「Pure☆Colors」 第五話 「大丈夫なの? なんか調子悪そうだけど」  良子はようやく起きた港の様子に、違和感が覚えた。  目覚めてしまえば軽口の一つも出る彼が、大人しく彼女の言葉に従って着替えをしている。 「うん? ああ、大丈夫だ。寝不足なだけだ」 「それならいいけど」  良子は半信半疑だった。昨夜、彼は長い時間ベランダにいた。それを知っているだけに、心配であった。 「よし、メシ食って学校行くか」 「あんまり無理しないほうがいいわよ」 「病人みたいに言うな。オレは大丈夫だ」 「ならいいけど」  良子はまた同じ言葉を返した。  しかし、彼のやせ我慢も昼休みには翳りが見えていた。 「コウくん」 「優輝か。どうした?」 「コウくんのほうこそ、どうしたの? 顔色が悪いよ」 「ああ、少しダルいだけだ」  「風邪でもひいたか?」購買に誘おうと席を立った正義が割り込んでくる。彼はなぜか嬉しそうだった。 「気のせいだ。オレは風邪をひかないと決めたんだ」 「決めるだけで病気にならないなら、病院はいらないぞ」  「保健室にいってきたら?」優輝は二人の冗談にのるつもりはなかった。 「いや、それほど大げさなもんでもないだろ。セイギ、パン買いにいこうぜ」 「食うことは忘れないんだな」 「ホントに大丈夫?」  優輝が彼の顔を覗き込む。心配しているのがはっきりとわかる表情だった。  港は、それゆえに強がるのだった。 「平気だって。食って寝ればすぐに回復するさ」  二人は購買に向かった。 「ホントに、大丈夫なのかしら……」 「そうね、放課後には倒れるかも」 「良子ちゃん、放っておくの?」 「しかたないでしょ、あたしらが言うと余計に反発するんだから。あれでカッコイイとか思ってるんだから、バカよねぇ」  良子は辛辣に言い放ち、弁当箱を広げた。  優輝は立ち上がりかけたが、結局は良子とともに食事をはじめた。自分の言葉など届かないのを、彼女は知っていた。それこそ良子の言うとおりであった。 「コウ、元気ぃ!?」  購買でパンを仕入れて教室へ戻る途中、二人の前にうるちがいつものヘッドホンとせんべいを片手に現れた。 「あいかわらず、ムダにパワーのあまったやつだな」 「それがあたしのいいところ。ところで、今日は屋上?」 「ワルい、体調よくないから教室で食う」 「あえ? めずらしいね、コウが病気なんて」 「病気と決めつけるな。まぁ、とにかくそういうことなんで、またな」 「うん……」  いきなりテンションが下がったうるちに、港はため息が出た。 「……しょうがないヤツだな。うるち、一人で退屈ならうちの教室こいよ」 「え、でもあたし、おせんべいバリバリだよ」 「そんなの、うちのクラスじゃ誰も気にしないぞ。鍋をやってるヤツがいるくらいだからな」 「ウソォ!」 「信じられないのも無理はないが、事実だ。他にも鉄板焼きやソバを打つヤツもいるぞ」 「どーゆークラスなの、B組って……」  うるちは眼が点である。 「自由な校風を婉曲してさらに利己的に解釈しているクラスだ」 「すごいね、あたしもB組になりたかったな」  うるちの感想は本音である。もしそうであれば、屋上で一人で食事をすることもなかったはずだった。  それまで黙ってやりとりを眺めていた正義が、うるちに呼びかけた。 「えーと、うるちちゃんだっけ? 気にすることないから、いっしょにメシ食おうぜ」 「んじゃ、おジャマしちゃおっかな?」 「おう、来いこい」 「うん!」  うるちは港に付いてB組の教室に入った。 「そこがオレの席だから、座ってろ」  港はイスをうるちに譲り、自分は正義のイスを引っぱりだした。 「おい、オレの席は!」 「その辺から持ってこい。学食組のところは空いてるだろ」  正義はブツブツ言いながら空きイスを手に入れてきた。 「コウ、ずいぶん大きいパンを買ってきたわね」 「だろ? せんべい味がするんだ。