「Pure☆Colors」 最終話  二年B組の担任教師は、二度、結城港の名前を呼んだ。席に彼の姿はなく、カバンだけがフックにぶらさがっている。 「天草、結城はどうした?」 「わかりません……。何の連絡も受けてませんので」 「そうか……」  担任教師は出席簿に印をつけ、次の名前を呼んだ。 「コウくん、どうしたんだろ?」  心配する優輝が伝染したのか、良子の顔も曇っていく。まさか、という悪い予感が走りぬけていた。 「大丈夫だって。大方、早起きしすぎてどっかで眠りこけてんだろ。今日はいい天気だしな」  正義が空気をかえようと気休めを言ってみたが、それ以上の効果はなかったようだ。  良子は儀礼的に「そうね」と応え、身体を震わせていた。  昼休みになっても、彼は戻らなかった。  良子はガマンできずに校内を走り回り、彼の行方を捜した。けれど発見できないまま休憩は終わり、疲労と不安だけが積もっていった。 「大丈夫、良子ちゃん?」 「うん、平気……。あたしのことなんか、どうでもいいの……」 「コウくん、約束したんでしょ? 無茶はしないって」 「そうだけど、あいつがそんな約束なんて守るわけないのよ。それがわかってたのに……!」  優輝は、ともすれば泣き出しそうな親友の肩に手を添えた。それ以上の慰めが、彼女にはできなかった。 「あー、コウならさっき食堂で遇ったぜ?」  教室に戻ってきた正義が、二人の会話の深刻さを吹き飛ばすようにあっさりと言った。 「ウソ、食堂も行ったもの!」 「すれ違いだったんじゃないの? 体調悪いからってどっかで寝てたらしいんだけど、余計悪くなったからメシ食って保健室で寝てるって」 「ホントに……?」 「心配なら見てくれば? て、もう授業はじまるか。今日は次で授業終わりだし、放課後、カバン持ってってやるといいよ」 「そっか……。よかった……」  良子は心底安堵した。安心して、少しだけ涙があふれた。  正義の言葉はすべてがウソだった。普段の良子ならば信じはしなかっただろう。けれど彼女は、敵討ちなどしないと約束した彼を信じたかった。だから彼女は簡単にだまされたのだ。  優輝は「よかったね」と良子に微笑み、それから彼女に気づかれないように正義を見た。  彼は渋面を浮かべ、首を振った。  「何やってんだよ、バカ野郎」正義は胸の奥で悪態をついた。  気がついたとき、港の身体はソファーの上にあった。毛布がかけられ、傷口は包帯や湿布で覆われていた。 「ここは……?」 「あ、気がつきましたか?」  彼のつぶやきを聞きとり、女の子は顔をのぞかせた。 「みなみちゃん……?」 「大丈夫ですか? 痛くありませんか?」  港は「大丈夫」と答えて、状況の説明を求めた。 「ここはSSS専用の部屋です。驚きましたよ。朝の見回りをしていたら、結城さんが教室で倒れていたのですから」 「わざわざ運んで手当てしてくれたのか。ありがとう、みなみちゃん。でも、なんで保健室じゃないんだ?」 「それは……」 「みなみちゃん?」 「……ケガの原因、知ってます。いえ、知ってるつもりです。ですから……」 「そうか、SSSの眼は節穴じゃないってことか」 「本当に申し訳ありませんでした。わたしが不甲斐ないから、天草さんや結城さんに……」  みなみは悔しかった。これほど自分に腹が立ったことはなかった。SSS総帥たる北枕総司は、何もするなと彼女に命令をしていた。それに従い、彼女は何もしなかった。けれど今、彼女は逆らってでも彼に協力すべきだったと後悔していた。もし自分がその場にいたら、きっとこのような結果にだけはならなかったはずなのだ。  彼はみなみの震える肩に触れ、困った笑顔を向けた。 「なんでみなみちゃんが責任を感じるんだ? みなみちゃんはがんばってる。誰がなんと言おうとがんばってくれてる。だから、そんなに気にしないでいい」 「結城さん……」  みなみの気持ちは少しだけ救われた。 