「Pure☆Colors」 第九話 その日の昼食は恒例どおりB組の港の席を中心に、正義、優輝、良子、うるちが囲んでいた。  昼食つながりで昨日の港特製弁当の話題が出るのではないかと彼は思っていたが、誰の口からも飛び出す気配はなかった。むしろいつもの騒がしさはなく、港とうるちだけが話をしており、他の三人は適当に話に加わるだけであった。  ひときわ静かなのは優輝だ。彼女はともするとため息でもこぼしそうな雰囲気だった。  港はガマンできず、彼女に尋ねた。 「どうした、優輝。元気ないな」 「え、あ、そう? そんなことないよ」  あからさまの作り笑いに、港の顔は曇る。優輝の笑顔が濁るのは、珍しいことだった。いつも穏やかに微笑んでいるイメージが、彼にはある。 「きっとコウが何かしたに違いない!」 「なにをだ!」 「白状するなら今のうちだよ」 「しとらん! おまえのその、憶測でいきあたりばったりの発言はやめろ」 「それがあたしのいいところ!」 「いいのか?」  オチがつき、良子と正義が軽く噴出す。  場が和んだにみえたとき、優輝が不意に声をもらした。  一同の視線が彼女にむかうと、優輝は弁当箱を片づけながら立ち上がった。 「ごめんなさい、ちょっと部活のことで話があったの。行って来るね」  皆の返事も待たず、優輝は教室を出ていった。 「ずいぶん急いでるな」  港がつぶやいた矢先、良子も「あたしも道場に行って来なきゃ」と片づけをすませて席を離れた。 「みんな忙しいなぁ」 「ヒマなのはオレたちくらいさ」 「クラブやってないしな」  缶紅茶の底に残った最後の一口を飲み干し、港は二人のきえた扉をながめた。 「もしかして、あたしのせいかなぁ……」  うるちのかすかなつぶやきが、彼の耳にかろうじて届いた。 「何かしたのか?」 「んーん、なんにも。でも、なんとなく、ね……」 「なんだ、そりゃ」  うるちは答えなかった。 「あたしもそろそろ教室に戻るよ」  彼女はまだ半分以上残っているせんべいの袋を閉じ、港と正義に手を振った。 「なんだ、ありゃ」 「まぁ、いろいろあるんだろ」 「いろいろ?」 「そう、いろいろな。楽しいだけじゃダメなときも、ときにはあるってことさ」  正義は読みかけのマンガ雑誌をひろげた。我関せず、といった態度であった。  放課後になり、優輝は港たちにあいさつをして美術室に向かった。階段を上り、B校舎に入る。奥にある扉が美術室だ。  扉の前には見慣れた顔があった。けれど美術部員ではない。 「津川さん?」 「やほー。ちょっちいいかな?」 「え、なに?」 「少し長い話になるかもだから、付き合ってよ」  うるちは天井を指差した。その指先を優輝は追うが、すぐには意味がわからなかった。 「屋上……?」 「うん。お願い」 「わかった」  うるちは「ありがと」と言って先を歩き出す。優輝は従って階段を上っていった。 「それで、話って?」  優輝は不信げな声で尋ねた。 「たんとーちょくにゅーに訊くね、優輝」  うるちの表情は、とても深刻な話をするようなものではなかった。雑談をするときと寸分もかわらなかった。 「優輝、あたしのこと嫌いでしょ?」 「え?」 「ジャマだなーとか思ってるよね」 「……」  優輝は答えなかった。二人きりになったときから、もしかしてと疑ってはいた。けれどここまで直線的に尋ねられるとは考えていなかった。 「はっきり言っちゃったほうがいいよ。ためこんでても、辛いだけだよ」  うるちはまるで他人事のように、明るく優輝に話しかける。  優輝はようやく、答えを出した。 「……うん、わたしは……あなたを好きじゃない」  ためらいながらも、声が震わせながらも、本当の気持ちを答えた。  しかし、うるちはニッコリと笑った。 「うんうん、はじめからわかってたから、そんなに気にしなくていいよ」 「え……?」 「あたしノーテンキで頭わるいけど、そーゆーのわからないほど鈍くはないつもり。だから優輝があたしを拒否したがってたの、ちゃんとわかってた」 「……」 「それで、訊きたかった本題はこっち。あたしを嫌いなのって、あたしのせいなのかな?」  うるちは興味深そうな口調と態度で優輝に迫った。  優輝はさらに困惑の度を深める。質問の意味を把握し損ねていた。けれど彼女は考えて、考えて、考えた。  「それは……」考えた結果、優輝は大きくかぶりをふった。 「違う……」 「何が違うのかな?」 「わたしは……わたしは――!」  気持ちを吐き出すように叫びかけた優輝の頬を、うるちはつまんだ。 「ふがあふぁん……?」 「優輝のほっぺって、やらかくてよく伸びるねぇ」 「ふがあふぁん、ひたふぃ……」  うるちは「ごめんね」とあやまりながら、優輝を解放した。 「わかってるよ、優輝。でも、こういうことって、言葉にしないと伝わらないと思うんだ。だから、がんばってみてよ」 「津川さん……」 「あたしさ、ヘンなやつだから、いっつもクラスにとけこめなかった。そんなときコウに会って、自分らしくいられる場所ができた。あたしはただ、そんな楽しい時間と、それを共有できる人たちがいれば充分。みんなで楽しくできたらそれでいいの。良子もセイちゃんも……優輝だって大好きだよ」  うるちは嘘のない言葉を証明するように、優輝に笑いかけた。 「……え〜と、何を言いたいかよくわかんなくなっちゃったけど、そゆこと。それでもあたしがいちゃダメっていうなら、もう終わりにするから、はっきり言っていいよ」  優輝はようやく理解した。彼女が今、精一杯の笑顔を浮かべている理由が。彼女が心から望んでいるのは、『みんなと仲良くしていたい』ということだった。けれどそれよりも、『みんなが仲良くしていること』を彼女は大切にしたがっている。だから自らの存在が和を乱すのなら、自らが退くことで解決しようとしていた。そしてそれを決定する立場の負担を少しでも軽くしようと、彼女は今、笑っているのだ。  そんなうるちを前にして、優輝は嗚咽をもらした。 