「Pure☆Colors」 第四話  翌朝、良子がいつもどおりに結城家の玄関を開け、静かに入ると、油のはねる音が聞こえた。  なんだろうと台所を覗くと、普段ならまだ熟睡しているはずの港がフライパンに卵を落としていた。 「コウ、どうしたの?」 「オス。いや、目が覚めたからメシでも作ってみようかと」  「ふ〜ん」良子は感心するよりも、昨日の様子からしてまだ何か引っ張っているのだろうとわかった。 「え〜と、それじゃあたし、用なし?」 「まぁ、そうだな。けど、おまえも朝メシまだなら食べていけよ」 「え、いいの?」 「大したおかずでもないけどな。……ハムエッグってけっこうムズいな」 「コウは黄身が固いほうが好きだもんね。ハムを敷くぶん、火加減が難しいかも」 「なるほど。けど今さら遅いな。皿を頼む」 「了解」  程なくしてそろった朝食メニューは、黄身が半熟でハムと外縁が焦げたハムエッグと、むしったレタスサラダ、ご飯にインスタント味噌汁、サイドメニューのお新香だ。  二人は無言で食べていたが、食事も終わりかけになって良子がポツリともらした。 「そういえば、コウの作ったご飯て初めて食べた」 「そうだっけか」 「うん。昔、ホットケーキをもらったことあるけど、普通のご飯ははじめて」 「あー、あの炭火焼ホットケーキか」 「ていうか、炭ホットケーキでしょ」  真っ黒に炭化した円盤状の物体を、二人は等しく思い出した。 「うまかっただろ?」 「食べられるか! 一口で吐き出したじゃない」 「口をつけるだけでもチャレンジャーだよな、おまえ」 「そうよねぇ……」  当時の自分が、とんでもなくバカだったような気がした。それでもたぶん、彼が一生懸命作ってくれたものだったからだろう。それだけ嬉しかったのだ。 「で、今回の感想はどうだ?」 「修行が足りませんな」 「だよな」  港はテーブルの上の作品に、自分でも及第点を与える気にはなれなかった。 「さて、片付けはやっておくから準備しなさいよ。寝巻きのまま料理するなんてどういうんだか」 「あー、道理で動きやすいと思った。じゃ、任せた」 「はいはい」  洗面所に消える彼を見ながら、良子はもう、自分が必要とされない日が近い気がした。  二人が教室に着いてみると、先に来ていた優輝と正義が火事の話をしていた。 「お、コウ、きのうは大変だったんだな。オレはさっさと帰ってたから、今まで知らなかったぜ」 「ああ、でもおかげで無事だったんだからよかったじゃないか」 「え? あ、ああ、そうだな」  軽口が返ってくると予想していた正義は、毒気が抜かれた顔になった。 「……何かあったのか?」 「何かってなんだ? オレが火をつけたわけでも、被害にあったわけでもないぞ」 「いや、それはわかるが。……まぁ、いいか。警察が数人来ていること以外、何もかわらないしな」 「かわらない、か……」  彼のつぶやきに、予鈴が重なった。  今日は土曜日ゆえに、四時間目が終わるとすぐに放課後だ。  午後から部活に出る優輝と良子から昼食に誘われたが、行く気にはなれなかった。  まっすぐ帰ろうと下駄箱まで降りた港は、ふと、廊下の先に視線を奪われた。そのさきには、昨日の火事現場である美術造形部がある。  港の足は、自然、そちらに向かっていた。  C校舎に踏み入れると、立入禁止の黄色テープが眼についた。  そのテープの向こうに、一人の女子生徒が立っていた。  セミロングのストレートヘアの女の子。表情は暗く、ただジッと焼けた部室を見つめていた。  港には彼女が誰かわからなかったが、美術造形部関係者であるのは予測できた。  誰も近づかない校舎に、港の足音は大げさに反響した。  彼女も気づいたらしく、慌ててテープをくぐり、立入禁止エリアから出た。 「あ……」  お互いの顔が判別できる距離になると、彼女は驚いた表情を浮かべた。 「キミは美術造形部の人? 大変だったな、きのうは」  港は声をかけるつもりはなかったのだが、彼女があまりにもこちらを凝視しているので、無視するわけにもいかなかった。 「はい。きのうは、ありがとうございました」 「え?」 「あの、きのう、わたしを助けてくれたじゃないですか。覚えてません?」 「え〜と……」  港が連れて走ったのは、ヘンな髪型のガンプラ少女で、彼女ではない。それ以外で人助けをした記憶はなかった。  「あ、これじゃわかりませんね」と、彼女は片手に一房ずつ髪をとり、アゴにかかるように引っ張った。 「ああ、ガンプラ・毒マスクの!」 「うわ、ヒドイ形容!」 「え、あ、すまない。ぜんぜん無意識で答えてた」  港は目の前の女子生徒が、あの彼女であるのに気づかなかった。顔立ちよりもそれ以外のインパクトが強すぎたからだ。 「いえ、みんな似たようなことを言いますから、それでいいです。わたしは村雨かぐやと言います。美術造形部部長で二年A組です」 「オレは二年B組の結城港」 「では改めて、きのうはありがとうございました。しかも見苦しいところを見せてごめんなさい」 「ああ、気にしないでいい。オレはただ、キミを連れていっただけだから……」 「いえ、怪我もなくこうしていられるのは、結城さんのおかげです」 「けど、キミには大切なものだったんだろ?」  港が部室に視線を移すと、かぐやもそれを追った。 「はい……。でも、結城さんの言葉どおり、また作ればいいんですよ」 「いいのか?」  かぐやは即答しなかった。 「……よくはないです。でも、しかたないじゃないですか」  今度は港が沈黙した。  数秒の間、二人は身じろぎ一つせず、部室を見つめていた。 「ゴメン、オレはキミに謝っておきたいことがあるんだ」 「なんですか?」  かぐやには謝罪される覚えはなかった。今まで彼の存在すら知らなかったし、逆に助けられてもいる。なのに彼は謝ると言う。不思議であった。 「オレは、初めてここでキミを見たときから、キミを物珍しく見ていた。