「Pure☆Colors」 第六話  「それじゃ、美術館前で一時に」  港が「わかった」と応えると、優輝は嬉しそうに手を振って教室を出て行った。  週末の金曜日、日付では四月二八日の放課後であった。明日からはゴールデンウィークがはじまり、クラスのなかでも連休の予定を話す声がいくつか聞こえていた。  港はお見舞いのお礼をしたいと優輝に告げたところ、彼女は「それなら」と明日一日の付き合いを選択した。  実は昨夜のうちに、優輝には良子からの事前連絡が入っていた。 『たぶん明日、コウがお見舞いのことで何か言って来ると思うわよ』 「そうなの? そんなの別にいいのに……」 『ダメダメ、こういうのは利用しないとね。あさってから連休だし、どこかに引っ張ってみたら?』 「ん〜、そういわれても……」 『映画でも何でもいいじゃない。そういえば、最近、屋内プールもできたらしいし、それもよくない?』 「それはちょっと恥ずかしいかも」 『それくらいのインパクトは必要だと思うけど』 「インパクトないよ、わたし……」 『まぁまぁ、試してみなさいよ』 「良子ちゃん、そのしゃべり方、オジサンみたい」 『わ、ヒドイ。……ともかく、そういうわけだから何か考えておいたほうがいいわよ』 「うん、わかった。ありがとう」  ……というやりとりの後、優輝はカバンに入れておいたままのチケットを思い出した。 「地域交流学生絵画展……?」  チケットを見せたときの港の反応は、限りなく下向きだった。 「オレと芸術を語るのは、かなり無理があると思うが」 「あ、大げさなものじゃないの。学生の小さな展覧会で、去年募集された作品が展示されているの」 「優輝も出したのか?」 「うん」 「わかった。で、どこでやってるんだ、これ?」 「えと、中央公園のスポーツセンターの隣に美術館があるんだけど、知ってる?」 「ああ、スポーツと芸術のコラボレーションとか謳って建てられたあそこか」  港は正義と行ったプールを思い出した。あの隣の施設が美術館だったはずだ。 「了解。時間はどうする?」  優輝は満面の笑みで答え、部活へと向かった。 「なぁ、コウよ」 「なんだ、セイギよ」  やりとりを辛抱強く見守っていた正義は、彼女が見えなくなるとようやく口を開いた。 「お見舞いの礼をするのはわかる。が、二点ほど理解に苦しむところがあるのだが、いいか?」 「なんだ?」 「なぜお礼の結果がデートになるんだ?」 「デートかどうかは判断に困るところだが、それが優輝の希望だからしかたあるまい。オレとしても帰りにケーキなりをご馳走して終わると思っていたのだがな」 「わかった。それは本人の強い希望によるということで納得してやろう。続いて第二点目だが、こちらはより重要だ」 「うむ?」 「なぜオレには感謝の気持ちがないのだ?」  港は盛大に驚愕し、震えながら友の肩をつかんだ。 「何を言っているんだ。オレは夢の中でセイギに感謝することしきりだったぞ。うなされながらも『セイギ〜セイギ〜、オレの心の友、セイギよ〜。ありがとうありがとう、おまえのおかげでオレはこうして生きていられるんだ』とずっと思っていたんだ。その気持ちがわからないのか?」 「わかるか! オレはもっとこう、物質的なもので返して欲しいぞ」 「あげたじゃないか、夢の中で。車も美女も、家まで買ってやったぞ」 「夢の中でなんぞいらんわ!」 「ワガママだなぁ」 「おまえ、今後二度と助けてやらん!」 「しかたのないやつだ。ほら」 「……なんだ、これは?」 「昼に購買で買ったゲロビタΣだ。元気なときに飲んでも仕方ないと気づき、持ち帰るところだった」 「これがオレに対する感謝の気持ちか?」 「考えても見ろ、立場が逆のとき、おまえはどうする?」 「サンキュー、コウ。ありがたくもらっておくぜ」 「うむ」  二人が熱い友情に心打たれているとき、美術室では優輝が鼻歌でもこぼれそうな表情でデッサンを描いていた。 「なーに、上機嫌じゃない?」  同学年の部員、畑野聡子が優輝に声をかけた。あかの他人でも幸せそうにしている人間を見ると、自分までも嬉しくなってしまう性分だった。逆に他人が沈んでいると、感化されて落ち込んでしまうという欠点もある。だからなるべく周囲が楽しくなるよう、お節介を焼くのが彼女の在り方であった。 「うん、ちょっと明日友達と出かけるのが楽しみで」 「ふ〜ん、友達ねぇ」  聡子は訳知り顔で微笑む。が、あえて追求はしない。 「優輝の絵って、少し変わってきたよね」 「え、そう? 自分ではわからないんだけど」 「んー、そうね、たぶん、これを描いたときくらいからかなー」  と、聡子は優輝のクロッキー帳を奪い取り、驚く彼女にかまわずページを逆行させていった。  聡子が提示したページを見て、優輝は衝撃と気恥ずかしさに、とっさに声が出なかった。 「な、なんで畑野さんが知ってるの?」 「まぁまぁ、そのへんは気にしない。でもやっぱりね。わかりやすいんだから」 「……」  優輝は反論のしようもなく、うつむいた。 「でもさ、これ、いいと思うよ。本当に描きたいものを描いたってカンジがよくわかるもん。高校生が技術ウンヌンで絵を描いてたって、楽しくないもんね」 「そう……?」 「うん。わたしね、こういうの好きなんだ。舞美なんか、中学のときはこんなんばっかだったんだよ。大っぴらには描いてなかったけどね」  聡子から出た個人名は、同じ美術部の仲間で、彼女の中学からの親友・竜堂舞美(リュウドウマイミ)を差している。 「聡子ちゃん!」  ウワサの舞美が、名前を聞きつけて声を上げた。 「あら、聞こえちゃってた? 気にしない気にしない。大丈夫、他言はしないから」 「もうしてるよ!」  優輝の視線は、にぎやかになる二人から自分の絵へと移っていく。自分だけが大切だと感じていたものが、他人にも良く思ってもらえるのは嬉しかった。  ゴールデンウィーク初日、港は充分な睡眠と食事をとり、中央公園へと向かった。  自転車で十数分も走る頃には、目的の施設が眼に映っていた。その入り口に立つ、細くて綺麗な人影も。 「オッス。やっぱり優輝のが早かったな」 「おはよう。でもコウくんだって時間より早いわよ」 「家にいてもする事がなかったからな。早く着きすぎたら散歩でもしてようかと思ってた」 「あ、わたしも」  おたがいにはにかんだ笑顔が浮かんだ。  港は自転車を駐輪場に入れて、優輝とともに美術館に入る。開館して十年は経つが、入館は初めてだった。  エントランスホールで会場を確認し、二人は左手にある第三展示室へ足を運ぶ。  第一と第二はそれぞれ知らない画家の個展が開催されており、有名なのか人のいりも多かった。  第三展示室の入り口で招待状をわたし、B5サイズのパンフレットをもらって入場する。 「そういや、地域交流学生絵画展って、どの地域をいうんだ?」 「区内全部と、両隣の区から募集されてたらしいわ。年齢は小学生から高校生までで、応募作品は一六〇〇点以上あったみたい」 「それがぜんぶ展示されてるのか?」 