「……んなさい。……ごめ……んなさい」 「あえ? なんであやまるの? 優輝は悪いことしてないんだよー?」  今度はうるちが理解に苦しむ番だった。 「わたし、卑怯だ……。情けなくて、弱虫で、みんなに迷惑ばっかりかけて……」 「え〜と、そんなのあたしなんて日常茶飯事! おせんべいはバリバリだわ、笑い声は超音波だわ、はしゃぎすぎて落ち着きないわ……あや、全部うるさいだけ?」  うるちはフォローになっていないことに気づき、さらに困惑した。 「つ、つまり、迷惑なんてみ〜〜〜んないっしょなんだから、気にしなくておっけ! というか優輝に迷惑かけられるなら、コウなんてばっちぐー、涙ながして喜んじゃうよ!」  うるちの必死のなぐさめに、優輝は落ち着きをとりもどし、小さく笑った。 「……ありがとう、津川さん」 「あえ? 今度はお礼? お礼を言われるようなことしてないよー?」 「またいっしょに、お昼食べよう」 「あえ、いいの?」 「うん」  うるちは大喜びで優輝の手をとり、振り回した。  歓喜の行動がおさまると、優輝は言った。 「わたしはただ、嫉妬してたの。わたしにはない、あなたのそういうところ。わたしは自分が恥ずかしい」 「あえ? 優輝が恥ずかしいんじゃ、あたし、外も歩けないよ」  優輝は困ったように微笑んだ。 「……でも、あなたはいいの?」 「あえ? なにが?」 「あなただって、本当は――」  「違うよー」うるちは優輝の言葉をさえぎった。 「残念ながら、コウとは馬が合うってだけだよ。たぶん向こうもそう思ってくれてる。それでね、周りにみんながいて、みんなが笑っていてくれれば、あたしはそれだけで幸せなんだよ。だから優輝にも笑っていて欲しいな!」  うるちの笑顔は、素直だった。  その頃、結城港は美術造形部部室で、MGグフ・カスタムの動力パイプ作成に苦戦していた。 「ペーパーもお願いしていいですか?」 「お、おう……」  苦戦していた。  翌日の昼休み、購買から戻った港の前には、弁当を広げずに待つ優輝の姿があった。 「あれ、待っててくれたのか?」 「あ、おかえり。んと、津川さん待ってるの」 「うるち?」  港だけではなく、良子も正義も首をかしげた。彼女がうるちに何の用だろうか、不思議だった。 「うん、お昼、いっしょにする約束してたんだけど、まだ来ないから」  そこまでの仲とは思っていなかった港だが、それは言わない。 「そういや遅いな。ちょっと見てくる」 「うん」  港はパンをおいて隣のクラスを覗いたが、人の動きが多すぎてよくわからなかった。少なくとも、目立つヘッドホンの形はない。  そこで、ちょうど扉に近づいてきた男子生徒に尋ねた。 「悪い、ちょっと訊きたいんだけど、うるち……あ、津川はどこ行ったか知らないか?」 「津川……? ああ、あのウルサイ女子か」  誰の認識でもやはりうるちは『うるさい』というのがこれで証明された、などと港は得心する。しかし、それよりも彼の言い方が気になった。まるで彼女を嫌っているかのように聞こえた。 「あんな騒がしい者など、ボクが知るわけないだろう」  秀麗な男子生徒は、鼻で笑い飛ばすように言い放つ。  港は彼に憤りを感じた。 「やめなよ、御門(ミカド)くん」  港が感情にまかせて突っかかろうとしたとき、横から仲裁が入った。 「ゴメンねー。御門くんていつもこんなカンジだから気にしないでね。えと、津川は今日、お休みしてるよ。事情はわかんないけど、担任には連絡がいってたみたいね」 「そっか、ありがとな」  港は御門と呼ばれた男子生徒を放置し、女子生徒へ礼を言った。 「いえいえ、どういたしまして。……あなた、B組の結城くんよね。ウワサはかねがね」  女子生徒はいやらしげに笑った。 「どういうウワサだ……。まぁ、ロクでもないんだろうけどな」  と、そこにまた御門が嫌味な口調で割り込んだ。 「用がすんだらさっさとどきたまえ。まったく、あの女子の友人だけあって、程度が低い」 「おまえ、さっきから何なんだ? 人を見下すようなクチききやがって」 「『見下すような』ではなく、『見下している』んだ」 「おまえ……!」  港が掴みかかろうとするのを、女子生徒が身体をはって制止にはいった。 「まぁまぁ、楽しいお昼休みにケンカすることないじゃない。御門くんも、突っかかることないでしょ」  御門は「フン」とせせら笑い、廊下へ出ていった。  港は追いかけて殴ってやろうとしたが、制服の裾を引っぱられ、仕方なく断念した。 「なんなんだ、アイツ……?」 「御門シンくんよ。聞いたことくらいあるでしょ?」 「アイツがそうなのか。有高創立者の孫で、国際的大企業・御門グループの御曹司とかいう……」 「そうそう。んで、ついでにあたしの自己紹介もしておくわね。畑野聡子よ」 「オレは――て、言う必要もないか。よろしく」 「了解、よろしく! ところでさ、ちょっと付き合ってもらっていい?」 「うん?」 「ちょっと話があるのよ。津川のことでね」 「……わかった」  港は少々迷ったが、彼女を信頼できる人間と観て、付き合うことにした。 「ああ、それと、飲み物一本でいいから」 「は?」 「感謝の気持ちはありがたくいただいてあげるから、よろしく!」 「……理由がわからないが、ゲロビタΣならおごってやる」 「うわ、あたしの好み、よく知ってるねー。もしかして、あたしに惚れてる?」 「蹴っ飛ばすぞ」 「アハハハハ。冗談じゃない。さ、行きましょう」 「どこへ行くんだ?」 「あたしは食堂。あなたも食堂」 「先に行っててくれ」  港はB組に戻り、優輝にうるちの欠席を告げ、パンを持って聡子を追った。 「それで、話って?」  ゲロビタΣを聡子の前に置き、パンの口を開く。聡子は学食定番メニューからAランチを頼み、付け合わせのサラダにドレッシングをジャバジャバとかけていた。 「その前に訊きたいんだけど、津川と結城くんの関係は?」 「相思相愛」  「ぶ!」聡子はドレッシングまみれのサラダに、顔面を突っ込ませた。 