「Pure☆Colors」 第十話  気がつけば起床時間だった。疲れているはずなのに目覚まし時計の力も借りず起きられたのは、やはり自分にとって大切だからか。自分の意志で決めたことならがんばれるという証明なのだろうか。だとしたら、港は嬉しかった。自分にも何かができるという想いは、高揚感となり力となった。  気分よく昨日と同じ行程を経て津川屋にたどりついてみれば、うるちはまだ寝ていた。  面倒くさかったので、今回はいきなり布団をはいで床に転がしてみる。 「ぐあ、もう耐性を身につけたのか!」 「く〜〜〜〜〜〜……」 「さて、どうしてくれようか。これでもいちおう女の子なわけだしな」  思案した結果、港はうるちの足の裏をくすぐってみた。 「キャハハハハ…! やめて〜、やめてよぉ〜」 「さっさと起きろ。はじめるぞ」 「あや、コウ! またしてもうら若き乙女の部屋に忍びこんだね!」 「乙女は『キャハハハ』などと笑わない。それにおまえの貧相なパジャマ姿を見ても、な〜にも感じない」 「むむぅ、せくはらだ……」 「文句いう前にちゃんと起きろ。そしたら話を聞いてやる」  港はかまっていられないので、一足先に工房へ向かった。それを釜の準備をしていたうるちの祖母が迎えた。 「賑やかねぇ」 「どうもすいません」 「いやいや、家というのは賑やかなほうがええよ。ありがとね」  彼は恐縮して、あいまいに「はぁ」としか答えられなかった。  その後、昨日同様の同じ作業をこなし、二人は学校へ向かった。 「あ、コウくん、聞いたわ。御門くんと試験で勝負なんですって?」 「情報はえー……て、優輝は畑野と同じ美術部だったな」  港は納得してから本題に入った。 「成り行きでな。御門の成績なんか知らないから、ちょっと困ってはいるんだが」 「え、知らないの?」  良子が驚いて、作業をしていた手をとめた。 「知るかよ、ヨソのクラスのヤツの成績なんて」  優輝と良子は顔を見合わせた。『知らないのもある意味スゴイ』という顔である。 「もしかして、頭いいのか……?」 「学年で一、二を争うほどだ」  マンガを読みつつ、正義は簡単に言ってのけた。 「……マジか?」 「マジ」  港は桁の違いに呆然とし、想像しようとして失敗した。あまりにもかけ離れすぎて、ピンとこなかった。 「試みに問うが、良子くん」 「なによ?」 「チミの成績もかなりいいとは思ったが、どんなものだ?」 「そうねぇ、学年順位平均で二〇前後かな」 「おまえ、そこまでよかったのか!」  港は予想以上のダメージを受けていた。もう少し身近な存在はないものか、視線をめぐらせる。 「ち、ちなみに優輝は……?」 「わたし? え〜と、学年末が六二番だったかしら」 「ぐお、学年四三二名中六二位っスか!」  少しでも安心を得ようと思った彼のもくろみは、はかなく散っていった。 「セ、セイギ! おまえはオレの心の友だよな! な!」  腹を空かせた子犬のようにすがる彼に、正義はニヤリとした。 「オレは二一六位だった。平均点の男と呼んでくれ」 「おお〜! かろうじて勝った!」 「低いレベルで誇るんじゃないの。今度の相手は一番なのよ、イチバン!」 「………………どうしよ?」 「あたしが聞きたいわよ!」 「お昼はまた、作戦会議ね」  港はガックリとうなずいた。  昼休みは、港とうるちにとっての重要な睡眠時間であったが、今日はその暇は与えられそうになかった。  うるちと聡子を加えた六人が、机をグルリと囲んで唸っている。 「ところで、畑野、おまえの成績ってどんなもんだ?」 「あたし? 学年末で一二三番だったかな」 「よもやおまえまでオレを裏切るとは思いもしなかった」  「裏切るってなによ」聡子はイチゴミルクを飲みながら港を睨んだ。 「他人の成績をうらやんでる場合じゃないでしょ」  良子が港の頭をスリッパで叩いた。いい音を響かせる。 「……どこに持ってたんだ、それ」 「ともかく、悩んでも仕方ないんじゃねーの? 勉強して実力で勝つしかないんだからよ」 「そんなことはわかってる。でも、ただでさえ忙しいのに、勉強までやってたら寝る時間すらなくなりそうだ」  朝一番でせんべいを作り、昼間は学校、終われば津川屋で販売に入り、閉店後は仕込み作業が待っている。そのあとに勉強というのは、平均睡眠時間一〇時間の港にはキツイ。 「結城くんは、勝てないと思ってる?」 「正直、勝つ見込みはないだろうな」 「なら、やめちゃえば? 土下座でもしてきのうの態度を改めれば、それで済むと思うわよ。だいたい、勝っても負けても誰かが得するわけでもないし」  聡子の言は正しいと港も思う。思うが、感情が許さなかった。 「イヤダ。アイツに頭を下げるくらいなら、死んだほうがマシだ」 「見栄っぱりねぇ。そんなつまんないプライドなんか、ないほうが楽なのに」 「何とでも言ってくれ。アイツにだけは、絶対に屈したくないんだ」  彼の覚悟の程を知ると、一同は作戦会議に入った。  初意見は優輝からだった。 「いかに効率よく勉強するかを考えたほうがいいんじゃないかしら」 「そうねぇ。短い時間でも、濃密な勉強をすれば身に付くものも大きいわね」  うなずきあう成績上位者たちに、港は恐る恐る発言した。 「そんな効率のいい勉強を、オレとうるちができると思うか……?」  「……」優輝は無言だった。  「……」良子は無言だった。  「……」聡子は無言だった。  「……」正義は無言だった。  一瞬の沈黙ののち、当事者をのぞいた四人が、大きくため息をついた。 「……しょうがない、あたし、うるちちゃんトコに泊まり込むわ」  良子が肩をすくめた。  