「あは、それは無理よ。選考に残った一二〇点が展示されているの」 「そりゃそうか。一六〇〇も飾れるほど広くないもんな。……しかし、倍率十倍以上か。狭き門だな」 「うん。だからここに残っているのは、パッと見ただけで技術的に優れたものや、感性を刺激するものばかりよ」  高校生の部へ進んでいく優輝は、パネルから一時も眼をはなさない。ときどき嘆息するのは、自分の画力と比較しているからだ。  その優輝が、不意に足をとめた。 「最優秀賞か……」 「うん」  知らない学校の知らない生徒が描いた、なにげない風景画だった。  油絵にもかかわらず、堅くて重い雰囲気はなく、むしろ明るく華やかであった。迫力はないが、見た瞬間にホッと安心してしまう、そんな魅力を持った作品。 「見ていると落ち着くわ……」  技巧的なことは港にはわからない。優輝ならばその方面で感想を述べると思っていた彼だが、予想ははずれ、彼女は彼と同じように情感を口にした。  優輝は視線を動かそうとしなかった。  港はそこまで食い入るようには見ていられなかったので、となりにも眼を向けてみた。 「あれ?」 「どうしたの?」 「こっちの優秀賞、うちの学校の生徒だな」 「あ、ホントだわ。有明高等学校二年・竜堂舞美……。竜堂さんだ」 「なんともゴツイ姓に、優雅だが発音しづらい名前だな。きっと上半身はマッチョで、下半身がダンサーに違いない」 「そんな人間いないわよ」  優輝が港の冗談に困ったように笑んだ。 「同じ美術部なの。たしか、中学のときも都のコンクールで入賞したことがあるって聞いた」 「へぇ」  港には同じ学校に通う生徒が、こんなところで活躍してるのが不思議に思えた。それに淡い感じの風景画は、彼の既視感を刺激する。 「……ああ、学校の屋上から見た景色か。どうりで見覚えがあると思った」 「こんなに綺麗に描くなんて、知らなかったな……」  優輝がため息をついた。感嘆と落胆がいりまじった吐息。 「そういうけど、こっちも悪くないぜ」  彼は少し離れた場所にある、一枚のアクリル画を指さした。竜堂舞美という生徒が描いた絵と、ほぼ同じ構図の風景画だった。 「有明高等学校二年、水都優輝。佳作」 「え、ホント?」 「ほら、自分の眼でたしかめな」 「うわぁ……」  「ホントだ」とつぶやく優輝は、喜びより呆然の比率が高かった。 「おめでとう、優輝」 「……うん、ありがとう」  優輝は自作の絵を、誇らしげに眺めていた。 「わたし、賞は初めてなの」 「そうなのか。これだけ描けてももらったことがなくて、しかも今回は佳作。オレなんかにはわからないんだが、竜堂の絵とどういう差があるんだろ。絵の具の差か?」  優輝は彼の発想を、おもしろそうに聞いていた。 「たしかに水彩とアクリルでは描き方も完成も違うわ。だけど単純に技術的にみて、わたしと竜堂さんではだいぶ差があると思う」  「でも一番の差は――」優輝はそこで言葉をとめた。 「どうした?」 「ね、わたしと竜堂さんの絵、パッと見てどっちが好き?」  優輝は竜堂の絵から視線を移さずに、港に尋ねた。 「オレにそんなこと聞くのか? うーん、そうだなぁ……」  港は何度も二人の絵を見比べた。 「うまい、というのであれば、風景がきちんとした輪郭を持って描かれているだけに優輝のほうがいいような気はする。でもそれは技術とそれこそ絵の具の差ってやつかな」 「うん、そうね」 「けど、なんだろう、家に飾るとしたら竜堂のほうを選ぶような気がする」  港は自分の感性のまま、優輝に伝えた。お世辞で感想を言っても、優輝は喜ばないだろうとわかっていたからだ。彼女が知りたいのは、港のウソのない気持ちだった。  だから優輝は「だよね」と微笑んだ。まるで自分が描いたように誇らしかった。 「人の感性に訴える作品は、誰がみてもいいものなのね。わたしの絵ってね、そこにあるものを写しとる技術の集まりだと思うの。感性じゃなく、技で魅せる職人、てかんじかな。だから竜堂さんの絵のような、温かい作品がとても魅力的でうらやましい……」 「温かい、ねぇ。よくわかんないけど」 「誰が見ても『あ、いいな』って思ってもらえる作品でしょ? それに、その風景が『生きている』って感じられない?」 「ああ、そうか。うん、なんとなくわかる」 「無機質の美しさじゃなくて、有機体の鼓動。ドラマがあって、想像力を刺激して、それをまとめる力があるような気がするの」 「そこまでいくと、わかりにくくなるぞ」 「アハ、ごめんなさい。でも、わたしもこんなふうに描きたいなぁ」 「ああ、その気持ちはわかる」  港と優輝は顔を見合わせ、声を殺して笑った。 「優輝だって佳作になったんだ。理想に近づいてる証拠だろ」 「そうね。そうだといいな」  優輝は自分の絵を見つめた。あまりに真剣で、あまりに穏やかな表情は、港にはとてもうらやましかった。彼女もまた、村雨かぐやと同じ光をその眼に宿していたのだ。自分には得られない光だが、悔しくはない。ただ、護ってやりたいと思った。 「コウくん、行こう。あと一一七枚も見なきゃいけないんだから」 「ああ」  優輝の手が、自然と港の手を掴む。彼は無意識に握り返していた。  優輝は思いがけない感触の強さに戸惑ったが、絶対に振りほどきたくはなかった。おたがいの有機的な鼓動が、手を通して聞こえたような気がした。  美術館をあとにしたのは、地面がオレンジから重い青に染まるころであった。  二人は交流絵画展以外の展覧会場にもはしごしており、優輝はもちろん港も新鮮な刺激があって時を忘れていた。 「たまにはこういうのもいいな」 「よかった。それじゃ面白い企画があったら、また誘うね」 「ああ、楽しみにしとく」  優輝は明快な笑顔でうなずき、「それじゃ、またね」と美術館の階段を降りていった。 「あ、送るよ」 「ううん、一人で帰りたい気分なの。ありがとう」 「そっか、気をつけてな」 「うん、ばいばい」  優輝の後姿を見送り、港は裏手の駐輪場に向かった。  口笛を吹きつつ自転車にまたがる。 「さてと、メシでも買って帰るとするか」  駐輪場を抜け、スポーツセンターの正面入り口を横切る。そこで、彼女に気づいた。 「今の……」  港は急ブレーキをかけて方向転換する。その小さな背中を発見して、追いかけた。 「みなみちゃん」 「あ……」  東みなみだった。パーカーにショートパンツ姿で、スポーツバッグを担いで歩いていた。まるでバッグの中には鉄の塊でも入っているかのように足取りは重く、蒼白な顔をしている。 「大丈夫か?」 「え、な、何がですか?」 「何って、すごい疲れた顔してるぞ。スポーツセンターで鍛錬でもしてたのか?」 「あ、はい、そのようなものです……。でも、大丈夫ですよ」  みなみは無理に笑顔を作っていた。 「大丈夫には見えないな。ただのオーバーワークならいいけど、その顔色は普通じゃない」 「……」  みなみは作り笑いをやめた。 