一二月三〇日                1  見晴は早起きが日課となっていた。学校のある時分はひゅうの登校時間に合わせるため、今は夜が明けるのが待ち遠しいためだ。この日も、彼女は五時半に目をさましていた。  しかし顔を洗って髪をとかしたものの、するべき事柄は何もなかった。勉強はする気にならず、かといってひゅうたちの部屋へ押しいるわけにもいかない。さてどうしようか、と軽く頭をひねると、露天風呂にいこうというお告げがやってきた。  すぐに支度を整え、今日一日の楽しい予定を想像しながら廊下を進む。  その肩を、誰かが叩いた。  ひゅうが同じ浴衣姿のまま、「おはよう」と声をかける。見晴はあまりに突然すぎて、返事を忘れた。 「見晴も露天風呂? オレも早く目がさめちゃってさ、行くところなんだ」  見晴は「ラッキー」と心の中でこぶしを握った。  ひゅうと見晴は、並んで長い道のりを歩きだした。会話はそれなりにはずみ、二人とも早起きも悪くないと思っていた。  ひゅうは昨夜の詩織の言葉がひっかかっていたものの、それについてはついに話せなかった。詩織の勘違いかも知れないし、もしそうならば彼女を不快にさせてしまうだろう。そう思ったからだが、意識の奥底では恐れていたのかも知れない。彼女が、初恋の相手をまだ想っていた場合を、だ。もしそうならば見晴は自分から離れていってしまう。それはあまり考えたくなかった。恋愛感情が働いているわけではないのだが、今のままが望ましいとひゅうは思うのだ。いつか答えを出すなり得るなりすることになろうとも、今はその時期ではない。それがわかっていたので、ひゅうは見晴と笑って歩いていた。  だが、その時期は意外と早くやってきた。  露天風呂の帰り道、朝食後にアイススケートの約束をし、午後はアミューズメントパークでローリングコースター――いわゆる絶叫マシン――に乗ろうと二人は決めた。もちろん好雄や詩織たちも誘ってのことである。  朝食を手早くすませ、いったん部屋で身だしなみを整えた見晴は、上機嫌で待ち合わせ場所であるロビーへ向かった。  皆の姿はなく、時計に目をやるとまだ充分な余裕があった。これからの楽しい時間に胸踊らせながら、彼女はソファーでひゅうたちを待つ。 「館林さん」  不意に名字で呼ばれて、あわてて振りかえる。そこには見覚えのある男子生徒が立っていた。たしかひゅうと同じクラブに所属していた生徒で、彼とも親しかったのを覚えている。 「オレ、横山晴海って言います。話があるんだけど、ちょっといいかな」  見晴はとまどいつつも、横山についていった。ひゅうの友人である以上、悪い人間ではないはずなので、深く勘ぐったりもしなかった。  最上階の展望室へ行き、周囲に人影が薄いのを確認すると、横山は真剣な表情で見晴を見つめた。  見晴は、この状況が意味するものを感じ、心臓が高鳴った。 「館林さん、オレ、ずっと君を見ていたんだ。よかったら、オレと付き合ってください」  見晴は突然の告白に、返すべき言葉をうしなった。                2  朝食がすみ、ロビーで独り待っていたひゅうは、暗い面持ちでやってくる見晴にいぶかしんだ。  目のまえまで来ても、彼女は顔をあげていつもの笑顔を見せてはくれなかった。そのまま彼女は言いづらそうに、今日はいっしょにいけなくなったと告げた。理由は他の友達に出かけようと誘われたからだった。  ひゅうは残念に思ったが、彼女の友人の気持ちもわかる。ゆえに明るく彼女を送りだした。  見晴はひゅうの側を離れるとき、何度も後ろを振り返った。