「Pure☆Colors」 第十三話  「うぇ〜ん……」  少女は泣きながら、一直線に少年のもとへ走った。  一人でボール遊びをしていた少年は、近づいてくる小さな影を見つけると、楽しかった遊びを放棄して少女のほうへ駆けだした。 「どうした、なに泣いてんだよ?」 「あのね、またね、あの子たちがね、うわぁぁぁ〜ん……」  少女は必死に少年に伝えようとしたのだが、話そうと思い出したとたん、また悲しくなったらしい。さきほどより声をあげ、少年の前で泣きだした。 「また、あいつらか?」  少年はそれだけの情報ですぐに諒解した。  少女のほうでも、うなずくだけだった。 「くそ、あいつら――!」  少女を泣かせた原因をつくった者へ、少年は報復に向かおうとした。  が、小さな手が少年の服の裾をつかんだ。 「はなせよ、あいつら殴ってやる」  少女は泣くのをやめて、何度も首を振った。 「なんだよ、おまえ、バカにされたんだろ?」 「……いい」 「いいわけあるか、バカ。一度、おもいしらせたほうがいいんだよ」 「やめて」 「なんでだよ、バカ」 「……コウくん、怒ってくれたから、もういい」 「なんだよ、それ?」 「それにコウくん、ケガするから、やめて」  「バカ」無理に笑おうとする少女を見て、少年は呆れてしまった。 「ありがとう、コウくん」  港が浅い眠りから覚めたのは、もう一〇時を過ぎた頃だった。最近にしては珍しく眠りの時間が長かった。日曜日だから安心していたのだろうか。それとも疲れは着実に溜まっていたのだろうか。それに、妙な夢を見たような気もする。けれど彼は思い出せなかった。 「まぁ、どうでもいいか」  彼は布団から這い出し、顔を洗って冷蔵庫を開けた。 「見事なまでに何もない。今日は買い出しの日だな」  オレンジジュースとヨーグルト、それに昨日の冷や飯しかなかった。 「……これを雑炊にしたら美味いだろうか?」  「ありえん」想像するまでもなく彼は結論をだし、ビンの底に残ったジュースを一息で空けた。  そこに呼鈴が重なり、港は面倒くさそうに扉を開けた。 「おはよ、コウ」 「なんだ良子、こんな早く」 「ぜんぜん早くないでしょ」  良子は彼の断りも待たず、玄関を上がった。 「もしかしてまだ寝てた?」 「今起きたところだ」 「ふーん、朝ご飯は?」 「冷蔵庫を開けて絶望したところだ」 「それじゃ、外へ食べに行く?」 「んー、別に昼まで食べなくてもかまわないんだけどな。洗濯もしないとならないし」 「そっか。それじゃ手伝うわね。終わったらお昼を食べに行こうよ」  良子は壁にかかるエプロンをまとい、洗濯機に向かった。 「ていうか、おまえは何しに来たんだ?」 「暇だから遊びに」 「何をして?」 「そうねぇ、別に何でもいいんだけど、食事ついでにどこか行こうよ」 「だからなんでそうなるんだ?」 「コウはあたしと出かけるの、イヤなの?」 「別に。目的さえあれば」 「じゃ、食料の買い出しってことでどう?」 「あーあー、わかったわかった。一日付き合えっていうんだろ? あきらめた」 「うん、たまには、ね」  良子が屈託のない笑顔を浮かべるのを、港は奇妙に感じた。それに動揺している自分を発見したのも、彼には驚きだった。 「おまえ、何かあったか?」 「うーん、あったようななかったような。まだ正式に決まったわけじゃないから、どうしたものかってかんじかな」 「わかるように話せ」 「……剣道部の主将になるかも」 「おまえがか? おまえってそんなに強かったのか?」  港は彼女の試合を見たことがなかったので、実力を知らなかった。ただ強いらしいという噂を聞いていたくらいだった。 「まぁ、それなり? あたしはイヤだって断ったんだけど、今の主将が推すのよ」 「いいじゃないか、おまえ、面倒見はよさそうだし」  良子はため息をついた。 「うちの剣道部、男女混合よ? 女子が主将になった例なんてないんだから。男子の主将と男女の副主将ってのが通例なの」 「別にそうでなきゃいけない理由もないだろ。他に適任がいないならやればいいじゃないか」 「他人事だと思って。コウがそういう立場になったらやる?」 「ああ、もちろんだ!」 「……なに、そのとってつけたような爽やかさを演出した顔は」 「いやいや、そんなことはない。これがオレの持ち味じゃないか」 「……結局、自分にはそんな話はないって思ってるんじゃない」  「まあな」港はあっさりと認めた。そもそも部活動に所属していない彼には、そのような推薦はありえない。後日、このやりとりを苦笑して思い出すこととなるのだが、今は知らぬ身ゆえに他人事であった。 「けど、主将の眼はたしかだと思うぞ。