「Pure☆Colors」 第一話  ジリリリリリリ……  ジリリリリリリ……  カーテンのかすかな隙間から少しだけ暖かい光が漏れ、横倒しになっている目覚ましを照らしていた。時刻は八時をとうに過ぎており、指定されたタイマーの時間からだいぶ経っているのがわかる、  目覚ましを仕掛けた当人は、まだ覚醒の兆しすらなかった。 「うるさい……」  ようやく身じろぎをしたかと思えば、布団を目深にかぶって聴こえない振りを決め込む。  そんな彼のもとに、近づく足音があった。  部屋を孤立させていたふすまが開かれ、短めの髪のいかにも快活そうな女の子が入ってくる。 「もう、コウったらやっぱり寝てる!」  制服姿の女の子は、まだ眠りから覚めない幼なじみの身体を揺すった。  今日から高校生活の二年目がスタートする。その大事な初日に、彼はいつもの悪いクセを発動させ、外界を遮断するように眠りこけていた。 「目覚ましがしゃべるなよ……。それに時計のクセにアダ名で呼ぶとは生意気だぞぉ。オレ様のことは結城港(ユウキミナト)様と呼べと、いつも言っているだろぉぅ」 「目覚ましがしゃべるか!」 「目覚ましが怒鳴るなよ……」 「ホントにもう」  彼女は呆れて天を仰ぎたくなったが、そんな悠長なことをしている時間はないので、さらに彼の説得を続けた。 「はやく起きなさいっての! 今日から学校よ!」 「学校……? オレはもう立派な社会人だぞ。しかもきのうリストラされたんだ。だから起きる必要はない」 「遅れるって! もう、制服はどこよ!」 「うるさいなぁ。じゃぁ、百歩ゆずってオレは学生ということにしておこう。だが、眠いのだ。学校はおまえにまかせるから、寝かせておいてくれ……」 「いいかげん、起きなさい! 新学期そうそう遅刻したいの!?」 「したくはないが、しかたもないのだ。オレは絶望的に眠い……」 「あー! もう、起きろー!」  彼女は力任せに布団を剥ぎ取った。春だというのに、朝の空気は冷えきっており、彼の全身を震わせるのには充分な力があった。 「うわ、寒ぃー!」 「目ェ、覚めた? はやく着替えて学校行くわよ!」 「良子、なんでオレの部屋にいるんだよ!」  天草良子(アマクサリョウコ)は港と同じマンションの、隣家に住んでいた。幼稚園に入る前から家族ぐるみの付き合いであり、小学校からは常に同じ学校、同じクラスだった。彼に言わせると、「いいかげん腐れ縁も切れてほしいものだが、腐ってネバついているから切れたモンじゃない」らしい。  良子は長年の付き合いから港の扱いは心得たもので、彼の剣幕に引くどころかねじ伏せるように怒鳴った。 「いいから時計を見なさい! 起きたんなら、さきに行くからね!」 「ああー、完全に遅刻じゃないか!」 「あんたが悪いんでしょ! じゃぁね!」 「ちょ、ちょっと待て、きたないぞ!」  三秒で寝巻きがわりのトレーナーを脱ぎ、五秒で制服を着る。  なにも入っていないカバンをかつぎ、外へ飛び出す。  良子はすでにマンションの階段を駆けおり、自転車のカギをはずしていた。 「あいつホントに先に行きやがった」  港も負けじと階段を跳びおり、駐輪場へダッシュをかけた。その迅さは彼女の比ではなく、スタートから十秒後、彼のシティサイクルはアパートの門をくぐっていた。  三〇秒後、信号につかまった良子に追い着く。 「あんた、とばしすぎじゃない? そのうち事故るわよ」 「ママチャリで時速五〇キロだすヤツに言われたくない」 「だせるか!」 「それはともかく、いま、何時だ?」 「八時二三分。もう完全にアウト。……あんたのせいだからね」  良子の冷ややかな視線を受け、港はわずかにたじろいだ。多少なりとも彼にも罪悪感があったということだろう。 「あー、悪かったよ。帰りにたぬきソバおごってやるから。ただし立ち食いな」 「女子高生を立ち食いソバに誘うな!」 「でもおまえ、ソバ好きだろ?」 「う…うん、好きだけど……」 「わかったよ、じゃ、宝来庵ならいいだろ?」  宝来庵(ホウライアン)は、通学路を少しはずれた商店街にある、小さなソバ屋だった。味に関しては立ち食いソバとは比べものにならない。もちろん、それなりの対価は支払うのだが。  宝来庵という単語に、良子の目は輝いた。 「ホント? 絶対? やった!」  喜ぶ良子に声に、聞き覚えのある男の声が重なった。 「あれ、二人とも早いな」  振りかえると、中学から友人、須藤正義(スドウマサヨシ)がいた。 「どこが早い? もう完全に遅刻だろうが」 「あー? なに言ってんだおまえ、始業式は九時からだろ? まだ余裕じゃねぇか」  「あ……」良子の顔は硬直していた。その表情に、港はすべてを悟った。 「良子ぉ、おまえ、もしかして時間を――」 「あ、そうそう、あたし、優輝と待ち合わせしてたんだ。悪いけど、さき行くねぇ〜!」 「ふざけんなぁ〜!」  言葉を続けようとした港だが、そのころには良子の姿は曲がり角に消えていた。 「相変わらず仲いいな、コウ」 「セイギ、どのへんが仲がいいというんだ?」  須藤“正義”だから「セイギ」。結城“港”だから「コウ」。これが二人のアダ名だった。 「180度、どこから見てもだよ」 「残りの180度はどこいった?」 「人の表面しか見ないのが、オレのいいところでな」 「それって長所か?」 