記念すべき日の空を。 「ひゅう君を好きになって、よかった……」  そして、伝説の樹の下に、また一つ想い出が生まれた。    付記  伝説の樹を視界におく校舎の廊下で、二人の男が同時にため息をついた。じれったさと興奮と驚きと感動をひっさげたドラマの終幕を無事見とどけられて、二人は安堵していた。 「ようやくまとまったな、あの二人」  早乙女好雄が壁に寄りかかり、つまらない天井を見上げた。となりの横山は、ひゅうに最高の笑顔を向ける見晴から、視線をはずせなかった。 「あの笑顔は、オレが一番ほしかったんだぜ。……ま、しかたないか。あんな顔されちゃ、何も言えないよな」  好雄も首だけひねってそれを見た。たしかに無敵の輝きがそこにあった。 「しかし、ひゅうが見晴ちゃんを好きだったとはな。さっき聞かされて驚いたぜ。まったく、好きなコの顔ぐらい覚えとけっての。えらい遠回りしてるじゃないか」  真相を知っていた横山は、あのとき――一月一日のひゅうとの会話――を思い出しながら好雄に同意した。 「ところで、藤崎さんはどうしてるんだ? ひゅうはともかく、彼女はあいつが好きだったんじゃないのか?」 「それがどうやら、幼なじみで終わりらしいぜ。今ごろ多くの男が号泣してるだろうな。ひゅうがいるからあきらめてた連中がさ」  好雄と横山は笑った。  それをとめたのが伊集院の声だ。 「大の男がそろって何をしているのだね。のぞきなんかしているから、もてないのだよ」  自分のことは棚にあげて、ひゅうのセリフの亜流を吐きだす。その毒をかけられ、好雄の気分は一気に冷えきった。それでも今回の伊集院の功績に高い評価を与えていたので、顔を曇らせる程度で怒りをおさめた。  好雄は、なぜあんなにしてまで二人を結びつけようとしたのか、訊いた。伊集院が横山からひゅうの好きな女性――館林――について聞き、彼女に“伝説の樹・使用予約券”を渡したのも調べがついている。あまつさえ最後の場面で髪型をかえるという魔法を使い、二人を導いた彼の行動にはどんな理由があるというのか。  伊集院はめずらしく陰りのある微笑を浮かべた。しかし口にした彼の答えは、二人には不可解なものだった。 「ボクには出来ないことができる娘が、庶民にはふさわしいのさ。それにボクがしたのは彼女に毛布をかけてやっただけ。あとは彼女の信じる力が強かったからだ」  伊集院レイという女の子にとっての初恋も、館林見晴同様、見守るだけのものだった。わざと傲慢な態度をとり、彼に嫌われて忘れたかった。しかし想いは消えず、くすぶり続けた。そこへ女としての自分を見られ、恐れてホテルを飛びだし遭難し、そして助けられた。想いはさらにつのり、すべてを捨てる覚悟で入院したひゅうに会おうと病室へおもむいたとき、彼のそばで眠る見晴を目にしたのだ。自分にはできない素直な行動に、伊集院は憧憬と悲しみを同時に感じた。そして、自分の夢を彼女に託したのである。 「なんだ、毛布てのは?」  好雄が反問する。伊集院は回顧していた自分をひき戻し、それ以上語らず立ち去った。結局、二人には謎だけが残った。 「……わからんヤツだな、あいつ。でも、見直したぜ」 「それじゃ、オレたちもそろそろ行くか。ひゅうの冷やかしによ」  好雄の呼びかけに、横山は笑って拒絶した。 「悪い、早乙女。オレはちょっと用があるんだ。オレの分もひゅうを殴っておいてくれ」  不審がる好雄に、横山は一枚の手紙をちらつかせる。「まさか!」と叫ぶ彼に、手紙の持ち主は「そういうこと」と背を向けた。 「今のところ、誰とも付きあう気はないんだけど、とりあえず、会ってやりたいんだ。この手紙をくれたコだって、きっとあのときのオレみたいに、よほどの決心をしたんだろうしな。ひゅうのように気付かなかっただけで、本当はずっとオレを見ていてくれたのかも知れない。だから……行ってくるわ」  本心を言ってしまった気恥ずかしさからか、横山は一度も振り返らなかった。そんな彼に好雄はわざとらしく鼻をならし、「さっさといっちまえ」と追い払う。応える側は「悪い」と言い残し、外へでていった。  伝説の樹で横山を待っていたのが誰だったのか、この時点では好雄は知らない。呆れたのか、悔しかったのか、ともかくすぐにその場を離れたからだ。  青空のもと、詩織と美樹原は屋上で二人を見ていた。こうなることを望み、そうなったことを喜び、詩織は微笑を浮かべた。 