「Pure☆Colors」 第七話  学校に到着した港を、みなみが待っていた。自転車置き場を選んだのは、人目を気にしているからだろうか。良子が道場に寄るために足早に離れると、彼女は近づいた。 「あ、あの、きのうのことですが……」  港は無視して彼女の脇を抜けた。聞きたくはなかった。もう彼女には関わらないと決めていた。関われば、また北斗に狙われるだけだ。いいことなど一つもない。 「あ、あの……」  みなみは彼の背中を見送るしかできなかった。哀しすぎて、涙があふれた。  次に彼女が現れたのは二時間目終了後だった。  前授業の数学に眠気を感じて大アクビをする港に、トイレに行っていた正義が呼びかける。 「コウ、みなみちゃんが話があるってよ。今、廊下にいる」  港はチラリと半開きのドアを見た。たしかに彼女が不安そうな顔でたたずんでいた。 「悪い、断ってきてくれ。オレはもう、関わりたくないんだ」 「オイオイ、せっかく訪ねて来てくれた女の子に、それはないだろう」 「そうよ、断るにしても、自分で言いに行きなさい」  優輝とおしゃべりをしていた良子が、二人の話に割り込んできた。 「事情も知らないヤツが首をつっこむな」 「何よ、その言い方」 「オレ自身に言ったんだよ。そういうことしてると、ロクな結果にならないってわかったのさ」  港はもう話すのさえおっくうになって、机に顔を伏せた。  正義と良子がため息を漏らす。そのそばでは、優輝もまた、彼のらしからぬ様子に顔を曇らせていた。 「それじゃ、そのまま伝えて来るぞ?」 「ああ、頼む」  正義の気配と足音が遠ざかるのを、彼は伏せたまま見送った。  良子は他人事とはいえ、まだ割り切れないでいた。 「あのコでしょ? こないだの待ち合わせの相手って。それに風邪薬をくれたってコ」 「……だから?」 「もう、とりつく島もないわねぇ。女の子相手にケンカするなんて、アンタらしくないわよ」 「……ケンカのが千倍もラクだ」  良子は港に違和感を覚えた。彼がここまで落ち込むのは、珍しかった。自分の力が及ばないとき、迷っているとき、彼はこうしてふてくされて落ち込んでいた。 「ま、意地をはっていろんなことを見落とさないようにね」  港には、そんな忠告さえも鬱陶しさを感じた。 「コウちんコウちん!」 「その呼び方はやめろ」  昼休み、毎度のごとくとなりのクラスから出張してきたうるちが、弁当のせんべいを机に置くより早く彼の肩を揺さぶった。 「あたしと同じくらいカワイイ女の子が、今さっきこれをコウに渡してくれって」  うるちは一通の封筒を差し出した。裏返してみたが、差出人の名前はない。 「誰だよ?」 「だから、あたしと同じくらいカワイイ娘だってば」 「つまり、おまえよりカワイかったんだな?」 「むむぅ、そうとも言う……」 「自分で言ってて虚しいだろ?」 「……うん」 「気にするな、よくあることだろ。で、特徴は?」  「慰めになってないよ……」と落ち込んだが、すぐに復活するのがうるちの長所であった。 「えとー、背丈があたしよりちょい高くて、でも細身かなぁ。んでスッゴイ長いポニーテールだったよ」 「ああ……」  港はすぐに思い当たり、手紙をポケットに押し込んだ。 「あえ、読まないの?」 「いいんだ」 「コウちゃんが女の子を無下にするなんて、病気じゃないの?」 「何事にも例外はあるもんだ」 「ふ〜ん……」  港は一同の視線を無視して、パンを買いに教室をでた。 「これで三度目……。もういいかげん来ないだろう」  港自身、胸の奥でわだかまる不快感があった。けれどそれを払拭する方法が、彼にはわからなかった。  そのまま彼は、昼休みの間、教室には帰ってこなかった。  最後の授業が終了した。ホームルームも終わり、一斉に席を立つクラスメイト。明日からはゴールデンウィーク後半戦、三連休であった。 「あ、ねぇ、みんな」  優輝のいう「みんな」とは、港と良子、正義に対してだ。 「あさって、遊園地行かない?」 「遊園地……?」 「去年の今頃みたいに、四人で」 「ああ、なるほど」  去年の今頃、四人は親睦会と称して遊園地へ行った。そのとき「来年も行こうね」と優輝と良子が話していたのを港は思い出した。 「賛成賛成。去年の借りも返さなきゃな」  率先して賛成したのは正義だった。 「またオレにゲームで負けて、オゴリたいらしいな」 「今度は負けねー」  おたがいにニッと笑う。  二人のやりとりに顔をほころばせ、良子も賛同を示した。 「みんなオッケーみたいだから、あさってということで決定ね。時間はどうする?」 「んー、九時に駅の改札でどうかな?」 「了解。二人とも、手に書いておきなさいね」  「なんで手なんだよ」不思議に思い、港が訊きかえす。 「いちばん目につくし、それに二人は手を洗わないから」 「洗うわ!」 「そ。なら脳ミソにちゃんと刻み込んでおいてね」 「それじゃ、あさってね。バイバイ」  優輝は話が決まったとみて、美術室へと向かった。  続いて正義が「じゃな!」と手を振って去って行く。 「良子もこれから部活だろ? 急がなくていいのか?」 「そのまえに、アンタに言っておくことがあるのよ」 「なんだ? ちゃんとメモは取ったぞ」 「その話じゃないわ」 「それじゃなんだ?」 「……もう覚えてないかも知れないけど、アンタ、昔はよくあたしを助けてくれたわよね」  良子は真剣な顔だった。  港はあまりの唐突さに戸惑った。それに、記憶がない。 「そうだっけ? 助けた覚えなんてないんだがな……」 「昔はあたし、よくイジメられてたでしょ? そのいじめっ子からかばってくれてたじゃない」 「あーあー、そんな時代もあったな。でもそれは助けたわけじゃないぜ」 「そうなの?」 「言い方が悪いか。『助ける』とかそういう意識はなかったってことだ。オレにとってそれが当たり前とか思ってたからな」 「そう……」 「それで、そんな過去を引きずり出してどうしようってんだ? 別に今さら恩を返せとか言わないぞ」 「言わないでしょうね。アンタはそういう人だもの」 「……なんなんだ?」  話がつかめなくて、港はだんだん不機嫌になってきた。 「あたしが今でもそう思ってるってだけの話。バカでもグウタラでもいいけど、あのころの気持ちだけは忘れないでいてよね」 「はぁ……?」 「アンタはね、不器用なくらいまっすぐでいればいいのよ。そういうところをちゃんと観てる人だっているんだから」 「ちょっと待て、わかるように一から説明を求む」 「わかんなきゃ、考えるのをやめちゃいなさい。それじゃね!」 「お、おい!」  良子は自分だけすっきりとした顔で出て行った。 「まぁ、みなみちゃんのことを言ってるんだろうけどな」  休み時間と昼休みと、同じ人間の、しかも女子生徒からの話を無視した場面を見ていたのだから、良子としては黙っていられなかったのだろう。その気持ちはわかるが、港には余計なお世話だった。自分にも正当な理由があっての行動なのだ。事情も知らずに首を突っ込むのはやめてほしかった。  