時々『あえ〜』とか鳴く、変わったパンだ」  「はいはい」良子は自分で振ったネタを軽く流し、うるちに眼を移した。 「いらっしゃい、うるちちゃん」 「ゴメンねー、お邪魔しちゃって」 「いえいえ、このクラスのお昼休みは無法地帯だからね、気にしなくてもいいわよ」 「あや、ホントにそうなんだ。コウの冗談かと思ってた」 「ま、一部だけどね。あそこのグループがよく料理やってるわよ」  良子が指すところに、電気コンロで焼きソバを作ってる一団がいた。「火力が薄いよ、なにやってんの!」「ソースかい? 早い、早いよ!」などと叫んでいる。 「簡単料理研究会とかいう同好会が集まってるらしいわ。一皿二百円くらいで売ってくれるわよ」 「あえ〜、見つかったら大変だね」 「過去に三度見つかってるわよ。でもまだやってるわ」 「過去三度って……。新学年はじまってまだ二週間だよ?」 「だからナイショね」  「りょーかい!」うるちは会心の敬礼をして、それから良子と席を同じにしている髪の長い女子生徒を見た。 「えと、こないだはあいさつもしなくてゴメンね。あたし、津川うるち。よろしく〜」 「あ、わたしは水都優輝。よろしくね、津川さん」 「うん、よろしく、優輝」  うるちは優輝の表情を見た瞬間、理解したことがあった。けれど、口にはしない。口にしたのは、コウに対してだった。 「コウはいいねー。こんなキレイどころ二人に囲まれて」 「キレイどころって……。おまえ、オヤジくさい表現使うな」 「じゃあ、なんて言うの?」 「そうだなー、まるで花のように可憐でたおやかで美しい! 例えるならラフレシアとユリの花、とか」 「ほう、どっちがラフレシアなのかな?」 「それはセイギに訊いてくれ」 「オレかよ!」  その日の教室のにぎやかさは、今までの比でなかったのは言うまでもない。  六時間目が終わる頃には、港はもう満足に眼を開けていられなくなっていた。呼気は荒く、寒気がひどい。身体中から汗があふれ、意識が朦朧とする。 「コウ、大丈夫? かなり熱っぽそうだけど」 「ああ、たぶん平気だと思っていられればいいと考えているものの、やはりダメなような気分がしないでもないから不思議なんだよな」 「ワケわかんねぇぞ、おまえ。熱にうなされてんじゃないのか?」  正義のツッコミにも、港は唸って終わりだった。 「病院にいったほうがいいんじゃないかしら」 「大丈夫。うちで寝てれば治る」 「そういうけど、一人で帰れるの?」 「帰れるさ。逆立ちでだって帰れるぞ。なんたって頭ンなか、グルグルしてんだから」 「……ダメそうね。悪いけど須藤くん、こいつ自転車の後ろに乗せていってくれないかしら」 「そうだな、一人で帰すにゃ危なそうだ」  正義は自分と港のカバンを片手に持ち、空いた腕で港を支えた。 「あ、だったらわたしもついていくわ。おうちには誰もいないんでしょ?」 「いや、寝てりゃなおるって。優輝も良子もクラブあるんだから、気にすんな」 「本当に大丈夫?」 「ハハ…、平気だって。サンキューな、優輝」  正義は自転車置き場に着くまでで体力の半分を消費していた。自転車に病人を乗せるのは、さらに力が必要だった。 「ほら、しっかりしろよ。優輝ちゃんたちが心配するぞ」 「あ、ああ、ワリィ……」  港は自転車の後部荷台に座り、正義に抱きつくようにもたれた。  後ろの人間が満足にバランスを取ろうとしないものだから、走行は安定しない。校門を抜けるまでに五分以上、浪費していた。  その様子を、貯水槽の上から見下ろしている赤い服の少女がいた。少女は一人でオロオロし、それから思い立ったようにその場から消えた。 「……よし、と。おとなしく寝てろよ」  正義はようやく港を送り届け、布団に寝かしつけた。幾度となく文句が流れ出ていたが、彼をいいかげんには扱わなかった。口でなんと言おうが、友人を見捨てるつもりはなかった。 