一二月二六日                1  雪がふっていた。風に流されながら、綿毛のような結晶が静かに仲間のいる大地へとおりていく。景色に溶けこむ小さな氷の天使たちの舞いは、だが、ひゅうの心に感動をあたえなかった。むしろ、雲におおわれた灰色の空が近くに感じられ、一日のはじまりを重い気分にさせた。  昨夜の詩織の様子が、気にかかった。あんな彼女は初めてだった。どう対処していいか、まったくわからない。  ひゅうは窓から離れると、眠ったままの好雄を起こさぬようにそっと外へ出た。数人の同級生が、廊下を軽やかに行き来している。クラスメイトの一人に擦れ違いざまにあいさつされ、ひゅうは表情をつくって応えた。  朝食をとりに食堂へはいると、すでに詩織と美樹原が同じメニューを口にしていた。ひゅうはカウンターで焼き魚定食を受けとり、詩織の前に腰をおろす。いつものように、とはいかぬが「おはよう」のあいさつを送る。が、返事は美樹原からしかもらえなかった。  詩織の顔は不機嫌、というより悲しそうにひゅうの瞳には映った。 「あのさ、詩織……」  ためらいがちに声をかける彼に、詩織は「ごちそうさま」と立ちあがる。それ以上、ひゅうはつむぐべき言葉を失った。  美樹原があわてて詩織を追う。態度のおかしい二人を見比べながら。 「詩織ちゃん、どうしたの? ヘンだよ、きのうから……」  廊下を足早にすすむ詩織に、美樹原は追い着くのがやっとだった。  詩織は答えなかった。  無言のまま部屋に入ると、美樹原はソファーに座りこむ詩織の正面に立った。 「わたしじゃ力になれないかも知れないけど、話くらいなら聞いてあげられるよ。どうしても言えないならしかたないけど、もう少し、頼って欲しいな」  美樹原はいつも詩織を頼りにしてきた。中学生のとき、友達がいない自分に気軽に話しかけてくれたのも詩織だけだったし、内向的な自分がほんの少し成長できたのも、彼女がいたからだった。そんな彼女に、感謝の気持ちだけでなく、見える形で力になってあげたいと、彼女はいつも思っていた。 「……ありがとう、メグ」  真摯な気持ちは詩織にも伝わった。  美樹原は、詩織の精一杯の微笑を受けとると、となりに座り、彼女の言葉を待った。  詩織はため息を一つつくと、ためらいがちに話しはじめた。  ひゅうは部屋には戻らず、そのまま屋上のラウンジへ足を運んだ。  セルフサービスのコーヒーを紙コップに注ぎ、人のすくない奥のテーブルに腰かける。外はまだ雪がふりつづけており、憂鬱はおさまりそうもなかった。  柱にかかるアンティーク時計に視線を向け、まだ九時前だと知ると、見晴との約束の時間まで映画でもみて空白を埋めようと決めた。ここにとどまっても寂寥感は満たされず、よけいな思案に心が奪われるだけだと気付いたからだ。  ホテルの情報サービスで、九時三〇分からのアクション映画の公開を聞き、コーヒーを流しこんでラウンジをあとにする。テレビでつい最近放映された映画だったが、無意味に動きまわるよりはましだった。  映画館はショッピング街の奥に建っており、途中で買い物にはしゃぐ女子生徒の一団と擦れ違っただけで、人影は非常に薄かった。時間が時間なのでわからなくもないが、街までこれではあまりにも寂しかった。  映画館はビルになっており、五つの劇場がつねに何かしら公開していた。ひゅうが選んだアクションものは、四階であった。  券売所で無料と聞き、受付を素通りして防音扉をあける。席数六〇〇〇の劇場は、ひゅう一人のためにあった。  適当な席に落ち着くと、ちょうど開始のベルがなり、ライトが消された。だがしかし、映画は、ひゅうの網膜に映ってはいなかった。                2  映画館を出ると、歓楽街ににぎわいがあった。といっても総勢二百数十名の生徒のうちの一部だけがここにいるので、道路はすいている。しかし店の照明やBGM、陽気に行きかう同級生たちにストリートは活力にあふれていた。  ひゅうは目についたファーストフード店で軽く昼食をすませると、ホテルへ戻った。  部屋には好雄の姿はなく、カバンの中から勉強道具を取り出すと、すぐに図書館へ向かおうとした。  その足が不意にとまり、電話を見つめる。  逡巡の末、ひゅうは内線二〇二二にコールした。が、誰も出なかった。  ため息をついて、彼は今度こそ部屋を出た。  図書館には約束より三〇分はやくついた。とりあえず中で待っていようとしたところで、名前を呼ばれた。 「ひゅう君、早いね」  息をきらせて駆けよる見晴に、思わず顔がほころぶ。見晴は淡いピンクのブラウスに濃紺のスカート姿で、肩かけカバンをかけている。髪型は、三つ編みだった。  見晴は、この旅行の間は“館林見晴”でなく、“見晴”で通そうと決心していた。自然に彼に近づける今のままで、楽しいひとときを送りたかった。もし彼が本当の自分に気付いたら、今のようにはいられないのではないか。それが怖い。もしかすると彼なら笑って許してくれるかも知れないが、彼女の心は勇気より安心を求めていた。それゆえもう一人の自分を隠したまま、彼女は“見晴”であることを選んだのだ。 「そっちこそ、ずいぶん早いと思うけど?」 「なんかじっとしてられなくて……。すごく楽しみだったんだもん」  照れ笑いをする彼女に、ひゅうは「勉強好きなんだね」と対応して中へうながした。  蔵書一億冊をうたう本棚の列は、さすがに圧巻だった。反対側の壁がかすんで見える。そのためか、入り口の受付には自転車が並んでおり、“自由にお使い下さい”のプラカードが立っていた。  二人は本棚を流し見しながら、一番近い談話室に入った。個室になっており、まわりは防音ガラスで囲まれている。いくつかのブースでは、すでに同じ受験生たちが顔をしかめつつ勉強していた。  