「結城相談所では、今ならなんと無料相談キャンペーン実施中だ」  彼女は嘘ではなく笑いかけたが、形にはならなかった。どうしたものか、葛藤していた。 「……すみません。やっぱり、話せません」 「そうか、それじゃしかたないな。でも、オレに手伝えることがあるなら何でもするからな」  微笑みかけてくる港に、彼女は心苦しかった。 「結城さんは、親切ですね」 「そうか?」 「はい。わたしなんかの心配をしてくださるだけではなく、協力まで申し出てくださるなんて、よほどでもなければ……」  みなみの言葉は、港には痛かった。彼は、自分が親切な人間だなんて思ったことはなかった。困っている友人がいたら誰であろうと心配になるし、手を貸したいと思うのは普通であろう。それなのに、彼女は『親切だ』などと言う。赤面のいたりだった。 「オレはそんないい人間じゃないって。それよりも、みなみちゃんはもっと自信を持っていいんだぜ。並はずれた運動能力があって、性格も素直で優しいし、オレなんかよりはよっぽどスゴイ人材なんだから」 「そ、そうでしょうか……」 「ああ。みなみちゃんに足りないものがあるとすれば、ただ一つ、『自信』だな。それさえ持てば、みなみちゃんは何でもできるよ。それこそ、オレの助力なんていらないくらいにね」 「そんな、わたしなんて……」  自信なんてなかった。持てなかった。いつだって弱くて、誰かが見守ってくれなければ何一つ満足にできなかった。でも――  みなみはそれっきり、黙って歩き続けた。でも、少しの間でいい。もし彼が手を差し伸べてくれるなら、自分を支えてくれるなら、問題を克服し、自信が持てるようになるかも知れない。自分には今、どうしても助けが必要だった。けれど頼める人間がいなかった。三元流門下には頼れない事情があった。みなみにはもう、彼以外はいなかった。  港はそのはかなげな横顔を眺めながら、静かに自転車を押して付いて行った。  公園を抜けて河川敷にさしかかったところで、みなみは顔をあげた。 「結城さん」 「うん?」 「明日、お暇でしょうか?」 「ああ、予定なし」  明日はゴールデンウィーク二日目で、しかも日曜日だった。 「よろしければ、わたしにおつきあいくださいませんか?」 「ああ、いいよ」  港があっさり受けると、みなみは喜びにあふれた。 「ありがとうございます! 本当に、本当にありがとうございます!」 「大げさすぎ。……それで、どこへ行くんだ?」 「はい、そこの屋内プールなんですけど……」 「プール?」 「あ、ダメ……ですか?」 「いや、いいけど、初デートでプールってのも――」 「デ、デデデデート、ですか!」 「え、違うの?」 「えええええ〜と、その、く、くわしくはまた明日お話します! では、一〇時に入り口でお待ちしておりますので、よろしくお願いします! し、失礼します!」 「お――」  「おい」すら言う間もなく、みなみは消えた。 「からかいすぎたか。まさかあんなに錯乱するとは思わなかった」  港は苦笑いして家路についた。その姿を、一つの影が見つめていたのも知らずに。  目覚まし時計が鳴る。このところ聞くことのなかった懐かしい音だった。  港はそのまま一〇分ほど気づかず、さらに五分過ぎてから手探りで目覚まし時計を止めた。  ようやく静寂が戻った部屋で、彼は疑問を持った。誰がいつ、なんのために目覚ましをセットしたのだろうか、と。  その答えが出た瞬間、彼は飛び起きた。 「寝ぼけてる場合じゃねぇ、みなみちゃんと約束があったんだ!」  慌てて時計を掴むと、まだ九時前であった。 「そうだ、いつもの調子で慌てるとマズイから、早めにセットしておいたんだっけ」  港は安心して、布団から這いだし、身支度をはじめた。  冷蔵庫をあさって簡単な朝食をすませると、軽快に自転車を飛ばして公園に向かう。  プール脇の駐輪場に自転車を収め、エントランスへと足を踏み入れたのは約束の一〇分前だった。  みなみの姿はない。  喫茶室に腰を落ち着け、ガラス張りの窓からプールを見下ろす。朝も早いというのに、百人前後の利用客がいた。  一〇時の時報が聞こえた。 「来ないな。みなみちゃんて、約束に遅れたりするようには思えないんだけどな」  不信に思いながらも、港は大人しく待つことにした。  一〇時三〇分。  まだ来なかった。何かあったのだろうか? 「そういえばオレ、みなみちゃんの連絡先を知らないんだよな。一一時までに来なかったら、手を考えよう」  時計を気にしながら彼女を待つ。  しかしそれでも、彼女は来なかった。  港はこのときほど、携帯電話を持たない我が身を呪った。さらに、もし仮に自宅に何らかの連絡があったとしても、家には誰もいない。留守電にメッセージがあっても、一度家に帰らなければ確認のしようもなかった。 「いや、一つだけ方法があるな」  港は緊急事態に禁忌の扉を開いた。  公衆電話に小銭を入れ、素早く番号を打つ。相手は三回のコールで出た。 『はい、もしもし?』 「良子、すまないが頼みがある」  彼がかけたのは良子の携帯電話だった。 『なによいきなり。しかも着信が公衆電話って、どこからかけてるのよ?』 「悪い、ともかく自宅にいるなら、すぐにウチの留守電を調べてくれないか? 何か連絡が入ってないか知りたいんだ」 『いいけど、いつもみたいに勝手に入って怒らない?』 「冗談を言っている暇はないんだ。頼む」 『……わかった。二分後にまた電話して』 「ああ、よろしく」  港は受話器を一旦置き、一息ついた。  長い二分だった。  それでもきっちり定刻まで待ち、また電話をする。 「どうだ?」 『着信記録はないわよ。赤いランプがつくはずよね?』 「ああ。光ってないならいい。ありがとな、助かった」 『なんならしばらく電話番してようか?』 「いや、いい。連絡がないならないで大丈夫だ。おまえは独り寂しく休日を満喫してくれ」 『布団に殺虫剤撒いてやる』 「ごめんなさい。感謝しておりますからお許し下さい」 『フン、じゃあね』 「ああ、ありがとな」  電話を切ると、すぐに喫茶室に戻る。みなみの姿はなかった。  彼は落ち着きのないまま、待つしかなかった。  そして正午が近くなる。 「事故にあったなんてことはないよな……?」  近辺を捜してこようとイスから跳ね起きたとき、荒い息づかいをしたみなみが目の前に現れた。 「す、すみません! 本当に、なんてお詫びしてよいか……」  来るなり低頭するみなみ。しかも繰り返すものだから、ポニーテールが忙しく上下していた。  港は心配から一転、おかしさがこみあげてきた。安心したせいもあるだろう。 「いや、無事についてくれて良かったよ。何かあったんじゃないかと心配した」 「重ね重ねすみません」 「いいって」  彼はみなみの肩を叩いて、首振り人形のような動作をやめさせた。 「それじゃ、行こうか」 「あの、理由は訊かれないのですか?」 「遅刻の? 別にいいさ。