「Pure☆Colors」 第十二話  突然の優輝の涙からわずか十数時間後に、港は学校で彼女と再会した。必然の中で彼女は、自然であった笑顔を隠し、疲れ果てた顔で機械的に行動をしていた。  いろいろと疑問を持っていた港ではあったが、優輝の姿にすべてを呑みこんだ。 「優輝?」 「おはよう、コウくん。きのうはごめんなさい……」 「それより大丈夫なのか? 顔色悪いぞ」 「大丈夫だから…心配しないで……」  優輝が今にも泣き出しそうになったので、港は黙って引き下がった。今の彼女には、自分の存在が重いのだとわかってしまった。   良子もそんな彼女にかける言葉がなく、港の背中をつついた。 「どうしたの? きのう、何かあった?」 「オレにもわからない。話を聞きたいところなんだけど、あれじゃ……」 「そうね。わかった、落ち着いたらあたしが聞いてみるわ」 「そうだな、頼む」  良子は「うん」とうなずいた。  彼女が優輝と話をしたのは、放課後になってからだった。今日は土曜日で昼休みはなく、ゆっくりと時間をとるには放課後を待つしかなかった。  しばらくの間、二人は下校する生徒や、部活動に励もうとする運動部員たちを屋上から眺めていた。 「……コウくんは?」 「お昼を食べたら図書室に行くって言ってた。優輝のこと心配してたけど、あたしが話を聞くからって」 「そう。ごめんなさい」 「あやまるより、わけは話せる? みんな心配してるよ」 「うん。良子ちゃんにだけは話さないといけないって思ってたから」 「それじゃコウには言わないほうがいい?」 「良子ちゃんの判断に任せる」  「わかった」良子は優輝を隅のベンチに誘った。  優輝は腰を落ち着けると、ふぅと息を吐いた。 「わたし、きのう、コウくんに告白しようとしたの」  良子は内心で身構えたが、表面上は何事もないように「そう」と答えていた。それが彼女の決めていたことだった。優輝が彼に好意を抱いているのは知っていたし、協力もしていた。あとは彼女が自分で港に伝えるだけだった。ずいぶんと時間がかかったが、優輝は実行しようとしていたのだ。 「でもできなかった……?」 「あと一言だったそのときに、メールが届いたの」 「誰から?」 「以前の街に住んでいる幼なじみ……」  良子は優輝から、その存在だけは聞いていた。あくまで存在だけで、どういう人間かまでは知らない。男か、女かさえ。 「何か事故でもあったの?」 「ううん、そういうのじゃないの。わたしの幼なじみってね、頭のいい真面目な女の子と、元気で毎日が楽しそうな男の子なのよ」  優輝は良子の瞳を見た。その奥に、二人を探しているかのように。 「良子ちゃんとコウくんと同じ」 「……!」 「そっくりなの、彼とコウくん。外見じゃなくて雰囲気とか性格とか。朝が弱くて、明るくて、周りも見ずに先を走って、でも困っていると不器用に手を差し伸べてくれて……」  優輝の手には、いつの間にか携帯電話がにぎられていた。ストラップが擦れあう音が聞こえる。 「優輝、まさか……」 「うん。わたしは彼が好きだった」 「優輝……!」  良子は憤りを感じた。良子の大切な幼なじみは、優輝の幼なじみの代わりではない。似ているから、それだけで港が好きなのだとしたら、良子は許せなかった。 「わたしはコウくんに彼を重ねていたの。だから好きになった。わたしはきのうのメールを見て、それに気がついた」  優輝は悪びれなかった。まっすぐに、良子の眼を見ていた。 「……それで?」 「それで、ぜんぶ」  優輝の話は終わった。良子はしばらく待ったが、彼女からの否定の言葉は続かなかった。きっかけは何でもいい。それこそ好きだった人の影からはじまってもかまわないだろう。けれど、最後まで身代わりとしてだなんて、あまりではないか。本当の結城港を、彼女は見てはいなかった。結城港は、朝が弱くて、明るくて、周りも見ずに先を走って、でも困っていると不器用に手を差し伸べるような人間だった。けれど、それだけではないのに!  良子はベンチから立ち上がり、優輝の頬を打った。手加減のない、本気の怒りだった。  優輝は何も言わず、ただ涙を浮かべてうつむいた。  良子はそれすらも我慢ならなかったが、吐き捨てたい気持ちを振り返る勢いに変えて、優輝のそばを離れた。 「ごめんなさい……」  遅れて出た優輝のつぶやきは、良子には届かなかった。  良子はその足で図書室へ向かった。乱暴に扉を開け、いつもの席に彼がいるのを確認すると足早に近づいた。 「どうした、良子?」 「帰るわよ、コウ」 「なんだよ、いきなり。優輝との話は終わったのか?」 「ええ、外でたっぷり聞かせてあげるわよ」  良子の剣幕にいぶかしみながらも、港は教材をカバンにつめ、彼女に従って廊下へ出た。  彼女は彼の手を引き、一心不乱に下駄箱へ進んだ。 「おい、どうしたんだよ。おまえらしくもない」 「あたしなんてどうでもいいの! 許せないのよ、コウをバカにするなんて!」 「はぁ?」  港には理解できない。優輝のことを言っているのだろうが、彼女が他人を馬鹿にするなど想像もできなかった。 「帰るにしても、おまえ、カバンどうした? 教室じゃないのか?」 「……!」  良子は煮え切らない港にも腹が立った。自分のことを言われているのに、よりにもよってカバンの心配である。いいかげん怒鳴りたくなった。 「あんたね――!」 「自転車の鍵もカバンのなかだろ?」  彼女をあしらうように、港が言った。 「うー、もう、自転車置き場で待ってなさいッ!」  良子は憤激を残し、教室へ走っていった。  港は肩をすくめ、おとなしく自転車置き場へ向かった。 「……で、何がどうした?」  追いついてきた良子に、港は尋ねた。 「ここで話せっての?」 「誰もいないだろうが。おまえが叫ばなければ誰にも聞こえないって」 「……わかったわよ」  カバンを取りに行くというワン・クッションが挟まれ、彼女もいくらか落ち着いていた。  二人はレンガ造りの花壇に座った。 「おまえがオレ以外にこんなに怒るなんて珍しいな。初めてじゃないか?」  港はからかうように良子の頭を撫でた。彼女は当然のように振り払う。 「だから言ってるでしょ、バカにされてるのはあんたなのよ? もう少し真剣になりなさいよ」 「だからわからないって言ってるだろ。ちゃんと話せよ」 「だからね……」  良子はすべてを話そうとした。けれど、それを語るには優輝が彼を好きであったことも言わねばならなかった。