「なんかいるか?」 「水……」  「あいよ」正義は立ち上がり、冷蔵庫を開ける。ちょうどよいことに、『海老やん』のペットボトルがあった。『海老やん』は天然海水を蒸留した最高級のただの水で、ときどきエビが入っているところから名づけられたと言う。  彼はコップを軽くゆすぎ、海老やんを注ぐ。と、玄関のチャイムが鳴った。 「はいよー」  正義はたぶん優輝か良子が来たのだろうと思った。が、開けた先には誰もいなかった。 「あれ?」  他の家のベルと聞き違えたのだろうか。正義は玄関を閉める。  と、またチャイムが鳴った。 「はいはい」  少々怒気の混じった呼びかけをして、再び扉を開ける。  いない。 「なんなんだ、いったい。ピンポンダッシュか? そんなのはオレがいないときにやってくれ」  正義は不機嫌に扉を閉じ、汲みっぱなしの水を手にした。  そこへ三度目の音。 「いいかげんに――!」  正義は乱暴に扉を開けた。 「す、すみません!」 「あ?」  今度は人がいた。有明高校の制服を着た、長すぎるポニーテールの女の子だった。 「……誰?」 「あ、あの、結城さんの知り合いなんですが、こ、これを……」  女の子は正義に小袋を突きつけた。  鼻先に当てられたそれは、強烈な草の臭いがした。 「これ、秘伝の風邪薬です! どうかこれ、飲ませてあげてください!」 「あ、そう……。わかったけど、キミは――」  正義の言葉が終わる前に、彼女は「ししし失礼しました!」と走り去っていた。 「はえー……。てか、結局だれよ? どっかで見たことあるような気がするんだけどなぁ」  正義は手にした小袋とすっかり温くなった水とともに、港のもとへと戻った。 「誰か来たのか?」 「ああ、よくわかんねーんだけど、ポニーテールの女の子がこれを届けに来た」  港は年季のこもった赤い巾着袋を受け取ると、すぐに相手がわかった。 「ああ、みなみちゃんか……」  彼は袋を開け、中の深緑色の粒をいくつかつまみ、口に含んだ。あまりの苦さに慌てて水で流し込む。 「で、みなみちゃんって誰だ?」 「おまえもプールで見てるはずだ」 「あ、あーあー、あのときのコか」  正義はようやく了解し、「なるほどなるほど」と何度もうなずいた。 「けど、いつの間に仲良くなったんだよ」 「まぁ、いろいろあってな。ダメだ、もう寝る……」 「そうしろ。それじゃオレは帰るけど、大丈夫か?」 「ああ、面倒かけた。あとは寝てるから平気だ」 「そうか。じゃ、またな」 「サンキュー……」  正義が玄関を出る頃には、港は寝息を立てていた。 「しかし、優輝ちゃんに良子ちゃんにうるちちゃん、そしてみなみちゃんか。大人気だね、アイツは。あとで面倒にならなきゃいいけどな」  それはやっかみ半分の、彼の心配だった。 「どうせ最後は……。やめた、アホらしい」  なぜ自分が港のことを気にかけねばならないのか、どうにも納得がいかなかった。  港は夜中になって一時的に目を覚ました。  枕元にはスポーツドリンクとおにぎりが置かれており、良子がきたのを感じさせた。  彼はもうろうとしながらも汗にぬれた服を着替え、スポーツドリンクで喉をうるおし、また眠った。  眠りは深く、夢はみなかった。  「コウ、大丈夫?」  港はかすかに揺すられたのを感じた。良子の声だとわかり、ゆっくりと眼を開けた。頭の中で、安定しない錘がゴロゴロと転がっている感覚があった。 「良子……?」 「うん。どう、体調は? 熱はひいた?」 「熱なんてぜんぜん計ってないな。でも少しダルい。寝すぎのせいか?」 「冗談いってないで、はい、熱を計って」  わたされた体温計を、港はわきに挟んだ。 「着替えだしておくから、着替えなさい。あとご飯はしっかり食べなさいよ」 「いま何時だ?」 「八時過ぎ。あたし、もう学校いくけど」 「ああ、悪いな良子」 「別にいいわよ。