みなみちゃんが息を切らせて走ってくるくらいだから、よほどの事情があったんだろ」  が、みなみとしては申し訳ない気持ちであふれており、言い訳ではなく、港には聞いてもらいたかった。 「じつは、家のほうでいろいろありまして、休みだから日頃のメニューを二倍やれと言われまして……」 「うわ、メチャクチャだな」 「それでその……、朝のメニューだけでもやらないことには外出できなかったんです」  「……おつかれ」彼はしみじみと応じた。 「でも、それならこっちのことはほっといてもよかったんだぜ? ウチに電話でもいれてくれれば、それですんだのに」 「とんでもありません! わたしからお誘いしたのに、そんな都合のいいことはできません」 「そうだけど、朝のメニューだけ終わらせてきたってコトは、残りがあるんだろ? 今からでも遅くないから、そっちに戻った方がいいんじゃないか?」 「ありがとうございます。ですが、わたしはこちらに来たかったのです。……ご迷惑でしたか?」 「いや、時間を割いてくれて感謝したいくらいだ」 「よかった……」  みなみは上気した顔をゆるませて、ようやく安堵した。このころにはすでに呼吸も落ち着き、薄く汗が見える他は、いつもどおりの彼女だった。 「それとですね、もう一つ、こちらに来なければならないワケがあったんです」  みなみは表情は、また深刻さを濃くした。 「お待たせしました」  プールサイドで待つ港の眼に、みなみの水着姿が映った。美しさよりもかわいらしさ、かわいらしさより機能美を優先したようなワンピースだった。彼にマジマジと見られ、恥ずかしがる仕草がまた可愛らしかった。  港はわざとらしく咳払いして、本題に入った。 「つまりさっきの話を総合すると、泳げないと?」 「はい……」  待合室で聞いた、ここに来なければならなかった理由、それが「泳げるようになりたい」だった。  港には意外というか、信じられなかった。 「そういえば、オレがはじめてみなみちゃんを見たのも、ここだったな」 「え?」 「プールに入ろうとして、でも入らないまま行ってしまったのを見たんだ」 「あ、そうなんですか。実は、独りで克服しようとしてたんですが、どうしてもできなくて……」  港は首を傾げて、彼女の言葉の中に含まれる違和感の正体を考えた。 「もしかしてみなみちゃんて、泳げない以前に水が恐いんじゃ?」 「あ、はい。よくわかりましたね」 「断片をつなげれば、そりゃわかるよ」 「わたし、幼少の頃に水遁の術を教わったとき、死にかけたんです。それ以来、広くて深い水場には近づけなくて……」 「ムチャクチャな生活だな。でも、風呂とかは平気なのか?」 「はい。わが家の浴槽は広さも深さも、大したことありませんから」  「なるほど」港は準備運動をはじめた。 「それじゃ、水深一メートルのところから行ってみようか」 「いきなりですか?」  みなみは驚いて、一歩退いた。 「この深さなら頭は余裕で出る。まず立つだけでいい。そこからはじめよう」 「はい……」  消極的なみなみの手を引いて、パイプはしごの側に行く。  港は先に飛びこみ、久々の水の感触を楽しんだのち、水面から顔をだした。 「さ、次はみなみちゃんの番だ」  が、彼女はプールサイドで硬直していた。 「オレには水恐怖症の気持ちは理解できないから、どうすればうまくリードしてあげられるかなんてわからない。だけど、恐いならやめてもいいんだ。人間、泳げなくても生きていけるし」 「……いえ、やらないといけないんです」  みなみは勇気を奮い起こし、はしごに手をかけた。 「はしごから絶対に手をはなさずに、一段ずつ降りて。そばにいるから、危なくなったら助けるから」 「はい、お願いします」  みなみは一段、はしごを降りた。  右足首が、水面を割った。  それだけで、みなみの顔は引きつっていた。想像してしまうのだ。このさきが、広くて深い水に支配された空間であると。自分が太刀打ちできない恐怖の領域であると。 「ムリしなくていい。恐かったらやめてもいいんだ」  恐怖に引きつる女の子を観る趣味は、彼にはなかった。 「い、いえ、やります……」  言葉とは裏腹に、膝まで水に浸かった瞬間、みなみは飛びあがってプールサイドへ逃げた。  港は慌ててはしごをのぼり、青ざめる彼女にタオルをかけた。 「やっぱり無茶だ。震えてるじゃないか」 「それでも、やらないと……」 「どうして?」  みなみは泣き出しそうな震える瞳を彼にむけた。  しばらくためらっていたが、決心したように話しはじめた。 「……結城さんだからお話します。ですが、けして他言はしないでください」 「わかった。絶対に誰にも言わない」 「わたしは泳げるようにならないと、学校を辞めないとなりません」 「え? 体育の単位がもらえないとか?」 「いえ、水遁の術がすべてマスターできないからです。水遁と一口に言っても多くの技があるのですけど、実際に水中で活動するための術もこれに含まれます」 「まぁ、泳げなきゃ水中活動はムリだろうな」 「はい。ですから泳げないと困るのです」  港は彼女の言葉の意味を考える。  理解しようとする。  聞き間違いはないか反芻する。  もう一度考える。 「ゴメン、話がつながってないと思う。水遁の術をマスターしないと、学校を辞めないといけないってのは……?」 「ああ、すみません。わたし、説明とかヘタで、よく生徒会長にも注意されるんです」  慌ててお詫びするみなみ。地上に戻って元気が戻ってきたようだ。 「えーとですね、わたしの家が代々の忍者であることはお話しましたよね?」 「三元流とかいう流派だったけ」 「わたしの家は、その本家とも言うべきところでして、つまり当主が流派を統べる長になるんです」  港は確認するようにうなずいた。ここまでは理解できた。 「わたしは一人娘で、兄弟がおりません。ですからわたしが次期頭首になる予定なんですよ」 「……マジ?」 「はい、本当です。ですから、忍術をすべてマスターしないと立場上マズイのです。できないなら学校を辞めてでも覚えろと父…いえ、御館様が……」 「事情はわかったけど、学校を辞めさせてまで忍術を覚えさせるってのは行き過ぎじゃないか」 「御館様がおっしゃるには、近頃のわたしは鍛錬に身が入っていない、腑抜けるようであれば学校など行かなくてよいと」 「腑抜けてるの?」 「あ、いえ、そ、そんなことはないと思いますが……」  そのうろたえ方には、説得力がなかった。 「でも、SSSの活動は認めてくれてるんだろ?」 「はい。忍術使いとしての経験になるからと、逆に勧められました」 「それじゃそれをタテにして、学校にしがみついてみるとか」 「ムリです。なにより一番はお家の安泰なのですから」  港は唸った。時代錯誤もはなはだしいとさえ思う。 「みなみちゃんは、学校辞めたくないんだよな?」 「はい」 「学校に未練がある?」 「はい。少し前でしたら、こんなには思ったりしなかったのですけど、今は辞めたくない理由があります」  みなみは照れもせずに、はっきりと言った。  