「Pure☆Colors」 第三話  ジリリリリリ……  古臭い目覚まし時計を音が鳴り響く。このところ時計が騒ぐ直前もしくは直後には港を揺り起こす良子の姿があった。しかし、今日に限って目覚ましの音は鳴りやまない。  港は薄い覚醒のなかで、起床をうながされているのを知った。頭の中ではわかっているのだが、身体はなかなか動こうとはしなかった。 「う……。さすがに……起きないと……」  モゾモゾと時計に手を伸ばす。スイッチまであと少しだった。  その少しまでが長い。  たっぷり一分使って、彼はようやくスイッチを切った。  が、それでおしまいだった。身体はそのまま眠りに落ちようとしていた。 「なんだ、やっぱり一人じゃ起きられないんじゃない」  聞きなれた声に、港は反射的に立ち上がった。 「よし、今日の目覚めも最高だ。さて、学校へ行かねば!」 「なによ、そのわざとらしいセリフは」 「お、りょうこぢゃないか。どーしたんだ、こんなにはやく」 「蹴っ飛ばすわよ」 「すまん、オレが悪かった」 「わかればよろしい。でも、冗談はさておき、あんたやっぱり一人じゃ起きられないじゃない。ためしに目覚ましかけてみたけど、反応するまでに5分かかってるわよ。しかも止めるまでプラス二分」 「計ってたのかよ、おまえは。けどおかしいな、以前は3分で反応してたぜ」 「それでも3分かい!」  良子は呆れて食事の準備をはじめた。いつの間にやら、彼女も港とともに朝食をとるようになっていた。彼としては歓迎をしていないのだが、朝の弱さだけはいかんともしがたく、甘んじて厚意を受けるという複雑な心境であった。 「ほら、さっさと支度しなさいよ。まったくもう」  そう言うとき、良子は決まって笑顔を浮かべていた。  昼休みになり、ほぼ日課になりつつある購買へと向かおうとする。  常に同行する正義が、珍しく別の選択を提示してきた。 「なぁ、たまには学食行かないか? なんか新メニューができたらしいぜ」 「新メニュー? ん〜、でも所詮は学食レベルだからな。オレはちょっとヤボ用あるから、パスだ」 「ヤボ用? なんだよ、それ」 「ヤボ用に理由を訊くのはそれこそヤボってもんだ。じゃな」  学食の入り口で正義と別れ、港は購買へ並びだした。  それを怪訝そうに見ていた正義に、背後からの呼びかけが。 「あれ、須藤くん、一人?」 「ああ、良子ちゃん。あれ、優輝ちゃんも。もしかして学食?」 「うん。新メニューが出るって聞いてたから。コウくんはもう並んでるの?」  正義は港のいる場所を指した。 「なに、またパン? たまには学食使えばいいのに」 「ヤボ用だってさ」 「ヤボ用……? そんなものがあいつにあるのかしら」 「さぁね、裏で何してるかわかったもんじゃないからなぁ、あいつは」 「このまえ、それと同じことコウもいってたわよ」 「だれのことで?」 「もちろん、須藤くんのこと」 「なんて人聞きの悪い。こんなに品行方正な人間を捕まえてなんたる侮辱か」  嘆く正義に、良子は「たぶんコウも同じこというでしょうね」と笑って食券販売機の列に並んだ。  そのあとを、優輝が「あ、ありえそう」とつぶやき、ついて行く。 「おいおい、まるでオレがコウと同類みたいじゃないか」 「うん、同類だもん」  正義は渋い顔をした。本気で嫌そうであった。  陰で暴言を吐かれている対象は、パンと飲み物を手に屋上へあがっていた。  屋上への扉を開け、空と地上の狭間の空間を見渡す。  目的の人物がいた。昨日と同じ貯水タンクの管理室にのぼっている。 「お〜す」  港が素早くはしごを上り顔をだすと、うるちはヘッドホンをはずして「ヤッホー」とかえしてきた。 「また来たんだ。コウもけっこうヒマ人だね」 「パンを一人で食っててもむなしいからな。ここなら同じヒマ人がいるし」 「言えてる。……おせんべい、食べる?」 「おう、パンが終わったらな」 「今日はどんなの? ……なになに、『コーラ味焼きそばパン』と『まるごと大根パン』? ゲテモノ好きだね」 「オレの趣味よりむしろ、こんなのばかり売ってる購買に問題があるだろ」 「でもやっぱり、買うほうがおかしいんじゃない?」 