「Pure☆Colors」 第十一話  六月最初の月曜日は、港とうるちにとって判決の日であった。三日間の試験期間を経て、週明けの今日が結果発表である。津川屋での仕込みを終えて学校へ来た港は、緊張に震える良子のあいさつを受けた。 「いよいよね、発表」 「ああ」  放課後、掲示板に中間テストの順位が貼りだされる。有明高校では、成績上位百名しか発表されないようになっていた。港はこれまで名前が出る経験がなかったが、今回ばかりはうるちとともに名前がでなければならなかった。  港は自分のデキをある程度見越し、御門に勝てる確率を考えてみた。  ゼロだった。  追いつけないだけならまだしも、上位入賞さえも果たせなかったときは、御門はけして二人を許さないだろう。港がケンカを売った御門シンという人間は、そういうことが平気でできる権力を持っている。  校内ではすっかりウワサが広まり、今もヒソヒソとささやき交わすクラスメイトの声が聞こえていた。 「落ち着いてるね、コウくん」 「いや、開き直ってるだけだ。この二週間、みんなにはずいぶん助けられたし、オレもできるだけがんばってみた。オレにとっては、そっちのほうが大切だった」 「なぁに達観してんだよ。努力したんなら、結果がついてくるって信じろよ」  正義が港の背中を景気よく叩いた。 「そうそう。がんばったのは無駄じゃないわよ」  優輝も良子も晴れやかな笑顔だった。  「そうだな」港もつられるように微笑んだ。  ともかく振られたサイは戻らないし、こぼれた水もかえらない。  港はただ、静かに放課後を待った。  刻、迫る。  掲示板の前には、普段では想像もできないほどの生徒であふれていた。常にランク外を自負している生徒たちも、イベント感覚で集まっているようだった。 「コウ〜……」  情けない声を出すのはうるちだった。 「ここまで来てまだ腹をくくれないのか? 意外に小心者だな」 「だってぇ……」 「自信はあるって言ってたじゃないか。それを信じろ」 「そりゃ、いつもより全然できたよ? でもでも、あくまで以前との比較だもん」 「低レベルな自信だな。ま、オレも人の事はいえないけどな。正直、御門に勝つのは難しいだろう」  港たちが掲示板に近づくと、人垣が割れ、どよめきという波が起きた。 「お、あの二人だろ? 御門にケンカ売ったのって」 「バカだよなぁ。勉強でアイツに勝つなんて並大抵じゃできねーよ」 「それがわかんないくらいバカだってことだろ?」 「ああ、そうか」  男子生徒三人組が、わざと聞こえるように噂をし、大笑いした。 「高瀬くんたち……!」  良子が悔しそうに唇をかんだ。 「知り合いか?」 「え、ええ、剣道部員……」  良子が申し訳なさそうに答える。 「おまえがそんな顔してどうする。気にするな」 「でも……」 「でもじゃない。これ以上、コトを大きくしないでくれ」  良子は「ごめん」とあやまり、三人を無視した。 「そうそう、あんなのにかまっちゃダメ」 「畑野、いつの間に」 「今来たトコよ。自信を持つのは難しいけどさ、結城くんも津川もがんばったじゃない。みんなは知らなくたって、あたしはちゃんと知ってるからね。もちろん優輝も良子も須藤くんも、ね。だからさ、どんな結果でも下を向いちゃダメだからね」 「ああ、ありがとな。少し勇気が出た。あとはおとなしく結果を待つとするよ」 「それがさぁ、そうもいかないんだよねー」 「?」  港とうるちが首を傾げると、畑野は二人の手を引いて人混みから脱出した。 「お、おい、なんだよ?」 「おつかい頼まれたのよ。あんたたちを呼んでくるようにって」 「だれに?」  畑野は階段をおりながら、ボソッと言った。「御門くんに」と。  畑野の向かった先は校長室だった。 「コトの発端場所で決着をつけようってのか。それともすでに結果を知っていて、途中経過をはぶこうとでもしているのか」 「コウ……」  うるちは、港の腕をギュッと抱きしめた。 「うるち、似合わないぞ。おまえはいつでもバカみたいに『キャハハハ』と笑ってろ。そっちのがおまえらしくていい」 「ムゥ〜、そんな『らしさ』って何かヤダ」 「ゼイタク言うな」  港は笑いながら、うるちの頭をグリグリとこねくり回した。 「あええええ……。ヘッドホンずれるよぉ〜」 「そんなもんしたまま校長室へ入る気か、おまえは」  うるちは思い出したようにヘッドホンを外し、畑野に渡した。 「行くぜ、うるち」 「あい」  落ち着いたうるちをとなりに置いて、港は校長室の扉をノックした。  すぐに返事があり、二人は中へと進んだ。 「がんばってね」 「今さらがんばりようもないんだがな」  畑野の声援に苦笑で応え、港は扉を閉ざした。  内部では、やはり御門が待ちかまえていた。この部屋のヌシは校長先生ではなく、むしろ彼のようだった。 「二年B組結城港、二年C組津川うるち、参りました」 「そこにお掛けなさい」  校長は穏やかにイスを勧めた。  二人は一礼して、慣れないソファーに身体を沈める。  御門は港の正面のソファーに座った。視線が絡み合うと、御門は鋭い眼光を向けた。 「結果はみたか?」 「そのまえに畑野に連れてこられた。呼んだのはそっちだろう」 「そうか」  御門はテーブルの上の封筒から五枚のリストを引き抜き、二人に見えるように置いた。 「順位表の写しだ」  一番上の用紙には、八一番から一〇〇番までの生徒名が記載されていた。一枚で収まるものを、わざわざ五枚に分けたようだ。御門の陰湿さを物語っているようで、港には不快だった。  