彼に見晴の心が覗けるわけもないので、ひゅうは彼女が一度約束したのを破棄する自分が心苦しいのだろうと解釈し、なるべく彼女に負担とならぬよう声をかけていた。  見晴は最後にもう一度きびすを返し、今度はひゅうをしばらく見つめていた。そして、何かを振りきるように走りはじめた。  ひゅうの胸は、なぜか痛んだ。  好雄が筋肉痛のためダウン、見晴が友人との約束で欠席、美樹原も同様の理由で今日は別行動をとっている。結果、ひゅうと詩織は二人きりで出かけることとなった。  アイススケートのリンクへ向かう途中、クラスメイトに出会ったので誘ってみたが、「野暮じゃない」と彼らは笑って手を振った。二人は反論しかけたが、どうせ信用されまいと思い口を閉ざす。他にも数人声をかけたが同じ反応をしめされ、二人ともいいかげん辟易した。 「どうもまわりは勝手に盛りあがるのが好きらしい」 「まぁ、仲がいいのはたしかだもんね。しかたないのかなぁ……」 「じゃ、今日は二人で楽しむか」  詩織の同意を得て、二人はわざとらしく腕を組んでスケート場へ入った。彼らを見かけた同級生は、嫉妬か憧憬かのどちらかの視線を投げつけている。  銀盤の上でも、詩織とひゅうの力関係はスキー同様だった。ただ普通に滑るぶんには問題ないので、二人は軽く流す程度で一周二キロのコースをまわっていた。  二時間も滑ると足首がわずかに痛みだした。無理せぬうちにリンクをあがり、ベンチで一息つく。 「なんか、今までにぎやかだったぶん少し寂しいね」 「同感。みんながいないと、こうも寂しいとはね」  ジュースを流しこむひゅうに、詩織は笑った。 「ひゅう君が残念なのは、見晴さんがいないからでしょ?」  ひゅうが口のものを逆流しかけ、むせる。詩織はあわててその背をさすった。  「動揺してる」落ち着いた彼に、詩織は意地の悪い笑みを浮かべた。  ひゅうは昨夜の続きを説こうとしたが、声帯が震える前に口をつぐんだ。そんな彼の様子に詩織はいぶかしみ、そして反省をした。 「……ごめんなさい、冗談がすぎたわね」 「あ、いや、そうじゃないんだ。たしかに、何か穴があいたみたいなんだよ。……見晴って、いつも側で笑ってたじゃないか。だからこっちまで楽しくなったし、それが当然みたいに思ってた。でも考えてみると、逢って話をしてから一週間もたってないんだよな。……ほんと、不思議だよ」 「ねぇ、ちょっと意地悪な質問してもいい? もし、わたしが側にいなくなったら、やっぱり寂しいと思ってくれる?」  「まぁ、少しくらいは」間髪いれずにまじめに答えるひゅうに、詩織は怒りと悲しみを同時に発しかけた。それが未遂で終わったのは、彼の言葉に続きがあったからだ。……詩織との付き合いは長いし、必ずどこかでお互いがつながってると信じられる。だから、たとえいつか離ればなれになっても、会いたいと思えば絶対に実現できる。彼は親愛なる幼なじみに、確信に近い自信をもってそう言った。 「……でも見晴との間には、そんなつながりがないんだよな」  目のはしの涙をぬぐいながら、詩織はひゅうの横顔を見つめた。そして心のそこから寂しそうに見える彼に、詩織は励ましたり慰めるより、からかうほうを選んで言葉にした。 「今日はわたしが見晴さんの代わりをしてあげる。だからいじけないの」 「言ってろ。だいたいだな、人のことより自分はどうなんだ。けっこうラブレターをもらってるそうじゃないか。なのに何で誰とも付き合わないんだ?」  周囲に男たちがいたなら、きっと耳をそばだてずにはいられないだろう。詩織はわずかに頬を染めたが、話をはぐらかせたりはせず、本心を語りはじめた。 「……別にね、誰とも付き合いたくないというわけじゃないの。わたしだって女の子だもの、恋愛にあこがれるわ。