「いやじつは、これがまたうまいんだよ――食ったことないけど――。そうだ、うるちも一口食ってみるか――毒味役として――?」 「……今なにか、小声で注釈いれなかった?」  あからさまに不信な目で港を見るうるち。対して彼は悪びれもせず、「いれないいれない」と手を振った。 「そお? それじゃものは試しで、一口もらおうかな?」 「おう、食ってくれ」  うるちはコーラ焼きそばパンを手にして、まずにおいをかいだ。 「甘ったるいにおいだね。なんかシュワシュワ言ってる」 「そりゃ、コーラだからな、当然だろう」  答えてみたものの、炭酸が噴出すパンなど見たくはない。 「いただきま〜す」  うるちは豪快に、パンの半分を一口でおさめた。  十秒ほど無表情で租借が続く。 「どうだ?」 「ソースのかわりにコーラがかかってんだね。あたし、甘いものほとんど食べないけど、これくらいなら食べやすいかな」 「で、うまいのか?」 「まずくはない……て、食べたことあるんでしょ?」 「ない」 「へ!?」 「あの購買のパンはすべてがプレミアものでな、二日と同じ物がならぶことがない。だから食ったことはもちろん、見たこともなかった」 「な、なにそれぇー! そんじゃ、あたしを実験台にしたのぉ!?」 「そうともいえる」 「信じらんない! もう、罰として食ってやる! ぜんぶ食ってやるぅ!」  うるちは残りのコーラ焼きそばパンと、まるごと大根パンを一気に口におしこんだ。 「ああ、オレの昼メシ!」 「ゴチソウサマ」 「オレのメシどーすんだよ!」 「知らないよぉ。だいたいコウが悪い! 人を実験台にするコウが」  反論できずしょぼくれる彼に、うるちはせんべいを差し出した。 「もう、しょーがないなぁ。ほい」 「うるち、おまえいいヤツだなぁ」 「チョーシいいんだから」  うるちは微笑を浮かべながら、小さく息をはいた。 「人のことはいえないと思うが」 「そだね」  うるちは満面の笑みをつくる。  せんべいの音だけが鳴り響く昼食が、二人にはけっこう楽しかった。 「コウ、じゃあな」 「おう、じゃあな、セイギ」 「コウくん、さよなら」 「優輝はクラブか?」 「うん」 「そっか、がんばれよ」 「うん、ありがとう」  二人が去ると、港も用がないとばかりにカバンを担ぐ。  その肩を力いっぱい掴む者がいた。 「ねぇ、もしかしてあんた、あたしのこと無視してる?」 「さて、今日はどこに寄っていくかな」 「わざとらしいにもほどがある!」  港の頭上に落下する四角い物体。それは一秒もせずに、彼の頭部に衝突した。 「ってー! 机を投げるこたぁねぇだろ!」 「これでも穏便なほうよ」 「たしかにそうだが。……で、なんか用かよ?」 「ん〜ん、別に。これから部活だしぃ」 「はったおすぞ、おまえは。だったらさっさといけ!」 「お〜コワ。じゃあね、コウ」 「おう」  後頭部にできたコブをおさえつつ、港も最後に教室を出た。    校舎歩けば忍者にあたる。港は、ことわざどおりに校舎をぶらついていた。  すると―― 「結城さん、こっちに誰かきませんでしたか?」  赤い影が突然あらわれた。このような姿をしているのは、当然、忍び装束のみなみだった。 「いや、誰もこなかったぜ」 「そうですか。では、急いでいますので失礼します」 「あ、ちょっ――!」  言葉になる前に、彼女は消えていた。  しかたなく彼は次の校舎散策ルートを取る。といっても、彼の行動範囲などたかがしれてるので、しばらくすると手詰まりになった。 「結城さん、ちょっと――」  耳元で、かすかな声がした。だが、周囲に彼に注目している人間はいない。空耳ではないかと疑う。 「校舎裏に来てください」  空耳ではなかった。だとすれば、こんな芸当ができる人物の心当たりは一人しかいない。  彼は校舎裏に急いだ。 「やっぱりみなみちゃんか」 「すみません。人が多かったものですから」 「いいよ、別に。で、どうしたの?」 「あ、あの、さきほどはごあいさつも満足にできなかったものですから、お詫びしようと思いまして」  みなみは深々と頭をさげた。 「用はそれだけ?」 「はい。