リストが渡されると、一から二〇番までが書かれているであろう一番下の紙を抜き、ざっと流した。 「二位……」  二位に知っている名前があった。ただし、港の名前でもうるちの名前でもない。  『御門シン』と書かれていた。  そして自動的に視界に入る一番の場所には、まったく知らない生徒の名前があった。  最後の希望を見出すべく、二〇番以内の上位者に眼を走らせる。だが、どこにも二人の名前は入っていなかった。  港はリストを握りしめ、うつむいた。 「それが現実というものだ」  御門はフッと笑う。勝利者の余裕と、敗者への蔑みのほほえみだった。  うるちは港の腕をつかみ、無言だった。 「……で、勝ったおまえはどうするつもりだ? オレたちを追放でもするか? もしそうだとしても、オレは拒否する。オレは、オレとうるちの居場所を確保するために、どんなことでもする。オレは、うるちと、みんなと、ココにいたいんだ!」  港は御門の眼に訴えかけた。  しかし御門は笑う。声をたてて、すべてを吹き飛ばすように高らかと。 「相変わらず子供のようなことを言う。願えば叶うなどと本気で思ってるのか? だとしたら、努力とは虚しいモノだ」 「違う。願いを形にするのは、気持ちだけじゃなく努力だ。努力もせず手に入る望みが、本当に虚しいモノなんだ」 「ずいぶんと偉そうなことを。努力もせず何かを得ようとしていたのは、キミじゃないか。よく恥ずかしげもなく言えたものだ」 「……そうさ、そのとおりだ。オレは何も望まなかった。努力するつもりなんかなかったからな。けど、オレは――」  港はようやく思い出した。  いつも望んでいた想いがあった。それはもう、遠い昔になくしてしまった想いだった。ただひたすらに、彼女を守りたいと思っていたころの力。けれど自分から逃げたときに、その力は消えてしまった。努力すれば再び光り輝いたであろう力を、彼はずっと望んでいたのだった。取り戻したかった。けれど、望むだけで、努力はしなかった。  『おまえはオレが、一生守ってやる!』 「……コウ……?」  港はうるちの声に反応した。遠い昔の忘れていた思い出が、脳裏をかすめて消えていった。自分にそえられていたうるちの小さな手は、とても温かかった。  視線をあげた彼は、そこに彼女を見た。目の前にいる彼女ではなく、別の、もっと幼い少女を。 「オレはもう、あのときと同じ後悔はしない。絶対に、しない。おまえをオレが守る。オレは、おまえのためなら何だってできるんだ」 「あ、あええ? コ、コウ、どーしちゃったのかなぁ……?」 「え……」  港はようやく現実を取り戻した。さっきまで彼の眼に映っていた少女と違う顔が、照れて困った表情を浮かべていた。  うるちだけではなく、御門も校長先生も呆気にとられていた。  御門はわざとらしく咳払いした。 「まったく、こんなところでよくも恥ずかしげもなく言えるものだ。ともかく、そちらの言い分はたしかに聞いた」  御門の言葉で、結論がでるのがわかった。港は状況を思い出し、居住まいを正した。 「……で?」 「まぁ、努力は認めてもいい」  御門はテーブルの上にあった封筒を、うるちに差し出した。  うるちは不安になりながら封筒を開き、中身を確認する。 「学費一部免除と納金期限延長申込書……?」 「これってもしかして……」  港が自分の考えを述べる前に、校長が答えた。 「経済的に不安のある生徒のために、成績優秀者を対象とした一部学費免除制度、つまりは奨学金です。そして納金期限延長のほうは、学費の支払いを二〇歳以降にできるようにする申し込みです」  「成人し、返せるようなってから返す、ということだ」御門がわかりやすく補足した。 「今回は、校長先生が津川うるちの保証人になってくださるというので、特別に許可した」 「校長先生が……?」 「キミたちは、結果はともかく努力はしたようだ。努力をする者には援助を惜しまないのがこの学校のやりかただからな」  御門はスッ立ち上がり、校長先生に一礼してドアノブに手をかけた。  「御門」港の呼びかけに、御門は顔だけ彼に向けた。 「ありがとな」 「礼を言う相手を間違えているな。ボクはキミたちがどうなろうと知ったことではない。それに、あくまで暫定処置だ。今後の成績いかんでは、取り消しもありうる」  扉は閉ざされた。 「彼は本当に、人とのつきあいが苦手のようですね」  校長が優しくつぶやく。 「そうなんですか?」 「ええ、ですからこのような普通の高校へ通っているのですよ」 「ああ、なるほど」 「それとここだけの話ですが、今回の処置を決めたのも彼ですよ。わざわざ新しい援助制度まで作って」 「ええ、それは何となくわかりました。以前とは、表情が違いましたから」 「そうですか」  校長はニッコリと笑った。 「それでは失礼いたします。いろいろとありがとうございました」 「ありがとうございました!」  うるちは大きくお辞儀をした。本当の笑顔を浮かべながら。 「これからも努力を怠らないように、しっかりがんばりなさい」  二人は校長に「はい」と答え、廊下へ出た。  結果を心配していた畑野が、すぐに飛びついてきた。 「ねね、話は何だったの?」 「それがな――」  「あ、いたいた」良子と優輝、それに正義の三人が駆け寄ってくる。 「コウ、がんばったじゃない!」 「なにがだ?」 「結果みてないの? コウくん、三一番よ」 「……………………ハァ?」 「なに呆然としてんだ。