一同が驚くなか、良子は「コウ、あんたもいっしょに合宿よ」と付け加える。 「オレもかよ?」 「当たり前でしょ。別々に勉強なんて効率悪いことできますか。今日は支度とかあるから無理だけど、明日からおジャマさせてもらうわ」 「だけど、それじゃ――」 「コウ、今一番大事なことを考えて。あんたの些細なこだわりで、全部ダメにするの?」  良子には彼の気持ちがわかった。自分には頼りたくなかったのだ。いや、他の誰にも頼りたくなどなかったはずだ。けれど忘れて欲しくはなかった。自分が何のためにがんばるのかと言うことを。 「そうだよな。オレ一人じゃ無理だな。悪いが頼む」  港は素直に頭を下げた。 「うん。そのためにみんないるんだから」  決まってしまえば、港は次の点も留意しなければならなかった。 「けど合宿と言っても、オレ、男だぞ? いっしょってのマズくないか?」 「そんなの気にしてる暇なんてないでしょ。それにあたしは気にしないし、うるちちゃんのウチにだって家族はいるんだから」 「まぁ、そうだな」 「おまえらはいいとして、もう一人の当事者にも意見を訊けよな」  正義が指摘すると、一同はうるちに視線を移した。 「く〜〜〜〜〜〜〜……」 「寝てるし……」  うるちはせんべいをくわえたまま、舟をこいでいた。 「このアホ!」  三色のスリッパが、連続してうるちの頭部を襲った。港と良子と聡子の、見事な連係攻撃だった。 「あ、あえ? ……おはよぉ」 「おまえ、大物だよ」  目を覚ましたうるちにまとまった案を出すと、彼女はむしろ喜んだ。 「あえ、合宿? わー、いいね、それ。部屋も余ってるからかまわないよー」 「よし、あとはばあちゃんに訊いてみてだな。良子には話が決まったら携帯にでも留守電いれておく」 「了解」  一同が安心して食事を再開するなか、優輝だけが箸を取らないでいた。 「どうしたの、優輝?」 「わたしも、その合宿でお手伝いしたい」 「え?」  一同の手がまた止まった。 「わたしだって津川さんにいてもらいたいし、何もできないのは心苦しくて」  優輝の言葉が半分しか語っていないのは、港を除き、全員が気づいていた。うるちだけではなく、彼女は港の手助けもしたかったのだ。  うるちは優輝の気持ちを理解していたから、「ウチはかまわないよ」と簡単に言ってのける。  しかし良子は、優輝にしては安易だと思わずにはいられない。彼女の両親を知っていたからだ。 「優輝、両親に許可が取れたら手伝ってね」 「うん、夜に聞いてみる」  良子の様子から、正義も聡子も無理だとわかった。年頃の娘が、知らない家に、親しくなって間もない友人のために、男友達といっしょに過ごす。それを簡単に許す家は、多くはない。 「じゃー、あとは各自で許可をとれてからってことで」  聡子は重くなりそうな雰囲気を、無理矢理お開きにした。  放課後、うるちが病院から戻ってから、港は津川屋の主人に話をした。御門とのいざこざは伏せ、試験勉強のためとして泊まり込みを許してはもらえないかと。 「賑やかなのは嬉しいねぇ」  祖母はそう言って快諾した。  ついで部屋割りが決められ、港は一階の客間、もう一人が二階の空き部屋を提供された。  港はさっそく良子の携帯電話にメッセージを残し、仕事を再開した。  片付けと仕込みを済ませ自宅に帰った港は、国際電話をかけた。両親には友人の奨学金のために合宿勉強をしたいと告げた。父親は、「良子もいっしょだ」という一言であっさり了承した。  次に良子に電話をする。そもそも彼女がいてはじめて成り立つ合宿である。彼女の両親なら大丈夫だろうと深く考えないでいた港だが、果たして良子も参加できるようだ。そのおりに優輝の結果も聞かされ、彼女は両親の反対にあって断念したらしかった。 「しかたないよな。それが普通の反応ってヤツだろ」 『まるでウチやあんたのとこが普通じゃないみたい』 「オレはほら、良子の名前を出せばだいたい許される」 『ウチだってコウの名前を出したらオッケーされたわよ』 「へ? なんでオレの名前で通るんだよ」 『ウチの親に信用されてるってことでしょ』 「……信じられん」 『ウチの両親、なぜかあんたを買いかぶってるのよね』 「ああ、ちゃんと言っておいたほうがいいぞ」 『自分で言うな!』  二人は笑って「また明日」と電話を切った。  港と良子は、大きなカバンを引っ張り出す。そして明日からの荷物を整理しだした。  これから、長い一週間がはじまる。  三日目にもなると朝の作業も手慣れてきて、余裕を持ってできるようになった。そのせいか、精神的にも肉体的にも楽になり、疲れもあまりたまらなかった。あえていえば睡眠が絶対的に少ないのだが、これもいつか慣れてしまうのではないかと港は思う。  学校へ無事に着いた彼に、良子がまずあいさつをしてきた。 「おっはよ。部活が終わったら行くから、八時近くになると思うけどいい?」 「わかった。荷物が多いなら、運ぶのを手伝ってやるぞ」 「ああ、いいわ。別に遠くへ行くわけでもないし、ときどきは家に戻って顔も見せておかないとね」 「そっか。それじゃ、よろしく頼むな」 「うん」  良子との会話を終え、隣の席の優輝を見ると、あからさまに元気がなかった。 「ダメだったんだってな。でもありがとな。オレたちのために手伝おうとしてくれたのは感謝してる」 「うん、ごめんね。役に立たなくて」 「おいおい、そんなふうに言うなよ。オレは優輝の両親が心配するのもわかる。だから悪いなんて思うな」 「うん。他にできることがあったら言ってね」 「ああ、ありがとう」  彼の微笑みに、優輝は少しだけ救われた気がした。