申し訳ありませんでした」 「そんなこと気にしなくていいのに。みなみちゃんは大事な用があったんだろ? だったらしかたないじゃないか」 「そう言っていただけると、助かります」  彼女は心底安心したように息をついた。 「他人行儀だな。もっと気楽にいこうぜ、友達なんだから」 「……う、嬉しいです。わたしなんかにそう言っていただけるなんて」 「おいおい、これじゃ主従関係だよ」  彼が笑いながらそうボヤくと、彼女も小さく笑った。 「ところで、さっきは誰を捜してたんだ?」 「あの、え〜と、それは、ですね……」 「SSS関係なら、無理には聞かないぜ。みなみちゃんの迷惑になっちゃ悪いからな」 「……すみません」  本当に申しわけなさそうに、彼女はうなだれる。 「話せないってことは、まだ解決してないんだろ? 戻らなくていいのか?」 「あ、はい、またすぐに行かないと……」 「だったらオレのことなんていいから、みなみちゃんはみなみちゃんにしかできない仕事をやらなきゃ。がんばれよ」 「……はい!」  目のはしに涙のかけらをのせたまま、彼女は微笑んだ。 「結城さん、わたしがんばります!」 「おう、がんばれ!」  今度はきちんとおたがいに「さよなら」を交換し、二人は別れた。  港は帰宅のために自転車にまたがり、校舎を出る。  校門を抜けた数メートルさきに、ヘッドホン娘がいた。 「うるち、いま帰りか?」 「あえ、コウも? 授業はとっくに終わってるのに、出るの遅いんだね」  港は自転車から降り、うるちと並んで歩きはじめた。 「ああ、ちょっと友達と話しこんでたんだ。そういうおまえは?」 「あたしは図書室に行ってたんだよ」 「おまえ、物凄くウソつくのヘタだな」 「ほんとだって」  うるちの眼は本気であったが、港にはどうしても信じられなかった。 「ふむ、二百歩譲ってホントだとしよう。その目的はせんべい図鑑か?」 「そんなのあるわけないじゃん」 「それじゃ、カンパンマンの絵本シリーズか?」 「あー、懐かしいね。もっかい読んでみたいな」 「ということは、違うのか?」  「違うよ!」とカバンから一冊の本を取り出す。 「なんだ、最近まで映画でやってたヤツの原作本か?」 「うん、そそ。観る機会なかったから、借りてきた」 「わざわざ本を読むのか。ビデオでも借りてきたらどうだ」 「それもアリだね。でもあたし、本を読むのってけっこう好きなんだよ」 「……」 「今、信じられないって思ったでしょ?」 「わかるか?」 「わかるよ。誰に言っても同じふうに思われるんだから」 「だろうな」  やはり港には想像ができなかった。映画を観てはしゃぐ姿は簡単に思い浮かぶが、一人で熱心にハードカバーを読む彼女の姿は、大人しすぎて現実味がない。 「まぁ、せんべいをバリバリしながらゴロ寝で読んでいるなら、わからないでもないか」 「あえ? それはとーぜんじゃない? もしかして正座して眼鏡かけて音読してるとでも思った?」 「そこまでやってたら、いっそ褒めてやる」 「だよねー」  うるちは「キャハハハ」と笑った。 「お、もう商店街の入り口か」 「話しながらと早いね。ついでにウチでおせいべいでも買って行く?」 「……昼にさんざん食ったからいい。うまいのは認めるが、今日はもう食べる気がしない」 「そっかー、残念だよ。いつでも買いに来てよね。特別価格一割増しで売ってあげるから」 「増やすな!」  うるちはまた甲高い声で笑い、港に手を振った。 「じゃねー!」 「ああ、またな」  かしましいせんべい娘がいなくなると、その静けさが異様に寂しさをこみ上げさせた。けれど明日になればまた騒がしさは戻り、日常が繰り返されるのだろう。 「メシ、買って行かないとな」  うるちの店を通り過ぎ、港は手近な惣菜屋に入っていった。 「ほ〜らコウちゃん、朝でちゅよ〜。起っきしましょうね〜」 「ブハァ!」  いつもの朝、港は鼻水と咳を盛大に噴出しながら飛び起きた。 「あら、つまんないわね。もう起きたの?」 「耳元で赤ちゃん言葉使われたら、誰だってビックリする!」 「あ〜ぁ、せっかくミルクをあげようと思ってたのに……」 「……もしかして、その哺乳ビンのことか?」 