さすがに良子ちゃんにはかなわなかったけど、優輝ちゃんすら抜いたんだぞ」  港は慌ててクシャクシャになっていた順位表を取り出した。 「うお、ホントだ――て、うるち!」 「あえ?」 「おまえも七九位に引っかかってるぞ」 「あええ〜〜!」  驚いたり、大喜びしたり忙しい二人をしり目に、畑野がボソッと言った。 「納得いかない……」 「なにがだ?」 「なんであたしが結城くんに負けてるのよぉ! ウッキ〜、ゼッタイ納得いかな〜い!」 「今度はオレが勉強を教えてやろうか?」 「ムッカァ……! 学期末でゼッタイ見返してやるんだから!」  畑野は怒りおさまらず、背を向けてズンズンと歩いていった。 「畑野!」 「なぁによ!」 「本当に、ありがとな」 「……フン」  畑野の機嫌はなおらなかった。 「……タコ焼き」 「は?」 「前の約束と合わせてタコ焼き屋五箱! それでカンベンしてあげるわ」 「……ああ、了解!」  畑野は満足したのか、「よかったね、二人とも!」と手を振って去っていった。 「とーぜん、あたしたちにも、ね」 「ごちそうさま」 「ゴチ!」 「――て、良子や優輝はともかく、なんでセイギもなんだよ!」 「そこはそれ、オヤクソクだ」 「ヤなオヤクソクだな」  その点で沈みかけた港だが、喜びのメーターはこれくらいでは微動だにしなかった。 「それじゃこれから、みんなで行くとするか」  と、誘いをかけるが、うるちの一声で簡単にとめられる。 「ダメだよー。これからコウ、バイトじゃん」 「あ、そうだった」 「今日で最終日なんだから、がんばろうね、コウ」  うるちの母親はすでに退院しており、自宅療養していた。それもようやく復調し、港は今日でアルバイトを終える予定であった。  店も持ち直し、繁盛していた。閉店騒ぎも終わってみれば宣伝効果となっていたようで、改めて津川屋の美味さを再認識した客がかなりの数、戻っていた。また、一時期の看板娘・水都優輝目当てで来ていた客なども、今では味によってリピーターとなっていた。  「がんばってね、と言わないだけ成長したな」 「あえ、それもアリ?」 「ない!」  港は冗談をうちきり、うるちの身体をみんなに向け、いっしょに頭をさげた。 「みんな、ありがとな。本当に助かったよ」 「ありがとう。あたし、これからもがんばるよ」  感動に何もいえない優輝と良子に代わって、正義が軽口を叩く。 「めずらしく殊勝じゃないか」 「百年に一度の奇跡だ、これが最後だと思え。それじゃ行くな。タコ焼きはまた今度で」 「それじゃねー、バイバイ!」  港とうるちは、三人に見送られ、学校を出た。 「そういや、今回一番ワリを食ったのは優輝ちゃんだな」  二人が見えなくなると、正義が冗談めかして言った。  「なんで?」優輝にはわからなかった。 「だって、バイトをしたせいで勉強時間減ったろ? 成績、落ちたんじゃないのか?」 「あ、そういうこと?」  優輝は得心がいき、正義の勘違いを正した。 「逆。あがってるよ。わたし三九番だったもの」 「え、そうだった? 良子ちゃんの番号のあとにコウを見たから、てっきり……」 「もう一つのバイトの条件だったら、がんばったのよ」 「そぉかぁ、バイトをすると成績あがるのかぁ……」 「それは違う」  良子のツッコミに、優輝も正義も笑った。 「結城港を処分しなかったようだな」  帰りがけ、人影のない廊下で御門は声を聞いた。振り向くと巨大な壁がそびえていた。いや、大きく鍛えぬかれた身体が威圧感を放ち、壁と錯覚させていただけのようで、そこには確かに人が立っていた。 「……あなたたちはなぜか、あの夢想人を買っておいででしたね」  御門の言葉に、生徒会長・北枕総司は口元だけで笑った。御門は、この恐怖と暴力の象徴を畏れない数少ない人間だった。二人の共通点は、絶対的な正義を自身のなかに持っているところだ。所詮、正義などは一方的な定義に過ぎないのだが、二人のそれは重なる点が多かったようだ。それだけに、つながりは深い。 「そうでもないが、骨はあると思っている」 「でしょうね、ボクにもあなたにも正面から反発したのは、彼だけですから」 「ただの無知な小僧とも言えるがな」 「ボクはそう思っています。無知というのは、感情ですべて解決しようとするから手に負えない」 「だが、それが心地よいのも確かだ。オレはその点を評価している」 「そうですか。どの道ボクはもう、彼と関わることはないでしょう。いっそのこと感情に任せて暴力事件でも起こしてくれれば処分しやすくていいんですがね」  御門はきびすを返し、元の道に戻った。 「あいつが感情で暴力を振るうとしたら、それこそ何かを護るときだろうな」 「はい。あの方はそういう人ですから」  歩きはじめた総司の背後で、彼女は嬉しそうに応えた。 「東、巡回の時間ではないのか?」 「はい、参ります」  赤い影と気配は、一瞬にして消えた。    夜の八時を過ぎ、明日の仕込みと片付けを終えた港に、うるちが声をかけた。 「あ、コウ、話があるんだけど、いい?」 「なんだ?」 「うん、部屋で話すよ」  彼は疑問に思いつつも、うるちについて部屋へあがった。 「あのさ、気になってたんだけど、んで、訊いていいのか迷ったんだけど……」 「前置きはいい。訊きたいなら訊け」 「えと、校長室でのこと。あのときのコウ、何かヘンだったから」  「ああ……」港のテンションは一気に下がった。確かに訊かれるのは楽しくない話だった。 「……ガキの頃を思い出したんだよ」 「やっぱりそうなんだ。