「それじゃ、がんばろう」彼は立ち上がり、彼女に手を差しのべた。 「はい!」  みなみの小さな手が、彼の手と重なった。  やる気があるのはわかったが、実際問題として水恐怖症を克服するのは簡単ではない。カウンセラーでもない港には、反復練習で克服する以外の方法が思いつかなかった。  さきと同様、はしごを一段ずつ降りて水に慣れてもらおうとしたのが、どうしても腿くらいまでで限界だった。 「やっぱりダメか」 「ごめんなさい……」  二人は何度目かのプールサイド会議を開始した。 「恐怖症が染みついてるみたいだな」 「……はい」  小さい頃のトラウマが克服されぬままに成長し、知恵がついて余計に恐怖を煽っている。港はそう分析したが、解決の気休めにすらならなかった。  ならばいっそ―― 「みなみちゃん、怖いのと恥ずかしいの、どっちがイヤ?」 「はい?」  港の質問は、意表というより突飛すぎたようで、みなみの思考は断絶した。 「具体的には独りで水に入るのと、二人で水にはいるのと、どっちがいいか」 「え、え〜と……」  彼女は未だに意味がわからないでいる。 「つまり――」  港は彼女の立たせて背後につき、腰から腕を回した。 「あ、え、ゆ、ゆゆゆゆゆ結城さん……!」  真っ赤になって混乱する彼女にかまわず、プールサイドに一歩近づいた。 「こういうこと」  「き、きゃぁ……!」彼女の悲鳴は周囲に届かなかった。ただ大きな水柱が立ち、監視員の眼が険しくなっただけだ。  普段の彼女ならば、ここまで無防備に相手の動きに連動することはなかった。彼だからこそ安心していたのだが、恥ずかしさと水際の恐怖と突然のことにまったく反応できなかったのだ。  彼女はもう、何も考えられなかった。四肢は硬直し、呼吸さえしているのかわからなかった。  ただ、水を通して見た天井はライトがまぶしく揺れていて美しかった。それに、自分の身体を包む、温かい感触が心地よかった。  耳元で、心臓の鼓動が強く響いている。自分の音ではない。なんだろう、この安らぎ――  すべてを委ねてしまおうと思ったとき、彼女の視界が開けた。大きく息を吐いていた。 「しっかりしろ! おい、大丈夫か?」 「……あ」  みなみはへばりつく前髪のむこうに、港の悔しそうな、悲しそうな顔を見た。 「よかった……。ダメかと思った……」 「なにが……です……?」 「ゴメン、本当にゴメン。オレは考えなしだ。危うくみなみちゃんを……!」 「わたし、大丈夫ですよ。よくわかりませんけど、大丈夫です」  みなみは、自分の身体の軽さに気づいた。まるで体重がなくなったように感じる。 「気持ちいいですね……。それに、なんだかあったかいです……」 「そりゃ、水に浮いてるんだからな」  港は心底安心し、やっとのことで軽口を叩いた。 「そうですか……」  と、つぶやいた瞬間、みなみはようやく現状を理解し、手足をばたつかせた。声にならない叫びを上げて、眼の端に映るはしごに手を伸ばそうと必死にあがく。 「おちつけ! 足はつく! オレが側にいるから!」  みなみは声を聞いて、はしごよりも近い港の身体にしがみついた。肩に手を置き、全力で空に向かって伸び上がる。空気があった。 「大丈夫、ゆっくり深呼吸して。何も怖くないから。オレが支えているから」  下から聞こえる彼の声にあわせて、彼女は何度も大きく呼吸をした。 「天井だけを見てて。今、プールサイドに行くから」  みなみは天井の一点をだけを注視し、港の頭を放さないように抱え込んだ。  プールサイドにつくと、港は下から彼女を持ち上げ、座らせる。それでも怖いのか、彼女の腕は頭から離れなかった。 「……あのさ、もう大丈夫だから、抱きつかなくてもいいと思うぞ」 「え……?」  みなみは視線を落とす。  視認する。  驚く。 「あ、あああああああああ、すすすすすすすいません!」  みなみは一瞬にして三メートルほど飛びのいていた。  「気にしなくていい」港もプールをあがり、彼女のとなりに腰を下ろした。みなみは恥ずかしさに、顔をあげることさえできなかった。 「それより本当に悪かった。オレ、恐怖症ってのを甘く考えてた。みなみちゃんがあんなにもダメになるなんて、思いもしなかったんだ。ゴメン……」  かすかに触れていた腕が、小刻みに揺れていた。彼は本気で後悔していた。自分の浅はかさが許せなかった。  彼女にも彼の苦悩が伝わっていた。彼は元来、生真面目なのだ。おどけてばかりいるようで、誰よりも不誠実が許せないでいる。それをみなみは知っていた。だから彼を許せるのだった。 「あやまらないでください。結城さんは、わたしのためにがんばってくださっているのですから。それはたしかに怖かったですけど、結城さんがいてくだされば、わたしもがんばれるんです」 「でも、オレはやり方を間違えた。やってはいけないことをしたんだ」 「そうかもしれません。ですが、次はしなければいいんですよ……なんて、わたしが言ってはいけないですよね」  みなみは微笑んだ。 「それとですね。実はわたし、少しの間ですけど、気持ちよかったんですよ」 「え?」 「水に浮いていたとき、景色が綺麗で、身体が軽くて、こうしていたいって思えたんです」 「そっか……」 「はい。これって、意識さえしなければ、水もそんなに怖くないってわかったんだってことになりませんか? それがわかっただけ、わたしは結城さんに感謝しているんです」 「そういってくれると助かる」 「結城さんは自信を持つべきです。自信を持って行動すれば、わたしなんかすぐに泳げるようにできてしまうんですよ」 「……どっかで聞いたようなセリフだな」 「そうですね」  みなみと港は、互いの笑顔を確認した。 「じゃ、もう少しがんばってみようか」 「はい!」  この日、初めてみなみは大人向けプールに立つことができた。  時刻は午後三時。別れるにはまだ早い時間だったが、みなみにはこのあと、鍛錬の続きが待っていた。  今日の三時間の成果は、プールに入れるようになっただけだ。けれどこの進歩は、みなみが十年以上もかけて成し遂げた大いなる一歩だった。 「ありがとうございました。これで希望が持てるようになりました」 「がんばったのはみなみちゃんだろ。オレはただ、そばにいただけだ」 「そばにいてくれる人がいたから、できたんですよ」 「そうか。これくらいならいつでも力を貸すよ」 「本当ですか?」 「もちろんだ」 「お言葉に甘えさせていただければ、明日もおつきあいくださると助かるのですが……」 「明日? 放課後か? オレはどうせヒマだからいいけど、みなみちゃんにはSSSの活動だってあるだろ」 「えと、事情が事情ですから、明日からしばらくは活動休止をお願いするつもりでいます」 「ああ、そうだな。退学がかかってるんだもんな」 「はい。だから大丈夫です。ゼッタイに来ます!」  めずらしいみなみの力を込めたガッツポーズだった。 「わかった。