「そうよ。いる?」 「飲むか!」  中には赤黒い粘液状の物体が詰められていた。なぜ哺乳ビンを持っているのか、中身の液体はなにか、問い詰めたいが聞きたくもないジレンマに頭を抱える。それにどうせなら―― 「……あんた今、どうせなら本物のほうがいいとか思ったでしょ?」  「ブッ!」港は再び噴いた。 「お、思うわけないだろ!」 「どうだか」  良子は彼の反論など鼻で笑い飛ばした。もしかして心を覗けるのではないか、そんな疑いがわいた。 「覗けるわけないでしょ、そんなもん」 「うお! また読みやがった!」 「あんた本当に単純よね。思考の軌跡がわかりやすすぎ」 (アインシュタインとエジソンとマギーシロウの脳を持つと呼ばれたオレが単純だと?)  これも彼の心中の声である 「誰も呼んでないし、マギーシロウは手品師よ」 「うお! またしても! おまえもしかして――」 「ミスターマリックじゃないわよ」  良子は投げやりに彼の言葉を先読みし、ため息をついた。 「ミスターマリックでないなら、どうしてオレの考えがわかるんだ?」 「だからあんたの思考なんて、思考と呼ぶにもおこがましいほど単純なのよ。長いつきあいのおかげで、わかりすぎちゃってんのよ、あたしには」 「だったら、いまオレがなにを考えてるか、わかるか?」 「わかるわよ」 「よし、言ってみろ」  良子はもう一度、大きく息をはいた。 「……ハラへった」 「よし、あたりだ」 「あんたとはやっとれんわ」  良子はあきれ果てたと公言するように肩をすくめ、おかってに消えた。  心の中で勝利の喝采をあげ、逃げた良子に優越感を得たとき、彼女がさらに一言。 「いっとくけど、逃げたんじゃないからね!」  「グハァ!」港は三度噴いた。  ごく身近な友人たちに朝のあいさつをし、彼が席に着いたのは、まだ予鈴にかなりの余裕がある時間帯だった。 「今日はいつもより早いね」  優輝に尋ねられ、港が窓の外を指す。 「この天気だろ。昼には雨になるっていうし、早めに出て歩いてきたんだ」 「もうすでに真っ暗だもんね。雷も落ちそう」 「そうだな。いっそさっさと振ってもらって、帰りには晴れててくれればいいんだが」 「そうね」  この楽観的願望は、果たされなかった。  空は昼を前にしてようやく雫を落としはじめた。太陽の光はもうどこも照らしてはいない。  いったん降りだすと、風雨が強くなるのに時間はかからなかった。狂ったように雨が地面を叩き、アスファルトに無数の飛沫と小さな川をつくる。  憂鬱な空を眺めながら、港と正義は購買で普段よりも若干長めの列に堪え、食料を手に入れた。  帰りがけ、そこに普段ならまず見ないであろう知り合いがいて、港は足を止めた。 「あれ、うるちだ。めずらしいな」  港は彼女の元へと近づく。 「よう、今日は学食か?」 「あ、コウ。うん。雨ふってるから、屋上いけないじゃん」 「それもそうか」 「それでもコウはパンなんだね。屋上、行く?」 「アホ」  うるちは予想どおりの返事に満足して、歯を見せて笑った。 「いっしょに食べるなら、席の確保よろしくね」 「誰がそんなこと言った?」 「あたし。だからよろしく」 「おまえにゃ負けるよ」  港はため息をつきながらも、席の確保に向かった。 「コウ、教室戻らないのか?」  学食の奥深くに侵入しようとする友人に近づき、正義は訊いた。 「ワリィ、一人で帰ってくれ」 「ああ? おまえは女の子と楽しく会食するのに、オレには一人でパンを食べてろってのか?」 「教室には優輝も良子もいるだろうが。両手に花だぞ」 「そ、そうか! いやぁ、コウくん、がんばってくれたまえ!」  正義は港の肩を二度叩くと、通常の三倍の速度で廊下を駆け抜けていった。 「……しかし、両手に花とはいえ、片方は食虫植物だぞ?」 「コウ、席とっといてって言ったじゃん」 「早いな、うるち。悪い、友達待たせてたからさ」 「友達? ……いないじゃん?」 「うるちと食うから別れた」 「え……? い、いいの?」  うるちは急激に照れくささが湧き上がり、赤くなった。 「ああ、問題ない。あいつもオレより女の子のほうがいいみたいだしな」 「そ、そう。