ウン、納得した」 「納得って……それだけかよ?」 「あえ、話したいの? あんま訊くのは悪いと思ったんだけど、しょーがない、聞いてあげるよ」 「殴っていいか?」 「ダメだよー、せっかくよくなった頭がまた悪くなるじゃん」  うるちは冗談で答え、それから口調を変えた。 「聞きたいのが本音なんだけどさ、あたしは別に昔のコウが知りたいとか思ってるわけじゃないから、どーでもいいんだよ。ただ過去に向かって話してるみたいだったから、ちょっち気になった。そんだけ」 「……そうか」 「どっちかというと、こっちのが訊きたいんだけどさ」 「なんだよ、ニヤニヤしやがって」 「結局、良子と優輝のどっちがいいわけ?」 「ぶ!」 「相性的にはどっちもアリだとあたしは思うけど。世話焼きの良子と、一歩退いて男を立てる優輝ってカンジで」 「どっちも今ントコ関係ないわ!」 「あえ、みなみのがよかった?」  うるちの頭を叩くスリッパの音は、いつにもまして甲高かった。 「あええ、もしかして、本命はあたし……?」 「それだけはありえません」 「そんな真顔で、しかも丁寧語で言わなくても……」  わかっていても、うるちは少々傷ついた。 「ヨタ話は終わりだ。帰るからな」 「あえ〜……。コウってば照れ屋さんだ」 「おまえはさっさと奨学金の書類でも書いて寝ろ!」 「あい、そうします、隊長!」  うるちは階段を降りる港についていった。 「ああ、ちょっと待っておくれ」 「はい?」  靴を履いた港に、店主が待ったをかける。  港が振り返ると、白い封筒を突き出された。 「これは?」 「もちろんお給金だよ」 「受けとれません」  しばらく二人の間で問答が続く。そもそも彼は時給せんべい一枚で雇われており、毎日きちんと貰っていた。ゆえに契約外の報酬を貰うつもりはないというのが彼の主張だ。  想像していたであろう港の頑固さに、祖母は笑顔のまま言った。 「それじゃ、それは天草さんに渡してちょうだい。あの子には勉強どころか家事までしてもらったからね、お礼だよ」 「良子も受け取らないと思いますが……」  彼の知る幼なじみは、絶対に拒否をする。「金銭のためにやったわけじゃない!」と逆に怒るだろう。 「それを決めるのはあなたではないわ。だから渡してちょうだいね」 「……」  彼女の狙いがわかるだけに、港は八方塞がりだった。一度この封筒を受けとれば、港か良子のどちらかが手にしなければならない。そして良子がいらないと言えば、結局彼がもらうことになるのである。 「……わかりました。良子にわたします」  結果がみえているのに、その策にのるしかないのが港の立場だった。 「お金はともかく、忙しいときがあればいつでも声をかけてください。できるかぎりお手伝いさせていただきます」 「ああ、そのときは遠慮なく手を貸してもらうよ。今までありがとうね」 「こちらこそお世話になりました。じゃあな、うるち」 「うん、おやすみ〜。また明日ね」  港は深く頭を下げ、津川屋をあとにした。  彼は自宅マンションに着くと、その足で天草家を尋ねた。顔を出した良子に、港は先ほどの封筒を渡した。 「なに、これ?」 「おまえの給料」 「へ? なに、もらってきたの?」  あきらかに不機嫌になる良子に、港は順を追って説明した。 「……で、にっちもさっちもいかなくなったわけだ」 「そういうわけだ」 「今さら返すわけにもいかないしねぇ。それじゃ半分ずつね」 「オレは正規の報酬を――」 「そしたらあたしなんてもっと貰うわけにいかなくなるでしょ。つまりは、それが狙いのわけなんだから」 「……だよなぁ。わかっててハマるのか」  良子は「ここは感謝しようよ」と笑うと、港も納得した。 「はい、半分。でも何に使おうかしら……。適当に使うのは悪い気がするのよねぇ」 「オレはとりあえず、おまえたちに請求されてるタコ焼きをおごって……」 「あ、すっかり忘れてたわ。明日なら空いてるから行こうよ」 「了解。あとは、ときどき津川屋でせんべいでも買うさ」 「あ、それいい。コウにしてはいいアイデアね」 「なるべく還元したいからな」 「うん」  良子は笑って同意し、それからしばらくの間、二人は合宿の頃の話題で盛り上がった。  翌朝、港は四時半に眼を覚ました。朝というよりも明け方であり、陽光は射しているものの学校には早すぎる時間である。 「たった二週間で習慣になってるのかよ……」  港はボヤいた。考えてみればなんと多忙な日々であったことか。そこからいきなり追い出され、彼としては行き場がなくなった気がしていた。  それでも習慣は習慣で打ち消すしかないので、彼はもう一度布団に潜る。すんなりと二度目の眠りに落ちた。 「ふあぁぁぁ〜……」  あくび混じりに学校へ着いたのは、チャイムの鳴る五分ほど前だった。これも津川屋から向かっていたときと、ほぼ同じ時間である。 「眠そうね、コウくん」 「おはよ、優輝。二度寝したからな。ハンパに眠い」 「今日からはゆっくり寝てられたのに」 「またそのうち戻るだろ」 「戻るのは感心しないわね。ま、遅刻さえしなければいいけど」  良子の小言を、港は「はいはい」と流した。 「ところで優輝、今日の放課後は空いてるか?」 「ごめんなさい、クラブあるの。明日ならだいじょうぶだけど……」 「ああ、そうか。それじゃ明日、例のタコ焼きを食べに行くとしよう」 「なに、オゴリか!」  優輝の返事より速く、正義が食いついた。 「いたのか、おまえ。いちおう訊くが、食いたいか?」 「もちろんだ。タコ焼きはオレの生命の源だからな」 「わかったわかった。