おまえはオレから見ても、立派に主将がやれる人間だと信じてる」 「ウソくさい」 「ホントだって」  港は彼女のいいところをたくさん知っていた。自分が到底及ばない、人としてのいい部分を彼女は持っている。彼は最近になって、それを素直に認められるようになった。 「やってみろよ。おまえががんばる姿、オレは嫌いじゃない」 「コウ……」  「うん」良子は心を決めて、うなずいた。これほど自分を認めてくれる人がいるなら、彼女もやってみようという気になれた。 「よし、祝いに今日は全部おごってやる」 「ホントに?」 「ああ、ホントだ。さ、洗濯するか」 「うん!」  良子は期待もしていなかったご褒美に、嬉しくてたまらなかった。 「ここに来るのは小学校以来だな」 「うん」  駅前の高層ビルにある、さほど大きくない水族館に二人はいた。駅まで出てから決めた気まぐれの場所だ。  それでも二人にとっては懐かしく、そしてまた和む場所であった。ゆっくりと珍しい魚などを観て、普段と違う雰囲気を味わう。  そんな時間をしばらく過ごし、喫茶室で遅めの昼食をとる。喫茶室は熱帯魚の水槽にかこまれており、小さな群が人間に興味を示すことなく七色に輝きながら流れていく。 「ここって、こんなに狭かったっけ?」 「そうね。子供のときはもっと広く感じてたけど……」  小学生だった二人は、ガラスケースの上を見るために父親に肩を貸してもらっていた。自分より大きな魚がゆっくりと迫り、鋭い歯をむけられると、声をあげて頭にしがみついたような記憶があった。  「……クク」港は口につけかけたアイスコーヒーを下ろし、のどの奥で笑った。 「な、なによ突然。気持ち悪いわね」 「いや、ちょっと思い出してな。……良子、今もエイはダメなのか?」 「エイ?」  良子は首をかしげた。が、とある記憶にたどり着き、顔を赤らめた。 「つ、つまんないこと覚えてるわね!」  彼は本格的に笑った。その昔、巨大なイトマキエイが、まるで良子を脅かすように顔(腹)をあげて迫った。もちろんガラス越しではあったが、子供が恐怖を感じるには充分な迫力だった。 「いや、あのときの大泣きは忘れない」 「忘れなさい!」  顔中赤くして唸る良子に、彼は笑いをこらえる努力すらしなかった。  そうだ、あのころの良子は今とはぜんぜん違っていた。港はふと思い出した。今のように勝気でもない、強くもなかった。いつも自分の側で笑うか泣いていた。 「……」 「今度はどうしたのよ、真剣な顔して」 「なぁ……」 「な、なによ?」 「おまえいつから、かわいげがなくなったんだ?」  彼の鼻は、一瞬で砕けた。 「言うにことかいてアンタはー!」 「違う、誤解だ! オレはただ、昔の泣き虫が、どうしてこんなに変わったのかと訊きたかったんだ!」 「なによ、それ?」  良子は制裁を加えるための拳を引っ込め、問い返した。 「だから、オレの記憶によればおまえは泣き虫だったじゃないか。それがいつの間にか、ぜんぜん泣かなくなったろ? それがいつ、どうしてか訊いてるんだよ」 「そういうこと? ちゃんと相手に伝わるように話しなさいよね」  良子は怒りを静め、ため息をついて腰掛けなおした。 「そうね、そういえば、昔はよく泣いてたわよね」 「今では想像すらできないけどな」 「……昔はほら、安心して泣ける場所があったから、泣いててもいいんだと思ってたのよ」 「なんだよ、それ?」  意味がわからず聞き返す港に、良子ははにかんだ。「秘密」と、だけ答えて。 「じゃ、なんで泣かなくなったんだ?」 「……コウは覚えてない?」 「覚えてたら訊かない」 「そう。それじゃ教えない」 「おいおい、答えになってないぞ」  良子は困惑していた。そして答えではなく、また質問を返した。 「……コウは、昔のあたしのほうが好き?」 「また唐突な質問だな。だいたい、オレがきちんと理論立てて行動できるようになって、記憶もしっかりしている頃には、おまえはすでに今のおまえだった。昔の泣き虫だった頃の記憶なんか、思い出のほんの片隅だぞ? それと比較する意味があるのか?」 「それでもどっちがいい?」 「……今のほうがつきあいやすい、と思う。今さら泣き虫に戻られたって、対処の仕方がわからない」 「それじゃ、昔なんてどうでもいいじゃない」 「ふむ、そういうことか」  うまくはぐらかされた気もしたが、港はもう、追求するつもりはなかった。 「コウは昔のこと、どれくらい覚えてる?」 「うん? そうだな……」  港は腕を組んで考え込んでみたが、すぐに浮かぶ事柄は出てこなかった。 「自分の名前がイヤだったことは?」 「名前? そうだったっけ?」 