いつもの突き放すような遠慮を、彼がしなかったからだ。けれど何もできないのに変わりはない。彼の側には、自分よりも優秀な幼なじみがいるのだから。  優輝は知らずうちにため息をこぼしていた。 「あ、優輝」 「なに、良子ちゃん?」  優輝は慌てて笑顔を取り繕った。やる気になっているみんなに、不安を与えるわけにはいかなかった。 「昼休みなんだけど、時間がもったいから授業の復習をしようと思うの。あたしはうるちちゃんを担当するから、優輝はコウに教えてやって」 「昼休みもかよ!」  港の抗議は、「自分の成績をみてから文句いいなさい!」という一言で沈黙した。 「クラスが違うから科目も変わるでしょ? 二人いっぺんに教えるなんてできないから、お願い」  良子が手を合わせるまでもなく、優輝は「うん」とうなずいた。 「悪いな、優輝の昼休みまで潰して」 「ううん。手伝えるの、嬉しいから」 「そっか、じゃ、よろしくな」  優輝はまた、嬉しそうにうなずいた。  昼休み、うるちに付いてB組に顔を出した聡子は、乾いた笑みを浮かべた。  二分に一度、スリッパで頭を叩かれているうるちには、同情を禁じえない。 「アッハハ〜。天草さんて、スパルタぁ〜」 「ていうか、これでよく進級できたものね。数学はぜんぜんダメそう」 「あえ〜、数字は人類の敵だよぉ。こんなものがあるから差別社会になるんだ」 「どういう論拠よ」  スパーン、という音が響く。 「ウチの売り上げも授業料も数字じゃん。お金という数字による価値基準が構築されたから差別や貧富ができるんだよ。それを調査したりまとめた統計学だって数字の集まりじゃんかー」  一同はわりとまともそうなこと言う彼女に「ほう」と唸った。 「一理あるかもしれないけど、今はただの数字計算の話をしてるの。さぁ、次はこれ」 「あえ〜、良子先生は厳しいよぉ」  そんなうるちに、聡子は笑う。 「ま、がんばりな。天草さんを超えなければ、御門くんには勝てないんだから」 「あ、あたしのことは良子でいいわよ。さん付けされるような大したものでもないから」 「じゃ、あたしも聡子でいいよ」 「了解」  二人はなぜか拳を合わせた。 「今オレは、見てはいけない友情の成立を目撃してしまったのかもしれない」 「もう、コウくんも、津川さんに負けないようにがんばらなきゃ」 「はいはい。……で、ここの動詞の使い方だけど――」  港は英語の教科書に視線をもどし、優輝に尋ねた。 「ああ、ここはね」  近づく優輝の髪から、いつもの彼女の香りが強く漂う。港は思わず身体を避けた。 「どうしたの?」 「イヤ、別に」 「ヘンなの」  そんな二人を、正義は完全に蚊帳の外から眺めていた。 「いーなー、あいつ。おいしすぎる」 「なになに?」 「およ、畑野ンもあぶれたか」 「ハタノンって何よ。せめてサトポンと呼びなさい」 「じゃー、サトポン、オレだけ暇なんだが」 「勉強したいの? 変わってるねー」 「そうか、考えてみりゃ、昼休みに何が哀しくて勉強しなきゃならないんだ」 「うんうん。あたしもそう思うよ。だからあたしはご飯食べて、のんびりする。その漫画、借りていい?」 「あー、もう読み終わったからやるよ」  「ラッキー」と聡子は目的の漫画を読みはじめた。 「なんなんだ、この風景は」  正義はわけもわからずため息をついた。  体力には自信のあった港も、放課後には疲れが見えはじめていた。昼休みは眠るのを前提としていただけに、勉強会は心身の消耗を激しくしていた。 「ちょっとだいじょうぶ、コウ?」 「ああ、だいじょうぶさ。それじゃオレ、さきに帰るな」 「うん……。またあとでね」  良子は心配そうに港を見送っていた。 「しっかりしろ。いつまでも良子に心配かけてちゃダメだろうが」  ふらつきながら歩く港の隣には、いつの間にかうるちが従っていた。 「コウ〜」 「うるちか……。おまえもかなりヘバってるな」 「まぁねぇ。普段の半分も寝ないで、普段の倍以上忙しいからねぇ」 「うむ。一生に一度、あるかないかの攻防戦だ」 「よくわからないけど、そだねぇ……」  「あえ!」不意にうるちが間抜けな声をあげた。続いて崩れ落ちる音が響く。  港の隣にいたはずのうるちが消えていた。視線を下げると、彼女は尻餅をついていた。 「ごめんね、ぶつかっちゃって」  うるちの正面には一人の女子生徒がいた。 「あれ、みなみちゃん」 「あ、あの、大丈夫ですか?」  状況からしてうるちの前方不注意なのだが、みなみはかなり困惑して彼女に手を差しのべていた。 「あええ、こっちがぶつかったんだよ。あやまるのはこっち。ごめんね」  うるちは彼女の手を借りて立ち上がった。 「い、いえ、わたしが避ければよかったんです。本当にすみません」  みなみが頭を下げる。ポニーテールが大きく揺れた。 「みなみちゃんは大丈夫だった?」 「は、はい! おかげさまで……」 「おかげさまって……」  港は軽く噴いた。 「あ、ヘン…でしたか?」 「かなりな」  黙ってみなみを見つめていたうるちは、「あ」と声を漏らした。 「たしかコウに手紙を渡してくれって頼んだコだよね?」 「あ、はい。その折はご面倒をおかけしまして申し訳ありませんでした」 「あえ、いいよいいよ。大したことじゃないじゃん。そかー、コウと仲直りしたんだ」  みなみは一瞬で赤面した。 「仲直りって……」 「だってコウちゃん、手紙も見ないで不機嫌だったじゃん」 「わざわざ説明するな」 「ムゥ〜」  脹れるうるちの頭を、港はポンと叩いた。 「そういえば、ちゃんと紹介してなかったよな。E組の東みなみちゃんだ」 「あの、よろしくお願いします」 「うん! あたしはC組の津川うるち。