じゃ、そこで食べようよ」 「ああ」  二人は窓際のすみで、はじめてせんべいの音がしない食事を楽しんだ。 「やまないな……」  外は明るくなってきてはいたが、雨がやむ気配はなかった。  放課後になり、皆がいなくってからもしばらく眺めていたのだが、濡れるのはあきらめるしかないようだった。  下駄箱に降り、自分の傘を抜き出す。ため息まじりに傘をひろげたところで、背後から走ってくる気配を感じた。 「ふぅ、追いついた」 「あれ、優輝。美術部はどうした?」 「湿気が多すぎるから今日は自主活動になったの。で、部室からコウくんが帰るところが見えたんで、切り上げて追いかけてきた」 「はは。優輝がそこまでするなんて思わなかったな」 「そう? たまにはいっしょに帰りたいじゃない」  優輝が靴を履き替えるの待つ。港の印象と違う彼女に、笑みがこぼれていた。人にはいろいろな面がある。それをごく最近、多く学んでいるような気がした。 「じゃ、どこか寄って行くか?」 「うん。おいしいタコ焼き屋があるんだけど、行ってみない?」 「お、いいね。めったに食べないからな、期待しておく」 「うん、期待して」  二人は二つの傘を並べて、校舎を出て行った。 「風はだいぶおさまったけど、ちょっと肌寒いね」 「そうだな。しばらくすればやみそうな気はするんだけどな」 「雨か……。ね、コウくん覚えてる? 一年のときの、どしゃぶりの日」 「うん? なにか、あったっけ」 「ちょうど一年前、まだわたしとコウくんが友達になってなかったころ、こんなかんじの大雨がふったでしょ?」  入学したての、クラスメイトに名前のことでからかわれてた時期。一年前と言われると、港にはその印象しかなかった。 「わたし、登校中に傘が壊れちゃって、帰れなくなってたの。友達はまだできなかったし、知り合いもいないし、しかたなく下駄箱にずっと立ってた」 「なるほど、そこへオレがかっこよく『この傘、使いなよ』と傘をさしだし、二人の間に愛が芽生えたんだな」 「じゃなくて……。もう、本当に覚えてないのね」  優輝はかなり困った顔をした。 「面目ない。で、そのあと、どうしたんだ?」  優輝の視線が、かなたに見える薄日に向かった。 「うん……。下駄箱に立ちつくして、三〇分くらいかな? 良子ちゃんが来たの」 「良子が?」 「うん。もちろんその時も、良子ちゃんとは友達にはなってなかったから、ただコウくんの幼なじみとしか知らなかった。それなのに良子ちゃん、わたしに言ってくれたの。『傘、貸してあげるよ』て……」 「へぇ、あの良子がね」  口ではそう答えたものの、良子ならありえる話だと思った。そういう人間だと、彼は知っていた。 「わたしが戸惑っていると、『いいからいいから』て無理やり持たせてくれた。ああでもしてくれなかったら、わたしたぶん、受け取れなかったな」 「なるほど、そいつは美談だな。でも、それがオレとどんな関係があるんだ?」  優輝は口の中で笑った。必死で笑いをこらえようとしている。 「傘をわたしに貸した良子ちゃん、それからどうしたと思う?」 「ああ、そういえば、どうしたんだ?」 「良子ちゃんね、そのまま事務室の電話に向かったの。そして――」 「あー! 思い出した、あのどしゃぶりの日か! あいつ、オレに電話してきて傘を持ってこいとか言いやがったんだ!」 「そう。『持ってこないとあのことバラすわよ』て言ってたわ」  優輝はこらえられなくて、ついに声をたてて笑いだした。 「でね、電話をきったあと、わたしにこう言ったの。『コウは単純よね。今んトコ弱みはないのに、すぐあると思いこむんだから』」 「クソ、あれはハッタリだったのか」 「その日から、わたしは良子ちゃんと友達になって、コウくんとも少しずつ話すようになった。……わたし、あの雨に感謝してるのよ。だって、今、こうしていられるんだもの」  優輝の笑顔が、可笑しいものから嬉しいものへと変化していた。  港はその瞳に、吸い寄せられるような気がした。彼も少しだけ、あの日の雨に感謝していた。  優輝に案内されてやってきた商店街の裏道に、それらしい店がでていた。  