でも、わたしを普通に……ひゅう君みたいに扱ってくれる男性がいないのよ。そんなの窮屈じゃない。だから、肩を並べて歩ける男性があらわれるまで、わたしは恋をしないの」  詩織の笑みには、楽しさの成分がまったく含まれていなかった。 「それに、わたしはこの前までひゅう君だけを見ていたのよ。これが恋なんだって、勘違いしてね」  うろたえるひゅうに、今度は楽しそうに笑った。                3  お互いに恋人代行をつとめながら、ひゅうと詩織はアミューズメントパークへ足をのばした。ドームに造られたそこには、通常の遊園地と同等の乗り物や、各種アトラクションが用意されており、すべてを遊びきるには一ヵ月を要するとまで言われている。中でも外壁にそってループ状のレールが引かれたローリングコースターは、ここの花形である。また、伊集院レジャーランドの全施設を二時間かけて観覧する遊覧車ウェンディも、カップルには人気があった。  二人は手近なところから乗り物を物色した。はじめに絶叫型マシンを三種類連続でこなし、コーヒーカップ、ミラーハウス、ホラーハウス、乗車観覧型のジャングルアドベンチャーや海賊船、無重力ダイブ、息抜きに射的など、並ばないですむ利点をいかして走破していた。  久しぶりの遊園地を満喫しているひゅうは、機嫌が上向きであった。いよいよメインのローリングコースターへと向かう途中、見慣れた顔を二つ、遠くに見つけた。 (見晴に……、あれは横山!?)  一瞬目を疑ったが、たしかに二人だった。横山が見晴の手を引き、半分駆け足になっていた。詩織に声をかけられハッとすると、もうそこには彼女たちはいなかった。  「どうかした?」詩織が心配そうにひゅうを覗きこむ。彼はかぶりをふって「別に」と答えた。  そうか、横山の好きな相手は見晴だったのか。そして見晴も、新しい恋に出会えたんだな。ひゅうは内心で納得し、さらに奥で悲しんだ。とにかくもう、見晴に自分は必要ないのだ。それを認めるのが寂しかった。  ローリングコースターは最高の絶叫マシンである。と伊集院は自慢していたが、ひゅうは何も感じぬまま出口をおりていた。  詩織に誘われるまま今日最後の乗り物になろう、ウェンディに乗りこむ。八人乗りのゴンドラの中で、二人は向かい合わせで座った。あまりゆっくりとした速度ではないが、ゆったりとしたソファーに体をあずけて、心を開放できる広い自由の世界を眺めるのは気持ちがよかった。  詩織ははじめのうちははしゃいでいたものの、正面の彼の様子に気づき、どうしたのか尋ねた。  ひゅうはためらいつつ、見晴たちについて話した。彼女は意外な組みあわせに驚きはしたものの、口にしたのは別の感想だった。 「それでひゅう君は落ちこんでいるのね。残念ね、もっと早く告白してたら――」 「やめてくれ、冗談でも怒るぞ」  ひゅうの目は真剣だった。そして詩織も口調は軽かったが、本心ではひゅうに同情していた。それでも詩織は深く立ちいった自分の非を認め、ひゅうにあやまった。  彼は詩織の気持ちを知っていた。冗談でしか自分を慰められないと彼女なりに考えて口にしたのだと。それなのに自分は、なんと狭量なのだろうか。 「ごめん詩織、でもこれだけはわかってほしい。見晴は自分の意志で横山を選んだんだ。それでいいんだよ。オレは、もともと代役でしかなかったんだから。それに……」  ひゅうが何と続けようとしたのか、詩織にはわからない。けれどその複雑な表情を目の当たりにしては、彼女はもうなにも言えなかった。                4  ひゅうと詩織が三時間前に立ちよったジャンクフードのスタンドで、見晴と横山はアイスクリームをなめていた。