「Pure☆Colors」 第八話  五月も半分が終わろうとしていた。  港は普段の生活に戻り、毎日をあくび交じりで過ごしている。  放課後の彼の行動は不規則で、時には美術造形部を覗き、暇なときにはうるちと商店街を冷やかし、まれに優輝と下校をともにしていた。  その日は赤い忍者服が目に付き、彼女を引きとめていた。 「よぉ、みなみちゃん。復帰早々忙しそうだな」 「こんにちは、結城さん。はい、でもやっぱり、必要とされるのは嬉しいですから」 「そっか」  みなみは三元流から破門を言い渡され、すべての忍術を封じられた。が、それにより損害を被ったのが生徒会特殊部隊、通称SSSであった。  みなみの諜報能力と戦闘力はSSSの要であり、彼女の存在がなければ運用効率が著しく低下するのだった。実際、たった数日間ですら組織はうまく回らなかったらしく、生徒会長兼SSS総帥兼総合格闘部部長・北枕総司は彼女に復帰を促した。  しかしながら、みなみには決定権がない。そこで総帥は、三元流宗家当主・東連刻に直談判までしたのだった。強さを極めんとする男たちの間には、何かしらつながるものがあったのか、彼女は校内限定で再び忍術を解禁されたのだった。 「でも残念だな。今日は弥生屋で、五時まで限定のボタモチ半額日だったのに」 「あぅ、そうでした……。楽しみにしてたんですけど……」 「ハハ、また機会はあるさ。そのときは行こうな」 「はい。それでは!」  みなみは一礼して消えた。その消えっぷりに、港は嬉しくなる。 「さて、帰るか」 「そだねー。帰っておせんべいを補充しないとね」 「うお!」 「サカナ?」 「おまえ、いつの間に湧いてでた」  背後にはうるちがいた。まったく気配を感じなかった。 「今だよ。なんか誰かといっしょだったような気がしたんだけど、いなかったね」  彼女の眼に、みなみの俊足は映らなかったようだ。 「で、下校中に食べるせんべいがなくて、歩くのがダルいからオレの自転車に便乗しようとしているわけだな」 「うんうん。さっすがコウ、わかってるね」 「まったく……」  港は歩き出した。  うるちが付いてくるのを止めようともしないのは、すでにあきらめているからだ。 「そうだ、コウ、さっそく付けてみたよー」 「ああ?」  うるちが掲げるカバンには、「ARIAKE PARK」と彫られた金のキーホルダーがぶらさがっていた。 「付けたのか、おまえ!」 「自分でくれといてその驚き方はなによ」 「たしかにオレがやったものだが……」  それは昨日、優輝たち三人と遊園地に行ったときのみやげであった。一番センスの悪い物をわざわざ選んで買ってきたにも関わらず、彼女は気に入っているらしい。 「いやがらせにはいやがらせだよ!」  うるちは見せびらかすことで、港に精神攻撃を与えるのが目的のようだった。 「ほら、着いたぜ」 「うわー、はやかったね。お礼にご馳走するから寄って行ってよ」 「商品だろ?」 「んー、大丈夫だと思うよ。ダメだったら三割り増しで売ってあげるよ」 「値上げすんな」  『煎餅の津川屋』は、港が生まれるはるか以前からこの場所で商売をしていた。近所ではわりと有名で、丁寧な焼きと絶妙なタレがうまさの秘訣だと語る者もいる。港も、味に関しては同意だった。好みの味に、ぴったりハマるのである。  自転車を住居側入り口につけ、港はうるちに続いて玄関をまたぐ。  「ただいまー」という彼女の声につられて、奥から恰幅のよい中年女性が現れた。うるちの母親だ。 「おかえり、うるち」  どうやら商品の陳列中だったらしく、右手には長い箸が、左手にはせんべいの載った盆が握られていた。 「あら、お友達?」 「うん、コウっていうの」  うるちはいきなりあだ名で紹介をする。港は焦りながら改めて本名を名乗った。 「コウ、あたしの部屋いこ。お茶ぐらいだすから」 「そうしていって。この子が男の子をつれてくるなんて、はじめてなんですから」  「へぇ」思わず港は声にしていた。それくらい意外だった。彼女は親しみやすいから、男友達だって多いだろうと思っていたのだ。 「そういうこと言わないでよ、もう」  うるちは港の手をひいて、足早に階段を駆け上がった。  二階に上がると、廊下の左右に二つずつ扉が見える。彼女の部屋は向かって左の手前で、窓が商店街をのぞめる場所だった。 「初公開、これがうるちちゃんの部屋だ!」 「へぇ、意外にシンプルだな」  六畳間に本棚、和ダンス、机が一組。電化製品はCDコンポだけで、ソフトの入った台に設置してある。  ベッドがないので、布団が押し入れにあるのだろう。  本棚の中身は、意外にも文庫本が大半をしめ、マンガや雑誌はすき間をうめるようにおさまっていた。 「そういや本を読むの好きだったよな」  港は本棚の中から一冊を手に取る。年季のこもった知らない作家の小説だった。 「お母さんがよく買ってくるから、あたしも読む程度。暇つぶしにはなるよ」  彼は本を戻すと、勧められた座布団に腰掛けてあらためて部屋を見渡す。 「ずいぶんさっぱりしてると思ったら、人形とかないな」 「そだねー。昔からあんまり興味なかったからねぇ」 「おまえ、淡泊だな。部屋だけみるとホントに無趣味っぽいし」 「だから趣味がないんだってば。前に話したじゃん」  いつも音楽を聴いているわりに、CDの枚数も多くは感じない。押入れにでもしまってあるのだろうか。そう思ったが、港は訊く気にはなれなかった。 「うるち、お茶持ってきたわよ」  ふすまが開き、さきほどのうるちの母親が顔をだした。