今日と明日、どっちがいい? ちなみに今日は良子が空いてる日なんだが」 「忘れられないうちがいいから今日だな」 「わかった。放課後残ってくれ。速攻で帰ったらそれまでな」 「おう、机に身体をくくりつけておくぜ」 「絶対やれよ。そしてそのまま帰れ」  優輝と良子は男たちの掛け合いを見ながら呆れ、そして笑った。  放課後になり、港は良子と正義を教室に待たせてD組へと顔をだした。  ホームルームはすんでいたようで、教室には全体の半分の生徒しか残っていなかった。  その中に、目当ての生徒はいた。のんびりと教科書をカバンに詰めている。  「みなみちゃん」と低くつぶやく。それだけで彼女は反応し、声のほうへ顔を向けた。 「結城さん」  みなみは慌てて教室から出た。それは港が驚くほどの勢いだった。 「よ、よぉ、そんなに急がなくてもよかったんだけど……」 「い、いえ別に急いだわけではないのですが、お待たせしては申し訳ないと……」 「何でそんなに他人行儀なんだ、みなみちゃんは」 「す、すみません……」  彼女があやまる姿に、港は苦笑を返すしかない。 「まぁいいか。今日はこれから空いてる? それともあれ?」 「あ、今日は空いてますよ。何かご用でしょうか?」 「ああ、ご用だ。ちょっとつきあってもらおうかな」 「は、はい……。どちらにでしょうか?」 「タコ焼きを食べに」 「はぁ……」  疑問符を浮かべたまま、彼女は港についてB組の教室へ入った。 「おまたせ。それじゃ行こうか」 「あれ、みなみちゃん?」  港の後ろにいる彼女に気づき、今度は良子が疑問符を浮かべる。  みなみのほうもわけがわからぬまま「こんにちは」と良子と正義にあいさつをした。 「今日は世話になったみんなにタコ焼きをおごる約束をしてたんで、みなみちゃんも誘ったんだよ。栄養剤をもらったからな。仲間に入る資格ありだ」 「ああ、そういうこと」  良子は納得した。 「あ、あのわたし、みなさんと違って大してお役に立ってませんから、ご馳走になるなんて……」 「なに言ってるの。あの魔法薬がなかったら、コウもうるちちゃんも死んでたわよ」 「試験前なんてヘロヘロだったもんな」  すかさず正義のフォローが入り、みなみは安心した。薬をわたしたことが、かえって迷惑ではなかったかと彼女は思っていたからだ。 「さ、行こうぜ。遅くなると売り切れるからな」 「あ、あの、ミナトさんは……?」  自分の名前で呼ばれ、どういう意味だろうと港は首をかしげた。勘違いとわかったのは、発音と、みなみは港を『結城さん』と呼ぶのに気づいたからだ。 「ああ、優輝か。今日はクラブ。あと、畑野にもおごらないといけないんだけど、あいつも優輝と同じ美術部だから、明日ってことになってる」 「そうなんですか。わたしがいただいて、水都さんがいただかないのでは申し訳ないと思いましたので」 「何でそんなに他人行儀なの、みなみちゃんは」  今度は良子が率直に述べた。彼女は再び「すみません」と首を縮めた。  港は一人、そのやりとりに笑っていた。 「いやぁ、みなみちゃんのそういうところ、いいよ」 「か、かかかからかわないでください!」  真っ赤になるみなみに、港はさらに声高く笑った。 「女の子をいじめるんじゃないの!」  良子のスリッパがオチをつけた。  以前、優輝に紹介されたタコ焼き屋は、今日に限っては列もない。まだ夕方でも早い時間なので、客足も少ないのだろうか。  港はニヤリと笑い、スキップでもしそうな勢いで店の主人に近づいた。  その彼を、良子が襟首をつかんで引き止めた。 「なんだ、良子?」 「……あんた今、よからぬことを考えたでしょう?」 「え……?」 「例えば、『タコ焼き百箱ください。ちなみに彼女が食べます』とか言ってみなみちゃんを指さすつもりじゃなかった?」 「うお!」  港は図星をさされ、後ずさりした。良子の背後では、みなみが「ええ!」と驚いている。 「なんでわかった……?」 「あんたの顔がすべてを語ってるわ。あんまりイタズラが過ぎると、ホントに百箱買わせるからね」 「お、おう! 大丈夫だ、まかせろ!」  良子が手を放すと、港は素直に四箱注文した。 「ったくもう、成長がないんだから」 「あ、あの、天草さん、すごいですね。そんなことまでわかってしまうんですか」  みなみの眼は、尊敬の輝きを発していた。 「まぁ、コウの考えは単純明快だから。あなたもすぐにわかるようになるわよ」 「いえ、わたしにはとても……。これが幼なじみの力なんですね」  良子は純真な光に包まれた彼女を見て、ウズッとくるものを感じた。 「……で、なんだこの状況は?」  四箱のタコ焼きを持って戻ってみると、みなみは良子の強い抱擁にあっていた。  「だってカワイイんだもん」良子の言い分である。みなみはただ、真っ赤になって硬直している。 「タコ焼きやるから放してやれ。そのままだと窒息するぞ」 「むぅ」  良子はしかたなく彼女を解放した。 「コウ、あんたの気持ち、よーくわかったわ」 「あ?」 「なんかこう、みなみちゃんを見てるとウズウズしてくるのよね。からかいたくなるというか、抱きしめたくなるというか」 「そうだろ、わかるだろ」 「とりあえずほっとけないオーラが出てるのよね。あー、家に持って帰ったらダメかなー」 「おまえにやるくらいならオレが持って帰る」  二人が意気投合する中、みなみは対処に困ってオロオロし、正義は呆れた。 「おまえら、みなみちゃんの半径五〇メートルに近づくな。