「ありがと、みなみちゃん。相変わらずみなみちゃんの薬は効くよ。腫れも痛みもだいぶおさまってる」 「これくらいしかわたしにはできませんので……」 「これだけできたら医者はいらないぜ? いや、冗談抜きで」  港が笑うと、みなみもつられるように微笑んだ。 「よし、身体は動くな」 「でも、無理はしないでください。もうすぐ最後の授業がはじまりますが、ゆっくり寝ていてくださいね」 「え、もうそんな時間?」  みなみはうなずき、もう一度「寝ていてください」と忠告して、部屋を出ていった。  港は従い、あと一時間眠りにつこうと思った。今度こそ、決着をつけるために。  最後の授業が終わり、ホームルームを消化した頃を見計らって、港はソファーから這いだした。  すこし鈍痛はあるが、みなみの薬は即効性が高く、包帯の必要すらないくらいだった。  彼は自分の教室のあるフロアへあがり、階段で人を待った。  待ち人は予想通り、一番に教室を出てきた。 「セイギ」  港の呼びかけに、彼は気づいた。あごで屋上を示し、さきに階段をあがる。 「何があったんだよコウ、良子ちゃん、泣きそうだったぞ」  「ああ、実はな――」港は早朝の出来事を語った。 「……なるほど。で、ケガは平気なのか?」 「もう大丈夫だ。それより、良子のほうは?」 「今日はラクガキもなかったし、おまえ以外のことでの心配事はなし」 「ラクガキがなかった?」  港はすぐにみなみを思い出した。彼女が消しておいてくれたのだろう。 「それより、一度保健室に行け。おまえが体調を崩して寝てるって話にしてあるんだ。いなかったら良子ちゃんがまた心配するぞ」 「そうか、悪かったな、ウソつかせて。すぐ戻るから、ちょっと待っててくれないか?」  「わかった」と正義が答える前に、港は階段を駆け下りていた。  保健室の扉をノックしようとした良子と優輝を見つけて、彼は息を整えて大声を出した。 「お、二人ともどうした?」  二人は驚き、声のした方向を見る。良子は不安そうな顔を歓喜に変え、それから怒った。 「どうしたじゃないでしょ! 何やってたのよ!」 「セイギに聞かなかったか? 体調悪いから寝てたんだけど。今、トイレ行って教室に戻るところだった」  こんなウソも、普段の良子には通用しないはずだった。が、怒りに震える彼女は、簡単に信じてしまう。 「バカ! どれだけ心配したと……!」 「ああ、すまんすまん。オレだってまさか一日中寝てるとは思わなかった」 「もう、それで大丈夫なの?」 「ああ、すっかり……というわけでもないけど、問題はないくらいには」 「ホントにもう……。ほら、カバン!」 「お、サンキュー」 「ホント、バカみたい。部活いこ、優輝!」  「あ……」優輝は一言も話す余裕を与えられぬまま、良子に手を引かれて歩いていった。  一度だけ良子は振り返り、「あんたはさっさと帰るのよ!」と怒鳴った。 「わかってるって。じゃな!」  優輝は手を振る彼をずっと見つめていた。ウソだとすぐにわかった。けれど、彼がしようとしていることを、優輝はとめらなかった。  心配そうな優輝の表情に、港は顔を背けた。  階段を上がって行く港の背中は、とても遠くなっていた。  屋上に戻った港に、正義は多めに買っておいたパンを放った。 「それで、どうすんだ? 先生に報告するか?」  港は口いっぱいに詰め込んだカレーパンを、思わずふきだしかけた。 「なんだよ、なに笑ってんだよ?」 「いやワルイ。おまえがそんなを提案するとは思わなかったからさ」 「バカ野郎、一番妥当な解決方法を提示するのが、参謀の役割だろうが。それをいれるかどうかは、司令官しだいだ」 「ああ、そうだな。でもおまえは、オレの考えなど聞くまでもなく知ってるだろうが」 「当然」 「で、場所は、ここでいいか?」 「ああ。わかってると思うが、一人ずつ頼むぜ」 「各個撃破は常套手段だからな。