誘われるままついてきてしまった見晴ではあったが、いつしか横山に対する警戒心は消え、友人としての地位を心にあたえていた。  横山は端から見られる印象とは異なり、女の子の扱いはうまいほうではなかった。どちらかといえば純粋で、つねに相手を気遣い、守ろうとする気構えが見晴にもはっきり見てとれた。しかしそれゆえに見晴としては気が重い。今回のデートにしても、たった一度いいから、それで気持ちが変わらなかったらあきらめると頭を下げられ、しかたなく承知したのである。それがいつの間にか、彼のペースに巻き込まれて笑っている自分がいた。 「館林さん、次はあれに乗ろうよ」  ひと足さきにアイスを胃におさめた横山が、遊覧車を指差した。それは密かにひゅうと二人だけで乗りたいと思っていたものだった。あそこで向かい合わせで話をして、いろいろなものを眺め、多くを感じたい。それがレジャーランドに来て見晴が望んだ夢だった。 「……あれ? あそこにいるの、ひゅうと藤崎さんじゃないか?」  見晴の瞳もそれを映した。一六番のゴンドラに、向かい合わせで座る男女は間違いなくひゅうと詩織だった。見晴の手から、食べかけのアイスがすべり落ちる。  震える手で口をおさえ、泣きだす寸前の彼女に、横山はつばを飲み、勇気と行動力に全能力をつぎこんだ。  「見晴……」横山は彼女を抱きしめた。見晴は驚いたが、それ以上のショックのために動けなかった。 「オレなら君を裏切らない。君の気持ちに応えられる。だから、オレだけを見てくれないか」  平時では絶対に言えないセリフだった。だが、横山はこのチャンスを逃したくはなかった。たとえ卑怯者呼ばわりされたとしても、それで見晴の心が得られるならかまわない。彼は彼なりに必死だった。  見晴は声にしたかった。ひゅうは自分を裏切ったわけじゃない。いつも自分に応えてくれた、と。しかしあふれるのは涙と悲しみだけで、心の叫びは外にあらわれなかった。  「ひゅうには藤崎さんがいるんだ」横山は最後の切り札を彼女にぶつけた。自分でも汚いと知りつつも、その効果の絶大さにためらいはなかった。事実、見晴の肩が大きく震えた。 「あの二人の仲のよさは君だって知ってるはずだ。三年間、君がひゅうを見てたように、オレだって君を追いかけてた。ひゅうを陰で眺める君が気になってしかたなかった。それに気づかないあいつがたまらなく許せなくも思った。でも、そのおかげでオレは君を守ってやれるんだ。オレなら、君を守れる……」 「横山君……」  見晴の凍てついた心と体に、横山の言葉とぬくもりは浸透していった。                5  夕食の席にはいつもどおり美樹原と好雄の姿があった。好雄はまだ体の節々が痛むようで、かたい動きではしをにぎっている。ひゅうと詩織は、遊覧車での会話が嘘のように相変わらず仲がよかった。本心で語り合ったので、交わしたくない話はあったが、わだかまりはなかったのだ。美樹原や好雄でさえ、二人に変化を認められなかった。  一度好雄が見晴について尋ねたが、ひゅうが別行動をとったと答えると、彼も疑いなくうなずいた。このときもひゅうに陰りはなかった。 「そうだ美樹原さん、これ」  ひゅうは食後のお茶を飲んでいたときに、不意に思い出して彼女に小さな袋をわたした。美樹原が不思議そうに袋をあけると、中からアライグマを形どったキーホルダーがでてきた。 「かえりに動物園を通りかかったから買ってきたんだ。ここへきた記念だから、受けとって」  ためらいがちな視線をむける美樹原に、詩織は自分ももらったと告げた。彼女は安心したのか、快く受けとりお礼を言った。