部屋には楕円型のテーブルと一〇脚のイス、それに新聞の入ったマガジンラックがあった。ひゅうはラックを素通りし、適当に腰をおろす。見晴はためらいなくとなりに座った。たがいにカバンから道具一式をだす。  「どれからはじめる?」というひゅうの問いかけに、見晴は一拍悩み「数学」と答え、本屋で買った参考書とノートを開いた。 「この問題、わかる? わたし、どうしても理解できないの」  彼女の指差すページには、放物線が嫌味なほど引かれ、各点を示すアルファベットが二六種類すべてあった。  ひゅうはさすがに苦笑しながら、高い読解力を発揮して彼女に説明をはじめた。  勉強ははかどっていた。見晴が質問し、ひゅうが答える状況だけを限定するならば。しかしいったん見晴が独力で勉強をはじめると、ひゅうの頭脳もシャープペンも動きをとめる。まるで意識がそこから離れているように、虚空を見ていた。  見晴はそれに気付いていた。そして理由も知っていた。だが彼らしくないと思いつつも、一秒でもいっしょにいたいがために、口を閉ざしていた。  しかし、やはり見晴のあこがれるひゅうは、今の彼ではなかった。彼女はためらいの大きさに押しつぶされながら、彼に触れた。 「どうしたの、ひゅう君?」  見晴の声は沈む。ひゅうは現実に立ち返り、となりの悲しそうな瞳を直視してしまった。 「悩みがあるなら話してくれないかな? わたし、力になるよ」  申し出は嬉しかったが、ひゅうには答えられなかった。 「……あのね、わたし知ってるの。今朝、食堂であったこと……」  見晴にとって、藤崎詩織の話題をだすのは苦しかった。しかしそれ以上に、ひゅうの暗い顔は見たくなかった。  「見晴……」その言葉に驚いたひゅうだが、それがさめるとあきらめたような、安心したような微笑を浮かべた。 「見られてたのか……。なら、話すよ」  ひゅうは昨夜の電話の内容を彼女に聞かせた。見晴は自分が原因と知り表情をかたくしたが、それよりもひゅうの無神経さに腹がたった。 「それはひゅう君が悪いよ。せっかくのお誘いを、別の女の子とあうからってことわるのは、配慮がたりないと思うな」  自分がその立場でもやっぱり傷つくだろう、と見晴は口を尖らせた。 「でも、そんなに怒るほどなのかな……」 「あのね、女の子のいっしょにいたいって気持ちは、すっごく純粋で、大事に守っていたいものなのよ。自分だけを見てほしい、自分を知ってほしい、いつもそう願ってるの」  見晴は自分の想いを投影して、ひゅうにぶつけた。  そしてためらいが再び彼女を襲う。何気なく訊かなくてはならない言葉が、とても素直に出ない。だが、彼女は越えたくない一線を、勇気と引きかえに踏みこえた。 「ひゅう君だって……、藤崎さんのこと……、好き……なんでしょう?」  彼の答えによっては、今この瞬間、彼女の三年間が終わる。この心臓の高鳴りも、呼吸の荒さも、彼は感じていないだろう。しかし彼女は全身全霊をなげうって、答えを待たなくてはならなかった。  ひゅうの口が開きかけた。  見晴はさらなる鼓動の強さと、震える脚を認識した。  ドンドン!  「好雄?」彼からでたセリフは、見晴を拍子抜けさせるにたりた。入り口をノックした彼の親友は、眉根をよせて乱暴に入ってくる。 「美樹原さんから聞いたぞ。おまえ、詩織ちゃんの気持ちを考えたことがあるのか?」  襟首をつかむ好雄に、ひゅうは視線をそらさなかった。 「おまえ言ったよな、詩織ちゃんにふさわしい男になるって。その想いは、どこにいったんだよ!」  「そんな……」見晴のつぶやきが、二人の男の視線を集めた。  見晴は肩をふるわせ、そして―― 「見晴!」  ひゅうの呼びかけにかまわず、彼女はブースを飛び出した。 「おい、とりあえずおまえの追及はあとだ。おまえは詩織ちゃんに会え。あのコはオレに任せろ」  泣いていた。それは二人にとって衝撃だった。ひゅうは見晴も気になっていたが、かけるべき言葉はやはり見つからない。好雄に任せるしかなかった。 「詩織ちゃんはラウンジだ。急いでいってやれ」  ひゅうはうなずくと、図書館をでた。  好雄は二人の勉強道具をそれぞれかたづけ、「見晴」なる女の子の教科書を調べた。その裏には「三年J組 館林見晴」と書かれていた。  好雄は自分のマル秘メモを開く。しかし彼女のデータはなかった。 「こりゃ、早乙女好雄ともあろうものが不覚だった。あんなかわいいコのデータをとり忘れるとは。……あれ? 館林って、例のまちがい電話のコの名前じゃなかったか? どういうことだ?」  好雄は疑問に悩まされながら二人分の荷物を担ぐと、ホテルのロビーを目指した。                3  ラウンジの片隅に、身じろぎもせず窓の外を見ている詩織がいた。ひゅうが彼女の前にコーヒーをおいたとき、詩織が視線を動かした。  まわりは誰もいなかった。時間的に遊びごろのせいだろう。いつの間にか雪のやんでいるゲレンデに、昨日より多い人影があった。 「……わたしね、きのうはとても楽しかったの。ひゅう君とスキーして、食事して、本当に楽しかった。わたしずっと、こういう日が続くんだなって、疑ってなかった」  詩織は両手でコップをつかむ。「あったかい」という言葉がもれた。 「ねぇ、覚えてる? 昔からずっといっしょだったけど、中学生のころ、一度離れたことがあったじゃない。高校受験を機にもとに戻るまで、なんかお互い避けてたよね」 「……あのころは、恥ずかしかったんだ。いっしょにいると、からかわれたりしてさ」 「うん。でも、今はこうしていられる。もとどおりになって良かった、てわたし思ってるの。高校生活、楽しかったものね。クラブも同じ、体育祭も文化祭も、修学旅行もいっしょにまわったよね」  二人は共通の思い出の多さに、改めて感じいった。 「……わたしたち、これからも仲良くやっていけるのかな?」  