ついでに非武装で連れて来てやるよ」 「助かる」  正義が行動に移すと、港は手早く食事を済ませ、身体をほぐしはじめた。完全とはいかないが、三人を殴り倒すくらいはできそうだった。 「……で、おまえを信じたオレの気持ちはどうなるんだ?」  正義の背後には、三人の男子剣道部員がそろっていた。しかも竹刀装備という『ついで』までつけて。 「スマン。一人呼んだら芋ヅル式にだな……」 「まったく、しょうがないヤツだ」  ため息しかでないのは、もう半ばヤケであったからだ。  敵の大将格である高瀬が前に進み出た。 「なんだよ結城、まだこりてねぇのか?」 「あきらめが悪いのがオレのいいところだと、生きてる婆ちゃんの遺言でね」 「バカかおまえ? やるってんなら相手してやるぜ。今朝の痛みが疼くしな」  「こいつはどうする?」小川が正義を指す。 「いえいえ、私めはただの案内人ですので、これにて失礼させていただきます。じゃ!」  指名された正義は、そう言って階段を軽やかにおりていった。 「お〜い、オレたちの友情って……」  期待はしていなかったが、あまりのあっさりさに港は呆然とした。 「そんじゃ、やるか?」  高瀬が竹刀を構える。 「あやまるなら今のうちだからな」  港は余裕を見せるが、相手はひるみもしなかった。  優輝は美術室に向かう廊下から屋上を眺めた。階段を上がっていった港が、おそらくいるだろうと思ったからだ。 「あ……」  案の定、彼らしき男子生徒が正面の校舎の屋上にいた。三人の、竹刀を持った生徒に囲まれている。 「三人相手なんて、いくらなんでも無茶よ!」  優輝は来た道を逆走し、つい先ほど別れたばかりの良子のもとへと向かった。  本当は報せてはいけないのかも知れない。港の気持ちを思えば、そっとしておくほうがいいのだろう。けれど、どう考えても不利な状況を見過ごすわけにはいかなかった。放っておけば、良子がさらに哀しむ結果になるのだから。  勝つ確率は極めてゼロに近かった。ただでさえ三人相手で、しかも竹刀である。素手の人間がかなうわけがないのだ。港は仕方なく、高瀬だけでも仕留めようと誓った。  竹刀を持つ三人組は、あっという間に港を等位置で囲んだ。剣道部らしく、竹刀で相手との距離をはかり、攻防一体のかまえでリズムを刻んでいる。  港が誰かを相手にすれば、対象は逃げ、残り二人が背後から襲いかかる。そして一度均衡が崩れれば、彼はまた今朝を再現することとなるだろう。  ゆえに港は動かなかった。相手から仕掛けてくるなら、少しは反撃のチャンスがあると思えた。それに賭けるしかなかった。  三〇秒……  五〇秒……  六五秒……  ついに三人はしびれを切らした。 「面倒だ、オレが仕掛けるから援護しろ!」  高瀬の策に、小川と中山が同意した。  港はその言葉を真に受けず、背後の二人にも緊張の糸を伸ばした。 「フン、素手でオレたちにかなうわきゃねぇんだよ!」  あざ笑う高瀬の竹刀が、ゆっくりと持ちあがる。  港はまだ動かない。誘いなのはわかっていた。  「……?」視界を広くとっていたためか、港の眼の端に影が映った。かすかな彼への合図だ。彼は納得し、緊張感を緩めて口元で笑った。  それを正面から見ていた高瀬は、港が余裕の態度を示していると勘違いし、頬をヒクつかせて本気で打ちに出た。  港は高瀬の肩、脚、腰、視線の動きを、一瞬たりとも見逃さなかった。そのうえで踏み込んだ。  高瀬の竹刀の軌道が読めた。  港はそのまま走り、竹刀を間一髪でさけ、彼の脇を抜けた。  そして振り返りも、とまりもせず、昇降口の扉へ飛びこんだ。  呆気にとられる三人。  港は大笑した。 「おいおい、剣道部員が泣くぜ。素手の相手一人とらえられないのかよ?」  腹に据えかねたのだろう、三人は後先考えず、港を追って昇降口へ群がった。  港は昇降口に身を隠した。  次の瞬間、高瀬ら三人は真っ白に染まった。