序  ここ、私立きらめき高校には一つの伝説があった。  卒業の日、「伝説の樹」の下で女の子から告白されて結ばれたカップルは、永遠に幸せになれる――  それは単なるうわさなのかも知れない。けれど多くの生徒はそれを信じたいと思っている。その信じる想いは、勇気をだそうとする生徒たちに、きっと力を与えてくれるだろう。  そしてここにも、伝説を信じ、小さな勇気をふりしぼろうする女の子が、一人――  「あ、ごめんなさい」  振り向き、彼女はさほど強い意志を込めずにそうあやまった。濃いめの青いセーラー服の胸の上で、大きな黄色のスカーフが揺れる。綺麗というより、かわいいといった顔立ちには、心なしか嬉しさがのぞいていた。謝罪された相手の男子生徒は、右腕に残る感触を左手で確かめながら、彼女に向きかえる。廊下でのすれ違いざま、彼女の肩と彼の腕がぶつかったのである。彼女は急いでいるようで、早足で彼のわきを抜けようとしていたのだが、目測を誤ったのか、結果的に彼女が彼にぶつかる結果となった。  彼は「またか」とため息をついたが、表情は不快ではなかった。むしろ笑みさえ浮かべて、変わった髪型の女生徒をみかえした。  何度みてもヘンだ。  彼はそう思った。彼女は長い髪を二つにわけて、ねじるようにまとめ、それぞれ大きな輪をつくってとめている。まるで何かの動物の耳のように見えるそれは、やはりあからさまにおかしかった。だが反面、一度みたら忘れられない。ともかく彼女とぶつかったのが五回目であるのを、彼は覚えていたのだから。 「いいよ、もう、あきらめてるから。好きなだけぶつかってくれ」  彼は、七割の呆れと二割の冗談、そして一割のなげやりをその言葉に込めた。 「それじゃ、今度から遠慮なくぶつかるね」  反省のみえない明るい声が彼女からかえってくると、彼は苦笑した。わざとぶつかってきたと、彼女は認めたのだ。今までうすうす感じていたのだが、その理由が知れなかったため、偶然だろうと考えていた。それが、やはり故意によるものだと判明し、疑問のとけた爽快さと彼女の開き直りかたに、つい口もとが緩んだ。「無理にぶつかるなよ」そう言いたくもなる。  「それじゃ」彼女は、うれしそうに階段のほうへと消えていった。  彼はその背中を見送り、「名前、また訊きそこねたな」と、笑みを含んだため息をもらした。  その彼女は、階段も登らず、彼から死角になる壁に背を預けて大きく深呼吸をしていた。高なる鼓動をおさえ、少しほてった顔に手をあてる。 (少しだけど、話ができた……)  単純に、それだけで嬉しかった。高校の入学試験のときから今までずっと想い続けた人が、ほんのつかの間でも自分だけをみてくれた喜びは、彼女にとって何物にもかえがたい幸福であった。普通に声をかけることも、手紙をだす勇気もない自分が情けなく、悲しかったが、今だけは自分を褒めてあげたい気分だった。 (わたしのこと、少しは気にしてくれているかな……? 卒業までもう時間もないし、がんばって名前ぐらい……)  不意に女の子の声が、壁の向こうから聞こえた。 「ひゅう君!」  前向きになりかけた彼女の気持ちは、彼の名前――あだ名――をよぶ相手を知って霧散した。それは彼女にとって最大の障壁となる、彼に最も近い女性のものだった。彼の幼なじみにして、このきらめき高校のアイドルといわれる、「藤崎詩織」。アイドルとうたわれるだけあって、容姿はもちろん、成績もよく、スポーツも人並み以上にこなし、人に好かれる輝きも持っていた。悔しいが、「藤崎詩織」にはかなわないと彼女は思っている。けれど、だからといって彼への想いを断ち切ることもできなかった。彼女にできるのは、ただ彼を遠くから見ているだけ。そして、今も壁の陰から彼と、あの藤崎詩織の会話を見つめることしかできないのである。  「なにか用?」彼は教室から出てきた幼なじみに、ぶっきらぼうに訊いた。この学校で、藤崎詩織にこんな対応ができる男子生徒は、彼だけだった。他の男たちは一歩はなれて接するか、浮かれているかのどちらかで、詩織自身、それを感じとり、少々窮屈に思うときがあった。それゆえ一番話しやすい彼に近づきがちになるのは、仕方のないことだろう。 「ねぇ、聞いた? 今度の冬休み、伊集院君が同級生全員を旅行に招待してくれるんですって」 「ああ、三年間過ごしたよしみで特別に招待してあげよう、とか言ってたな。まぁ、ことわる理由もないし、オレは行くつもり。詩織は、どうする?」 「う…ん……。行きたいけど、休みが終わるとすぐ大学入試でしょう? 遊んでていいのかなぁ、て思うと……」  「そうだなぁ」彼も首をかしげて考え込む。だが、それも長い時間ではなかった。 「……やっぱり、オレは行くよ。好雄も行くらしいし、勉強は――夜やればいいさ。それに、高校生活最後の思い出になるしね」  彼が笑みを浮かべて詩織を見返すと、彼女も呆れながらも笑顔になった。 「もう、調子いいこと言って。本当はただ遊びたいだけなんでしょ? ……でも、そうね。私もメグがいくって言うし、少しぐらい羽をのばそうかしら」  「そうそう」彼がこたえると、二人は自然と笑っていた。  そのなごやかな雰囲気に胸が苦しくなって、壁に隠れてみていた女の子はその場から走って離れた。そして誰もいない放課後の自分の教室で、荒れた息をととのえる。 「彼もあの旅行に行くんだ……。なら、わたしも行って、せめていっしょの写真くらい撮りたいな。修学旅行のときも、後ろから見てるだけだったし……」  むなしかったあのときを、また繰り返すのだけは嫌だった。これはチャンスなんだ、と彼女は自分に言いきかせる。 「そして……、わたしの名前、覚えてもらうんだ……。館林見晴って……」  彼女のささやかな願いであった。    一二月二四日                1  一二月二四日は今年最後の登校日、つまりは終業式である。それを終えると、三年生は大きく二つのグループにわかれた。一つは大学受験に向けラストスパートをかける者、もう一つは伊集院レイが主催する旅行に向かう者である。  きらめき高校はどちらかといえば進学校だ。ゆえに受験をひかえた生徒の大半は、この時期に旅行にいく気分になれはしない。中には「伊集院最大の嫌味」ともらす男子生徒もいる。だがそれでも受験という重圧から逃げたい者や、余裕の人、就職内定組などで、旅行グループに属するのは二百数十名にのぼっていた。  学校がひけ、一時帰宅した後、旅行グループは再び学校の体育館に集まった。