それじゃ放課後に。校門で待ち合わせだ」 「はい、わかりました」 「じゃ、また明日な」 「はい、失礼します。明日もよろしくお願いします」  みなみはいつもの高速移動術で瞬時に消えた。  港は意気揚々と自転車に飛び乗り、走り出そうとした。が――  バスン!  ハデな音とともに、車高が突然、数センチ減った。 「パンクかよ。ついてない……」  自転車を降りて、後輪をチェックしてみると、タイヤに細長い鋭利な鉄棒が刺さっていた。 「なんだ、これ、ナイフか?」 「そのまま動くな」  しゃがみこんだままの彼の背後から、若い男の声が聞こえた。 「誰だ?」 「動くなと言ったはず。動けば攻撃の意志ありとみて、容赦なく斬り捨てる」 「おいおい、物騒すぎだぞ」 「今回は忠告に来た」 「忠告?」 「今後、東みなみとの接触をやめよ。もし破れば――」  バスン!  自転車の前輪が、先ほどと同じナイフのようなもので貫かれた。彼女の知り合いだとすれば、これは手裏剣だろうか? 「何が狙いなんだ?」 「知らずともよい。良いか、東みなみには近づくな」  声が遠ざかる。  港は慌てて叫んだ。 「待て、せめて名のっていけ!」 「北斗……」 「……意外に律儀なヤツだな」  北斗の気配は、港の背中から完全に消えていた。振り返えると誰もおらず、港は役に立たなくなった自転車と二本の手裏剣とともに取り残されていた。 「……どうでもいいが、パンクの修理程度で直るかな」  港はため息をもらした。  街のはずれに、一際目立つ和風建築の家があった。近所の者は、なぜこのような建物がこのような場所に建っているのかすらわからずにいる。それは、建築様式の古さと敷地の広大さ、住人の不明瞭さが感じさせるのだ。住人の家族構成、仕事、内部構造、どれも正確に知る者がいない。それが「三元流忍術宗家」の屋敷である。  夜になって、その屋敷の勝手口をくぐる一人の人物がいた。一人娘・東みなみである。  彼女は、とある部屋前で立ち止まり、正座をする。障子のむこうに、父親がいるのはわかっていた。 「ただいま戻りました」 「うむ。鍛錬は済ませたな」 「はい、御館様」  忍術関係の会話では、父ではなく御館様と呼ぶのが通例であった。示しである。 「例の試験だが、近日中に日取りを決める。心しておくがよい」 「はい、承知いたしております」 「では下がれ」 「おやすみなさいませ、父上」 「うむ」  父親・東連刻(アズマツナトキ)の返事を最後に、みなみは音もなく廊下を歩いていった。  連刻は、娘との会話に無意識の吐息を漏らす。と、またも障子の奥に気配を感じた。 「北斗か……」 「御意」 「どうであった?」 「御館様のご推察のとおりでございます」 「そうか……。して、その者はどうか?」 「人物としては小物でしょう。世間でいう学友といって障りありませぬ」 「そうか。深く知りすぎてはおるまいな」 「大筋は知ってしまっておりますが、特に問題はないかと。出すぎたとは思いますが、釘は刺しておきました」 「ふむ、手間をかけさせるな」 「いえ、これもお家のためならば」  連刻はしばしの間、言葉を封じた。わずかながらでも考える時間が必要だった。 「そうだな、三元流門下、すべての家のためだ」 「はい」  二人の沈黙は、長く続いた。  いろいろとあった二連休明け、港は良子の料理の香りで起こされた。 「おー、相変わらず早いなぁ〜あ……」 「あくびとあいさつをいっしょにするな」 「そういうな。まだ眠いんだ」 「ホント、よく寝るわね、あんたは」 「適度な運動は眠りを深く心地よくするんだ」 「運動? きのう、なにやってたのよ」 「水泳」 「はぁ?」  いぶかしむ良子にかまわず、港は洗面所で顔を洗い、風呂場に干しておいた水着とタオルを取り込んだ。放課後にまた使うので、学校へ持っていかねばならなかった。 「きのうの留守電と関係あり?」 「ん? ああ、約束してたんでな」  港のいう約束の相手が優輝ではないのを、良子は知っている。彼女とは昨日、電話で話をしていたからだ。嬉しそうに美術館での出来事を語っていたが、水泳という単語は一言もなかった。 「あんた、知らないところでいろいろと人付き合いしてるのね」 「知りたいなら紹介するぞ」 「ま、機会があればね。いいかげんな気持ちで付き合ってんじゃないなら、別にどうでもいいわ」 「オレはいつだって真剣だぞ」 「はいはい。ご飯食べよ」  良子は無関心で味噌汁をすすった。港も彼女の前の席につき、箸をとる。そういえば、と、港は思い出した。彼女はいつも、彼の交友関係を深く追求しない。なぜだろう、こんなにも近くにいるのに。本当に無関心なのだろうか。それとも――  港は首を振った。バカらしい、と思う。良子は保護者でも恋人でもないのだ。関心を持つ理由はないではないか。 「……どしたの? まだ眠気がとれないわけ?」 「あー、ああ。そうなんだ」  港の答えはあからさまにおかしかったが、良子は「そう」と食事を再開した。  そういう態度が、港には余計理解できないでいた。  機嫌のいい優輝との談笑、賑やかなうるちとの昼食、細かい良子の説教、正義との漫才のような会話。日常とも思えるサイクルを終え、港は校門へと急いだ。 「珍しいね、コウくんがあんなに急いで出て行くなんて」 「なんかね、水泳らしいわ」 「水泳?」  聞き返す優輝に、良子は肩をすくめただけだった。  その当人は自転車にまたがり、いつでも出られる準備を整えていた。北斗の忠告など、はなから従うつもりはなかった。 「さきに行きます」  不意にみなみの声が耳をかすめていった。周囲にはおらず、遠くに屋根を渡る制服が見えた。  「待ち合わせの意味ないな」と苦笑いして、港は目的地に向けて走りはじめた。  息をきらし屋内プール場に辿りついてみると、みなみが微笑んで迎えてくれた。 「こんにちは。今日もご面倒をおかけいたします」  ポニーテールが元気に弾む。 「ああ、がんばろう」 「はい!」  港はこの笑顔だけですべてが報われるような気がした。自分だけの特権とすら思える。  二人は更衣室で別れ、昨日と同じ水深一メートルのプールで合流する。  ストレッチだけは入念に行い、プールサイドに寄った。 「それじゃ、さっそくきのうの続きといこう。まずはゆっくり入ってみて」 「はい」  みなみは緊張しながらも、はしごを降りて無事にプールに立った。  港もあとを追う。 「怖い?」 「へ…平気です……」  彼女の声は震えていた。当然だと港は思う。簡単に克服できるものなら、苦労はないのだ。けれど、それを指摘してはならなかった。逆に、怖くないと印象づけられれば克服は早いのではないか、と彼は考えていた。 「うん、平気だ。みなみちゃんは強くなったんだよ。昔の何もできなかった頃とは違うんだから。今のみなみちゃんは誰よりも鍛えていて、たくさんの知識を得ている。だから例え溺れそうになっても、これまでの経験がきっとみなみちゃん自身を護ってくれる。