それより、熱はどう?」  タイミングよく計測終了のアラームが鳴り、彼は体温計をだした。 「三七度二分。中途半端な熱だな」 「今日は寝てなさい。ぶり返したら意味ないんだから」 「そうだな。カゼひくなんて滅多にないし、たまにはうちで寝てすごすか」 「だからってTV見てばっかりいるんじゃないわよ」 「オレは寝てていいなら永遠に寝てるぞ」 「たしかに。それじゃ、あたし行くから。学校にはあたしから知らせておくね」  「よろしく頼む」と、彼は布団の中から手を振った。  良子の気配が結城家から消えると、港は起きだし、彼女が作っていったお粥を食べた。味覚がまだおかしかったが、良子の作るものは常に彼にはぴったりと合うのである。市販の梅干のまずさは、お粥のうまさをよけいにひき立てる。  食事と着替えを済まし、寝床に戻ると、それが目についた。  机の上に置かれた小袋。中にはまだ、小粒が十数個入っていた。 「これのおかげだろうな、やっぱり」  港はみなみに感謝して、数粒を飲む。  そして、布団に潜った。 「あえ、コウが風邪?」  学校の昼休み、せんべいを抱えてB組にやってきたうるちは、良子から話を聞いて驚いた。 「鬼のカクハン?」 「それを言うならカクラン。まぁ、きのうの朝からダルそうだったからね」 「そっかー、じゃ、今日は帰るね」 「なんで? いっしょに食べていけば?」 「あえ、いいの?」 「なんで? おせんべいとおかず、交換しようよ」 「うん。じゃ、おじゃまー」 「はいはい」  うるちは港の席を占領し、せんべいの袋を広げた。 「優輝も遠慮しないで食べてね。うちの特製だからおいしいよ」 「うん、いただくね」  ためらいがちだが、優輝が応えてくれたのがうるちには嬉しかった。 「でさ、コウの様子はどうなの?」 「もう平気だと思うわ。朝は言動もしっかりしてたし、熱も高くなかったから。明日には復活するでしょ」 「朝? わざわざ朝からコウのウチに行ったの?」 「あれ、聞いてない? あたし、コウの家の隣なのよ。いわゆる腐れ縁ってやつ?」 「あえー、そなんだ。幼なじみというのは聞いたけどね。コウといっしょじゃ苦労も多かっただろうねー」 「わかる?」 「わかるよ!」  良子とうるちはヒシッと抱き合った。 「と、それはともかく、うるちちゃん、ヒマがあれば見舞いがてらからかってきたら?」 「ん〜、どしよ」 「何か予定でもあるの?」 「あたし行くとさ、騒がしくて休まらないよ。あれでもいちおう病人だしね。良子か優輝が行くほうがいいと思うよ」 「あたしはどうせ夜に顔を出すから。部活もあるし。……あ、そうだ優輝、行けそうなら代表で行ってきてよ」 「わたし?」 「あー、それいいねー。コウ、大喜びだよ。仮病で一週間は休むかも」 「それはあたしが許さない」 「だよねー」  うるちは「キャハハハ」と笑った。 「うん、じゃ、行ってくる」  優輝は少し恥ずかしげに微笑んだ。  三人は話はまとまったとばかりに食事に移った。 「あのぅ、オレ、いるんだけど……」  正義が苦笑しながら声をかけると、良子が不思議そうな顔をした。 「知ってるわよ? どうかしたの?」 「い、いや、なんか忘れられてるような雰囲気だったもんで……」 「そんなことないわよ。もしかしてコウのお見舞い行きたかったの?」 「行きたくない……」 「じゃ、いいじゃない。ヘンなの」 「コウがいないときは、セイちゃんがイジメられるんだね……」  うるちは不憫な彼に、おせんべいを一枚あげた。 「どうせオレは日陰モンだよ……」  正義の食べるせんべいは、ひときわしょっぱかった。  次に港が目覚めたのは、もう夕刻であった。  汗も出ないし、熱もひいている。食欲もあるし、味覚もしっかりしていた。体調は万全だった。  給湯器のお湯で身体を拭き、改めて着替えをする。