石灰だった。バケツいっぱいの石灰が、イノシシ武者の三人を白く化粧したのだった。 「ナイス、参謀長。即席にしてはいいタイミングだ」 「いや、間に合ってよかった。往復二分で準備はキツかった」  港は功労者である正義に敬礼をし、ついでパニックに陥る三人へと躍りかかった。  まずは一番非力と思われる小川に接近し、顔面に一発。  連続攻撃でみぞおち、落ちた顔面に一撃、二打。  フィニッシュはアゴへの掌底打だ。  小川が崩れ落ちるのを視界の隅で確認しながら、港は目標を中山へ移した。  中山はわずかな時間を与えられたが、竹刀を拾う余裕まではなかった。  近づいてい来る港に、中山は右拳を伸ばす。が、彼の頬に風を当てただけだった。  その軌道をはじめから読んでいた港は、カウンターをかぶせる。  こちらも擦るような当たりではあったが、中山に隙を作るには充分だった。  横にまわった港は間髪いれずに左を放ち中山の頬に衝撃を与え、グラついたところで膝裏を押し込むように蹴りつけた。  膝が折れ、前屈みに中山の身体が沈む。後はもう、港の攻撃が面白いように決まっていった。  中山は顔面を赤と青に染め、多くの隆起を作って崩れ落ちた。  二人が倒れるまで二〇秒。それは、高瀬に貴重な時間を与えていた。 「良子ちゃん、コウくんが!」  剣道場の更衣室で着替えをはじめようとしていた良子は、青ざめた優輝を見て、一瞬で悟った。信じたかった正義と港の言葉が、ウソだとはっきりした。 「コウくんが大変なの! とめないと!」 「約束……したのに……」 「早く屋上に! 間に合わなくなるよ!」  呆然とする良子の腕をとり、優輝は強く揺さぶった。 「……もう、バカなんだから!」  良子は優輝を振り切って走りだした。浮かぶ涙が、視界を歪ませていた。 「あと、一人――!」 「うしろだ!」  きれかけた息をつこうとした港は、正義の声にその場を離れた。  高瀬は彼に休む間をあたえず、しかも背後から急襲した。もし正義の叫びがなければ、一撃で形勢は変わっていただろう。 「さすが卑怯モン」  港は距離をおき、息を整えた。 「ホントにムカツク野郎だな! もう許さねぇ、そっちのふざけたヤツといっしょに、血ヘド吐かせてやる!」  高瀬は怒りに任せ、竹刀で床を叩いた。 「許せないのはこっちのほうだ。おまえは良子を泣かせた。その罪がどれほどのものか教えてやる!」  港は良子の泣き顔を思い出し、改めて怒りが湧いた。身体中が熱かった。握った拳から血が滲みそうであった。 「ウルセェ、あのクソ女もいずれシメてやる! 三人まとめて卒業するまでコキ使ってやる!」 「良子に手を出してみろ。一生後悔させてやる」 「おまえは今、後悔すんだよ!」  高瀬は攻勢に出た。  港は覇気とは異なり、防戦一方になりつつあった。さすがに剣道部員である。竹刀の使い方に無駄は少なく、反撃に転じる機会をつかめなかった。  「クソッ……!」新たな策を練る余裕さえ、彼にはなかった。徐々に、高瀬の竹刀に対応するだけの体力と集中力が落ちてきていた。 「っつ!」  浅いが、たしかに高瀬の武器が港に命中した。左肩へのしびれと痛み。  隙が生まれ、二打目が襲いくる。  かろうじて頬をかすめる程度だが、確認する暇もなく三打目。  的の大きな左胴に当たり、たまらず膝をつく。 「決まりだ」  歪んだ笑みで、脳天を割る一閃を高瀬が繰り出す。  それはむなしく床を打った。  余裕をみせ口を開いた隙を、港は見逃さなかった。  その隙は港の反撃のチャンスではあったが、体勢が悪かった。しかし逃すわけにもいかず、彼は拳を繰り出した。  危機を悟った高瀬の蹴りと交差する。 「ンなろぉ!」  結果は相打ちだった。  高瀬の蹴りは港のこめかみをかすめて鮮血をほとばしらせ、港の拳は高瀬の腹に突き刺さった。  血が左目を覆い隠そうとする。が、まだ右眼は見える。