いっそ彼は知らないままのほうが、傷にならないのではないだろうか。 「……どうした?」 「あ、うん、えと……。あは、考えてみると大したことじゃなかったわ、うん。ゴメンゴメン、気にしないで」 「おまえさ、自分が基本的に嘘のつけない人間だって、まだ気づいてないのか?」 「あー……」  良子はあきらめてうなだれた。 「……優輝がさ」 「うん」 「もし、もしだけど、優輝がコウのこと好きだとしたら、どうする?」 「……ああ、そういうことか」  きのうの彼女の様子から、可能性の一つとしてありえると港も思っていた。けれどその直後の彼女の変化に、確率の低さを感じていた。他に何か、もっと重要な話があったのではないかと、彼は思っていた。  「もし、そうだとしたら……」港は考えてみた。どうするだろうかと。そういう付き合いかたを想像できるかどうかを。 「どうだろうな、経験がないからわからないな。たぶんだけど、普段とそんなに変わらないんじゃないか? 自分が優輝にバカになるところが想像できない」 「それは付き合ってみるってこと?」 「断る理由がないしな。付き合ってみないと、オレの知らない優輝も見えないだろうし、優輝の知らないオレだって見えないんじゃないか? その結果がどうなるかはともかく、はじめなきゃわからないことだと思うからな。けどそれよりもだ、なんでオレなのか、そっちのほうが疑問だけどな」  彼は客観的に自分をみて、優輝ほどの女の子に好かれる理由がわからなかった。 「簡単よ」  良子はもう言葉を選ぶ必要はなかった。 「え?」 「あんたが以前好きだった男にそっくりだったから」 「……は?」  彼女があまりにあっさりと言うものだから、港はかえって面食らった。まともに思考できるまでにしばらくの間が必要だったが、良子の憤りの理由はわかった。彼女は、他の男の代役として自分が見られたのが許せなかったのだ。彼女はとてもシンプルに、自分を大切に思ってくれている証だった。 「それでおまえは怒っていたわけか」 「な、なによその反応? 本来あんたが怒るところでしょう?」 「ていうか、おまえがそこまでキレてると、オレのほうがさめちまうって」  「うー……」良子はもどかしさに唸った。 「で、具体的にはどういう流れだったんだ?」  港にうながされ、良子は覚えているかぎり正確に伝えた。  彼は無関心とも思えるほどのんびりと、話を聞いていた。 「……そうか、わかった」  港が立ち上がると、良子は「どこ行くつもり?」と眼差しを強くした。 「わかってるだろ、優輝に会いにだ」 「なんで? 放っておけばいいのよ」 「自分のことだからな」  港は歩きかけてとまり、良子に振りかえった。彼の掌が高い位置から、良子の頭に伸ばされた。 「ありがとな、良子。本気で怒ってくれたのには感謝してる」 「な、なによ気持ち悪い」  言いつつも、今度は手を振り払わなかった。 「おまえはメシ食って部活行け。身体動かすほうがスッキリするぞ。だけど八つ当たりはするなよ」 「しないわよ!」 「そいつはよかった。じゃ、またな」  手をあげて歩いて行く彼に、良子はため息をついた。大きな、とても大きなものが、去っていくような寂しさを感じた。  港は校舎に戻ると階段を駆け上がった。きっとまだ優輝は屋上にいるだろう。誰よりもショックを受けているのは彼女ではないかと、港は思っていた。 「あれ……?」  屋上と校舎を隔てる扉の前には、一人の女子生徒がいた。長い前髪の奥に、困惑した表情が浮かんでいる。 「みなみちゃん、何してるんだ?」 「あ、ゆ、結城さん、こんにちは」 「コンチハ。今日はSSSは?」 「あ、あの、見回りの途中で、その、あの……」  彼女のあからさまな動揺に、港は察した。 「目撃したわけだ、優輝と良子の激突」 「あ、ああああの、申し訳ありません。盗み聞きするつもりはなかったんですが、あの……」 「わかってるって。耳がよすぎるのも大変だな。で、オレはその話を聞いてきたわけだから、みなみちゃんはもう気にしなくていい」 「あ、はい。助かりました。水都さん、ずっと動かなくて……」 「そっか、ずっと観ててくれたんだな。ありがとう」 「い、いえ。それで、あの、これをどうぞ」  みなみは手にしていた黒に近い緑色の軟膏が塗られたガーゼをとりだした。  港はすぐに湿布薬だとわかり、その必要性に顔をしかめた。 「良子のヤツ、ホントに殴ったのか」 「いえ、引っぱたいただけですけど、その、水都さんも女の子ですから……」 「ああ、そうだな。いつも悪いな、薬ばっかりもらって」 「いいえ、気になさらないでください。常備薬ですから」 「はは。ずいぶんハードな常備薬だな。ありがとう。それじゃ」 「はい。では失礼します」  みなみは気を利かせて先に階段を降りていった。  港は靴音の反響が聞こえなくなると扉を開いた。  隅のベンチに彼女はいた。近づけば気づきそうなものだが、優輝はうつむいたままだった。熱くなった頬を押さえ、つぶやきよりも小さな声で「ごめんなさい」と繰り返していた。 「もうあやまるなよ」  優輝は鋭く反応して、顔をあげた。 「コウくん……」 「優輝、顔がメチャクチャだぞ。うわ、ずいぶん腫れてるじゃないか」  涙と頬の腫れで、彼女の小さな顔はいつもの一回りは膨れていた。 「ほら」  港はかかんで、彼女の頬に湿布薬を貼り付けた。 「手で押さえておけよ」  言われるまま、優輝はガーゼをおさえた。ヒンヤリとして気持ちがよかった。  港は彼女の右手側に座りなおした。腫れていない頬も、赤く染まっていた。 「ついでに鼻かむか?」  港の冗談とも本気ともとれる言葉に、優輝は右手で鼻を被い、すすった。 「あっち向いててやるから、鼻かめって。生理現象にまで恥ずかしがるな」 「うん……」  優輝は返事をして、ポケット・ティッシュで鼻をかんだ。呼吸が楽になり、少し落ち着いた。 「悪いな、良子がキレたらしくて。痛かっただろ」 「良子ちゃんは悪くない……。わたしは最低だから。酷い人間だから」  またもうつむく優輝に港は苦笑した。良子は怒り、優輝は沈む。当人とはいえ、間に立つ人間としては困った状況であった。そもそも、港は優輝を恨んでもいないし、怒ってもいないのだから。 「きのうも自分のことを『最低』って言ってたよな。心配したよ」 「良子ちゃんから聞いたでしょ? わたしは、コウくんをわたしの幼なじみに重ねて、それで――」 「ああ、聞いたけど、何が悪いんだ?」 