わずか一日でだいぶたまった洗濯物を洗濯機に放り込んだところでチャイムが鳴った。  「はーい」と少々かすれた声で返事をし、扉を開く。 「こんにちは、コウくん。カゼのぐあい、どう?」 「優輝、わざわざ来てくれたのか」 「わざわざってほどじゃないよ。みんなの代表、かな」 「なんだそれは。まぁ、入ってくれ」  「うん」優輝は遠慮せずに部屋へあがった。考えてみると、彼の家に入るのは初めてだった。間取りは良子の家と同じだが、家具の配置や小物の並びで、やはりまったく別の家だと実感する。 「ごめんなさい、寝てた?」 「いや、洗濯でもしようと思ってたところだ。身体も大丈夫のようだし、明日は学校に行けるだろう」 「よかった。きのうかなり辛そうだったから、心配だったの」  示されたリビングのイスに、二人は腰掛けた。 「今日、良子から聞かなかったのか? 今朝にはだいぶ熱はひいてたんだぜ」 「うん、でも、風邪ってぶり返すじゃない。だから……」 「サンキュ。でもホントに平気だ。……そうだ、なにか飲むか? 冷蔵庫にジュースがあったはずだ」  立ちあがりかけた港を、優輝がとめた。 「あ、わたしはいいから、コウくんはもう休んで。わたしがお世話かけちゃ、お見舞いの意味がないもの」 「さすがにもう寝飽きた」  彼の人生の半分を否定するようなことを、彼は口にした。 「それでも寝るのが病人の仕事だよ」 「そうなんだがな、腹も減ってきてるし、まずは何か食べてからだな」 「それじゃ、わたしが作るわ」  優輝ははりきって立ち上がった。 「あのな優輝、そんなこと――」 「冷蔵庫の中のもの、使っていいかしら?」  優輝は港の言葉をさえぎって、冷蔵庫から食材を物色する。彼が断るのは眼に見えており、押し通すには多少強引でも作業をはじめるしかなかった。  港にもそれが理解できたから、それ以上は言わなかった。 「好きなだけ使ってくれ。あとはまかせた」 「うん、まかせて!」  港はおとなしく寝床に引っ込んだ。洗濯でもはじめようものなら、それすら肩代わりをしだすだろう。さすがにそこまで甘える気にはなれなかった。  小一時間ほどで食事が完成した。あまり胃に負担にならないものをと、ロールキャベツをメインにすえて、やわらかめのごはんとコンソメ仕立ての鶏と野菜のスープ、大根の煮物に海藻の酢のもの。素朴だが身にしみる美味しさが、彼の箸を駆り立てた。 「ごちそうさま。本当にうまかった」 「よかった……。良子ちゃんに比べたら、わたしの料理なんてダメかと思った」 「そんなことないって。身体にあわせて消化によさそうなもの作ってくれたし、そのうえうまいんだからな。感謝だ」  優輝は心からの笑顔を浮かべた。 「それじゃ、かたづけをして、わたし帰るわね」 「ああ、洗うのくらいはできるから、もう帰ったほうがいいぞ」 「ダメよ、コウくんは寝てなきゃ。たまには甘えたっていいんだから」 「そうか? それじゃ悪いけど、頼むな」 「うん」  彼は抗うのをやめて、歯を磨いて素直に布団に入った。  水の音がしばらく続き、そしてやんだ。 「コウくん、終わったから、わたし帰るけど」 「今日は本当にありがとな、助かった」 「ううん、わたしも役に立てて、ちょっと嬉しかったの。また明日、学校でね」 「ああ、またな、優輝」  優輝は「おやすみなさい」と手をふって、帰っていった。  部活を終えた良子が港の様子を覗きに来たのは、それから三〇分も過ぎていない。 「ご飯は食べたようね。元気そうだし、もう平気ね」 「ああ、世話かけたな。明日は学校へ行く」 「そ。時間割、間違えないようにね」 「大丈夫、教科書はぜんぶロッカーだ」 「ウチで勉強する気はないの?」 「ない」  「だよね」良子は肩をすくめた。 「じゃ、おやすみ」 「ありがとな」  港の謝礼に微笑んで、良子は帰った。  彼は玄関の鍵をかけ、一つずつ電気を消して部屋に戻った。  