怖がる必要なんてないんだ」  港が笑いかけると、みなみも自信を持てたようにほほえんだ。 「それでもまだちょっと不安なら、頼ってくれていい。オレはみなみちゃんのために、できるだけのことをしてあげたい」 「はい……。とても嬉しいです。ありがとうございます」  みなみはいつものクセで、深くお辞儀をしようとして水面に顔をぶつけた。ガボッと空気があふれる音に続き、みなみの顔が跳ねあがる。  彼女は混乱したのか、彼に飛びついて荒い呼吸を繰り返した。 「大丈夫? 落ち着いて深呼吸して……」  子供をあやすように、彼女の背中を軽く叩く。徐々に呼吸が整い、みなみは平静を取り戻した。  が、今度は別の意味で錯乱をはじめる。 「あああああの、すすすすすみません。わた、わたわたわたし……!」 「はい、もっかい深呼吸。気にしないし、気にしちゃいけない。みなみちゃんを助けるのがオレの役目だからいいの」 「ははははははい……」  みなみは大きく息を吸って、吐き出した。  肩の力の抜けたのを確認して、彼はみなみを解放した。 「どうもはしたないところをお見せして申し訳ありません」 「いいって。気にしないこと。あんまり考えすぎるのもよくないぜ」 「はい……」 「それじゃ、気をとりなおして練習にはいろう」 「はい」 「まずは水に顔をつけることからだな。できる?」 「……やってみます」  みなみはプールサイドに掴まり、一度深く息を吸い込んだ。  大きな水音をたて、勢いをつけて顔を沈める。  彼女の手に、必要以上の力がこもっているのがわかった。  五秒後、彼女は顔をあげた。  激しく荒い息をつき、ぐったりとしていた。呼吸が苦しいわけではない。恐怖にストレスがたまったのだろう。 「できたじゃないか。スゴイよ」 「……はい……」  青ざめた顔でほほえもうとする彼女に、港は休憩を勧めた。が、彼女は震えながらも首を振った。 「まだやれます。がんばらないと……」 「ずいぶんセッパつまってるみたいだな。そこまでして早く泳げるようになりたいのか?」 「はい。あと何日あるかもわかりませんので」 「何日?」 「近々、試験の日取りを報せると昨夜言われました」 「え?」 「それに合格しないと……」  みなみは口をつぐんだ。彼女の深刻な表情が、港にも最悪を連想させた。 「がんばろう」 「はい」  それこそ死に物狂いだろうか。彼女は一時間後にはプールのなかで眼を開け、三〇秒潜るというところまでクリアした。  はじめは水から頭を出すたび、ひどく疲労した表情で荒い呼吸をしていたが、終盤には呼吸の回数がはっきりと減少していた。 「すごいな、みなみちゃんは。どんなに怖くても立ち向かっていけるんだから」 「そんな。わたし一人じゃ絶対にできませんでした。結城さんがいてくれるからですよ」  だが、港は所詮いるだけなのだ。具体的な手助けなどはできないでいる。ただ子供の頃に教わった泳ぎまでの道程をなぞっているだけだった。それを彼女は本気で感謝しているのだ。心の支えなんてものがどれだけ役に立つものなのか、彼にはわからない。それでも些細なことでも役に立てるのは、嬉しいものだった。 「もうだいぶ慣れたね」 「はい」  一休みの後、みなみは緊張の色も見せず、水に身体を沈ませた。ただ入るだけなら、心配はいらないようだ。 「それじゃ、ちょっとゲームをしよう」 「ゲーム……ですか?」 「どっちが長く潜っていられるか、勝負だ。負けた方が帰りにジュースをおごる」 「はい」  みなみは嬉しそうにうなずく。たわいない遊びでも、彼女にとっては貴重な体験だった。 「じゃ、いくよ。3 2 1 ゴー!」  二人は同時に頭を沈めた。  壁に背中を押し当てて、床に座りこむ。  たがいに相手を観察しながら、自分の鼓動だけに耳をすます。  心の中で数えたカウントは三〇秒。  港には少しだけ苦しい。  四〇秒……  四五秒……  四八秒……  五〇秒……  港が限界を感じはじめ対戦相手をうかがうと、みなみはニッコリとほほえんでいた。  さすがに体力ではかなわないようだ。考えてみれば、相手は一キロや二キロをダッシュしても、息ひとつきれない人間なのだ。港は悟り、それでもギリギリまで耐えてから、水上に酸素を求めた。  彼に続き、みなみも静かに顔をだす。 「みなみちゃんの体力を計算にいれてなかったよ……」 「そ、それは申し訳ありませんでした」  港は笑って、彼女の頭を小突いた。 「帰りは約束どおりジュースおごるな」 「はい、ごちそうになりますね」 「よし。それじゃ、本題にはいろうか」 「はい」 「次は浮くことを重点にやっていこう。泳法なんぞ、浮いて息継ぎができれば、あとからいくらでもついてくるからな」 「そういうものですか?」 「そういうものだ。浮きさえすれば、体力に任せてバタついているだけで進むことはできる。特にみなみちゃんならそれだけで太平洋横断だって可能だとオレは信じている」 「それは無理です」  みなみも冗談とはわかったようで、苦笑いした。 「足が床についてないから不安だろうけど、オレが支えているから安心して」 「はい」  慣れてきたとはいえ、みなみの声に震えがあった。  それでも意を決して床から足を離す。が、とたんに彼女は混乱した。  港はもがくみなみを抱きとめ、落ち着かせてやる。 「はじめはプールサイドに掴まってやろうか。んで、オレが身体の下に手を添えておくよ」 「は、はい、お願いします」  まったく何もない空間よりは、掴むものがあるだけ安心できるらしい。みなみは床を蹴って身体を伸ばした。 「うん、大丈夫、できてるよ。苦しくなったらそのまま顔だけ上げてみて」 「ぷはぁ」 「ひと呼吸したらまた顔をつける。しばらくこれだけを繰り返そう」  みなみは水中でかすかにうなずいた。 「はい、飲み物」 「ありがとうございます」  プールからあがった二人は、エントランスで休憩をとった。  港は約束どおりみなみにジュースを渡し、自分のプルトップを開ける。 「手放しで浮くところまではできたね」 「はい。自分の周囲に支えがない感覚には、まだ慣れていませんけど……」 「オレはあの開放感がけっこう好きなんだけどな」 「そうなんですか」  みなみにはそれが実感できなかったので、あいまいにしか答えられなかった。けれどそれがわかるときがくればいいな、とは思っていた。 「さて、もう八時になるな。送っていくよ」 「あ、いえ、帰りも走っていくので……」 「そっか、大変だな」 「いいえ、慣れてしまってますし、楽しいことばかりだと、バチがあたりそうで……」 「楽しいこと?」 「あ、いえ、あの、な、何でもないです……」  みなみは真っ赤になってうつむいた。 「あ、あの、明日もまた、お願いしてよろしいですか?」 「ああ、もちろん。しばらくはみなみちゃんに付き合うつもりでいるから」 「も、申し訳ありません……」 「それ、言葉が間違ってるな」 「え、あ……」 「謝罪よりも感謝のが、普通は喜ばれるぞ」 「あ、はい、そうですね。