第九章 宇宙で待つもの                  1  静止衛星軌道上に鎮座する史上最大最強の戦艦〈ヨルムンガルド〉の艦橋で、ラルフ・ブル ックナー総統は忌々しげに軍靴で床を蹴った。〈フェンリル〉からの狙撃という思いもかけな い事件に、心胆を寒からしめられた口惜しさであった。もし〈ヨルムンガルド〉の戦術サポー ト用〈BIO〉である『パウ』の警告がなければ、艦もろとも吹き飛んでいたところだった。 「どういうことか、なぜ〈フェンリル〉が攻撃してきたのだ?」  総統の怒声に答えたのは、パウであった。〈地球〉の情報網を検索し、〈フェンリル〉の現 在の状況を得て報告する。 「バリー総督、死亡。〈フェンリル〉は敵に奪取されたもよう。コックス中佐の所在は不明」 「コックスめ、しくじったか。……しかし、〈BIO〉はどうした? クロガミは洗脳したは ずではないか」 「精神レベル、安定。洗脳状態にあらず」  総統は聞きたくもない報告に顔をしかめた。事故ではなく、敵が意識的にこちらを狙ってい る以上、報復せねばなるまい。〈フェンリル〉は惜しいが、残しておけば今後めんどうになる。 「〈惑星破壊砲〉用意。目標は〈フェンリル〉!」  意気ごむ総統に、だがパウの返答は暗い。さきの砲撃で、艦首の一部が破損。〈惑星破壊砲〉 の使用は不可能。修復完了まで一三時間を要す。子供のように高い男の声が、淡々と説明した。  総統の腹立たしさは、頂点をむかえた。 「もうよい! 大佐、至急連絡をとれ!」 「どちらにですか?」  副官の質問に、総統は眼光で周囲を圧倒した。 「決まっておる、あれを持ってこさせるのだ!」  次の問いかけは、誰からも発せられなかった。                  2  〈ヨルムンガルド〉撃墜に失敗したクロガミは、敵からの反撃を覚悟していた。しかしいっ こうに事が進まないのをいぶかしみ、危険と承知で再び軍事衛星を介して、敵の状態を確認し た。  〈月〉軍総旗艦〈ヨルムンガルド〉は、艦首の一部に損傷を被り、〈惑星破壊砲〉の起動が 不可能となっていた。  クロガミは思いがけない好機に、決着をつけるべく立ち上がった。 「案内を頼む」  少年の瞳に映されたラッシュは力強くうなずき、二人は『敵』であったガロア中将に、あら ためて戦闘機の用意を頼んだ。できれば援護に兵も貸してほしい、とラッシュがつけたす。  ガロア提督は航空機の貸し出しには許可を与えたが、援軍の派遣には応えなかった。目的地 までのあいだに、同じ旗を仰ぐ者との戦闘が起きるのを快く思えなかったのだ。それに〈ヨル ムンガルド〉の破壊はともかく、総統を悪と信じるには時が幼く、また彼の人間性からいって も無理があった。 「〈月〉と〈地球〉が解りあい、よりよい世界が築けるなら、どんな事でも協力を惜しむべき ではないのだろう。だが、わたしにはやはり、同胞を手にかけるようなマネはできない」 「強制するつもりはない。提督には感謝している」  〈惑星破壊砲〉が〈月〉宇宙艦隊に向けられたとき、提督は唇を噛んで沈黙していた。彼に は彼の心情があり、理想があるのだ。クロガミは自分の道を進むのに、彼を強引に同行させる 気はなかった。  二人はノーマンに見送られ、艦橋の壁を吸着性ブーツとロープを伝って降りていく。ラッシ ュに続く少年は、不慣れを思わせる奇妙な足音に気づき、首をもたげた。出入り口に、少女の 顔が覗いていた。 「なにか用か?」  愛想のない呼びかけに、ロジィはかたくなった。 「あの、気を、つけて……」 「ああ」  少年はもう、ふりむかなかった。  少女は言いたりない想いが苦しくて悲しくなったが、涙は必死にこらえた。彼が帰ったら笑 顔で迎えられるように、強くなりたかったからである。  