「え?」 「そいつのこと、本当に好きだったんだろ? 離れたくなかったんだろ?」 「うん……。引越しなんて、したくなかった。ずっとケイくんとミキちゃんのそばにいたかった」 「そのケイくんとやらにオレが似ていたってわけだな」 「うん。わたしね、中学の卒業式の次の日、告白したの。そして、フラれちゃった」 「引越しで離れ離れになるからか?」 「そのときの理由は違う。ケイくんはミキちゃんと付き合ってたの。わたしに内緒で」 「ああ、なるほど」  納得した港だが、どうも彼女の言葉のニュアンスに引っかかりを感じた。『そのときの理由』と優輝は言った。  港がいぶかしみ、考え込むと、優輝はためらいながら言った。 「そう、そのときは二人が付き合ってるからダメって言ったの。でもね、わたし知ってた。本当の理由は、コウくんが言ったとおりだったの」 「離れ離れになるから……?」 「うん。距離の遠さがケイくんをためらわせたの。いつ再会できるかもわからない恋愛は怖かったんだと思う」 「気持ちだけじゃどうにもならないこともあるか……」 「そうなんだと思う。わたしも離れる寂しさに、つなぎとめるために告白したのかもしれない。あのころのわたしは、不安で潰されそうだったから」 「でも、おたがい好きではあったんだろ?」 「そう、あの頃はたぶん……。少なくともわたしは本気だったと思う」  優輝は当時を思い出したのか、かすかに微笑んだ。若気を至りを偲ぶかのようだった。 「優輝ははじめから知ってたのか? 距離の障害だって」 「うん。だってわたしたち、幼なじみだよ? ずっといっしょに育ってきて、二人の様子に気づかないわけないじゃない。良子ちゃんがコウくんをわかるように、わたしにもケイくんがわかるもの」 「そうか」 「でも、はっきりとわかったのは、きのう……」 「え?」  優輝は携帯電話を開いた。  一つの着信メールを港に見せた。着信時刻は、児童公園で彼女とともにいたころであった。 「ケイくんからのメール。普段はめったに送ってこないのに、それも、こんなに長い文章なんて今までなかったのに……」 「書いてあったのか?」 「うん。わたしがコウくんに告白するってこと、ミキちゃんにだけはメールしてたの。たぶんそれを聞いたんだと思う。それで」 「内容を聞いてもいいか? 話したくないなら無理には聞かないけど」  「コウくんには聞く権利があるよ」優輝は携帯電話を閉じた。そして、暗唱するように語りはじめた。 「『優輝、ウソをついていてゴメン。オレとミキは、つきあっていないんだ。引越しするのを知っていたから、遠距離交際なんてムリだと思ってあきらめていた。その理由にミキをつきあわせただけなんだ。でも今は、あのときの言葉を後悔している。オレにもっと自信があれば、あんなこと言わずにすんだのに、って最近よく思う』」  優輝は消えたはずの涙があふれてくるのを抑えられなかった。 「『だから、まだ間に合うなら』」  港はただ、メールの内容をソラで話す彼女を見つめていた。 「『だから、まだ間に合うなら、オレと付き合って欲しい』」  優輝は「酷いよね」ともらした。自分に対してなのか、ケイに対してなのか、港にはわからなかった。 「わたしね、喜んだのよ。彼からメールが来たというだけで、そしてそれを読んで」  優輝は無理矢理な笑顔で港に語り、そして感情の発露を求めるように叫んだ。 「わたし、どうしようもないほど最低だ! ほんの数瞬前に告白しようとしてたんだよ? それがたった一通のメールに嬉々として、周りのことを忘れて、それでもしかしたらって思ったの! ……身勝手にも程があるわ。わたし、バカすぎるよ……」 「そうだな、酷い話だ」 「うん……。だから、コウくんはわたしをなじっても……殴ったっていいんだよ? わたしはそれだけのことをしたんだから……!」  身体を折って泣く優輝の背中に、港は手を添えて撫でた。 「誰が迷惑を被ったって? 優輝はまだ、オレに告白したわけじゃないだろ? まだしてもいないことに責任を感じてどうするんだよ。バカだな、優輝は」 「そういう問題じゃないよ、わかるでしょう……!」 「わからないな。優輝の好意が勘違いだったから、オレに責任を取らないといけないのか? それが何の罪になるんだ?」 「コウくん、いじわるだよ……。そんな理屈で許しちゃダメだよ……」 「ああ、オレは意地が悪いんだ。性根が腐っているんだろうな。アマノジャクだから、許すなと言われると許したくなるんだ」 「意地悪すぎだよ、コウくん……」 「優輝はもう、罰を受けただろ? 良子にわざと叩かれるようにしてさ。その痛み以上に、罰を受ける必要なんてないとオレは思う」  顔をあげた優輝の左頬に、港は手を当てた。湿布薬を通して、熱が伝わってきていた。 「オレは許す。ていうか、そもそも許すも許さないもないんだけどな。だけどもし、どうしても許される条件が欲しいなら、良子のことはカンベンしてやってくれ」 「そんなの……。良子ちゃんは正しいよ。間違ってないもの」 「うん、それじゃおあいこだ。オレが優輝を許すから、優輝は良子の暴力を許す。これでおしまいだ」 「わたし、いいの……?」 「何がだ?」 「これで許されてもいいの? これからもいっしょにいてもいいの……?」 「当たり前だろ、バカ。あとは優輝と良子で話あってくれればいいさ。それと、気持ちの決着は自分でつけるんだな」  「決着……」彼のいう決着とは、ケイに対する返事であろう。今の自分の気持ちをまとめ、きちんと答えを伝えろというのだろう。彼女はようやく、それを考えられるだけの余裕を与えられたのだから。 「さてと、良子のところへ行きたいところだが、まだ部活中だよな。剣道部員を八つ当たりで半殺しにしてなきゃいいが」 「あは」  優輝は笑うことができた。 「終わる頃にいくとするか。優輝も部活に――」  質問しかけた港だが、彼女の顔を見て言葉を変えた。 「――行けないよな、その顔じゃ。みんなに心配されるのがオチだ」 「うん。だから良子ちゃんの部活が済むまでここにいる」 「そうだな。うかうか校舎も歩けないからな」 「そんなにヒドイ?」 「ああ、普段の優輝を見慣れてる分だけすさまじくな」 「うわ、もう見ないで」  優輝が慌てて顔を背けるのを、港は笑った。 「優輝、メシまだだろ? 買ってきてやるよ。ついでに畑野にでも欠席を伝えてきてやる」 「あ、うん、お願い」 「何か食いたいものあるか?」 