「冗談だ。まぁ、友達だな」 「ああ、そう……」  聡子は頬をヒクつかせながら、ナプキンで顔を拭いた。 「ついでに訊くけど、水都優輝とは?」 「なんだそれは?」 「ああ、言い忘れてた。あたし、優輝と同じ美術部なのよ。あなた、彼女とも仲よさそうだし、興味本位で」 「なるほど。でも興味本位なら話すことでもないな」 「ま、そうね。それじゃそれは後日ということで」 「結局訊くのかよ!」  聡子は「まぁまぁ」と箸を振り、それから真面目な顔になった。 「それじゃ、今度はこっちの情報ね。津川がうちのクラスで浮いてるの、知ってた?」 「……いや。でも考えてみると、ああいうキャラはムードメーカーか嫌われるかのどっちかだな」  そこまで考えをめぐらせて、港はふと気づいた。 「もしかして、それでうるちはいつも独りでメシを食っていたのか?」 「そう。あたしも結構ウルサイほうなんだけど、津川はそれ以上でね、あたしの分まで嫌われてるってカンジかなぁ」 「なるほど、おまえが騒がしいのはわかった」  聡子は「あたしのことは置いといていいの」と抗弁して、話を続けた。 「あたしは津川のことキライじゃないんだけどね、まわりはそう見なかった。一年のとき津川と同じクラスだった人たちが中心になって、津川のウワサをいろいろしてたせいもあるわね。もう一人、急先鋒もいたし。だからクラス替えがあったっていうのに、さっそく孤立モードなわけよ」 「おまえは? おまえも友達ってわけじゃないだろ?」 「まぁ、そうねぇ」 「なら、おまえもクラスの連中と同類だろうが。今さらそんな話をオレにして、どうしようってんだ?」 「怒んないでよ。あたしが友達にならなかったんじゃなくて、津川が拒否してたんだから」 「え?」 「あの子さー、ああ見えて、周囲の反応に敏感なのよ。自分がどういう立場にいるのか、それに他人が巻き込まれるとどうなるか、ちゃんとわかってるの。あの子、ホント、バカだから……」 「……ああそうだ、大バカだな」  聡子は港の反応を、好ましく思った。 「だから、最近の津川が、昼休み前になるとソワソワと嬉しそうにしてるのを見て、あたしは喜んでたんだよ。こないだなんて、お腹一杯で苦しそうなのに、顔はニヤケてんの。ますます変なヤツだったわ」 「おとといだろ? オレが弁当を作ったときだな」 「結城くん、津川はバカで騒がしくて、取り柄もなくて、格別カワイクもないけどさ、仲良くしてやってね」 「言われるまでもない。畑野も、うるちは嫌がるだろうけど、しつこくつきまとってやってくれ」 「了解!」  二人は同盟を結び、本格的に食事をはじめた。  放課後になると、港はうるちの家に向かった。欠席の理由は知れなかったが、訪ねればそれもわかるだろう。病気ならば見舞いをしていこうと思った。  せんべいの津川屋は開店していた。店先のガードレールに自転車を寄せ、ガラス張りの店内を見渡す。 「あれ、うるちじゃないか。店番してるのか?」  ガラガラと古風な扉を転がし開き、さして広くない店内に踏み入れる。 「いらっしゃいませー……て、コウじゃん」  白い割烹着姿のうるちが、彼を認めてキョトンとした。 「よぉ、似合わない格好してるな」  店内に他の人影がないので、港も気楽に話しかけた。 「店番に似合う似合わないもないよ。今日は人手が足りなくてね、朝からがんばってるんだから」 「偉いな。欠席と聞いて病気かと思ったんだけど、よかったよ」 「あえ、ないない。あたしが病気するように見える?」 「ゼッタイにみえん」  うるちは「だよねー」と答え、少し固い顔をした。 「病気なのはお母さんのほうなんだよ。だからあたしががんばってるわけ」 「おい、さらっと言うな。大丈夫なのか?」 「うん、まだ病院からは帰ってないけど、過労だって」 「そうか、ならゆっくり休めば大丈夫だよな。お大事にって伝えてくれ」 「うん、ありがとー」  港はビニール袋に詰められた海苔せんべいのセットを手にして、レジ台に置く。 「あえ、買っていくの?」 「おう、ついでだからな。オヤツにする」 「まいどー」  うるちはつたない手で持ち帰り用の紙袋に入れ、レジを叩いた。 「四五〇円だけど、四〇〇円にまけとくよ」  港は「悪いな」と財布から四〇〇円取り出し、カウンターに置いた。 「でも、おまえが休まないとダメなほどだったのか?」 「まぁ、ウチの家計も厳しいものでね〜」  うるちは冗談めかして笑い、商品を港に差し出した。 「それじゃ、オレは帰るよ。がんばれよな」 「うん、ありがと。またねー」 「ああ、それじゃまた学校でな」 「……うん」  うるちの返事は、か細く、寂しそうだった。疲れているのだろうと思い、港は深く考えもしなかった。  けれど翌日も、うるちは学校へは来なかった。事情を知っている港は、優輝たちに彼女の母親のことを告げた。 「過労なら二・三日は休養だろうからしかたないよな」  港の言葉に、三人は同意した。 「月曜も来ないようであれば、見舞いに行ってみる」  彼らの認識は、それくらいであった。  その月曜日、港は自分の浅はかさを思い知ることになる。  週明けの朝、のんきにあくびをしながら教室へ入ろうとした港は、突然、背後から飛び膝蹴りを喰らって壁に激突した。 「なんだ、いきなりィ!」  彼はめり込んだ顔を壁から引き剥がし、過激な加害者に怒鳴りつける。  そこにいたのは聡子だった。 「そんなことはどーでもいいの!」 「いいわけあるかァ!」 「聞きなさい! 津川、学校やめるかもしれないのよ!」  彼女の言葉を理解したとき、聡子への怒気は一瞬で消え去った。 「なんで……なんで、そんなことになるんだ? 理由はなんだよ? イジメか、転校か!」 「どっちも違うみたい」 「それじゃいったい……?」 「このあいだ、お母さんが過労で倒れたんだって」 「知ってる。金曜の放課後にうるちの家へ行った」 「そうなの? それでお母さん、しばらく入院することになってね、家計を助けるために、学校やめないといけなくなりそうだって……」  『ウチの家計も厳しいものでね〜』と笑ったうるちの姿が、港には明確に思い出された。 