プラモデルの山もそうだし、髪型とか、マスクとか。それがキミにとってどれだけ大切かなんて考えもしなかった。すまない」 「……ヘンなこと、あやまるんですね」 「そうか?」 「ええ。だってそれ、本当じゃないですか。わたしは好きでプラモデルを作ってました。髪形も自分の意志ですし、マスクだって不恰好ですけど付けないと身体に悪いからつけてました。でもそれ、他人から見れば普通だったり、ヘンだったりするのは当たり前ですよ」  かぐやは微笑んだ。 「うまくいえないですけど、何かをしたり思うのって、他人の迷惑にならなければ大概は許されると思うんです。例えば他人がわたしをどう見ていようが、わたしに悪意を持って何かをしないならばいいと思ってます。だから結城さんがそういう眼で見ていたとしても、わたしは被害を受けたわけじゃないんですから、あやまることはないんですよ」 「……」 「それと、わたしが大切にしていたからと言って、結城さんも大切にしなければいけないってこともありません。そう思ってくれるととっても嬉しいけど、それも強制するものじゃないですから。でも――」  かぐやは照れくさそうな笑顔で、港の顔を覗き込んだ。 「大切だってわかってくれて、ありがとうございます。わたし、これで本当に救われました」 「そうか……。そういってくれてありがとう。オレも、気が楽になった」 「そうですか。それはよかったです。わたしも結城さんのおかげで、また新しくがんばる気持ちになれました。……では、失礼します。職員室に呼ばれていますから」 「ああ、がんばれ」 「はい!」  足取り軽く去って行くかぐやに、港は嬉しくなった。落ち込んでいた気分も、完全に解消されていた。 「さてと、帰るか」  軽快に廊下を歩く。鼻歌が飛び出すほど、上機嫌であった。  ゆえに前方から物騒な大声が聞こえても、警戒心を呼び起こすまでに時間がかかった。  前方から、見知らぬ三十歳前後の男がバタフライナイフ片手にこちらに走ってくる。その後ろからは、生徒会長たちが男を追っていた。  男と彼の距離はおよそ二十メートル。刻一刻と差は縮まる。 「どけぇ、ガキィ! 殺されてぇかぁ!」  男の眼は殺気立っており、冗談とは思えなかった。  港の脳が、危機を感じとりとっさに状況判断する。男の進行方向は外に出る扉で、すでに開かれていた。これならば、男は自分を人質にとるより、外へ出るのを優先するであろう。ヘタに進路を塞げば、最悪の結果さえ予想された。  港は男のナイフを持つ手の、逆側の壁に張り付くように退いた。通行するには充分な広さを見せ、なおかつ背中をさらさない。さらせば、人質になる確率が跳ね上がるからだ。  男が彼の前を通過するまで、あと二秒。  正確に時を計り、港は持っていたカバンを男の胴体めがけて思いきり振りまわした。  しかも面ではなく、点でぶつかるように。  突進してくる男に、避けるヒマも思考時間もない。さらに胴体を狙ったゆえに、飛び越えることも潜り抜けることも不可能だった。  ゴッ!  鈍い音と、鈍い感触が同時に発生した。  男はみぞおちに衝撃を喰らい、五歩ほどよろめいたのち、廊下に倒れた。後頭部をしたたかに打ったらしく、気絶している。  すぐに追い討ちをかけるべく距離をつめた港であったが、相手が完全にダウンしていたので、ナイフをとりあげて後続を待った。 「これ、凶器だ」  走ってきた生徒会長・北枕総司(キタマクラソウシ)に、ナイフを差し出す。背後では、わらわらとやってきた生徒たちが狂人を厳重に縛りあげていた。 「結城さん!」 「あれ、みなみちゃん」  いつの間にか、彼女が港のそばに立っていた。 「結城さん、大丈夫ですか? わたし、結城さんの姿が見えたとき、すごく心配だったんです」 「え、どこにいたの?」  みなみは廊下の突き当たりの、開け放たれた扉を指差した。 「わたしがあそこで待機してまして、男が飛び出した瞬間に倒す予定だったんですが……。ビックリしてしまいました。結城さん、余裕で倒してしまうんですもの」  みなみの眼に、尊敬の輝きがあふれていた。 「だが、余計な手出しであるのはかわらない」  二人に割り込むように、生徒会長の巨体から声が発せられた。 「なんだって?」 「一般生徒を危険な目にあわせないためのSSSだ。今後は首を突っ込まないことだな」 「いいたいことはわかるが、みなみちゃんだって生徒だ。しかも女の子だろ。たとえどんなに強くても、その事実はかわらない。それに、オレはオレのできる範囲で行動しただけだ。状況が有利でなけりゃ、オレだってこんなことはしなかった」 「勝算があってやったというのか?」 「当たり前だ。……ところでこの男、何やったんだ?」  港はもう会長を一顧だにせず、みなみに向き直った。 「あの、最近ウワサになってた、学校あらしなんです」 「ああ、あれか」 「はい。あと、きのうの出火騒ぎの容疑者でもあります。誰もいない美術造形部から忍びこもうとしたらしく、窓ガラスが外から壊されていましたし、タバコの燃えカスも発見されています。おそらく、それが何かに引火したのでしょう。きちんと調査しなければなりませんが、まず間違いないと思います」 「だとしたら、マヌケすぎだな。きのうの今日でまた来るなんて」 「あ、えっと、犯人は来ないわけにいかなかったんです」 「なんで?」 「火事騒ぎの折に更衣室が荒らされてまして、そこにライターが落ちてました。警察がそれを発見する前に、探しに来なければならなかったんですよ」 「なるほどな。で、網を張って待っていたというわけか」 「はい」 「もしそうなら、村雨さんのカタキもとれたってわけだな」 「美術造形部の方ですね。きのう、結城さんが救出なさった」 「救出じゃないけど、その子だ」 「犯人の逮捕で今回の火事が放火とわかれば、学校側も部の再建を許可してくださいますよ、きっと」 「ああ、そうだといいな。