でも―― 「本当に正当な理由なんて、あったのか……」 「ないない、ぜ〜んぜんないよ」 「うお!」  廊下を歩いていた港のとなりには、いつの間にかうるちがいた。 「コウに正当な理由なんてあるわけないじゃん! いっつもワガママ自分勝手な正義を振りかざし、悪いヤツらをバッタバッタ……て、何の話?」 「オレが聞きたいわ!」 「あえ? 自分でもわからない話をしてたの?」 「おまえが、おまえがわけわかんないんだ!」 「あえ、おまえって二度言ったよ。そんなに強調しなくても」  港は脱力した。のれんに腕押しとは、こういう状態をいうのだろう。 「……まぁいい、何のようだ、うるち」 「別に。ただコウが暗〜い顔して歩いてたから」 「そうか。じゃあな」 「あえ、自転車で送ってくれないの? おせんべいあげるからさ〜」 「悪いな、そんな気分じゃない」  「あえ〜」と批難の声を漏らしてみても、港はとまらなかった。 「ありゃ、重症だなぁ、コウちゃん。いつもみたいに思ったことをやればいいだけなのにね」  うるちは首をかしげ、早くいつもどおりの彼に戻らないものかと思った。彼女にとっての唯一の楽しみは、昼休みの食事どきだけだった。その時間を取り戻すためには、港は必要不可欠の要素なのだ。 「ホント、そう思うわ」 「あや、良子! なんでそんなところに?」  階段の脇から現れた良子に、うるちは本気で驚いていた。 「うん、まぁ、あなたと同じ、かな」 「そっかー、おたがい大変だねー」 「別にあたしはいいんだけど、あのみなみちゃんってコが気の毒でね。何とかなればいいんだけど」 「あとはコウしだいだねー。あたしたちの話なんて、聞こうともしないし」 「そうね」 「じゃ、あたしも帰るよ。まったねー」  「あ、待って」背中を見せるうるちに、良子が声をかける。 「あさって、みんなで遊園地行くんだけど、いっしょに行く?」 「あえ、ホント?」  うるちは一瞬眼を輝かせた。けれど、一瞬だった。 「……それって、いつもの四人でしょ?」 「うん、そうよ。だから気兼ねはいらないわよ」  うるちは寂しそうに微笑んだ。 「……じゃ、やめとく」 「なんで?」 「あたしは行っちゃいけないんだよ。良子だって、本当はわかってるはずだよ。でも優しいから、わからないフリして誘ってくれてるんだよね」 「……」  良子は答えなかった。否定もしなかったのは、うるちの言葉の意味を理解していたからだ。 「ありがとね、良子。あたしは楽しいのが好き。でもそれ以上はいらない。だから、また今度」 「そっか。ゴメン、余計なこと言ったわね」 「あえ、あやまる必要ないじゃん。良子は誘った。あたしは断った。それだけだよ」 「うん、ありがとう。いつか、いっしょに行こうね」 「うんうん、そのときは良子のお弁当を楽しみにしておくよ。それじゃ、ばいばーい」  去って行く少女の背中を眺め、良子はため息をつきたくなった。良子はうるちという少女を見誤っていた。もっと単純で、楽しいことが大好きで、まわりの眼さえも気にしない自由奔放な人間だと思っていた。なんという浅い観察眼だろうか。彼女は深かった。もしかすると自分より、優輝より、もっともっと…… 「みんないろいろ、悩みがあるんだ……」  良子は首を振り、今度こそ部活へ向かうために階段を降りはじめた。  家に戻った港は、行動する気力がなかった。部屋で寝転がり、側にあった雑誌などを読んだが頭には入らなかった。  気がつけば夜もだいぶ更けていたが、食欲すらわかずにそのまま眠りに付いた。  同じ時刻の三元流宗家の屋敷では、みなみもまた部屋に閉じこもり、日頃の鍛錬すら行わなかった。父親の叱咤にも耳を塞ぎ、ただただ部屋の隅でうずくまっていた。 「北斗、どういうことか?」  みなみの父で現・三元流頭首、東連刻は、部屋に彼を呼んで詰問した。 「は。おそらくは例の少年とのいざこざかと」 「みなみには近づけぬようにしたのだったのな?」 「はい、それが逆にみなみを孤独にしたのやも知れませぬ」 「孤独とな? 忍びが孤独であって当然ではないか。何を甘えておるのか」  連刻は、みなみに叱責を与えるべく、立ち上がった。  北斗が素早く回りこみ、足を止めさせる。 「御館様、おやめください。みなみはみなみなりに精進しております。まずは結果を見て、それからご判断くださいますよう」 「試験は予定通り行え、というのか? だが、結果は見えておろう。あやつは幼少の頃の腑抜けさがまだ抜けておらぬ。他の検分役の前で恥をかくだけだ」 「そこまでおわかりで、何ゆえ跡目になさろうとするのですか? 腑抜けならば腑抜けらしく、外野に投げ捨てればよろしいではないですか」  「ム、ヌゥ……」連刻は唸った。その答えなき返答で、北斗は頭首もまた、気持ちを同じにしているのを知った。 「三元流を絶やすわけにはいかぬ。門下一二七名とその家族の道を、ワシの個人的感情で始末してはならんのだ」 「承知しております、御館様。そのために、わたしはここにおるのです」 「そうか……。もうワシは何も言わぬ。任せたぞ、北斗よ」  北斗は深く頭をたれた。このとき、北斗の優先事項は宗家の安泰から、東家の平和に切り替わっていた。みなみと連刻という、親子の心を知ってしまった彼の義務であった。しかし何よりも、それを望んでいたのは彼自身であった。  北斗は退出すると、みなみの部屋の前に立った。 「試験は七日正午より行う。しかと伝えたぞ」  しばらく待ったが、みなみからの返事はなかった。余計な一言と知りつつ、彼はつぶやいた。 「……あの男の努力は無駄であったか」  部屋の奥で、みなみが身じろぎした気配を感じる。  その反応に満足し、北斗は音もなく闇夜に消えた。 「さて問題はあの男だ。みなみの眼が間違っておらぬならば、あの男は立つはずだが……」  明けて五月三日は、憲法記念日である。しかしながら憲法の意義を理解しきれないでいる結城港にとって、この日はただの休日であり、無気力に過ごしても文句を言われない貴重な日であった。  昼過ぎ、港は空腹を知った。考えてみれば、昨日の昼以来、何も食べてはいない。  面倒くさげに起きて、冷蔵庫をあさる。調理しなければ食べられないものばかりで、しかたなく牛乳だけ一パック飲み干した。 「メシでも食いにいくか……」  適当に身だしなみを整え、外へ。今日は日差しが強かった。泳ぐにはちょうどいい日取りではないだろうか。  彼はかぶりを振った。なぜプールが頭に浮かぶのだろう。  自転車をこぎだし、商店街へ。が、彼の足は途中で道を違えた。  着いた先は屋内プール場だった。 「なんだってオレは……」  自分の行動がわからない。本当におかしくなったのではないかとすら思える。 「いいかげんにしろよ!」  何に対しての怒りなのか、それすらもわからない。みなみに対しての憤り? それとも北斗に対する嫉妬? 違う、二人とも悪くはない。だったらこの不愉快さはなんなのだ! 「……もう、いいだろ、オレ。いつまでこだわってんだよ。もう終わったんじゃないか」  港は心を投げ捨てるように、自転車のペダルを強く踏んだ。    