客層も主婦や子供、学生に会社員と、雨にも関わらず大勢いる。  二人は列の最後につき、かぐわしい匂いのもとにたどり着くのを待った。  それから十五分後。 「ちょっと並んじゃったね」 「列ができるんだから、それだけうまいんだろう? 期待してるぜ」  二人は手近なひさしに身を寄せ、さっそく六個四〇〇円のタコ焼きに串をさした。  できたてのタコ焼きからは湯気がたち、かつおぶしが揺れている。  コゲめのある皮とソースが芳醇な香りが鼻孔をくすぐり、食欲をいやがうえでも刺激する。  串は堅めの皮と、しっとりとした中身の弾力の抵抗を受けたのち、感触を楽しませるがごとく奥へ奥へと滑りこんでいった。  フゥと一息冷まし、口にいれる。  熱い。  口の中で大玉がコロコロと転がり、ソースの味があとに続く。  それがおちつくと皮を割り、タコが、紅ショウガが、きざまれた野菜たちが舌を舞台に踊りだす。  ウマイ!  なんて絶妙な味つけ、歯ごたえ、焼き具合、そして香り。  港はいつの間にか、涙を流していた。 「どう、コウくん?」  優輝がたずねてくる。  しかし彼は答えられなかった。  言葉ではない。本当にうまいものは言葉などでは表わせない。味覚という優れた味の芸術家が、魂を揺さぶればそれでいいのだ。  港はうなずく。涙を流しながら何度もうなずいた。 「気に入ってくれた? ……よかった」 「タコ焼き屋のおっちゃん、あんた、最高だぜ!」  帰りにタコ焼きを食べたせいか、いつもの夕食時になっても空腹は訪れなかった。港はいっそこのまま寝てしまおうかとも思ったが、矢先に玄関が開けられた。 「コウ、お母さんがこれをどうぞって」  隣に住む天草良子が抱えていた皿には、まだできたてと思われる酢豚が山盛りになっていた。  勝手に住居侵入をしてきた相手に文句を言おうとした港だが、芳しい香に言葉をのんだ。 「いつも悪いな。お礼、いっといてくれ」 「うん。あ、でも、もうご飯おわっちゃった?」 「いや、あんまり腹が空いてなかったから食べずに寝ようとか思ってたところだ。けどこの臭いをかいで、とたんに食欲がわいてきた」 「よかった。ご飯はあるの?」 「ああ、朝のやつが残ってる」 「そう。それじゃ後でお皿取りに来るから」  「ああ」と皿を受け取った港の笑みは、子供のように無邪気だった。  良子が帰ると、彼はインスタント味噌汁を用意し、ご飯を温め、箸を伸ばす。さすがに絶品だった。  が。 「う〜ん……」  しばらく箸をとめ、一つの解答を得る。そして食事を再開するのだった。  一時間後、皿を取りに来た良子に、港は勝ち誇ったようにニヤリとした。 「良子、サンキューな」 「なにが? お礼ならさっき聞いたわよ」 「いやいや、あれはおばさんにだ。今度はおまえにだよ」  「なんで?」と、聞き返す良子の耳が赤くなっていた。 「これ、おまえが作ったんだろ」 「そ、そんなの……」 「わかるって。味の微妙な差とか野菜の切り方とかでな」 「そうなの?」 「オレはおまえの料理を一番食ってる人間だぞ。どういうつもりかは知らないが、すぐにバレるからウソはやめとけ」 「あー、うん。ごめん」 「あやまらくてもいい。うまかったんだから感謝しとく」 「……うん。それじゃ、おやすみ」  「ああ、おやすみ」上機嫌で扉のむこうに消えていく良子に、港も軽く手を振った。  この夜、二人は気持ちよく眠りについたのだが、おたがいにそれを語ることはなかった。  翌日、朝は良子に起こされ、休み時間は優輝や正義と談笑し、昼はうるちにつきあいせんべいをかじるという恒例の行事がつつがなく終わった。  放課後も平凡に済むと思っていた港は、自転車置き場に着いたとき、生徒たちのヒステリックな叫びを聞いた。 「火事? どこだ!」  断片的な声を集めても何もわからなかった。自分までもがパニックに包まれかける。良子は? 優輝は? セイギは? うるちは? みなみちゃんは? 一瞬の間に親しい友の顔が脳裏を駆け抜けていく。  港は頭のなかを整理するよりはやく、校舎に戻っていた。  生徒の波と、誘導する教師の壁をすり抜け、かすかに見える煙の方向へと走る。