お盆にはお茶の他に、せんべいがつまれた大皿が載っている。 「ありがとー」 「すみません、いただきます」 「キャハハハハ。なにキンチョーしての、コウ」  「するだろう普通」と小声でツッコミをいれる。その様子が可笑しいのか、母親は笑いをこらえるように去っていった。  うるちはさっそくせんべいに食いついた。 「せんべいだけでこんな幸せそうな顔するやつ、見たことねぇ」 「そぉ? おいしいものを食べると、人は幸せになれるんだよ」 「まさか素で返されるとは思ってもみなかった」  「おいしい(バリバリ)」うるちは聞いていなかった。 「そういや、さっきおばさんが言ってたけど、うるちって男友達いないのか?」 「特別(バリバリ)仲いいのは(ボリボリ)いないね(ガリ)。コウくらいじゃん(ズズ…)」 「音たてて茶をすするな。でも、意外だな」 「そお?」 「おまえくらいさっぱりしてるやつなら、男だって付き合いやすいだろうし」 「そうでもないよ(パリ)」 「え?」 「おせんべいばかり食べてるような女の子になんか、みんな興味ないよ。はたから見れば、ヘンなやつだもん(コリコリ)」 「それくらいで人を判断するもんか? オレなんかぜんぜん気にしないけどな」 「それはコウもヘンなやつだからだよ(バリン)」 「そーか、そいつは盲点だったな……て、おい!」 「キャハハハハ!」  港はペースを掴まれているのが悔しくて、一際大きな音を立ててせんべいを噛み砕いた。 「でもさ、コウはあたしに付き合ってくれるじゃん。だからあたしは、ヘンなやつでもいいと思うんだ」 「そ、そうか?」  その言葉を、彼は無償に恥ずかしく感じた。彼女から出た言葉だったからだろうか。いつもと違う雰囲気を感じてしまったからだろうか。 「だからさ、おせんべい食べよ、おせんべい。バリバリでおいしいよ」 「なにが『だから』なんだよ」  彼としても対処がわからず、悪態をついた後はおとなしくせんべいを食べる。  ボリボリ  バリバリ  ガリガリ  ゴックン 「……うむ、たしかにうまい」 「でしょ? 余り物だけど、おせんべいだからね。保存さえしっかりしてればいつだっておいしいよ」 「うるち、このせんべい、いくらだ?」 「この二つが一枚五〇円で、ノリ付きが七〇円。この甘ダレは特製だから一〇〇円だよ」 「そんじゃ、晩メシがわりにするから、全部二枚ずつくれないか」 「ゴハンがわり? ……あ、そっか、コウはいま独り暮らしなんだっけ」  彼がうなずくと、うるちは「そうだ!」と手を打った。 「だったらウチで食べていけば? たいしたモンないけど、独りでおせんべいかじるよりはいいと思うよ」 「ありがたいが、ことわる。とてもじゃないが気楽に食えない」 「そーかなー、コウならどんなところでも、気にせずゴハン食べるようなタイプだと思うけど」 「オレはそんなに無神経に見えるか?」 「うん」  うるちは疑いようもないほどはっきりとうなずいた。 「感謝はするが、やっぱまた今度な。おまえの部屋で昼寝ができるくらいずうずうしくなったら、どんぶりでメシ食うからさ。そんで五杯くらいおかわりして、おばさんに『もう二度と来ないでください』と言わせてみせるぞ」 「うん、待ってるね」 「本気にするな!」 「んじゃ、注文のおせんべい持ってくるね」 「おう」  港は八枚のせんべいを持ってうるちの家を出た。  夕食時、良子がカレーをおすそ分けに来たので、彼はせんべいをかじりつつカレーを飲むという貴重な経験をした。 「タレのついていないせんべいなら合うのに」  彼の感想だった。  深夜に不快なベルが鳴った。  目覚まし時計かと思い、手探りでスイッチを叩いたが、音はやまなかった。  港は眼をこすりながら布団から這い出す。  電話の音。外はまだ暗い。  彼は腹立たしげに受話器を掴んだ。 「この電話は、現在使われております。でも眠いので、ご用件のあるかたは発信音のあとにメッセージをいれないでください。ピー」 『なに寝ぼけんの、あんたは』  聞いたことのある声が、そう言った。 『もう朝でしょ? 急がないと遅刻するわよ』  思い出せない。 『聞いてるの港? また寝てるんじゃないわよね?』  ようやくわかった。 「おふくろじゃん」 『……あんた、親の声を忘れてたんじゃないでしょうね?』 「寝てるところに電話されて、すぐに思考が働くかよ」  電話の相手は、父親とともに海外へ出張中の母親のものだった。かれこれひと月以上、両親の声は聞いていなかった。 『あんたやっぱりまだ寝てたのね? さっさと学校に行きなさい。まったく、これだからあんたをおいていくのは心配だったのよ』 「……あのさ、ボヤく前に時計を見てくれよ」 『八時じゃない。それがどうしたの?』 「世界には時差というものがあるんだけど」 『あ!』 「あ!てなんだよ、あ!て」 『あら、ごめんなさいね。こっちの生活が長いから、すっかり時差なんて忘れてたわ』 「いいけどさ、なんか用なわけ? ないならオレは寝たいんだけど」 『特に用はないけど、心配だから電話したんじゃない。そっちは? なんかかわったこととか、困ってることない?』  「別になにもない」と答えようとした彼は、そのとき一つだけ気にかかる点を思い出したので、訊いてみた。 「あのさ、なんで良子にあんなこと頼んだんだよ?」 『良子ちゃんに頼んだ? なにを?』 「それも忘れたのか? ほら――」  彼は日常になりかけた毎朝の出来事を、母親に語った。  しかし彼女はいぶかしみ、口調を重くする。  そして彼は知ることになる。