商店街でハンバーガーを食べ、ゲームセンターにしばらくこもった。パンチングマシンで自己ベストをたたき出したとき、浮かんだのはみなみを振り切ったときの自分の姿だった。 「ダメだ、帰ろう……」  気乗りしないときは大人しく寝てしまえばいい。それは彼が経験から学んだことだった。それに明日は優輝たちと遊園地へ行く。きっと楽しいだろう。すべてを忘れるくらい、はしゃぐのもいい。そう考えると少しだけ気分が晴れた気がした。  信号にひっかかり、ぼうっと待っていると、反対側の歩道に変わった髪形を発見した。  信号が変わると同時に、彼女に向けて加速する。 「村雨さん」  村雨かぐやは有明高校の制服姿だった。両手には三つの紙袋を提げ、両肩にもカバンがぶら下がっている。 「あ、こんにちは」 「またスゴイ荷物だな。どこに行くんだ?」 「学校です。新しい部室ができたので、新規で道具を買いそろえてきたんですよ。それをこれから搬入しようと」  その報告は、港の心に明るい光を灯した 「休みの日にわざわざ?」 「本当は土曜日からなんですけど、無理にお願いして許可をとりました」  かぐやの顔は輝いていた。本当に楽しみなのが言動のあちこちにあふれていた。 「一人じゃ大変だろ。手伝うよ」 「あ、でも……」 「ヒマだし、その格好を見過ごすのも、な?」 「じゃ、頼んじゃいます」 「オッケー。重いやつはカゴに入れてくれ。あと、袋も持てるだけ預かる」 「持てます?」 「これでもオレは昔、チャーリー結城と呼ばれた曲芸師だったんだぞ」  かぐやは意味がわからないなりに笑い、「それじゃお願いします」と答えた。  商店街からならば、学校までは徒歩でもそれほどかからない。  港とかぐやは上履きに履き替え、新しい美術造形部部室に荷物を運びいれた。  内部にはすでに段ボール箱が五つと、長机三本、イス三脚、ロッカー一本が置かれていた。 「家具、少ないな。こんなもので部員分足りるのか?」 「多すぎなくらいですよ。部員はわたししかいないんですから」 「え、そうなの?」 「はい。三年生が卒業して、新入生もいませんからね。紹介ポスターは貼ってありますけど、誰も来ませんでした。このままではさ来年には廃部になるでしょうね」 「それは寂しいな」 「ですね。でも、わたしは勧誘とかしたくないんですよ。楽しいことだからなおさら」  かぐやは一番大きなダンボールを開いた。中にはタンクボンベのような物が付いた器械が入っていた。コンプレッサーと書かれている。  二人で持ち上げて、窓際の机の下に置く。試しに電源を入れたところ、大きな唸り音が響いた。 「前から聞きたかったんだけど、美術造形部なのになんでプラモデルなんだ? 普通の彫刻とかは扱わないのか?」 「先輩たちはやってましたよ。彫刻の鑑賞会とか論文とか」 「そんな堅苦しそうな活動に、なぜ?」 「わたしも入部するつもりはなかったんですよ。でも、昨年も人数不足で困っていたらしく、勧誘されたときにプラモデルは好きですよ、と言ったら、同じ立体造形物だからオーケーだって。それで入ったんです」 「いいのか、そんなので……」 「あはは、おかしいですよね? でも、先輩がたは真剣でしたし、わたしも真剣でした。だから方向性は違っても、応援してくれましたよ。特に色使いなんかには厳しくて、でも勉強になりました。だからわたし、一人でも最後までここにいると決めたんです」 「そうか……」  港は彼女のまぶしさに、憧憬さえ感じていた。何事にも半端な自分を再確認し、寂しかった。  つい意地の悪い質問をしたくなるのは、こういうときだった。他人を貶め、心の平安を求めようとする精神作用が働きかけてくるのだ。港は自分が矮小で、どうしようもないほど弱いという事実を知っている。知っていて、とめられない衝動だった。 「……ゴメン、気を悪くするかもしれないけど、訊かせて欲しい」 「なんです?」  雰囲気の変わった彼に、かぐやは手にしていた塗料ビンを整理せずに机に置いた。 「プラモデルを作って、何になるんだ? 誰からも褒められないし、自慢してもバカにされる可能性のが高い。それなのに、なんでプラモデルなんだ? それこそ普通に彫刻でもやるほうが、周囲の評価だって上がるじゃないか。なのに、なんでだ?」  かぐやは晴れ晴れと即答した。 「作っても何にもなりませんよ」 「え?」 「好きだから作る、でいいじゃないですか」 「……いいのか?」 「ええ、趣味ですからね。それに、何かをするのに見返りが必要なんですか? 褒めてもらったり、自慢したり……あ、自慢はしたくなりますね。褒めてもらえても嬉しいですけど」  かぐやははにかんで頭をかいた。後ろ髪の跳ねが邪魔をして、うまくかけなかった様だが。 「はじめから見返りを求めてやって、それは楽しいことなんでしょうか。本当に自分のしたかったことなんでしょうか。できたものが自分にとってのご褒美で、作っている時が幸せで、わたしはそれで充分ですよ」  かぐやの笑顔に裏はなく、港は心が震えるのを感じていた。自分の愚劣な質問にも、真っ向から答えてくれた彼女に感謝したかった。 「ありがとう、村雨さん。キミには感謝しきれない」 「なんです、それ?」 「忘れていたことがあった。そうなんだよ、オレは見返りが欲しかったんじゃないんだ。ただ……」 「何か迷ってたんですか?」 「ああ、バカみたいに自分の都合ばかり考えてた。だからずっと悔しかったんだ」 「そうですか。それじゃ、もうどうすればいいか、わかったんですよね」 「ああ」  かぐやは港の側にあった最後の段ボール箱を拾った。 「荷物はこれで終わりです。片づけを手伝ってくれてありがとうございました。……行ってください」 「ありがとう、また遊びに来る」 「はい、待ってますね」  港は振り返らず、走った。そうだ、忘れていた。はじめはただ、みなみちゃんの力になりたかっただけだった。それが教える立場になり、自分がみなみちゃんよりスゴイなどと自惚れていたのではないか? 護ってやるなんて、おこがましいにもほどがある。オレはただ、みなみちゃんに学校にいて欲しかっただけなのに。それなのに、いつの間にか見返りを求めていた。彼女の気持ちという見返りを……  今なら良子の言葉の意味を理解できた。彼女は自分を一番よく知っている人間だった。だからこその言葉だったのだ。 『バカでもグウタラでもいいけど、あのころの気持ちだけは忘れないでいてよね』  あのころ。まだ本当の子供で、イジメられっ子だった彼女を守っていた頃。港にとって良子を守るのは、自然な行動だった。善意でもなく、もちろん見返りなんて考えもつかなかった。ただ、彼女がとても大切だった。 「大切なものを護るのに、見返りや理屈を欲しがっていたなんて、オレはホントにバカだ!」  彼はもう、迷わなかった。  全速力で自転車をこぎ、再び屋内プール場へ。駐輪場に自転車を投げ入れ、カギを外しもせずに走りだそうとする。  が、その勢いを北斗がとめた。 「……何の用だ?」 「それはこちらのセリフだ。