警察に訴えられるぞ」  四人は和やかにタコ焼きを食べ、その後、ボーリング場へと向かった。娯楽としてカラオケとゲームセンターも候補に上がったが、身体を動かすボーリングが多数決で可決されたからだ。  みなみはボーリングの経験がなかったが、良子の指導の賜物か、一ゲームの後半から点数を重ね、三ゲーム合計では最下位の港にダブルスコアをつけて圧勝していた。  次回があれば卓球で借りを返すと意気込んだ彼ではあったが、冷静になると勝算のなさに唸った。スポーツ全般、ケンカを含めて港には勝ち目はない。彼女の身体能力を余すことなく見続けてきた彼である。 「今日はとても楽しかったです。ありがとうございました」 「こっちこそ楽しかったわ。また遊びましょうね」  港を押しのけて、良子がみなみの手をにぎる。よほど彼女が気に入ったらしい。 「はい、ありがとうございます。その折はよろしくお願いいたします」 「ああぅ、その謙虚さが――」 「暴走すんな」  ウズウズしだす良子の腕を掴み、港は三歩退いた。 「さ、早く逃げろ! 良子はオレが抑えておく!」 「あは、ありがとうございます。今日はごちそうさまでした。それでは失礼します」  みなみは深々と頭を下げ、笑顔で交差点をわたっていった。  信号が変わり、彼女の姿が見えなくなると、港は良子を放した。 「しかし、そんなに気に入ったか?」 「あの子、かわいいじゃない。素直だし、すぐ真っ赤になるし」 「おまえのほうがイジメっ子じゃないか」 「え、そんなにイジメてた? どうしよ、あやまりにいこうかしら」 「行くな。行ったらまた繰り返すぞ」  港が笑うと、良子はふくれた。 「じゃ、オレも行くわ。久々に遊んだって感じだな。今日は楽しく寝られそうだ」 「ああ、またなセイギ。幸せに二四時間くらい寝てくれ」 「おう、それじゃあさってな!」 「明日、ちゃんと起きて学校に来なさい」  良子の笑顔の忠告に、正義は「わかってるよ」と手を振って去っていった。 「じゃ、オレたちも帰るとするか」 「うん」  二人は駐輪場に収めていた自転車に乗り、星が見えはじめた空の下を走っていった。 「おまえ、ずいぶんと幸せそうな顔してるな?」 「そう? 実際、楽しかったからね。こういう日が続けばいいな、とか思わない?」 「まぁな。でもそうすると、普段は大して面白くないのかよ」  素直に認めるのが何となく悔しくて、港はからかった。  良子は意外にも、真面目に考えてから答えた。 「そうね、別に不満はないかな。ちょっと足りないところもあるけど、まぁそれは税金みたいなものだから」 「なんだ、そりゃ」 「九九%の満足に一欠片が足りないとしても、それはあまり問題じゃないでしょ」 「数字で言えばそうだけどな、その一欠片が大切な場合もあるんじゃないか」 「大切だったら一欠片とは言わない」 「そりゃそうだ。……そうか、良子は今に満足してるのか」  港は嬉しそうに納得した。村雨かぐやが教えてくれた考え方、東みなみが気づかせてくれた思いやり、津川うるちとともに学んだ努力と結果、それらの経験が少しずつ昔を思い出させ、港は一つの答えに行き着いていた。その答えの正否を知る唯一の人間が、天草良子であった。彼女が今、幸せであってくれさえすれば、それが港にとっての正解なのである。  良子には今の港の気持ちはわからない。単純に『満足している』という言葉に喜んでいるのだろうと想像するのが関の山だった。たしかに彼女は楽しいと思った。今の自分を悪いとは思わない。けれど――  良子は彼を見ていられず、視線を前方に戻し、つぶやいた。 「たぶん、ね……」 「なんだ、『たぶん』に変わったのか」 「はっきり言えることでもないから。それにやっぱり、一欠片が足りないと寂しいじゃない」 「そうだな、それもそうだよな」  良子にとっての最後の一欠片は、そう答えて空を見上げていた。彼女にとっての一欠片は決して手に入らない、いや、手にしてはいけない一欠片であるのを、彼女は自分に約束していた。それが、あの日の誓いであった。  同じ頃、優輝は自宅で一通のメールを送信していた。 『わたし、がんばってみるね。だからミキもがんばれ』  文末に笑顔の顔文字を載せて、電子メールは相手の携帯電話へと飛んでいった。  優輝は決心をつけた自分に称賛と不安を感じて、ふぅと息を吐いた。 「伝えなきゃ、今度こそ……」  彼女の中に迷いはなかった。  六月も半ばが過ぎるころ、港は放課後の生活に新しい習慣を身につけていた。  ときには廊下でみなみと雑談をしたり、美術造形部でかぐやと作業をしたり、店番に帰る前のうるちとせんべいを食べたりすることもあったが、その時間は長くもなく、最終的には図書室で勉強をしていた。 「期末で成績を落としたら、御門に何を言われるか」  と、港は苦笑していたが、それが表面的な理由であるのは誰の目にもあきらかだった。  その反動で、つきあいが悪くなったわけでもない。正義やうるちがたまに声をかければ下校をともにしたし、遊んでも行く。そのときは雰囲気も態度も今までどおりの彼であった。  しかし確実に彼は変化しており、周囲も感じはじめていた。  その日も、図書室のいつもの決まった場所に彼はいた。  勉強の息抜きに小説を読んでいた港は、隣に座った少女に気づくまでに三〇秒を要した。 「うお、ビックリした。優輝、いたのか」 「なに読んでるの?」 「ああ、『エンターの遊戯』というSF小説。ずいぶん昔の作品だけど、面白いと勧められてな」 「うるちちゃん?」 