日常になりかけた光景が、つくられたものであることを。  朝食を作るかろやかな音が、広くもない台所にこだまする。  大根のみそ汁とハムの細切り入り卵焼き、レタスのぶつ切りサラダに炊きたてごはん。それが彼のささやかな朝食になる予定だった。  港は母親との電話以降、寝つけることができず、こうして朝食を作っていた。  だがこれは眠れぬための暇つぶしではなく、この先ずっと、彼はこうしなければならなかった。少なくとも、両親が帰ってくるまでは。  メインとなる卵を焼いているとき、玄関のカギが外側より解除された。 「あれ、どうしたのコウ? こんなに早く起きて、しかも自分でごはん作るなんて」  彼は良子の顔を見て、平静ではいられなかった。だが彼女の気持ちもわかるので、彼はできるかぎり感情をおさえた。 「良子、もう起こしに来なくていいからな。メシも自分でなんとかする」 「また、そんなできもしないこと言っちゃって。無理しなさんな、あたしがちゃんと起こしてあげるから」 「無理でもなんでもいい。遅刻したってかまわない。だからもう、おまえに面倒はかけない」  顔すら向けず、言葉にも堅さがある彼の様子に、良子の表情も重くなった。 「どうしたのよ? 遅刻していいわけないでしょ。それに、おばさんに頼まれてるし――」 「わかってるだろ、おふくろは、そんなこと頼んでない」 「……!」  彼女は絶句した。良子は根が正直ゆえに、事実をつきつけられるとウソをおし通せなかった。沈黙しかできなかった。 「夜中に電話があって、そのとき聞いた。たしかに、用心としておばさんにカギは預けたそうだ。だけど、オレを起こすとか、メシを作ってくれなんて頼んでない」 「そう、バレちゃったんだ……。ゴメン、あたし、ほっとけなくて……」 「それもわかってる。おまえには感謝してるよ。でももう、オレにかまうな」  良子は長く沈黙した。頭の中ではいろいろと考えていたが、方向性は定まらず、ループしていた。 「でも、あたし……」 「おまえにはおまえの生活があるだろ。オレのためにもう、貴重な時間を割かなくたっていいんだ」  港は怒っているわけではなかった。常々思っていたことを改めて言っただけだった。  けれどそれは、良子にとっては決別と同義語だった。少なくとも彼女は、そう感じた。 「そしたらあたし、どうやって……」 「良子?」  フライパンから彼女へ眼を向けると、彼女は涙を流していた。 「お、おい、なに泣いてんだよ」 「え、ちが、あたし、泣いたりなんて……」  良子は自分の涙に気づき、慌ててぬぐった。 「ゴメン、ゴメンね」   良子は自分の感情がコントロールできなかった。不恰好でも逃げ出すしかなかった。 「おい!」  港は飛び出していく彼女を追いかけられなかった。理由はわからない。追いかけてもかける言葉が見つからなかったからか、怖かったからか。  狭い台所で独りになったとき、彼は自問した。いつから自分はこんなふうになって、いつから良子は自分の面倒をみるようになったのだろうか、と。自分自身で今の自分を望んでいたのだろうか。今のままで満足だったのだろうか。違う。本当はいつだって……  焦げた卵焼きのにおいが、部屋を包んでいた。  良子の自転車はすでに学校の駐輪場に収まっていた。まだ始業には時間がある。港は良子を探した。どうも彼女は大げさに考え込んでいる節があるので、誤解を解いておきたかった。  中庭のベンチの一つに、空を見上げている彼女の姿があった。  しかし、彼が近づくよりも早く、数人の女子生徒が彼女を囲んだ。港の記憶によれば、女子剣道部員たちである。 「あ、良子、何してるのよ、あんた」 「来てるなら朝稽古に顔をだしなさいよねー。ぜんぜん来ないんだもの」 「家の事情で来れないとか言ってたけど、もう平気なの?」  そんな声が港にも聞こえた。  彼には『事情』とやらがわかっていた。自分を起こすために、朝稽古を休んでいたのだ。一度だけ付き合わされたことがあるが、そのときに今後は無理であると悟ったのであろう。だから自分が休むという選択肢を選んだのだ。 「まったく、あいつは……」  良子の気持ちや思考がわかる港には、深いため息しかでない。自分は良子にとっての枷にすぎない。その事実が、情けなかった。  その後、港は彼女に接触せず、別々に教室へ入り席についた。こんなとき、席が近いというのは辛かった。 「おはよう、コウくん、良子ちゃん」 「オス……」  優輝にはなんの責任もないのだが、応える彼には覇気がなかった。  それと気づき、また良子のようすに、優輝は懸念をいだいた。 「どうしたの、二人とも? 元気ないけど……」  二人は答える術を持たなかった。 「何かあったの?」  優輝は不安が高まり、哀しそうな顔をしていた。 「なんでもない。優輝が気にするようなことじゃないから」  言ってから、港は激しく後悔した。 「……わたしにも、言えないの?」  港には答えられなかった。  優輝は黙りこんだ彼にしびれを切らしたのか、良子に向き直った。 「良子ちゃん、どうしたのよ?」  優輝にしては珍しい、非難の混じった声だった。  だが、良子の口もまた、貝のように閉ざされていた。 「……もういい」  優輝は自分の席につき、もうこちらを見向きもしなかった。  港も良子も、ただただ優輝に心のなかであやまった。  昼休みになり、うるちの侵入と入れ替わりに、港は教室を出て行った。 「コウ、飲み物買ってきてー! お茶でいいから」  すれ違い様の要求に、港は「自分で行ってこい」と通り過ぎた。 