今さらここへ何の用だ?」 「決まってる、みなみちゃんの手助けだ」 「フン、自ら負け犬のように去った者が、威勢だけはいいな。まさに負け犬の遠吠え」 「なんとでもいえ。オレは、自分のやるべきことをやるだけだ」  北斗を押しのけて進もうとする港。  その腕は、簡単につかまった。 「みなみが望んだとき、ヌシは逃げたはずだ。助けを求める声を無視したはずだ。みなみはもう、ヌシなどに頼りはせぬよ」  「……だとしても」港は拳を握った。力任せに北斗の手から逃れようとする。しかし、絶対体力の差は気持ちだけではいかんともしがたかった。 「だとしてもそれを言うのはおまえじゃなく、みなみちゃんだ。彼女が望まないなら、オレはただ詫びて、それこそ負け犬のように帰る。だけど、もしこんなオレでも許してもらえるなら、オレは、もう二度と彼女を見捨てたりなんかしない」 「それでヌシにどれほどの得がある? みなみが頭首になろうとなるまいと、ヌシには何の利益ももたらさぬぞ」 「得? 利益? そんなのはじめからいらないんだよ。オレはただ、みなみちゃんが幸せな学校生活をおくれればそれでいいんだ。オレ自身の気持ちなんか、関係ないんだよ!」  港はまたも力任せに腕を振りぬいた。今度はあっけなく、北斗の呪縛から解放された。 「ヌシの覚悟はしかと聞いた。行くがよい」  北斗は背中に担いでいた黒いバッグを港に投げた。 「なんだよ、これ」 「ヌシは裸で泳ぐつもりか?」 「あ」 「これはヌシの心意気に対する褒美だ。あとは任せる」 「おい、どういうつもりだ!」 「わたしは結果を見届けたいだけだ。克服できるもよし、できぬもよし。あとは天運に任すのみ」  北斗は消えた。 「……わけわかんねぇ」  港は北斗のいた場所を凝視していたが、事を思い出して急いで場内に入った。  水着は北斗の厳選なので、フンドシもありえると思ったが、普通のトランクス型であった。この点に関してだけは、港は北斗に感謝していた。  彼は視線を走らせる。彼女はいるはずなのだ。でなければ北斗がここに待ち伏せているはずもないのだから。  いた。  二人で特訓をしてた場所に、座り込んでいる。  近づいて行くが、みなみは気づいた様子もなく、かわらず座ったままだった。  よくよく観察すると、水に濡れた形跡がない。 「どうしたんだろ。しばらく様子をみるか」  観測から二分、みなみは立ち上がり、パイプはしごにつかまった。  右足首がゆっくり水面をくぐり、そして左足があとを追う――はずだった。  みなみは右足を沈めたまま、微動だにしなかった。  いや、できなかったようだ。  顔は蒼白で、今にも泣き叫びそうだ。 「また、水が怖くなったのか……?」  みなみは全身全霊をなげうって足を引き戻し、荒い息を吐いた。  そして、絶望した表情で、更衣室にむかって歩きはじめる。  港には、初めて彼女を見たときの光景がダブっていた。  彼はみなみを追いかけ、細い手首をつかんだ。 「また逃げたら、今までといっしょだろ」 「結城さん……」  みなみは驚き、呆然とし、それから涙を流しだした。 「お、おい、いきなり泣くのは反則だ。泣くの禁止!」 「結城さん、結城さん……」  みなみは彼の話など聞いてはいなかった。声こそ大きくなかったものの、顔を真っ赤にして、泣きじゃくりはじめた。 「落ち着け、まず話しあおう。な?」  彼は持っていたタオルをみなみの頭にかけ、泣き顔を隠した。  それから人気の少ない窓際に引っぱっていき、途中で買ったジュースを持たせて座らせた。  それでも彼女はいっこうに泣きやまなかった。 「しかたない、とりあえず飽きるまで泣いてくれ」  港はみなみの頭を引き寄せて、自分の肩に寄っかからせた。 「あ……」 「恥ずかしかったら泣きやむこと。恥ずかしくなかったら、このまましばらく泣いてな」 「……はい……」  どちらの『はい』なのか港にはわからなかったが、彼女の泣き声はとまり、けれど彼から離れようとはしなかった。 「まず、あやまっとくな。ゴメン」 「あやまるのはわたしのほうですよ。なんで結城さんが……」 「おとといのこともそうだけど、それまでもこともだよ。オレ、思い違いしてたんだ」 「はい?」 「オレはただ、みなみちゃんのためと思って協力してたつもりだった。でもそれがいつの間にか、見返りを求めてたんだ」 「見返り……ですか?」 「うん。オレはみなみちゃんの信頼とか尊敬とか、そんなくだらないものを欲しがっていたんだ。自分はみなみちゃんよりスゴイとか思いあがって、みなみちゃんの全部を知った気になって、自分の理想を押し付けていたんだ。だから北斗の味方するみなみちゃんが堪えられなくて、オレは逃げてしまった。本当にバカだ」  みなみは何も答えず、ただ港の言葉を待った。 「みなみちゃんが喜んで学校に来れるようにしたい。オレの望みはそれだけなんだ。頭首になるのがいいのか悪いのか、オレにはわからない。でも選択肢もないままに未来を決められてしまうみなみちゃんを、オレは助けたいんだ。もし、まだ間に合うなら、迷惑でないなら、手伝わせてくれないか? オレはキミの力になりたい」  みなみは、収まったはずの涙をこぼした。 「ありがとうございます、わたしなんかのために……。どうか手を貸してください、結城さん」 「ありがとう。よかった……」  港はようやく肩の荷がおりたような気がした。 「あの……、わたしは結城さんのいる学校でいっしょに勉強をして、いっしょに卒業したいです。これってゼイタクじゃないですよね?」 「あたりまえじゃないか。オレだって同じだ。そのためには、まずは試験突破だな」 「はい。がんばります!」  みなみは笑った。彼はこの笑顔が見たかった。彼女の本当の素顔を。  二人はプールサイドに戻り、ストレッチをはじめた。 「ところで、さっきはどうしたんだ? プールに入りもしないで」 「あの、実はまた、水が怖くなりまして……」 「ああ、やっぱり。全然ダメ?」  「はい……」とうなずくみなみをおいて、港は先にプールに飛び込んだ。 「それじゃまた最初からやってみよう。はしごに掴まって、降りてみて」 「はい」  みなみは恐る恐るはしごに掴まったが、降りるのは呆気ないほど簡単にできていた。 「できるじゃん」 「……はい……」  みなみは自分で首を傾げている。 「それじゃ、顔をつけてみて」 「はい」  返事をして、みなみは水面に顔をつけた。 「できるじゃん」 「……はい……」  同じ動作を繰り返す二人。 「そしたらケノビをやってみよう」 「はい」  みなみは手を伸ばし、足を床から離して棒のようになった。 「できるじゃん」 「(ごぼ)ふぁい……」 「ムリに返事をしなくてもいいって」  体勢を戻したみなみは、アゴに手をあてて考えこんでいる。 「……何ででしょう?」 「オレが訊きたい」 「精神的なものなんでしょうか……」 「精神?」 「はい。もともと水恐怖症もトラウマからくるものでした。それを克服できたのも、精神的なものだと思うんです」 「つまり精神的にまいっていたから、ダメだったと?」 