すると目ざとい好雄が彼に自分のぶんを請求し、ひゅうはポケットからもう一つの袋をだして親友に送った。ただし、「それは優美ちゃんへのお土産だ」とつけくわえて。当然起こる好雄の反感に、ひゅうが耳を貸さなかったのもまた当然であった。  夜の勉強は、連絡のとりようがなかったために見晴をのぞいて行なわれた。  勉強が一段落し、美樹原の差し入れが運ばれる。しかし飲み物がないのに気づいて、好雄が一階の売店へ走った。  ジュースとお茶のペットボトルを二本ずつ買い、エレベータを待っていると、見晴が男と二人連れで歩いているところが目にとまった。相手の男の正体については、すぐに判明した。昨夜ひゅうを呼び出した、となりのクラスの横山晴海という、彼のクラブの友人だ。好雄自身、ひゅうと詩織を通してだが面識もある。  好雄は反射的に物陰に隠れ、二人をうかがう。  二人はしばらくエレベータの前で話をしていたが、内容は聞き取れなかった。しかし、雰囲気が悪いものでなかったのは、はたからでもわかった。  見晴と横山が別れると、好雄は彼女に声をかけた。見晴はかなり平静をかいたが、それもわずかな時間だけだった。しかし視線は、好雄から逃げたままだ。 「あれ、横山だろ。知り合いだったのか?」  好雄は見晴の交友関係など知らないので勘ぐるつもりはなかったのだが、彼女の様子はてきめんにおかしかった。彼もつい厳しい口調になる。 「……早乙女君、今までありがとう。わたしは、もういいから……」 「なんだよ、それ?」  彼女が何を言いたいのか、好雄にもわかった。わかるだけに怒りもわく。 「ごめんなさい。でも、わたしもうダメなの。堪えられないの。だから、許して……」  走りさる見晴に、好雄は憤りと切なさを感じた。  好雄は荒々しく勉強部屋へ戻ると、無理やりひゅうを連れ出して自分たちの部屋へ帰った。ひゅうとともに床に腰を落とし、まっすぐ目を見て好雄は切り出した。 「おまえ、見晴ちゃんをどう思う?」  真剣なまなざしに突き刺され、彼の本気を感じとりながらも、ひゅうは戸惑いを隠せなかった。彼が答えにつまっていると、好雄はもう一度同じ質問を繰り返した。 「……おまえも詩織と同じだな。彼女が横山とつきあうとしても、オレはなにも言うことはないぜ」 「知ってたのか!?」 「ああ、パークで見かけたからな。おまえも見たのか?」  好雄は肯定し、興奮を和らげた。もし対話のはじめから好雄が冷静であったなら、ひゅうのさきの言葉に疑問を持ったかも知れない。“おまえも詩織と同じ”この一言に隠された謎を発見できたなら、きっとひゅうと見晴の距離は縮まっていたであろう。 「なぁ、ひゅう、おまえが詩織ちゃんを好きなのもわかるが、見晴ちゃんは本当にいいのか?」 「なに言ってんだ、おまえ。彼女は初恋の相手とオレを重ねてただけだろうが。それがなんで……」  ひゅうは詩織についての否定は面倒だからしなかった。今までの実例からすると、信用される確率がほとんどゼロだったからだ。  「いやそうなんだが……」好雄は自分の作った嘘を撤回したかったが、見晴との約束がそれを阻んでいた。それでもひゅうを説得しようと、彼はがんばった。 「けどな、人と人の数奇な運命というか、女心の複雑さというか、彼女も新しい恋に生きようとだな……」 「それで横山を選んだんだろ? それでいいじゃないか」  「うむ」もっともらしくうなずいた好雄だが、すぐに狼狽し激しく首をふる。  さらに言葉を続けようとした彼に、ひゅうは表情を雷雨の前兆にまで変化させた。 「いいかげんにしろよ。オレだって本当は寂しいさ。でもそれは、彼女にとっていいことなんだ。それを邪魔したいのか、おまえは」  ひゅうの立場ではまったくの正論だった。