よろしくね。それと、コウがいつもいつもいつもいつも面倒かけてゴメンねー」 「何様だ、おまえは」 「コウの保護者」 「どっちがだ!」  二人のやりとりを眺め、みなみはささやかに笑った。 「みろ、笑われてるじゃないか」 「コウはどこへ行っても恥ずかしい人だからねぇ」 「オレかよ!」  港は重い息をはいて、頭を振った。 「悪いな、みなみちゃん。いろいろあって急ぐから、行く」 「あ、ちょっと待ってください」  港とうるちが「?」を浮かべていると、みなみはポケットから小さな巾着袋を出した。 「お話はうかがっています。わたしにはこの程度しかできませんが、これを……」 「薬?」  港は風邪薬を思い出した。あれもこのような巾着袋に収まっていた。 「はい。秘伝の疲労回復役です。疲れたときに、一粒ずつ飲んでください。ですが一日二粒までにしてくださいね。少々強い薬ですので」 「ああ、ありがとう。すごく助かる」 「津川さんも飲んでくださいね」 「あえ、ぜんぜん知らないあたしまでもらっていいの?」 「はい。応援してますから、がんばってください」 「ありがとー、感謝だよ!」  うるちはみなみの手をとって振り回す。みなみはこのような歓迎は慣れていないので、対処に困っていた。 「悪いな、ヘンに気を使わせて」 「いえ。わたしが今、こうしていられるのは結城さんのおかげなのですから、これくらいはさせてください」 「ああ、ありがとう」 「それでは、失礼いたします。がんばってください」  みなみが去って行くと、二人はさっそく巾着袋を開けた。黒い丸薬が山のように入っていた。  たがいに一粒ずつとり、飲み込んだ。 「おお、身体がみなぎるぅ!」 「あええ、疲れがふっとんだぁ!」  恐ろしいほどの効き目だった。  眠気、疲労、頭痛その他から解放され、二人は軽快に仕事に励むことができた。 「優輝!」  美術室で真剣に絵を描いていた彼女は、肩を叩かれて驚いた。 「あ、畑野さん。どうかした?」 「すっごい集中力だったわね。三回くらい呼んだのに」 「そうなの? ごめんなさい」 「いいよ、あやまんなくても。でさ、優輝は合宿参加するの?」 「あ、話してなかったっけ。わたしは両親に止められちゃったから」 「そっかー、でもそれが普通の反応かもね」  聡子は港と同じ感想を口にした。 「残念だけど、お昼休みに手伝うくらいしかできないな。あとは良子ちゃんに任せるしかないかな」 「良子すごいよねー、勉強だけじゃなくて剣道も強いんだってね。次期主将候補とかクラスの剣道部員に聞いたわ。しかも料理が得意って。どこの超人よ、あのコ」  優輝は儀礼的に笑った。 「あれだけできるのに、なんで結城くんの世話なんか焼いてるのかしら。あたしなら一人でノシ上がっていくところだわ」  その予想図が、優輝にははっきりと見えて可笑しかった。 「……良子ちゃんはね、コウくんに恩返しがしたいのよ。そのためだけにがんばってきたの。コウくんはただの幼なじみだからと思ってるみたいだけど」 「ふ〜ん。まぁ、いろいろあるってことよね。で、優輝としてはこれであきらめる?」 「え、何の話?」 「だからー、結城くんの手伝いのこと」 「わたしができることはないって言ったじゃない」  優輝は少々不機嫌に答えた。できるなら手を貸してあげたかった。けれど周囲がそれを許してくれないのだ。 「あるじゃない、できること」 「え?」 「難しく考えなさるな。優輝はなんでも事を大きく考えるのが欠点よ」  そう言って、聡子は一枚の書類を出した。    店の掃除が終わりに近づいた頃、良子が制服姿で現れた。肩からは大きめのカバンが二つ下がり、手には学校指定の通学カバンとスポーツバッグがあった。  良子はうるちの祖母に丁寧にあいさつをして、母からの包みを渡した。 「まぁまぁ、こんなしっかりしたお嬢さんがうるちの友達だなんて、本当にご迷惑かけて申し訳ないわねぇ」  あいさつが済むと、港は良子の荷物を受けとり、食事を作っているうるちに代わって部屋へ案内した。 「ああ、そうだ。もう一つ頼まれてくれるか?」 「なに?」 「オレたち、朝五時にはせんべい作りをしないといけないから、目覚ましが鳴ったらうるちを叩き起こしてやってくれ」 「手強い?」 「オレ並だ」 「それは面倒ねぇ」  良子はため息をついた。 「あんたのほうはいいの?」 「ああ、オレは大丈夫だ」 「そう。わかったわ」 「起こしたらまた寝てくれていいからな。おまえは許可を取ってないんだから、店の手伝いをしたら校則違反だ」 「うん、わかってる。あたしはただ、勉強を教えればいいのよね」 「ああ、それ以外はダメだ」 「でも、お世話になるのに家事も手伝わないというのはアレじゃない?」  良子は搦め手なのか本心なのか不分別な言いまわしで、手伝いたい意思をしめした。  港も自宅ではない以上、強くは言えないでいる。 「そのへんはうるちと相談してくれ」 「うん、そうする」  良子の爽やかな笑顔に、港の顔は渋った。やはりそれが狙いであったのだろう。  しかし、港の渋りも夕食までだった。うるちから料理は苦手と聞いてはいたが、ここまでとは想像すらできなかった。そのすさまじさは、「お願いします。あたしにご飯を作らせてください」と、良子が土下座して頼んだほどだ。 「申し訳ないねぇ、こんな孫で」  祖母もまた、深々と頭を下げた。 「あええ、イジメだ……」 「おまえがな」  食事休み後、うるちの部屋で勉強会が開かれる。  暗記ものは片手間にでもできるので、主に数学や物理などの公式を使った応用問題、それに英語の文法・訳がメインに行われた。  