「まいっていたというか、結城さんがいなかったからではないかと……」 「うん?」 「結城さんがいたから、わたしは安心して水に入っていられたんだと思います」 「なるほど、そばにサポーターがいる安心感のせいか」 「あ、いえ、そうなんですけど、そうではなくて……」 「間違ってた?」 「……いえ、あってます」  みなみはうつむいて、真っ赤になっていた。  港には赤面する理由がわからないので、話を進めた。 「独りで乗り越えるしかないんだよな」 「はい……」 「とりあえずそれはあとで考えよう。今はまず、泳ぐことからだ」 「はい」  バタ足からはじまり、クロールと平泳ぎの練習をする。  港の考えどおり、水恐怖症さえ無視すれば彼女にこなせないスポーツはなかった。彼といっしょならば何キロでも泳げそうなくらい、みるみる成長していた。 「それじゃ、また明日。試験日が日曜だっけ? 残り日数は少ないけど、がんばろうな」 「はい、明日もよろしくお願いします」  みなみは日課の鍛錬が残っているというので、先に帰っていった。  自転車にまたがり帰ろうとしたところ、彼が現れた。 「感謝いたす」 「……」 「なんだ?」 「考えてみると休日の公園にその姿で現れるってのも、ある意味チャレンジャーだと思ってな」 「誇りこそあれ、恥ではない」 「で、今度は何を言いに来たんだ? また『近づくな』か?」 「いや、今は言うまい。みなみには試験に出てもらわねばならぬ」 「どういう風の吹き回しだ?」 「いずれわかる。ゆえに今は感謝しておく。では……」  北斗はそれだけ言って消えた。  港はもはや感慨もなく、家路についた。  港はマンションの駐輪場から、まっすぐに自宅の隣にむかった。確認するまでもなく、天草家の呼び鈴を鳴らす。  「はーい」という声が奥から聞こえたが、良子のものか母親のものかはわからなかった。そもそも、二人の声は区別がつきにくかった。 「あれ、コウ?」  インターホンカメラで確認した良子が、扉を開けた。 「どしたの?」 「あー、えーと……」 「話があるならあがってく? 今、両親は買い物いってるけど」 「いや、すぐ済むからいい。実はな――」 「うん、わかった。優輝と須藤くんにも連絡しといてね」 「まだ何も言ってねぇ!」 「みなみちゃんだっけ? 吹っ切れたならしっかり支えてあげなさいよ」 「なんで、そんなこと……」 「何年幼なじみやってると思ってるの? あたしの知ってるアンタは、バカでグウタラだけど、いつでもまっすぐなのよ」 「良子……」 「だからきっと、こうなるってわかってた。何があったかは知らないけど、アンタなりにがんばりなさい。ちゃんと観てる人、いるんだからね」  聞いてる港も言ってる良子も照れくさくなり、たがいにそっぽを向いた。 「……サンキューな」  良子はニッコリと微笑んだ。 「それじゃ、問題が解決したら遊園地に行くからね」 「ああ、わかってる」 「キャンセル料は高いからね、忘れずに」  港は苦笑したが、当然の罰だろうと認めた。 「すぐに連絡しなさいよ」 「ああ、すまない。それとありがとな」  軽快に手をあげて自宅に戻る港に、良子もまたスッキリした表情で身体を伸ばした。  港はすぐに電話を掴み、優輝の携帯へつないだ。  優輝もまた良子同様、あっさりと彼を許した。 『こうなるの、何となくわかってたから』 「そうなのか?」 『うん。遊園地も、コウくんの気分転換になるかなと思って誘ったんだけど、そのまえに解決しちゃったみたいね』 「そ、そうなのか……」 『うん。でも、みんなで遊びたかったのも本当』 「こっちが片づいたら、絶対に行く。良子にも言われたし」 『あは、それじゃそのときを楽しみにしてるね』 「ああ、約束だ」 『うん。……コウくん?』 「うん?」 『……ううん、なんでもない。それじゃ、またね。おやすみなさい』 「ああ、おやすみ」  電話は切れた。  やはり残念だったのだろうか、優輝の声に、いつもの元気がなかった。港は心のなかで詫びながら、もう一人の謝罪すべき相手に電話をかけた。 「オレだ。すまん。じゃ!」 『おいおいおいおい! ワケわかんねーよ!』 「わかれよ」 『いや、まぁ、わかってるんだけどな。誠意ってものが感じられないぞ』 「そんなの欲しいのか?」 『別にいらないが、優輝ちゃんや良子ちゃんに対するときと扱いがあまりに違いすぎるだろ?』 「よくわかったな」 『わからないでか』 「それ、どこの言葉なんだ?」 『まぁいいや。これ以上、みんなを悲しませるなよ』 「……わかってる」 『ならいい。それじゃ、がんばってくれや』 「サンキュー。それじゃ、またな」 『おう、そんじゃな』  受話器を置くと、港も良子同様、気持ちよく身体を伸ばした。  明日はどのように練習しようかと考えているうちに、彼は自然と眠りについていた。  午前一一時、港は約束の場所に余裕を持って到着し、先に来ていたみなみと合流した。  着替えを終え、いつもの練習場所で準備体操をする。 「そういえば、試験てどんなことをするんだ?」 「さぁ、聞いてはおりませんが、泳ぎに関わることはたしかです」 「泳ぎだけならいいけど、術のほうだったら?」 「あ、それは何とかなると思います。水遁の術についての概要はわかっておりますので、あとは実践だけです」 「泳げなきゃ実践できないもんなぁ」 「はい……。でも、泳ぎにも自信が持ててきていますので、きっと大丈夫です」 「たしかにあれだけ泳げれば自信もつくよな。けど問題は――」 「結城さんがいてくだされば、の話なんですけれど……」 「そばに誰かいないと安心できないんだよな」  港は苦笑いを、みなみは申し訳なさそうな顔を浮かべる。 「みなみちゃんは本当に自信を持っていいんだけどな」 「甘えてしまっているのでしょうか」 「どうだろう。恐怖心が完全に消えていないだけで、時間をかければ治りそうだけど」 「時間、ありませんね……」 「だよな」  試験日の日曜まで、今日を含めて三日しか練習には費やせない。それまでに独立しなければならないのだが、あまりに性急だった。 「まずはやってみよう。一人で入ってみて」 「は、はい」  彼女はもうすでに身体が強ばっていた。意識するだけに、症状は重そうだった。  港の思ったとおり、水際に座り込んだまま、動きがとまった。 「少なくとも、こないだまでは水に入れたのにな」 「……」  考えすぎてダメになってしまったか。港は状況から推測した。無意識でプールに入り、身体で大丈夫だと教え込まないかぎり、改善はされないかもしれない。  港は彼女の隣に座り、肩を叩いた。彼女を縛っていた硬直の魔法が瞬時に解ける。 「いっしょに入るよ」 「……はい」  水音が二つ、続けて弾けた。  そして港は、間髪いれずプールサイドにのぼった。 「あ……」  驚いたみなみは慌ててあとを追おうとするが、プールサイドの縁に手をかけたまま震えていた。  港はすぐにみなみの手をとり、引き上げた。 「大丈夫か?」 「す、すみません……。