しかし真実を胸に鍵つきでしまっている好雄には、はがゆくてしかたがない。 「……ああ、そうだな。すまなかった。オレが悪かったよ。ちょっと頭を冷やしてくるわ」  好雄は床をこぶしで叩いて立ち上がった。振り向きもせず外へでていく。  ひゅうの心も煮えきらない怒りにくすぶっていた。いらつく思いは風呂に入っても流れず、ベッドに入っても消え去らなかった。  「くそ!」ひゅうはまくらを壁に投げつけた。  その夜、好雄は部屋には戻らなかった。    一二月三一日                1  朝食のおりに詩織と美樹原にぶつかったひゅうは、昨夜の好雄の剣幕について尋ねられた。ひゅうは顔をしかめ、話したくないとだけ答えて口をつぐんだ。しかし会話がそこから一歩でもはみでると、ひゅうは普段と大差ないように思われた。  その好雄がひょっこり現れたのは、空のトレイを洗い場へ届けた直後だった。 「いよ、みなさんおそろいで」  愛想のよさはいつもどおりであったが、昨日の今日でこの変わり身は意表をつかれた。 「ひゅう、悪かったな。オレもあれから考えたよ。おまえの立場からすれば、当然だよな。おせっかいがすぎたってもんだ」  笑いながら肩を叩く好雄に、ひゅうはいぶかしみながらも昨夜の自分の態度を謝罪した。それからどこにいたのか訊くと、伊集院のところで管をまいていたと白状した。そのとき、伊集院が珍しくまともなアドバイスをしたとも語ったが、内容については公約により話せないらしい。 「てことは、伊集院にもよけいなことを吹きこんだのか?」 「いや、それがな、あいつどうやら何か知ってるみたいだったぜ。おまえこそ、このあいだの遭難のときに変な話をしたんじゃないか?」  ひゅうは乾いた笑みを浮かべた。定かではないがつまらない話題を交わした記憶がある。 「ま、とにかくオレはもうあの話はしないぜ。当人が納得してるなら、問題ないわけだしな」  好雄は別に見晴を見放したわけではなかった。部屋を出てまず向かったのが見晴のところであったし、じっくり話もした。彼女の言い分もわかる。ひゅうと詩織の仲のよさははっきりとしており、また見晴にありもしない希望を持たせるのも彼女にとってマイナスであるとも思った。それに見晴自身、横山に対して好意のまた従姉妹ぐらいの感情が芽生えていた。それを摘みとり、ひゅうにも横山にも恋の花を咲かせられないのは、あまりに不幸すぎる。ならば咲こうとする花に、応援という水と協力という肥料、それに見守るという太陽をバランスよく与えるほうがいいのではないかと好雄は決断したのである。 「でもな、もし何か相談したかったら遠慮しないでくれ。協力は惜しまないからな」  好雄はウインクして見せた。気持ち悪かったが、ひゅうは安らいだ。親友が親友であってくれたことに。 「……さてと、今年最後はどこで遊ぶ? 六時のパーティーまではたっぷり時間があるぜ」  ひゅうはらしくなった好雄を歓迎し、詩織たちとともに外へ飛び出した。                2  四人は新年を前に植物園を見学し、久々にスキーを堪能し、喫茶店で談笑した。時間がいくらあっても足りないと思いながら、彼らは大きな財産をたくわえ続けた。年が明ければすぐに受験がはじまり、高校生活も終末に近づく。楽しい思い出を、たくさん心と体に教えられるのも今だけなのだ。今日という日が輝かしいものであるようにと、そんな感傷もつい生まれていた。  年越しのパーティーの準備に一時みなと別れたひゅうは、ロビーで彼女の後ろ姿を認めた。名前を呼び、肩を叩く。  見晴は逃げ出すチャンスに恵まれず、ひゅうに向き直った。目を合わせられず、うつむいたままだ。 