「硬くない物ならなんでもいいよ」  と、彼女は頬を指差した。  港はまた笑い、「了解。津川屋の超堅焼きせんべいデラックスを買ってくる」と答えた。 「もう、意地悪だよ、コウくん」 「冗談だ」  港は彼女にカバンを預け、屋上から出て行った。  屋上からの階段を一フロア分降り、二〇メートルほど歩くと美術室にあたる。  港は軽くノックをして、扉を開けた。 「はい?」  最も近場にいた、眼鏡をかけた背の低い女子生徒が寄ってくる。タイを外し、前掛けをしているので断定はできないが、一年生であろう。  少女――竜堂舞美は彼を見て少々驚いた顔をしたが、すぐに用向きを尋ねた。 「二年B組の結城っていうんだけど、畑野いるかな?」 「あ、はい。呼んできますね」  舞美は奥のほうに歩いていった。ほぼ対角線の窓際に、見知った長い髪があった。 「聡子ちゃん、お客さんだよ」  呼ばれた聡子が少女の視線を追う。 「あー、結城くん!」  それまでの美術部の静寂は一気に破られた。しかし、他の部員はまるで気にしていない。すでに慣れているのかのようだった。  聡子が近寄ってくると、港はわざとらしくため息をついた。 「おまえ、他の部員に迷惑だろ、うるさいヤツだな」 「へーきへーき、いつものことだから」 「そういう問題か? ……まぁ、下級生に『聡子ちゃん』なんてフレンドリーに呼ばれてるくらいだからいいんだろうけどな」 「下級生……?」 「今、おまえを呼びにいったヤツだ。後輩だろ」  聡子と、席に着きかけた舞美は、一瞬硬直した。  そして―― 「あははははははははははははははははははははははは!」  爆笑する畑野。 「聡子ちゃん!」  それにツッコむ、舞美。 「なんだ?」  状況が読めない港。 「畑野さん……」  さすがに迷惑そうな部員たち。 「あはははは、みんなゴメン、外いく。あははははははは!」  聡子は港を押して、廊下に出た。  「もう……」メガネ少女はかなり不満そうであった。 「いいかげん笑い止め。おまえも笑い上戸か」  港は屋上で待つ女の子を思い出した。彼女もツボにハマるとなかなか笑いがとまらない。 「だって、あはは、だってさ……!」 「だってじゃない。腹筋が割れるぞ」 「大丈夫、わたし以前、笑いすぎて腹筋が痛くなって体育休んだことあるから」 「アホかおまえは。自慢にならないって」 「あー、うん、少し落ち着いた。で、何の用?」 「それより何で笑ったのか訊きたい」 「結城くん、さっきのコ、後輩に見えた?」 「見えた。というか、それ以外に見えない」 「あはははは!」  聡子はまたも笑い出した。 「やめんか!」 「うんうん、ゴメン。あのコ、あたしたちと同年よ」 「ゲ、それは悪いことを言ったな。うるちより小さいヤツ、初めてだ……」 「カワイソウだからあんまり言わないであげてね。けっこう気にしてるんだから」 「そのわりに遠慮なしに笑ってたよな、おまえ」 「だって、面白かったんだもん。それにあたしが笑っても気にしないわよ。舞美は、中学からの友達だからね」 「舞美……?」  聞き覚えのある名前だったが、港は思い出せなかった。 「そ、竜堂舞美。変わった名前でしょ」 「『うるち』とか『かぐや』よりは普通だ。て、思い出した」 「うん?」 「彼女が竜堂か。例のマッチョ・ダンサー」 「なによ、それ?」 「いや、こっちのことだ。そうか、なるほど」  一人で納得する港が気にはなったが、聡子は話を戻した。 「で、なんなのよ。まさかあたしの腹筋をイジメにきたわけでもないんでしょ」 「そんなに暇人か、オレは。優輝が部活に出られないから報せに来たんだ」 「ああ、そうなの。うちはけっこうアバウトだから、来れないときは連絡しなくても大丈夫なんだけどね」 「まぁ、優輝だからな」 「そうね、優輝だもんね」  二人は同時にうなずいた。 「でもなんで、結城くんが伝言に?」 「それこそ暇そうだったからだろ」 「あははは、そっかそっか、納得。それじゃ、まぁ、いろいろがんばれ」 「なんだ、それは?」 「わかってるくせに〜。ううん、イケズぅ」 「おまえはもう部室に帰れ」 「はいはい。じゃ、またね」 「おう、がんばって絵を描いてくれ」  たがいに背を向け合ったとき、聡子がふと思い返して彼に訊いた。 「ねぇ、マッチョ・ダンサーってなに? 気になって眠れなくなる」 「おまえの腹筋を壊したくないから教えない。訊きたきゃ優輝に訊け」 「ぐぅぅぅ、わかった、そうする……」  畑野は携帯電話を取り出した。  港は「優輝も災難だ」と、他人事のように買いだしへ出かけた。  後日、粘りに粘ってようやくその意味を聞き出せた畑野が、大爆笑をして体育を休んだのはいうまでもない。  食糧の調達から戻った港は、それから夕方遅くまで屋上で優輝と過ごした。  たわいもない話を繰り返し、ときに真剣に語り合い、勉強などもした。  そろそろ下校の鐘が鳴る時刻が迫り、二人は駐輪場に向かった。  良子はまだ帰ってはいなかった。  自転車が一つ減り、二つ減り、半分がなくなる頃に、見た記憶のある剣道部員の姿が現れた。  その男子部員三人組は、あきらかに不機嫌そうな顔をしていた。会話に不平不満も混じっている。どうやら試合でもあったらしく、負けたのが悔しかったようだ。  続いて女子部員も見えた。彼女たちは先ほどの男子と真逆で、華やかに盛り上がっていた。『天草先輩』という名詞が聞こえた。 「どうやら八つ当たりで大活躍したらしいな、あいつ」  港が乾いた笑みを浮かべると、優輝も困った笑顔で応えた。  その当人がやってきたのは、それから一〇分も後だった。たった一人で、暗い顔で歩いていた。 「良子」  間近で呼ばれるまで、彼女は彼に気づかなかった。もちろん優輝にも。 「コウ……。優輝……」 「良子ちゃん」  良子は優輝の頬に貼られた大きなガーゼを見て、言葉をつまらせた。しかし、それも一瞬のことだった。 「何の用よ。あたしは優輝と話すことなんかないからね」 「良子、もういいだろ? 許してやれよ」 「あんたが言うな! あたしはね、あたしはあんたがバカにされるのが……!」  次に優輝と会ったら、もう少し冷静に話をしようと良子は思っていた。だが、港が彼女をかばう姿を見て、瞬間的に怒りを再発させた。彼には自分の味方でいて欲しい、そういう嫉妬心もあった。 「バカになんかされてない。優輝は優輝で本当に悩んで、ずっと苦しんで、だからおまえに叩かれまでしたんだろ。本当はおまえだってわかってるはずだ。