やっぱり、独りは怖いです……」 「危なくなったらきっと助けるから、安心していいんだよ」  実戦では保証されない安心だった。さらにいえば、試験のときでさえ保証はされない。けれど今のみなみには必要な精神安定だった。 「はい、いきます」 「うん。自信をもって! ゼッタイに大丈夫だ!」 「はい」  みなみは大きく深呼吸して、眼を閉じて瞑想をした。  見守ること三分、みなみは滑るようにプールへと落ちていった。  飛沫がはね、彼女の身体を水が包みこむ。  みなみは一度完全に沈み、それから立ち上がった。  眼を開き、深呼吸する。  深い呼気が、水面をかすかに揺らす。 「……大丈夫、わたしは大丈夫。自信を持って……自信を持って……」  呼吸にまじって、みなみのつぶやきがこぼれた。 「そう、みなみちゃんは大丈夫だ。自信を持っていいんだ」  港も祈るようにつぶやき続ける。 「自信を持つ。結城さんがくれた自信。わたしは、大丈夫」  みなみの身体が突然沈んだ。 「みなみちゃん!」  港はすぐにプールに飛び込んだ。  おぼれていると思った彼女は、水中で彼を見てほほえんでいた。  二人はいっしょに水面に顔をだし、たがいを確認した。 「怖くなかった?」 「完全かどうかはわかりませんが、今は何とか」 「そうか、よかった……」 「ありがとうございました。本当に、ありがとうございました」 「オレががんばったんじゃないだろ。みなみちゃんが努力したんだ」 「いいえ、結城さんがいなければ、一生できなかったことなんです。結城さんじゃなければ、ダメだったんです」 「それは大げさだ。ともかく、これで何とかなるかな」 「どうでしょうか……。本当の独りのとき、うまくいくかは……」 「ダメだ、そんな弱気になったらダメだ。うまくいく。自信を持つんだよ」 「はい、そうですよね。ここで弱気になったらまた振り出しです」 「うん。いつも自信を持つんだ。あとは水をやっつけるくらいの勢いで泳ぐ。そのうち恐怖なんて慣れてしまえる」 「恐怖に慣れる……」 「ああ、どんなことでも慣れてしまえばどうってことなくなるだろ? だから怖くても自信を持って立ち向かっていれば、そのうち慣れてしまうさ」 「はい。がんばります」  みなみは一人、泳ぎはじめた。港がプールサイドに上がっても、彼女は泳ぎ続けた。 「これでもう、ホントにオレの出番はないな」  安堵とともに、一抹の寂しさを港は感じていた。  やはり世の中、簡単にはいかない。みなみは完全に恐怖症を克服できてはいなかった。  足の立つプールでは一人でも問題はなかった。足が着くという安心感があったのだろう。 けれど水深一三〇センチ以上になると、彼女の背丈では呼吸が難しくなり、恐怖が自信を食い破るようであった。 「まず昼にしようか。お腹、すいてるだろ」 「はい……」  順調にいくと思われた矢先だけに、彼女はシュンとしていた。 「大丈夫、またすぐに慣れるって。たくさん食べて、元気つけよう」  港の言葉にはまったくもって根拠がない。なので、彼女の心には伝わらなかったようだ。  昼食をすませてからも、二人は試行錯誤を重ねた。  恐怖の原因は、身体が自由に動かせず、呼吸がままならないからだとはわかっている。それは普通に泳げる港ですら感じる水中の脅威だった。 「ものは考えようだ。呼吸さえ持つなら、あとはみなみちゃんの体力に任せて何とかなるんじゃないか?」 「そうでしょうか……」 「計測はしてないけど、みなみちゃんなら一分や二分、呼吸をとめてても大丈夫だろ?」 「あ、はい。たぶん一〇分は平気かと」  「すげぇ」という感想をおいて、港はさらに説明する。 「なら、泳ぐことを考慮しても、最低二分は息継ぎなしでいけそうだ。そう思えば、いくら足がつかなくても浮上する時間は充分にあるし、怖がる必要はないじゃないか」 「ですが、水の中でとなると、やはり緊張してしまいます」 「それを気にかけないための作戦なんだけどな」  港が困った微笑を浮かべると、みなみは小さく「すみません」とあやまった。 「とにかく実践してみるか。あとはさっき言ったことを意識しながら繰り返し、慣れていくしかない」 「はい」  二人はプールに入ると、練習に水中でのガマン比べをした。なによりもまず、水中でも長く活動できるという印象を彼女に与えたかったからだ。一秒でも長くいられれば、それだけ対処ができるはずなのだから。  港は凡人ゆえに、みなみが一度潜る時間に五回以上の息継ぎを必要とした。みなみはその様子を見て、多少の自信がついたようだった。 「それだけ長く潜ってられるんだから、五〇メートルくらい潜っても余裕で往復できるよ」  と、港は彼女の基礎体力を褒めた。  それから徐々に深いところへ進んでいき、ついには水深が二〇〇センチのプールに場所を移す。  これがみなみの壁になった。  床に足をつけて天を仰ぐと、厚い水の天井が広がっている。これまで以上の圧迫感であった。水に呑まれるのではないかと、彼女は震えながら語った。 「二メートルか……。浅くはないけど、試験がどの程度の規模かわからない以上、できるだけ潜れなければいけないよな」 「はい……。滝つぼに投げ込まれたくらいですから――ウッ!」 「思い出すな!」  みなみの顔色が一瞬が変わる。港は彼女にタオルをかぶせ、背中を撫でて落ち着かせた。彼女がおぼれた昔話の詳細を、港は知らない。けれど彼女の蒼白さですぐに気づいた。彼女は泳ぎも満足ではない幼少に、滝つぼに投げ込まれたのだ。忍術修行と称して。  そんな親がいるのか。家のためなら何でもありなのか。港は怒りに震えたが、今は吐き気さえもよおしている彼女の介抱が先だった。 「今ならできるんだ。昔とは違うんだ。だから怖がらなくていいんだ」 「は…い……」  みなみはもう、潜れなくなった。 「今日はすみませんでした。こんなに遅くまでお付き合いくださったのに……」 「そんなのはいいさ。明日、またがんばろうな」 「はい……」  みなみの声に元気はない。足の着く深さならば何とか泳げるくらいには復活したが、立てない場所には足がすくむようになっていた。  急ぎすぎた、と港は悔やんでいた。もっとじっくりと進めるべきだったのだ。調子がよかったものだから、大丈夫だと思ってしまったのが失敗だった。 「結城さん、大丈夫ですよ。明日になれば、きっと治ってます。だからよろしくお願いします」 「ああ、そうだな」  気休めなのはみなみ自身にもわかっていた。滝つぼのイメージが消えなかった。 「結城さん」 「うん?」 「もし……、もしわたしが試験に落ちて、学校をやめることになったら、寂しいと思ってくれますか?」 「当たり前だろ。そうならないようにするためにこうしているんだから」 「ありがとうございます。そう思っていただけるだけで、わたし、あの学校にいてよかったと思います」 「あきらめるな、まだ二日あるんだ。それにもし試験に落ちたって、学校をやめさせるもんか」 「え?」 「みなみちゃんの家に乗り込んで、親父さんを殴ってでもとめさせる」 「あは、殴っちゃダメですよ」  みなみはようやく笑顔を見せた。 