「あえー?」  調子の違う彼に疑問符を浮かべながら、港の席を占領する。 「なんかあったの? またハードな顔してたけど」 「知らない」  優輝もまた不機嫌で、それ以上に寂しそうに一人で弁当を食べていた。  「あえ?」と正義に眼を向ける。 「さぁ。良子ちゃんと何かあったみたいだけどな。二人して一日中ため息ついてるよ」 「あええー」  うるちの首が回転し、良子を捕らえた。 「……」  無言だった。 「つまり、コウを殴ってくればいいんだね!」  うるちは鼻息荒く、力こぶを作ってみせた。 「……コウは悪くない」 「良子?」 「あたしが悪いんだから、コウがイラつくのは無理ないの」  良子がポツポツと話しはじめたので、優輝も正義も食事をとめた。 「良子が悪いって、ありえないと思うんだけど」 「あるのよ。あいつには絶対に許せないことが。あたしはそれをしたんだから」 「あえー。なにそれ?」 「あたしが朝起こして、ご飯作ったこと」 「あえ? 何が悪いの、それ」  うるちはせんべいをかじりながら質問する。他の二人のように食事をやめたりはしない。 「それをあたしが独善でやってたから、許せなかったの。おばさんに頼まれた、なんて嘘をついたから」 「ぜんぜんわからないよ。あたしなら大喜びでやってもらうのに」 「まったくだ。オレだって大喜びだ」  うるちと正義は大きくうなずきあう。 「でも、コウくんてそういうところあるよ。わたしにも覚えあるもの」  優輝はため息をついた。何度手を差し伸べても、かわされてきた気がする。 「それがバレて、もう来るなって言われたの」 「それで元気がなかったの……」  優輝は納得した。納得はしたが、気分は晴れなかった。 「でも、そしたらなんであいつまで沈んでんだ? 後悔してるのか?」 「わかんない。後悔はしてないはず。コウは本音をいっただけだし」 「そういうところ、わかんないんだよなぁ、あいつ。時々ぼーっと考え事してるし」 「あたしにもわかんないよ……」  良子は机に伏した。人がいなければ泣きたいくらいだった。 「んとさ、よくわかんないけど、コウのこと殴っていいんだよね?」  うるちは話の前後を掴まずに、力こぶを作った。 「好きにして……」  良子は投げやりだった。考えるのすら面倒だった。 「よぉし、行ってくるよ!」  うるちはせんべい袋を提げて、教室を飛び出していった。 「わたしも行くね」  優輝は弁当箱にフタをし、立ち上がった。 「コウを殴りに?」 「ううん、そうじゃなくて、どうしてもコウくんに訊きたいことがあるの」  正義の質問にそう答え、優輝も教室から消えた。 「やれやれ、二人も行ったらオレの出番はないな」  正義はまだ伏せている良子を見て、頭をかいた。 「根本的なことがわからないんだが、いいか?」 「……なに?」 「あいつに世話を焼くなって言われただけで、なんでそんなに落ち込むんだ? むしろ解放された、と喜んでもいいじゃないか」  一般的な見方としてはそうであろう。港の言葉ではないが、貴重な時間を彼に費やす必要がなくなるのだ。そのぶん部活動にも勉強にも、もちろん遊びにも使える。本来なら喜ぶべきなのだろう。  けれどそれは、天草良子を構成する大切なパーツがなくなると同じであった。彼女はただ、自分の使命とまで信じてやってきたのである。 「喪失感、かなぁ……」  良子は顔をあげてつぶやいた。泣きはしなかったが、顔は赤かった。 「親離れする子供を見守る心境ってやつだな」  正義は笑った。 「そんな軽いものなのかしら。言われたとき、あたしのしてきたことが全部、間違っていたのかって思った。もともとコウにはあたしなんていらなかったのよ。あたしがいつまでもしがみついてただけ。それに気づいちゃったから、寂しいのかな……」 「いらないとは思えないけどな。むしろいなきゃダメだろ、あれは」 「そう思う?」 「思うね。少なくとも、あいつの隣に誰かがいてくれるようになるまでは」 「だよね。それまでの代わりのつもりだったんだけどね」 「代わり以上にがんばられたから、あいつも困ったんじゃないの?」 「あ、そうか、そうなんだ……」  「まぁ、たぶんだけどな」正義は苦笑いした。普段の二人は、事情を知らない他人がみたら付き合ってるとしか思えないだろう。実際、昨年のクラスでも、そういうウワサをよく聞いていた。 「それならあたし、どうしたらいいのかな」 「何もしなくていいんじゃないの? して欲しくないって言ってるんだから」  あまりにもあっさりと言われ、良子は戸惑った。 「本当に困ったら手を貸してやれよ。あいつもそうなれば自分から頼ってくるだろ。もうおたがい子供でもないんだし」  良子はしばらく考え、一息吐いた。 「そうね。あたしの中では、コウはまだあの頃のままなのになぁ……」  寂しそうな笑顔を浮かべる良子に、正義は可笑しくなった。 「ハハハ、そりゃ本当に母親の心境だ。コウでなくても反発するよ」 「そ、そう……?」 「ま、仲良くやってくれ。巻き込まれるオレたちはたまったもんじゃないからな」 「そうよね。ごめん」  良子ははにかんで答え、教室を出て行った。  正義はふぅと一息ついて、パンをかじった。少しだけ味がよくなった気がした。  うるちが校内を駆け回っている間に、優輝は港の姿を発見していた。  中庭のベンチで、食事もせずに空を眺めている。その場所は、朝、良子がいたところだった。  優輝が前に立ったとき、港はため息をついた。 「お邪魔?」 「……いや、いい」  優輝は彼の隣に腰掛けた。 