「そういう細かいところを気にしないのも、オレのいいところだ」  呆れて言い返してやろうと思ったが、港は何も言わなかった。朝から疲れてばかりでいいかげんウンザリだった。 「……ま、いい。とにかく学校へ行くとしよう。後ろ乗れよ」 「おう」  正義を後ろに乗せた港の自転車が、学校へ向けて再び走りはじめた。  三分後、二人は校門をくぐった。新学期を待ちわびた生徒の一団が波となり、校内へとのまれていく。新生活に期待するもの、日常の一部としか思わぬもの、春休みボケが抜けずにあくびを漏らすものと、それぞれの性格がはっきりと浮かび上がっていた。  港は自転車を体育館裏の駐輪場所に収め、その足で中庭へ向かう。掲示板が立っており、新しいクラスが貼りだされていた。  先行していた正義を見つけ、人並みをかき分けて進んで行く。 「オレはB組だった。セイギ、おまえは?」 「オレもだ……て言うより、四人ともまたいっしょみたいだぜ」 「また良子とも同じ? なんなんだこの悪意は……」 「失礼ね、それはあたしのセリフよ。なんでこうなるのかしら。やだやだ……」  良子は大きく息を吐いて首を振った。 「ふふ…。良子ちゃん、本当は嬉しいくせに」 「そ、そんなことないわよ! なんであたしが!」  激しく抵抗する良子の背後から、四人目の仲間が顔を見せた。長くて綺麗な髪と柔らかな笑顔が印象的だった。 「優輝、またいっしょだな」 「うん。よろしくね、コウくん」  水都優輝(ミナトユウキ)。  彼女は、中学卒業と同時にこの町へ引っ越してきて、この私立有明高等高校へと入学した。  奇縁であろうか、二人の名前はおたがいの姓名が逆――ユウキ・ミナトとミナト・ユウキ――で、しかもクラスも同じになったものだから、当時はさんざん冷やかされていた。それがおさまるころには自然と親しくなっていて、今では四人でつるむのが当たり前になっていた。 「あ、もうすぐ始業式がはじまるわよ。いきましょう」  優輝にうながされ、三人は体育館へ急いだ。  予鈴が響く。  もう聞き慣れていたはずなのに、港にはなぜか新鮮だった。  高校生活二年目は、日常の穏やかさに包まれてはじまる。  始業式と新しいクラスでのはじめてのホームルームが終わると、初日はすぐに解散となった。  個人ロッカーの割り当ても済んでいるため、多くの生徒が新しい教科書を中に押し込んでいく。  港は急ぐ用件がなかったため、その波がひけるのを待つことにした。  その時間潰しに、良子も優輝も正義も付き合っている。やはり大量の紙束を持って帰るのは、皆、辛いのだろう。 「あー、そういや良子、昼は宝来庵でいいぞ」  空腹を覚えると同時に、港は朝の件を思い出し、良子に話を振った。 「え、おごってくれるの?」 「おまえがおごるんだ!」 「なんで?」 「オレを無理やり起こした罰だ。本来なら銃殺ものだが、オレも鬼ではない。それで許してやる」  良子の目は心底あきれ果てていた。 「あのさぁ、ひとついい? 仮にあたしがあんたを起こさなかったとするわよ?」 「うん?」 「その場合、あんたは一人で起きて、学校に来れた?」 「こ、来れたとも。当然、しっかり、完璧に、多分、なんとなく、きっと、おおよそで……」 「あんたって、ヘンなところで正直者よね。目が泳いでるわよ」  形勢不利を悟った港は、さりげなく立ち上がる。 「さ、さぁて、そろそろ教科書を片付けに行くか。じゃ、またな」 「待ちなさい!」  「ぐぉ!」良子の投げた真新しい国語の教科書が、彼の後頭部を直撃した。 「おごれとは言わないから、宝来庵いきましょ。話してたら行きたくなっちゃった」 「……そうだな。結局はどこかで昼飯を食うわけだし」 「決まりね」  良子が満面の笑みで手を叩いた。 「宝来庵か、あそこの天丼はたしかにうまい」  正義が二人の話の区切りを見つけ、神妙な顔でつぶやいた。 「いっしょに行くか? もちろんオゴリじゃないぞ」 「ケチくせぇな、たまにはオレたちの友情に乾杯ってわけでおごってみたらどうだ? いいことがあるかもしれないぞ」 「じゃぁ、おまえのオゴリな」 「今日のところは自分で払うとしよう」  港は「今日だけかよ」と軽くツッコミを入れ、それまでの会話を面白そうに聞いていた最後の仲間に振り返った。 「優輝も行くだろ?」 「うん、もちろん。あそこのキツネうどんは絶品だもの」 「オレとしてはカツ丼が最高なんだがな。あのカツの絶妙な揚げとタレとの絡み、とじ卵のバランスは他店の追随を許さない」 「それもこれもツユがいいからじゃない。そしてそのツユを楽しむにはやはりおソバしかないわ」 「いやいや、あのツユは天ぷらにこそあうと……」  彼らの宝来庵談義は、クラスメイトが全員いなくなるまで続いた。  四人はまだ少し肌寒い通学路を脇に抜け、商店街から宝来庵ののれんをくぐった。  昼どきなので人は多かったが、同じテーブルにつくことはできた。  良子は迷わずかけソバを――あげ玉とネギは取り放題なのでたぬきソバはなかった――、優輝はキツネうどん、正義は天丼、そして港が予告どおりにカツ丼を頼む。 「そういえば、コウくんの家、今ご両親いらっしゃらないんでしょう?」 「ああ。五日前から海外出張。とうぶん帰ってこない」  そのために自分で目覚ましをかけていたのを、彼はすっかり忘れていた。 「食事とかどうしてるの?」 「気がむいたら自分で作るし、コンビニ弁当ですますときもある。