そこはC校舎一階の奥だった。彼の知人でその場所を利用する者はいない。港は胸をなでおろした。 「結城、そっちじゃない、校庭に避難しろ!」  背後から体育教師・愛称ゴラちゃん三七才独身の怒鳴り声がする。  港もこの先には進むつもりはなかったが、引き返そうとしたところで、彼女に気づいた。 「ガンプラ・毒マスク!」  過去に二度、このあたりの廊下ですれ違っただけの女子生徒の姿が、そこにあった。 「あそこは美術造形部の部室……。あそこが火元か!」 「おい、結城!」  愛称ゴラちゃんが手を伸ばし、港の腕を捕まえようとした。けれど、彼の行動力がそれを上回り、寸でのところで捕獲は失敗した。  廊下を走りぬけながら、水道を思い切りひねって制服を濡らす。それを頭からかぶり、女子生徒に近づいた。  彼女は放心しているのか、何やら歌っていた。 「燃えあが〜れ〜、燃えあが〜れ〜、燃えあが〜れ〜〜ガ……」 「歌ってる場合か! 逃げるぞ!」 「あ……」  身体を揺さぶられ、彼女は意識をこちらに向けた。 「わたしの……わたしの作品……」 「あきらめろ! 生きてりゃまた作れる!」  港は彼女の口にハンカチを当て、濡れた制服をかぶせた。 「行くぞ!」  彼女は抵抗しなかった。けれど能動的でもなかった。引かれるまま、走っているだけだった。  二人は中庭に続く階段脇の扉をくぐり、外へ。そのまま彼女を火の届かないA校舎側へと連れて行き、落ち着ける場所に座らせた。 「ここなら大丈夫だろ。ヤケドとかしてないか?」  港の質問に答えはない。  目の前にいる港が誰ともわからぬまま、話しかけてくる。 「あれ……? わたし、夢を見てたみたい。わたしの大切な作品が、ぜんぶ燃えちゃったんです。……アハ、夢で良かった」  まだ意識が混濁しているようだった。港は事実をはっきり告げるべきかどうか迷った。 「今日は朝からずっと、グフ・カスタムを作るつもりでいたんです。だからはやく部室にいかなきゃ……」  フラフラと立ち上がる彼女の手を、港は捕まえた。  その温かな手を通して何かを感じたのだろうか、彼女の肩が大きく跳ね、それから小さく震えだした。  遠くから消防車のサイレンが響き、近くから生徒たちの喧噪が届く。  彼女は、思い出した。 「……なんで……なんでだろう……」  じわじわと涙があふれだす彼女の瞳に、港は何も答えてやれなかった。ただ、にぎった手の力が、少し強くなっていた。 「痛いですよ……。痛くて、泣きそうです……」  煤に汚れた彼女の顔は、苦痛に歪んだ。  肉体ではない。  心の痛みによって。  現実に戻るための引き換えに、彼女は多くの代償を支払わねばならなかった。  作りあげた物、創りあげた世界、造りあげた居場所……。  彼女はそのすべてを、予告もなく焼きつくされたのだ。  火傷の痛みはゆっくりと浸透し、うなされるような高熱と激痛をともなう。その痛みと同じものが、今、彼女の心を襲っていた。  港にはわからない。あのプラモデルの山が、彼女にとってどれだけ大切なものであったのか。  これだけの悲しみと辛さを、彼は味わったことがない。それだけ何かに真剣に打ち込んだこともない。  彼は彼女をなぐさめる術を知らなかった。だから何も言えなかった。支えることさえできなかった。  そして、手さえも放していた。とても握ってなどいられなかった。解放された彼女は、その場で泣き続けていた。  「村雨さん!」一人の女性教師がこちらへと走って来る。港は安心していた。これでもう、自分の役目はすんだと思った。  港はきびすを返して足早に離れた。 「結城さん」 「みなみちゃんか……」  彼女の姿は見えない。どこからか、彼にだけ聴こえるように話していた。 「火事は消しとめられました。幸い、怪我人もなく被害は最小で抑えられました」 「そうか……」 「結城さんがあの方を連れて逃げてくださったおかげです。ありがとうございました」 「やめてくれ。オレは、彼女を珍しがってたんだぜ。意味不明の部活に所属している、ガンプラを抱えた、ヘンな髪型の、異様なマスクをつけた生徒ってだけでさ」 「結城さん……」 「あの子は真剣だった。