オレは優輝を許した。だからおまえも、許してやってくれ」 「……何よそれ、あたしが一番バカみたいじゃないのよ」 「安心しろ。オレもバカだし、優輝もバカだった。みんなバカだったんだよ」 「コウはいつからそんなに聞き分けがよくなったのよ。昔は人の話なんてぜんぜん聞かなくて、自分勝手ばかりしてたのに……。そんなんじゃ、あたしもう、何も言えないじゃない……」  ともすれば泣き出しそうな自分が、良子は嫌だった。泣いてはいけないのだ。何があっても、絶対に。彼の前でだけは、絶対に。 「ありがとな、良子。もう、いいからな」  良子は意味もわからずうなずいた。彼の掌が自分の頭にのせられ、その重みのせいだと思いたかった。 「じゃ、オレは行くな。あとは二人で話してくれ」 「うん」  優輝はうなずき、良子の腕に触れた。  良子は拒否しなかった。  港は自転車に乗り、振り返らずに走った。 「ごめんなさい、良子ちゃん」  二人は人気のないベンチに座った。下校の鐘はとっくに鳴っており、長く話すことはできないだろう。けれど、校外へ出る時間すらが彼女には惜しかった。  ややあって、良子はうつむいたまま答えた。 「……もう、いい。コウが許すなら、あたしは何もいえない。言う権利なんてない……」 「違うよ、良子ちゃんにはその権利がある。良子ちゃんにしかないんだよ」  優輝は良子の手をとった。 「コウくんのことをずっと見てきて、いっしょに暮らしてきて、コウくんを本当に大好きな良子ちゃんにしか言えないんだよ」 「違う、あたしはコウを好きじゃない。しかたないからいっしょにいるだけで、さっさと離れてくれればいいのにって思ってる」 「何でそんなこと言うの? どうしてそんなに頑なにならないといけないの? 良子ちゃんが一番、誰よりコウくんのこと好きなのに!」 「そんなのはウソ。絶対にないウソなの。だから優輝がコウを好きだって言ったとき、あたしは喜んでコウをあげたじゃない」  まるで本心を押し隠すように、良子は未だ顔をあげなかった。  優輝は彼女の本心を知っている。しかしそれは薄い表面上の本心だった。彼女は結城港が好きで、本当に好きである、という皮のように薄い表面だけだった。 「それは……」 「そのコウを裏切っておいて、今さら何をいうのよ。優輝の言葉なんか信じられない」 「そうよ、わたしはコウくんも良子ちゃんも裏切った。本当にひどいことをしたと思ってる。でもコウくんは許してくれた。こんなわたしでも許してくれたんだよ」 「だから、あたしはもういいって言ってるじゃない。なんでわからないのよ」 「まだ、良子ちゃんに許してもらってないから」 「あたしは許さない。でもそれは優輝には関係ないこと。コウが許して納得したなら、それでいいじゃない」 「ダメなのよ、それじゃ。コウくんにも、良子ちゃんにも、二人に許してもらえなければ、わたし、進めないよ……」 「ワガママよ、そんなの。自己満足じゃない。ううん、自己憐憫? 自分はかわいそうだって言って欲しいわけ?」 「良子ちゃん……」  優輝はもう、言葉が浮かばなかった。閉ざされた良子の心を開くのは、自分には無理なような気がした。それだけのことを、自分はしたのだ。  けれど優輝にも言い分はあった。さっきまで港といっしょにいた中で、彼女には気づいてしまったことがある。もっとも簡単で、単純な答えに。  優輝は震える声を出した。 「……なによ、結局は自分が一番かわいそうだと思ってるんじゃない」  あきらかに変わった優輝の様子に、良子は反応を示した。 「コウくんと話してて、わたし、わかったの。結局コウくんは、わたしのことなんかぜんぜん見てくれてなかったんだって。だってそうでしょ? あれだけ話を聞いていてくれて、慰めてくれたのに、コウくん、一言だってわたしを好きだって言ってくれなかった。それどころか嫉妬すらしてくれなかった。少しくらい、彼に嫉妬してくれたっていいじゃない。それなのに平然として、わたしを慰めることばっかり言うんだよ? わたしのほうが惨めじゃない。良子ちゃんより、わたしのほうが惨めじゃない」 「……!」 「良子ちゃんはゼイタクだ。あんなにコウくんに思われてるのに、それを拒否することばっかり言って。何が不満なのよ。何でガマンするのよ。あんなにいい人、いないってわかってるのに。コウくんもそうよ。本当は良子ちゃんしか見てないのに、何でもないフリして。なんでもう、わたしばっかり板ばさみなのよ!」  優輝は話しているうちに、本気で悔しくなってきていた。良子が『自己憐憫』と言ったが、まさにそのような状態だった。 「わたしだって寂しいし、誰かに頼りたいし、誰かに必要とされたいのに、みんなぜんぜんわかってくれない。だからコウくんのこと好きになったし、何かしてあげたいと思った。けどいつもいつもいつもいつも良子ちゃんがいて、わたしなんて何もさせてもらえないし、良子ちゃんよりうまくもできないし、もう……!」  支離滅裂になる自分に、優輝は哀しくなった。涙があふれてきた。 「もうやだよ、わたしもうやだ! なんでみんなそんなにワガママなのよ! 素直になってくれれば、わたしだって悩まないですんだのに!」  もう、自分の憤りに歯止めがきかなくなっていた。幼なじみのケイとミキにしても、コウと良子にしても、もっとみんなが素直になってくれていたら、自分を取り巻く環境はずいぶんと変わっていたであろう。それが自己中心的な思考だとしても、正しいことではないかと彼女は疑わなかった。 「優輝……」 「もういいよ! もうみんな好きにすればいいのよ! わたしもう知らないから!」 「優輝!」  良子は彼女を抱きしめた。強く抱きしめ、一緒に泣いた。 「ごめん……ごめんね。あたし、ワガママだった。優輝の言うとおりだ。あたしはコウしか見てなくて、優輝の気持ちなんて無視してた。優輝はいつも笑顔でみんなを見守っていてくれたから、そんなふうに思ってたなんて考えもしなかった。あたしたちは甘えていたんだね。ごめん、優輝」 「わたし、笑うことしかできなかったから。みんなのためにできること、それしかなかったから。わたしは良子ちゃんにも、うるちちゃんにも嫉妬してた。わたしには笑うしかなかったのに、みんなには違うことができて、それが悔しかった。好きな気持ちでは一番でいたかったのに、それすらわたし、できなかった……」 「優輝はがんばってた。でも、あたしたちが鈍すぎたのよ。