全員が大きな荷物を抱え、これからの出来事に期待と不安を取り混ぜてざわめいている。  舞台によりかかりながら、二人の男子生徒が話をしていた。やはり普段より数倍は明るい声と表情だった。 「みんなオレと同じで、大学をあきらめやがったな」  あたりを見渡し、進学組の仲間を多く発見すると、早乙女好雄は勝ち誇ったように笑った。 「おまえと違って、みんな余裕なんだよ」 「おまえなぁ、安心感を与えてやろうしているこのオレの温かい気持ちに、すこしは感謝するとかな――」 「おまえが欲しいんだろ、その安心感とやらは」  ひゅうが余裕の笑みを親友の前につきつけると、好雄は言葉につまった。 「……チッ、ちょっと成績がいいからって、人を見下しやがって」  「すねるなよ」ひゅうは苦笑しつつ、彼をなだめる。  早乙女好雄は、彼にとって入学して初めにできた友人だった。同じクラスで、席が隣どうしだったのが付き合いのはじまりだ。女の子の情報収集を趣味にしているのか、学校中の女子生徒のデータをかき集め、常に新しいニュースをメモ帳に書きこんでいる。本当は誰か一人でも付き合う人がいればいいのだが、あいにく今まで友人以上になった女の子はいなかった。見てくれも、性格も悪いわけでもなく、いい人であるのは間違いないのだが、それゆえに友人で終わる。彼はそんなタイプの人間だった。  対してひゅうも、成績がいいという以外、これといって特徴はなかった。運動は人並み、ルックスも観る人によって多少いいかという程度、何か一つにうち込むタイプでもなく、広く浅い趣味だけが転がっている。特別に目立つ点といえば、学園のアイドル「藤崎詩織」の幼なじみという点と、本名くらいであった。  本名も、別段変わっているわけではない。発音しにくいとか、文字数が長いとか、そういうのでもない。だが、自己紹介の後、詩織が彼をあだ名――ひゅう――で呼んで以来、彼を知るものは担任の先生を含めて皆「ひゅう」と呼ぶようになった。しかし彼は、そのあだ名が嫌いだった。つけられたいきさつに問題があるのだが、たぶん長年呼び続けている詩織でさえ覚えてはいないだろう。それだけが救いだと、ひゅうは思っている。 「いいよな、おまえは。勉強はできるし、詩織ちゃんとは幼なじみだしよ。なんでこう不公平なのかねぇ。誰かから恨みでもかわねぇかなぁ」  「おまえな――」反論しかけて、ひゅうは不意に考えこんだ。 「……そういえば、きのうまた変な留守電メッセージが入ってたな。“明日からの旅行楽しみだね。いっしょに遊びにいこうね”とか言ってたな。ときどきあるんだけど、あれって、もしかしていやがせなのか?」 「バーカ、それっていつものなんとかって女の子からだろ? 単なる間違いだよ、マ・チ・ガ・イ!」  「そうだよな……」ひゅう自身そう考えているのだが、頻繁にかかってくるためにどうもそれだけとは思えないのだ。それに“たてばやし”と名のる女の子がどんな娘なのか、このところ無性に気になっていた。好雄に訊いてさえわからないというのは、彼の趣味にひっかからないのか、それとも偽名なのか、その一点だけでも興味深かった。  その疑問に、いくつかの仮説を頭の中にたてていると、ほのかな香りが鼻をかすめた。かぎなれた、詩織の匂いだった。 「ここにいたの? 捜しちゃった」  旅行用の大きめのカバンを転がしながら、彼女は声をかけた。そのとなりには、彼女の中学時代からの親友である「美樹原愛」が、荷物に苦戦しながらついていた。 「オレが持つよ、美樹原さん」  好雄は目ざとく彼女に近づき、強引ながらそのトランクを受け取った。こういう点で、ひゅうは好雄にはかなわないと思う。とてもさりげなくは見えないが、親切心が先にたって行動しているのは疑いなく、その点だけは尊敬に値するだろう。 「あ、ありがとうございます、早乙女君……」  極度のあがり症で、異性と話すのが苦手な彼女は、いつも気恥ずかしそうにこたえる。そんな彼女に、好雄はにこやかに言う。 「いいって、いいって! 美樹原さんのためなら、この早乙女好雄、何だってやるぜ」  キザにもなれない、真剣みもない、調子のいい好雄の言葉。だがそれだけに親しみはあった。美樹原でさえ、口もとがほころんでいるのが、その証拠だ。  「詩織、持とうか?」好雄の行動力に今さらながら感心しながら、ひゅうは彼女に手をのばした。 「うん、お願い。ありがとう」  詩織は彼が好雄ほど強引になれないのを知っていたし、彼がいやいや自分の荷物を預かってくれるのではないのもわかっていた。だから少し出遅れた申し出でも、彼女はためらわずその言葉を受けとれた。  彼が詩織のカバンを手にしたとき、背後から聞き覚えのある声が「やぁ、諸君」という言葉を発した。  伊集院レイ。この学校の理事長の孫で、伊集院財閥の跡取りだ。スラリとした肢体に、洗練された顔つき。成績も優秀な部類――ただ理系は少し苦手のようだが――に入り、スポーツもかなりこなせる。キザで男子生徒を軽視する言動をのぞけば、女子生徒にもてるのも納得できる。だが、ただ反面、彼は男子の友人がほとんどいない。唯一、なぜかひゅうにだけは、馬鹿にしつつもちょっかいをかけていた。当人に言わせると「庶民の見本である彼を観察するのが面白い」のだそうだが。いっぽう観察標本であるひゅうは、いいかげん慣れてしまったため、敵意をむきだしたりもせず、友人の少ない「さみしい奴」に対する同情をこめて相手をしていた。 「ボクと同級生になれたことに感謝したまえ。こんなすばらしい機会に巡り合えたのだから」  伊集院の高らかな笑い声が体育館にこだまする。好雄は疲れた顔でため息をつき、ひゅうも肩をすくめずにはいられない。 「しっかし、旅行はいいとしてよ、何もこの時期にしなくてもいいんじゃないか? 受験の後のほうが、みんな感謝したぜ」 「なぜ、ボクが庶民の事情を考慮しなければならないんだ? 立案・出資はこのボクだ。文句を言われるスジはない」  「まぁ、そうだけどよ……」理論的に納得できても、感情的にはすっきりしない表情で、好雄はこたえる。 「ところで、目的地はどこなの、伊集院君?」  詩織が首をかしげながらスポンサーに尋ねた。ひゅうをはじめ、みな身を乗り出すように伊集院につめよる。  伊集院レジャーランド。彼は宣言するようにこたえた。温泉ホテルを中心としたレジャー施設で、スキー場、遊園地、映画館にスポーツセンター、その他娯楽施設を最高水準にまで高めた場所であるという。  