きのうの夜は、良子のおばさんから混ぜゴハンをもらったな」  天草家の料理は、結城家に比べて格段に美味かった。その能力は一人娘の良子にも正しく伝承されており、よほど専門的な料理でなければレシピなしで完璧に作ってしまうほどであった。 「短い間だが、一人暮らしか……。それいいな、泊まりにいくかな」 「来んな。部屋を汚されたら、オレが掃除するんだぞ」 「あんた、掃除なんてするの?」  良子が不信な顔をする。 「当たり前だろ。洗濯も自分でしてる――というか、しないとダメだろうが」 「へ〜、あんたがねぇ……」 「考えてもみろ、この歳になって、自分の部屋の掃除を親にしてもらうやつがいるか?」 「つーか、してもらうとヤバイものが出てくるからだろ?」  正義が余計なことを言う。 「ヤバイもの……? 例えば?」  優輝の質問に、港も正義も答えられなかった。いや、彼女の素朴な瞳を前に、答えたくはなかったのだ。 「そんなのあったかなぁ。ベッドの下にも、本棚の裏にも何もなかったけど……」 「人の部屋を勝手にあさるな。ともかく、オレは一人でも大丈夫だ」 「優輝、見てなよ。こいつゼッタイ明日から遅刻の連続記録を作るから」  良子の不機嫌な言葉を、彼は否定できなかった。 「あの、コウくん、よかったら、わたしが朝電話しようか?」 「お、優輝ちゃんのモーニングコール? いいなぁ、コウ」 「ありがたいけど、大丈夫だ」 「ホントに、平気?」 「大丈夫だって。いざとなったら、あたしが壁をぶちやぶってでも起こしていくから」  幸せそうにツユを一気飲みしながら、良子が自信満々で言った。 「おまえなら本当にやりそうで怖いな」  そうならないよう、なるべく自力で起きようと港は思った。自信も根拠もない誓いではあったが。  誓いを立てた翌日、目覚ましが鳴った二分後に、港は良子の五度にわたる攻撃を受けて起こされた。 「良子……? なんでおまえ、ここに……?」 「あー、はいはい、きのうと同じこと繰り返さないで早く支度しなさい」  投げつけられたタオルを持って洗面所に行き、寝ぼけながら顔を洗う。  制服に着替えてリビングに戻ると、テーブルには朝食が用意されていた。 「うちの余りものだけど、さすがに作ってる暇はないからいいわよね?」 「ああ、ぜんぜんかまわない。悪いな」 「そう思うなら、ちゃんと早起きしてご飯くらい炊いたら? おかずなんてどうにでもなるんだし」  できればやっている、と反発しようとしたが、彼にはそれ以上に気になる点があった。 「それはともかくだ、おまえ、どこから入った?」 「カギが開いてたから入っただけよ」 「ウソつけ、寝る前に三回も確認したぞ」 「ウソじゃないわよ。開いてたわよ、窓のカギ」  「ブハァ!」思いもよらぬ答えに、口の中のメシを噴き出した。 「きったないわねー!」 「どこの世界に窓から人ン家に忍びこむ女子高生がいるんだよ! しかもここは三階だぞ、落ちたらどーすんだ!」 「あら、心配してくれてるんだ?」 「アホか、おまえは!」  天草良子は学校では優等生で通っていた。成績優秀で剣道部のレギュラー、責任感も人望もあり、教師からの信頼度も高かった。が、半面今回のように、早朝、制服でベランダをわたり、窓から部屋に侵入し、寝ている人間を叩き起こすのである。港でなくとも、彼女の内外を疑いたくなるものである。 「起こしてもらって、アホはないでしょう?」 「うるさい。とにかく、もうそんなことはすんなよ」 「あんたがきちんと一人で起きられれば、あたしだってしないわよ」 「……そうか、それはもっともだな」  港は玉子焼きを最後のひとかけらを、口にほうりこんだ。  良子の働きにより、二人は本日も余裕の登校となった。 「おはよう、早いね」  二人が教室に入ってきたのに気づき、優輝は港の席に近づいた。出席番号順に席が並んでいるため、優輝と港の距離は五人分も離れていない。良子とは、彼女の番号が一番のため、廊下側と窓側で隔たりが大きかった。 「ああ、優輝の想像通りだ」 「あは、起こされたんだ?」 「アザ見るか?」 「え? ホントに?」  優輝は予想外の言葉にたじろいだ。  それを払拭する「そこまでやってない!」という良子の声が近づく。 「良子ちゃん、おはよう」 「おはよう優輝。ダメよ、こいつの話をまともに信じちゃ。八〇%はウソで構成されているんだから」 「残り二〇%は?」  「冗談だな」良子の答えに割り込んだのが正義だった。 「おはよう、須藤くん」 「おはよ、優輝ちゃん、良子ちゃん。……どうする、いちおう爽やかにあいさつの交換をするか?」  最後の問いかけは港に対してである。 「必要ない」 「うむ、それじゃまた明日だ」  「どういうやりとりよ、それ」二人の会話を聞いていた良子は呆れていた。 「なにって、明日の朝は爽やかにあいさつの交換をするという約束だ」  港の解答にうなずきで同意する正義。 「あー、まぁいいわ。コウが冗談二〇%だとしたら、須藤くんは冗談八〇%で、残りがウソで構成ってことで納得しとく」 「ひでぇ!」  正義の抗議はチャイムにかき消された。もっとも、はじめから相手にするつもりは良子にはなかった。  新学年二日目にも授業はなく、学年集会と大掃除、クラスごとのロング・ホームルームで各委員の選出が行われた。席替えもあったが、それが有効になるのは明日からだった。  