「行き場なくしたって顔してる」 「実際にそうだからな」 「ううん、心のほう」 「……ああ。かも」  港の心の中も、整理がつかないでいる。良子の行為に対して必要以上の苛立ちを感じたのは、そもそも違う理由があった気がする。それがわからない不快感だった。 「ね、良子ちゃんのこと、迷惑だった?」  港は不思議そうに優輝をみた。なぜ良子の話なのかわからなかったが、素直に答える気にはなっていた。 「何の話だかわからないが、オレはあいつを迷惑に思ったことなんか一度だってない。それどころか感謝してる」 「怒ってるわけじゃないの?」 「怒る? あいつに? はじめから怒ってなんかいないぞ?」 「そうなの?」 「当たり前だろ。オレに怒る権利なんかない」 「じゃ、良子ちゃんと仲直りできる?」  港は優輝の瞳を覗き込んだ。不安そうな眼は、本気である証拠だった。だからこそ余計、彼は戸惑った。 「はぁ? ケンカしてるわけでもないんだぞ。あいつは勝手に誤解して、沈んでるだけだろ」  優輝にはよくわからなかった。彼が今のような様子なのは、良子との間に何かあったからだと思っていた。それがどうも違うらしい。少なくとも良子の落ち込んでいた理由と、彼の理由は異なるようだった。 「それじゃ、コウくんが元気がないのはどうして?」 「考え事をしていたからだよ。良子のことも関係なくはないが、根本的には違う」  そう語る港は、普段の彼だった。少しだけ元気がなかったが、近寄りがたい雰囲気はなかった。 「相談、のるよ?」  優輝は微笑んで申し出たが、彼の答えは知っていた。きっと―― 「ああ、大丈夫だよ」  やはり、と彼女は寂しくなる。結局、誰も彼の中には入れないのだ。たぶん、幼なじみの彼女以外は。  隣の少女の様子には気づかず、港はまた空を見上げた。雲は迅く、日差しはまぶしい。 「何かを……何かを忘れているんだよ……。少し思い出せたはずだったのに……」 「コウくん……」  遥か昔に還っていこうとする港に、優輝は寂しかった。自分をおいていってしまう彼を、つなぎとめる言葉が思いつかなかった。  けれど、言葉はなくとも、現実に立ち返らせる方法はあった。彼女はそれを実践した。 「堅焼きハンマァァァー!」  堅焼きせんべい二〇枚入り袋が、港の脳天に炸裂した。 「ぐあぁぁぁぁ!」  彼の絶叫とせんべいの粉砕する音がこだまする。 「良子をいじめた罰だぁ!」 「ふざけんな、うるち! マジでいてぇぞ!」 「痛くなければ罰じゃない!」 「おまえなぁ!」  優輝は呆気にとられながら二人を見ていた。今や動物同士の抗争になりつつあった。 「コウ」  だが、動物ではない証拠に、港とうるちは四人目の声で動きをとめた。うるちは鼻をつままれ、港は頬を引っ張られた形だった。 「ひょうこ……」  頬が伸びているために息のヌキが悪いらしく、港は「良子」と正確に発音できなかった。 「ごめんね」 「はんではやま……ええい、放せ!」  彼はうるちを振りほどいた。 「なんであやまるんだ。おまえは別に悪くないだろ」 「でも、気に障ったんでしょ。だから……」 「ああ、いま思い出して気に障った。おまえ、オレの起こすために朝練までサボることになってただろ」 「え、あ、うん……」 「それが気に入らないんだ。そういうのが嫌いだと知ってて、おまえはそれをやる。いいかげんにしろ」 「うん、ごめんなさい」 「だからあやまるな。オレは別に、おまえが迷惑だとか嫌いだとか言ってないんだ。いつまでもウジウジしてるな! わかったか」 「わ、わかった……」  良子は機械的にうなずいた。 「なんでそんなに偉そーなの? どうみても良子のが偉いのに!」  うるちが港の頬を再度つかむ。 「うるはい、ほーいわなひと、あのハカはわはんなひんだお!」 「キャハハハ、だおってなに? ヘンな語尾をつけないでー」 「ほいつ!」 「はえー」  動物のじゃれあいのような取っ組み合いを見ながら、良子は寂しさを感じた。これでもう、彼は自分から完全に離れていくのだろう。かつての予感が、実現するのだ。彼は気づきはじめている。かつての自分と、今の自分の差に。それが解決したとき、自分もまた還るのだろうか、あの頃の自分に。それとも――  優輝が良子に近づき、「よかったね」と微笑んだ。 「うん」  良子はそう答えていたが、本当のところはわからなかった。ただ、もうしばらくはこの生活が続けられるはずだった。彼の隣が埋まるまでは。  「あー!」港は問題の解決に伴い、重要な作業を思い出した。 「こんなことしてる暇はねぇ! メシを忘れていた!」  うるちを投げ飛ばし、時計を確認する。昼休みは、あと一〇分ほどしかなかった。 「あ、あたしたちもだ。じゃ、戻るね。優輝、いこ」 「うん」  良子と優輝はニコやかに去っていった。 「あたしも……」  きびすを返すうるちの襟を、港は握力五八キロで掴む。 「今さら購買に行ってもおそらく何もない。そこで津川君!」 「あえー……」 「その嫌そうな眼はなんだ! それでも心の友か!」 「ふつー、心の友を投げ飛ばしたり、片手で吊り上げたりしないよ」 「ハッハッハ、まぁ、座りたまえ、津川君!」 「あえー……」  半ば強引にベンチに座らされ、港も腰をおろした。 「じゃ、仲良く日向ぼっこをしながらせんべいでも食べるか!」 「あえー……」  港はうるちにかまわず袋を開け、砕けていた堅焼きせんべいをかじりはじめた。 「さすが津川屋のせんべいだ。うまい」 「あえー、あたしのご飯……」 「心配するな、明日オレの弁当をやるから」  港はノリだけで空約束をする。