クロガミとラッシュの操縦する二機の航空戦闘機は、音速を遙かに超えて、東へ飛んだ。  直線距離でおよそ四〇〇キロ、途中には小規模だが〈月〉軍駐屯基地がある。幸いクロガミ たちは、〈月〉側の戦闘機に搭乗しているので、うまくすればすんなり抜けられるだろう。も し戦闘状態となっても、国境警備が主な役割である基地なので、戦力は多くないはずだ。  だが、思惑は二重に裏切られた。  敵は待ち伏せしていたようで、彼らの戦闘機を補足すると、問答無用で攻撃をしかけてきた。 地上からは対空装備の装甲車が、空は二〇機にも及ぶ戦闘機が、おのれの武器を存分に発揮す る。 「なんで知られた!」 「おそらく〈ヨルムンガルド〉でキャッチされたんだ。二機だけが〈フェンリル〉から出れば、 オレだって怪しむ」 「冷静に推測するな。で、どうする?」  「決まってる」クロガミは火器管制システムを開いた。次の瞬間、六発のミサイルが、三機 の敵戦闘機を撃墜した。 「そうだな、逃げられないなら、倒すまでだ!」  ラッシュもまた、機銃を天にとどろかせた。  クロガミもラッシュも、並はずれた戦闘力を持ったパイロットだが、数の不利は補えなかっ た。危うく挟撃されるところをおたがいがカバーし、敵を減らしていたが、消耗する彼らには 武器の補給がない。ミサイルは撃ちつくし、機銃の弾も残りわずかだった。小細工で敵機同士 を衝突させる芸当も試みたが、こちらが武器をなくしたとみると、敵は二人を遠巻きにして迂 闊な攻撃はひかえはじめた。 「まずいな、弾がない」 「囲まれたか」  二人は覚悟を決めたりはしなかった。まだこの先にやるべき仕事があり、彼らを信じている 人がおり、帰る場所があるのだ。倒れるわけにはいかなかった。  秒単位で状況が悪くなるなか、突破口をさがす彼らの前で、変化が起こった。  地上の敵部隊が、炎と黒煙にまみれて爆発していく。また、ラッシュの後背に迫る敵戦闘機 が、重力に引かれ墜ちていった。 「隊長!」  ラッシュは耳を疑った。ノイズの混じる音声は、シャンドのものだった。  三機の見慣れた戦闘機、爆音をたてる二機の戦闘ヘリ、路上を疾駆する武装ジープの群れ。 ラッシュが平和の到来を信じて結成した、キャメル隊であった。 「おまえら、生きてたのか!」 「隊長の薫陶が良かったからです。『死んでどうする』が我が隊の信条ですから」 「そうか、それはよかった」 「隊長、あとは任せてください。これは我々の仕事です」  ラッシュは一時のとまどいをおき、それから心地よい息をはいた。 「みんな、死ぬなよ!」  キャメル隊隊長の声に、隊員たちは興奮気味に「了解」を唱和した。  クロガミとラッシュは、空を裂いて、東へ急いだ。  〈地球〉軍の秘密打上基地にたどり着いた二人は、クロガミ専用宇宙戦闘艇ヴィーザルの、 シャトルへの積みこみを急がせた。キャメル隊隊長であるラッシュと、基地の司令官は旧知で あり、準備はとどこおりなくすすんだ。  クロガミが専用の宇宙服に着替え、ヴィーザルの調整をすましているあいだ、ラッシュは司 令官に侵攻作戦の結末を語っていた。 「……そうか、バリーはくたばったが、軍は壊滅か」 「ああ、だからこそ、あいつを宇宙へ送ってやりたいんだ」 「わかってる。おまえがあの戦闘艇をここへ運ばせたときから、な」  司令官は理解を示したが、表情は複雑だった。  〈地球〉と〈月〉の争いに終止符を打つためには、敵と同じ〈月〉の人間で、しかも少年に 一任するしかないのである。地球生まれの軍人としては、情けなさと歯がゆさが同居していた。 「その垣根をとるために、あいつは単独で宇宙へ行くんだ。それも自分よりも圧倒的にでかい 敵と、戦うためにな」 「そうか…、そうだな。