面倒をかけたそれぞれの人に感謝して、最後の明かりを落とした。  トントントン……。  規則ただしい包丁の音が聞こえる。  港の耳にはなじみとなっている、良子の作りだすリズムだった。  深く眠ったおかげで、彼は心地よい目覚めを迎えていた。 「よう、良子」 「おはよう。身体のほうは大丈夫? ぶり返してない?」 「完全復活だ」 「そう、よかったわね。ごはん、もう少しかかるわよ」  まな板へと視線を戻す良子に、彼は「シャワー浴びてくる」と伝えフロ場へ向かった。  「熱くしなさいよ」というおせっかいが聞こえてきて、彼は「子供じゃない」と小声で文句を言った。  身体にまとわりついていた不愉快な汗を流して出てくると、あたたかい食事が待っていた。 「身体が健康だと、メシもうまいな」 「健康だからおいしいのかしら?」 「ひねくれたヤツだ。おまえの料理の腕は、オレが認める唯一の美点なんだぞ」 「ほぉ〜。じゃ、あたしにはその他に美点はないというのね?」  良子の眉が、ピクッと反応した。 「まったくないよりいいと思うぞ」  港はフォローをしたつもりであったが、良子のコメカミは震えていた。 「い、いや、他にもあったぞ。ツッコミのうまさとか、ひねた考え方とか、バカ力とか……」 「……港くん?」 「はい、なんでしょうか?」 「今度は病院で三ヵ月くらい寝てみる?」  良子の拳がゴキンと盛大な音を鳴らせた。 「待て、何を怒ってるか知らんが時計を見ろ!」  良子は彼にむけていた殺気をはらんだ眼光を、壁にかかる時計の針へと移した。 「そろそろ学校に行かないとヤバイぞ!」 「……」  学校と殺意のどちらを優先するかしばらく思考していた良子は、港への攻撃を断念し、食事を再開した。  食事が済み玄関を出る頃には、良子は冷却され、いつもどおりであった。港が心より安堵したのは言うまでもない。 「おはよう。カゼはもう平気?」  始業のチャイム五分前に到着した港を待っていたのは、優輝の明るいあいさつだった。 「ああ、このとおりだ。きのうはありがとな」 「ううん。はやく治ってよかったね」 「なんだコウ、もう学校に来たのかよ? しばらく休んでりゃいいのに」  港・良子組から遅れること十秒、正義が悪態をつきながら現れた。 「公然と学校を休める機会なんか、滅多にないんだぜ」 「寝てるだけってのは、意外に退屈なんだ」 「外に遊びにいきゃいいじゃん」 「ああ、その手があったか!」  半ば本気で悔しがる港の頭を、良子が丸めたノートで叩く。 「ないない。バカなこと言ってないで、きのうの分のノートを写しちゃいなさい」 「そうか、そんな面倒な作業が残ってたな」  港はしかたなく正義との会話を打ち切り、良子のノート写しに専念した。  昼休みになり、港と正義のコンビは恒例の購買パンを買った。今回は病み上がりで体力が落ちているため、港は奮発してゲロビタΣと呼ばれる滋養強壮飲料をオマケで仕入れていた。  その帰り道、せんべい娘が予告もなく出現した。 「おーす、コウ。元気そうだねー」 「そういうおまえはいつも元気だな」 「おせんべいおいしいからねー」 「ワケがわからん」  うるちは「えへへ」と作った照れ笑いを浮かべる。 「風邪ひいたって聞いたけど、だいじょぶ?」 「おまえまで知ってるのか。もうこのとおりだ」 「そっか、よかったねー」  今度の笑みは、素直な感情からこぼれたものだった。 「ところでさ、今日もおせんべいバリバリなんだけど、いい?」 「おまえな、何が言いたいのかわからないぞ」 「ホントにわかんない?」 「……『今日もせんべいだから音がうるさいけど、いっしょにオレのクラスで食べていいか?』って言いたいんだろ?」 「わかってんじゃん」 「わかってんだよなぁ」  港は理解できてしまう自分に頭をかかえたくなった。 「そんな話はどうでもいいからよ、教室戻ろうぜ。