「もう、だからアダ名で呼ばせるようにしたくせに」 「ああ、思い出した。そうだそうだ。おまえが『ミナくんミナくん』言うから、嫌いになったんだ」  港は懐かしい記憶に、頬がゆるんだ。 「あの時はただのワガママだと思ってたけど、なんでそれで嫌いになるわけ?」 「えーとたしか、ほら、『ミナト』じゃなくて『ミナ』だけで呼ばれると、軟弱な感じがするだろ? おまえ、絶対に『ミナト』って呼ばなかったしな」 「うわ、ホントにワガママ。それでちょうど教科書で見つけたもんだから、音読みで呼ばせるようになったのね」 「そっちのがマシだろ。今となっては優輝と区別をつけるためにも役に立ってるじゃないか」 「結果論もいいところだわ。もしかしてあたしたち、死ぬまで『コウ』で呼ばないといけないのかしら」 「アダ名ってそういうもんだろ。でも別に、今となってはどうでもいいけどな」 「じゃ、ミナくん」 「ヤメロ、気色悪い」  「あんたね……」良子は怒りかけて、急に可笑しくなった。たしかに自分で言って、気持ち悪い感じがした。 「……慣れちゃうんだね、いろんなことに」 「ああ、あれほど朝の弱かったオレが、いつの間にか一人で起きて学校へ行ってるわけだしな」 「だよね。もし、あたしたちが別々の道に進んだら、やっぱり慣れちゃうのかな」 「かもな。いつかは――」  言いかけて、港は立ち上がった。 「さて行くか。買い出しついでに、夏服も見に行こうと思ってたんだ」 「うん、つきあう」 「当たり前だ。今日のおまえはオレの荷物持ちなんだからな」 「なによ、それ」  良子は不満げに口を尖らせる。けれど長くは続かない。まだ当分はとなりにいてもいいのだと、言われたような気がしたからだ。  駅前のショッピングモールを歩き回り、それぞれが買い物を済ませた。夕闇も深まり、早い家庭では夕飯が始まっているような時刻であった。  二人は買い物中も昔と今を語りあい続け、話題は尽きなかった。  帰り道、港は幼なじみに言った。 「さっき水族館でオレたちが別々の道についたらって話ししたろ? あれ、オレは実感したことあるんだ」 「え?」 「おまえ、剣道を始めたころってずいぶんと付き合いが悪くなったじゃないか。それに塾まで通いだしてさ」 「うん……」  良子は、彼に眼すら向けられなかった。 「休みの日もぜんぜん誘いにのらないし、だからオレ、おまえと遊ぶのをやめようとしたんだ」 「……ごめん……」 「おいおい、今さらあやまるなって。ただの昔話だ。それに今、こうしてるだろうが」 「そう…だよね。うん、ごめん」  再び謝罪する良子の頭を、荷物のない左手で撫でるように軽く叩いた。 「もう、小学生みたいなことしないでよ!」  港は笑いながら「すまん」とあやまり、話を進めた。 「実際、オレは他の男友達と遊ぶようになった。うちの両親が良子も誘って遊園地に行こうと言っても、オレは無駄だと思って反対したっけ。行楽地におまえがいっしょじゃなかったのは、確かあれ一度きりだな」 「そう……」 「でもさ、やっぱり何か物足りなかったんだろうな。以前二人でアルバムを見ただろ? そのあと厳重にテープでとめられた写真袋が見つかったんだ。開けてみたらそのときの写真が詰まってた。当時のオレは、それを見ても楽しくなかったんだな」  自分の過去に、港は笑った。 「……あたしも覚えてるよ。剣道はじめて、面白くなって、勉強もわかるようになると楽しくて、そればっかりになっちゃった。遊ぶこと、ほとんどなくなったよね」 「ああ。集団登校ですら話もしなくなった。いま思えば、あれが別の道に進むきっかけだったんだろうな。あのまま進めば……」 「それがどうして今もいっしょにいるか、コウは覚えてる?」 「……そういえば、何でだ?」  港は首をかしげた。彼女はその後も、剣道も塾も続けた。接点は減っていくばかりのはずだった。それなのに、彼女は今も彼のとなりにいた。 「覚えてないならいいよ。あたしも話したくない」  良子は照れくさいような、脹れたような顔でそっぽを向いた。 「う〜ん、そう言われると思い出したくなる」 「思い出さなくていいってば!」  良子は真っ赤になって怒鳴った。  二人はその後もたわいない話をしながら帰路についた。壁一枚しか隔てるもののない、同じ建物へと。 「なんだよ、今日は塾なんだろ。早く行けよ」  少年は扉の向こうにいる少女に、憤りを感じていた。何度誘っても遊ぼうとはせず、いいかげんかまうのが馬鹿らしくなっていた。だから先週の遊園地にも誘わなかった。もうこの少女は、自分といるのが嫌になったに違いない、と本気で思っていた。  それが急に我が家の呼鈴を鳴らし、顔を見せたのである。 