「そう。あいつ、好きな作家とかなくてさ、きわめて雑食なんだよ。『誰が書いたんだ?』って訊いたら、『外国の人』としか答えられないくらいだし」 「あは、でもなんか『らしい』ね。作品は好きだけど、こだわりはないっていうのかしら」 「そうなんだろうな。で、優輝はどうした?」 「うん、クラブ終わったから帰ろうかなって。それでよければいっしょにと思って」  「もうそんな時間か」と港は時計を見ると、「ゲッ」と漏らした。 「ヤバイ、息抜きのが長くなったな。復習が終わってない」 「んー、でも、図書室ももう閉める時間だよ」 「だよな。まいったな、ウチでは勉強なんてする気にならないんだよなぁ」 「だから図書室?」 「ああ。オレの部屋は娯楽と堕落の寄せ集めだからな。ま、ボヤいてもしかたない。帰ろうか」 「うん」  優輝は港とともに席を立った。 「優輝と帰るのも、タコ焼き以来か」  港は彼女を後ろに乗せ、自転車を走らせた。 「そうね。あれから絵画展の出展作を描くので一日も休めなかったし」 「へぇ、またあるのか」 「うん。締め切りが来月の二〇日だから、そろそろ題材も決めないといけないんだけど……」 「描いてたんだろ?」 「うん、風景画を描いていたんだけど、なんだか気にいらなくて。いっそ違う題材に挑戦してみようかって迷ってるの」 「それで間に合うのか?」 「んー、題材が決まれば集中できるから描けるとは思うけど」 「そうか、絵もいろいろ大変なんだな。そういうの、オレにはわからないからな。役に立てなくて悪い」 「そんなことないよ。話を聞いてもらえるだけでも気持ちは楽になるんだから」 「それならオレにでもできそうだ。いつでも聞いてやるよ」 「うん、お願いする」  二人は笑った。 「畑野はどうなんだ?」 「えっと、畑野さんは静物画かな。今日は高価そうなティーセット並べてた」 「静物画ねぇ……。生き物描くほうが似合ってる気がするけどな。いや、ナマモノ画のが似合うな。お菓子系とか」 「あは。それはダメなんだって」 「訊いたのかよ。で、なんでダメなんだ?」 「食べたくなるから」 「ああ、想像どおりだ」  港が声を上げて笑うと、優輝も楽しくなった。 「あと……あの、えーと、いつかの展覧会で見た……」 「竜堂さん?」 「そうそう、上半身がマッチョで下半身がダンサー」 「うわ、やっぱりその表現はヒドイよ。本人はすごくかわいいんだから」 「今度紹介してもらうとしよう」  港が真面目な口調で言うと、優輝は「うん、いいわよ」と笑顔で答えた。 「彼氏いるけど」 「……やはりやめておこう」 「あは。まぁ、彼氏と言ってもわたしたちの噂だけで、本人は否定してるんだけどね」 「そういうのが一番怪しいな」 「それを言ったらコウくんと良子ちゃんが学校で最も怪しいわよ」 「……優輝くん、噂は噂だ。鵜呑みはいかんなぁ」  港は偉ぶった教師のような口調で彼女をたしなめる。優輝は可笑しくて肩を揺らした。  自転車が彼女の笑いに同調して左右にぶれる。港はハンドルを強くにぎりなおし、振動を押さえ込んだ。 「おいおい、こんなところでツボにハマるな」 「ご、ごめんなさい。だって……」  優輝は本気で笑い出すと、なかなか止まらないタイプであった。  しかたなく、港は自転車をとめ、彼女をおろした。 「ごめんね。すぐおさまるから……」  と彼女は口を押さえ、肩を揺らしてあやまった。 「いやいい。ゆっくり帰るとしよう」 「うん」  彼女は笑いの発作が少しだけ緩んだので、彼のとなりを歩き出した。 「……でも、本当に噂だけ?」 「何が?」 「コウくんと良子ちゃん」 「ああ。ていうか、そんな噂があったこと自体知らなかったんだけどな」 「そうなの? 一年のときからすごく有名だったよ。少なくとも女子の間では」 「ま、噂なんて無責任なものだしな。良子だって適当に流してたろ」 「うん。あっさり……というより、バッサリと」  「だろうな」それが真実なのだから、と港は思った。 「て、なんだ、わざわざ確認するってのは、優輝から見てもそう感じるのか?」 「ん〜、出会った頃はそうだけど、今は違うってわかるかな」 「これだけ近くにいないとわからないってわけか」 「うん。それだけ自然体なの、コウくんと良子ちゃんは」 「幼なじみ暦だけは長いからな」  港が愛想のように笑うと、優輝も同じ笑顔を返した。 「……幼なじみってそういうものだよね」 「優輝にもわかるのか?」 「わたしにもいるもの。ううん、いたもの、幼なじみ」 「ああ、まだこっちに越してから一年ちょっとだもんな。当然、前の街にいるよな、友達」 「うん。メールはよくするんだけどね……」  彼女は離れてしまった二人の顔を思い出した。しかしそれは一年前のものであった。成長期の二人はどう変わっただろうか。彼はまた背が伸びただろうか。彼女は髪を伸ばしただろうか。近況の交換はあっても、外見の変化を彼女は知らない。そういえば、電子メールに画像を添付しても、当人たちが映っていることはほとんどなかった気がする。そんな簡単な手段になぜ気づかなかったのか、優輝は不思議だった。 「オレは転校とか引越しの経験がないから、そういう寂しさはわからないな」 「寂しいよ、本当に。雨が降っても頼る友達がいないのは、泣きたいくらい悲しくなるんだよ」  優輝は天草良子と初めて会話をしたときを思い出した。あの時、彼女がいなければ自分はどうしていたのだろう。雨に濡れて、寂しさと惨めさに泣いて帰ったのかも知れなかった。 「優輝は、帰りたいか?」 