人の好意がわからなくて、自分のことばかり考えて、ずっと遠慮しかできなくて……」  二人の間に会話はない。おたがいの気持ちをただ聞かせていただけであった。それでも二人にはわかりあえる部分があり、自然と落ち着けていった。 「……わたしを、許してくれる?」 「優輝こそ、許してくれるの?」  二人は抱き合ったまま、「うん、もちろん」とささやきあった。  しばらくして、二人は自分たちの姿に滑稽さを感じて、どちらともなく笑い出した。  長い長い笑いのあとに、二人は涙をぬぐって一息をついた。 「まさかわたしの人生でこんな日が来るなんて思わなかったな」 「あたしも。キレて泣いて笑うなんて、どこのドラマよ」  二人はゆっくりと離れ、また笑った。 「……スッキリした」 「うん、したね」  良子は乱れた優輝の髪を手でとかした。その下に埋もれるように、ガーゼが見えた。 「あ、これ……」 「うん、大丈夫よ。コウくんが湿布を持ってきてくれたの」 「痛い?」 「ううん。もう平気」 「ウソ、本気で叩いたのに」 「うん、痛かったよ。でももう……あれ? ホントに痛くも熱くもない」  優輝は湿布を剥がした。改めて触ってみたが、腫れあがった感触はなかった。 「え、これ、ホントに叩いたところ? ぜんぜん赤くも腫れてもないわよ」 「この湿布のせいかしら?」  良子はどう見ても自家製の湿布に、一つ思い当たった。 「ああ、みなみちゃんね」 「みなみちゃん?」 「E組の東みなみちゃん。おうちで漢方薬の調合やってるらしいわ。コウに紹介されたの」 「へー、コウくん、いろんな友達いるんだ」 「この前の中間試験のときも、風邪をひいたときも薬を貰ってたわね。本当にスゴイ効き目なんだから」 「今度紹介してね」 「うん」  二人は笑顔をかわした。 「で、ドサクサ紛れだけど、訊いてもいい?」 「なに?」 「良子ちゃん、コウくんのこと、好きだよね」 「な、なによ、いきなり……!」 「確認だから。ただの確認」 「そういう優輝は結局どうなの? 幼なじみの彼とは」 「ケイくん? さぁ、どうなんだろう」 「とぼけてる?」 「ううん、本気で。わたしが知ってるのは一年以上前の彼なの。きのうまでは昔の彼でもよかったかもしれない。でも、さっきのコウくんを見て思ったの。昔の想いと今の想いは、変わっていくんだなって」 「コウは変わってた?」 「変わったよ。二年になって急に変わった。もう、良子ちゃんがわからないわけないじゃない」 「あは、そうね。うん、コウは変わった。でもそれは変わったんじゃなくて、戻ったの。昔のあいつが、ああいうガムシャラで無鉄砲で、優しくてがんばれる人だった」 「うん。変わるでも戻るでも、そういう変化があって、コウくんはわたしの知ってる幼なじみ以上になってた。だから、今の彼がそれ以上でなければ、わたしはただ昔を懐かしむだけの人間になってしまう」 「そうね」 「だからわからない。夏休みにでも会ってこようと思う。それでダメそうなら、改めてコウくんを狙うわ」 「優輝、あんたも数時間で性格かわったわよ」 「うん。もう遠慮はしないって決めたから。だからもし、良子ちゃんがコウくんを獲られたくなかったら、夏休みが終わる前に決めないと勝ち目ないからね」 「うわ、スゴイ自信。でも、あたしは今までどおりだからがんばりなさい」 「どうして? コウくんのこと、本当に好きでしょ?」 「うん」  良子ははっきりと肯定した。肯定した上で、優輝にだけは伝えようと思った。 「でもだからこそ、あたしはコウを選ばない。もしそうしたら、今までのあたしが否定されるから」 「どうして?」 「あたしは、コウを超えるためにがんばってきたの。コウと対等になるためじゃない」 「でももし、コウくんのほうから言われたら?」  「そのときは……」意外な質問に、良子は迷った。その可能性だけはないと、彼女は信じているからだ。 「断るわよ。一生あたしの面倒をみるなんて、バカのすることだもの」 「コウくんは、きっとバカだよ」 「それ以前にね、あたしに告白するなんてことはありえないの。これは断言できる。あたしの知っている今のコウは、そうなんだから」 「ううん、違うよ。良子ちゃんの知っているコウくんは、この前までのコウくんだよ。今のコウくんは、昔のコウくんなんだから」  良子は答えられなかった。昔の港の、古い古い約束の言葉が、一瞬脳裏を掠めた。 「……だとしても、あたしは今のあたしだからね」 「良子ちゃん……」 「さ、過程の話はもうやめましょ。そろそろ帰らないと」 「う、うん……」  良子は立ち上がった優輝を抱きしめた。 「もしその気になったら、コウは優輝にあげる。これは約束だったよね」 「良子ちゃん……」 「優輝、叩いてゴメン。優輝のこと、大好きだからね」 「うん、わたしも」  優輝の腕も、良子を強く抱きしめた。  週明けの月曜日、教室で待っていた優輝と良子は、普段と変わらぬ様子で雑談をしていた。  港はホッとして輪に加わった。 「はよーっす。何の話だ?」 「あ、おはよう。きのうのインターハイ予選の話」  良子がにこやかに答える。おとといの険のある表情とは打って変わっていた。 「ああ、もうそんな時期だったのか。良子も出たのか?」 「無理無理、三年生、二〇人もいるのよ? 二年のあたしが出られるわけないじゃない」 「実力勝負だろうが」 「ん〜、選手候補にはなったんだけどね、一歩届かなかったの」 「それは残念だったな。で、笑ってるということは、勝ち抜いたのか?」 「うん、まだ一次予選だけどね。来週が予選決勝」 「そうか、勝てるといいな」 「うん、勝って欲しい」  良子は自分のことのように力を込めた。 「優輝も、展覧会があるんだろ。がんばんないとな」 「うん。題材も決まったし、今日からがんばる」 「お、何を描くんだ?」 「ナイショ」 「うわ、ケチだ」 「ケチはないよ。完成したら、会場で見てね」 「自信アリだな。期待してるよ」 「うん、任せて!」  元気に応える優輝の姿を、港は素直にかわいいと思った。こういう二人を見ているのは、彼にとって至福といえた。 「ついでにセイギも何かがんばってみろよ」  後ろの席で朝からマンガを読んでいる彼に、港は話を振ってみた。 「ああ? そういうおまえががんばれよ」 「ああ、がんばるぞ」  港はここぞとばかりに胸をそらせた。 「何にだよ?」 「もちろん、ガンプラ作りに決まっているじゃないか」  「はぁ?」優輝と良子、それに正義は同時にハテナを浮かべた。 