高瀬が腹にダメージを抱えてよろめいている今が、本当のラストチャンスだと港は直感した。  彼は全身をバネにかえ、最後の攻撃を開始した。  が――  伸びきった身体から一発逆転のパンチが炸裂しようとしたとき、今の彼を唯一とめられる声が響いた。 「やめてェーーーーー!」  彼は、この泣きながら絶叫する声を知っている。幼なじみで、泣き虫だった女の子。一人では何もできなかった少女。いつの間にか明るくて、強くなっていた一番身近な存在。そして―― 「もうやめて! もういいから! もういいからやめてェ!」  港は良子の絶叫に、完全に気がそがれて膝をついた。緊張の糸が切れて、全身の痛みを激しく感じだした。息苦しく、拳に力すら入らなかった。 「もういいよ、コウ……。こんなことしないでって、約束したのに……。なんで、なんでいつも……」  良子は泣いていた。ボロボロと涙を流して、顔を真っ赤にクシャクシャにして、泣いていた。  港は心の底から悔しかった。彼女にだけは、いつだって笑っていて欲しかった。自分がどうなろうと、彼女にだけは幸せでいて欲しかった。 「バカ、こうしなきゃ、ずっとイジメられるんだぞ。コイツらに思い知らせないかぎり、ずっと」 「それでもいいよ……。だからやめてよぉ、お願いだからぁ」 「バカ、いいわけないだろ。たとえおまえがよくったって、オレは許さない」  港は震える足を支えながら、なんとか立ち上がった。 「フザけんな、オレたちのほうがよっぽど許せねぇんだよ!」  高瀬は怒気を発しながらも体勢を立て直し、しっかり自分の距離をとって竹刀を構えた。  その周囲では、小川と中山にも復活の兆しがあらわれている。 「須藤くん、とめて! もうコウくん、ボロボロよ!」  良子が飛び出さないように抱きとめていた優輝が、正義に訴えた。  しかし彼は、首を振った。 「オレだってそうしたいんだけど、あいつはとまらない」 「そんな!」 「なぁ、コウ?」 「さすが、わかってるな……」  港と正義は、ニッと笑った。 「さて、正真正銘、これが最後の一発だ。高瀬、覚悟しろよ」 「ダメ、コウ! もういいの! やめてよぉ!」 「バカ野郎……。忘れたのかよ、昔の約束……」  港は走り出す構えをとった。 「ダメぇ!」  良子の叫びを合図に、港は猛然とダッシュをかけた。  高瀬は港が突っこんでくるとは思いもしなかった。彼にそれだけの体力はないとタカをくくっていた。そもそもリーチも攻撃速度も圧倒的に自分のほうが有利なのだ。 「バカなヤツ……!」  高瀬は絶対の勝利を信じた。向かってくるのなら、これほどの的はなかった。  港はすべてを承知の上だった。一撃を耐えればいいと思っていた。それがどれほどの一撃であろうとも、良子の涙に比べれば耐えられないわけがないと信じていた。  高瀬の余裕が、港の右眼に映る。  それでも、港はとまらない。とまるわけにはいかなかった。  港の拳が、高瀬の竹刀が、風を起こす。 「……!」  交差した一瞬後。  港の目前で、高瀬が崩れ落ちていった。  大の字で、鼻血を流して、泡を吹いて。  何がどうなったのか、港にも、周囲の人間にもわからなかった。  高瀬の攻撃は、港よりもたしかに速かった。  しかし、彼は無事で、高瀬はのびている。  港にわかっているのは、右の拳に残る、固いものをなぐった感触と痛みだけだった。が、ふと足もとを見て、彼は納得した。 「なにをしている!」  昇降口から、威圧感を漂わせる低い声がとどろいた。 「生徒会長……」  現れたのは生徒会長兼総合格闘部部長兼生徒会特殊部隊総帥、北枕総司だった。 「フム、どう見てもケンカだな」  昇降口にいた優輝と良子、それに正義を押しのけて、会長は屋上に降り立った。  小川と中山は顔色を変え、目をそらした。  高瀬は意識がないのか、倒れたままだった。  港は息を整えつつ、総司を見つめていた。 