村雨さんみたいな一生懸命な生徒は、大事にしてやって欲しいもんだ」  二人の会話に、またもや生徒会長が割り込んだ。 「美術造形部の再建については、こちらからも手を貸そうと思っている。一昨日、わたしたちがこの男を捕獲していれば、昨日の火事は起きなかったはずなのだからな」 「いいとこあるな、会長。て、おととい追いかけていたのも、この男なのか?」 「はい……。あのときはうまく逃げられてしまいまして……」 「そうか。でも、誰もケガがなくてよかったじゃないか」 「はい」 「さて、オレは帰るとするか。みなみちゃんは、まだやることがあるんだろ?」  彼女は残念そうにうなずいた。 「東、今日はもういい。報告書はわたしが書いておくから、帰っていいぞ」 「会長……」  会長は男をかつぎあげ、他の生徒を引き連れて去っていった。 「なんだ、本当にいいとこあるな。顔に似合わず」 「会長、結城さんのこと気に入ったみたいですよ」 「なに!? なんでオレが?」  みなみはクスクスと笑った。 「あの会長を前にして、あれだけはっきり意見できたの、結城さんだけですよ。会長は心身ともに強すぎるから、相手がいなくていつも退屈そうにしてるんです。そこに結城さんがぶつかっていったから、嬉しいんでしょうね」 「冗談じゃない。あんなと闘ったらオレ死ぬぜ? いっそ殺してくれって頼むって」 「……でも結城さん、かっこよかったですよ」 「え?」 「あ、あの、会長も許してくださったので、よろしければごいっしょに帰ってもよろしいでしょうか」 「もちろん、こっちから誘いたいくらいだ」 「ありがとうございます。よろしくお願いします!」  みなみは高校生になって初めて、友人と下校するというイベントを体験する。楽しみではあったが、それ以上に港がいつもどおり元気になってくれたことが嬉しかった。  他人のために喜んだり悲しんだり怒ったりする、彼の人らしさが心地よかった。彼女の知る尊敬する人物たちとは根本的に違うが、彼は新鮮な気持ちをくれる人物として尊敬できた。 「いろいろと周りたいところだけど、まずは腹ごしらえだな」 「はい」 「そういえば、好き嫌いはある?」 「ない、と思います」 「和食と洋食、中華、ジャンクフード、どれがいい?」 「ジャンクフードってなんですか?」 「ハンバーガーとか安い丼ものとか、スタンドで売ってるようなオヤツだか主食だかわからないようなやつとかだ」 「でしたら、一度いってみたいと思っていた出店があるんです。そこでいいですか?」 「ああ、いいよ」  二人は学校を離れ、中央公園へと出た。  土日ともなるとフードスタンドが立ち並び、ベンチが埋まるほどの盛況さだった。 「相変わらず混んでるな。で、みなみちゃんのオススメは?」 「あれです」 「ぐあ、あれか!」 「あれです」  みなみが案内したのは、お好み焼きのスタンドだった。広島風、関西風、その他どこのローカル焼きにも対応し、トッピングも自由、大きさもミニから最大直径五〇センチまで焼いてくれるオーダーメイドお好み焼き屋だった。 「このへんをいつもジョギングしているのですけど、ここの香りがとても気になってました。でもいつも通り過ぎるだけで、食べたことがないんです」 「オレ、一年のときにあそこで無謀な挑戦をしたんだ。全トッピングの、マキシマム・サイズ十段を頼んだっけ」 「どうなりました?」 「高さ二〇センチ、直径五〇センチのお好み焼きってどう?」 「……想像しただけで食欲が失せます」 「じゃあ、みなみちゃんもレッツ・チャレンジだな」 「わ、ムリです! ちょっとしたものでいいですから!」 「あはは、わかってるよ。普通のでいいね?」 「はい。あ、お金……」 「いや、今日のところはオゴリ。みなみちゃんと初めて下校した記念だ。でも次回からはワリカンで」 「はい、それじゃ、ありがたくご馳走になりますね」 「じゃ、空いてるベンチで待ってて」  みなみが席を探しに離れると、港はちょうど客足の途絶えたお好み焼き屋に、注文を告げた。 「マキシマムサイズ、全のせ、十段で。ちなみに彼女が食べるから」 「わー! ムリです〜!」  聴力が異常発達しているみなみには、港の言葉が一字一句間違いなく聞こえていた。席を探す役目を放棄し、彼女は全速力で港のもとへとやってくる。 「すみません、間違えました。五段でいいです」 「それでもムリです!」 「ごめんなさい、関西風と広島風で、普通サイズを一枚ずつ」  みなみはようやく安堵した。店員はそれを可笑しそうに眺めている。 「あいよ! しかしニーチャン、あんまり彼女をからかうもんじゃないぞ」 「か、かかかかかのじょ……? ええ!」  みなみは真っ赤になってその場を逃げ出した。 「あれ、今時珍しいな、あの反応は」 「おじさんも、あんまり女の子をからかうもんじゃないぜ」 「あっはっは、違いない」  二人は和やかに笑いあった。  トッピングを一つずつオマケしてくれたお好み焼きは、港とみなみを充分に満足させた。  それからも二人は土曜の午後を満喫し、それぞれの家へと帰っていった。  日曜日は、港にとっての大事な休養日であった。寝たいだけ寝て、ようやく起きたのは一〇時を過ぎたころだった。昨夜は八時に寝ていたので、一四時間ほどしか寝ていない。 「ああ、そういや洗濯しないとな……」  一週間溜めたそれを思い出し、面倒くささに現実逃避がしたくなっていた。  しかし放っておいても片付くわけもなく、彼はしぶしぶ起き上がった。 「まずは腹ごしらえからだな」  彼は冷蔵庫と呼ばれる食料貯蔵庫を開けて、物資の確認をした。物資はかぎりなく乏しかった。 「卵と牛乳とバター、あとは辛子しかないな。ピリッと辛い卵ミルクスープでも作れというのか?」  そんな絶望的メニューを思い浮かべていると、前触れもなく玄関のカギが解除され、不審人物がどうどうと不法侵入してきた。 