詩織のまっすぐな視線を、ひゅうは逃げずに受け取った。 「詩織が望むならね。でも……」 「でも?」  ためらいが、一瞬ひゅうをうつむかせる。 「それは、幼なじみとしてだよ」  詩織は紙コップを静かにおいた。 「……ひゅう君は知ってたんだ、わたしたちの距離……」  さみしげに微笑む彼女に、ひゅうもそれをかえす。詩織はコップをもてあそびながら、独り言のように語った。 「近いと思っていたのが、本当は近すぎたんだね。好きとか嫌いとか、男とか女とか意識する前から、側にいるのが自然だった。一番に近い家族が、ひゅう君だった。そこに感情のはいる余地なんて、はじめからなかったんだわ」 「オレたち、あの年の、あの日にいっしょに生まれたときから、双子同然だったんだよ」  「うん」詩織は照れくさそうに笑った。 「あのね、メグに言われちゃった。“詩織ちゃん、お兄さんをとられた妹みたい”だって。メグから見ても、わたしたちって兄妹なのね。でも、そういわれて、わたしわかったの。わたしはいつもひゅう君に甘えていたんだって」 「そんなことないさ。オレのほうがいつも詩織に頼っていた。あのときだって――」 「あのとき?」  ひゅうは口を滑らせかけた自分を必死にとめた。詩織はそんな彼をいぶかしんで凝視してから、不意に声にだして笑った。 「……もう、ひゅう君なんて呼べないね」  今度はひゅうが詩織を見つめる番だった。                4  扉をノックされ、泣きはれた目をこすりながら見晴はそれをあけた。目の前には、早乙女好雄が彼女のカバンを背負って立っていた。  カバンを受け取ると、見晴はつぶやきに近い声で礼を述べ、扉をしめようとした。 「おっと、泣いてる女の子をほっといては、この早乙女好雄の名がすたる。どうだい、相談にのってやるぜ」  無理に笑顔をつくる彼に、見晴は困惑の表情を浮かべた。 「大丈夫だって。オレはいつでも中立の立場で女の子を応援するぜ。さっきは詩織ちゃんのためだったけど、今度は君のためだ。泣いてたって、いいことないぜ」  さきほどの剣幕を露ほども見せず、好雄はウインクした。それで緊張がとけたのか、見晴は口もとをゆるめ、彼を部屋に通した。  奥のリビングに腰をおちつけて、見晴が冷蔵庫からジュースをもってくると、好雄は反射的にメモ帳を広げた。 「さてと、三年J組、館林見晴さん。さっそくだが住所と電話番号、それに趣味と誕生日に家族構成、スリーサイズなんかも――と違った。オレは今回まじめに相談にのりにきたんだった」  好雄はあわててメモ帳をしまう。どこまで本気なのか疑わしいが、見晴の気分は少しやわらいだ。 「……ねぇ、ひゅう君は、ほんとに藤崎さんのこと、好きなのかな?」  見晴は今さら逃げなかった。真正面から彼について尋ねる。 「さぁて、どうかな。その点はオレも知りたいくらいだ。何しろあいつ、恋愛に関してはまったくつかみ所がないからな。……で、見晴ちゃんはあいつが好きだと?」  見晴はうなずいたきり、顔をあげなかった。その態度が無性にかわいらしく、好雄はひゅうの首をしめたい衝動にかられた。 「……もしも、ひゅうのやつが詩織ちゃんを好きだとわかったときは、君はどうすんだ? あきらめるのか?」 「ううん。気持ちだけは、伝えたい。三年間ずっと彼のこと見てたんだもん」  「三年間!?」好雄は口につけたジュースを吹きかけた。 「もしかして、あいつのところに変な留守電をいれてなかったか? ……やっぱり、そうか。しっかし、三年もよく見てるだけなんて……」 「好きな人を見てるのはつらくないよ。ただ、他のコと仲良くしてるのは、イヤだったけど……」 「オレに言ってくれれば、もっと早く力になってやったのに」  好雄は肩をすくめる。だが、それだけの想いがある以上、彼はできる限りのことはしてやりたかった。 「で、どうする? オレがあいつに言ってやろうか?」 「ううん、彼には何も言わないで。わたし、この旅行中だけは、“館林見晴”じゃなく、“見晴”でいたいの。どうなるとしても、せめて今だけは彼と楽しく過ごしたいから」  よく理解できないが、好雄は彼女の心意気にうたれた。 「彼はわたしのこと“見晴”という名前しか知らないの。だから、この部屋や今の話、それに名字も言わないでね」 「……わかった。だけど困ったときはオレにいいな。いつでも力になるぜ」  「うん、ありがとう」見晴は、やっと笑った。                5  ひゅうは好雄が戻ってくると、「どうだった?」とベッドから跳ね起きた。好雄は一瞬本気で首をしめてやろうかとも思ったが、なんとか抑えこんで「大丈夫」といった。  見晴いわく、ひゅうは初恋の人によく似ており、その人といるようで嬉しかった。それが藤崎詩織の話がでて、失恋したときを思い出しショックだった。今はおちついたから、良ければまた会ってほしい。好雄は、そう即興で話をでっち上げた。 「そうか、初恋の人にね……」 「お、なんか残念そうじゃん。もしかして、惚れちゃったのかぁ?」  意地悪く肩に手をまわす好雄を、ひゅうは手加減なくふり払う。さすがにからかいすぎたようで、好雄は軽くあやまると、詩織のほうについて尋ねた。 「ああ、心配かけたな。もういつもどおりだよ」  いつもどおり? それはどういう意味だろうか。好雄の追及に、ひゅうは笑って応じなかった。 「それより、ずいぶん大げさに乗り込んできたよな。おまえ、美樹原さんになんて言われたんだ?」 「詩織ちゃんがおまえについて悩んでるから、つれてきてほしいとだけ。なんだ、オレはてっきりおまえが彼女を悲しませたもんだと思ったんだが……?」  遠からず近からずだが、好雄の相変わらずの暴走ぶりには、ひゅうは頭を抱えたかった。  夕食をとりに、二人はホールにおりた。