「うん、塾、これから行く……」 「じゃ、行けよ。オレはこれからテレビ見るんだから」  少女はスカートの裾を握ってうつむいたまま、何も答えなかった。 「用がないなら閉めるぞ。じゃあな」 「待って!」  少女は閉ざされそうになった扉の向こうに叫んだ。 「……なんだよ?」 「あ、あのね、コウくん、あの……」 「早く言えよ。テレビ、はじまっちゃうだろ」 「あのね、今度の日曜日、いっしょに水族館行こう!」 「……え?」 「コウくんと、いっしょに、水族館、行きたい……」  少女ははじめの一声に全力を出し切り、それ以後の言葉はだんだんと小さくなっていった。 「おまえ、オレと遊びたくないんだろ?」 「ちがう……」 「剣道とか塾が面白いんだろ」 「ちがう……」 「じゃあ、なんで誘っても遊ばないんだよ」 「……ごめんなさい」  少女は堪えきれず、泣き出した。  ボロボロと涙をこぼす少女に、少年はいつもしていたように頭を撫でた。 「わかったよ、今度の日曜日だな。おじさんが連れて行ってくれるんだな」 「うん……。お父さんが、連れて行って、くれるから……いっしょに……」 「わかったからもう泣くなよ。これから塾行くんだろ。泣いてると笑われるぞ」 「うん……。もう泣かないから、また、遊んでくれるよね……」 「バカ、遊ばなかったのはおまえだ」  少年が力を込めて少女の髪をかき回すと、彼女は嬉しくなった。いつもどおりの少年が、すぐそばにいたからだ。 「うん、ごめんね……」  港は頭をかきながら上体を起こした。ひどく懐かしい夢を見ていた。髪の短い泣き虫な少女と、自己中心的で怒ってばかりの少年の夢。それが自分であることに、港は気づいていた。 「そうか、オレは思い出したかったんだな……」  昨日の良子との会話の結末。それが今の夢だった。ずっと遊ぶことを拒否していた少女が、泣きながら遊びたいと言ってきたあの日。あれ以来、少年はまた少女とともにいることを選んだ。  港はすがすがしい気分で布団から這い出し、大きく伸びをした。  今日からまた一週間、学校がはじまる。  気分良く教室のドアを開けた港は、いきなり鋭いタックルをかまされ、廊下の壁に激突した。 「なんだぁ、いきなり!」  幸い頭は打たなかったが、衝撃ですぐには相手を確認できなかった。その加害者は、彼とともに床にひざまずいていた。 「……良子?」  港の声にハッとして、彼女が顔をあげた。  悔しさと悲しさと辛さをない交ぜにした表情で満ちた、彼が最も見たくない良子だった。 「良子ちゃん!」  彼女を追ってきた優輝が、せっぱつまったような悲しげな表情を浮かべている。  良子は立ち上がると、港に謝罪もせず、廊下のむこうへと消えていった。 「コウくん……」  優輝は何かを言おうとして言えず、良子の後を追って走っていった。  当然の疑問に悪い予感を重ね、港は教室に飛びこんだ。  ざわめく教室。  良子の机を囲むクラスメイト。  中途半端な消されかたをした黒板。 「コウ……」 「セイギ、何してんだよ」  正義は左手にベンジン、右手に雑巾を持って良子の机を拭いていた。 「いや、そのな……」  言いよどむ彼と群がるクラスメイトを押しのけ、彼は良子の机を見た。  消えかかった油性マジックのあとが、かつてそこにあった文字を想像させた。彼の考えどおりなら、良い言葉などとは無縁な、卑しむべきもののはずだった。  その瞬間、港の全身に激しい憤りが突き抜け、激昂ではなく冷淡にさせた。 「セイギ、悪いがきれいにしといてくれ。それが終わったら、オレの机と交換だ」 「ああ……」  彼はすぐに実行した。 「……で、誰だよ、これ?」  重苦しく吐き出された港の声に、周囲の人間が身震いした。  それだけで、反応はなかった。  彼は面倒くさそうに質問を繰り返した。 「誰がやったんだと、訊いてるんだけど?」  彼が視線を巡らせると、皆一様に目をそらす。  しばらく沈黙を保った彼だが、誰からも答えがないと苛立ちに机を蹴りつけた。 「自分から言えないなら消去法でもオレはかまわないぜ。一人ひとり訊いていって、腕ずくで吐かせてもいい。それで残ったヤツが犯人だ」  凶暴な脅迫に、クラスメイトはさらに硬化した。  そんな彼の肩を、友人が叩いた。 「コウ、威圧すんなよ。言いたくても言えなくなるだろ?」 「威圧だって? オレが? オレはただ、真実を知りたいだけだ」 「とにかくコウ、ここはオレにまかせて、おまえは良子ちゃんのところに行ってやれよ」 「良子? ……そうか、そうだ!」  港はハッとして、正義に「まかせる」といって教室から飛び出した。  彼が消えると、教室に安堵の空気が流れはじめた。 