「おはよう。ちゃんと起きてた?」 「良子、日曜まで勝手に入ってくんなよ」 「いいじゃない。ほら、ゴハン持ってきてあげたのよ」  良子の手には、弁当箱が握られていた。 「きのうの朝、冷蔵庫の中に何もなかったから心配だったのよね。案の定、買い物もしてないんだから」 「ああ、買おうと思って忘れてたんだ。やりなれないことは忘れるものだ」 「しょうがないわねぇ」  良子は戸棚から茶葉缶をとりだし、茶を淹れだした。 「あとで買い物に行くわよ」  弁当箱を広げる港の前にお茶を置き、自分もすする。 「そんなの一人で行けるから、おまえは帰れよ。これから掃除と洗濯があるんだ」 「手伝うわよ。どうせヒマだし」 「おまえ、オレのパンツをそんなに洗いたいのか?」 「今さら気にしないわよ、そんなの」 「そう言われたら、ことわる理由がなくなるだろうが」 「ことわりたいの?」 「……別に」 「じゃあ、いいじゃない」 「じゃあ、いいや。食べ終わるまで待っててくれ」 「洗濯、先にやってるわよ。洗うものはもう出てる?」 「ああ、そこにあるだけだ」 「うわ、なんでこんなにあるのよ!」 「一週間分だ」 「溜めるな!」 「がんばれ、おまえが望んだことだ」 「ぜんぶ漂白してやる。白いシャツに白いズボンに白い靴下で学校に行かせてやる」 「ごめんなさい。手伝いますから勘弁してください」  奥から良子の笑い声が聞こえてくる。 「しかし、ずいぶんと機嫌がいいな。何かあったのか?」 「ん〜、そういうわけじゃないけどね。コウもきのう学校終わってから、いいことあった?」 「あ? あ〜、そうだな、ま、いろいろと」  「そっか」良子は幼なじみがいつもの調子に戻っているのがわかり、安心した。彼女の知る彼は、朝が弱くて、基本的に怠けもので、成績も芳しくない、放っておくと何をするかわからない人間だった。けれど、良子はそれでもいいと思っていた。根本的なところで、彼が何も変わっていないとわかっていたから。だから元気でいてさえくれれば、それでよかった。  あとで優輝に電話しよう。心配しているであろうもう一人の友人に、良子は早く知らせてあげたかった。  食事が終わり勢いこんだものの、港はなぜか自分の部屋で、しかも片付けられた机の上であぐらをかいてコーヒーをすすっていた。 「なぁ、良子?」  港は掃除機をたくみに操る魔女へ、声をかけた。 「なに?」 「ヒマ」 「いいからおとなしくそこに鎮座してなさい。あんたの手際を見てたら、夜になってもかたづかないわよ」 「だからって、机の上はないだろ」 「もうすぐ終わるわよ」  港から見ても、彼女の手際はすばらしく見事だった。洗濯機がまわる間に掃除をし、掃除も一部屋ずつ確実にこなしていく。港は彼女に命令されるがまま、洗濯物の干しと重い荷物の移動をしていただけだった。 「はい、完了!」 「おお」  見違えるほど、とはいかないが、さっぱりとしてすがすがしい空間ができあがった。たまったほこりが落とされ、汚れたシミは消え、湿った部屋が乾き、おちついたたたずまいを見せる。 「良子って主婦してるよな。料理、洗濯、掃除、ほぼ完璧だ」 「それは褒めてるのかしら?」 「褒めてる褒めてる。めずらしく本気で褒めてる」 「そう? じゃ、いちおう喜んどく」  良子は気をよくしたのか、胸をはって笑みをこぼした。 「あ、そうそう、これ返しとくわ」  ふと思い出したように、良子はスーパーの袋を彼に差し出した。  中を確認して、彼は机のうえから滑りおちた。  それは彼が世界で百番以内に入るほど大切な、マル秘かつ極秘資料の束だった。ふだんは、誰も知らない秘密の場所に、厳重および慎重に保管されていたはずだった。 「い、いつ見つけた!」 「あんたが洗濯物を干すのに、ベランダへ出たとき。ジャマだったから、どかしておいたの」 「お、おまえな――!」 「なに照れてんのよ。そんなの隠すことないのに」 「恥ずかしいだろうが!」 「恥ずかしい? へぇ、あんたでも恥ずかしいんだ?」  良子は港の弱点を見つけて、眼に妖しい輝きを放ちはじめた。 「そんなの誰でも持ってるじゃない。なにが恥ずかしいのよ」 「誰でも? いま、誰でもと言ったな? じゃ、おまえも持ってんだな?」  彼の思いもかけない反撃に、良子はたじろいだ。 「も、持ってるわよ。当たり前じゃない」 「へぇ、持ってんだ? うわぁ、良子ちゃんたらエッチ〜」 「な、なんでエッチなのよ! みんな持ってるわよ! 優輝の持ってるのだって、見せてもらったわよ!」 「ほう、優輝のは、ちょっと興味あるな」  彼がよからぬ想像をふくらませていると、良子の最後の反撃がとんできた。 「だ、だいたい、なんでアルバムがエッチなのよ!」 「いや、なんとなく」  港にとってアルバムという過去の遺産は、大切かも知れないが恥ずかしかった。分別のつかない子供のころのあやまちが永遠に残されているなど、考えただけでもイヤだった。かといって捨ててしまうのも惜しいので、誰の目にも触れない場所にしまっておいたのだ。  ちなみに、彼が世界で九九番以内の大切な本は、とっくに良子に発見され処分されている。 「でも、そのアルバム、懐かしいわね。あたしのお父さんが、あたしたちにおんなじのを買ってくれたのよね。小学5年のときだっけ?」 「たしかそれくらいだったな。昔の写真をかき集めて、はりつけたような記憶がある」  二人とも今はもう見ることもなく、どんな歴史が刻まれているのかさえ忘れている。 「懐かしいな。ちょっと見せてね」  良子は彼の手からアルバムをとり、重い扉を開いた。港もつい覗きこんでいた。 「コウ、かわいい〜」  予想されたセリフは、いささか彼の負の感情を刺激したが、逆の感想をはかれるよりはいいと無言で通した。  良子がページをめくるたびに、中の結城港は成長を重ねる。そして数ページを過ぎると、写真は彼一人の物ではなくなっていた。  