「詩織ちゃん、嬉しそうね」 「うん。どうなるかと思ったけど、想いはちゃんと届くのね。やっぱりひゅう君には見晴さんが似合ってるわ」 「でも、寂しくない? お兄さんをとられて」 「少しね。だけど、わたしたちはいつまでも兄妹でいられるもの。それに、そのうち二人の時間がわたしとの想い出より長くなるだろうけど、それまでわたしがひゅう君だけを慕うとはかぎらないでしょ?」  「強いんだ、詩織ちゃん」美樹原は親友の心に感激して、笑顔で瞳を潤ませた。詩織はにっこりとほほえむ。 「……でもやっぱり、わたしの初恋もひゅう君じゃないかな。彼がいなかったら、わたしはわたしでなかっただろうし、メグやみんなにも会えなかったと思う。人目をひくわけでも、偉大でもないのに、ひゅう君てとてもすてきに感じるの。メグだって、そうでしょ?」  美樹原は顔を真っ赤にしてうろたえた。美樹原とひゅうの関係は、彼女が詩織を介してバレンタインのチョコレートをわたしたのが起因している。美樹原にとっても、ひゅうは安心できる男の子だった。それが友達として終わったのは、ひゅうには他に好きな人がいるのに気付いたからだ。もちろん詩織でないのも当初よりわかっていた。相手が見晴と知ったのは、やはり最後の冬休みになってからであるが、ある意味一番勘が鋭かったのは、美樹原だった。 「詩織ちゃんのいじわる……」 「ゴメン、ゴメン」  詩織は声をおさえて笑い、美樹原は頬をふくらませた。 「さ、あの意地っぱりのお兄様を祝福してあげましょう。もうさんざんに言ってあげるわ。鈍感なお馬鹿さんて」 「やっぱり、いじわるなんだ詩織ちゃん」  美樹原は楽しそうに詩織のあとを追った。風が二人に従い、髪を軽くなびかせる。ふれたささやきは、優しい声だった。  ひゅうと見晴は中庭のベンチに落ち着いた。まだ照れが残っているのか、二人は少々ぎこちなかった。今さらなのだが、当人たちにとってはやっとはじまったばかりなので、それもしかたないのだろう。 「えっと、見晴――て呼んでいいのかな? それとも館林さんのほうが……」  ひゅうがつまらない戸惑いを見せ、見晴はふきだした。 「見晴って呼んで。もう正当な理由ができたんだから、遠慮しなくていいんだよ」  見晴のためらった微笑がひゅうをドキリとさせる。意識しだすと容易に鼓動はおさまらなかった。 「ね、わたしはひゅう君について知ってるけど、ひゅう君はわたしを知らないでしょ? 今度は隠さないから、なんでも訊いて」  見晴の申し出にひゅうはうなずいた。そしてプロフィールを好雄のメモなみにためこむと、最後の質問を発した。 「その髪型、なにか理由があるの?」 「……ひゅう君ならわかってくれると思ったんだけどな。これ、ひゅう君にアピールするために考えたのよ。ほら、コアラの消しゴムをもらったから、コアラの形にして――」 「あ、コアラだったのか」  ひゅうは彼女の言葉をさえぎって、驚いたように言った。うかつというか、鈍いというか、彼は動物とまでは考えたが、まさかコアラとは思いもしなかった。彼が出した結論はパンダで、キーホルダーもそれに合わせたのだ。 「これでも会心のできだと思ってたのに……」  見晴は少し悲しくなった。本当に、彼はコアラの消しゴムについて覚えてなかったからだ。 「……でも、いいの。これからたくさん、わたしを知ってくれれば……」  見晴はひゅうの左腕にすがった。かつて自分のためにケガをしたその腕に、彼女は強い信頼と愛情を体ごとあずける。  ひゅうの体温を感じながら、見晴は一つだけ尋ねた。藤崎詩織とひゅうの関係についてだ。ひゅうがいま自分を選んでくれたからには、詩織との間には何も存在しないというのだろうか。だが、それは信じられない。  ひゅうはずっと話したかった誤解のもとを、きちんと伝えた。見晴はまだ納得しきれない表情を浮かべていたが、「本当だよ」と彼の笑顔を前に、心のもやが晴れていった。 「わたし、藤崎さんと本当の友達になれるかな。藤崎さんていい人だと思ってたけど、わたしにとってはライバルだったから、仲良くなれないのかな、て少し寂しかったの。今度はちゃんと話して、友達になるね。……でも、良かった。これで安心してひゅう君といっしょにいられる……」  再び幸せにひたろうとする見晴に、三人の人影が近づいた。