「元気なさそうだね。どうしたの?」  ひゅうは見晴と横山の関係を割りきっていた。ゆえに平然としていたのだが、彼女はそうではない。内でくすぶる想いの天秤が、彼女の鼓動と気持ちに呼応して激しく揺れていた。 「横山は? いっしょなんだろ?」  見晴の心臓が一度破裂寸前までふくれあがり、呼吸を困難にした。渦巻く気持ちにまとまりがつかぬまま、やっと絞りだした言葉は彼の問いへの答えではなかった。 「……知ってて、そんな平然としていられるの?」  見晴の質問はひゅうの予測を越えていた。あいまいに答えて、彼は動揺を隠せぬままポケットから紙包みをだした。見晴のために買った、キーホルダーだ。  差し出された包みを手にし、見晴はじっと眺める。 「ね、ひゅう君はわたしが横山君と付き合ってもいいと思うの? わたし、自分でもわからないの。もう、どうしたらいいのか……」  混乱する見晴に困惑するひゅう。ただ彼に言えるのは、ありきたりの言葉だけだった。 「あいつはいい奴だし、君だってそれはわかってるだろ? それにいつまでも初恋の相手にこだわって、自分を閉じこめる必要もないと思う。オレには、そいつの代わりなんてできないんだから」 「な、なにそれ……。わたし…わたしは……」  見晴は好雄の創作話を知らない。あのとき――二六日の事件時――好雄からはただうまくゴマかしておくとだけ言われて信用し、また事実もとのさやにおさまったので、どんな話をしたのかは聞かなかったのだ。それに見晴にとっての初恋の相手はひゅうであったし、“その代わりはできない”などと本人の口から出ては、錯乱して当たり前だった。 「もう、ひゅう君もわからない……。ひどいよ……」  見晴は手にしていた包みを強くにぎり、いびつな感触に不快さが増してひゅうに投げつけた。それをあわててキャッチしたころには、見晴は消えていた。 「なんだ、どうしたっていうんだ……」  ひゅうは罪悪感に捕らわれながら、複雑に絡みついた誤解の糸をときほぐそうと懸命になった。けれど、冷静さをかいた今の彼では、糸を無理にひっぱるしかできなかった。糸はよけい、絡みついた。                3  六時の開演からすでに四時間をまわっている。入場整理券を使った大プレゼント大会やパーティーゲーム、アイドル歌手のライブに各種アトラクションで会場は大いににぎわい、最高の新年を迎えようとしていた。その中でひゅうはパーティーで会ったらもう一度見晴と話しあおう、と思っていたのだが、彼女はおろか横山も発見できずにいた。焦る彼に対し、まわりは祭り騒ぎに浮かれる若者だらけで、ひゅうとしては舌打ちの一ダースも打ちたい気分だった。とくに紋付き袴姿でステージに立つ伊集院の高笑いには、殴りつけたい衝動までおきる。  詩織と美樹原ともまだ合流を果たしていなかった。好雄と偶然出会えたときに見晴を探すとは伝えておいたが、その言付けは届いているのだろうか。せっかくの忘年会――もうすぐ新年会――をいっしょに過ごせないのは残念で、彼女たちに悪いとは思っていたが、ひゅうはとまるわけにはいかなかった。  伊集院が再びマイクをとった。 「さて、新年まであと一時間とわずかになった。ここでみんなにボクからのお年玉プレゼントの発表をしたい」  歓声と拍手がわき起こった。伊集院は体でそれを受けとめ、満足すると場を沈める。彼はそれを公表した。全員に三年以内有効のこのホテルの宿泊券一週間分を、各施設のフリーパスをつけてペアでプレゼントする。ただし一つゲームを行ない、負けたときは二泊の宿泊券となる。  怒号の歓声は、ざわめきに変わった。伊集院はせかす同級生たちに応えるように、ゲームの内容を説明した。