同じ目的で入り口に群がる生徒の中に、見晴の姿があった。 「あ、あの、さっきはごめんなさい。わたし、その……」  さきの件があとを引いているのか、彼女は恥じらっていた。  そんな見晴の口を、ひゅうはそれ以上開かせなかった。 「夕飯、いっしょにいこうぜ」  輝きを取り戻す彼女に、好雄は安心し、彼の選択を心で褒めた。  ひゅうは、たとえ自分が見晴の初恋相手の代役だとしても、それはかまわないと思う。明るく笑っていれば、そのうち昔をよき思い出とし、新しい恋だって見つけられるだろう。そのときまで、喜んで力をかしてやりたかった。誰だって、独りでは解決できない問題があるのだから。それになにより、見晴といるのは楽しかった。  ひゅうは御飯ものを中心に、はしをのばす。朝と昼と、食事をした気分を味わっていなかったため、好雄なみに食がすすんだ。  見晴はひゅうのすぐ側にいられる幸せに、心が満腹だった。しかし体は正直なもので、空腹を訴える声が響く。まったく情緒がないと自分の胃袋をせめたものの、やはり欲には勝てず、彼と同じものをつまんで心と体を同時に満たした。  皿をおき、二人が和んでいると――好雄は二人の邪魔をするほど不粋ではなかった――詩織と美樹原がやってきた。詩織は見晴に戸惑いの陰をちらつかせたが、すぐにいつもの彼女に戻った。 「ひゅう君、彼女が見晴さんね? はじめまして、藤崎詩織です。よろしくね」  差しだされた手を、見晴はためらいがちに握りかえした。 「あの、こちらこそ、よろしく……」  詩織は憂いなく笑顔を送る。見晴は、正直おどろいた。なぜこんなに自然でいられるのだろうか、と。図書館で彼とわかれた後、彼は彼女のもとへ行ったと早乙女から聞いた。そのとき、二人に揺らぎない信頼でも結ばれたのだろうか? いやきっとそうだ。でなければ二人の落ち着きぶりは納得できなかった。  見晴は、自分の三年間が終わったと、覚悟を決めた。そして最後の思い出づくりのあとは、すべてを洗い流そうと心に誓った。  詩織の手を震えながらはなすと、ひゅうから美樹原が紹介された。見晴はほぼ上の空で自己紹介をしていた。 「ひゅう君、就寝までどうするの?」 「勉強しなきゃな。昼間できなかったから」  詩織とひゅうが会話しているとき、見晴はどうしても一歩ひいてしまう。頼みの早乙女好雄は美樹原と談笑しており、役に立たなかった。 「見晴」  突然ひゅうに呼ばれて、彼女はあわてて顔をあげた。 「ま、呼び捨てなの?」  詩織が頬をふくらませていると、「わたしが頼んだの」と見晴はさらに狼狽した。詩織はあっさり納得して、ひゅうと彼女の会話を妨げるのをやめた。 「これから勉強するんだけど、いっしょにやるかい?」 「勉強?」  見晴はどうしても詩織に目を向けてしまう。 「わたしがいっしょじゃ、だめ?」 「ううん、学年トップの二人が教えてくれるんだもの、光栄なくらい」  大きくかぶりをふる。状況がどうあれ、ひゅうといられるのは嬉しい。 「好雄、おまえは?」 「わりぃな、美樹原さんとホラーハウスに行くことにしたわ」 「おまえ、大学いく気あるのか?」 「かたいこと言うなって」  好雄と美樹原は、三人を残しその場を離れた。見送っていると、入り口あたりで朝日奈に捕まり、問答をはじめた。きっと、いっしょにつれていけとせがまれているのだろう。ほどなく二人から三人になったグループは、ひとごみに消えた。 「それじゃ、わたしたちも行きましょう。場所は……わたしの部屋でいいわよね?」  詩織の提案に、二人は異論をはさまかった。                6  真剣に勉強にうちこむと、時間の経過や三人の関係など問題にはならなかった。それぞれが得意分野をもち、教えあううちに、見晴も自然と笑えるようになっていた。  ひゅうは理系が得意だったし、詩織は現国と英語、見晴は古文と歴史に詳しかった。それぞれが役割を果たすことで、短い時間ながら充実した学習ができて三人とも満足だった。  九時をまわり、美樹原と好雄が姿をみせると、休憩にはいった。詩織が飲み物とお菓子を運んできて、意味もなく乾杯をする。  好雄がムードメーカーになり、見てきたアトラクションを誇大アピールし、朝日奈に振り回されたふがいなさに泣いてみせる。その後、きのうの買い物話にまでさかのぼり、好雄の苦難の道のりにみな笑った。  瞬く間に時が去り、一一時を過ぎるとさすがにひゅうはいとまを告げた。  ひゅうと好雄、見晴が詩織たちの部屋をでると、見晴は心の底からお礼を言い、それから詩織について話しだした。 「藤崎さんて、いい人よね。わたしのこと邪険にしないで……ううん、むしろとても親切にしてくれて、わたし自分が恥ずかしくなっちゃった。うらやましいな、あんなすてきな女性と幼なじみだなんて」  見晴はひゅうから目をそらした。「幼なじみ」にはいる言葉は、本当は「恋人」であったが、彼女には言えない一言だった。  エレベータまで二人を見送り、「おやすみ」を交わして見晴は自分の部屋にむかった。となりは、ついさっきまで五人で過ごした温かな空間。彼女の足は意志を無視してとまり、こみあげる切なさに、胸を抱きしめた。あきらめると決心したはずの心には、まだ捨てきれない想いが克明に残っているのだ。 「もう、ダメなのかなぁ……」  目頭が熱くなるのを、彼女はとめられなかった。    一二月二七日                1  ひゅうが目をさましたのは、まだ夜も明けきらぬ午前五時だった。好雄のいびきに起こされたわけではないが、気に触ったのでまくらで顔をふさぐ。再びベッドに転がってみたが、眠気はとうに過ぎ去っていた。かといってこんな時間に店が開いているわけもなく、ひゅうとしては思案のしどころだった。  そうだ、とひらめいたのは初日に行ったきりの露天風呂だった。  