幼稚園にあがるころになると、彼のとなりにはかならず良子の姿があった。遊園地や海に行ったときも、近所の公園で遊んでいるときも、家の中でも、つねにそばに良子がいた。 「……このころから、ずっといっしょなのね」 「ああ」  港と良子は、おたがいに軽口をたたくこともなく、写真の時を進めた。幼稚園での組は違っていたが、家に帰ればいっしょに遊んでいた。もっとも、なにをして遊んでいたのかは、港にはまったく覚えがない。ただ彼女といた時間が、他のだれより長かったのはたしかだった。  ページをめくると、写真の男の子と女の子はランドセルを背負っていた。 「これからずっと同じクラスなんだよな」 「うん」  小学校、中学校、高校と、計8回あったクラスわけで、なぜかいつも同じだった。港はふと思った。もし、一度でもクラスが別れていたら、自分たちはどうなっていたであろうか。今とかわらずにいられただろうか? それとも――  彼はかぶりをふり、意味のない想像を打ち消した。そして良子にかわってアルバムを進めた。 「あれ?」  開かれたページに、彼は違和感を覚えた。並んだ二つの写真は、日付けからしてひと月の差もない。 「どうしたの、コウ?」 「いや、なんかヘンな感じがして――」  あいまいな答えを返そうとした港は、そのとき明確な答えに気づいた。 「そうだ、髪型だよ! 良子の髪がとつぜん短くなってんだ!」  写真の日付けによれば、それは小学3年の春。それまで長いストレートだった良子の髪が、バッサリと切られて今くらいになっていた。 「良子、なんでいきなりショートになってんだ?」 「なんでって……。覚えてないの?」 「……覚えてない。もしかしてオレが、切っちまったのか?」 「そうじゃないけど、そっか、覚えてないか。そうだよね、もう、昔のことだもんね」  写真にうつる自分の姿を眺めながら、良子は寂しげにため息をついた。  そんな態度に、港は気になってもう一度尋ねようとした。が、その機先を制すように、良子はアルバムを閉じた。 「さ、アルバムはおしまいにして、買い物に行きましょ」  良子はアルバムを机の上に置き、エプロンを外した。その姿は、普段の良子のものだった。 「ちょっと着替えてくるね」  快活に出て行く良子の後姿に、先ほどまでの陰はない。だが彼にはアルバムを見つめてため息をついた、良子の顔が消えなかった。あのとき、いったいなにがあったのだろう。自分は何を忘れているのだろう。いつかそれを思い出すときがくるのだろうか。彼にはわからなかった。  港の食料を買いに出た二人は、初志を忘れ数時間を遊びに費やしていた。  そろそろ夕刻という時間になり、良子がようやく買い物に着手しはじめた。 「じゃ、その辺で待っててよ」 「ああ、そうする。さすがにおまえといっしょにスーパーには入りたくない」 「けっこう小さいこと気にするのよね、あんた」 「ほっといてくれ」  鼻を鳴らす彼に笑みをこぼし、良子は自動ドアの反対側に消えた。 「あー、休みなのに、なんか休まってねぇ」  ガードレールに腰掛け、缶コーヒーを飲む。少々甘すぎる気がした。吐息が漏れたのは、コーヒーの味のせいか、愚痴のせいか、自分にもわからなかった。 「結城さん」 「あれ、みなみちゃん」  呼びかけられた先に、彼女が立っていた。 「こんにちは。お買い物ですか?」  尋ねる彼女は、ランニングシャツとショートパンツ姿であった。息がはずんでいるので、格好そのままの運動をしていたのだろう。 「いちおうな。みなみちゃんはジョギング?」 「はい、日課ですから」  汗をタオルでふきながら、彼女は微笑んだ。 「みなみちゃんが汗をかくくらいだから、相当走ってるんだろうな」 「そうですね、一日五〇キロのランニングと、1キロダッシュを二〇本くらいです」 「……オレ、聞きまちがえたかな? 五〇キロのランニングと、1キロダッシュ二〇本て聞こえたけど」 「いいえ。あってますよ」 「もしかして、冗談……なわけないよな」 「はい。慣れれば、三時間もかかりませんよ」 「……みなみちゃんて、ハードな生活してるんだな」 「そうですか? 小さいころからやっていたので、自分ではわからないのですが」 「みなみちゃんがオリンピックにでたら、陸上競技のほとんどに優勝できるんじゃないか?」 「そんな、わたしなんてダメです! 緊張して動けませんよ!」 「そうだな、ありえそうだ。しかし、日曜でも休む暇がないな」 「そうですね、これからまだ武術の稽古もありますし」 「みなみちゃんて、いつも自分の時間がないよな。つらくないか?」 「……」 「あ、悪い。どう考えても余計なお世話だった」 「い、いえ、かまいませんよ。それに、そんなこと考えたことありませんでしたから」  彼女はゆっくりと顔をあげた。 「わたしには友達らしい友達もいませんでしたし、毎日修行で忙しかったですし、それに今はSSSで必要とされてるのが嬉しくて、自分の時間のことなんて考えませんでした」 「……」 「今も、修行やSSSがつらいとは思いません。でも、ちょっとだけ……ちょっとだけでいいから、時間が欲しいと思うときがあります」 「どんなとき?」  港の問いに、彼女はまた視線をさげた。  そして何かつぶやいたが、彼には聞こえなかった。 「あ、あの、わたし急ぎますから、これで失礼します! また明日、学校で!」 「あ、みなみちゃん!」  次の瞬間には、彼女の姿はどこにも見えなかった。 「どうしたの、あんた。アホみたいに遠くを見て」  買い物袋を三つ提げて出てきた良子には、港のポーズはマヌケに見えた。 「……アホは余計だ」  良子から袋を奪い取って先をいく港。 「あ、待ちなさいよ!」  良子はわけもわからぬまま、彼の後を追った。 「ああ、そういえば、すっかり忘れていたことがあったんだ」 「なに?」 「前にゲーセン行ったとき、UFOキャッチャーでヌイグルミを取ったんだよ。