「作品名は『拠点防衛用ゾック』だ。覚えておきたまへ」 「ぜんぜんわかんねーよ!」 「まぁ、見ているがいい。秋には結果がでるだろう」  港は高笑いをして席についた。  チャイムが鳴っても、残り三人の疑問は薄れなかった。  季節は真夏を呼ぶ七月に突入した。  各クラブでは三年生の引退時期を迎え、世代交代が始まろうとしていた。  そのなかで、部員が一名しかいない部活動は、平然と日常が繰り返されている。 「それでは、塗装前に一度組み上げますね」 「ああ、設計どおりだから問題はないと思うけど」  村雨かぐやは、プラモデル雑誌主催のガンプラ製作大会に応募する作品に精を傾けていた。港はときおり美術造形部に顔をだし、雑用を手伝っている。この日は、すべてのパーツを一つにして、最終バランスを調べる予定であった。 「うん、いいですね。ここまで気合の入った物を作ったのは初めてですよ」  かぐやは満足そうに笑った。彼女の髪型は、このところ例の変わった形ではなく、ストレートに落としていた。どのような心境の変化かは、港にはわからない。 「あとは塗りで勝負だな。迷彩でいくのか?」 「いえ、青を主体にグレーと黒鉄を加えた単色が基本ですね。水中拠点を目的とした機体、というコンセプトですから」 「なるほど。でもそれだと武器の色と差が出ないんじゃないか?」 「そうですねぇ……。派手さは廃したいんですけど、地味すぎてもらしくないかもしれないですね。モデルをデジカメに撮って、うちのパソコンで色のテストをしてみます」 「すごいな、そんなのできるのか」 「それくらいならすぐに覚えられますよ」  かぐやはカバンからデジカメを取り出した。  組みあがったモデルにピントを合わせながら、かぐやは港に話しかけた。 「結城さん、ありがとうございます」 「なんだ、いきなり」 「わたしがこうして自信を持って作品に取り組めるのは、結城さんがいるからですよ。いろいろと話し相手になってくれて、本当に助かってます」 「こちらこそだ。オレは村雨さんにいろいろ教わった。プラモのこと以外にも、たくさんな。それがなかったら、オレは多分、ずっと足踏みしていたと思う」  港は同年代で唯一、彼女にだけは素直になれた。本心を語ることに照れや戸惑いがなかった。それは、彼女がまだ近い存在ではなかったこともあるが、心底から感謝していたからだ。彼女の言葉と行動に、どれだけ感銘したか知れない。 「そうなんですか。それじゃ、おたがいさまですね」 「ああ、おたがいさまだな。これからもよろしくだ」 「はい、よろしくお願いします」  かぐやは微笑み、シャッターを切った。  同じ頃、天草良子は剣道部道場で、主将と二人きりで話をしていた。 「我が部は実力社会だからな。おまえにはその力がある。それに人望もある。だから今後をおまえに託そうと思う」 「あたしに、ですか……?」 「ああ、正式の発表は来週末になるだろうが、覚悟だけはしておいてくれ」 「そんなの、あたしには無理ですよ。あたしはただ、自分が強くなれればよかったんです。それも自分を護れる程度の強さでよかった。それ以上は望んでいないですし、そんな人間についてくる人だっていませんよ」 「本当に無欲だな、天草は。代表選手にだってなれたのに、辞退までするし。おまえが入っていれば、もしかしたら全国へいけたかもしれないんだぞ」 「それは買いかぶりです」 「オレはそうは思わない。だからその責任をとれ」 「メチャクチャですよ、主将」  主将は豪快に笑った。この持ち前の明るさと、剣道に真摯な彼は、誰にでも慕われる良い先輩であった。良子にその跡を継げと彼は言うのだ。無茶だと思う。 「第一、男子部員が絶対についてきませんよ。あたしは嫌われてますから」 「ああ、この前、二年の男子部員を全員倒してしまったからな。自尊心が傷ついたってところか。だが、その程度のヤツらなら成長はない。放っておけばいいさ」 「簡単に言わないでくださいよ! せめて男子は男子で主将を立てるとかしてください!」 「考えたんだがなぁ……。バランスのとれたヤツがな」  主将のなかで、二年男子部員の顔が次々と流れていく。実力と指導力を兼ね備えた人物が、ひっかからなかった。 「それでも何とかしてください。あたしが譲歩できるのはここまでです。要求が通らないなら部を辞めてでも拒否しますから」 「おいおい、物騒だな。おまえにとっての剣道は、その程度なのか?」 「……言ったじゃないですか、あたしは自分を護る力があればいいって」 「動機はそうだったかもしれないが、それは今でも同じなのか?」  良子は長く考えた末に、一言だけ答えた。 「……わかりません」 「そうか。動機となる想いが強いんだな、おまえ。よっぽどのことがあったんだろう。けどな、剣道は好きでいてくれ。でないと、剣道がかわいそうだからな」 「はい」  良子が即答したのを、主将は嬉しく思った。 「男子のほうは考えておく。どのみち発表は来週だからな。おまえも少し、考えておいてくれ」 「わかりました。すみません、ワガママを言って」 「いやいや、それくらいのが可愛げがあるってもんだ。うんうん」 「セクハラで訴えますよ?」 「あっはっはっは」  彼はまた、豪快に笑った。  最終の鐘が鳴ると、港は図書室を出た。美術造形部の部長は、今頃自宅で色彩設定にのめりこんでいるであろう。週明けに顔をだしてみようと、彼は独りうなずいた。 「コウくん」  軽く息を弾ませ、優輝は彼を呼んだ。部室からまっすぐこちらへ来たようであった。 「今日もわざわざこっちに来たのか?」 「うん、わざわざ来たよ。いっしょに帰りましょう」 「かまわないけど、ちょっと寄り道するぞ?」 「いいわよ」  優輝は即答し、港の横についた。 「しっかし、よく毎日飽きずにオレと帰るな。愉快な仲間の畑野とかもいるだろ」 「んー、コウくんと帰りたいから、かな。それじゃダメ?」 「ダメってことはないが、考えてみるとオレ、おまえにフラれてるんだけど」  港が苦笑いをすると、優輝は申し訳なさそうにうつむいた。 「ああ、冗談だ、冗談。気にしないでくれ」 「……コウくんは、わたしのこと好きだった?」 「あー……」  「冗談」言いよどむ彼に、優輝は寂しそうに微笑んだ。 「ムシのいい話だよね、こうして横を歩いてるなんて。でも、こうしていっしょにいる時間が多くなって、わかってきたことがあるの。ううん、あのときから気づいてはいたの」 「あのとき……? ああ……」  彼女が良子に叩かれた日を、港は思い出した。