「ケッ、しょせん金持ちの道楽か」好雄が口を尖らせる。  「フッ、しょせん貧乏人のひがみか」伊集院が好雄をせせら笑う。  悔しがる好雄をしり目に、伊集院が出発をうながす。一同は校庭に着陸した「伊集院家・特別大型旅客VTOL機」へ乗りこみ、空へと舞いあがった。                2  機内の旅を二時間弱楽しみ、さらに車で一時間ばかり山中を進むと、目の前にホテルが見えた。夕刻を過ぎ、ライトアップされた二〇階建てのホテルは、部屋数のわりに敷地が広く思えた。たぶん一部屋当たりの面積が大きいのだろう。となりにはドーム場の建物があり、スポーツセンターらしく、スポーツをする人をディフォルメした看板がかかっていた。反対側にはショッピングセンターと書かれたネオンや、映画の釣り看板が下がっているアーケードが見える。ホテルの裏手にはもう一つドームがあり、そこは動物園や水族館を含む総合アミューズメントパークになっていると、パンフレットに記載されていた。  ホテルの地下駐車場で一同はおろされ、ボーイからそれぞれの部屋のキーを受けとる。ひゅうはやはりというか好雄と同室の二二二号室、詩織と美樹原は二〇二二号室であった。ホテルの案合図によると、一〇階まではシングル、ツインともエコノミー型で、それ以上はすべて最低でもスイートの部屋ばかりだった。 「なんで女子だけスイートなんだよ?」  好雄のもっとな意見に、男たちは同調する。 「当然だろう。物置でないだけ、感謝してもらいたいくらいだ」  伊集院の回答は予想どおり素っけない。まだ何か言おうとする男子学生にかまわず、七時からクリスマスパーティーを行なう旨を告げ、彼は使用人をつれて自分専用のペントハウスへと去っていった。  伊集院が消えたため、怒りのはけ口を失った男たちはあきらめ顔で、女性陣ははしゃぎながらそれぞれの部屋へ散った。 「わたしと相部屋になる人は……」  見晴は渡された鍵の番号を確認し、あたりに同じ部屋番号の人がいないか捜してみた。が、どうしても発見できず、ボーイに尋ねてみた。  二〇歳そこそこの長身で柔和な表情をした青年は、手にしたファイルを広げ、彼女の相手を検索しだした。はたして彼女は、二〇二三号室を一人で使ってよいと教えられた。相手は病気で欠席したとのことである。  「独り」というのは、あまり嬉しくなかった。こういうときこそ楽しさをわけあえる人が欲しかった。寝るまでのおしゃべりや、食事にゲーム、そういった旅行の醍醐味の半分を、もうすでに失ったような気さえする。 (でも、いいかな。どうせ彼のあとについてまわるんだし……)  そうなれば、相手との協調性を欠くことはわかりきっている。ならば独りのほうが自由に動けるというものだ。  見晴はとりあえず、自分の部屋をめざした。                3  相変わらず、伊集院の主催するクリスマスパーティーは豪華絢爛であった。場所を本邸からこのホテルへと移しただけで、会場の広さといい、装飾の過剰な華麗さといい、巨大なツリーといい、料理の質と量といい、高校生だけのパーティーのレベルでは到底ない。きらめくクリスタルのシャンデリアは光の結晶で会場を照らし、静かに流れるクラシックの生演奏はコンサートをしのぐ規模と感動を与え、見たことのない温かな料理は食指を動かす。もしこれが立食パーティーでなければ、ほとんどの人間が従来の食欲をみたさず緊張に固まっていただろう。それほど場違いさを感じさせる雰囲気を、会場に踏みいれた瞬間に誰もがいだいていた。 「さぁ、一生に一度の贅沢を、存分に味わってくれたまえ」  伊集院のあいさつを引き金に、緊張感を吹き飛ばすものが相次いだ。もし狙ってやっているなら、彼は人心を心得た人物といえるのだが、あいにく単なる皮肉を述べているにすぎない。それでも効果のほどはてきめんで、詩織などにはたまらない生演奏も、単なるBGMに成り下がるほど、会場はにぎやかさにつつまれていた。  「うまい、うまいなぁ!」好雄は自分の受け皿にとるのも一瞬、自分の口に料理を運んでいた。その勢いはたいしたもので、新しい料理を見つけては必ずチェックしている。ひゅうもそれなりに普段食べ慣れぬものを満喫していたが、さすがに好雄ほど胃袋が丈夫でも大きくもなかった。今はウェイトレスが渡してくれた炭酸ジュースを、口につけては休み、詩織と美樹原を相手に雑談していた。 「それじゃ、明日はスキーで決定ね? ……あれ、でも、ひゅう君がスキーしてるの、見たことないわ」  詩織が首をかしげる。幼なじみの記憶に、スキーをしている姿はきざまれてはいなかったのだ。 「普通に滑るくらいならなんとか……」  バツが悪そうに、彼は頭をかいた。実際スキーは数えるほどしか経験がなく、シーズンのたびに滑りにいく詩織とは技術の差が大きい。 「わ、わたしも、スキーは全然だめなの」  美樹原が気まずそうに告白する。そういえば親友のスキーについての思い出も、詩織にはなかった。 「早乙女君は?」  詩織に尋ねられ、好雄ははしをとめて自慢げにかたった。 「スキーは得意だぜ。毎年、優美にせがまれて来ていたからな。直滑降ならオレにまかせろ」  胸をたたきむせ返る彼に、「優美ちゃんに蹴落とされてるだけだろ」とひゅうがつっこむと、好雄は「何で知ってんだ?」と驚きの表情をみせた。 「それじゃ、明日はみんなで練習しましょう。みんなで滑らないと、おもしろくないものね」  詩織の提案に、一同がうなずく。好雄は話がまとまったとみて、また料理と格闘をはじめた。  それからしばらくして、詩織と美樹原は他の友人のもとへ談話の芽をのばすため、彼らから離れた。好雄が相変わらずなので、ひゅうは一人取り残される形となり、たいくつなので話し相手でも見つけようと視線を巡らせた。  「よお!」その背中が、勢いよく叩かれた。  よく知っている声だったので、ひゅうは驚くことなく振りかえる。 「横山、おまえも来てたのか」 「当然」  横山はひゅうと同じクラブに所属している、親しい友人だ。身長はひゅうとさほどかわらないが、線は細く、顔立ちもほとんどの女生徒がひゅうよりよいと判断するだろう。さっぱりとした明るい性格のわりにまめな一面も持ち、それをほどよくブレンドしているため、部内でも人気と信頼のある生徒だった。  とりとめのない会話をいくつか交わし、時間にして二〇分ほどすぎたとき、横山は不意につぶやいた。 「ひゅう、オレさ――」  ひゅうはその続きを待ったが、彼は言葉を消した。  