「……あれは、冗談じゃなかったのか」  そうなのだろう。冗談であれば、辞めるなどという話がでてくるわけがない。 「けど、うるちが学校やめたくらいで、どうにかなるもんでもないだろ」 「有高は私立だから、学費だって安くないし……」 「そりゃそうかも知れないけど――」 「何より、津川のウチ、男手もないから……」 「……父親、いないのか?」 「知らなかったの? うるちン家、おばあちゃんとお母さんとうるちの三人なんだよ。お母さんが入院しちゃったら、お店はおばあちゃん一人でしないといけなくなっちゃうの」 「そんな……。バイトでも何でも雇えば……」 「それこそ本末転倒。予算がないから学費も削らないといけないんじゃない」  「そうか……」今にして思えば、うるちの部屋の殺風景さにも事情があったのかもしれない。港は、うるちの賑やかさにばかり気をとられていた自分が情けなかった。彼女は彼女なりに、精一杯がんばっていたのだ。 「オレにできることないのか」 「そんなこと言っても……あ、チャイム」  始業のベルが鳴った。聡子は「またお昼にでも」と言って、となりの教室に消えた。  重い足取りで自分の席に着いた港は、仲間の心配げな視線に囲まれた。 「廊下で話してたの、畑野さんよね? 知り合いだったの?」  優輝が尋ねる。優輝と聡子は同じ美術部だったのを港は思い出した。 「うるちつながりで、ちょっと話をする程度の知り合いだ。それより、うるちが学校を辞めるかも知れない」 「え?」 「担任がきた。詳しくはあとでな」  港は自分自身のやりきれなさを振り切るように、正面に向き直った。  昼休み、聡子は予告どおり弁当を持って港と席を並べた。  五人が机をつけて顔合わせをすると、さっそく良子が口火を切った。 「それで、学校やめるのはもう決定してるの?」 「ん〜、ウチの学校、授業料は年間一括か学期ごとの入金に分かれてるから、最低でも今学期中は大丈夫のはず。問題は、学校に来る余裕がないってことかなぁ」  聡子の答えに、「おウチのお手伝いに忙しいのね」と優輝がうなずいた。 「まずそのへんをどうにかすれば、今学期だけは安泰ね」 「そうは言うが、バイトも雇えないとなると無料奉仕しかないだろ? そんな奇特な労働力があると思うか?」  四人が考え込むなか、正義がパンの欠片を口に放りこみ、軽い口調で言った。 「いるじゃん。ヒマ人で体力のあるヤツ」 「どこに?」  「ここに」と言って、彼は港を指さした。 「なるほど、体力があって、放課後ヒマ人だ――て、おい! オレが学校休むのかよ!」 「いや、休むことはないだろ。仕込みと販売だけでも手伝えば、だいぶ余裕できるんじゃないかと思うんだが」 「そうなのか?」 「シロウト考えだから、実際どうかわからないけどな」  正義はシロウト考えを披露する。自営業の人手が必要な時間は、主に仕入れや仕込み、もしくは配達の時間であろう。自家製煎餅屋なら配達はなさそうだが、せんべいを作る行程が含まれるのではないか。ゆえに商品を前夜もしくは朝イチで作り、昼間はうるちの祖母が販売だけを受け持つ。 「――で、放課後になったら、うるちちゃんは家事と病院への見舞いに時間を割り当てて、コウが店番を手伝えばいいんじゃないかと思うんだが」 「なるほど……。あとでうるちに訊いてみる。それでいけそうなら、オレは店番でも何でもやるさ」  港が決心を固めていると、良子が顔を曇せた。 「でもあんた、早起きなんてできるの?」 「あ」  本人すらも含めて、一同は異口同音に唱和していた。  「大問題ね……」と優輝。  「ダメじゃん」と正義。  「……」港は反論できない。 「結城くんて、朝弱いの?」  事情を知らない聡子だけが、蚊帳の外だった。 「弱いなんてモノじゃないわ。というか、寝過ぎ」 「ふ〜ん。イメージだと朝からハイテンションで、乾布摩擦しながら牛乳片手にジョギングしてそうなのにね」 「おい、普通に考えても変人だぞ、それ」 「うん、だから変人かと」  聡子の間髪入れない肯定に、良子と正義は遠慮せずにふきだした。優輝ですら、必死で笑いをガマンしていた。 「畑野、殴っていいか?」 「ダメ。そして冗談はここまで。聞きたいんだけど、結城くんががんばるのをあたしは止めないけどさ、なんでやるの? 実質、無料報酬だよ? 他人の家の問題に顔を突っ込むんだよ?」 「だったら何でおまえはここにいるんだ。自分にできることがあると思ったからじゃないのか?」 「そりゃそうだけど、イチ学生がどうこうできる問題でもないでしょ」 「そんな立場なんて関係ないな。友達が困ってて、自分にできそうなことがある。だからやる。それだけだ」 「へぇ、カッコイイこと言うじゃない。でも、それは実行できて初めてカッコイイんだけどね」 「カッコよさなんてどうでもいい」 「まぁね。うん、気に入った。あたしも協力する」 「おまえが?」 「といっても、こうしてアドバイスするのが関の山だけどね」 「充分だろ、それで。とりあえず、放課後にうるちの家に行ってくる」 「そうね、あたしも行くわ」 「畑野だって部活あるだろ?」 「優先順位を間違えちゃダメ。そうでしょ?」 「そうだな。わかった。それじゃ付き合ってくれ」  一同はようやく落ちついて食事に入った。  自転車の後ろに聡子を乗せて『津川屋』についた港は、店に入って早々、うるちの情けない声を聞いた。 「あえええ〜。塩二・海苔四・甘ダレ四で〜……」  きのうとうってかわって、本日はどうしたことか大盛況だった。狭い店内に八人ほどの客が、レジに列をつくっている。  うるちは混乱しながら、仕事をこなしていた。 「いくよ、結城くん」 「おっけ」  二人は客に丁寧に詫びながら、カウンターへ侵入した。 「あえ、コウとサトコ……?」 「包装はこっちで引き受ける。