うるちの眼が輝いたことにも気づかなかった。 「本当?」 「ああ、もちろんだ。カキピーサンドでもイカフライコロネでも何でもいいぞ」 「そんなのヤだよ。どうせならちゃんとしたお弁当がいい」 「ちゃんとした? 温か弁当カッコ三九〇円カッコトジか?」  港はボリボリと食べながら、聞き返した。 「違うよ、当然コウの手作りだよ」 「なにぃ! 堅焼きせんべい数枚分で何でそうなるんだ!」 「あたしのご飯にはそれだけの価値もないってことなんだ……」  うるちが落ち込むと、彼としても罪悪感が湧いてくる。一方的に食べているだけに、弁明のしようもない。 「わかったわかった。期待はするなよ」 「え、いいの?」 「オレは約束は守るほうだ」 「ときどき破るんだね」 「おまえな、そんなこと言うと今の約束を破るぞ」 「わ、ウソウソ。コウは正直者だー。ウオーウオー」 「はったおしたくなるのはなぜだろう……」 「ジョーダンだよ。期待してるからね」 「わかった、胃腸薬を持参で来るがよい」    「あれ?」中庭を見下ろしていた一人の女子生徒が、珍しいものを見つけて声をあげた。 側にいたもう一人の生徒が、自然の流れで「どうしたの?」と訊く。 「うん、あそこにいるの、ウチのクラスの津川なんだ」 「津川さん? 友達なの、聡子ちゃん?」  畑野聡子は、尋ねてきた竜堂舞美に首を振った。 「違うんだけどね。……そっか、あんなところにいたんだ。でも楽しそうでよかった」 「うん?」  舞美は親友の様子を不思議そうに見つめた。聡子はとても嬉しそうな顔をしていたからだ。 「あれ、でもあのとなりの男子はたしか……」  今度はいぶかしむ聡子であった。  港は結局、放課後まで眉根を寄せて過ごすことになった。今度の原因は明日の弁当である。  自身の料理の腕もさることながら、食べる側が喜ぶメニューもわからなかった。まさかせんべいを砕いてフリカケご飯、というわけにもいかないだろう。 「えっと、昼休み終わってからもずっと唸ってるけど、どうしたの?」  優輝が代表で尋ねる。良子は朝からの続きかと臆病になっており、正義はただ面白そうに推移を見守っていたからだ。 「弁当なんだよ」 「お弁当? ……お弁当、いるの?」 「オレじゃなくて、うるちな。昼にあいつのせんべいを食ってしまって、かわりに弁当を要求された」 「あ、そうなの」  良子はホッとして会話に加わった。 「購買でも売ってるじゃない。悩むことないでしょ」 「それがな、手作り希望なんだよ。オレに弁当を作れというのか! 言うんだよ」 「一人でボケツッコミしないでよ」  良子は呆れたため息を吐きだす。 「コウくん、作るの?」 「約束だからな。で、何を作ればいいのか、困ってるわけだ」 「そうなんだ……」  優輝は自然と手を強くにぎっていた。哀しいより、悔しい気持ちだった。 「そもそもおまえ、何が作れるんだ?」 「そうだな、セイギの丸焼きくらいだな」 「そしてオレはうるちちゃんにおいしく食べられるわけか、ヤフゥ!……って、オレは変態か!」 「恥ずかしいボケをありがとう。お笑いの魂を見たよ」  港が親指を立てると、正義もそれに応えた。 「冗談はともかく、悩んでもしかたないでしょ。うるちちゃんだって大きな期待はしてないと思――」 「あー、コウ、明日期待してるよー!」  開け放たれていた扉の向こうから、うるちが手を振っていた。晴れやかな笑顔だった。 「うるさい、帰れ!」 「あーい、まったねー!」  うるちは素直に退散していった。 「めちゃくちゃ期待してたわね」 「あいつ、面白がってるとしか思えん」 「期待されてもねぇ……。一朝一夕でできるものでもないし、ま、がんばりなさい」 「だよなー、買い物でもしながら帰る」  港は疲れたように教室を出て行った。 「いろいろ言ってても、楽しそうだったよね」  優輝はもう見えない背中に向けてつぶやいた。 「そうね。あたしだってコウのお弁当なんて食べたことないのに」  良子は彼女のために、わざとらしくおどけてみせた。 「へぇ、良子ちゃんでもないのか」  正義の言葉を受け、良子はうなずく。 「食べたいとも思わないけどね。あれは食材に対するボウトクよ」  「それでも……」優輝は続きを言わなかった。不意に立ち上がり、笑顔で二人に手を振る。 「また明日ね」  優輝に応え、良子と正義も手を振り返した。 「……しかしなぁ、優輝ちゃんはあんなののどこがいいんだ?」 「へ?」 「オレだけ蚊帳の外はないだろ。こんだけ近くにいるのに、ほとんど第三者の眼で見てるんだぜ?」 「ふ〜ん。須藤くん、興味あったんだ?」 「ありますよー、良子ちゃんの行方にも」 「なによそれ」  良子は不機嫌な声を出した。 「いやいや、悪くとらないでくれ。これでもオレたち、中一からの付き合いだろ。知りたくなくてもいろいろ見えちゃうんだよ」 「そっか、そうよね」  かれこれ四年になる。あの頃も四人でよく遊びにいったものだった。あとの一人は、ここにはいない。 「優輝のことはタデ食う虫ってことでいいと思うけど、みなみちゃんとかってどうなの?」  良子は特徴的な長いポニーテールを思い出した。 「あー、あのコは免疫なさそうだからなぁ。彼女にしてみりゃヒーローってやつかな。でもコウのほうにその気はなさそうだし」 「そうなの?」 「最近聞いたんだけど、彼女、家の都合で退学させられそうだったんだと。それでいろいろと手を貸してたらしい。それも先週にはカタがついたとかで、落ち着いてるよ」 「それはよかったわね。