「どうした?」沈黙にたえられなくなったひゅうがうながしたが、横山は答えず、あわてて「また、今度話すな」と彼のもとを離れていった。  らしくない彼に疑問をもったが、ひゅうは深く立ち入るつもりはなかった。話したいときに話してくれればいい、そう思う。それでもいつも陽気で快活な彼が、あんな姿を見せたのには驚きが隠せなかったが。  横山を見送ると、ひゅうは好雄のもとに近づいた。彼はまだ食事を続けており、終わる気配さえなかった。  ため息をつき、また誰かを捜そうと思ったとき、人ごみのすき間を細く貫いて、窓際にいる一人の女の子と視線が交差した。はっきりと認識できないが、その髪型ですぐにあの娘だとわかる。廊下でぶつかった、あの動物頭の女の子だ。  見晴は、彼の視線にぶつかり、心臓が波打つのを感じた。彼女はずっと、彼を目で追い続けていたのだ。どんな豪華な装飾や音楽や料理より、彼を見つめているほうが心みたされる。そんな至福を味わっているとき、ひゅうの目がこちらに向いたのである。  どうしよう? 彼女は迷った。これをきっかけに話しかければ、きっと今より事態は進展するだろう。だが、その勇気が突然のチャンスに負けていた。考えても考えても、答えは形にならない。ただ視線もそらせず、じっと彼を見返すのみであった。 「好雄、あの娘、知ってるか?」  「ああん?」好雄ははしをくわえたまま、面倒くさそうにひゅうの指差すさきを目で追う。が、ひゅうたちの前を人が通りすぎたあとに、その窓際には誰もいなかった。 「どのコだよ、いったい?」  憤慨する好雄に、ひゅうも「あれ?」としか言いようがなかった。視界がさえぎられた一瞬に、彼女は消えていた。 「おまえ、寝ぼけるには早いぜ」  彼の皮肉にも、ひゅうは上の空でなま返事をかえしていた。                4  その後、好雄の中学からの唯一の女友達である朝日奈夕子とアトラクションを楽しんだり、ビンゴゲームで景品をとったり、プレゼント交換会をしたりして、パーティーはいったん幕を閉じた。会場にはまだ騒ぎたりないお祭り好きを残し、大半が自分の部屋へ戻っていった。  ひゅうは交換会とは別に、詩織からもらったマフラーのぬくもりを感じながら、一人長い廊下を歩いていた。この廊下の二キロさきに、露天風呂があるのだ。広いホテルの案内図を見ているとき発見したのだが、いかんせん距離がありすぎるため、ほとんどは室内についている風呂か、もしくはロビーそばの大浴場を使用するらしい。ひゅうはせっかくだからと好雄を誘ったのだが、彼は腹をおさえてベッドに倒れている。しかたなしに浴衣とタオルを引っかけて、彼は誰も通らない赤いじゅうたんのクッションを確かめながら、片道三〇分ほどの散歩をしているのだった。  窓の外は、ホテルのライトでかすかに白銀の大地が見えた。チカチカと輝く風景は、彼にとって一年ぶりのものだ。彼の街には今年、まだ雪がふっていない。また、たとえ降ったとしてもこれほど積もることはめったにない。風もなく、時がとまってみえる外の世界は、ガラにもなく感傷的にさせる。  ひゅうは立ちどまり、窓をあけて外気に肌をさらす。ほてった頬に、気持よい空気の粒がふれた。  仲間とにぎやかなのもいいが、たまにはこうして独りで、知らない土地をただ眺めているのもいいものだ――  しばらく詩人を気取ったひゅうは息の白さと肌寒さに、窓を閉め、また廊下を踏みしめはじめた。  露天風呂には、やはり人の気配はなかった。入り口にあるジュースの自動販売機もさみしそうに明かりを発している。ひゅうはもったいないと肩をすくめつつ、男湯にはいっていった。  とうぜん脱衣所にも誰ひとり存在せず、脱がれた服もおいてなかった。貸しきり状態の無意味に広い部屋の中で、彼はそそくさと服を脱ぎ、タオルを持って風呂場へでた。 「うわ……」  思わず声がでる。眼前に、一万人はゆったりつかれる露天風呂が広がっていた。そのくせ女湯との敷居は高さ一〇メートルの壁と有刺鉄線に阻まれており、景観がいいのか悪いのか判断に困るつくりだった。  とりあえず、すのこの上でひのき桶にお湯をくんではかぶり、冷えかけた肌に活力をあたえる。かぎなれない温泉のにおいに少し顔をしかめはするものの、熱い湯は心地よかった。  かるく体を流し、湯につかると、反射的に体中の空気が口から大きくはきだされた。  手ごろな岩にもたれかけ、天をあおぐ。星がざわめく濃紺の海がそこにあった。再び感傷に浸り、顔が自然にほころんだ。 「キレイだな……」  さほど大きな声をだしたわけではない。だが、意外なところから返事があった。 「うん、ほんと綺麗な星空ね」  声は女湯のほうから聞こえた。とうぜん女の子の声だ。ひゅうは驚いて、なぜか立ち上がりかけた。が、自分のこっけいさに気付くと、周りを見渡してまた湯舟につかった。 「驚いたな。まさか人がいるとは……」  赤面しながら、言い訳がましく言ってみると、女の子のかすかな笑い声が聞こえた。 「わたしだってこんな時間に人がいるなんて、思ってもみなかったよ。いきなり声がするんだもん、びっくりしたわ」  今度はひゅうが笑う――苦笑いだが――番だった。  しかし、真実は少し違っていた。彼女はとなりに彼がいるのを知っていたのである。その前の、廊下で外を眺めていた彼も目撃している。彼女、館林見晴はひゅうを追ってこの露天風呂にきたのだった。そして声が聞こえ、また周りに誰もいなかったため、返事ができたのである。 「お風呂、気持ちいいね。こっちはわたし一人で貸し切りなのよ」  面と向かっていないぶん、見晴は気楽に話しかけられた。 「こっちも同じ。もったいないことに、誰もこないらしい」 「じゃ、二人だけ、なんだ……」  見晴は体中にほてりを感じた。無論、温泉のせいではない。  彼女の一言で、しばらく無言が続く。ひゅうは言葉につまり、彼女は幸せをかみしめているからだ。次にひゅうが口を開いたのは、実につまらない言葉をだすためだった。 「……君も、きらめき高校の生徒?」  「うん」ややあって答えが戻った。 「オレはA組の……」 「ひゅう君でしょ?」  彼の自己紹介をまたず、彼女から明るい声が届いた。  どうして、と尋ねようとした機先を、再び彼女に制された。 「声でわかったわ。だって、ひゅう君、有名だもん。あの藤崎さんからあだ名で呼んでもらってるって。わたし、興味あって見にいったことあるの」  ウソであるのは周知の事実だ。