もうこんな戦い、終わらせるべきだ」  司令官が応えてくれたのが、ラッシュは嬉しかった。 「だがラッシュ、なぜおまえは行かない? 旧式だが、戦闘艇なら貸してやるぞ」  司令官に言われるまでもなく、ラッシュはクロガミに同行を申し出たのである。だが少年は 拒絶し、彼に別の仕事を頼んだ。〈フェンリル〉へ戻り、ロジィとオレの記憶、それにバリー 提督の死の真相を記録したビデオを、できるかぎり多くの人々が眼にできるよう放送してほし い。ムダに血を流す必要がないのを、教えるために。  ラッシュは少年の大きくない背中を叩いて、諒解した。  打上準備が整うと、ヴィーザルの中の少年は、ラッシュに言った。 「借りはいつか返す」 「当たり前だ。ちゃんと返しに戻ってこいよ」 「ああ」 「待ってるぞ」  回線は閉じられ、シャトルは打上台とともに地上へ姿を現した。標準的なリニアレール式の 発射台ではなく、旧型のロケット式打上台だ。〈月〉軍に発見されないようにするには、燃料 とコストはかかるが、長いレールを外部にさらす必要がなく、敷地面積も少なくてすむ、この 方式を取り入れるしかなかった。  打上場所は、〈ヨルムンガルド〉と他の〈月〉艦隊が駐留する宙域の、ちょうど中間点であ る。  作戦としては、ヴィーザルの火力を考慮すると、総旗艦を沈めるにはエネルギーを供給する 動力炉か、推進をつかさどる機関部への一点集中攻撃しかない。どちらも誘爆するのが確実な ので、連鎖的な破壊をねらえる。  もっとも、〈ヨルムンガルド〉を撃沈すればすべてが終わるわけではない。その後は〈月〉 側の理解者であるガロア中将に尽力を求め、〈月〉と〈地球〉の関係正常化をうながすべきだ ろう。すくなくとも、武力による解決は、もう終わりにするべきだった。  カウントダウンの終了とともに、クロガミは黒い愛機ヴィーザルのコクピットから、シャト ルのロケットに火を入れた。  黒と灰と白い煙に包まれながら、少年は宇宙へと帰った。  五年前のあの日と同じように、たった一人で、強大な敵を倒すために。                  3  〈月〉第三宇宙艦隊は、地上から迫る物体をキャッチしていた。総旗艦よりの伝達どおり、 敵機が打ち上げられたようだ。  司令官は宇宙で自由を与える前に撃墜するよう、オペレーターに指示を出した。  宇宙に敵がいないのを常識としていた艦隊司令官は、敵の持つ悪魔の能力を知らなかった。 情報収集で用いる軍事衛星から艦の中枢へ侵入して、火器管制と航行システムに異常をきたす など、クロガミには片眼もあればできる作業だった。当初は油断している戦艦を操り、同士討 ちをさせようとしたのだが、それこそ無意味な争いなので、制御プログラムの一部変更で事を おさめたのである。  これにより、第三艦隊は敵を目前にしながら、何もできず見送ってしまったのであった。  クロガミはシャトルからヴィーザルを発進させ、ブルックナーのいる総旗艦へと針路をとっ た。 「〈ヨルムンガルド〉には今の策は使えない。どうするか……」  同じT型〈BIO〉が乗る艦には、システムに介入する前に〈BIO〉のチェックを受ける ので、アクセスができないのである。しかも〈BIO〉によって全方位死角なく索敵され、反 撃も隙がない。唯一あるとすれば、〈惑星破壊砲〉を撃つときぐらいだが、〈ヨルムンガルド〉 の主砲はクロガミが使用不可能にしていた。逆にいえば、主砲が使えないから宇宙へ出られた のであるが。  クロガミの心配は、もう一つあった。〈ヨルムンガルド〉の戦術サポート用〈BIO〉であ る『パウ』の存在だ。  クロガミはパウを知らない。ノーマン博士ですら、パウについての情報を持っていなかった。 