三人はまれに冗談を交えながら、熱心に取り組んだ。 「にしても、二人ともまだ余裕がありそうね」  良子が小休憩の合間に言った。元気そうだ、という意味である。 「みなみちゃんに疲労回復薬をもらったおかげでな」 「そーそー、すっごい効き目なんだよ。びっくりだよ」 「また薬をもらったの? 風邪薬といい、彼女の家は病院なわけ?」 「そういうわけじゃないが、昔ながらの漢方薬に通じている。飲んでみるか?」  港はカバンから巾着袋を取り出し、一粒、良子に渡した。  しげしげと眺めてから、口に含む。臭いがキツイ。  が、飲みこんですぐに、身体の疲れが一気に消えていった。驚くほど頭がすっきりとし、身体が軽い。 「ウソ! なにこれ?」 「アッハッハ。どうだ、すごいだろう」 「薬というより、麻薬のたぐいじゃないでしょうね」 「疑いたくなるのはわかるが、彼女の家の秘伝薬らしいからな。何百年と歴史がつまった逸品だろう」 「へぇ〜」  良子は素直に感心した。 「でも、ま、効果がありすぎるから、なるべく使わないようにしようと思ってる」 「ドーピングみたいだから?」 「う〜ん、なんていうか、御門には実力で思いしらせたいんだよな」 「でもさ、みなみちゃんの気持ちも大事にしなさいよね」 「わかってる。だからなるべく、なんだ」 「それじゃあたしが預かっておくわ。はたからみて、ダメだと判断したらあげる」 「ああ、それで頼む。うるちは遠慮しなくていいからな」 「んーん、あたしもそれでいいよ。がんばるなら二人いっしょだよ」 「よし、それじゃ続きといくか」 「うん!」  三人の勉強会が再開された。  時計を見ると、すでに一時を過ぎていた。薬の効果もすでに切れているのか、眠気には勝てそうもなかった。 「お疲れさま」 「おまえのほうこそお疲れさまだろ。これからしばらく面倒かけるけど、よろしくな」 「うん、まかせて」  良子は嬉しそうだった。薬の影響からか、彼女だけは元気であった。  もう一人の相棒はと見れば、テーブルに突っ伏している。 「うるち、寝るなら布団に入れ」 「う〜……」  瞼が閉じきった眼で寝床を探し、うるちはバタンと倒れる。  すぐに寝息が聞こえてきた。 「それじゃオレも寝る。おやすみ」 「おやすみ。辛くてもちゃんと起きるのよ」 「わかってる、さんきゅ」  フラフラと階段を降り、臨時部屋となった客間に入った瞬間、港の意識はとんだ。夢を見る余裕もなく、彼は深い眠りについた。  目覚まし時計の音が聞こえる。睡眠時間が四時間もなかったので、今日ばかりは辛かった。 「けど、起きなきゃな」  港は勢いをつけて身体を起こした。 「自分で決めたんだから、やりとげないとな。でなけりゃ、御門を見返すこともできない」  彼はそうつぶやいた後で、否定をした。本当は、御門などどうでもよかった。そう思えば、やる気がわいてくるだけだった。ただ、うるちを助けてやりたい。それだけなのだ。 「よし、やるか!」  港は拳を固め、立ち上がった。  工房では、いつもどおりうるちの祖母が掃除をしていた。  「おはようございます」とあいさつを交わし、彼も参加する。  二階からは、ずいぶんと賑やかな音が聞こえてきていた。  物音が静まり、やがてうるちが工房に顔を出した。 「オッス、ハデに起こされたようだな」 「良子、コワイ……」  うるちは眠そうに眼をこすった。 「オレもアレに起こされてたんだ。効果バツグンだろ」 「コウ、よく生きてたね……」 「おかげでオレは強くなった」  全員がそろったところで仕込がはじまった。  港とうるちと良子は、自転車を並べて学校へ来た。  良子が朝稽古に参加していなかったのは、試験一週間前のためだ。基本的に朝の活動は停止されている。放課後の活動も、遅くとも三日前には禁止されるのが通例だった。  三人が下駄箱で靴を履き替えたところで、うるちが超音波を発した。 「あ、みなみー!」  一同が注目する。うるちは階段のほうへと手を振っていた。  港が彼女の視線の先を追うと、長いポニーテールが影に消えるところだった。 「あえ、逃げられちゃった」 「アホ、デカイ声で呼べば恥ずかしくて逃げるに決まってるだろ」 「あー、そうかー」 「ただでさえ照れ屋なんだから、もうちょっと気を使え」 「あい、そうする」  港たちが教室のある三階に上がりきると、柱に隠れるようしていた彼女が顔を出した。 「あれ、みなみちゃん」  一足速く港は彼女に近づき、軽くあいさつする。 「お、おはようございます」 「さっきは悪かったな、あのアホが迷惑かけて」  「アホってなによー」追いついたうるちの第一声だった。 「みなみにあいさつしようと思っただけじゃんか」 「あいさつってレベルか、あれが。つーか、いきなり呼び捨てか?」 「いーじゃん、友達なんだから」 「誰と誰がだ」 「あたしとみなみが」  「そうなのか?」と港はわざとらしくみなみに振った。  彼女はただ困惑している。港の予想通りであった。 「ほら見ろ、困って――」 「あ、いえ、その……、お友達、嬉しいです……」  「ハァ?」港は信じられない表情で彼女を見た。 「これだぞ、これ。こんなのが友達だと知れたら、今度こそ親父さんに殺されるぞ」 「うわ、コウ、メチャクチャひどいこと言ってるよ!」 「あの、でも、津川さん、朗らかで優しい方ですから……」 「さっすが、わかってるねー!」 「違うだろ、ノウテンキで――優しいの暴言はどう言えば?」  港は良子に尋ねてみたが、彼女からの答えはスリッパ攻撃だった。 「本人が友達でいいといってるんだから、いいじゃない。そういえば、こうして話すのは初めてよね。