見晴自身、よくこんな虚言がとっさにでるものだと、驚いているのだが。  「あ、そう……」ありえそうな話なので、ひゅうはそれを疑わない。そして、恥ずかしいというより、情けない気分になった。 「そういえば、ひゅう君すごいよね。この前の期末試験、一番になったじゃない」 「あれは、運よくヤマが当たったからさ。その証拠に、二位の詩織との差はたった一点だった」 「ううん、実力よ。わたし、信じてるもの。だって――」  いいかけて、見晴はハッとして立ち上がった。となりで大きな水音を聞き、ひゅうはいぶかしんだ。今のセリフに、そしてその音に。 「ご、ごめんなさい。わたし、もう出るから!」 「ちょ、ちょっと!」  ひゅうの声を無視し、見晴はあわてて脱衣所に駆け込んだ。心のたがが緩んで、ついいらぬことまで口走りそうになった自分が恥ずかしかった。しかし逆に、あのまま流れにのって、言ってしまっても良かったのではないかとも思う。後悔と、さらに大きな後悔に、胸の鼓動は高く、強かった。  ひゅうはそのまま考え込んでいた。あの「信じている」とはどういうことなのか、「だって」のあとにはどんな言葉が用意されていたのか。まさか気があるのでは、という調子のいいことも考えてみたが、あまりに調子良すぎるだろうと却下した。彼は、自分をそれほど高く評価していなかったのだ。はっきり言えば、もてるようなタイプでないという自覚があった。それはそばに「藤崎詩織」という完璧の見本がいたからかも知れない。勉強ができるくらいで――それでさえ自慢できるとは思っていないのだが――、他に取り柄らしいものはない。嫌われる要素も少ないとは思う――思いたい――が、逆に恋愛的な好意をもたれる要素もない。それが自分に対する認識であった。だからといって、自分がくだらないとか、価値がないなどという後ろ向きな感性はない。自分は自分というのが、彼の行動理念である。  まあ、いいか。それを結論にして、彼は露天風呂をあとにした。  途端、となりの女湯の引き戸があいた。 「あ」  ひゅうの前に、長いストレートヘアの、浴衣姿の女の子がいた。頬が赤く染まり、うつむきかげんに自分を見ている表情は、彼をドキリとさせるだけのかわいらしさがあった。 「さ、さっきは、どうも……」  素知らぬふりをして行ってしまえば良かったのかも知れないが、見晴はつい声をかけてしまった。 「あ、いや別に……」  こういう場合の対処能力は、成績の善し悪しは問題にならない。場慣れと器量がものをいうのだ。彼にはその二つがいくばくか、かけていた。  ちょうど鼓動一〇回分の沈黙ののち、見晴は床を瞳に映しながら、だが徐々に彼につめよりながら言った。 「あ、あの、さっきのことなんだけど、“信じてる”っていうのは、ひゅう君が努力したから……、そう頑張ったから一番になったって伝えたかったの。だって、一生懸命やって報われないわけないもん! けしてヤマが当たったとか、そういうのじゃなくて、努力の結果なんだから胸をはるべきだ――て、言いたかったの!」  早口に、気迫で押しきるような彼女に、ひゅうはたじろぐ。見晴は見晴で、自分が何を言っているのか半分も理解していなかった。ただ、うそにうそを重ね、後悔に後悔を積んでいるのは漠然とわかっていた。 「……あ、ごめんなさい。勝手なこと、言ってるね、わたし……」 「いや、全然。そういう前向きな考え方、好きだな」  ひゅうが口もとをゆるめて答えると、彼女も安心した微笑を浮かべた。 「ところで、君の名前は?」 「あ、あの、わたしは……」  ひゅうの質問に、見晴は戸惑った。どうやら、彼は自分に気付いていないらしい。それがさらに見晴を困惑させる。彼には、どちらかといえば、悪い印象――廊下での衝突や留守番電話のメッセージなど――を与えている。もし自分が見知らぬ異性から同じことをされたら、きっといい気持ちはしないだろう。だから彼も、自分が“館林”と知ったら嫌うのではないか、という前向きではない疑問が浮かんだのだ。  いっぽう答えを待つひゅうには、一つの疑問が浮かんでいた。彼女の声と話しかたが、留守番電話の“たてばやし”にそっくりだったのだ。それにいま思うと、廊下でぶつかった動物頭の女の子の声も、彼女と同じだったような気がする。容姿についても、彼が人の顔を覚えるのが苦手なためと、彼女の顔よりも髪型ばかり見ていたために自信はなかったが、似ているように感じた。  見晴は、ためらいがちに口を開いた。 「……みはる。“見る”に“晴れ”で、“見晴”」 「名字は?」  彼のもっともな問いに、見晴はかぶりをふった。 「言いたくないなら無理に聞かないけど、一つだけ答えて。“たてばやし”って名字かどうか……」 「ち、違うよ」  見晴はとっさに嘘をついた。正直に話せなかったのは、たぶん、彼の表情のかたさが、彼女を不安にさせたからであろう。 「そうか……。ごめんね、変なことをきいて。やっぱりおぼろげな記憶なんて、あてにならないな」  ひゅうは照れくさそうに笑った。実際、動物頭の女の子についても、留守電の“たてばやし”についても、ひゅうは明確な特徴を知っているわけではないのだ。顔すら満足に覚えていないのに、憶測だけで見晴に尋ねてしまったのは浅慮というほかない。  見晴はまた後悔した。ひゅうに何度目の嘘をついたのだろう。とくに今回のは取り返しのつかない嘘のような気がした。すぐに撤回すれば、彼ならきっと許してくれるだろう。その結果、自分を知られるのが怖かったが、見晴は勇気をだしてあやまる決意をかためた。  だが、ひゅうはもうその話にとどまるをやめていた。 「あ、でも、名字を教えてくれないと、君をなんて呼んでいいかわからないんだけど?」  ひゅうの軽い困惑の顔と声に、見晴はもう時を逸してしまったのがわかった。ゆえに本来の言葉は飲みこみ、彼の問いかけに答えた。 「できれば、名前で呼んでほしいな。だって、わたしも“ひゅう君”て呼んでるし、その代わりにわたしも名前で呼ばれれば、おあいこでしょ?」  我ながら無茶な論理とわかっていたが、見晴としては彼に名前で呼んでほしかった。そう、藤崎詩織と同じように。それに何より、“館林”という名字は今さら言えなかった。“当たり屋”で“イタズラ電話”の“館林”とは。 「それじゃ、“見晴ちゃん”て呼べばいいのかな?」  ひゅうとしては、それすら抵抗があった。詩織以外で名前を呼んでいるのは、好雄の妹の優美ぐらいで、それも年下だからさして気にならないだけだ。