風呂場に干した自分のタオルをとると、浴衣のはだけを直し、廊下へでた。廊下は非常灯のみが点灯しており、その静けさゆえに遠くの自動販売機の作動音がはっきり聞きとれた。スリッパの床をたたく音がやけに反響し、誰か起きてしまうのではないかという懸念さえいだかせる。  廊下の暖房がきられているため、冷気が浴衣を浸透し、体をおおう。ひゅうはあわてて上着とマフラーをとりに戻り、今度こそ露天風呂へと向かった。  風呂の入り口で、音が聞こえた。ひゅうはなんだろうと耳をそばだてる。  リズムがあり、澄んでいた。それは女湯の脱衣所から聞こえた。  若い女性のハミングだった。  こんな朝早くに、自分以外だれが? 疑問に感じていると、戸が開いた。  「あ!」驚いたのは女性のほうだった。見晴と同じくらい長い髪、ひゅうと大差ない身長、詩織と遜色のないスタイルの良さ――浴衣の上からの観察だったがひゅうはそう思った――。眉は切れ長で、少々目がきつめだったが、じゅうぶん以上に美しかった。  しかし、ひゅうは彼女が誰かに似ていると思った。それは彼の人物リストに瞬時に引っかかり、その名を口にした。 「伊集院!?」  彼女は目を見開き、言葉がでない様子だった。だが、硬直は数秒でとけ、彼女は腕をくんで彼を見返した。 「……あなた、レイの友達かしら? わたしは伊集院麗子。レイのいとこよ」  「はあ?」間のぬけた顔と声だったが、ひゅうはこのとき本気で困惑していた。 「こんな朝早くから遊び歩いてるなんて、どういう生活をしているんだ……のかしら。とにかくそこにいては邪魔よ、通れないじゃない」 「ご、ごめん」  ひゅうは呆然としたまま道を譲った。そこを麗子が髪をかきあげながら歩きだす。シャンプーのいい香りがした。 「あ、そうだわ」  麗子が足をとめて振りかえる。 「ねぇ、キミから見て、レイはどんな感じなのかしら?」  これも唐突であった。ひゅうはしばらく考え、言葉をまとめてから彼女に答えた。 「そうですね、根はいいやつだと思います。女の子にももてるし、勉強、スポーツもこなせるし。ただ――」  ひゅうは言葉をきった。  言いづらそうな彼を、麗子は目でうながした。ひゅうのため息がもれる。 「ただ、人を見下す……というか、人への配慮がたりない面がありますね。とくに男に対しては」 「……あなたは、そういうレイをどう思うの?」  麗子は身内を非難され、憤りに体が震えているように見えた。 「別に、なんとも。クラスメイトとしか」 「そう……」  今度は怒りではなく、残念そうに顔が曇った。  沈黙は秒針半周の後、麗子が声帯をふるわすことで幕を閉じた。 「……他人にはわからないでしょうけど、でも、気付いてほしかった……」  さきほどまでの豪胆さはなく、むしろ弱い女性の本質が声にあらわれていた。 「本当はすごく弱いの。外見に見せているほど強くないの。普通の高校生にもなれなかった悔しさや、本当の恋もできない悲しさ。その反発が態度にでてしまうだけ。……今度の旅行だって、卒業してすぐに留学が決まってなければ、みんなを招待できたのに。それに、あなたと……」 「オレ?」  ひゅうが問いかけると、麗子は両手で口をふさいだ。赤面し、あわてて背をむける。 「し、失礼!」  麗子はひゅうの声に耳をふさぎ、走って廊下の奥へ消えた。  取り残されたひゅうは、しかたなしに風呂にはいり、麗子の言葉を整理しはじめた。 “普通の高校生にもなれなかった悔しさや、本当の恋もできない悲しさ”  それは彼が伊集院家という、莫大な財産と強大な権力を有する家の跡取りゆえだろう。 “その反発が態度にでてしまう”  周囲の巨大な重圧へのストレス発散が、あのような形であらわれているのだろうか。 “留学が決まっていなければ、みんなを招待できた”  留学の話はまったく知らなかった。ひゅうは伊集院に詫びと礼を言いたかった。 “それに、あなたと……”  これが一番解せなかった。どう解釈してもここで自分の名がでる理由がない。たぶん、聞きちがいか、言いまちがいなのだろう。  この四つのパズルの解答の中で、ひゅうは二つの決定的なミスをしていた。  伊集院が普通の高校生としていられず、また恋ができないのは、本人に帰する問題だった。また、最後にひゅうの名がでたのも、両者どちらかの勘違いではない。でる必然が、伊集院にはあったのだ。  しかしひゅうはそれに気付く機会を、卒業式以前に手にすることはできなかった。                2  見晴は上機嫌だった。少なくとも表面上はそう見えた。ひゅうと並んで見学できて、ぬぐってもぬぐっても嬉しさが込みあげてくる。  現在一一時、ひゅうと見晴、詩織に美樹原、好雄の五人は水族館にいた。昨日これなかった詩織の願いを聞き入れての行動だ。ほぼ横一列で歩く彼らを邪魔に思うほど見学者はいなかったが、一部男子生徒の視線がひゅうには痛かった。詩織はもちろん、見晴も美樹原も容姿は申し分なく、そんな三人とつれだって歩く男二人に、やっかみのまなざしが向けられるのはごく当然だ。しかし好雄はそんな暗い攻撃よりも、すぐ側の明るい華に舞いあがり、不感症だった。 「ねぇねぇ、かわいいね。熱帯魚、飼ってみたいなぁ」  見晴が目の前の水槽に顔を近づけると、きらびやかな小さな魚の群れがあわてて方向転換し、散開した。  一晩泣いた彼女は、きちんと気持ちの整理をつけていた。この旅行以降はもう彼には近づくまい、と。シンデレラ・ナイトが終わっても、自分はシンデレラにはなれないのだから、と。だから今は笑っていたかった。楽しみたかった。彼の側にいたかった―― 「水の中のアートだな」  好雄が妙な感心をしながら、一同に訴える。  一拍おいて、四人は笑った。「今時、そんなこというやつがいたとは」とひゅうが腹を抱えると、好雄は「いやぁ、ここまでウケるとは」と頭をかいて自分も笑う。