優輝と良子は、あれ以来、ますます仲がよくなっていた。二人きりにした後、何があったのか彼は聞いていない。 「コウくんはコウくんで、わたしの幼なじみじゃないんだなって。似ていたけど、違うんだって」 「まぁ、それはな。まったく同じってわけにもいかないだろ」 「うん。わたしはあのとき、それにすら気がつかなかった。表面でしかコウくんを見てなかったのね。自分のことながら、恥ずかしいし情けないと思う」  優輝は顔を赤くして首を振った。 「オレだって、どれだけ人をきちんと見てるか自信なんてないぞ。そういうものじゃないか?」 「……わたしね、まだ彼に返事をしていないの」 「そうなのか?」 「できなくなってた。同じだと思ってたコウくんを知って、今の彼がどれだけ変わっているかわからなくて」 「よくわからないな。むしろ変わってないほうが優輝としてはいいんじゃないのか?」  港は下駄箱で靴を履き替え、彼女が来るのを待って駐輪場へ向かった。 「コウくんを知らなければそれでも良かったの。でも、コウくんはこの数ヶ月でずいぶん変わったわ。その成長を知ってしまうと、昔と変わらないままではダメだって思ったの。わたしも彼も、いつまでもあの頃のままじゃいけないんだよ」 「そういうものか? あんまり気負いすぎないほうがいいと思うけど」 「そうね、気負いなのかも。でもやっぱり、少しは成長しないとね。だからわたし、今の彼をきちんと見届けるまでは何も答えられない」 「もし変わってなかったら、どうするんだよ」  自転車の鍵を解除しながら、港は意地悪く訊いてみた。  優輝は生真面目に答えた。 「そのときは、お断りする」 「おいおい、ずっと好きだったんだろ?」 「好きだったよ。本当に。でも、過去には帰れないから」  「……そうだよな」港のうなずきには、数瞬の間があいた。考えさせられる言葉だったからだ。 「良子ちゃんには話してあるの」 「うん?」 「もし彼が昔と変わらないままだったら、わたしは彼に応えない。そして、もう一度コウくんを好きになるって」 「……は?」  あまりに飛躍しすぎていて、港は呆気にとられた。 「わたしはもう、自分を隠すのをやめたの。独りで悩む自分が本当は嫌いだった。でもそうするしかできなかった。でもそれをあのとき、壊すことができた。だからもう、遠慮はしない。好きな人には好きだって、きちんと言えるようになる。わたしを変えてくれた、コウくんが好きだから」 「……」  港は答えられない。自分が優輝にしてあげたことに記憶がなかった。むしろ何もしてこなかった。友達以上には接しておらず、もしかしたら真剣に話をしたことすらなかったのではないだろうか。そんな自分が、彼女に何を与えたというのだろう。 「ホント、わたしはいいかげんで身勝手だよね。でもあきらめて泣くのはもうイヤなの。自分にできること、したいこと、ちゃんとわかりたいと思う。行動するのをためらってる時間すらも惜しいから」 「優輝……」 「わたしはケイくんが好きだった。成長したケイくんも好きになると思う。けれど、コウくんが彼よりも大きくなっていたら、わたしはコウくんを好きになる。それがわたしの、本当の気持ち」  彼女の気持ちが揺らがないのを悟り、港は降参した。とたん、彼女の言葉が可笑しくなった。 「……どう贔屓目に聞いてもワガママだぞ、それは」 「うん。もともとわたし、ワガママで嫉妬深いんだよ。自分でわかっちゃうくらいに。でも、コウくんはそれくらい素敵になったんだよ」 「優輝の眼は節穴だ」 「あ、ヒドイ。そういうところは変わらないんだ」 「だから変わってないんだって。買いかぶりもいいところだ」 「そういうところを含めて、好きになるのよ。もっと早く気づいていたら、もっと幸せになれたのかも。わたし、やっぱりバカだよね」  優輝は微笑んで、港の腕をとった。 「お、おい」 「……今、コウくんがわたしを好きだって言ってくれたら、たぶんわたしは喜んで受けるだろうな」  港は数秒だけ答えを探したが、探す前に直感が口を動かしていた。 「言わない」 「だよね。コウくんは、一度だってわたしをそういうふうに見てくれなかったものね」  優輝は離れて、歩き出した。 「悪い」 「なんであやまるの? ダメだよ、期待したくなるから」 「……」  港は無言を返すしかできなかった。 「さ、行きましょ。今はとりあえず、コウくんといっしょに帰れるだけでいいよ」  彼女の微笑みに、港はホッとした。これ以上拒むのは、彼としても辛かった。 「ああ、それじゃ津川屋に行くぞ」 「うるちちゃんのところ?」 「せんべいを買いに。それと、期末試験に向けた勉強会の打ち合わせだ。あいつも成績を落とすわけにいかないからな」 「それじゃ、わたしも参加していいかな? この前はコウくんに負けちゃったし」 「あんなのはまぐれだろ。でも、まぐれのままにしたら御門につけこまれるからな」 「そうね。がんばりましょう」 「ああ、がんばるぞ」  二人は自転車を挟み、並んで歩いた。この距離がそのまま二人の心の距離のような気がして、優輝は少し寂しかった。  「そういえば……」優輝のつぶやきは港には届かなかった。  優輝はあのいざこざのあった翌日、うるちと話をした。彼女は、優輝に港を譲るように一歩退いていた。けれど優輝の想いが間違ったものであった以上、彼女は港に対して素直になってもよかったのだ。そう話したときのうるちは、やはりそれまでと変わらなかった。自分に遠慮したのではないだろう、と優輝は思った。優輝以上に、港を想っている女の子を彼女は知っていたのだ。だから彼女は笑っていた。大好きな人たちに大好きなままでいて欲しかったから。 『でもさ、優輝の本当の気持ちがわかったら逃げちゃダメだよ。……あたし? あたしはそこまで一途になれるほどコウのこと好きじゃないんだよ、きっと。だから優輝、がんばってね』  そう言ったうるちの笑顔に、優輝は自分が恥ずかしくて泣きたくなった。自分よりも思いやりのある優しい女の子はいくらでもいるのだ。なのに肝心の当人の鈍さときたら―― 「結局、コウくんが一番悪いんだ」 「な、なんだよ、急に」 「コウくんが意地を張らなければ、みんな悩まないですんだのよ」 「ヒントをくれ」 「わかってるくせに」  優輝はわざと澄まして歩速をあげた。 「……そうだな、本当はいつだって――」  港のつぶやきも、優輝の耳に届くことはなかった。