同年の、それも初対面の女の子を名前で呼ぶなど、ひゅうには難問だった。 「“見晴”だけでいいの。……ダメかな?」 「それは……、ちょっと……」  ひゅうは困り果てた顔で彼女を見ている。小さなため息も聞こえた。  「お願い」見晴は懇願し、ひゅうは悩む。それが四回繰り返されると、ひゅうは大きな吐息をもらして受諾した。  見晴は会心の笑みで礼をのべる。心底、嬉しいのである。 「え〜と、それじゃ、見晴……やっぱり、やりにくいな」 「だめ、それ以外認めないから」  言われた当人まで赤面しながら、二人はごく自然と並んで歩きはじめた。時刻はもう翌日を迎えており、声は廊下によく通った。  「はい」とひゅうの手からウーロン茶の缶をわたされ、「ありがとう」と見晴はふたをあけた。内心、この缶は大切に残しておこうと決意しながら。  ホテルのロビーに戻るまでの間、二人が交わした話の内容は、それほど深くない。ほとんど見晴が質問し、ひゅうが答えるパターンだった。ひゅうが聞いた彼女のことは、好きな食べ物や趣味程度で、クラスや部活についてすら彼女は話題をすり替えて答えなかった。 「じゃ、ここで。すごく楽しかった」 「オレも楽しかったよ。でも、さっきは本当にごめんね」 「う、ううん、気にしないで。わたし、ひゅう君と知り合えて、嬉しかった……」  照れかくしに笑う彼女に、ひゅうは一瞬みとれた。 「また、会ってくれるよね?」  見晴の問いかけに、彼は肯定を示した。彼女の表情がまた輝く。  「おやすみ」を互いに交わし、見晴は女性専用のエレベータに乗った。  ひゅうは階段で二階にあがり、自分の部屋にはいると、好雄のいびきに顔をしかめながらベッドにもぐった。 (でも、あの娘、ホントに違うのかな……?)  ひゅうは留守電の“たてばやし”と、動物頭の女の子は同一人物だとほぼ確信していた。そして、見晴がその彼女ではないかという疑問も、ぬぐいきれなかった。雰囲気が似ていた。そうとしか言えないのだが、だとすれば見晴は嘘をついたこととなる。もしそうならばその理由が知れないし、彼女が嘘をつくような娘にも思えなかった。 (やっぱり、オレの勘違いだな)  ひゅうは心の疑問すべてを払いのけようと、一度大きく布団をかぶりなおした。そして寝ようと決心した。考えるだけ無駄だと、自分を納得させて。  いっぽう見晴は、ベッドの上でまくらを抱えて喜びにうちふるえていた。名前を呼んでくれた。たくさん話した。飲み物をもらった。並んで歩いた! ささいなことながら気持ちが高揚するのは、誰しもが同じである。見晴は何度もベッドを転がり、何度も回想していた。そしてなぜこんな簡単なことが今までできなかったのか、ほんの少しだけ残念に思いながら。  明日が楽しみながら、今夜は眠れそうになかった。    一二月二五日                1  内線のベルが、けたたましく騒ぐ。通算、何十回なったのか検討もつかないほどたって、寝ぼけながら好雄は電話に手をのばした。 「早乙女君? やっぱりまだ寝てたのね」  「滅相もありません!」相手が詩織だとわかったとたん、彼はベッドから跳ね起きた。ふと時計を見ると一〇時をまわっている。 「ひゅう君も、まだ寝てるの?」  心配そうな詩織の声に、好雄はとなりのベッドに視線をうつした。身じろぎ一つせず安らかな寝息を立てるひゅうを確認し、報告する。  ひゅうが寝坊したり、あまつさえ約束の時間を守らなかったことなど今までなかった。詩織はいぶかしみ、夜更かしでもしたのかと訊いてみる。が、好雄はパーティー後はすぐに眠ったので、その質問には答えられなかった。 「とりあえず、わたしたちはゲレンデに出てるね。あとで合流しましょう」  好雄は平謝りし、受話器をおく。それからおもむろにひゅうの布団をはいで、妹・優美直伝のサソリ固めをひゅうにみまった。  突然の激痛が腰を襲った。ひゅうは自分に何がおきたのか認識できなかったが、「ホラ、さっさと起きろ!」という好雄の声で状況をのみこめた。 「おまえ、もう少し起こしかたってものが――」  非難を浴びせるひゅうに、好雄がボソッと言った。「詩織ちゃん、怒ってたぞ」と。  言葉を飲みこむ親友に、好雄の追撃がはじまる。 「な〜にしてたんだ、おまえ。……さては女の子と遊んでたんだろぉ! 一人でいいめをみやがって、コノやろう!」  サソリ固めの体勢のまま、好雄が体をのけぞらせる。その反動は、ひゅうの腰を襲う。 「違う、断じて違う! マジでいてぇぞ、おい!」 「い〜や、その目は信用できん! 吐かないと背骨がポッキリいくぞ〜!」 「この体勢でオレの目がみえるか! ただ、まくらが変わると眠れないんだ!」  ベッドを何度も叩き「まいった」の宣言をする。好雄は釈然としない顔で技をといた。 「ま、そういうことにしておくか。……さて、詩織ちゃんたちを待たせてるし、早くメシを食って出かけようぜ」 「おまえ、まだ食うのか!?」 「当然」  軽く食前の運動をはじめる好雄に、ひゅうは呆れるしかなかった。                2  冬にしては強い日差しが、ゲレンデの雪に光をあたえていた。夜中に表面をさらう程度の雪がふったらしいのだが、今では前のそれとなじんで新雪の感触はまるでなかった。ゲレンデ上ではそれほど多くない人数がスキーやスノーボードを楽しんでいる。他の人たちは各施設に均等にわかれたのだろうか、そんな感じであった。  ひゅうと好雄はホテルで借りたスキー道具一式を身につけ、ゲレンデへおりた。昨日はよく観察できなかった周囲を見渡せば、伊集院の名がつくホテルがスキー場を中心にあちこちに建っている。ひゅうたちの宿泊するホテルが本館なのだが、その他の九つの別館も、規模は本館に負けず劣らずであった。だが、本館をのぞく九つのホテルはまだオープンしておらず、したがって客が利用しているのは本館のみ、つまりきらめき高校の生徒だけであった。 「山を一つ貸し切りか。改めて伊集院の成金ぶりを確認したぜ」 「ま、そのおかげでこんなにすいているんだ。感謝すべきだな」  そんな会話をしながら、二人は初心者コースへと向かう。思ったとおり、そこに詩織と美樹原の姿があった。  あちらでもひゅうたちを見つけたようで、ボーゲンの練習をしていた美樹原が、あいさつしよう手をあげる。が、意識をスキーからこちらに向けたため、次の瞬間、彼女は短い悲鳴をあげて転んだ。  