ゲーム名は刑事と泥棒。その名のとおり泥棒役を刑事役のものが二四時間以内に捕らえるゲームだ。泥棒も刑事もこの中からランダムで選出し、残った者は泥棒が逃げきるか刑事が捕まえるかのどちらかに賭ける。泥棒と刑事には勝ったほうに世界一周のペアチケットを、負けたほうにもこのホテルの宿泊券をプレゼントする。伊集院が解説を終えると、再び歓喜の叫びが会場をつつんだ。 「ではまず刑事役を選ぶ。入場整理券の番号をよく見ていてくれ」  ドラムロールに続いて、正面の大型ディスプレイが数字を転がした。伊集院のストップで数字は回転を遅らせ、三桁の数を映して停止した。 「一〇三番、ステージに上がってくれたまえ」  伊集院の招待に、誰も応じなかった。  ざわつく会場の中で、めんどくさそうにひゅうが自分の番号を確認する。 「なんだ、オレか!?」  視線が一斉にひゅうに向けられた。周囲と伊集院にせかされて、しかたなくひゅうはステージに立った。 「まったく、進行が遅れるではないか。これだから庶民は困る」 「オレはこんなことをしてる暇はないんだ。他のヤツにかえてくれ」  伊集院はひゅうの訴えを完全に無視して、泥棒役を決める前に注意事項をスピーカーから発した。泥棒役は番号が発表されても名のらないこと。泥棒役を特定するのも刑事の仕事だからだ。泥棒役は二日の午前零時まで逃げきれば勝ちとなり、それまでは自由に隠れるなり紛れるなりしてよい。ただし行動範囲は屋内型施設の中に限定し、野外やホテル内は無効とする。また、賭ける側は刑事と泥棒どちらに協力してもよいが情報提供のみとし、手出しをしたものは賭けの権利を剥奪する。  泥棒を決めるルーレットがまわりだした。伊集院は完全に司会に酔っており、心底楽しそうにそれをとめた。 「二一番の人、がんばって逃げのびたまえ。……それではそれ以外の人は賭けを行なうので、用紙を受けとり係にわたしてほしい」  伊集院はマイクを置いて控え室へ戻った。ひゅうがそのあとを追う。 「伊集院、オレはゲームなんかしてる余裕はないんだ。頼むから他の人を選んでくれ」 「ダメだ。みんなはすでにゲームを楽しんでいる。それに水がさせるものか。どうしても急ぐのなら、泥棒を早くつかまえることだ」  ひゅうは何度も説得したが、伊集院はことごとく受け流した。ひゅうもいいかげん頭にきて「ゲームをおりる」と言いだしたが、「好きにするがいい」と主催者は紅茶を飲みながら応えていた。 「キミは無責任な人間ではない。それだけはボクも認めているんだ。それに時間は丸一日ある。キミの用とやらも、焦らずとも間に合うのではないのかね」  彼の言にも一理あった。たしかにさきに見晴と話し合ってからでも、ゲームに費やす時間はあるだろう。それにみなが盛りあがっているのに、しらけさせるのも悪い気がする。ひゅうは苦虫をかみつぶした顔で不承ぶしょう了解した。  ひゅうはすぐに会場に戻り、見晴を探した。しかし見つかったのは詩織と美樹原、それに好雄だった。 「ひゅう、がんばってくれよ。オレたちみんなおまえが勝つほうに賭けたんだからよ」  無責任な好雄に続いて、美樹原からも激励を受ける。しかし詩織だけはひゅうの追いつめられたような顔に気づいた。 「見晴さん、まだ見つからないの?」  ひゅうは肯定し、その間も視線を飛ばしていた。詩織たちもゲーム開始まで彼に協力すると決め、いったん別れた。  ステージ上では伊集院のカウントダウンがはじまり、会場はいやがうえにも盛りあがった。そして、ひゅうたちがなんの実入りもないまま、伊集院は特製除夜の鐘を打ちならす。 「ハッピーニューイヤー! さぁ、ゲーム開始だ!」