天草良子、よろしくね」 「あ、東みなみです。結城さんには大変お世話になっております。いつもありがとうございます」 「……なんで良子に礼をいうんだ?」 「えと、天草さんあっての今の結城さんですから――」  みなみがそこまで言うと、良子もうるちも声を上げて笑った。 「あ、あの、おかしかったですか? すみません」 「いえいえ、よくわかってるわ。うん、いい観察眼よ、みなみちゃん」 「すごいねー、コウって。誰から見ても良子のオマケなんだぁ」 「おまえらな……」  港はもうかまう気になれず、教室へ向かった。 「オス、コウ。なんだ、朝っぱらから疲れた顔してんなぁ」 「よう、セイギ。睡眠時間のせいにしたいところだが、朝っぱらからアホどもが騒ぐんで疲れた」 「だーれがアホどもよ」 「なんだ、もう来たのか。うるちたちと遊んでろ」 「ひがまないの。みなみちゃん、心配してたわよ」 「おまえらのせいだろ!」  と、港が良子にツッコンだところで冗談は終わった。 「でも、本当に大丈夫?」 「ああ、優輝、ヘーキヘーキ。仕事自体は慣れてきてるしな」 「無茶はしないでね」 「しないといけない時なんだよ」  港は笑ってみせた。  優輝はそんな彼に安心し、少しだけ寂しそうな顔を重ねていた。 「どうかしたか?」 「ううん、何でもない。がんばってね」 「サンキュ」 「良子ちゃんも、ご苦労様」 「あたしは大したことしてないわよ」  良子はしれっと口にするが、彼女がいなければ今の生活は成り立たない。それは港が痛感するところだった。勉強もそうだが、彼女は朝の仕込みをしてる間に、朝食を作り、弁当まで用意してくれていた。  みなみがさきほど言ったことは正しいと港も思う。良子あっての今の港。それは彼の中で常識となりつつあった。しかし良子からすれば、あの場では笑うしかなかったが、本心では否定していた。港あっての今の良子。それが彼女の認識であった。  けれどおたがいに、それを口にはできずにいる。それぞれの想いからだった。  昼休みは港と優輝、うるちと良子のマンツーマン授業の時間だった。  正義は暇なので昼寝をしていたのだが、クラスメイトの噂話が耳についた。他の四人は気づきもしていない。 「どうやら結城くん、あの御門くんにケンカを売ったらしいわよ」 「あー、あれ、本当だったのか」 「何でも中間試験の成績勝負なんだって」 「バカじゃね。勉強であいつに勝てるわけないじゃん」 「あの隣のクラスの女も?」 「うん、そうみたい。でもあのコ、たしか一年のときの成績が……」  雑音がうるさかった。人の口に戸は建てられない、とはよくいったものだ。  正義は弁護しようかとも考えた。けれど一時的に防いでも、流れる噂はとめられまい。それに、結果をみせることでしか誰も納得しないのだから。  だが、腹立たしさはおさまらない。  正義は勢いよく立ち上がった。 「よせってセイギ、あいつらの言うことは正しい。だから怒らなくていい」 「コウ、気づいてたのか?」  正義は毒気を抜かれて腰をおとした。 「当たり前だろ。けどな、見返すのは実力でだ。でなきゃこうしている意味ないだろ」 「そうだよな。それじゃがんばってくれ」 「ああ、サンキュ」  正義が再び休眠に入ると、港のペンも走り出した。 「コウくん、がんばろうね」 「もちろんだ。優輝にも嫌な思いさせて悪いな」 「そんなことないよ。そういうコウくんだから応援したくなるんだから」 「じゃあ、もっとがんばらないとな」 「うん」  優輝は自然と笑顔になっていた。  放課後、港とともに学校を出るつもりでいたうるちは、教室を出たとたんに拉致された。抵抗したものの無駄に終わり、気がつけば屋上にいた。 「さぁて、吐いてもらおうかしら?」 「な、なにをだよー」  うるちは彼女の眼が怖くて、声も身体も震わせた。 「えーと、畑野さん、誤解をうみそうだからやめましょう?」 「ム〜ン、これが楽しみだったのに」  うるちの前にいたのは優輝と聡子だった。 「えと、どういうことかな?」  うるちに求められるまま質問に答え、二人は要求を伝えると、彼女は晴れやかになった。 「うん、それいい! 頼んじゃうよ!」 「本当にいいの?」 「もちろんだよ。それじゃよろしくね!」 「うん、こちらこそよろしくね」  うるちと優輝は握手をして分かれた。    仕事は順調だった。店番も港とうるち、そしてうるちの祖母の三人もいれば、まったく滞ることはない。  このところ閉店の噂が広く伝わり、客足が増えていた。店主は尋ねられるたびに否定し、「今後もご贔屓に」と頭を下げていた。  答えに満足し、客の多くは喜んで帰って行く。港はその光景を嬉しく思った。  そうこうしているうちに閉店の六時半となり、シャッターを下ろす。  そのころには良子も戻っており、三人が片づけをしている合間に食事を作りはじめていた。  賑やかな食事が済むのは七時半ごろ。その後、港と老婦人は明日の最低限の仕込みをすることになる。 「うるちと良子は先に風呂はいれよ。オレは寝る前に入るから」  そう声をかけると、うるちが「あーい」とガスを点けに走った。 「店長も先に上がってください。あとはオレがやりますから」 「そうかい?」 「遠慮しないでどうぞ。わからないことがあれば伺いますから」 「じゃ、そうさせてもらうよ。やっぱり男手があると助かるねぇ」 「そういってもらえると、こっちも助かりますよ」 「ありがとね」 「いえ、こちらのワガママですから」  港は彼女には素直になれた。年長者で、本当の意味で先輩である。無理をしなくていいので、楽だった。 「うるちはいい友達を持ったよ。いっそ婿にでも来ないかね?」 