それをおまえにやるんだった。掃除してたときに見つけて思い出した」 「あたしに?」 「ああ、本棚の隙間にねじ込んでおいたから、あとで持っていけよ」 「ねじこむな!」 「いやいや、あのワニゾーが『本棚がオレの住処だ!』と主張するもんで、オレとしてもワニゾーの意見は聞かねばならないと……」  帰り道、二人の漫才会話は延々と続いていた。  日曜日が終われば、また一週間の学校生活が営まれる。  その事実を拒否したいのか、港はいつにもまして目覚めが悪かった。 「いいかげん起きなさいよ!」  布団を身体に巻きつけて抵抗する彼に、良子もそろそろ怒りの限界が近づいてきていた。 「あのさぁ、あたしも試したくはないんだけど、顔に塗れタオルをおくとか、口に熱湯をそそぐとか、やっちゃうわよ?」 「やりたくないならやるなよ……」  きちんと答えるところが、さらに良子を逆なでする。 「しょうがないわね」  彼女はベランダから何かを持ち出し、それにヒモをくくりつけた。  完成したそれを、彼の顔につける。 「ひたひ……。にゃにすふんだぉ……」 「せーの」  パチン、パチン! 「いってー!」  港は飛び上がり、ヒリヒリと痛む頬をおさえた。  目の前にはイタズラっ子のように笑う良子が、ヒモつき洗濯バサミを振り回していた。 「いてえじゃねぇか、良子! また南極条約を破りやがって!」 「あんたの言う南極条約ってのをじっくり聞いてみたいところだわ」 「決まってるだろ、アレだよ、アレ」 「わからないで口にするのはやめなさい。恥をかくだけだから」 「明日までに調べてやるからな!」 「そうしなさい。覚えてたらね」 「覚えてるわけないだろ!」 「だったら言うな、もう!」  結論として、いつもどおりの朝がはじまった。  二時間目が終わり、港は廊下で新鮮な空気を吸いこんでいた。昼休みまでまだ二時間もあるのが、現在の彼の悩みだった。 「こんにちは、結城さん」  彼に呼びかけたみなみは、顔が上気しており、うっすらと汗のあとが見えた。 「よぉ、体育だったのか?」 「はい」 「みなみちゃんは、運動、得意なんだろうな」 「はい、陸上競技や球技は好きです」 「うん? その言い方だと、なにか苦手なものがあるのか?」  何気ない疑問をぶつけた港だが、彼女は必要以上の動揺を見せていた。 「え、えと、そんなことは、あるような、ないような……」 「格闘技、てことはないよな」 「……はい」 「そうすると……?」  彼が考えに浸りはじめようとしたとき、わきを音もなく通り過ぎる人物がいた。変わった髪形の女子生徒だった。 「あれ、村雨さん!」  彼女は足をとめ、生気の抜けた顔をこちらにむけた。 「あ、結城さん……。こんにちは……」 「どうしたんだ? 元気になったと思ったのに。やっぱりショックが抜けないのか?」  かぐやは微笑んだが、多少無理がみえる。 「あ、いえ、元気ですよ。美術造形部も再建できそうですし」 「お、よかったじゃないか」 「でも、いつになるかまだ決まってないから、しばらくは製作中断です」 「ああ、それでしょげてるのか」 「はい。ウズウズしてくるんですよね」 「中毒だな」 「はい、困ったものです」  かぐやは苦笑して、「それじゃ」と去っていった。 「あの、わたしもそろそろ――」  かぐやが離れるのを見計らって、みなみも一歩さがった。 「ああ、ごめん。話が途中になってしまったな」 「いいえ。では、失礼します」  みなみはかぐやと反対方向へと歩いていった。 「コウ、何してるの?」  良子と優輝は、ポニーテールの女の子を見送ってから声をかけた。 「ああ、ただ休んでいただけだ」 「さっきのコは知り合い?」 「どっちを差して言ってるんだ?」 「どっちって、今のポニーテールのコに決まってるじゃない」 「みなみちゃんか。彼女は公儀隠密だ」 「アホすぎてツッコむ気にもならないわ」 「……火事のときに世話になったんだよ」  港はあえて、それ以前からの知り合いとは言わなかった。説明するのが面倒だったからに他ならない。 「ああ、そうなの」 「あー、コウだ!」  良子の納得と、別の無邪気さが唱和する。 「うるち……」  せんべいをかじり、ヘッドホンから音楽を垂れ流しながらの登場だった。 「うっわー、コウったら女の子二人もたぶらかしてる! やっらしー!」  「人聞き悪いこというな!」とツッコミ終える前に、うるちは良子に抱きしめられていた。 「あなただけよ。コウの本当の姿を理解しているのは」 「あえ?」 「感激するな! それに誤解を招くような発言もやめろ!」 「あたしは今、同志を得たような気持ちだわ」 「聞いちゃいねぇ……」  「そうでしょそうでしょ」うるちは状況を理解せぬままに、うなずいていた。 「ダメだこいつら。いこうぜ、優輝」  呆れて無視をきめた港だが、呼びかけた優輝は、すでにいなかった。 「あれ、優輝……?」  残されたのは、仲良くせんべいをかじりながら彼の悪口をたたく、良子とうるちだけだった。  休み時間終了を告げるチャイムを、彼はむなしく聞いていた。 「おまえさぁ、趣味ってあるか?」 「あえ?」  貯水タンクに寄りかかりながら、港は食べ終えたパンの袋を丸めた。  正面では、津川うるちが六枚目のせんべいを噛み砕いている。 「ちょっと気になってな。最近知り合った人が、すごく真剣に趣味に取り組んでいるんだ。そういうのが、みんなにはあるのかと思ってさ」  港は今まで何かにのめりこむことがなく、それでもいいと思っていた。が、村雨かぐやと出会い、心境の変化が起きていた。かといって、彼には本当に趣味といえるものがなかった。だから他の人間はどうであろうか、興味があったのだ。  「あたしの趣味ねぇ……」うるちは珍しく真剣に考えていた。 「本を読むのは好きだけど暇つぶしみたいなものだし、音楽も何となくで聴いてるだけなような……。