「コエ〜、あそこまでキレるか、普通」 「本気で消去法をやりかねなかったよな、アイツ」 「結城ってさ、ああ見えてケンカだけはやたら強いらしいぜ」 「え、そうなの? 結城くんて、冗談いってるところしか見たことないから知らなかった」  口々に発せられるクラスの噂に、正義は我慢ならなかった。 「やめろ、おまえら!」  手を休めることなく良子の机を拭いていた正義の一喝に、教室はまたも沈黙した。 「友達のために必死になってる人間を捕まえて、勝手なこと言ってんじゃねぇよ。自分が犯人でないっていうなら、少しは協力しろ」  正義の言葉にクラスメイトはざわめき、その中から一人の男子生徒が彼に声をかけた。 「あのさ、たぶんオレが最初の発見者だと思う……」 「そうか。悪いな、助かるよ。何時ごろの話だ?」  始業を告げるチャイムの三分前、港は屋上にいた優輝と良子を発見した。  優輝がベンチに座る良子に必死で話しかけ、気分を回復させようと励んでいる。だが良子は、明るさのかけらも見せず、自分のカラに閉じこもったままだった。 「優輝」 「コウくん……」 「授業はじまるから、教室に戻ったほうがいい」  「でも……」と優輝は良子に視線を移す。 「あとはオレがついててやるから」 「……うん」  優輝が「お願い」と屋上を去ると、港は良子のとなりに乱暴に座った。  彼は何も言わなかった。  彼女も何も言わなかった。  二人が沈黙するなか、チャイムが鳴った。 「授業、はじまったな」  優等生の良子は始業のチャイムをどうとらえているのだろうか、などというつまらない疑問が港には浮かんだが、すぐに頭から消え去った。  またしばしの沈黙を挟み、港は言った。 「……もう、泣いていいぞ。誰もいない」  きっかり計ったような一〇秒後、良子はつぶやいた。 「……コウがいる」 「大丈夫だ。ここにいるオレは、じつは立体映像で、本体は天国にいるのだ」 「……死んでるわ」 「じゃあ、じつは幽体離脱していて、本体は家で寝てる」 「……それも、死んでるような気がする」 「ムム、あいかわらず鋭いツッコミだな」 「……バカ」  良子は沈めていた顔を上げ、彼を見た。何とか笑おうとしているようだが、うまくはいかなかった。  顔が崩れ、紅潮し、涙をあふれさす。 「うあぁぁぁぁぁ……!」  泣き叫ぶ良子の背中を、港はなでてやった。  港は改めて、彼女をこのような姿にした人間に怒りが湧いてきた。絶対に許さない。いかなる理由があろうと、良子を泣かせた罪は、かならず償わせてやる。彼は自分に誓った。  一〇分以上も泣き続け、良子はようやく落ち着きはじめた。 「大丈夫か?」  良子はハンカチで目を拭いながら、「うん」とうなずいた。 「何があったか、話せるか?」  良子はもう一度うなずき、言葉をまとめるように話しはじめた。 「……あたしにもよくわからない。朝練が終わって、教室に戻ったの。そしたらみんながあたしに注目して、優輝が黒板を消してて、おかしいなって思ったの。それで机を見たら――」  良子の目に涙のかけらが浮かぶ。  港は慰める方法が思いつかず、とっさに良子の頭を抱えこんで、胸に押しつけた。 「泣くな。泣いたって昔ほどわかってやれないんだから」  なぜ、とっさにそんな言葉が出たのか、彼にはわからなかった。しかし、自分自身の言動に不思議な違和感を覚える彼とは対照的に、良子は安心したように身体をあずけていた。  良子は話を続けた。 「机には、よくあるような悪口が書かれてた。それで頭が真っ白になって、教室を飛び出したの」 「そうか……。誰がやったかなんて、わかるわけないよな」 「うん。見たことない筆跡だったし、わざと崩してるようにも見えたし……」 「絶対に犯人を見つけてやる。そして相応の報いをくれてや――」  「ダメっ!」良子は港の手をはなれ、真正面から訴えかけた。 「それはダメ! 絶対ダメ!」 「な、なんだよ? どうしてダメなんだ?」 「何でもいいからダメ! あたしならもう平気だから! ぜんぜん気にしてないから!」 「バカ、あんなことされて、気にならないワケないだろ?」 「たとえそうでもやめて! お願いだから!」 「良子……?」 「あたしはいいの。コウが怒ってくれて……心配してくれただけでいいの」  『怒ってくれたから、いい』 「……!」  港は既視感を刺激された。遠い昔、これと同じようなことがあった気がする。しかしそれを思い出す間もなく、良子の願いが聞こえた。 「本当に、仕返しとか考えないでね。お願いだから」  良子は涙をにじませ、肩をふるわせていた。 「……わかったよ、だから泣くな」  なぜ彼女がこうまで犯人をかばうのか、港には理解できなかった。