畑野はレジ打ち、うるちは品だしと値段を畑野に教えてやれ」 「了解」 「あえ〜……」  うるちは突然のことに頭がついていかなかった。 「話はあとだ。やることやるぞ」  港はうるちの頭を軽くはたく。 「あ、あい。それじゃ、よろしくね」  彼は奥で手を洗い、壁に掛かっていたエプロンを纏った。  うるちは客から注文を聞き、ショーケースから商品をとりだす。  それから聡子へ単価と枚数をつげて、トレイを港の元へ。  港は枚数に応じた紙袋にせんべいをおさめ、ポリ袋にしまってテープでとめ、再びうるちの手に届ける。  最後の客に贈呈用のラッピングを頼まれ港とうるちはひるんだが、聡子がかわって包装をしたので事なきをえた。聡子は一年の時に、デパートの菓子店で販売員アルバイトをしたことがあった。自慢するだけあって、見事な手さばきだった。 「ふぅ、一段落だよ」  客がいなくなり、三人は同時に一息ついた。 「けっこう客が来るんだな」 「普段はそうでもないけどね。ウチがつぶれるかもってウワサがあってさー。それで急に増えたっぽい」  うるちはめずらしく、苦笑していた。 「あえ? そう言えば、なんで二人がいるの?」 「話せば長くなって面倒だから省略。結論だけ言えば、オレが無料で手伝いにきてやる」 「あえー? それ、説明されないと全然わかんないよー」 「簡単にいうとね、結城くんは津川に学校をやめてほしくないのよ。だから、なんとか学校に来られるようにって、ボランティアを買って出たわけ」  聡子は昼休みに話し合われた計画を、簡潔にうるちに聞かせた。  「……そなんだ。みんな、ありがとね」うるちは感極まり、泣き出しそうな顔になった。 「でも、だいじょうぶだよー。何とかなるよ」  それが強がりだというのは、二人にもわかった。 「うるちは、学校行きたくないのか?」 「……そんなこと、あるわけないじゃん」 「でもこのままだと、満足に来れないだろ?」 「そうだけど、だからってこれはウチの問題だし……」 「アホ」  港はうるちの頬を両手で挟んだ。つぶれたタコのような顔をまっすぐに見返し、彼は諭すように言った。 「ガタガタぬかすな。オレがそうすると言ったら、ゼッタイそうするんだ」 「それってただのワガママよ」  聡子がため息をつく。 「……わかった。おばあちゃんに訊いてみるよ」  うるちは奥の工房で働いていた祖母に、いきさつを説明した。  津川祖母も困惑していたが、いろいろと話し合い、港の臨時アルバイトは決定した。 「大した給金も払えませんが、お願いしますね」 「あ、いえ、お金はいりません。ただ手伝いたいだけですから」  港が恐縮して言うと、彼女は首を振った。 「それでは受けられませんね。些少なりとも受け取らないのならば、お断りします」  港は困惑したが、聡子が肘でつついてきたので、港は折れた。安易な厚意ほど受けづらいのを、彼も知っていたからだ。 「……わかりました、では」  港の報酬条件に一同は呆れ、そして笑った。  その後、時間調整や作業について細部まで煮詰められ、港と聡子は店を出た。 「朝四時半って平気なの?」 「どうだろうな。でもやらないとな。オレが朝、起きられるだけでうるちは学校へいけるんだ。がんばってみる」  「だね。がんばれ」聡子は港の背中を勢いよく叩いた。 「それと、事後承諾になっちゃうけど、明日はアルバイトの申請しないとね」 「申請? ああ、学校にか」 「そうそう。報酬をもらう以上、アルバイト扱いだからね。生活指導室に行って、それから担任と校長の認可もとらないとダメ」 「うへ、校長までか? ウチの学校、けっこう厳しいんだな」 「アルバイトとバイクの免許に関してはウルサイわよ。その他の校則はユルユルだけどね」 「なるほど。ま、とりあえず何とかなりそうで良かったよ。畑野、ありがとな」 「いえいえ。お礼はタコ焼き二箱ほどでいいよ」 「……」 「あ、そうだ。ついでにさ、奨学金狙ってみない?」 「ショウガクキン? 授業料免除か?」 「そう、それ。といっても、津川の成績だと全額免除とかは無理そうだから、一部負担とか」 「なるほど、それはいいかもな」 「でしょ? あたしもそのへんは詳しくないから、今度調べてみましょ」 「ああ」  港は畑野を自転車で送り届け、家路についた。  彼の今後の予定は、食事をして風呂にはいり、そして海外の両親にアルバイトの話をする。最終的に許可は得られるだろうが、説得に一苦労だろう。  寝るまでの課題だけで、忙しくなりそうであった。 「おばあちゃん、あたしも起こしてね」  店の片づけをしていたうるちは、嬉しそうだった。 「はいはい。そうなると助かるねぇ」 「うん、がんばるよ」 「でもいいのかねぇ。あんたの友達に無理をさせてしまって……」 「あー、大丈夫だよ。コウは体力と暇だけは腐るほどあるもん」 「そういうことじゃなくてね……」  我が孫ながら、ピントの外れた少女に祖母は困った顔をした。 「うん、わかってるよ。でもね、コウは自分でやるといったらやるんだよ。だから、とめちゃダメなんだよ」 「そうかい」  祖母はあの少年を知らない。けれどうるちがこれほど頼りにしているのだから、信じてみようという気にはなれた。 「うるちは結城くんが好きなんだねぇ」 「あええ! 違うようっ!」  大人が子供をからかう常套手段に、うるちは簡単にかかった。 「いやいや、うるちも大きくなったんだねぇ」 「もう……」  うるちは脹れてみせたが、冗談を言う祖母を見るのは久しく、嬉しかった。  作動まで五分はある目覚まし時計のタイマースイッチを切った。港にしては珍しく目覚めがよかった。  彼はそそくさと制服に着替え、昨夜のうちに用意しておいたオニギリをカバンに詰めて、外へ出た。  明けきる前の深夜と早朝の狭間は、やはり寒い。身体が勝手に震えるのを自覚しながら、玄関の鍵を閉め、自転車に飛び乗った。 「おはようございます」 「あら、おはよう。よろしくお願いしますね」  津川屋の勝手口から顔を出した港に、うるちの祖母が穏やかな笑顔で応えた。 