「諜報隊、報告しろ」  総司の声が屋上に流れると、突如として真紅の忍者服の人間が現れ、レポートを取りだして彼に手渡した。港だけが知っている、みなみのもう一つの顔だった。  会長は一秒でレポートを読み、ただ一声「連行」と宣告する。  号令をうけ、彼の背後より人があふれ出し、小川、中山、高瀬の三名を縛りあげ、連れていってしまった。  残された港は、呆気にとられた。 「オレは?」 「明日の放課後、生徒会室に来い。話はそのときに聴く」  それだけ言い、生徒会長は階段を降りていった。  そのとき港は悟った。生徒会長はすべてをお見通しの上で、決着をつけるまで踏みこむのを待っていてくれたのだろうと。  みなみもまた、港に一度頭を下げて消えた。頭巾の奥の瞳が、ほほえんでいたのが彼には見えていた。 「……スゲェな、なんだよ、今の?」  正義の驚きと安堵の混ざった声に、港は「さぁ?」ととぼけて微笑した。足もとに落ちる、奇妙な形の手裏剣を拾いながら。 「サンキュー、みなみちゃん」 「会長、結城港はあれでよろしいのですか?」  SSSメンバーの一人が、屋上に振り返りながら尋ねた。 「放置したわけではない。明日、罰を与える」 「え!」  聞きとがめたみなみが、驚いて総司を見上げた。 「当然のことだ。彼は校内で暴力行為に及んだ。いかなる理由があろうと無罪では済まされない」 「そ、それはそうですが、でも、結城さんはただ天草さんを護りたくて……」 「ならば今後は学校全てを護ってもらうとしようか」 「ど、どういうことですか……?」  みなみの質問に答えたのは生徒会長ではなく、ノートパソコンを脇に抱えた男子生徒だった。 「彼を総帥の後任にするつもりなんですね」  「ええ!」みなみの驚きを、総司は無視した。 「次期生徒会長は立候補者が一名しかおらず、御門シンが信任投票により選ばれるだろう。とすると、あの男と対等になれる人間がSSSを統括すべきだ。でなければ、本来の機能を十全と活かせない。残念ながら、オレの時代には対等者がいなかったがな」 「会長……」 「東、おまえの従兄弟殿もあいつを認めていた。それくらいは期待させてもらいたいものだ」 「は、はい!」  みなみは自分が褒められる以上に嬉しかった。もし彼がSSSを統括してくれたなら、どんなに学校のためになるだろう。それに、自分にとっての励みとなるだろうか。 「しかし楽しみだ。御門はどれほど渋い顔をするかな」  総司は笑った。それは、SSSのメンバーが初めて聞いた彼の笑い声だった。 「コウのバカ、コウのバカ、コウのバカ、コウのバカ、コウのバカ……」  屋上には、港と良子の二人だけが残った。  良子は持ってきた救急箱を開けて、泣きながら、ふくれながら、怒りながら彼の手当てをした。 「コウのバカ、コウのバカ、コウのバカ、コウのバカ、コウのバカ……」 「もうわかったって。いいかげん、機嫌なおせよ」  彼は苦笑するしかない。怒鳴られるのは慣れていたが、泣き顔で非難されては反論もできなかった。 「……本当に、わかってる?」 「わかってる、わかってる」  良子は真っ赤になった眼で、彼を凝視した。 「信じられない」 「信じろって……」  しかし、そんな表情も長くは続かなかった。すこしずつ、表情が柔らかくなっていく。 「あのね、コウ?」 「うん?」 「ありがとう」 「なんだよ、いきなり?」  理由を問う港に、良子は顔を背けた。  答えのかわりに紡がれたのは、昔話だった。「コウは変わらないね」というのが、口火だった。 「ずっと前にも、こんなことあったよね。小学校三年の春、あたしは今みたいに、何人かの男の子にいじめられた」  港は言われて思い出した。確かにそのような出来事があった。もっとも、時期などの細部は思い出せず、かすかに記憶が残っているだけであったが。 「それまでも、あたしが泣いているといつもコウが来てくれたよね。だからそのときも来てくれた。