しかしそれは照れ隠しのように見えた。  それから五人は泳いでいるシーラカンスを観察し、イルカとペンギンのショーに喝采し、イトマキエイの背で遊び、マグロの一本釣りを経験し、サメの水槽に落ちた好雄を助けたりして水族館を満喫した。  昼と夕方の中間時刻に、最後の水槽に到着した。そこは周囲が熱帯魚の水槽で囲まれた休憩室で、一同は異論なしに棒となった足を休ませ、三つのケーキセットと二つの飲み物で胃に安らぎをあたえた。 「ひゅう君は、魚飼ったことあるの?」  そう訊きながら、見晴はひゅうと同じロシアンティーの香りを満足そうに楽しんでいる。 「昔、金魚がいたくらいだな。……そういえば詩織、夏祭りでとった金魚、どうしてる?」 「うん、元気よ。まだまだ大きくなってるの。もう金魚鉢じゃだめみたい」  詩織のあとをついで、美樹原が遠慮がちに加わった。 「わたしのうちのも元気ですよ。ムクが暇さえあれば覗いてるんです」 「優美がエサをあげすぎてさ、今じゃコイだぜ」  好雄の家でまるまると肥えた魚を、ひゅうは見た記憶があった。あれがあの金魚の成れの果てだったのか、と思うとつい苦笑した。  ひゅうは去年の夏祭りのおりに、金魚すくいをしたのだ。なぜか無意味に好調で、彼は一枚の網で三〇匹以上すくってしまい、詩織と美樹原、それに好雄の妹の優美に三匹ずつ渡していた。残りの二十数匹は、自分では飼う気がなかったし、あげる相手もいなかったのでその場で露店の人に返した。店の主人にいい顔も悪い顔もされなかったのを覚えている。  見晴は黙るしかなかった。“金魚”という共通の思い出がないのだから。静かにケーキを食べて、話題がかわるのを待つ。 「見晴は、何か飼ってるの?」  ひゅうも慣れたためか、「見晴」という呼びかたが自然になっていた。それだけに、見晴は自分に話がふられたことに、反応が鈍かった。 「え!? う、ううん。わたしは何も……。本当は飼ってみたいけど、死んじゃうと、悲しいから……」  気持ちはみながわかった。実にひゅうも、それが辛いがためにペットをもたなくなったのだ。 「じゃ、飼えるとしたら、何がいい?」  好雄の提供に、見晴はしばし考える。 「猫か……、変わったところでコアラ」 「コアラ?」 「だって、かわいいもの」  見晴の笑みに一同がつられる。 「動物園もあったよな? 明日、行こうか」 「残念、コアラはまだいないらしいぜ。ここだって、半分は空だったろ」  実際ここ伊集院レジャーランドの施設全般が、まだ完成をみていない。本格的なオープンは、来年の春を予定していた。  好雄の情報にため息がもれる。が、遊ぶ場所には困らないのがここの売りなので、さほどショックが大きいわけではない。  五つのカップと三つの皿が主人をなくすと、五人は回復した足を頼ってホテルへと帰った。これから午後の勉強がはじまる。ただしすでに就職内定者の美樹原だけは、詩織にも内緒でどこかへいってしまった。詩織をはじめ、みな首をかしげたが、誰ひとり正解にたどり着いたものはいなかった。答えは翌日、大きな事件が終結してから判明した。                3  突然の吹雪だった。彼らがホテルにつくと同時に、それはやってきた。といっても、水族館や歓楽街はアーケードでつながっているため、実被害はまったくなかったのだが。ただしスキーをしていた者だけが、山の気まぐれに辟易しながらホテルに逃げ込んでいた。  そんな彼らを横目で見ながら、一同は勉強道具をかかえ、臨時教室となる詩織と美樹原の部屋へ向かった。  ひゅうと詩織はかわりなく、見晴は気分よく、好雄は半死状態で勉強に望もうとしていた。数々の調度品と高価な家具に囲まれた空間にたいして、大理石の机にのせられた参考書は、インテリアにはまったく不向きだった。  その非インテリアを手にしたとたん、好雄は絶叫をあげてもんどりうつ。  驚く詩織と見晴に、ひゅうがかまわないよう注意すると、好雄はむなしさと恥ずかしさのブレンドを飲んだ顔で冗談がすぎたと詫びた。  ひゅうと詩織は同じ大学を目指していた。かなりレベルの高いところだったが、二人とも安全圏は確保している。好雄は二人とは別の大学であったが、合格ラインとしてはすれすれだった。見晴はひゅうと同じ大学を志望していたが、彼らにはやはり黙っていた。合格確率といえば、さして問題はなかった。  さていよいよ好雄もまじめにとりくもうとした矢先、美樹原がらしくないドアの開けかたをして飛び込んできた。  息を乱す美樹原がやっと伝えた内容は、さきほどの好雄の発狂をはるかにしのぐ驚愕を四人にあたえた。  “伊集院行方不明”  それが彼女の持ってきた「大変なこと」であった。  詳しい事情を求めると、美樹原自身ことの大きさに動転してか、内容が絡まり要領をえない。それをなんとか理解し、順序だててまとめると、次のようになる。  伊集院の付き人の証言によると、今朝から伊集院の様子がおかしかったらしい。思案にくれたり、独り言が多かったり、落ち着きがなかった。  昼をすぎ、ため息の数が三〇〇を越えたころ、彼はこのホテルを離れると言いだした。とうぜん周囲はとめたが、彼はきかなかったようだ。  伊集院はほぼ完成している別館二号――伊集院ゴールデンバウムホテル――に、スノーモービルを駆り単独で向かった。そこにも彼専用のペントハウスが用意されていたためと思われる。  そして吹雪が起き、連絡が途絶えた。  ひゅうたちは困惑と心配に挟まれながら、臨時対策本部にその後の状況を尋ねた。返ってきた答えを一言にまとめれば、「うつ手なし」もしくは「最悪」である。ともかく吹雪がひどいため、うかつに救援隊を派遣できない有り様なのだ。伊集院がつね日ごろ自慢していた特殊部隊も、ヘリが飛べず、到着にどれほどの時間が費やされるかわかったものではない。 