もちろんうるちちゃんもいっしょに」 「さすがセイちゃん。話が早いねー」  すでになじんでいる二人のあとに従い、港も教室に戻った。  食事にしてはうるさすぎるが、港にはこのにぎやかさが心地よかった。たぶんそれは、この小さな集団のみんなが感じていることだろうと港は思った。  授業は滞りなく終了し、クラスメイトはおのおのの場所を目指して散っていく。  港が席を立つと、良子や優輝は口々に早く帰って休むように忠告したが、彼には帰る前にどうしても寄っておきたい場所があった。  第一候補であるE組は、既に解散しており、目的の人物が消えていた。  しかたなく、第二候補地である生徒会室に足をむけた。無論、みなみに会うのが目的だった。 「問題は生徒会室にいるかどうかだな」  みなみは正確には生徒会役員ではない。裏の顔である生徒会特殊部隊の一員である。その本拠地がどこにあるかは彼も知らない。ゆえに生徒会室に行くしかなかった。  生徒会室前。  ノックするのがためらわれた。そのまま、数秒が流れていく。 「あ、結城さん」  背後から呼びかけた人物がみなみであるのはすぐにわかった。扉を叩かずにすんで、港は安堵していた。 「生徒会に御用ですか?」 「いや、みなみちゃんに用があったんだ」 「わわわわたしに、ですか?」  必要以上のうろたえ方をするみなみに、港は口もとがほころんだ。 「薬の礼を言いたくてな。ありがとう、よく効いたよ」 「あ、そ、そんな。わたしにはそれくらいしか思いつかなくて、その、よ、よかったです」 「あれって当然市販品じゃないよな」 「はい。東家秘伝です」 「そんなものをオレがもらってもよかったのか?」 「お薬というのは、病気の方が使って初めて役に立つんですよ」 「そりゃそうだ。ホント、ありがとう」 「こ、こここちらこそ、わざわざお礼をいただきありがとうございます」  みなみの頭は、港のお辞儀よりも低くなった。どちらが感謝しているかわからないくらいだった。  港はつい可笑しくなって笑い、彼女の顔をあげさせた。 「本当はお礼になにかしてあげたいんだけど、今日もやっぱり忙しいんだよな?」 「あ、今日はきのうの報告書を届けたら帰れます。ローテーションで、今日はお休みですから」 「そうなのか。じゃ、いっしょに帰ろうぜ。どっか寄り道でもしてさ」  みなみは一瞬だけ嬉しそうな顔をしたが、すぐに視線を下げた。 「……わたしで、いいんですか?」 「なんで?」 「結城さんには、お友達が大勢いるじゃないですか。それなのに、わたしみたいなのと帰っても……」  港にはみなみのこういう部分がわからなかった。なぜこうまで自分を卑下するのだろうか。そんなに自分に自信がないだろうか。 「それじゃ、質問1」 「は、はい?」 「これから急いで帰る用事はある?」 「あ、ありません」 「質問2。独りで帰るのは好き?」 「あんまり好きではありません……」 「質問3。甘いものと辛いもの、どっちが好き?」 「あ、甘いものです」 「質問4。ケーキとあんみつ、どっちが好き?」 「あんみつです」 「では決定。『弥生屋』に行こう」  港の決定に、みなみは呆然としている。 「それとさっきの答え。オレはみなみちゃんと帰りたい。それに薬のお礼がしたい」 「え!?」  みなみの顔は、みるみる赤く染まっていく。もし廊下に人がいたら、きっとどこかに隠れてしまっていただろう。 「オレの希望とみなみちゃんの希望がはからずも重なったわけだから、なにも気にすることはないだろ? 行こうぜ」  しばしためらった後、みなみは明るい笑顔を浮かべた。  商店街の終わり近くに、『せんべいの津川屋』と双璧をなす『甘味の弥生屋』がある。餡子が絶妙な店として有名だったが、港は入ったことがなかった。みなみをダシにしてはいるが、彼自身も楽しみであったのは否定できない。 「オレはおはぎに弥生屋特製煎茶がいいな。