昼前には終了し、クラスメイトたちはそれぞれの放課後に行動を起こしはじめていた。新しい友人関係を築くもの、古い友人たちと談笑するもの、クラブに向かうもの、さっさと家路に着くもの。  港の周囲の席は、すでに空になっていた。新しい友人形成は明日以降に持ち越しだ。 「となると、とりあえずは旧来の友人と――」  見渡すと、正義の姿はすでにない。港の知る限り、彼は高校に入ってからは、放課後になるとすぐに帰るようになった。誘えば付き合いもするが、誘ってくることは中学時代に比して格段に少なくなった。港が密かに名づけた「セイギの七不思議」のひとつだった。  次に目に付いたのは優輝だったが、彼女は前後の席の女子生徒となにやら話をしている。  消去法で良子のほうへと足を進める。 「良子、いっしょに帰るか?」 「あ、ごめんね、今日から部活あるから」 「もうか。早いな」 「新入生の見学もあるからね」 「ああ、そうか。がんばれよ」 「ありがと。ヒマなら優輝を誘ってみたら? じゃあね」  良子は手を振って教室を出て行った。  港はもう一度クラスメイトと談笑している優輝を見て、しばし考えた挙句、一人で帰る選択をした。話をしているところをわざわざ邪魔するのは気が引けたからだ。  二年生の教室は三階にある。一年生のときと比べると一階層分低くはなったが、クラスがB組になったため、下駄箱への横の距離は以前より長くなっていた。 「そういえば、三階はほとんど歩いた記憶がないな。ヒマだし、一周りしてみるか」  有明高校は上から俯瞰すると「コの字型」をしており、それぞれの辺がA、B、C校舎と呼ばれている。二階から四階までのA校舎には一般の教室が収められ、B校舎には美術室や理科室などの専門教科室、C校舎は文科系クラブの部室に使われていた。下駄箱は1階のA校舎とB校舎のつなぎ目あたり、食堂はB校舎にある。 「ああ、家庭科室って三階だったのか」  有明高校は私立ゆえ、男子は選択教科にでもしないかぎり家庭科とは無縁だった。  となりは音楽室で、美術を選択している彼にはまたも関係のない施設だ。  B校舎を通過し、文科系クラブの部室連へ。 「一年の四月以来、来たことなかったな」  当時はなにかしらの部活動をしようかと考えていた。けれど、中学でも何もしなかった彼には長続きするとは思えず、見学もそこそこにあきらめてしまった。 「今さら、な……」  ため息をもらし、首を振った。もう戻らない時間を後悔するのは、それこそ時間の無駄というものだ。  C校舎に並ぶ部室の看板を眺めつつ、一階層ずつ降りて行く。中には意味不明の同好会があり、それなりには面白い。  例えば一階C校舎のどん詰まりには「オカルト研究会」が、その隣は「ミリタリー同好会」、ついで「美術造形部」なる部室があった。 「美術造形部って、美術部とどう違うんだ」  校舎探索に満足した港は、空腹をきっかけに帰ることにした。  途中、山のように箱を積み上げた女子生徒とすれ違う。 「……!?」  港は目を疑い、高速で振り返った。  おいおい、なんでプラモデルをあんなに大量に持ってんだよ!  しかもあれ、いわゆるガンプラじゃないのか?  つーか、あの髪型はなんだ? 飛び出しすぎだろ。  お、さっきの美術造形部に入って行くぞ!  女子生徒は、無言のツッコミを入れる彼の視線に気づかず、部屋へと消えていった。 「さ、探りてぇ……。い、いやいや、物珍しがるもんじゃない。人には人の生き様があるのだ。オレにとやかく言う権利はない!」  港は後ろ髪を引かれる思いで、その場を立ち去った。 「あれ、コウくん?」 「よぉ、優輝もこれから帰りか?」 「うん。コウくんも? ずいぶん前に教室を出て行ったと思ったけど」 「ああ、ヒマだったんでちょっと散策をな。優輝は良子みたいに、部活の勧誘とかはないのか?」 「今日は学校二日目でしょ? 美術部の顧問の先生は外来だから、今日は来てないの」 「ああ、そうか。じゃ、いっしょに帰るか」 「うん」  外界はきのうに比べ、ずいぶんといい陽気だった。昼を過ぎ、気温も過ごしやすい温度にまで変化している。その中を、港は自転車を押しながら優輝と歩いていた。 「コウくん、やっぱり朝はダメなの?」 「あー、そうだな。なんだかんだで起こされたわけだしな。けど、あいつも窓から入って来るのもどうかと思うが」  優輝はビックリして、比喩ではなく目を丸くしていた。 「おかげで遅刻はしなかったけど、オレってそんなにだらしないか?」 「そ、そんなことないわ。コウくんなら、一人だって大丈夫よ。わたしは、そう思うな」 「はは…。それはそれで過大評価だ」 「……ね、独り暮らしが大変なら相談してね。良子ちゃんだけに頼らなくてもいいからね」 「頼ってるわけじゃないんだけどな」 「良子ちゃんは、ほら、責任感が強いし、隣どうしだからやっぱり放っておけないんだと思う。でもわたしだって、何かしてあげられるから……」 「そうだな、じゃぁ、何かあった頼むとしようかな?」 「うん、まかせて! これでも家事全般、なんでも得意なんだから」 「そいつは頼もしい」  優輝は港の儀礼的な笑みに複雑だった。彼女にはわかっていた。口では頼ってくれてはいるが、実際には助けを欲していないことを。それは付き合いの短い自分にだけではない。長い年月、同じ刻を過ごしてきた良子に対しても同じであろうと。