「そういえば、いとこの麗子さんはどうしたんです? 姿が見えませんが……」  「いとこ?」ひゅうの質問に、伊集院の使用人全員がざわついた。若い対策本部長をつとめる男が彼らを制し、ひゅうにうやうやしく頭を下げた。 「麗子様は午前中にここを発たれました。この件については、何も御存じないのです」  ひゅうは納得せざるをえなかった。  二時間後、吹雪の勢いが弱まると、対策本部は救援隊の派遣を決定した。  救援隊は全部で一八人おり、うち一人がひゅうだ。彼は自ら志願して――頼みこんで――メンバーに加わった。すでに防寒具で体をかため、非常食や毛布などを詰めこんだリュックを背負っている。 「どうしておまえ、助けに行く気になんてなったんだ?」 「いちおうクラスメイトだしな。それに、オレはあいつをずいぶん誤解していたんだ。だからだよ」  さらに問いかけようとした好雄は、出発のうながしに「がんばれよ」と言いかえて彼を見送った。  心配する詩織たちに手をふり、ひゅうは外へと踏み出した。  視界が雪にさえぎられ、何度も転びかけた。  呼吸がしにくく、息もあがる。  指先はグローブをつけてさえ冷えはじめ、ときおり襲う突風に体が流される。  それでも吹雪はだいぶ和らいでいるため、ひゅうの体力でもなんとか救援隊の足をひっぱらずにすんでいた。  伊集院のスノーモービルが発見されたのは、出発して二時間後だった。彼の姿はなく、足跡などもすでに消えていた。しかたなしに三人ずつ六班に別れ、周囲の探索が行なわれた。六班目のひゅうは、二人の救護員に付いて雑木林へ入った。  と、かすかに声が聞こえたような気がした。ひゅうが単独でそちらに足を差し出した瞬間、足元の雪が消えた。いや、消えたのではなく、下に落ちたのである。声をあげる間もなく、ひゅうもまたそのあとを追った。  岩の感触があった。風の狂った声が聞こえた。口の中に泥と雪の味が混じっていた。氷のにおいがした。しかし、目には何も映らなかった。  亀裂かなにかに落ちたのは、記憶にあった。ただどのように落ちたかは思い出せなかった。意識がはっきりしたとき、すでにこの暗闇に倒れていた。  幸い、リュックは背中にあった。ひゅうは落ち着きをとりもどすと、手探りでライトを出し、スイッチを入れた。  周りは岩だらけだった。意外に広く、立って歩けそうだ。すりきず以外のケガもなく、また風がかなり遮断されているため、ひと安心といえる。天井を照らすと、一〇メートルほど上方に落ちてきたと思われる亀裂が見えた。背後の壁にそって割れており、登ってみようとも考えたが足場がなかった。 「誰か……いるのか……?」  弱々しい声が、岩陰から聞こえた。ひゅうは驚きながらライトを向ける。 「伊集院!」  一〇歩の距離を駆けより、弱りきった彼に声をかける。伊集院は微笑とも冷笑ともとれる表情で「キミか……」とつぶやいた。  ひゅうはリュックをおろし、毛布で伊集院をくるむ。彼にケガがないのを確認すると、固形燃料に火をおこし、魔法ビンに残った熱いお湯と非常食をわたした。  その処理の迅速さと発見された安心感に、伊集院はらしさを取り戻した。 「フ……、庶民に助けられるとは……な」 「それだけ言えれば大丈夫だな」  ひゅうが無線をひっぱりだしながら笑ってみせる。  が、その顔は崩れた。無線が通じないのである。非常回線を使っても、ノイズの他は何も聞こえなかった。  助けが呼べない以上、二人にできるのは待つことだけだった。 「寒くないか?」 「それはキミのほうだろう。防寒具だけで、大丈夫なのか?」  ひゅうは伊集院を見返した。ぼうっと自分を見つめる彼に、伊集院は照れくさそうな顔をする。 「な、何を見ているのだ。気持ちの悪い」 「……いや、このごろ、おまえを見直す機会が多くてさ。そうだ、おまえのいとこの麗子さんにあったんだ。そっくりだな、彼女とおまえ」  「そ、そうか?」伊集院は視線をそらせた。 「聞いたよ、卒業後すぐに留学だってな。それでこんな時期に旅行を決めたんだって。……悪かったな、勝手なことを言ってさ」 「キミにあやまられる筋はない」  彼は素っけなかった。 「素直じゃないな。その点をなおせば、いい奴なんだけどな」  ひゅうが冗談半分で笑うと、伊集院は真剣なまなざしで彼をにらんだ。 「キミに何がわかる。ボクだって好きでこうなったわけではない。誰もがボクを特別の目で見、期待する。それに応えれば、勝手に女の子が騒ぎ、男たちが嫉妬する。……馬鹿らしい。さめもするさ」  感情をむき出しにし、たまっていた重荷を吐きだす伊集院に、ひゅうは目を見張った。特に女性に対して不平を述べたのは、意外であった。 「だ、だけど、もてるのはいやでもないだろ?」 「彼女たちがボクの何を知っているというんだ。……何もわかってない。ボクの見える部分だけで、彼女たちは騒いでいる。世間のアイドルと同じなんだよ」 「それは言いすぎじゃないか?」  ひゅうも顔を曇らせながら抗弁する。しかし伊集院は引かず、今度はさみしそうに語った。ボクが金持ちでなく、頭も悪く、運動もできず、不細工だったら、誰がボクを見てくれるだろう。外に映るボク以外を、誰が認めてくれるだろう。 「キミだって、同じだろ?」 「仮定を問題にされてもなぁ。……だけど、おまえがいい奴だってわかれば、友達になっていただろうな。今だって……おまえが否定したもの全部もっている今だって、オレはおまえの内面を認めているつもりだ。でなけりゃ、助けになんかくるもんか」 「ひゅう君……」  伊集院の顔が赤らむ。しかしひゅうは自分の言葉がはずかしく、横を向いていたために、彼のそんな表情には気付かなかった。 「とにかくさ、好意を持ってくれてる人まで無下にする必要はないんじゃないか。おまえに惹かれる点があるから、女の子だって騒ぐんだし。