「それはお断りします!」 「そうさね、あのお嬢さんがいるようだしね」 「それも違います!」  祖母は笑って母屋へ帰っていった。 「う〜む、これはからかわれているのか?」  港にはわからなかった。  配達されていたうるち米の粉袋を納戸に収め、港の労働時間は終了した。  勉強道具を持ってうるちの部屋へいくと、二人は先に始めていた。 「おつかれ。今日はきのうの続きからね」 「オッケー。そういえばうるち、確認してなかったんだが」  「なに?」物理の教科書を睨んでいたうるちが顔をあげた。 「おばさん、いつごろ退院できるんだ? それによって合宿の日取りもまとめないと」 「んとねー、こないだ検査したんだけど、内臓が少し弱ってるらしいの。で、一週間は様子を見て、それで大丈夫そうならすぐ出られるって」 「一週間というと?」 「月曜日かな。それで退院できても無理はさせられないから、さらに一週間は手伝ってくれると助かるかな」 「なるほど、了解だ。とりあえず試験が終わるまで合宿で、終わった後も様子をみてバイトを続けるとしよう」 「ありがとね、ホンット助かるよ」 「オレよりも良子に感謝しとけ。一番面倒を背負い込んでるのはコイツだ」 「だね。良子、おいしいご飯をありがとう」 「そう思うなら料理覚えようよ……」  それだけで彼女の負担は半分以下に減るのだった。 「ムリムリ〜」 「はじめからやる気はなさそうだな」 「じゃ、そのかわり勉強でがんばってもらいましょうか!」  良子は遠慮なく課題を山積みにした。  この日も、日付が変わるまで勉強は続けられた。  その後、風呂に入っていた港が危うく溺死しそうになったのは、当人しか知らないエピソードだった。  土曜日は半日授業だ。港はすぐに帰り、店主とともに販売補助として働く予定になっていた。  急いで教室を出ようとする彼を、良子が引きとめた。 「コウ、待って。いっしょに帰るから」 「おまえ部活だろ? 悪いがいっしょにメシを食ってく余裕はないんだ」 「ううん、部活は今日から自主参加なの。だから大丈夫」 「自主参加なら参加すればいいだろ」 「それはあたしの自由。あんたに文句は言わせない」 「ったく。わかったよ。行くぞ」  二人は優輝と正義に手を振って出て行った。 「さて、オレも帰ってたまには勉強でもしてみるかな。優輝ちゃんは?」 「わたしはちょっと、畑野さんに用があるから」 「ふ〜ん。それじゃな」 「うん、バイバイ」  正義がいなくなると、優輝もカバンを持って教室を出た。C組はまだホームルームが終わっておらず、彼女はしばらく廊下で待つことになった。  五分ほどして解散したC組の扉からは、週末に喜ぶ生徒が勢いよく流れてくる。その中に目的の二人がいた。 「お待たせー!」  うるちが満面の笑みで優輝に手を振った。  「ただいまー」と帰った来たうるちは、客を一人連れていた。  港はちょうど昼食をとるところで、そんな彼に良子が味噌汁を運んでいた。 「遅かったな、うるち――!」 「お邪魔します」  うるちの隣には優輝がいた。学校帰りそのままの格好だった。 「なに、どうしたの、優輝?」  状況が読み込めずにいる港に代わって、良子が尋ねた。 「今日からここでバイトなの」 「そーゆーこと」  港と良子は眼を丸くした。 「聞いてないぞ、そんな話」 「話してないもん。それに、最終的にはおばあちゃんが決めることだから。つまりこれから面接だよ」 「ゴメンね、隠すつもりはなかったんだけど、津川さんと畑野さんが黙ってたほうが面白いって……」  「考えそうなことだ」港は呆れた。 「とりあえずおばあちゃんと話すよ。コウ、その間店番」 「メシがまだだ」 「面接終わったら交代するよ。お願い」 「まったく……」  言いつつ、港はエプロンと三角巾を身につけた。  手を消毒している間に、店長を含めた三人は奥の座敷に移動していた。  一〇分もせず、ブラウス姿にエプロンを纏った優輝が店先に現れた。 「これからよろしくね、コウくん」 「ああ、よろしく……」  複雑だった。助けになるという点において、優輝はうるちよりも数倍上だろう。けれどここまで彼女たちを巻き込むつもりは港にはなかった。 「まさかこんなことになるなんてな、みんなには迷惑かけっぱなしだ」 「違うよコウくん。わたしはわたしの意思で津川さんの手伝いをしたかっただけ。コウくんが責任を感じるのはお門違いよ」  優輝はまっすぐな瞳で、強い口調で港に語った。  意志のこもった言葉は港の頑なさを砕き、清清しささえ与えていた。 「……そうか。悪い、なんかうぬぼれてた。いっしょにがんばろうな」 「うん」  今度の優輝は、いつもの笑顔の彼女だった。 「メシが終わったら一旦交代するから」 「うん」  優輝は店長に付いて、商品の梱包から教わっていた。お客がやってきて、すぐに実戦になる。  港ははりきる彼女に心で応援し、茶の間へ戻った。 「で、どういうことだ?」  良子とともに食事をしていたうるちに、港は呆れた眼を向けた。 「んとー、きのうの放課後、聡子に捕まったんだよ。で、優輝をバイトに使ってみないかって」 「それで快諾したってのか? 困ったヤツだな、おまえは。オレが来ている意味がなくなるぞ」 「そうだけどさー、まさか御門シンと揉めるなんて思わなかったじゃん? そーゆー意味じゃ、コウにも責任あると思うよ」 「それを言われるとツライとこだな。まぁ、時間に余裕ができるのも確かだし、感謝しよう」  港がご飯をかっ込むのを、良子は不思議そうに眺めた。 「珍しいわね、あんたが簡単に折れるなんて。いつもならグダグダ文句言うのに」 「グダグダかよ!」 