みなみちゃんは?」 「えと、みたらし団子と抹茶ください」  注文を受けて店員が去ると、港はわざとらしく感心した。 「みたらし団子とはシブいな。オーソドックスにあんみつにいくかと思ったけど」 「わたし好きなんです、みたらし団子。とくにできたてのあったかいのが、おいしいんです」 「団子の香ばしさと、ミツの甘い匂いがたまらないんだよな」 「そうなんです。それに口いれると意外にベトつかず、やわらかくておいしいんですよね」 「それを渋いお茶でしめる」 「はい」  みなみからは楽しみのオーラが出まくっていた。やはり忍者といえど女の子なのだと、港は素直に思った。 「お待ちどうさま」  「どうも」と言って、二人はそれぞれの皿を受けとり、同時に甘味を口にいれた。  港は一口食べただけで、この店をひいきにしようと誓った。 「ウワサどおりうまいな。みなみちゃんはどう?」  訊くまでもないようだ。彼女は魂の抜けきった幸せの表情で、団子の一玉ひとたまを味わっている。恍惚といってもいい。  二本の団子を食し、お茶をキュッと飲む。茶碗をおいたときのみなみは、まさに幸せの絶頂にあった。 「そんなにおいしかった?」 「はい、とっても……」 「もう一皿頼む? 今度は餡子もいいかもよ。これだけの餡はめったに出会えない」 「食べたいですけど、食べすぎかなと……」 「それじゃ、一皿二本だから一本ずつわけよう。オレも食ってみたい」  それならと、みなみは賛同した。  彼女はまたも、あふれかえる幸せの笑みを浮かべた。 「……では、これで失礼いたします。ご馳走様でした」 「いやいや、あの薬の代価には遠く及ばない」 「それはいいすぎですよ。それではまた学校で」 「ああ、またな」  みなみは会釈をして駆けていった。軽快で嬉しそうな足取りだった。見送る港の顔がついほころんでしまうくらいに。 「ほう、病み上がりがこんなところでデートですか」 「ぐお、良子!」  背後にそびえる悪鬼に、港は驚いてつまづきかけた。 「ぐおって何よ。後ろめたいことをしてるんでないなら、うろたえるんじゃないの」 「普通に驚くぞ、このタイミングは」 「で、ずいぶん楽しそうだったわね」 「ああ、彼女に薬をもらったんだよ。おかげですぐ治ったから、そのお礼にな」 「なるほど。あんたにしては殊勝ね」 「良子も食べて行くか?」  「え?」彼女は予想外の言葉に返事につまった。 「でもまた食べるのはさすがにキツイな。おみやげがあったはずだから、あんみつでいいか?」 「な、なによ、気持悪い……」 「いらないなら別にいいが、あとで文句いうなよ」 「あ、あたしは別に……。でも優輝にはお礼したの?」 「明日にでもするつもりだけど?」  「そう……」良子はようやく正確な判断ができるくらいに落ち着いた。そうなると、反射的に断ってしまったのが惜しくも思えた。 「じゃ、待ってろ」 「え? なにを?」 「だからあんみつでいいだろ? おかしなヤツだな」 「え、あ、うん……。ありがと」  「ったく」港は出てきたばかりののれんをもう一度くぐる。次に出てきたときには、手に紙袋が提げられていた。 「ついでにおばさんたちの分も買ってきた。いつも世話になってるからな。おまえからの土産として食べてくれ」 「なんでそんな言い訳」 「改まってこんなことできるか。そもそもオレが稼いだ金でもないんだ。みっともないだろう」 「あんたも難儀よね」  こういうところは変わっていない、と良子は思う。それがわかるのは、自分と似ているからだ。絶対に正面からは気持ちを打ち明けず、けれど何とか内心を伝えたいとする姿が、そっくりだった。 「うるさい。おまえのだけクリーム付だからな」 「口止め料? 悪いわねぇ」 「うわ、悪代官の顔だ」 「なんですって?」  港の自転車を追って、良子も走り出した。昔から見ていた背中は、少し、大きくなっていた。