コウでも役に立つんだ」 「まぁ、あいつは自分のためにはがんばらないヤツだからな」 「アハハ、そうね」 「問題はうるちちゃんのほうだけど、でもあれは……」 「バリバリの友達でしょうね。馬が合うっていうのはああいう関係ね」 「だよな。それ以上には絶対見えないし、進展もなさそうだ」 「そうね……」  良子は答えつつ、遊園地に誘ったときの彼女を思い出した。彼女は自分を抑え、けして必要以上の枠から出ないようにしていた。まるで自分は幸せになってはいけないと思いこんでいるかのように。もしくは、他の誰かの幸せを壊さないようにするために。 「まぁ、もしうるちちゃんがその気になったとしても」 「うん?」 「優輝ちゃんのが優位だよな。なんたって基本スペックが違うし」 「セクハラよ、それ」 「まぁまぁ、ここだけの話で。オレなんかに言わせれば、さっさと告白でも何でもすればいいと思うんだよ。でなきゃ、あのバカはわからないんだからさ。良子ちゃんだって協力してるんだろ?」 「ま、ね。優輝が本気ならいくらでも協力するわよ。でも、こないだの遊園地でも結局ダメだったのよねぇ」 「わざわざ観覧車に二人で押し込めたのにな」 「なんかね、優輝には優輝で迷いがあるみたいなのよね。はっきりとは言わないんだけど」 「良子ちゃんに遠慮してるんじゃないの?」 「だから、あたしはもう関係ないの! やめてくれる、掘り返すの!」  良子は本気で怒っていた。 「優輝ちゃんの立場から見てだって。気に障ったならあやまる。……けど、だとしたら、何を迷うんだろうな」 「さぁ、優輝も肝心なところは話してくれないから」 「どうであれ、うらやましいヤツだな」  正義はカバンをフックから外した。 「帰るの?」 「ああ、結論はでそうにないしな。オレは面白おかしく傍観してるほうが好きなんで」 「優輝のこと好きなら、それこそアタックしたら?」  「ぶほっ!」正義は噴いた。 「長々と話をしたのは、その探りじゃないの?」  良子がいやらしい笑みを浮かべると、彼は苦笑した。 「アッハッハ、バレてしまったか。けど望みはなさそうだからあきらめた!」 「根性なし」 「アッハッハ、そのとおりだ。かわりに良子ちゃんにアタックだ!」 「本気で?」  良子は哀しんでいいのか微笑んでいいのか迷った表情をしていた。 「……冗談」  正義は吐息して、歩いていく。 「残念」 「本気で?」 「ん、どうだろう」  正義は彼女の答えを背中で聞いていた。 「おたがいにさ、いろいろありすぎたんだよなー」 「だね」 「じゃ、またなー」  結局、彼は一度も振り返ることなく教室を出て行った。  最後の一人になった教室で、良子は港の席に座る。中庭がよく見えた。その奥ではサッカー部がボールを追いかけている。一際小さな部員が、インターセプトからそのままドリブルで駆け上がっていた。静か過ぎる教室に、「草野をとめろー!」という声まで届いた。  ボールの行方がわかるまで、ここに座っていようと良子は思った。  翌日、港は自分で仕掛けた目覚ましどおりに起きた。クセで周囲を見回したが、幼なじみはいなかった。彼が望んだことではあったが、調子を戻すにはしばらくかかるような気がした。  冷蔵庫をあさっていると、廊下から良子の「行ってきます」という声が聞こえた。港はキッチンの窓を開け、「よぉ」と声をかける。 「あら、おはよう。ちゃんと起きれたんだ?」 「当たり前だ。言った以上のことはやる。おまえは朝練か?」 「うん」 「がんばれよ」 「ありがと、じゃね!」  良子は機嫌よくエレベータへと走っていった。  港は見送りを終えると、きのう買い置きした食材を並べる。 「さて、とりあえずは……」  朝食と昼食の作成がはじまった。 「コウ、四時間目終わってるわよ」 「うあ、そうか……」  良子に揺り起こされた港は、あくびを漏らしながら大きく伸びをした。 「……三時間目までは堪えられたんだけどなぁ。古文はキツかった」 「早起きした意味がないじゃない」 「ん〜、今日だけだ。カンベンしてくれ」 「早起き?」  眼をこする彼に、優輝が尋ねた。 「ああ、きのうの約束を守るためにな」 「約束……? あ、お弁当?」 「そう、それだ」  港は大口をあけてあくびをした。 「ああ、どうりで。ヤケに早いとは思ったのよ。でも本当に作ってくるなんてね」  良子が納得顔でうなずいた。 「当たり前だろ。約束した以上は守る」 「殊勝な心がけね。で、何を作ってきたの?」 「それは秘密だ」  彼は二つの包みを持って立ち上がった。 「あれ、どこ行くんだ?」  購買のパンを持った正義と、教室の入り口でぶつかった。  港は「メシを食いに」と答えて去っていく。 「照れくさいから逃げたのよ」 「あー、そういうことか」  自分の席に着きながら、正義がニヤリとした。  優輝だけが、沈んだ顔をしていた。 「ほれ、約束のブツだ」  場所は屋上・貯水タンク前。天気は上々とはいえないが、風がないぶん暖かだった。 「うわぁ、ホントに作ってくるとは思わなかったよー」 「オレはホントに胃腸薬を持ってくるとは思わなかったよ」  うるちの脇には緑ラベルの胃腸薬のビンが、お茶缶といっしょに並べられている。しかもお徳用LLサイズだった。 「あえ? 持ってこいって言ったじゃん」 「そうなんだがな……」  こぼす彼にかまわず、うるちは包みを広げた。 「うわあ、デッカイねー」 「ああ、おまえならそれくらい必要かと思ってな。上がおかずで下がメシだ」  縦二五センチ、横一八センチ、深さ三センチの容器が二段。