「それでは、失礼しますね。また明日、お待ちしています」 「ああ、じゃあな!」  普段なら瞬間的に姿を消すみなみは、今日に限って歩いて家路についていた。 「疲れているんだな、みなみちゃん」  港にはこれ以上、できることはなかった。心の問題には、時間が何より必要だった。その時間がない。それが余計、彼を焦らせた。  翌日、連休の最終日も三分ノ二が過ぎようとしていたが、みなみに好転はなかった。水深一五〇センチですら、今の彼女には深海と変わらぬ脅迫を課していた。  一年くらいの期間があれば、克服できる可能性はある。けれど現状、何かよほどのきっかけでもなければ、彼女の戒めは解除されることはないだろう。 「オレがいっしょでもダメか」 「すみません、身体が、動かないんです」  今日だけで何十回と挑戦したが、最深部に辿りつく頃には彼女の硬直がはじまっていた。 「今日はもう終わろうか」 「い、いえ、明日は学校がありますし、今日中に何とかしておかないと」 「わかるけど……」  必死に訴えかけるみなみの瞳に、港は折れた。 「それじゃ休憩だ。ジュースでも買って来るから待ってて」 「あ、それじゃわたしが」 「いいよ、休んでて」  港はスタンドに向かった。  一六時の時報が鳴る。休日のイベントとして、一部のプールにイルミネーションが点灯する。きのう、おとといとゆっくり見学をしている余裕はなかったが、改めて観るとさすがに美しいものだった。  とくに「渦巻きプール」と呼ばれる流れるプールでは、床から照らされる照明のカラフルさが、水の屈折反射で光が回っているように見えた。その光に誘われるように、子供が次々とプールに飛び込んで行く。 「ただいまの時間は、子供の日をお祝いしお子様専用となっております。浮き輪の貸し出しも行っておりますので、ご利用ください」  アナウンスが流れると、小さい子も大きな子もこぞって浮き輪を手に、水に飛び込み、渦に巻かれてはしゃいでいた。  みなみは遠目にその光景を眺めていた。滝つぼとは違う緩やかな渦。子供は巻かれることもなく、ただ流れに乗って遊んでいる。  みなみには純粋にうらやましかった。今の自分は、たぶんあの渦にすら入れないだろう。たとえ浅くとも、渦には呑み込まれるイメージしかわかない。あのときの恐怖が脳裏をかすめ、針を刺すような痛みを伴う。 「やっぱり、怖いです……。怖いです、結城さん……」  膝を抱えて泣き出す彼女に、気づく者はいなかった。  事故が起きていたからだ。 「危険です、すぐにプールから上がってください! プールサイドのお客様も近づかないようにお願いいたします!」  アナウンスは緊迫した内容を繰り返した。  みなみは立ち上がり、様子をうかがった。  彼女が眼を逸らしたわずかの間に、渦巻きプールは唸りをあげる大渦へと変貌していた。イルミネーションは消え、渦の飛沫が隣接するプールまで延びている。 「注排水システムに異常がみられます。渦巻きプールには近づかないでください! 繰り返します……」  叫ぶスピーカにまぎれて、監視員の「これで全員だ。間に合った」という安堵の声をみなみは聞いた。どうやら遊んでいた子供たちは、全員、無事にプールサイドに保護されたようで、彼女も監視員同様、安心の吐息をした。 「みなみちゃん!」  港は全速力で彼女の側に戻った。その眼で安全が確認できて、ようやく落ち着いた。 「事故なんですか?」 「らしいな。でも、みんな無事でよかったな」  「はい」というみなみの返事に、周囲の叫びが重なった。 「子供が落ちた! なんだって眼を放すんだか!」  状況説明と感想が、一部で発せられた。  まったくだ、と港も思う。こういう状況を面白がって、子供を連れているという認識がなくなる親のなんと多いことか。他人事ながら、彼は腹立たしかった。 「オレが行ってもなんともならないだろうけど……!」  港は渦巻きプールを覗き込む。渦に巻かれた少女が、中心部に呑み込まれようとしていた。  監視員が次々とロープつきの浮き輪を投げるが、波に弾かれたり、少女が掴みそこなったりと、埒が明かなかった。  監視員が飛び込むという話も出ていたが、二重事故になるとして実行できずにいる。 「オレはどうすればいいんだ……」  浮き輪を持って飛び込んでみるか。ロープを縛り付けておけば、誰かが引いてくれるかもしれない。学校荒らしのときのような勝算はまったくなかった。けれど、誰かがやらなければならなかった。 「迷うな、オレ!」  港は急いでロープの付いた浮き輪を手にして、ロープの端をはしごに括りつけようとした。 「キミ、何をしているんだ!」  港は監視員に押さえつけられた。必死で抗弁するが、監視員の手は緩まなかった。  その頭上を、何かが飛び越えた。  続いて大きな飛び込み音と、再び起こる一同の叫び。 「おい、誰かが飛び込んだぞぉ!」  港はその人物を知っていた。 「みなみちゃん!」  中心の渦にのまれていくのは、間違いなく彼女だった。  その腕の中には、小さな女の子がいる。グッタリとして、まったく動く気配がなかった。  監視員が浮き輪を投げる。  だが、みなみが掴まるより早く、波にはじかれた。  渦はさらに勢いをまし、二人を深淵へと引きずりこもうとしていた。 「みなみちゃん!」  彼の叫びは、みなみには届いていなかった。  無謀だった、と彼女は後悔していた。飛び込んでも自分には助ける力はなかったのだ。水は容赦なく身体を叩き、呼吸すらも断続する波が遮断する。怖い。あのときの自分が、はっきりと思い出せた。ただ水の流れに翻弄され、水の深さに絶望し、暗い底へと落ちて行く。でも――  みなみはあのときを思い出していた。  そうだ、自分は今、生きている。わたしは助かったのだ。どうして? そう、どうして助かったのだろう……。あのとき、わたしは見た。巨大な龍を。いや、違う。あれは―― 「オレはみなみちゃんを信じてる。キミなら絶対できるんだ。自分を信じるんだよ。信じれば奇跡だってなんだって起きてくれるんだ。だから、戻ってこい……戻ってこいよぉ!」  港の叫びは、一方的な願望でしかない。けれど、彼が信じることで、自分を信じられると思った少女がいる。彼女は水の奥で、たしかに彼の声を聞いた。幻聴かもしれない。それでも、彼女は聞いたのだ。  そして、異変が起きた。 「龍!」  渦の中心から、龍が舞い上がった。  突然現れた龍は、ただ一対の塊を吐き出し、周囲に雨を降らせて水へと還った。  港の目の前に、龍の落とし子が着地した。 「みなみちゃん!」 「でき…ました……」  みなみは微笑み、子供を抱いたまま彼にもたれかかった。 「だいじょうぶか!」 「わたしは…平気です……。はやく、女の子の蘇生を……」  監視員は子供をあずけられると、すぐに人工呼吸をはじめた。  一分後、水をすべて吐き出し、子供は泣き出した。 「よかった……」 「ホントに。やったな、みなみちゃん」 「はい、がんばりました。