「こちらこそお願いします。……うるちは起きてますか?」 「いやいや、まだ寝てるよ。あのコは昔からよく寝るコでねぇ。こんな時間に起きるなんて無理だよ」 「叩き起こしてきます」 「いやいや、寝かせておいてあげて。あのコも起こしてほしいと言っていたけど、無理はよくないからねぇ」  祖母は、孫に関しては信用度が低かったらしい。 「起こしてほしいと望んでいたなら、起こしてあげるのが優しさです」  港は指関節をポキポキと鳴らせて住居側へ入っていった。 「おやまぁ、昔のじいさんを思い出すねぇ。そりゃぁ、威勢のいい人だったよ」  なぜか頬を赤らめる祖母に悪寒を感じ、港の足は無意識に速まった。  階段を上がってすぐの、うるちの部屋のふすまを大きく叩き、呼びかける。  が、反応はない。  港はしかたなく、同年の女の子の寝室に、ズカズカと入っていった。まずはカーテンを開き、うるちの布団をはぎとった。 「うお!」  まぶしいくらいのまっ黄色のパジャマを着たうるちが、丸まって寝ていた。 「もしかしてオレは、とんでもないことをしてるのではないか? いや、してるんだろうけど」  自問自答して、改めて事の大きさに気づいた。 「う……さぶいよ……」  うるちは手探りで布団を探していた。 「布団がないからな」 「そりは寒いねぇ〜……」  パタパタ動く、うるちの手。 「どうでもいいが、さっさと起きろ。仕事の時間だ」 「ん〜? あたし、きのうリストラされたんだよぉ……」 「どっか聞いたようなセリフだな。とにかくいいかげんにしないと、鼻にコショウかけるぞ」 「ぇっくしょん!」 「まだやってないぞ」 「あえ〜……」 「ホントにさっさと起きろ」 「あえ!」  港は敷き布団をおもいっきり引っぱって、うるちを床に転がした。  さすがの彼女も目がさめたようだ。 「あえ、コウ……? おはよー」 「おはようじゃない。さっさと顔洗って、せんべい作りはじめるぞ」 「あ、あええええええ! コウじゃん!」 「なにをリピートしてんだ」 「だってここ、あたしの部屋で、あたしパジャマで、あたし寝てて、あえええええ!」 「言いたいことはわかる。だが、時間がおしい。文句はあとで聞いてやるから、さっさと支度しろ」 「う〜、わかった……」  うるちは敷き布団を抱きしめながら、不満そうに彼を見ていた。 「じゃ、先いってるぞ」  港はふすまを閉めて、階段を降りた。  工房に戻った彼に、うるち祖母は「あたしの若い頃を思いだすねぇ。いやいや、若かったわぁ」と、半世紀以上昔を振り返りつつ頬を赤らめた。  ようやく、本格的な作業がはじまった。  工場長である祖母の指示で、うるち米の粉袋を大釜にあけ、水を加えて蒸す。  蒸しあがって餅状になったうるち米を、丸い形にして乾燥させる。乾燥には時間がかかるので、今作っているのは明日の分だ。今日、店に並ぶのは、昨日、同じ工程で作成されたものだ。 「機械で乾燥もできるんだけど、ウチには大きすぎて機械が入らなかったんだよ。だから今でも自然乾燥なのよ」  うるち祖母はそう、港に説明した。  彼が乾燥室からせんべいの素体を運んでいるとき、津川屋の看板娘が姿を見せた。 「おはよー、遅くなってゴメンね〜」 「おやまぁ、うるちが早起きしたよ。これは今日、雪になりそうだねぇ」 「同感」 「むむぅ、コウが起こしたんじゃないかー」 「脹れてないでこっちを手伝ってくれ」  うるちは「あーい」と応えて、乾燥室に収まっていた大型網トレイを、彼といっしょに焼き場に並べた。 「その網ごと火にかけておくれ。よぉく見ておくんだよ」  彼女の眼は活力にあふれていた。弟子がいきなり二人もできて、楽しそうだった。 「はじめはゆっくりでいいが、焦げ目ができてからはこまめに返しておくれ。ときどき弾けるものがあるから、気ィつけてな」  一網一〇枚×四段、四〇枚ものせんべいを、素早くひっくり返していく。円熟した技術である。  かたや港とうるちは、大汗かきながらシクハクしていた。  その姿が、祖母にはほほえましかった。 「おぅおぅ、若い頃がダブるようだよ。ほれほれ、そこのが焦げてるよ。できたらこっちの皿に並べておくれ」  焼き上がったせんべいは、彼女の手でタレを塗られていく。物によっては海苔を貼ったり、さらに焼いたり、ザラメをまぶしたりと、いろいろな種類へと変わっていく。  終わってみれば、三時間があっという間に過ぎていた。 「これで終わりだよ。さぁさ、早く学校へ行っておいで」 「ホントに、一人でだいじょうぶ?」  うるちは心配で祖母に尋ねたが、彼女は柔らかい微笑で答えた。 「ああ、平気だよ。ずいぶん楽をさせてもらったからねぇ。あとは店に並べるだけだから、バァちゃん一人で大丈夫さね」 「困ったり疲れたりしたら、すぐ学校に電話ちょうだいね」 「はいはい。がんばって勉強してくるんだよ」  二人は割烹着を脱いで、母屋に移った。  朝ご飯がわりに港が持ってきたオニギリと、出来立てせんべいをかじり、お茶をすする。  わずか五分の食事と休息がすむと、学校へ向かった。  今日からは、うるちも自転車通学だった。学校の帰りに病院へ寄って、母親の見舞いをするためだ。  二人はタイヤを並べて通学路をのぼっていった。 「オーッス」  港が教室に入る頃には、仲間の三人はもう席に着き、雑談をしていた。 「あら、余裕の登校ね」 「おはよう、コウくん」 「どうだ、初日は?」  港は机にカバンを置き、大きく伸びをした。 「せんべい作りもけっこう労働だと知ったよ。でもまぁ、なんとかやっていけそうだ」 「まだはじまったばかりなんだから、気を抜かないようにね」 「わかってるって。……ところで良子」 「なに?」 「オレは今日、はじめておまえの偉大さを知ったよ」 「なによ、それ?」 「朝が弱いヤツを起こすのが、あんなに大変だとは思いもしなかった」  彼はうるちの目覚めの悪さに辟易したと付けくわえた。もちろん、部屋に入って布団をはいだなどとは言わなかった。 