港自身でさえ、これだけの量を食べられる自信はない。 「あたしだって食べきれないよ」 「食え。それが心意気というものだ」 「うー、わかった」  うるちは素直に箸を割った。  「中身はなにかなー?」と、フタを開ける。 「おおおお、カロリー満載だー!」 「うむ、エネルギー消費量の激しいうるち専用弁当だ。これを食べれば二日はキャハハ笑いをとばすことが可能だろう」 「よくわかんないけど、いただきまーす」  うるちは第一撃をおかずパックに突き立てた。 「オーソドックスなスジ入りウィンナー」 「うむ、ただ油で炒めただけだ」 「うふふふ」 「食べながら気持ち悪い笑みを浮かべるな」 「だって嬉しーんだもん」 「そうかそうか、誰もとらないから味わわずに食ってくれ」 「あーい」 「……そこはツッコムとこだろう」  けれど幸せそうなうるちは、聞いてはいなかった。 「高カロリーシリーズ第二弾、どう見ても冷凍コロッケ・カニクリーム風味!」 「ああ、そうそう、冷凍だよ」 「ホムホム……」  うるちはコロッケを半分に切り、口におさめる。さらに下段パックの海苔弁に箸をいれ、かつて香ばしかったご飯を追従させる。 「海苔とおしょうゆおいしいねー」 「そりゃ、オレが作ったワケじゃないからな」 「そだねー」 「コイツは……」 「さてさて続いては、おおっとこれもカロリーびっくり、チキンナゲット・マスタードつき! やはりこれも冷凍品だぁ」 「よけいなお世話だ、黙って食え」 「えへへへ」 「聞いちゃいねぇ」  それから三〇分かけて、うるちは実況を交えて弁当を平らげた。 「うう、苦しい……」 「あれだけ食えばあたりまえだ。よかったな、胃腸薬が役にたって」  「嬉しくないよー」と、言いつつもうるちは錠剤を飲んでいた。 「今度は今日の半分くらいでいいよ」 「次があるか!」 「むむぅ……」  うるちはふくれていたが、すぐに真顔になった。 「ありがとね、コウ。ホントに嬉しかったよ」 「真顔で言うな」 「えへ。でもホントに、嬉しかったんだぁ」 「冷凍モンを詰めただけじゃねーか。オレのオリジナルは卵焼きくらいだぞ。しかもダシなし卵だ」 「うん、でもあれが一番おいしかったよ。コウの好みって、あんななんだね」 「激しく誤解だ。その程度しか作れないってだけだ」  うるちは「あははは」と笑った。いつもの騒がしい『キャハハ笑い』ではなかった。  しばらくして笑いをおさめたうるちは、また真剣な表情になった。横顔が、寂しげに下をむいていく。 「……あたし、ウルサイでしょ?」 「なんだ、今頃気づいたのか?」  港は冗談めかして言ってみたが、うるちのほほえみに明るさはなかった。 「あたしさ、すぐ調子にノっちゃうんだよね。楽しいことがあると周りが見えなくなって、気がつくとみんなひいてるの」 「ああ、それはわかる」 「それにいっつもおせんべい食べてて、遠足のお弁当にだって持っていったことあるんだよ。ヘンなヤツだよねー」 「それが、どうしたんだ?」 「コウはそう思わないの?」 「思わないこともないが、だからどうしたってカンジか。オレのなかでうるちとはそういうヤツだって記憶されてるしな」 「そっかぁ」 「今さらながら、そんな自分がイヤにでもなったか?」 「イヤってことはないんだけどねー。ただ、普通とは違うかなーって」 「普通ねぇ……。オレはおまえがうるちだから、こうしてるんだけどな」 「え?」 「こういう状況にでもならなきゃ、オレが誰かのために早起きして弁当作るなんてことは絶対になかったはずだ」 「そなの? 優輝とか良子に作ってあげたことないの?」 「あるわけないだろ。オレの初弁当を食べれたことを光栄に思え」 「あやぁ、それは名誉だね」 「まぁ、腹が壊れそうなほど食わされるのがいいのかどうかは別だがな」 「うんうん、そだねー」  苦しいお腹を思いだしたのか、うるちは強ばった顔でお腹をおさえた。 「あのさ、コウ」 「うん? 腹痛いなら保健室で寝てろ」 「違うよ。……ありがとう」 「……さっきも聞いたぞ。気持ち悪いヤツだ。真顔で何度もお礼をいうとは」 「今のは違うお礼だよ!」 「礼などいらん。かわりに次はおまえが弁当当番だ」 「あえ? コウ、ゲテモノ好き?」 「そこまでダメなのか、おまえは!」 「試してみる?」 「……やめとく」 「キャハハハ、正か――ウグ!」  うるちは食べ過ぎのあとの急激な爆笑に腹が痛くなったらしく、床にうずくまった。 「アホかおまえは。落ち着いて寝てろ。なんなら保健の先生呼んできてやるから」 「ううう……。食べ過ぎで保健の先生のお世話になったら、あたしもう学校来れないよ……」 「大丈夫だ、オレもいっしょに笑ってやるから」 「コウちゃん、イジメっこだ……」  港は不謹慎にも、苦しそうなうるちを見てて笑いそうになった。それをごまかすためか、彼は上着をぬいで、その上にうるちを寝かせてやった。 「弁当箱をマクラにして、少し寝てろ」  「あ〜い」と、答えるうるちの声に、チャイムが重なる。  五時間目がはじまろうとしていた。 「コウは戻ったほうがいいよー。あたし、五時間目パス」 「バカ、連帯責任でオレも休む」 「あえ?」 「ま、たまにはこういう日があってもいいだろ」  うるちはとなりに寝転がる彼を横目で眺め、それから空を見た。 「そだねー。たまになら、いいね」 「そうそう」  雲の多い空だった。が、うるちの明るい声に負けたのか、うっすらと光をさしこませていた。  二人にはけっこう楽しい時間だった。今だけしか味わえない、とっておきの時間だった。