あのときのわたしを見ているようで、助けずにはいられなかったんです」  滝つぼに投げられ死にそうになったときだと、彼にはすぐにわかった。 「そっか……」 「思いだしたんです。わたしが死にそうになったとき、今みたいに龍が助けてくれたのを……」 「今みたいって、それどういう……?」 「三元流水遁術奥義・緑一色……。本家当主もしくは後継者にしか伝授されない技です……」  みなみは脱力した。  疲れがピークに達したのか、彼女は眠っていた。彼女を救護室へおぶって行きながら、港は考えていた。いや、考えるまでもなかった。 「結局、みなみちゃんを滝つぼから助けたのは――。なんだよ、自分の責任のクセに」 「結城さん、わたしがんばります……」  背中で寝言をこぼす彼女に、港の口元はほころんでいた。 「もう充分がんばったよ。お疲れ様」    みなみの御前試験は無事に終わった。  努力の結果が正しく報われ、今も彼女は有高生徒として、SSSの重要メンバーとして生活をしている。  ただ一つ、残念な報告を港は聞かされていた。彼女は高校を卒業後、三元流宗家を継承し、正式な頭首となるのが決定した。御前試験に合格したのだから当然ではあった。けれど、港としては寂しいかぎりであった、そしていずれは二人の接点がなくなり、思い出へと変わってしまうのだろう。 「残念だけど、生きる世界が違うんだよな」 「はい……」  二人は屋上から町並みを眺めながら、卒業までは楽しい学校生活を満喫しようと誓い合った。  その翌日。 「あの……」  港は教室を出たとたん、みなみに呼び止められた。 「よぉ、今日はSSSお休みだって言ってたろ? 弥生屋でも行かないか?」 「あ、それは嬉しいです。でもその前に、申し訳ありませんが、少々おつきあいくださいませんか?」 「ああ、いいけど……?」  彼はみなみに引かれ、屋上へ出た。 「なにかあったか?」 「大変申し訳ありませんが、この前のお話、なかったことにしてくださいませんか?」 「この前?」  彼が首を傾げていると、彼女は補足した。 「あ、えと、わたしが家を継いで長になるという話なんですが……」 「うん?」 「それが、なかったことになりましたので、忘れていただけると助かります」 「え?」  港は反問すら忘れて、ただみなみを見つめた。 「実は昨夜、わたしが家を継ぐと公表されたのち、物言いが入りまして……」 「『物言い』って、相撲みたいだな」  港の冗談に、みなみはのらなかった。 「わたしでは力不足だと言われ、勝負することになったのです」 「その『物言い』をした相手と?」 「あ、はい、そうです。それで、見事に、その……」  みなみは面目なさそうに下を向いた。 「……負けたのか?」 「はい……」  さらに縮こまるみなみ。 「それで、どうなったんだ?」 「はい、その方に継承権が移りました」 「そんなにあっさり変わるのか?」 「実力社会ですので、仕方ないかと……。それにあの方は、血筋の上でも宗家に近いので問題なしということになりました」 「はぁ……」 「あれほどご尽力いただきながら、ふがいなくて顔向けもできなかったのですが、お伝えしておかねばと思いまして……」 「オレは別にいいんだけど、みなみちゃんの立場がないだろ」 「あ、いえ、わたしはいっこうにかまいません」 「そうなのか?」 「わたしが何百年も続く忍者一族の長なんて、できると思いますか?」  港には想像もつかなかったが、口では「立派にできるよ」と言った。 「結城さんはウソがおヘタですね」 「あ、わかった?」 「はい。ですからわたしは気にしていないんですよ。むしろ、気が楽になったくらいです」 「みなみちゃんは、頭首になりたくないのか?」 「昔はそれが当たり前と思っていたので、深く考えていませんでした。でも今は……」 「今は?」 「ならなくて良かったと思っています」 「そうなの?」 「はい!」  彼女の笑顔に、ウソはなかった。 「それじゃ、みなみちゃんを負かした相手に感謝しないとね」 「はい。北斗兄様には感謝の言葉もありません」 「え、負かしたのって北斗?」 「はい。言いませんでしたか?」 「聞いてないって。でも何で、北斗が……」 「北斗兄様の、優しさなんです」 「優しい? オレに協力しないように脅したかと思えば邪魔するのをやめたり、さらには継承権に文句までつけて、何を考えてるんだか全然わからないんだが……」 「それは……」 「それに、アイツが継承権を手にしたってことは、みなみちゃんと結婚するってことじゃ!」  改めて北斗に不快感をあらわす彼に、みなみは大慌てで否定した。 「ち、違います! わたしは継承争いに敗れたので、破門なんです。だから結婚なんてとんでもありません」 「え?」 「一族のしきたりなんです。『継承に反対する者あらば、雌雄を決せよ。敗者はすべての術を封じ、野に下るべし』」 「野に下れって……。時代錯誤もいいとこだな」 「はい、やはり時代の流れでさすがにそれはないのですけど、今後いっさい、三元流を名乗ることは許されなくなりました」 「てことは……、ふつーの人になったのか?」 「平たく申しますと、そうです……」 「修行も忍術使用もなし?」 「あ、制限付きですが、忍術の使用は許されました。というか、すでに生活そのものが忍術で構成されていますので、禁止されては生きていけません……」 「ああ、まぁ、そうかもな」  彼がいろいろと納得していると、みなみはクスッと笑った。 「でも、わたしが嬉しいのはそんなことではないんです。忍術だって使えなくてもかまわないですし、SSSには少々未練はありますが、ガマンできます」 「それじゃ、何が一番嬉しいわけ?」 「そ、それは、その……」  みなみは答えづらそうに、うつむいた。  港は答えを待つあいだ、無意識にポケットに手をつっんでいた。そこに、慣れない感触があった。 「手紙……?」  それは以前、うるち経由でみなみから渡された封書だった。 「あ、あああああああ、そそそそそそれは!!」 「え、な、なに?」  港は突然の彼女の大声に驚きながらも、封書の口を切っていた。  「ダダダダダダダメです!」みなみは超高速で彼の手から手紙を奪い、後ろに隠した。 「これはもういいんです!」 「いいなら読んでもいいじゃん」 「いえ、これもなかったことにしてください!」 「ん〜、そう言われると余計、気にかかるなぁ」  彼はみなみに飛びかかった。が、あっさり避けられる。 「むむ、こしゃくな」 「これはダメなんですよぉ」 「ダメかどうかは読んでから決める!」  彼が再び襲いかかるのと、突風が吹いたのは同時だった。  みなみの手から封書は離れ、風に乗って大空を駆けていく。 「あー、行っちゃったよ」 「わたしでも届きません……」 「中身は天のみぞ知る、だな。……いや、書いた本人も知ってるんだけどな」  みなみに視線を向けても、彼女のほうが顔を背けてしまい、話は続かなかった。 「ま、いいや。それじゃみなみちゃん、帰ろうか?」 「はい!」  港は大きく伸びをする。気持ちのいい、初夏の放課後だった。