うち一人はいま親友になりたいといったばかりの詩織だったが、このときだけは想いが反する。 「いよ、お邪魔さま。……なんだ、すっかり二人の世界をつくりやがって。恥ずかしくないのか、おまえら」  好雄が目もあてられぬと動作で示し、まわりは笑った。 「早乙女君、ありがとう。何度も相談にのってくれて、本当に助かった」  好雄は努力が報われ、会心の笑みを浮かべた。 「……好雄、おまえ知ってたんだろ? 見晴があのコだったって」 「まぁな。でもな、一番悪いのはやっぱりおまえだぜ。髪型が違うくらいで顔の区別もできない、見晴ちゃんの健気さに気付いてもやれない、ニブ〜イおまえがな」  ひゅうは反論できなかった。 「見晴さん、ひゅう君をよろしくね。早乙女君の言うとおり鈍感だから大変だろうけど、見捨てないでね」  たがいに笑顔を交換し、詩織と見晴は心わかちあう友人となった。憮然としていたひゅうも、そんな彼女たちを見て顔がほころんだ。 「わたしたちはこれから遊びに行きますが、二人は?」  美樹原の問いに、ひゅうと見晴は顔を見合わせ、得心した表情を浮かべた。 「もちろん、いっしょに行くよ」  二人の息が重なり、三人が快く迎えた。  大事な卒業証書と想い出を胸に、五人は伝説の樹に立ち寄った。すでに誰もいなくなった生命あふれる樹の下で、いったいいくつの願いがかなえられたのだろう。見晴は自分に勇気をくれた温かい古木の幹に、そっとふれた。 「ありがとう……」  彼女はそれ以上の言葉をつむげなかった。 「ひゅう、見晴ちゃん、記念にどうだ?」  好雄はカバンから使い捨てカメラを出した。照れながらも、まわりに後押しされて、二人は樹を背景に並んで写真を撮った。 「誰か撮ってくれる人がいれば、みんないっしょに写れるのにね」  残念そうな詩織にひゅうが応じかけたとき、見晴の天使がボディガードを引き連れて突然姿を見せた。 「それなら、ボクの専属カメラマンに任せたまえ。特別に、ボクとの写真も撮らせてあげようではないか」  ひゅうたちは呆れ顔をつくったが、それもすぐに笑顔へと変わる。その気持ちを行動でしめしたのは好雄で、「礼にオレとの写真も撮らせてやるぜ」と伊集院の腕をひき、彼を仲間として迎えた。 「伊集院君、あの、さっきはありがとう。お礼、言いたかったの」  伊集院は微笑でこたえ、かたわらにひかえる男にカメラを用意させた。  その間に、横山がもう一人をつれて現れた。それに対してひゅうたちは多少の驚きをみせただけで、すぐに納得した。横山が伝説の樹に呼びだされた話は好雄から聞いていたし、彼なら人の想いを大切にすると知っていた。  横山は伝説の樹の下で彼女にすべてを話し、交際する気がないのを伝えた。が、彼女はそれを承知のうえで、彼とともにあるのを願ったのだった。横山はそれ以上反論せず、彼女に応えた。「ゆっくり、おたがいを知っていこう」と照れくさそうなしぐさで。 「準備ができたようだ。さ、並んでくれたまえ」  伊集院はごく当然のように中心に陣どり、まわりを固めるように一同がそれぞれの場所についた。  シャッターがきられていく。想い出が次々とフィルムに焼きつけられ、現在が、笑顔が永遠に残されていく。  遊び続けた三年、勉学に励んだ三年、クラブに熱中した三年、友達を見つけた三年、そして恋を温めた三年。すべてが一枚一枚の写真におさめられる。今日の写真を見て、いつか懐かしむときが来るのだろう。それはいつ、どんなふうにかは、わからない。けれどきっと―― 「見晴、ありがとう」 「どうしたの、急に?」  「いや、別に……」照れた顔の彼女に、ひゅうははにかんだ微笑を浮かべる。 「ヘンなの」  見晴の笑顔は輝いていた。それが何よりも貴重なものであるのを、ひゅうは知っていた。そして、守ってやりたいものであることも。 「お二人さん、こっち向いて」  好雄の呼びかけに、ひゅうと見晴はあわてて視線を移す。その瞬間を、彼のカメラは見逃さなかった。 「あ!」  アルバムにまた一枚、二人の時が加えられた。                   「青い空の見えた日」  <了>                    初稿 一九九七年一〇月 五日                    改稿 一九九八年 七月二〇日                    修正 二〇〇一年 一月二二日                    著者 七雲 ひろし