T型開発は、研究チームごとに一人ずつ任されていたので、基本システム以外はチームで性格 が異なるようである。さらにパウはロジィの失敗経験をいかすべく、過酷な洗脳がされたいう 話もあった。つまりT型としては最高のシステムなのだ。  クロガミは負ける気はなかったが、勝算もなかった。相手が不明である以上、作戦のたてよ うもないのだから。  「迷うだけ、ムダか」クロガミは決心して、最短距離で〈ヨルムンガルド〉へ迫った。  三四分後、「目標確認」と口にした者が二人いた。一人は黒い戦闘艇に座し、片方は巨大戦 艦の中で、敵を認識した。  四万メートルの虚空を挟み、〈ヨルムンガルド〉は砲門を開いた。当たるはずがないと知り つつ、艦長は三連斉射を命じた。  〈ヨルムンガルド〉の無数の砲撃は、普通の人間には回避不可能と思えるほど、密度と幅と 精密度をあわせもっていた。クロガミでさえ、Tモードをフルに活動しなければ、無事ではす まかった。いまさらながらに、少年は敵の恐ろしさを感じていた。  だが、退くわけにはいかない!  黒い二〇メートル足らずの機体は、クロガミの意志をつかみ、加速した。背後に回りこめば、 攻撃の手もゆるむ。そしてミサイルを撃てば、勝負に決着がつく。  少年の希望は、果たされなかった。〈ヨルムンガルド〉は一〇キロにおよぶ巨大さとは裏腹 に、小型艦なみの機動力を持っていた。大きく迂回するヴィーザルにあわせて、巨艦は驚くべ きスムーズさで回転をし、迎撃をする。 「なんて艦だ。これが〈ヨルムンガルド〉……!」  感嘆と舌打ちを禁じえないクロガミだが、奇妙な点も見逃さなかった。敵の迎撃が、ひどく 散漫なのだ。統一した動きではなく、砲門が各個にヴィーザルを狙っているような、隙のある 砲撃が見られるのである。それはクロガミが〈ヨルムンガルド〉に接近してから、つねに続い ている欠点であった。  おかしい。〈BIO〉が統括しているなら、計算と予測に基づく砲撃がされるはずだ。罠だ としても、この隙の大きさはいったい……? クロガミの懸念は、時が過ぎるに従い強くなっ ていった。もはやT型〈BIO〉である少年には、敵の迎撃はザルのようなものだった。 「敵の〈BIO〉に異常でも起きたか?」  地上にいたときは無意識でも感じとれたパウの重圧が、今は完全に消えていた。まるでこの 宙域には、はじめから存在していなかったような静けさだった。クロガミは怪しさを感じ、〈ヨ ルムンガルド〉の中枢に、義眼を送りこんだ。  少年の意識は光となり回路を走り、制御システムに飛びこんだ――瞬間、彼の右眼は強烈な フラッシュをたかれ、機能が一時麻痺した。 「しまった、トラップか!」  叫んだときには、彼の機体に砲火が集中していた。それでも直撃は受けず、射程外へ退避し たのはクロガミだからこそだ。  少年は右眼が回復すると、今度はためらわず機関部のある後方へ直進した。加速に加速をか さね、常人では失神するほどのショックを耐え、クロガミは闇の閃光を残像にして深き宇宙を 駆けた。  どの砲塔も、機銃も、ミサイルも、クロガミを捕らえられなかった。まるで雷のように、ヴ ィーザルという光のあとを、迎撃という轟音が追従する。  クロガミにとって、これは無茶ではなかった。すでに勝算はたっていた。  〈ヨルムンガルド〉の推進ノズルが、ヴィーザルの照準にロックされた。 「沈めぇ!」  T型〈BIO〉の絶叫は、そのまま命令に直結する。出番を心待ちにしていた黒い機体の黒 い破壊兵器が、史上最強とうたわれた戦艦の機関部めがけて疾走した。  第一陣から第四陣にかけての計一二発のミサイルは、推進ノズルを破壊し、装甲を突き破り、 航行の要である機関部を爆発させた。  クロガミは敵総旗艦を、視界におさめられる距離から眺めていた。