ではあの、ありがとうございます。よろしくお願いします」 「うん。それじゃ、帰ろうか」 「はい」  二人は入り口で別れた。  夜の風が、湿った身体に冷気をまとわせる。  港が駐輪場に着くと、その冷たい風にまぎれて男の声が届いた。 「どうやら、口で言ってもわからぬようだな」  港は北斗の声を聞き、身構える。どこにいるのか、見当もつかなかった。 「あいにく性根が腐ってるものでね」 「らしいな。今回は見逃さぬ。当分、病院の世話になるがよい」  風きり音がかすかにするが、完全な特定はできない。  港は手も足も出ず、恐怖に硬直していた。  ようやく音の発生源に気づき、彼は回避運動に移ろうとした。だが、考えている時点で行動は遅すぎたのだ。  彼ができたのは、覚悟を決めることくらいであった。  そのとき、新たな風きり音が迫った。  それは彼を助ける神風だった。  港に突き刺さる寸前の手裏剣が、別の白い手裏剣に叩き落とされていく。  命拾いした彼の目の前で、ポニーテールが跳ねていた。 「みなみちゃん!」 「ご無事ですか、結城さん」 「ああ、助かった」 「風に乗って殺気が漂ってましたので、心配で戻ってきたんです」  みなみはただ一点を凝視していた。 「北斗兄様、出ていらしてください」 「兄様? みなみちゃんは一人っ子のはずじゃ……」  港の疑問に答える間もなく、鍛え抜かれた肉体と鋭い眼光の男が木から飛び降りてきた。 「みなみ、出しゃばるでない」  港は得体の知れない気配に気圧され、一歩退いていた。 「いいえ、たとえ兄様でも、今回ばかりは見過ごせません」 「内密にコトを進めたかったが、仕方あるまい」  北斗は再び殺気をたぎらせた。 「なぜこんなことをなさるのですか? 結城さんはわたしに協力してくださっているだけなのですよ?」 「それが余計なのだ。三元流を護るためには、いたしかたあるまい」 「それは、わたしが長になってはならぬと言うことですか?」 「そうだ!」  北斗は軽く跳躍して、港の頭上を越えつつ手裏剣を放った。  みなみがそれを迎撃する。 「たしかにわたしはまだまだ未熟です。ですが、それを補うために日々精進を重ねております」 「技術だけの問題ではない。精神的にも腑抜けておるではないか。そのようなことで、三元流忍術宗家としての役目が果たせるのか?」 「それは……」  「ちょっと待てよ!」一方的な暴言に、結城は怒りが湧いた。 「みなみちゃんのどこが腑抜けてるって言うんだ? いつだって真剣に、まっすぐにがんばってるじゃないか!」  港の弁護を受け、みなみちゃんは恥ずかしげにうつむいた。  北斗はその隙を見逃さない。 「それが腑抜けてると言うのだ!」  手裏剣が束になって襲ってくる。  みなみの反応は遅れていた。  港は彼女を抱きしめ、力強く地面を蹴り、横へ逃げた。 「だいじょうぶか?」 「は、はい!」  みなみは素早く体勢を整え、北斗と正対する。  しかし北斗は、殺気をすべて落としていた。 「……結城港とやら」 「なんだ?」 「ヌシがみなみのことを大事に思うのはわかった。なればこそ、手をひいてもらいたい」 「なんだ、そりゃ? 泳げるようにならないと、学校を辞めなきゃならないんだろ? 見過ごせるかよ」 「コトはそれほど単純ではない」  港をかばうように立つみなみの表情は、彼には見えない。けれど身体を震わせている彼女が、どんな心境でいるのかわからないほど、彼は鈍くはなかった。 「……説明はしてくれるんだろうな?」  北斗は微動だにしなかった。 「わたしから……お話します……」 「みなみちゃん……」 「わたしが今度の試験で認められなかった場合、わたしはたぶん、家を継ぐことができないでしょう。そしてきっと学校も辞めさせられます」 「ああ。だから今、がんばってるんじゃないか」 「それ以上の問題があるんです」  みなみは未だ、振り向こうとはしなかった。 「わたしが家を継がなかった場合、誰かが宗家を引き継がねばなりません」 「そりゃ、そうなるだろうな。……て、まさか!」 「わたしは一人娘です。家を継ぐ殿方に、嫁ぐこととなるでしょう」 「婿養子を迎えるってことか……?」 「はい……」 「理屈はわかるけど、そんな、今時そんなことが……」 「そしてその候補者が、イトコである北斗兄様なのです」  港は忙しくみなみちゃんと北斗を見比べた。おかしい。北斗は彼女を頭首にしたくなさそうであった。協力するのも阻止しようとした。それはもしかして―― 「北斗、アンタはもしかして、自分が婿養子になって宗家をのっとろうとしているんじゃないのか?」 「え!」  港の発想に、みなみは驚愕した。みなみには思いもつかないことであった。北斗は家族同然であり、尊敬できる人物だった。 「だからオレがジャマなんだろ! みなみちゃんに長になられちゃ困るからな!」 「北斗兄様はそんな方ではありませんよ。子供の頃から本当の兄のようにお慕いし、尊敬してきた方なんです」 「今もそうとはかぎらないだろ。欲に目がくらんだとか――」 「やめてください!」  港は耳を疑った。彼女が怒声をあげるとは信じられなかった。しかもその対象が自分になるなどとは。 「北斗兄様は、欲に目がくらむような方ではありません! 憶測でヒドイことを言うのはやめてください!」 「……」  彼は呆然とし、何も答えられなかった。彼女は自分よりも北斗を信頼している。それが理解できただけだった。  みなみも気づいたのであろう。自分が声を荒げているという事実に。大切な人間を愚弄され、許せなかったのだ。だから彼女は声を上げても弁護しなければならなかっただけだった。しかし、一息ついてしまうと、自分の行為の結果に慄然とするものがあった。 「あ、す、すみません! ですが、北斗兄様は本当に……」  みなみはようやく港の方へむいた。けれど、視線は逃げていた。真正面から彼をみることができなかった。 「いや、いい」  港もまた、彼女を見れなかった。全面的に自分が悪かったとわかっていた。けれど、それ以上にみなみの怒声は強烈だった。 「あ、あの……」 「よく知らないオレが、余計なことを言ったのが悪いんだ。だから、あやまらなくていい」 「ですが……」 「いいって!」  港もまた、感情の行き場を失い、怒鳴ってしまった。彼は北斗に嫉妬していた。信頼されている彼と、何も知らないで彼女の協力者ヅラしていた自分との差を、痛烈に思い知り。  港は自転車を起こし、北斗に目を向けた。 「アンタの言うとおり、オレはもう手を貸さないほうがいいみたいだ。オレはなんにも、わかってなかったんだから……」 「結城さん!」 「みなみちゃんなら、もう、一人でも大丈夫だよ。がんばってな」 「結城さん……」  港は振り返ることすらできなかった。みなみの眼に浮かんでいる悲しみにすら気づかなかった。  ペダルのこぐ音が、こんなにも虚しいかったことはなかった。  今はただ、この場を早く立ち去りたかった……