本人は意識してはいないだろうが、彼はきっと―― 「どうした、優輝?」 「ううん、なんでもない。ね、どこかでご飯食べていきましょう?」 「ああ、そうだな。そういや春になると昼時に屋台が並ぶところがあるんだ。そこに行くか」  優輝が「うん」とうなずくと、港は微笑んだ。  そう、優輝が見たかったのはこの表情だった。さっきとは違う、この笑顔だった。  「朝だぞぉ、起きろぉ〜」  耳のすぐ近くで、良子の声がした。港は反射的に布団をかぶり直し、ささやかな防壁を作る。そもそも昨夜はすべてのカギを何度も確認したので、良子がここにいるわけがないのだ。  しかし、布団を剥ぎ取ろうとする力は夢ではなく、彼の虚しい抵抗も長くは続かない。とどめの広辞苑投下は冗談抜きで死ねるほどの破壊力があった。  港はボーっとしながら用意されていたおかずのウィンナーを突付く。寝起きにすぐゴハンと言うのは、あまり食指が動かないものだ。それ以上に、とある疑問が彼の食欲を奪っていた。 「……なぁ良子」 「なに?」 「わざわざオレを起こして、メシの準備までしてくれるのには感謝している。だが――」 「だが?」 「どっから入った、今朝は?」  きちんとカギはかかっていた。他に出入り口はない。それこそ高名な魔術師か泥棒でもなければ侵入できないはずだった。 「あそこ」  不信な目で見る港を冷静にいなすように、良子は台所を指した。  キッチンの上には窓があり、その向こうは廊下だった。が、その窓の前には、調理道具を置く棚がある。  それが意味するところは―― 「……では良子くん?」 「ん?」 「キミはあの窓から、棚のあいだをくぐって侵入したというのか?」 「うん。あれってテクニックがいるのよ。頭を通して、腕は交互に、身体はひねりながら――」 「アホかぁ〜! 朝っぱらから人ン家に、制服で台所から身体をひねってまで侵入してくる女子高生がどこにいるんだ!」 「制服にやけにこだわるわね、あんた」 「論点はそこじゃない!」 「大丈夫よ、入ってきたときは制服に着替える前だったから」 「だから違――! ……うん? それじゃおまえ、自分ン家で着替えて、またこっちに来てわざわざ玄関のカギをかけたのか?」 「うん」 「おまえな――」  港にはもう、言い返す気力すらなくなっていた。 「おちついた? じゃ、ゴハン食べなよ」  良子は淹れたての熱いお茶を差しだした。 「おはよう!」 「やぁ、おはよう!」  爽やかな朝のあいさつは、港と正義が交わしたものだ。二人は昨日の約束を果たしたのである。 「……気持ち悪い」  良子のツッコミに、優輝はただ苦笑した。  代わりばえのしないチャイムがスピーカーから押しだされる。通常授業がはじまり、ようやく四時間目が終了したところであった。 「コウくん」  席を立とうとした港に、優輝が声をかけた。昨日の席替えの結果で、港は彼女の左席になった。何とも都合よく、良子は彼の後ろ、正義は良子の右側にいる。 「お昼どうするの? 学食?」 「購買のパンだ」 「そうなんだ。それじゃ今度――」 「おいコウ、はやくいかないと売れ切れるぜ!」  優輝の言葉に正義の声が重なる。港の中の優先度は、緊急を知らせる正義のほうを上にしていた。優輝の声が小さかったというのもあるが、彼女の言葉は途中で打ち消されていた。 「悪い、急ぐんで行く」 「う、うん……」  優輝は正義とともに教室を出て行く港の背中を見送った。 「優輝、ヘンな遠慮やためらいはダメよ。ガツンと押しきらなきゃ」  良子が自分の弁当を広げながら忠告する。 「う、ん……」 「あいつの場合、疑問形はまず失敗する。いっそ用意しておいてバンと突き出すほうが断れないわよ」 「やっぱりそうなのかな」 「押しに弱いからね」  包みをほどきだす良子を見て、優輝も自分の弁当を取り出した。  ほどなく港と正義が戻ってきて、四人は机を囲んで昼休みを過ごした。  放課後、良子と優輝はクラブに行き、正義はさっさと帰った。港は一人取り残された形となり、どうしようかと首をひねった。部活動やのめりこむ趣味でもあれば時間の使い方に困らないのだろうが、あいにく港にはどちらもなかった。  このところ一人になると、港は考えるようになった。いつから自分はこんなにも無気力になったのだろう。さめているわけではない、ただやる気が起きない。ふと思い返した幼少の頃は、けっこういろんなものに興味を持って走り回っていた気がする。大人になったのだろうか? 違う、たぶん……  答えが出ないままに、下駄箱で靴を落とし、履き替える。  校門のあたりに人だかりができているのに、港は近づいてからようやく気がついた。 「なんだ?」  人の頭を越えて覗いてみると、三年のタイをしめた男子学生が数人転がっていた。  側にはスクーターが横転している。 「ああ、また違反者か。相変わらず生徒会は厳しいな」  有明高校はよほどの事情がないかぎりバイク通学を認めていない。校則自体はかなりゆるいのだが、バイクやアルバイトに関してだけは厳しかった。  倒れている男たちの中心には、生徒会長がそびえていた。立っているという表現すら生ぬるい佇まいである。  彼は総合格闘部の部長も掛け持ちしており、有高最強の男と目されていた。少々やりすぎるきらいもあるが、彼のおかげで一般生徒は平穏な生活を送っているといっても過言ではない。  