カラオケも楽しいけど趣味ってほどのめりこんでないし、おせんべいは趣味とは言わないよね」 「食べてるだけなら言わないな。各地名産を食べ歩いてるならともかく」 「おせんべいは津川屋が一番だよ」  うるちは自慢のせんべいをバリンと食べた。 「そうか。やっぱりないヤツにはないんだな」 「そういうコウもないでしょ?」 「わかるか?」 「わかるよ。熱中できるものがある人は、あたしになんか関わってるヒマないもん」 「それもそうだ」  「ガーン……」うるちはうなだれたが、ほとんど芝居だった。 「自分で言ったんだろうが」  港は次のパンの袋を破いた。 「でも、どしたの、急に?」 「ホントにちょっと気になっただけだ。趣味があるほうが毎日楽しそうだってな」 「そりゃ、ないよりあったほうがいいんじゃない? 楽しいことやってるのが、一番たのしんだから」 「あたりまえだ」 「だよね。でも別にさ、一つに絞らなくてもいいじゃん。そのときだけかも知れないけど、楽しんでやってればそれが趣味だと思うよ」 「ああ、そういう考え方もあるか」  港はアゴに手を当ててうなずいたが、『そのときだけの趣味』すら彼にはなかった。それと気づき、「あ〜」と落胆する。  その姿を、うるちは不思議そうに眺めていた。 「もしかしてコウは、何かに打ち込みたいって思ってるわけ?」 「そう見えるか?」 「うん、自分が宙ぶらりんだからイヤだってふうにしか見えない。でなきゃ、こんな話するのおかしいじゃん」 「……そうだな」 「でも趣味って、見つけるものじゃないんじゃない? やってて楽しかったから趣味になるんじゃないの?」 「そうだよな。あ〜あ、オレ、うるちと良子をからかう以外に、楽しいことないなぁ……」 「うう、イジメだ……」 「いやいやいやいや、冗談だ」  「とてもそうは思えない……」不信な眼を向けたうるちだが、港はあらぬ方を見て、視線を合わせようとはしなかった。  うるちは「むぅ」と唸った後、語を継いだ。 「……趣味ってさ、自分のためにやるものじゃん? だけどコウって、自分のために何かやるタイプじゃなくて、人のためにがんばっちゃうタイプだとあたしは思ってるよ。だから今まで打ち込むものが見つからなかったんじゃないかな」 「そうか? オレ、人のためには何にもしたことないぞ」 「それはコウの力が必要じゃなかったからだよ。コウにしかできないことなら、たぶんコウはがんばるよ」 「そうかな」  そういわれて悪い気はしなかった。が、裏を返すと、何もしない言い訳にも聞こえた。  それを肯定するように、うるちの一言がとどめを刺す。 「でもね、それ以前にコウに頼らないとダメなことって、他の人にはまず起きないよね」 「それはオレよりもみんなが優秀だといいたいのかな?」 「うん! あたしも含めてね」 「せんべい破壊拳!」  港の拳がうるちの持つせんべい袋を打つ。中のせんべいは砕け、コナゴナになった。 「あえー! なんてことするんだよー!」 「ハッ、しまった! 怒りについ、通信あられ流空手の奥義を使ってしまった」 「そんなのない。ていうか、せっかくおばあちゃんが作ってくれたおせんべいなのに ……」  うるちは涙目になりながら、粉砕されたせんべいを食べた。これはこれで食べやすくなったと、思ってはいても口にはしなかった。 「いや、本当に悪かった。さすがにやりすぎた。埋め合わせはする」 「この世におせんべいより貴重なものは存在しないもん」  「それはないと思うが……」とさすがに小声でツッコミをいれる。 「でもそこまで言うなら、放課後、付き合ってもらおうかな」 「わかったわかった。じゃ、教室前で待ってろ」 「うん」  うるちの機嫌は、既に六〇%は戻っていた。  放課後、掃除当番に追い立てられるように教室を出た港は、うるちとの約束を果たすためにC組前の廊下に寄りかかっていた。  それをクラブに向かう途中の良子と優輝が目撃し、彼の行動をいぶかしんだ。 「コウ、帰らないの?」 「ああ、待ち合わせだ。それから帰る」 「C組? 休み時間に会ったうるちちゃん?」 「クラスまでよく覚えてたな」 「あったりまえじゃない、あたしの同志だからね。ホームルームが終わってないの?」 「みたいだな。ここの担任は授業でもやたら延長するからな。話が長そうだ」  「そうね。じゃ」良子はさして興味がなさそうに、港に手を振った。 「それじゃ、コウくん、また明日」 「ああ、がんばれよ、優輝」  二人目のクラスメイトに手を軽くあげ、応える。  「うん」優輝は微笑んで良子を追った。 「……どこ行くのかな?」  優輝の明瞭としない疑問に、良子は眼を一瞬きの間だけ向けた。 「コウが行くのは商店街くらいでしょ。気になる?」 「気になるというか……うん、ちょっと」 「最近は昼ご飯もいっしょにしてないもんね。でも、ま、あいつはいつもあんな調子だからね。今度、優輝から誘ってみれば?」 「うん、そうしてみる」  優輝は少しだけ元気になったが、気休めな元気であるのは明白だった。 「コウちゃん、コウちゃん!」 「『ちゃん』付けすな!」  下校をともにした港とうるちは、その足で商店街をさまよっていた。  うるちの家は商店街の中にあるのだからカバンを置いてくることもできたはずだが、「気分だよ、気分」といううるちの言葉に、そのまま歩いていた。  その散策中、うるちは何かを見つけて彼を呼んだのである。 「だって、良子はコウちゃんを呼び捨てにするでしょ? だったらあたしは『コウちゃん』のがいいかと思って」 「なんだ、その理屈は?」 「意表をついて『コウさん』でもいいけど、あだ名に『さん』付けはないわよね。それじゃ『コウちん』『コウどの』『コウさま』『コウうじ』……。やっぱ似合わないね」 「いいかげんにしないと、おまえのことも『うるちん』とか『うるるん』とか呼ぶぞ」 「……それだけは勘弁して」  心底うるちは渋い顔をした。 