それでいいと思うぜ」 「……まぁ、そうだな」  差しだされたクラッカーをつまみながら、伊集院はうなずいた。  しばしクラッカーをかじる音だけが岩のホールにこだまし、次の会話が起こるまでにコーヒーも四杯ぶんが消費された。 「そういえば、キミとはじめて話した日を覚えてるか? あのときも、キミに助けられたな」  伊集院が妙なところから話題を持ち出した。  ひゅうは一言返し、回想した。  あれは入学して間もなくのころだった。伊集院が数人の男子生徒に囲まれているのを、通りかかったひゅうが発見した。どうやら伊集院がもてるのが気に入らないという理由で、ケンカを売られたらしい。  ひゅうはクラスメイトのピンチに、割ってはいった。 「あのとき、キミがあいつらに言ったセリフ、今でも覚えてる。あれは傑作だった」 「そのかわり、矛先が完全にオレに変わったがな」  伊集院はほくそ笑み、ひゅうは苦笑した。 “そんなくだらないことしてるから、もてないんだよ”  ひゅうは多数を前に、心底呆れ顔で言い放ったのだ。 「あのあと、すぐにおまえのボディガードがこなかったらオレはどうなってたか」  いま考えると、ずいぶん大胆な発言だったと冷や汗が出る。 「そのときの礼も言ってなかった」 「なんだ、今さら……。それにオレじゃなくても、誰だって助けたさ」 「そうか」  伊集院は言うべき「ありがとう」を飲み込んだ。しかし、心のなかではずっと感謝していたのだ。彼は「誰でも助けた」と簡単に言うが、ひゅうの前にその現場を通りかかった男が四人もいたのだ。だが一人として手を差し伸べてはくれなかった。なかには嗤っていた者すらいた。もしひゅうがいなかったら、伊集院は真に人間を嫌っていたかも知れない。それ以来、伊集院は彼だけは別格に見るようになっていた。 「ところで、おまえどうして急にホテルを出たんだ?」  なごんでいて忘れかけた状況の理由を、ひゅうは問いただした。  再び伊集院の感情が乱れる。まさかひゅうが原因だとはいえなかった。彼が“伊集院麗子”なる人物にあい、“伊集院麗子”と話をし、“伊集院麗子”の心根をみたことに、逃げ出したなどと説明できるわけがない。  気分転換だと、伊集院は狼狽を隠せぬまま、ひゅうに訴えた。無論ひゅうは伊集院の態度にウソを看破していた。が、あえて踏み込まず、口にだしたのは別の言葉だった。 「まぁ、何にしても無事だったんだ。良かったよ」  伊集院は小さくうなずいた。                4  朝日が亀裂からもれた。雪と氷に反射して、光が伊集院のまぶたを照らす。まぶしさに目覚め、自分の状況を確認すると、伊集院は寝袋から出て強張った体をほぐした。  ひゅうはそのとなりでまだ眠っている。そばの携帯コンロの火は消えており、空になった固形燃料のケースがいくつも転がっていた。  あれから二人は話を続けた。三年間の学校生活からそれ以前の思い出話まで、同じ目線で対等の友人として、華を咲かせていたのだった。伊集院にとっては初めての経験だった。それだけに夢だったような気さえした。しかし現実に語らった者がかたわらにおり、心にも刻みこまれている。  ひゅうが目をこすると、伊集院はあわてて一歩ひいた。上体を起こし大きなあくびをする彼に対し、急に照れくささがわいてくる。  彼が完全に覚醒し、残った非常食をたいらげると、また二人は待つことしかできなくなった。壁を登ってもみたが、やはり危険で断念せざるを得なかったのだ。しかたなく寝袋をクッションにして腰を落ち着ける。  退屈を紛らすためにできるのは、ただ会話のみだった。 「キミは、好きな女性はいるのか?」  伊集院の質問の唐突さは、かなりのものだった。ひゅうもさすがに言葉につまり、やっと出た返事も「何だ、突然」という想像力もかき立てないものだった。 「き、聞いてみただけだ。そういえば、キミには藤崎君がいたな。忘れていたよ。ハ、ハハハハ……」  「おまえ、ヘンだぞ」ひゅうが濁った顔をする。 「それとな、詩織とは単なる幼なじみだ。勘違いするな」 「本当?」  伊集院の目が輝いた。ひゅうは鳥肌がたち、後退する。と、彼の脳裏にひらめくものがあった。まさか、と衝撃が走る。 「伊集院、おまえ……まさか、好き……なのか……?」  今度は伊集院に稲妻が駆けめぐる。心臓が思い出したように活性化し、耳まで紅に染まるのが感じられた。  言ってしまおうか、と伊集院は思った。あの日助けられて以来秘めていた想いを。隠しておかねばならない伊集院家のしきたりを。そして“伊集院麗子”という架空の人物の正体を。  ひゅうはその伊集院の様子に、ますます信憑性をいだいた。生つばを飲みこみ、決死の覚悟でふたたび重い唇を動かす。 「好き……何だな?」  伊集院は否定も肯定もしなかった。ただひゅうの言葉を待っていた。 「そうか、知らなかった。おまえが……詩織を好きだったなんて」  伊集院は顔面から岩肌につっぷした。しかし、考えてみればそうだ。ひゅうは自分を男としてみているわけで、ひゅうと藤崎詩織の関係を尋ねて安堵すれば、彼女に好意をもっていると誤解されるのが当然だった。 「違う! そうじゃなくて……」  否定し、真実をあかそうとしたとき、亀裂から太陽光ではない人工のまぶしさが二人を襲った。 「いました。レイ様とその友人を発見しました!」  二人は手で光をおさえながら、亀裂を見上げた。 「……どうやら助かったな」 「い、言っておくが、ボクは藤崎君には興味がない。ただ、キミに聞きたかったんだ。人を好きになる気持ちをな。も、もちろん庶民の意見としてだ。勘違いしないでもらいたい」  ひゅうは彼の不遇な面を知っているだけに、うなずくことができた。まさかそれが、単なる言い逃れだとは疑いもしなかった。  二人は救出されると、病院へ運ばれた。