泣きじゃくるあたしを慰めて、『いじめたヤツを殴ってやる』って本気で怒ってくれて……それがとても嬉しかった」 「……」 「でも、相手は三人。ケガをするのが目に見えてた。だからケンカしないでほしかった。やめて、て頼んだ」 「……オレのことだ、やめるわけないよな」 「うん」  良子は、懐かしいのか悲しいのか楽しいのか判断のつかない微笑でうなずいた。 「次の日、あたしの敵討ちをしたコウは、大ケガして入院した。……覚えてない?」 「……病院で寝たことがあるのは覚えてる」  腕と頭に包帯を巻かれ、うざったいと思った記憶がよみがえった。 「それからは、いじめられなくなった。だけど、コウは痛いおもいをして、病院で寝ていた。あたしにはそっちのほうが辛かった。本当に、悲しかった……」  良子は当時を思い出し、肩をふるわせた。  彼女がなぜ、高瀬たちへの報復をあんなに必死でとめたのか、港はようやくわかった。彼がまた大ケガするのを、見たくなかったからだ。犯人を知っていたわけではない。そのようなことは彼女にはどうでも良かったのだ。 「そのとき思ったの。あたしはもう、コウに甘えちゃいけない、あたしのためにコウを傷つけさせちゃいけないって……。だからあたしは髪を切って、剣道をはじめた。強くなりたかった。自分のことは自分で何とかできるくらい強くなって、コウに助けられなくてすむようになりたかった」  良子はそう決意したときと同じように、顔を空へ向けた。うっすらと涙が見えたが、表情は明るかった。 「勉強もがんばって、バカにされないようになろうと思った。でも、はじめたときは勉強も剣道も面白くなかったのよ? 勉強なんて全然わからないし、剣道なんてもっと最悪。臭いし痛いし手も足もマメばっかりになるし、ホント、すぐにでもやめたかった」  良子は笑ってみせたが、となりの港が複雑な表情を浮かべているのを知ると、吐息を一つ漏らした。 「でもね、コウが病院のベッドで、包帯だらけになっている姿を思い出すたび、あたしはがんばれた。明るく元気になって、強くなって、賢くなって、絶対だれにも非難されないようになるんだって……」 「良子……」 「そうして中学を卒業する頃になって、あたしはやっと自分に自信がもてるようになった。もうコウに頼らなくても大丈夫だって。でも、違っちゃった」  良子は笑顔になりたかった。けれど、その顔は完全な失敗作だった。  しかし港は、おそらく生まれて初めて、この大切な幼なじみに魅せられた。  彼女が抱えこんでいた数々の想いごと港は包みたくなり、無意識に両腕を伸ばした。 「コウ……?」  良子はとまどったが、抵抗はしなかった。  港は腕に力をこめた。  良子は彼の腕の中で思い出した。剣道をはじめてしばらくたったときを。強くなろう、賢くなろうと躍起になり、自分といると港に迷惑がかかると、自ら付き合いをやめようと思っていた頃を。  想いは通じて、港少年は少女を誘わなくなった。話しかけすらしなくなった。  彼女は寂しくて仕方がなかったが、これが最善だと信じ、ガマンをしていた。  ある日、少年は家族と遊園地へ行った。いつもであれば、少年が「一緒に行くぞ!」と命令のように誘って来ていたのに、彼はついに現れなかった。  良子は家で泣いた。これほど涙が出るものなのかと、子供心に思うほど泣き続けた。自分で決めたこと、望んだことだというのに、哀しさはおさまらなかった。  そんな娘を見て、母親は言った。 「良子、今度お父さんが水族館につれて行ってくれるって。港くんも誘っていらっしゃい」 「でも、わたしもう嫌われてるもん。わたし、コウくんと遊んじゃいけないんだもん」 「港くんは良子を嫌ったりしないわよ。遊んだっていいのよ」 「ほんとう……?」 「ええ。良子、あなたががんばるのが間違っているとは、お母さん、思わないわよ。でも、大好きな人にわざと嫌われたりするのはどうかな?」  