「じゃ、ネチネチ」 「キャハハハハ!」  「おまえらな」説教の一つでもしてやろうかと思ったが、港は別のことを口にした。 「まぁ、良子とか畑野、それにみなみちゃんにまで迷惑かけて手を貸してもらってるのに、優輝だけが気にしないってのはないと思ったんだよ」 「言っとくけど、迷惑なんて誰一人思ってないからね」  良子は強い口調で言った。 「わかってる。いろんな人に遇って、そういう善意を無下にするのはよくない、て考えられるようになった」 「へぇ、成長したわね。偉い偉い」 「偉いよー、コウ」  「ちゃぶ台返ししたくなるな」港は震える手をテーブルの下に置いた。 「まぁまぁ。でもさ、それでいいじゃない。できることできないこと、カバーしあえれば楽だと思うよ」 「そうだな。ただ、良子のように行き過ぎるとムカツクからやめろ」 「あー、結局そういうこと言うんだ」 「おまえは少し抑えるくらいでちょうどいいんだ。こないだも勝手に人の部屋掃除しやがって」 「ちゃんと断ったじゃないの。あんたの秘蔵本だって、百科辞典の箱にうまく隠しておいたわよ」 「そういうのを率先してやめろ。羞恥心の欠片もないやつだ」 「へー、あんたも羞恥心なんて言葉を知ってたんだ?」  言い合う二人を見て、うるちは一言―― 「夫婦喧嘩は犬も食わない」  と、お新香をボリッとかじった。  スリッパで叩く音が、二度響いた。  港たちが食事を終えると、入れ替わりに優輝とうるち祖母が茶の間に上がった。良子はそのまま給仕を勤めている。 「さっき、何かもめてた?」 「もめてはいなかったけど、うるさくしてゴメン」 「コウくん、怒ってなかった? わたしが勝手にこんなことして」 「ぜんぜん。優輝だけ仲間はずれは悪いって言ってたくらいだから。ちゃんと感謝してたわよ」 「そう、よかった……」 「男の人って、そういうところで見栄をはったりするものだからねぇ」  うるち祖母が、箸を休めてしみじみと言った。 「ウチの亭主も、うるちの父親もそりゃ見栄っ張りだったよ。で、困ったときに手を貸すと、余計なことをするなって怒って、あとで不器用に感謝したもんだ」 「コウとおんなじ」  良子は笑った。 「ああいう人は放っておくと何をするかわからないからね、何となく世話を焼きたくなるんだよねぇ」  優輝はかすかにうなずき、良子はそんな彼女を見て、うつむいた。 「そうそう、お嬢さん。えと、水都さんとおっしゃったかね」 「あ、はい」 「話はかわるのだけど、あなたが来ている間はうるちと結城くんは勉強していていいのかい?」 「はい。その間はわたしが一人でがんばるつもりで来ました」  優輝がはっきりと答えると、祖母はうなずいた。 「わかりました。どうもいろいろとありそうな気はしていたんだけど、聞かないでおきましょうかね。申し訳ないけれど、よろしくお願いしますね」 「はい、こちらこそ不慣れでご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします」  こうして、店が閉店するまでの間、港とうるちは勉強に打ち込むことになった。  六時半を告げる柱時計、津川屋の歴史を見守ってきた唯一の道具が、重い鐘の音を響かせる。  のれんを片付け、シャッターを下ろす頃には良子の夕食も完成していた。 「優輝も食べていくでしょ?」 「あ、ゴメン、夕食はウチで食べるのがバイトを許してもらう条件なの。だから片付けも半端だけど帰らないと」  優輝は店長に「すみません」と頭を下げる。それを気にするほど、うるち祖母は細かくない。おおらかに笑って、売れ残りのせんべいを一〇枚ほど包んで彼女に渡していた。 「そうなの、残念。コウ、自転車で送ってあげなさいよ」  頭を使いすぎて倒れていた港は、鈍く起き上がろうとしていた。 「あ、いいよ。コウくんはこれから明日の準備と勉強があるんだから」 「いや、外の風にあたりたいからちょうどいい。勝手口で待っててくれ」 「うん、それじゃお願い」  優輝は良子やうるちに「また明日」と手を振って、外へ出た。  自転車の鍵を持ってやってきた港に、「本当にいいの?」と改めて尋ねる。 「ここからなら自転車で五分程度じゃないか。ついでにコンビニでコーラを買いたい。うるちの家、炭酸がないのが最大の欠点だ」 「甘い物は飲み物もないんだね」 「そうそう。疲れてるときには炭酸が飲みたくなるのに」  優輝はうながされ、カバンを自転車の前カゴに入れ、後部荷台に座った。ちょっと考えて、港の腰に手をまわした。 「しっかりつかまってろよ」 「うん」  港の右足が、獰猛なキック力でペダルを踏みつける。自転車は一瞬で五メートルを走った。次の蹴りでその三倍は進む。  優輝は「うわ」と思わず強くしがみついた。港は気にせず加速をする。 「コウくん速いよぉ」 「まだまだぁ!」 「わぁ!」  必死にしがみつく優輝に、港は明るい声で話しかけた。 「ありがとな、優輝。最近になってやっとわかったんだ。オレは、優輝たちのおかげで自分の好き勝手にやっていられたんだな。なんだかんだ言って、どっかで頼ってたんだな、オレ。情けないけど、オレ一人じゃできないことって多すぎるみたいだ。だから悪いが、これからもよろしくな」 「うん!」  優輝は嬉しかった。初めて彼が、自分に本音で話してくれたような気がする。優輝はずっと彼の力になりたくて、でも彼は頑なで、それでもいつかは、と思っていた。それが今、報われたような気がした。 「がんばろうね、コウくん」 「ああ。まずは目標学年一位だ!」  港と優輝を乗せた自転車は、さらに加速した。    そして、試験は終わった。