港もケンカには多少自信はあったが、あの人数をあそこまで一方的に倒す生徒会長にはとてもかないそうになかった。 「では生徒会室で反省文を書いてもらおう。いいな?」  会長のメガネが光る。こう見えて、会長は近視だった。  地面にのた打ち回っていた三年生は、さすがに抵抗する気力もないようで、大人しくうなずいていた。  生徒会長が校舎に戻ろうときびすを返したとき、倒れていた一人がバイクに駆け寄った。逃亡を企てたようだ。  会長とバイクの距離は離れている。よほどの俊足でないかぎり、捕まえるのは不可能だろう。  が。  突然、バイクの両輪がパンクした。逃げようとした生徒がバランスを崩し転倒する。  港はその不可思議な現象の正体を見ていた。タイヤに何かが投げられ、刺さったのだ。  それが飛んできた方向に目をやると、一瞬だけ、赤いものが見えた。 「誰か、いた……?」  そこは外灯の上だった。人がいたとして、即座にいなくなるなど不可能だった。  いぶかしがる港の背後で、違反者たちは生徒会長によって連行されていった。  騒ぎがすむと、港もいつまでも外灯を眺めているわけにも行かず、家路についた。  台所から物音が聞こえる。  金属どうしの触れ合う音。液体が流れ、かきまざる音。コンロが点火される音……。 「良子か……? バカな、カギは厳重にかけたはず。これであいつだったら、本物のマジシャンだな……」  くだらない妄想をしている合間にも、台所からは軽やかな音といいいい匂いが漂ってくる。  別の可能性が港の脳裏に浮かんだ。もしかして、母親が帰ってきたのではないか。やはり息子を一人残していったのが、心配になったのかもしれない。  「ピーッ!」っというの甲高い音がひときわ大きく鳴った。お湯が沸いた音だった。  港はもう、ほとんど覚醒していた。しかたないので、起きる決心をする。  思いきって上体を起こした。時計の針はまだ七時をまわったばかりだ。  港はふすまを開け、台所にいるだろう母親に声をかけた。 「オハヨ、帰ってたんだ――な!」 「あら、おはよう。どうしたの、自分から起きてくるなんて」 「良子! おまえなんで――!」 「あんた最近おんなじ質問ばっかね。他に言うことないの?」 「おまえ、今日はどっから入った! 入れそうな場所は全部カギをかけたぞ! もしかして、風呂場の蛇口から流れでてきたのか!?」 「あたしは妖怪か。ちゃんと玄関から入ったわよ」 「どうやって? まさか新聞受けから入ったとかいうなよ」 「入れるか!」  良子はキレのいいツッコミをして、それから考えるようにため息をついた。 「しかたない、いいかげん白状しちゃうか」  良子は制服のポケットからカギを出した。 「おばさんから預かってたのよ」 「もしかしてオレん家のか!?」  良子はニコやかにうなずいた。 「それじゃ、窓からとか、キッチンから入ったとかいうのは――」 「もちろん、ウ・ソ!」 「うぉい!」  くそぉ、くそくそー! この数日、オレは良子にだまされっぱなしだったというのか! 制服でベランダを渡ったり、身体をよじりながら小窓をくぐったりという、まことしやかなウソにまんまとひっかかっていたのか! そしてきっとこいつは、間抜けにもだまされたオレを笑っていたんだ。もしかすると優輝やセイギにもバラして、オレを笑い者にしていたのかも知れない。いや、学校中がすでに知っていて、オレを陰であざけていたんだ。ああ、オレはもう学校にいけない! 「――な〜んてことを考えてんじゃないでしょうね?」 「人の心を代弁するな!」 「安心しなさい、誰にも言ってないから。というか、言ったら逆に変なウワサがたつでしょうが」  そうか、それもそうだな。 「からかって面白かったのは、たしかだったけどね」  良子は意地の悪い顔で笑った。  港は舌打ちしてごまかすしか、反抗の術を知らなかった。 「ほら、種明かししたんだから、もういいでしょ? ゴハン食べて学校いこ。今日は雨ふってるから、歩いていかなきゃ」 「雨ふってんのか? めんどくせぇ」  学校までは自転車なら一〇分でいけるのだが、歩きでは最低でも二〇分はかかる。バスで行くという手もあったが、二人とも身体を動かしているほうが気が楽だったのでバスを使うことはなかった。 「だからいつもより早く起こしに来たんじゃない。感謝しなさいよ」 「ああ、はいはい、ありがとうよ。しかしそれにしても、カギを預かったからって、なんでメシまで作ってんだ? それもおふくろから頼まれてんのか?」 「そ、そうよ。だって、バイト代、もらってるんだもん。サボるわけには、いかないでしょ?」  多少ひきつるように良子は答えた。  港は「オレは親からも信用されてないのか」と投げやりな気分になった。  一日は早い。  授業が開始されれば規則正しく時間は流れるもので、その波にのってしまえば昼まではあっという間だ。  港と正義がパンを買いに購買へ向かう途中、C組から楽しいという雰囲気ではない声が聞こえた。 「なんだ? ケンカか?」 「どうだろな、どのみち他のクラスの揉め事に首をつっこんでも、いい結果にはならないだろ」 「まぁ、そうだな」  正義の言を是として、二人は気にしつつも教室を離れた。 「その品性を著しく欠く食事はどうにかならないのか?」  男子生徒の眼に、冗談の輝きはまるでなかった。 「あたしが何を食べようと勝手じゃん。