爆発は次々と規模を膨ら ませ、艦の半分は炎に包まれた。  右眼に映る光景で、少年がわずかに安堵したのは、脱出艇が離れていくのを確認できたから だった。死者が皆無であろうはずはないし、生存者を喜ぶのは偽善に過ぎないのだろうが、生 命を軽んじるよりは人間としてけして悪い方向ではない。人は本質的に、誰かを傷つけるため にいるのではなく、誰かを護るためにいると、少年は思っている。理想やたてまえだとしても、 彼はそう信じたかった。でなければ人の歴史は、あまりにも惨めで、悲しい。  クロガミはヘルメットをとり、汗をぬぐって水分をとった。  終わった――とは思わなかった。少年は知っていた。これは予兆にすぎないと。本当の戦い が、このさきに待っていると。  〈ヨルムンガルド〉のずさんな攻撃、制御装置に侵入したときの単純な罠、感じないパウの 存在。すべてがクロガミを満足させなかった。 「だがこれ以上、なにが来ると言うんだ……?」  三〇分後クロガミは、人間の予測など限界があると、強く思い知らされる。    最終章 ロジィ                  1  クロガミの宇宙戦闘艇ヴィーザルが、新たな敵影を感知したのは、五分も前だ。にもかかわ らず、クロガミは攻撃をかけるでも、退却するでもなかった。あまりの驚愕に、自嘲じみた笑 みをコクピットにこだまさせた。 「まったく、やってくれる……!」  彼のいる宙域へむけて近づいてくるのは、動力炉付建造物では最大級、兵器としては最強、 悪名としては最高の戦艦だった。  ロキ級戦艦・三番艦〈ヘル〉。五年前の戦争後、五年かけて建造された、最新鋭戦艦である。  〈フェンリル〉〈ヨルムンガルド〉の型式上の姉妹艦ではあるが、巨大さと〈惑星破壊砲〉 の実装を除外すれば、従来のロキ級戦艦とは構造も外観も推進装置すら異なる別物である。そ もそも一番艦と二番艦は、資源採掘基地の改良品であって、戦艦として設計されたわけではな い。対して三番艦〈ヘル〉は、〈惑星破壊砲〉の装備を目的とした、初めての正式戦艦であっ た。  クロガミのヘルメットに、通信が入った。 「クロガミ、久しぶりだな」 「ブルックナー!」 「〈ヨルムンガルド〉の撃沈、おめでとう。だが、きみの活躍もこれまでだ」  スピーカーを通して、ブルックナーのくぐもった笑い声が聞こえた。クロガミは不快であっ たが、会話をうち切らなかった。 「きさま、わざと〈ヨルムンガルド〉を墜とさせたな?」 「あれでも倒せると思っていたのだが、やはり〈BIO〉なしでは勝てなかったか。しかしき さまの武器も打ち止めだな。あとはしとめるのみ」 「オレの武器を使わせる、ただそのためだけに、あの艦の人間を犠牲にしたのか? きさまの 勝利のために、生命を……!」  クロガミの激情を、総統は嘲た。〈月〉軍軍人が、総統たる自分の犠牲になるなど当然では ないか。むしろ歴史の担い手を生命がけで護れたのを、誇るべきだろう。だがそもそも、きさ まのように反逆し、世界を混乱させる者こそが問題なのだ。きさまがいなければ、多くの命が 失われずにすんだであろうに。  ブルックナーの自己中心的な暴言を、クロガミは最後まで聞いていられなかった。通信を閉 ざし、ヴィーザルのエンジンを全開にする。  ブルックナーは演説の中断に快くなれず、クロガミと同じ道具――T型〈BIO〉パウ―― に撃墜を命じた。  〈ヨルムンガルド〉とは違い、〈ヘル〉の砲撃はかわいげがなかった。逃げ道をふさぎつつ、 後背から追い立て、本命をたたき込む。クロガミはかろうじて助かっているが、ヴィーザルの 装甲は、確実に傷痕を増やしていた。  クロガミには、〈ヘル〉に外傷をあたえられる武器は三発のミサイルしかなく、効果的に運 用しなければならなかった。