倒れこんだ彼女を助けようと早乙女好雄は奮起するが、いかんせんスキーの腕はひゅうのほうが若干まさる。好雄は後発のひゅうに抜かれ、彼が彼女の手をひいて起こすころになって、やっと到着した。 「もう、やっときた。約束を破るなんて、ひどいわね」  半分演技、半分本気で詩織が二人を非難する。  精神誠意をこめて、二人は詫びた。詩織も実にそれほど腹をたてていたわけではないので、すぐに機嫌をなおした。美樹原にいたっては、はじめから怒ってもいない。  そのお詫びというつもりはないのだが、ひゅうは詩織に提案した。 「詩織、美樹原さんはオレが教えるから、ひと滑りしてきなよ」 「でも……」 「詩織ちゃん、本当にいいよ。朝からずっとわたしについていて、ぜんぜん滑ってないじゃない。詩織ちゃんにも楽しんでもらわなきゃ、わたし、悪くって……」  「メグ……」詩織はそれ以上抵抗せず、素直に「ありがとう」と告げリフトに向かった。 「ひゅう、おまえもいっていいんだぜ。美樹原さんは、オレが教えるから」 「きのう言ったろ? オレは詩織のレベルについていけないんだ。逆に足をひっぱっちまう」 「そんなことないよ。詩織ちゃん、ひゅう君と滑るの、楽しみにしてたんだから」 「女心をわかってやんなきゃ。行けよ、ひゅう」  言葉は真剣、手の動きは厄介払い、好雄のちぐはぐな行動は、しかしひゅうを動かした。  ひゅうは詩織を追ってリフトに乗った。彼女は中級コースを飛びこし、上級コースにまで進んでいた。このコースは、はっきりいってひゅうの技量の及ぶところではない。中級コースの入り口で彼女がおりてくるのを待とうかとも考えたのだが、ひゅうはそのまま上にあがってしまった。 「ひゅう君!?」  詩織が驚いて彼を見返す。だが、それもつかの間、彼女は涙がこぼれそうになるくらい胸が熱くなった。 「……転んでも笑うなよ」  予測事実と照れ隠しに赤面しながら、詩織の横につく。 「……うん!」  詩織がまぶしい笑顔を送る前に、ひゅうはスタートをきった。  「あ、ずるい!」そのあとをゴーグルをかけなおした詩織が追う。さすがに詩織は慣れたもので、初めてのコースでも難なく滑り、あっという間にひゅうとならんだ。  ひゅうは自分のもてる技をだしきって斜面と格闘しており、地形を読むのに精一杯であった。それでもコースの半分を無事にクリアし、「行けそうだ!」と気をゆるめた瞬間――  激しい雪煙と、天をまうスキー板がスローモーションのようにはっきりと見えた。そして、わずかに先にいく詩織の顔が、恐怖にとりつかれていた。  ひゅうは、雪のベッドに寝そべりながら、呆然と青い空を見ていた。何だかわからない鳥が、逆光に照らされながら高く羽ばたいている。  遠くで名前が呼ばれたような気がした。  遠くで名前が呼ばれた。  近くで名前が呼ばれたような気がした。  近くで名前が呼ばれた。  すぐそばで名前を呼ばれたような気がした。  すぐそばで名前が呼ばれた。  すぐ……、そばで……。 「ひゅう君!」 「詩織……?」 「もう、心配したじゃない! 何度よびかけても返事しないんだもの!」  上体を起こすと、詩織の泣き顔がそこにあった。ひゅうはもうろうとした意識を覚醒させ、頭を軽くたたいてみる。 「ごめん、もう大丈夫。転んだショックで一時的に意識が飛んだだけだよ。……どこもケガはないみたいだし、ホント、平気だから」 「でも、いちおう病院で診てもらったほうがいいわよ」  涙をぬぐいながら、詩織は彼に手を差しのべた。  「そうだな」とひゅうは詩織の手をかり、立ち上がる。  そのとき、聞き慣れた笑い声とともに、スノーモービルの一団がやってきた。 「ハッハッハ……! この程度の斜面で転倒するとは情けない。さぁ、それでどこを痛めた? 足か、腕か、それとも顔か? おっと失礼、その顔は生まれつきだったね」  伊集院は再びわらう。その周りで、怪しい防寒具の一団がひゅうを取り囲み、服を脱がせて検査をはじめた。  ひゅうは抵抗したが、聴診器やペンライトをもった男たちはかまわずに彼をいじくりまわした。 「レイ様、打撲以外のケガ、および症状は見受けられません。後遺症もないでしょう」  一人の男が報告すると、伊集院はうなずく。 「さすが庶民、体だけは丈夫のようだ。では、ボクたちは失礼するよ。ま、これでキミも身のほどがわかったろう。自分の器量の範囲でせいぜい楽しむことだ」  来たときと同様、伊集院は高笑いを残して去っていった。 「……もしかしてあいつ、心配してくれたのか?」 「そ、そうね。言葉は悪かったけど、医者までつれて来てくれたんだし……」  しばらくの間、沈黙を自由に遊ばせてから、ひゅうは詩織に向きなおった。 「とりあえず、行こうか?」 「うん。ごめんね、わたしが上級者コースに来たから――」 「別に詩織のせいじゃないさ。転んだのはオレのミスなんだから。……本当に、気にしないでくれよ。そんな顔されると、せっかく詩織といるのに楽しめないだろ」 「う、ん……。わかった、もう言わない。それじゃ、行きましょう」  詩織は笑ってみせた。ひゅうもそれで破顔する。  二人はまた大きく雪をかきだし、白銀の野原に走りだした。  昼をだいぶまわり、ひゅうと詩織は好雄たちのもとに戻った。が、いるはずの二人はおらず、視線を巡らせると、休憩所から手をふる好雄と美樹原のすがたが視界にとびこんだ。 「好雄、練習したのか?」 「そっちこそ、いつまで遊んでんだよ」  皮肉に皮肉を返し、お互いに苦笑する。 「ごめんね。夢中で滑ってたから、時間がわからなかったの」 「ううん。詩織ちゃんが楽しかったなら、それでいいの。わたしも少しは上達したし……。早乙女君、教えかたうまいのよ」  話をふられて、好雄は鼻を高くした。 「どうせ悪い見本をみせて、“これは真似しちゃダメ”とか言ってたんだろ」  冗談めかすひゅうに、美樹原が「すごい、よくわかりましたね」と感心する。  「好雄……」ため息をつくひゅうに、「何も言わないでくれ」と好雄は肩に手をおいた。                3  なごやかに昼食をすますと、午後はそれぞれが異なる目的地を目指した。詩織は図書館で勉強、好雄は朝日奈に買い物の荷物もちをたのまれ、美樹原は映画館のホラー三本だての鑑賞に、ひゅうはスキー場に残った。  ひゅうが五本目の滑降を終え、さすがに一息つこうとゴーグルをはずしたとき、初心者コースを転んでは起き、起きては転んでを繰り返す、一人の女の子がいるのに気付いた。  