本当は犯人を知っていてかばおうとしているのか、それとも自分一人で解決しようとしているのか、それすらも判然としない。 「絶対だからね?」 「ああ、約束するって。だからもう泣くなよな。泣き虫の良子なんか、見たくないぞ」  目のはしの涙をぬぐい、良子はおちついた表情で「うん」とうなずいた。 「まだ一時間目が終わるまで三〇分はあるな」 「うん、ごめんね」 「いいさ、別に」  港はとなりの少女の頭を、ガシガシとかきまわした。 「な、なによ? そういうのやめてってば」 「……今朝、夢をみた。小さい頃のおまえが、泣きながら水族館に行こうって誘ってくる夢」 「あぅ、思い出したの……?」 「ああ。オレ、おまえにちゃんと言わないといけないことがある。今すぐは無理だけど、そのうち、きっと……」 「コウ……?」 「悪いな、もう少し……もう少しで言えそうなんだ」 「うん……」 「あえ? なんかあった?」  うるちは不信そうに彼女を眺め回した。  昼食をとりに現れた彼女は、良子の不自然さにすぐに気づいた。実は、優輝も正義も感じとってはいたが、口にはしないでいた。  良子が上機嫌なのである。今朝のことなどなかったように、晴れやかであった。  優輝は、今朝の出来事を忘れるためにわざとはしゃいでいるのかと思っていたが、どうも違和感があった。 「ん? 別に。どうして?」 「いやー、あからさまに嬉そうだよ?」  良子では埒が明かないとみたのか、うるちは港に向きかえった。 「コウ、何をしたの?」 「なんで全部オレの仕業と考えるんだ!」 「だって何かするとしたらコウしかいないじゃん」 「おまえな……」 「あえ? なにこの臭い。コウの机、ヘンな臭いしない?」 「オレの加齢臭だ」 「カレー臭? カレー作ったの?」 「お子様にはわからないギャグだったか。おまえは黙ってせんべいでも食ってろ」 「あえー」  うるちはわけもわからず虐げられたまま、せんべいを食べはじめた。  同時刻、生徒会室のさらに奥の部屋では、会議が開かれていた。 「今朝、二年B組で問題があったようだな」  生徒会長としてではなく生徒会特殊部隊総帥として、北枕総司は一同に問いかけた。 「はい。天草良子という女子生徒に対しての、誹謗中傷のイタズラ書きがありました」  答えたのは、小柄なメガネの男子生徒だった。ノートパソコンを操り、まとめた情報をすぐに伝えられるように準備をしていた。 「犯人の特定は?」 「まだです」 「被害者の情報はあるか?」 「剣道部の有名人ですよ。実力的には部内でも五本の指に入ります。成績もよく、つねに上位に食い込んでいます。性格も、他人に恨まれるようなタイプではないですね。噂によれば、剣道部の次期主将候補筆頭だとか」 「なるほど、妬みの線が強そうだな」  総司はうなずき、「交友関係は?」とつなげた。  パソコンの操作をしていた彼が答える前に、ポニーテールの女子生徒が恐る恐る発言した。 「あ、あの、天草さんはわたしの友人で……、その…結城さんの幼なじみです……」 「ユウキ? 結城港のことか?」 「はい。産まれたときからのお付き合いだそうです」 「またアイツか……」  総帥は息を吐いた。このところ、結城港関連の事件が多すぎるような気がする。結果的にすべてがうまくまとまってはいるが、どうも問題を起こす性癖があるらしい。もっとも、すべてが彼の責任ではないと、わかってはいるのだが。 「しばらく様子をみる。あの男なら、自力で何とかするだろう」  総帥は彼を信頼しているというより、テストをしているようにみなみには思えた。それが正鵠を射ていたのが判明するのは、少しだけ先のことである。  「コウ、たまには遊んで帰らないか?」  放課後、席を立とうとした港に、正義は陽気に声をかけた。 「あ、ああ、たまにはいいな。ゲーセンでも行くか?」 「おう、新作が入ったらしいぞ」  二人は優輝と良子に「さよなら」を告げて、教室を出た。  機嫌よく廊下を歩いていた正義は、本来、下るはずの階段を上がっていった。港はいぶかしがることもなく、黙ってついていった。  屋上へつき、周囲に人がいないのを確認すると、彼は陽気の仮面を脱ぎすてた。 「オレなりに調べたんだが――」 「なにかわかったのか?」  正義ははじめから朝の事件について話しをするつもりであった。  港もそれと気づいたため、話を合わせていた。 「どうやら、あれが書かれたのは七時半より早い時間らしい」 「どうしてわかった?」 