「オレだってイヤだ。……で、何か見つけたんじゃないのか?」 「あ、そうそう。そこに新しい喫茶店ができてさ、オープン記念でケーキセットが半額なんだって」  うるちは港に見えるように、その喫茶店を指差した。 「あれ、おまえ甘いもの食うのか?」 「三年に一度の割合で欲しいときがあるけど、普段は食べない」 「今日がその三年目か?」 「そうみたい。それにコウのおごりなら、安いほうがいいでしょ?」 「埋め合わせがこれかよ」 「だね。これでおばあちゃんも許してくれると思うよ」 「おまえ、ばあちゃんをダシにするな。そういう根性だと、おごってやらないぞ」  港が真剣に怒ると、うるちはシュンとなって反省した。 「……うん、だよね。あたしも調子にのりすぎたよ」 「わかればいい。じゃ、おごってやる」  「わーい」うるちは表情をコロコロ変え、喫茶店にはいった。扉の鈴が、軽快な音を鳴らす。  喫茶『デンドロビウム』の店内は、半額ケーキセットが目的なのか、有高の女子生徒がけっこういる。 「うわー、コウ、良かったね。女の子たくさんだよー」 「オレに何をしろというんだ……」 「いつもどおり、欲望のままに!」 「はったおすぞ」  二人は案内されて、奥のテーブルに向かい合わせで座った。  ウェイトレスが水を持ってくると、うるちはメニューを広げてケーキ選びをはじめる。 「オレはコーヒーだけで。うるちは決まったか?」 「イチゴショート、チーズ、チョコクリーム、カスタード……」  彼女は完全に迷っていた。 「コウ、どれにすればいいの?」 「オレに訊くな」 「う〜ん、わかんないよぉ……」  うるちはかなり弱気であった。港はそんな彼女がほんの少しだけかわいらしく見えた。 「……オレならモンブランだな。これが一番好きだ」 「これ? んじゃ、これにする」 「かしこまりました。モンブランのセットと、コーヒーでよろしいですね? お客様、ケーキセットのお飲み物は?」 「え?」  再びとまどううるち。 「紅茶とコーヒー、どっちが好きだ?」 「こ、紅茶!」 「じゃ、紅茶で頼みます」 「かしこまりました。少々お待ちください」  ウェイトレスが行ってしまうと、うるちは「フゥ」と文字通り一息ついた。 「ハハハ…。こんなに緊張してるうるちは初めてだ。『玄米茶』と言われたらどうしようかと思った」 「だって、慣れてないんだもん」 「ファーストフードとたいしてかわらんだろうが」 「甘いものの選択が苦手なの!」  うるちは本気でふくれていた。 「うるちって、そんなに辛党なのか? ケーキとか嫌いってわけじゃないんだろ?」 「嫌いじゃないけど、食べた回数も少ないから、よくわかんない」 「誕生日とか、クリスマスに食わなかったのか?」 「う〜ん、食べなかったよ。とくにクリスマスなんて祝わなかったし」 「ケーキはともかく、チョコレートは?」 「……おせんべい食べてた記憶しかない。みんなが食べてても、欲しいとも思わなかったし」 「環境が人をつくった、というわけだな」  港が納得していると、それぞれのメニューが運ばれてきた。  彼はコーヒーに砂糖を一つとクリームを入れ、一口飲んだ。  コーヒー以上の味はしない。そもそも各種の味の違いなどわからない港には、飲めればいい程度の感性しかなかった。  対してうるちはケーキをはじめて見るサルのように、しげしげとそれを眺めまわしていた。  ようやくフォークをとったかと思えば、黄金の細い螺旋階段の頂上に立つクリを、つついている。 「サルかおまえは? 普通に食え」  少しムッとした顔で、うるちは今度こそケーキ本体にフォークをいれた。  なだらかな金色の丘陵を裂き、奥に隠れていた柔らかなスポンジを割る。  わかたれた小さな島に、フォークの鋭い刃がのまれていく。  右手の動きに連動して、甘さとうまさの最高傑作が、うるちの口に運ばれた。 「……!」  ああ、これは何といううまさ! 何という感動!  とろける螺旋のクリームが、舌全体を極限の甘味で包み、スポンジケーキの弾力とワインの風味が、口のなかで宇宙遊泳するかのように自由に広がっていく。  これこそが、究極のモンブラン! 「……いいかげん、その実況やめて。ゆっくり食べられないじゃない」 「ダメか?」 「ダメ」  うるちは彼に注意をあたえると、ようやく一口目を食べた。 「どうだ?」 「うん、おいしい。コウの実況ほど感動はしないけどね」 「あっさりした感想だな。もっと喜ぶかと思ったんだが」 「やっぱあたし、甘いものには淡泊な性格らしいわ」 「でもたまに食べてんだ、じっくり味わってくれ」 「うん、そうする」  うるちはニッコリとして、久方ぶりの食感を味わっていた。  港はうるちに振り回された疲れを熱い風呂で癒し、火照った身体を落ち着かせようとベランダに出た。夜はまだ寒さがあったが、湯気の立ち上る身体にはちょうどよかった。 「あら、コウ。お風呂上りの湯冷ましってところ?」  ベランダの壁を挟んで、良子の声が届いた。柵から乗り出すと、良子がパジャマ姿で立っていた。 「沸かしすぎたもんでな。おまえは何してんだ」 「勉強の骨休み」 「はぁ、がんばるな、おまえは」 「まぁね。がんばれるだけがんばりたいのよ」 「そうか」  港には答えようがなかった。自分とは違うと、ただ思い知っただけだった。だからつい、反発したくなった。 「……がんばって、その先は?」  良子は質問の意味を理解するのに時間がかかった。そして、彼の気持ちがわかった。わかったから、言葉を濁すしかなかった。 「別に。そうしたいからしてるだけ。じゃ、戻るね。風邪ひかないようにね。おやすみ」 「ああ……」  彼は良子の方を見てはいなかった。言わなければよかった、と後悔していた。  彼女の部屋の窓が閉まる。 「あ〜あ、何してるんだ、オレ……」  しばらくの間、彼はベランダで沈んでいた。