「そうでしょう? 人は反面教師から学ぶのよ」 「ああ、たしか学んだ」  彼は大きくうなずく。  それにチャイムがかぶさり、学校生活の始まりが告げられた。 「う〜、眠ぃ……。やっと授業が終わった……」  両親との約束があるため、彼はどんなに眠くても踏ん張って六時間の授業を耐え切ってみせた。授業はきちんと受け、試験の成績は落とさない、がアルバイト認可の条件だった。 「結城くん、迎えに来たよ」 「おー……」  空腹より眠気で元気のない彼を引っぱり、聡子は生活指導室までお供をした。彼女の右手には港、左手にはうるちが掴まれている。説明を簡略するために雇用主を連れて行ったほうが早いかもしれない、と聡子は言った。 「うるち、眠い……」 「あたしも……」  眼をこすりながら聡子に引き回される二人。 「しっかりしなさいよ。そんな疲れた顔してたら、不健康で許可がおりないわよ」  学業をおろそかにしてまで、バイトを許す学校もない。二人は途中で顔を洗って、少しのあいだの気力をためた。  それが功を奏したのか、生活指導室では書類作成と軽い面談であっさりカタがついた。  それから担任のところへ行き、許可証にハンコをもらう。こちらも単なる手続きだ。  「遅刻があったり、成績が低迷するようなら即禁止だぞ」と、担任の教師は念は押した。  最後に、校長の認可をもらうために校長室へむかった。 「へぇ、こんなところにあったのか」  二階の職員室のはずれに、それはあった。 「あたしも許可をもらいに来るまで知らなかったわよ」  聡子は笑って港を押し出した。 「さっさとハンコをもらって来なさい。ここで津川と待ってるから」 「コウ、がんばってねー」 「どうがんばるんだよ」  彼は苦笑してノックした。  中から「どうぞ」と返事をもらうと、「失礼します」といって扉を開ける。  なるべく静かに扉を閉め、改めて見渡すと、窓際の机に白髪混じりで小太りの男性がいた。朝礼で見慣れた校長だった。穏やかな人格者、というのが港の印象だった。  「……あれ?」室内にはもう一人がいた。  ソファーに優雅におさまる黒髪の少年。 「御門……」  二年C組・うるちと畑野のクラスメイトで、この学校の創立者の孫。さらには付け加えれば、生意気な大金持ちの一子だった。  御門は彼を一瞥しただけで、すぐに校長に向き直った。 「ボクの用件はあとでいいので、彼のお話をどうぞ」  御門は落ち着き払ってコーヒーに口をつけた。  校長はうなずき、港に視線を向けた。 「こちらに来なさい。それで、用件は?」  校長の前まで行くと、港は手にしていた封筒を差し出した。 「二年B組の結城港です。アルバイトの許可をお願いに来ました」  御門というビックリ箱のおかげか、彼は緊張せずに用件を言えた。 「わかりました。内容の確認をしましょう」  校長は書類を眺めた。そこには、彼の経歴やら成績、アルバイト先についての情報が書き込まれている。 「津川さんのところですか」 「は? あ、はい」  校長の口ぶりは、大なり小なり事情を知っているふうであった。  校長は好意的にほほえみ、それからある一項目を読んで、軽くふきだした。  御門も意外なできごとに、校長を見た。 「時給はお煎餅一枚、ですか」 「はい」  それが津川屋で決めた報酬だった。生活指導室でも担任にも笑われたが、当人はいたって真面目である。 「津川さんのお父さんには、地域活動でたいへんお世話になりましてね、亡くなられたときはとても残念に思いました」 「そうなんですか」 「津川さんは、あの商店街では中心的な方でしたからね。力になってあげてください」 「はい!」 「ですが、学業はおろそかにしてはいけませんよ」 「はい」  校長はニッコリとほほえみ、許可証にハンコを押した。これで港は、晴れて津川屋に出入り御免となったのである。 「校長先生、もう一つ、伺ってよろしいでしょうか?」 「どうぞ」 「奨学金についてですが、申し込みは一年と二年の年度末しかできないのでしょうか?」 「……規則上、そうなっていますね」  校長の答えにわずかな沈黙の時間があったのは、彼の本当に言いたいことがわかったからだろう。現在の奨学金制度は、一年単位でのみ扱われ、学期間での適用はされていなかった。うるちには二学期以降の奨学金が必要であり、来年を待つ余裕はないのである。 「なんとか、なりませんか?」 「……」  校長は、口をつぐんでしまった。うるちの父親に多少なりとも恩義を感じているだけに、校長の苦悩は大きかった。  港はそれを自覚して、なお質問をしていた。答えは聞くまでもない。無理なものは無理なのだ。だが、すぐにあきらめるのは堪えられなかったので、校長の口から否を聞き、自分を納得させたかった。そうすれば校長に謝罪し、大人しく引き下がるつもりだった。  しかし、口にしたのは第三者の御門だった。 「無理に決まっているだろう。何をバカなことを言いだすのやら」 「……なんでおまえが、口を挟んでくるんだ?」 「当たり前の決まり事さえ理解できないバカ者に、そんなことを訊かれるとは心外だ。キミは、校長先生の好意を利用しようとしているだけだろう?」  港は返答につまった。あわよくば、と思わないではなかった。 「図星か。キミのような人間が、この学校にいるというだけで品位が下がる。そもそも津川くんの成績程度では、奨学金などもらえやしない。身の程を知るんだな」 「なんだと……?」 「聞こえなかったのか? 身の程を知れと言ったのだ。この学校には、努力して奨学金を得ようとしている生徒がたくさんいる。皆、それぞれの事情を抱えてだ。それを、善意をカサに横からかすめようなどと、人間として最低ではないか。まずルールを守りたまえ。話はそれからだろう」  正論だった。港の視界は、ごく一部の生徒にしか向かっておらず、同じように悩んでいる人がいることなど考えもしなかった。  御門の罵倒は、とどまらなかった。 「だいたい、遅刻居眠り当たり前、成績も思わしくなく、かといって部活動で功績を残しているわけでもない。