「ほれ、うちのクラスの佐川、あいつが教室に入ったとき、すでに書かれていたって言うんだ」 「佐川? とくに印象のない、無難とか安全とか穏便とかが好きそうな、あいつか」 「オレたちと仲がいいわけでもないが、反目しあってるわけでもないし、情報は間違ってないと思うぜ」 「だな。でも、佐川はなんでそんな時間に?」 「化学部の実験レポートを書くために、図書室に用があったんだと」 「……話は信用はするが、しかし、知ってたなら消しておくとか何かあるだろうに」 「まぁ、そう言うなよ。関わりあいたくないってのは、よくある心理だろ。で、情報はこれしかないが、すこしは役にたったか?」 「たたせよう」  正義が階段を降りて行くと、港も帰ろうとした。が、良子を一人で帰らせる危険に気づき、いつもどおり図書室へと向かった。何事もない一日であれば、今頃、美術造形部へ顔を出し、作品の着色について盛り上がっていたことだろう。けれど、そんな気分には到底なれず、また、暗い顔をした人間がいてはかぐやの迷惑にしかならない。港は彼女にすまないと思いつつ、教科書を広げた。 「帰りを待ってたら怪しまれるかもしれないけど、そんなの気にしてられないな」  どのみち、集中できそうにはなかった。いい天気なのにな、と彼は意味もなく思った。  その彼の視線が、空ではなく眼下の中庭を眺めていたら、彼は二人に気づいたことだろう。そこにはベンチに並んで座る、優輝と良子がいた。 「……そう、良子ちゃんはずっと、そう思ってたんだ」 「だからあたしはがんばってこれた。それが一番だって信じてた。でも、やっぱり ――」 「わかってる。良子ちゃんが言いたいこと、それに良子ちゃんの気持ち」 「ごめん。本当にごめんなさい。あたし、もう平気だって、思ってたのに……。優輝のこと、叩いたりもしたのに……」 「そんなのいいよ。はじめから知ってたことだもの。素直になろうよ、良子ちゃんも、コウくんも。でないともう、後悔じゃすまなくなるよ」  優輝は良子の手をとった。大切な親友を励ますように。 「ごめん、ありがとう……」 「うん」 「でも、優輝は本当にいいの?」 「わたしは一度コウくんを裏切ったもの。もしあのとき今と同じ答えがあったら、きっと良子ちゃんと争ってでも自分の気持ちをとったと思う。でも、もう時は戻せないから」 「……」 「そんな顔しないで。逆に、あのことでわたしは変われたのよ。だから感謝してる」 「優輝……」 「ずっと友達でいようね。あんなに恥ずかしい経験をいっしょにしたんだもん。いつか二人で、思い出して笑おう?」 「うん。約束」  二人は誓い合うように、指を絡ませた。  その後、優輝と別れ、良子は剣道部に出席した。  下校時間になり、駐輪場へ着くと、正義と帰ったはずの港が待っていた。しかし彼女は疑問を口にしなかった。 「待たせた?」 「いや、ちょうどだ」 「そう? じゃ、帰ろうか」  港は「ああ」と答えて、ペダルを踏んだ。良子はすぐに追いつき、二人は並んで帰った。 「さて、飯も食ったしどうするか」  港は良子の願いを無視し、犯人捜しを続けるつもりだった。犯人はきっと同じ犯行を繰り返すと疑っていなかった。陰湿なイジメは回を重ねてこそ意味があるのだから。  そこで問題になるのが、犯人――もしくは犯人たち――は何時に仕掛けを施すかである。常識的に考えて、校舎に生徒がいなくなる午後七時以降から、早朝練習の生徒が登校する午前七時前の間しかありえない。  港は朝一番に教室で見張ることに決め、早々に眠りについた。  翌早朝、彼は校門を飛び越えて、学校に降り立った。  一般生徒は、まだ校内に入れない時間である。  彼は気づかれないように下駄箱へ進入し、クツを履きかえて教室へ向かった。  どこか隠れる場所はと探してみるが、掃除用具の収まったロッカー以外に選択肢はなかった。東みなみならば天井に張り付く芸当もできただろうが、彼には真似のできないスキルであった。 「くあ、雑巾くせぇ。だれだよ、きのう使ったヤツは。ちゃんと絞れよな」  これで犯人がこなかったら、タダのバカだ。港はそんなことを思いながら、犯人が現れるのに期待した。  待つこと一五分。  かすかな話し声が、廊下に反響している。 「きのうはスカッとしたぜ。話によると、あいつ泣いて教室を飛び出したってよ」 「でも二時間目からは、普通に授業うけてたそうじゃないか」 「だからまたやるんだろ? 徹底的にやらないと、オレの気がすまない」 「おーおー、暗いねぇ」 「小川だって荷担してるじゃないか」 「まぁな、オレも天草にやられたクチだからな」  二人組が、教室へ悪ぶれもなく入ってきた。  港は彼らを殴り倒したい衝動をこらえて、ロッカーの隙間から様子をうかがう。 「あれ、あいつら……」  彼らの顔には、覚えがあった。