なんで怒られなきゃなんないの」  男子生徒に抗議するのは、かなり大きめのヘッドホンをした小柄な女子生徒だった。猫のような眼は、本物の猫のように威嚇の色をしていた。 「ただの食事ならボクもいちいち言いはしないさ。が、そのうるささはきのうだけでたくさんだ」 「う〜」  男子生徒の迫力に押されるヘッドホン少女。  その周囲では、小声でいくつもの会話が流れていた。  「一年のときもアレだったんだよ」  「空気読めないのよ、アイツ」  「どーでもいいけど昼くらい静かにしろよな」  面白がるクラスメイトたちの視線に気づき、女の子はさらに追い詰められていった。  どうしてだろう、と悔しくなる彼女の肩を、艶やかな長い髪の女子生徒が叩いた。 「御門くん、人が何を食べようがいいじゃない」  周囲が一瞬、静まり返った。  御門(ミカド)と呼ばれた男子生徒も、思わぬ敵援軍にとっさに言葉が出なかった。  それはヘッドホン少女も同じで、味方となった彼女の名前を思い出すので精一杯だった。たしか畑野聡子(ハタノサトコ)だったと思う。クラス委員を選出するときに名前が出てきていたので印象が深かった。 「津川が悪いことをしているならともかく、ただ食べてるだけで文句いうなんて、どう考えても納得いかないわね」  「あぇ〜」ヘッドホン少女・津川うるち(ツガワウルチ)は、御門よりも正論でしかも迫力ある言葉で周囲を圧倒する聡子に、そう感想をもらした。  が、気の強い御門もひかない。 「良い悪いではない。うるさいからうるさいと言っているんだ。その点はどう答えるんだ?」 「それは、その……」  聡子も語が継げない。こうして形勢はまたも一変する。  「だけど――!」聡子がなんとか反論しようとするのを、小さな手がとめた。 「津川?」 「……ありがと。でもいい」  うるちは弁当を手に、教室を出て行った。 「津川……」  聡子はうるちの丸められた背中を、冷ややかな眼で彼女を見ていた御門を見比べた。悪いことはしていないはずなのに、先に逃げたら負けではないか。理不尽な勝利と敗北に、聡子は純粋に腹立たしかった。そして結局無力だった自分にも。  放課後、港は帰るべく立ち上がった。横から良子が「英語の宿題忘れるんじゃないわよ」とおせっかいを言ってくる。 「帰りまでうるさいやつだな。さっさと部活にいけよ」 「言われなくても行くわよ。あんたもさ、毎日ムダにヒマしてるなら、なんか入れば?」 「今さら、やっぱ面倒だからパスだな」 「まったく……」  呆れる良子をおいて、彼は教室を出た。 「お、コウ。帰るところか?」 「なんだセイギ、珍しいな。まだいるなんて」  下駄箱に二人並んで靴を履き替える。 「ちょっと購買で飲み物をな。どうせなら安いところで買っておいたほうが得だろ」 「そうだな」  傘立てに刺さる自分の傘を引き抜き、外へ。雨はとうに上がっていた。 「これからゲーセン寄るけど、どうだ? 高尾山バスター2が入ったらしいぞ」 「またとてつもなくマイナーものが入ったな。ゲーム・プヂか?」 「あそこ以外にあんなのいれるとこはないだろ。マイナーがウリだからな」  ゲーム・プヂは今時ワンプレイ五〇円というだけで貴重なのに、ラインナップが微妙なところがマニア受けしている店だった。 「じゃ、行くか。情報料でワンゲームおごってやるよ」 「お、気前いいな」 「たまにはな」  二人は外が暗くなるまでゲーセンにこもった。  平凡な一日が終わる。  翌朝、港は目を真っ赤に腫らして登校した。  前日の宿題をやっての寝不足でも、ゲームセンターに篭りすぎたための疲れでもない。  良子が彼を起こすために、目の周りにリップクリームを塗ったのだ。  そのスースーすること、しみること、痛いこと、もうワケがわからないほどビックリし、港は飛び起きたのだった。 「それって、ちょっとやりすぎ……」  話を聞いた優輝が、かなり驚いていた。 「だろ? あの行為は南極条約違反と小学生のときに習ったはずだ」 「習ってない」  と、スリッパで港の頭を叩く。 「それより、あんたは宿題やってきたの? まぁ、訊くまでもないんだろうけど」 「わかってるなら訊くな」 「威張るようなことじゃないでしょ。さっさとやったら?」  一時間目は英語だ。しかもそこから出題される確率は、今までの統計からかなり高い。 「ノート貸してあげようか?」  優輝が控えめに申し出た。けれど港にもプライドというものがある。 「いや、いい。まだ時間はある」  と出題箇所を見て動きがとまった。沈黙と硬直が、彼の驚愕を物語っている。 「ムリしないで借りとけばぁ?」  良子は意地の悪い笑みを浮かべていた。とても、とても楽しそうだった。 「あたしが貸してもいいけど、たぶん優輝のほうが借りは安いと思うわよ」 「うん、今ならウーロン茶一本にオマケしてあげる」 「悪いが頼む」 「うん」  優輝は嬉しそうにうなずいた。  「フゥ、新学期はじめの体育は能力テストだから、たるいな」 「まったくだ。踏み台昇降や反復横跳びが、なんの役に立つっていうんだ」  二時間目の体育が終わり、港たちは更衣室に戻ろうと廊下を歩いていた。 「おかげでもう腹へった」 「オレもだ。けど、昼飯まであと二時間あるぜ」  そんな話をしていたとき、頭上をなにかが跳びこえていった。 「な、なんだ!?」 「今、突風みたいになにかが通ったよな?」  