見ていて痛々しく、また何より一人というのがさみしそうに思えて、ひゅうは彼女に近付いた。 「あれ?」  側にいき、よく姿を確認すると「見晴」だった。長い髪の末端をゴムで結い、昨夜とは違う暗い表情の彼女は、名前を呼ばれてやっと彼をみとめた。 「ひゅ、ひゅう君!? ど、どうしたの?」  転んだ痛みも、不器用な自分への不機嫌も吹き飛ばし、見晴は声をあげた。 「どうしたって……。なんか一生懸命な娘がいるなぁと思ってさ。一人じゃ練習にならないだろ? よかったら、教えてあげるけど」  「え!?」もともと見晴はひゅうを追いかけるために、スキーの練習をしていたのだ。展開としては予想外だが、結果としては最上であった。 「あ、余計だったかな?」 「ううん、全然! お願いできるかしら。わたし、スキーは初めてなの……。友達はみんなスキーやらないし、困ってたんだ」  ひゅうは体中で会話する彼女が妙におかしかったが、それだけ真剣なのだろうと解釈すると笑えなかった。  「じゃ、はじめよう」ひゅうがうながすと、見晴は元気よく返事をする。おもしろい娘だと思いつつ、彼は一つひとつ、基本から教えはじめた。見晴のご機嫌バロメータも、また最高値を振りきるほど、いっぱいにあふれていた。  緩い斜面を転ばずに、何度か大きく弧を描いておりきれると、見晴は嬉しさのあまりひゅうに飛びついた。まさかこれぐらいでこんなにも喜ばれようとは、ひゅうとしては困惑を隠せない。が、昔の自分を眠った記憶から起こしてみると、やはり少しの進歩にはしゃいだような覚えもあった。 「さて、あとは反復練習をして、慣れたら上にいこう。でも、今日はここまで。もう日が沈みかけてるし」 「うん。ありがとう、ひゅう君。楽しかったし、嬉しかった。……ねぇ、迷惑じゃなかったら、明日も教えてくれる?」  照れながら訴える彼女に、ひゅうは「う〜ん」と考えこむ。その姿に、見晴はあきらめの表情で再び訊いた。 「もしかして、予定があるの? そうよね、うん、ごめんなさい」  うなだれる彼女に、ひゅうは気まずそうに頭をかいた。 「いや、さすがに明日は勉強しようかと思ってたんだ。大学入試も近いし……」  話しぶりからして、どうやら本当らしい。そういえば、見晴自身も受験生で、ひそかに彼と同じ大学を受ける手続きをしていたのだ。本来ならのんびりスキーなどしていられる身分ではないのだが、昨夜といい、どうも幸運がつきまとい、すっかり頭から抜けていた。 「あ、あの、わたしも、大学受けるの。そっちも教えてもらえると、助かるなぁ、なんて……」  だんだん大胆に、いや、図々しくなる自分が、嫌いだが好きになりそうだった。 「あ、それならいいよ。いっしょにやろうか。じゃあ、一時に図書館で」 「うん!」  二人がホテルに到着するころには、山は紅をその体にうめていた。                4  このホテルでの食事は、朝食が食堂でのセットメニュー、昼食は個人選択、夕食はホールの立食パーティーでだされている。無論、強制というわけではなく、自己負担であるならルームサービスも可能だった。この日の夕食は、自分のサイフを放棄するような者が皆無であったため、ほぼ全員がホールに集まっていた。ただ昨夜と異なり、イベントはない。単に食事をとるだけで、次のイベントは大晦日から新年にかけて行なわれる予定だった。  あらかじめ待ち合わせをしていなかったせいもあって、ひゅうは詩織たちとともにホールに入れなかった。彼女たちを捜してさまよってもみたが、成果はあがらず、食欲をみたす作業に没頭しはじめる。 「やあ庶民、どうだね、我が伊集院家が誇る一流シェフの料理の味は?」 「……たった今まずくなった」  口の中のものを吐き出しかけるくらい驚きながら、とつぜん背後に現れた伊集院に対応する。しかし、なぜいつもタイミングを計ったようにやってくるのだろうか? なぜ自分のいる場所がわかるのだろうか? ひゅうはどこかに発信器でも付けられているのではないかと、本気でうたがった。 「それはそうと、昼間はわざわざ医者を呼んでくれてありがとな」 「バ、バカ者、礼を言うほどのことではないだろう」 「なに焦ってんだよ」  はっきりと見てとれるほど狼狽する伊集院は、ひゅうも初めてだった。 「と、とにかく、事故が起きるとこのボクが迷惑するんだ。今後は気をつけたまえ」  きびすを返し、伊集院は足早にその場を離れていった。まるで逃げるように。  「ヘンな奴」ひゅうはフォークに刺さっていたプチトマトを口にほおりこみながら、その背中を見送った。  その後、クラスメイトや偶然あえた美樹原と談笑し、ひゅうは部屋へ帰った。  相棒は戻っていなかった。が、どうせまだ朝日奈に捕まっているのだろうと決めつけ、彼の存在は意識のかやの外に投げ捨てる。  備えつけの冷蔵庫からウーロン茶をだして、ソファーに腰を落とす。半分まで一息で飲みほし、改めて口をつけたところで電話が鳴った。  詩織だった。  明日の予定を尋ねられ、午後から勉強の旨を伝えると、詩織の声が沈んだ。 「そうなの……。わたしはメグと水族館に行くんだけど、いっしょには無理かな?」 「悪い、オレ一人じゃないんだ」 「早乙女君?」 「いや、きのうホテルであった娘なんだけど……」  「え?」ごく普通のリアクションが、受話器の向こうからかえってきた。 「誰なの、その人?」 「見晴ってコ。何か一生懸命な娘でさ、話してて楽しいんだ」  たんたんとひゅうは話す。悪気もない、隠すつもりもない、事実だけをただ伝えた。しかし聞く側には感情のうねりが生まれ、会話に間があいた。  「……もう、いい」電話が不明瞭な詩織の声を残し、切れた。  ひゅうは戸惑いながら、受話器をおいた。気に触ることを言っただろうか、彼には理解不能だった。 「よぉ、ひゅう……」  好雄が疲れきった顔で入ってくる。靴を脱ぐのもわずらわしそうに、ヨロヨロとベッドに倒れこんだ。 「ずいぶん振り回されたみたいだな?」 「そんな生易しいもんじゃねぇ……。朝日奈のやつめ、人を馬車馬のようにこき使いやがって」  ひゅうからジュースを受けとると、半死の馬車馬は三秒でそれを空にした。 「とにかく、オレはこのまま寝るからな」 「ちょっと待て、話が……」  思いきって先の件を好雄に相談してみようとしたのだが、彼はすでにこの世から半歩離れていた。  ひゅうは困惑し、重い息をはいた。手がふさがった以上、彼にできるのは汗を流して寝るだけだった。  そして、それを実行した。