記憶に間違いがなければ、同学年の剣道部員たちだ。中間試験の発表のときと、先週末に駐輪場で見かけている。背の高いほうは、『高瀬』と良子が呼んでいた。とすると、背の低いほうが『小川』だろう。もう一人、体格のいい坊主頭が仲間にいたはずだが、今回は無関係のようだ。  その小川が、黄色のチョークを手にした。 「あいつ生意気なんだよな、女のクセに」  応じるように、高瀬もチョークを取り、黒板に向かった。 「そうそう。それによ、今度、主将になるらしいぜ」 「ホントかよ?」 「ああ、このまえ主将が話してるのを聞いちまった」  二人は会話を続けながら、黒板にあらんかぎりの語彙をつかって、良子に対する侮辱を書き殴っていた。 「ムカつくんだよ、女のクセに強ぇての。成績もオレより上だし、かわいげはねぇし、いい気になってんじゃねぇっての、バカが」  港はもう、ガマンの限界だった。証拠もそろった。理由もわかった。あとはただ、怒りに任せてもいいはずだった。  港はロッカーを蹴破って、一歩を踏みだした。 「な、なんだ!」  二人は驚いて、音の発生源である後ろを振り返った。  そして人がいる事実に、言葉を失っていた。 「おまえら……!」  港はゆっくりと進んでいった。一歩ごとに怒りを確認するように。敵を倒すことだけを考えて。 「あ、あいつ結城だ」 「結城って、天草の幼なじみの?」 「ああ。マズイぜ、どうする?」 「どうするったって……」  不意の出現に、二人は浮き足立っていた。  港は自分の優位さを知った。 「おまえら、何をしてるかわかっているんだろうな? 素直に詫びるなら、許してやってもいい」  そう譲歩する港ではあったが、本心では二人が開き直ってくれるのを期待していた。そうなれば殴り倒すことに、まったくためらいがなくなるからだ。  彼は計算して、相手と三歩の距離で止まった。 「フン、腹いせの八つ当たりでこんな陰険なことをするとは、情けないヤツらだ。おまえら、それでも男かよ。卑怯者」  「なんだとぉ!」挑発に、高瀬がかかった。  港の胸ぐらをつかもうと、彼は手を伸ばす。  しかしこれこそが港の望んだ展開であった。しかもタイミングも申し分なかった。  港の拳に、衝撃が走る。  それ以上の鈍痛が、高瀬の鼻下を襲った。  顔面へのカウンターだった。あの三歩の距離が、タイミングをつかむ時間と、威力を倍増させるカギだった。  高瀬は床にたたきつけられた。  鼻血がきれいな赤いアーチを描き、倒れた高瀬の制服に花をそえた。  高瀬はうめいた。呼吸も一瞬とまったようだ。  「おまえはどうする?」港は小川を睨みつけた。  彼は答えない。 「高瀬を殴って少しは気が晴れた。良子に土下座してあやまるなら、手は出さないでいてやる」  起きあがろうとする高瀬の腹を、港は蹴りつけた。彼の足下で、高瀬が涙目になりながらせきこんだ。 「どうするんだよ?」 「……」  小川には、すでに選択の余地はなかった。もし彼らが竹刀なり木刀なりを持っていれば、素手の港などは相手ではなかっただろう。  逆に、港は素手ならば二人だろうと何とかなると思っていた。しかもうち一人は、すでに戦力外である。  小川が沈黙して一分、その間に高瀬は追加で三発蹴られていた。  廊下から、上履きのこすれる音が聞こえてきた。 「だれか来るぜ。この状況を見られたら、おまえらマズイんじゃないか?」  港の言葉に、小川はさらにひるんだ。  予告もなく、扉は開かれた。  だれが来たとしても、自分に不利になることはない。港はそう思っていた。  が―― 「おい、教室のほうは終わ――」  入ってきた坊主頭の大男は、状況がつかめず、言葉をのみこんだ。  港は、瞬間的に危機を悟った。  彼は高瀬らとよく行動を共にしていた剣道部員だった。言いかけた言葉からしても、今回の共犯であるのは疑いなかった。  港は反射的に身を退いた。  小川は、そんな彼を見逃さない。一瞬のチャンスを、正確に行動へと直結させたのだ。  港の左頬に鈍痛が走る。  続いてもう一発。  倒れた彼に覆い被さり、小川は「中山!」と叫ぶ。  港も反撃に転じようとした。  しかし、中山と呼ばれた男は勘が鋭いらしく、疑問を浮かべる前に行動し、港の右腕を封じた。  このさきを、港はよく覚えていない。何度なぐられたか、蹴られたか、記憶も意識もなかった。遠くに聞こえたのは、高瀬の怒りに満ちた声だった。 「天草といい、コイツといい、ふざけたマネばかりしやがって。いいか結城、もしチクったら、今度はこんなモンじゃすまねぇぞ。天草にも報復してやるからな、覚えとけよ」  港は闇へ墜ちていった。  暗く深い、闇の底へと。