正義も赤い大きな影があっという間に消えていったのを見た。  港はおとといのバイク騒ぎのときも、赤い影を見たのを思い出した。 「……これはあれか? 最近学校に出没する赤い影の幽霊」 「なんだ、それ?」 「オレもくわしくは知らないんだけどな、出るらしいんだ。で、そいつが通ったあとには、サイフとかがなくなってんだと」  二人はポケットを確認したが、体操服だった。貴重品は職員室に預けてある。 「それって、単なる泥棒じゃないか?」 「けどよ、人間だったらそんな高速で動けるか? 今だって気づいたら消えてただろうが」 「でもあれは大きさ的に動物じゃないぞ」 「だからちかぢか生徒会が、有高・七不思議に認定するらしいぜ」 「どういう学校だ、ここは?」  それからなぜか七不思議の話題になり、二人は赤い影についてはすっかり忘れてしまっていた。  待望の昼休み。今日は体育もあったせいか、皆、ずいぶんと腹をすかせているようだった。いつもは弁当だけで済ますようなクラスメイトも、プラスαを求めて購買へ向かう姿が目立つ。 「コウくん、今日もパンなの?」 「ああ、これから買いにいく」 「コウくんは、いつもどこで食べてるの? よかったら、いっしょに食べない?」 「いや、今日は天気がいいから外で食べると決めてたんだ」  きのう雨が降ったため、今日は晴れてけっこう暖かい。中庭や屋上はさぞ気持ちいいだろう。 「風、強いわよ?」 「弁当はキツイだろうが、パンなら気にならないさ。じゃ」  港は正義を追って教室を出た。  戦利品を手に、屋上へ。同行の正義にも外で食べないかと誘ったのだが、彼は喜んで教室に戻っていった。港よりも優輝たちと食べるのを優先したのである。  中庭のほうが人気があったのか、屋上には奥のベンチに女子生徒が一人いるだけだった。もう昼食は終わったらしく、ベンチに寝そべりながらせんべいをかじり、音楽を聴いている。ヘッドホンをしているので、なにを聴いているのかはわからないが、足でリズムをとっているところを見るとノリがよさそうなものらしい。  港は日当たりの良い場所で食事を開始する。が、二個のパンなどあっという間になくなってしまった。  ふと奥のベンチに目をやると、あの女の子はかわらずせんべいを食べている。もうすぐ、ひと袋が終わろうとしていた。 「メシの後に、よくあれだけ食えるもんだな」  港は無駄に感心しながらベンチに横たわった。  帰り道。港のとなりには優輝がいた。  港はふと思った。今ではもうまったく気にならなかったが、以前は二人で帰るなんて考えられなかった。慣れというのは怖いものだ、と。  商店街をぶらつき、いくつかの店を眺めていたとき、優輝の速度が少しあがった。  港が後を追うと、優輝はゲームセンターの店頭にある機械を覗き込んでいた。  UFOキャッチャーだ。お目当てはウサギのヌイグルミらしい。 「かわいいなぁ……」  その表情は、彼女の精神的支柱になりえそうなほど幸せに見えた。  港はおもむろに財布をあけ、五百円玉をとりだした。  コインはあっさりと機械に飲み込まれた。  となりで驚いている優輝にかまわず、クレーンの操作に集中する。 「ここの機械、四時まではアームが強くなってんだ。取るなら今だ」 「そうなの?」 「見てろって」  彼は自信を持って操作し、予告どおりウサギを取った。一発で取れるとはさすがに思わなかったが、運がよかったようだ。あの耳の長さに助けられたという面もある。 「ほら」 「いいの?」 「オレが持っててもホコリまみれにするだけだからな。それに宿題の礼もまだだったし」 「それじゃ遠慮なく。ありがとう、コウくん」 「で、他に欲しい物はあるか? 五百円いれたから、あと五回できるんだけど」 「ん〜、わたしはいいわ。良子ちゃんに何かとってあげたら?」  彼女がこのようなものに喜ぶかは半信半疑だったが、港はお金を無駄にしないためにも適当に的を絞って挑戦した。  なぜかこういうときは好調らしい。彼の手元には三つのヌイグルミがあった。キツネとワニとアルマジロという、よくわからない取り合わせだった。 「さすがに多すぎだろ。優輝、なにかいるか?」 「ん〜と……」  優輝が港の腕の中の人形をジッと見つめる。  と、優輝以外の視線が感じられ、彼は首をめぐらした。  五才くらいの男の子と女の子が、人形をまばたきもせずに凝視していた。顔立ちからして兄妹ではなさそうだった。  もしかして、などという予想ではなく、あきらかに物欲しそうであった。  じー……  子供の視線というのは、純粋なだけに痛い。  港は自分の甘さを自覚した。 「どれがいい?」  彼は子供の目線に合わせて腰をかがめた。  男の子はアルマジロ、女の子はキツネを指差す。 「ほら」 「……くれるの?」 「ああ、今回だけな。でもな、いつでも誰でもくれるなんて思うんじゃないぞ。今日は運がよかった、それだけだからな。よく覚えておくんだぞ」 「うん、ありがとう」  子供たちは喜びいさんで走っていった。  そのさきに、子供の母親らしい二人が井戸端会議をしていた。子供に気づき、驚いて港のほうへと向き、何度も頭を下げていた。  オレも会釈を返し、優輝の側に戻った。 「コウくん、優しいね」 「こういうのは優しさじゃないな。甘やかしただけだ」 「でも、子供から見れば神様だよ」  優輝はとても嬉しそうな笑顔を浮かべていた。