少女はしゃくりあげただけで、何も答えられなかった。 「港くんに本当に感謝しているなら、その気持ちを素直に返してあげなさい。離れるのではなくて、相手に精一杯、感謝の気持ちを伝えなさい。いま離れたら、ずっと後悔するわよ」 「わたし、コウくんといていいの……?」 「もちろん。二人が仲良くしてくれると、お母さんたちも嬉しいわ。良子だって嬉しいでしょ?」 「うん!」 「……もし、コウが誰かを好きになったら、もし誰かがコウを好きになったら、わたしは笑って一歩退くと決めてた。協力してもよかった。それがわたしのできる最後の感謝だって思ってたから。だけど、やっぱりわたし、コウがいないとダメみたい。わたしは結局、いつまでも泣き虫のままなんだね……」 「泣き虫だっていいじゃないか。昔からの約束なんだから」  「コウ……」良子がつぶやいた呼びなれた名前は、彼女の幸福を構成する最後の一欠片だった。一欠片であり、すべてだった。彼女はかつて母親に言われたように、優輝に励まされたように、素直になりたかった。 「わたし、もう、言ってもいいのかな。ガマンしないで素直に気持ちを話していいのかな……?」  港は緩めていた腕の力を、もう一度強めた。良子の身体は、彼にすっぽりと収まるほど細かった。 「……オレ、知ってた。おまえの気持ち、知ってたんだ。でもオレは応えられなかった。オレ、自分が嫌いだったから。おまえを護れないと気づいたときから、オレは全部あきらめて、今までずっと楽な自分を作っていたんだ。わかってたのに……どうすればいいのか、わかってたはずなのに、何もしないでふてくされて、そのクセ、いざとなったら良子に頼ってばかりだった……」 「それでコウは、誰かに頼るのが嫌だったのね……」 「ああ、頼らなきゃ何もできない自分が嫌いだった。できるんだって思いたかった。けど努力もせず、他人の厚意に甘えて、いろんな人を傷つけてきたんだ。優輝にも良子にも何もしてやれてない。そんなオレが、誰かの好意なんて受けられるわけないだろう」 「コウは、今も自分が嫌い……?」 「いや、少しだけマシになった気はする。以前ほど嫌いじゃない」  即答する彼に、良子は涙が出るほど嬉しかった。彼は思い出して、変わったのだ。彼女の想う本当の結城港が、ここにいた。 「それなら、わたしの気持ち、受け取ってもらえる……?」 「オレなんかじゃ後悔するぞ」 「するわけないじゃない。……コウは、わたしじゃダメなの?」 「バ、バカ。オレはいつだっておまえのこと……」 「うん、そうだよね。コウはいつだって、わたしのこと……」  良子は口をつぐんだ。  港はずっと、彼女を護っていたかった。彼女にとっての一番の格好いい男でありたかった。それができなくなり、自分を隠して過ごしていた。けれど、その間もずっと彼女だけを見ていた。彼は、彼の望む本来の道にようやく戻ろうしていた。おたがいが相手を想うばかりに歩み寄ることができなかった、長い年月を越えて。  良子は瞳をすこしだけ潤ませて、真正面から傷だらけの港を見つめた。幼なじみで、友達で、最も身近な異性。しかし今は、おたがいにどこか違う雰囲気と表情だった。 「おまえには、隠し事できないんだな」 「うん、そうだよ。だから、これからもずっと――」  二人は、幼なじみという境界線を三秒だけ踏み越えた。  そして、泣いたあとの紅さではない紅で頬を染め、良子はほのかにほほえんだ。 「昔の約束、まもってね」     *    *    *  『ほんとに、おまえはオレがいないとダメだなぁ』  『うん……』  『しょうがないなぁ、おまえはオレが、ずっと護ってやるよ』  『ほんと? ずっとだよ? ずっとって、一生だよ?』  『一生……? う〜ん、まぁいいか。よし、一生護ってやる!』  『ほんと? ほんとね? 約束だよ!』  『ああ、約束だ』  『ミナくん、あたしを一生、護ってね』