「え?」 「幼なじみがいる街へ」 「帰りたい、かな……。ううん、帰ってもいいのかな……」 「なんだ、悪いことでもしてきたのか?」  港が茶化すと、優輝はハッとして誤魔化すように微笑んだ。 「あ、うん、ちょっとバツの悪いことはしちゃったかな。でも、もうこの街にも未練ができちゃったから、もし帰れるとしても悩んじゃうんだろうな」 「未練? 友達ができたからか?」 「うん、それもある。けど……」  優輝はそこで言葉をとめた。うつむき、歩く速度が徐々に落ちていった。 「どうした?」 「コウくん、遊園地でのこと覚えてる? 観覧車に乗ったときのこと」 「あ、ああ」  港はあいまいにうなずき、思い返した。  港は良子と正義に押し込まれ、優輝と二人だけで観覧車のゴンドラにいた。  ゴンドラはゆっくりとあがり、夕焼けの街の空高くへと二人をいざなっていった。  その中で、優輝は怯えるように口を開いた。 「コウくん、変なこと聞いていいかな?」 「うん? いいけど?」 「あの……あのね……」  優輝はうつむいて、組んだ指をせわしなく動かしている。 「うんと、ね……」  しかしその先は、優輝の口から出ることがなかった。 「どうしたんだ?」 「あ、う、うん……。やっぱり、いい……」 「そうなのか?」 「ごめんなさい。ホントは、聞いちゃいけないの」 「はぁ?」 「わたしから言わないといけないの」 「……悪い、よくわからないんだけど」 「あ、ごめんね。うんと、あの……」  優輝は声帯は、またもとまった。港はわからないなりに、優輝の気分を和らげるために声をかけた。 「……言いたくないなら無理に言わなくていいんだ。もしどうしても言わないといけないことだっていうなら、決心を固めてからでいい」 「う、うん。決心はついたはずなんだけど……」  「言えないんだから、まだダメだろ」港は可笑しくなって、ついふきだした。 「ヤケクソでもなんでも、ちゃんと口に出せるようになって初めて決心がついたってことだ。今はまだ、どこかに迷いがあるんだよ」 「……」 「だから、もう少し考えてみるといい。優輝が本当に決心がついて言いたくなるまで、オレは待つから」  優輝はうつむいたまま、「うん……」とつぶやいた。 「あのときの、決心がついたのか?」 「うん。今度こそ間違いなく」  商店街は途切れ、小さな児童公園に二人の足は進んでいた。もう子供の影はない。  伝える決心をした夜、幼なじみにメールをした。彼女は五分もせずに『がんばれ』と返信をよこした。そのあとに『わたしはがんばらないけどね』という一文が続いていた。  あれから一〇日以上が過ぎてしまっている。美術部の忙しさを理由に、二の足を踏んでいたからだった。伝えるのが怖い。以前の結果を思い出すから。でも、言葉にしなければ伝わらないものが、確かにあるのだ。 「コウくん、わたし――」  港は真剣で赤らんだ優輝の表情に、予感があった。期待をしていたような、それでいて聞きたくないような、複雑な予感だった。  そして、二人は同時に驚いた。  軽快で、かつ場違いなメロディーが唐突に流れた。 「あ、ご、ごめん……」  優輝は慌てて携帯を取り出し、電源を切ろうとした。けれどその動作の前に、メロディーは消えた。メールの着信を報せるものだったので、すぐにおさまったのである。 「えと、あのね……」 「ああ、とりあえずメールでも読んで落ち着いてくれ。話はそのあとでいい」 「う、うん……」  どのみち優輝には、もう話す気力がなかった。気持ちが盛り上がっていればいるほど、一度抜けると落胆の深さは計り知れない。 「飲み物買ってくる」  港は自動販売機を指差し、歩いていった。  優輝は手近なベンチに腰掛け、携帯電話を開いた。 「あ……」  メールは思いがけない人物からであった。その人から直にメールが来ることはほとんどない。こちらからもあまり送ってはいなかった。  優輝は名前を見ただけで嬉しくなった。ほんの一分前、自分が何をしようとしていたのかすら忘れていた。  その様子を遠目にチラリと見やって、港はホッとした。彼女があまりにも嬉しそうに見えたからだ。 「いいことでもあったかな」  港は缶コーヒーをゆっくり味わおうと思った。  五分かけて一缶空け、港は優輝のそばに戻った。片手にはおみやげのアップルジュースがあった。 「優輝、ほら」  彼の呼びかけに、彼女は応えなかった。うつむいたまま、携帯電話を強くにぎっていた。 「……どうした?」  優輝は肩をビクつかせ、ゆっくりと顔をあげた。その顔は、先ほどと正反対の怯えた表情であった。 「おい、どうしたんだよ! 大丈夫か!」 「コウくん……」 「何があった? なんて言ってきたんだ?」 「あ……」  優輝は慌てて携帯電話を閉じ、ポケットにしまった。 「どうしたんだよ、ホントに」 「ごめんね、コウくん」 「何であやまるんだ? 何で泣きそうな顔してるんだよ」 「ごめんなさい、本当にごめんなさい。わたし、最低だ……」  優輝は立ち上がり、駆け出そうとした。  その手を、港は掴んだ。 「優輝……!」 「放して、コウくん……。わたし、コウくんに合わす顔ないよ……」 「なんなんだ、それは? ちゃんとわかるように言ってくれよ!」 「ごめん、今は許して。ちゃんと、いつかちゃんと話すから。だから許して……」  彼女の頬を伝うものに気づき、港はもう、手に力を入れられなくなっていた。すり抜ける優輝を引き止める言葉すらなかった。  優輝の香りだけが、そこに漂っていた。