そんな生徒が学校にしがみついてどうしようと言うのだ」  「キミも含めて」と、御門の嘲笑は語っていた。  そこまで言われて黙っていられるほど、港は大人ではなかった。 「成績がよくないといけないのか? 功績を残さないと悪いのか? ただ学校に来たいってだけじゃ、いけないのかよ!」  御門の正面に立ち、彼はテーブルを叩いた。港は御門を言葉や力で屈服させたかったわけではない。ただ主張したかっただけであった。  御門は、まったく動じなかった。  彼の怒声は防音壁を透過して廊下にまで流れ、うるちと聡子が、慌てふためいて不作法に入ってきた。 「ど、どしたの、コウ?」 「あれ、御門くん?」  御門はうるちに眼を向け、フッと嗤った。 「本人もいるようなので、ハッキリと言っておこう。この学校は、学びたい意志のある者、努力して何かをつかもうとする者、才能のある者には援助を惜しまない。だが、遊び場と考えているバカ者や、目的もなく生きる怠惰な者には、いてもらう必要はない。さっさと辞めてもらってけっこう。他の学校にでも移るがいい」  彼の言葉には、正論だけが詰まっていた。学生全員が、学ぶために自らが望んで有明高校へ来たのだ。それがなしえないならば、いる意味はないのかも知れない。 「結城くん、どうなってるのよ?」  港の服の裾をひっぱる聡子。けれど彼には、答える余裕などなかった。 「……たしかにオレはどうしようもない生徒だ。何も残せないし、何もできない。マジメでもないし、努力すらしていない。けど、オレはここにいたいんだ!」  説得ではなかった。ただの自己弁護で、それもわがままと同類の叫びだった。港は自分自身の一年を振り返り、何も残っていない事実に愕然とした。 「だからどうした? 子供と同じメンタリティーで、何ができるというのだ? キミはボクが見てきた同年代で、もっともゲスな男だな。口だけで何もしえない、無能者だ」  港に反論の余地はなかった。彼は悔しさに震える以外、何もできなかった。  御門は勝ち誇り、「出て行け」と言った。  だが、自身の弱さに、彼は動くことさえできなかった。  彼を揺り動かしたのは、甲高いうるちの声だった。 「ミカドシン、コウにあやまれ!」  あきらかに全員が虚をつかれた。顔を真っ赤にして怒るうるちには、充分な迫力があった。 「コウはあたしなんかのために一生懸命やってくれてるんだぞ。親の権力を振り回してえらそーにしてるだけのあんたとは違うんだ!」 「ボクが、権力を振り回している?」 「そーでしょ! ふつー、一般生徒が校長室でお茶なんか飲むかぁ! 親にオンブダッコのお坊ちゃんが、人に説教するなんて一〇〇万年はやいわよ! ついでに、あたしがおせんべい食べるのを禁止するなー!」  最後のセリフにガックリときた港は、となりの聡子に顔を向けた。 「津川のせんべいを食べる音が気に入らない筆頭が、御門くんなのよ」 「ああ、なるほど……」  港が納得している目の前では、御門が怒りに肩を震わせていた。 「そこまで言うからには、キミはボクよりも個人的資質が上なのだろうね」 「あ、あえ……?」 「ちょうどいい、もうすぐ中間試験がはじまる。試験ならば親も権力も関係あるまい。そこでキミの……いや、キミたちの実力とやらをみせてもらおうか」 「オ、オレもか?」  御門は港のささやかな質問を無視した。彼にしてみれば当然なのである。 「それでボクを負かせたら、キミたちを認めてやろう」 「あえ〜〜……。ど、どしよ、コウ?」 「いいさ、受けてやる」  御門はフッと嘲笑い、「失礼します、校長先生」と一礼して校長室を出ていった。  その動作で、三人も校長室であることを思い出した。 「え〜と、どうも失礼しました!」  港はうるちと聡子の頭を押さえつけて礼をさせ、校長室から逃げ出した。 「ハァ〜……。なんだってあんたたちは、コトを大きくするかなぁ」 「成り行きだ、成り行き」 「そーそー、成り行きだよ」 「これで無様な結果だったら、御門くんはあんたたちを許さないわよ」 「だろうな」 「ああ、もう、ムダに時間くったから、もうこんな時間じゃない。とにかく解散。結城くんはバイトに行って!」 「お、おう」 「この対策は明日たてましょ。あたしも部活いくから、またねー!」  聡子はあわただしく駆けていった。 「あたしも病院行って、お店に戻るよ」 「わかった。それじゃあとでな」  自転車置き場で別れ、港は津川屋へ向かった。  慣れない販売仕事だったが、うるち祖母に助けられて何とか無事に乗りきった。  家に着いたころには精神的に疲れ果て、食事も満足にとらず眠っていた。 「シン様、資料をお持ちいたしました」  「うむ」と、御門は手にしていたカードの束を机に置いた。今、彼が最も興味のあるゲームのものだった。片手間の娯楽ではあったが、なかなかに楽しめた。近々、最大のライバルである雨宮士郎(アマミヤシロウ)との試合があり、戦略を練っていたところであった。  差し出された資料の表題には、結城港の名前があった。一度ならず二度までも立場をわきまえず噛みついてきた野良犬に、少しだけ興味を持ったのだ。  しかしレポートを読み進めるうちに、呆れるどころか憤りさえ湧いてきていた。 「くだらん、本当に犬以下か!」  御門は資料を投げ捨てた。こんなことに一分でも時間を割いた自分にも腹立たしかった。 「……しかし、あいつの件もある、か……」  彼は過去にも一度、同じ経験をしていた。  一年前、実力もなく挑んできた無謀な挑戦者がいた。御門がライバルと認めた男の友人であったが、資料では御門を満足させる人間ではなかった。  だが御門は敗北した。ありえない結果であったにも関わらず、御門は充足している自分に気づいた。  それ以降、御門は資料を資料以上に意識したことはない。  御門は鼻を鳴らした。結城港とやらが資料以上か、それとも資料すらも甘い評価であるのか、御門は結果を待つことにした。