オレなんかが笑えるような小さい人間じゃない。たかがプラモデルだぞ。それをあんなに悔しがって、悲しんで、どれだけ本気でやっていたかわかるだろ?」 「はい……。どんなものであろうと、その人にとって大切なものは大切なんですよね」 「ああ、そうだ。だからオレはただ連れて逃げただけで、救けてなんていないんだ」 「はい……」  港はか細くなるみなみの返事を聞き、急に自分が恥ずかしくなった。 「……悪い、みなみちゃん。わざわざ報告に来てくれたのに、からんじまった」 「いえ、気にしないでください。助けられなかったのは、わたしたちも同じですから。こういうことが起きないようにするためのSSSなのに……」 「そうだよな、みなみちゃんも悔しいんだよな。ごめん、オレは自分のことでいっぱいいっぱいだ。土壇場になると弱いな、オレは」 「気にしないでください」  みなみの声は、先ほどよりは明るかった。それが港には救いだった。 「でも、彼女もついてないよな。プラモをやってたってことは、引火物が多かったってことだろ? きっとそれが燃えたんだろうな」 「……いえ、たぶん違います」 「え?」 「調査はこれからですが、違うと思います。彼女は作品を大事になさっていましたが、道具も大切にしてきちんと管理していました。自然発火が起きる確率は低いです。それに……」 「うん?」 「えと、すみません。これ以上は……」 「ああ、SSS関係か。いいよ、ありがとう」 「すみません。これ以上お話はできませんが、結果はいずれお伝えしますね」 「悪いな。絶対誰にも言わないから。それと、気をつけてな」 「はい、ありがとうございます。では失礼します」  声とともに近くの木が揺れた。彼女はそこにいたようだった。  港がやるせなさにため息をつき、そっと背後をうかがうと、あのガンプラ少女は教師に保護されて保健室へと歩いているところだった。  ほんの合間、彼女の顔がこちらに向いた。泣きはらした顔が、何かを訴えているような気がした。  その後、港は校庭に避難していた良子や優輝を発見した。 「コウ、大丈夫だった? なんか先生がコウが火に飛び込んだとか言ってたから心配したわよ」 「ああ、オレは平気だ」  港は微笑んだつもりだったが、気持ちがまだ晴れていないため、どこか歪んでいた。  見逃す二人ではない。 「本当に? 制服も濡れてるし、無茶してない?」 「大丈夫だって。それより優輝たちこそ何ともないか?」 「うん。美術室は四階だし、上からグルッと回ってきたから」 「剣道場にいたっては校舎外だしね」 「そうか。セイギはとっくに帰ってただろうし、安心だな」  港はうるちの顔も思い浮かべたが、彼女も即帰宅をモットーにしているから大丈夫だと決め付けた。そもそも、みなみが怪我人がないと話していたのだから心配はないだろう。 「それじゃ、オレは先に帰る」 「あ、この騒ぎで今日はどの部活も中止になってるから、いっしょに帰りましょう」  優輝の誘いに、港は応えなかった。 「悪い、今日はちょっと急ぐんだ。またな」 「あ……!」  呼び止めようとした優輝だが、それ以上の言葉はでなかった。 「何かあったみたいね」 「うん……。でも、わたしには話してくれないよね」 「たぶん、あたしにもね。ああいうとき、コウは自分がすごく嫌いになってるのよ。無力を感じたときとか、誰かを傷つけたときなんかにね」  良子の寂しそうな横顔が、優輝の心を締めつける。 「……すごいね、良子ちゃん。ちゃんとわかるんだ、コウくんの気持ち……」 「ごめん」 「ううん。別に責めてるとかじゃないの。わたしにもわかるもの。幼なじみの気持ちって」 「優輝?」 「わたしにだって幼なじみくらいいるのよ。一年前別れちゃったけど、やっぱりちょっとした仕草でわかっちゃうんだよね、こういうの」  優輝は思い出していた。大切な幼なじみは、引っ越す寸前に一つのウソをついた。けれどそうと知っていて、優輝はだまされた振りをした。彼らはそう言わねばならなかったのだ。信じ続けることの難しさが、わかっていたから。 「そっか……」  良子はそれだけつぶやき、しばらく焼け焦げた教室を眺めていた。