しかし彼は敵にさえ接近できす、むなしく燃料と精神力をすり減 らすばかりだった。 「こうなったら、パウに直接会うか」  同じ〈BIO〉なら、操られる苦しさを共有できるはずだ。生命をもてあそぶ者への反感や、 〈BIO〉としての痛みや辛さが理解してもらえるだろう。クロガミはパウもまた同様である と、信じて疑わなかった。  少年の左眼が、ヴィーザルのレーザー通信装置から〈ヘル〉の受信アンテナを経由して、内 部へ接触した。同時に右眼は〈ヘル〉の通信網を視覚として捕らえ、中枢を制御するパウを見 つけた。  クロガミは彼を視認したとき、絶叫をあげた。泣きだす寸前の震える声で、「おまえが、パ ウか?」と問う少年は、悲痛の面もちだった。 「そうだよ」  彼はうなずいた。クロガミよりも、ロジィよりも幼い子供が、そこにいた。身体の半分を機 械化され、人工皮膚さえまとわずに、小さなシートに収まっている。頭部右側面のケロイドが、 子供の体験した悲劇を生々しく語っていた。 「お兄ちゃんが、クロガミだね」  パウは自分の身の不幸を気にかけるでもなく、無邪気に笑った。 「お兄ちゃん、死んでよ。ボクのジャマをするヤツ、嫌いなんだ」 「なっ……!」 「ボクは、ボクをいじめる人を許せない。ボクからお父さんとお母さんをとった人を、殺した い」  パウの気持ちを、クロガミは理解できなくはなかった。幼い少年はただ、自分の報復と、両 親の仇をとりたいだけなのだ。だが純粋な想いが、必ずしも人を幸福にするわけではないのを、 この小さな魂は知らないのである。  ブルックナーにしてみれば、これほど都合のよい素材はないだろう。殺人に対する抵抗もな く、良心の呵責もない。子供のやわらかい脳は知識をスポンジのように吸収し、順応性に優れ ている。また善悪の基準が完成していないので、アメとムチを完璧に使いこなせば、どのよう なことでも疑いもせず実行する。単なる戦術サポート型〈BIO〉とするには、うってつけで ある。  クロガミは操り人形となったパウを、同じ〈BIO〉としてではなく、同じ人間として解放 してやりたかった。 「パウ、おまえは利用されているだけだ。おまえの敵討ちはもう終わっている。これ以上の破 壊は無意味だ」 「……なに言ってんの? お兄ちゃんがいるじゃん。お兄ちゃんがボクの両親を殺したんだ」 「違う!」 「違くなんかないよ、だっておじさんが言ってるもん! クロガミって人が殺したって!」 「騙されてるんだ、オレの話を聞け」 「うるさい、死んじゃえー!」  パウの心の高ぶりが、〈ヘル〉の全砲門から形となって現れた。クロガミは意識を外に戻さ ざるをえなくなり、回避運動に集中した。 「くそっ!」  クロガミは吐き捨てた。                  2  キャメル隊とともに〈フェンリル〉へ戻ったラッシュは、重く沈んだ雰囲気の艦橋へ駆けこ んで、クロガミの様子を尋ねた。返事のかわりに、ノーマンがメインスクリーンを指す。画面 は、不鮮明ではあるがリアルタイムで宇宙をとらえており、クロガミのヴィーザルと巨大戦艦 の一騎打ちがくりひろげられていた。  戦艦は〈ヨルムンガルド〉であろうと思っていたラッシュは、博士の否定により真実を知る。 「違う? あれは〈ヨルムンガルド〉じゃないのか? それじゃ何なんだよ!」  艦名は不明だが、ロキ級三番艦だろうと答えたのは、ガロア中将である。〈ヨルムンガルド〉 の撃破にわいたブリッジは、三番艦の登場で沈黙したのである。  キャメル隊隊長は、一同のように絶望に浸るのを拒んだ。彼にはクロガミから頼まれた仕事 があり、少年を信頼していた。宇宙へ行けないのならば、後方で少年を手助けすればいい。で きることからはじめよう。彼は指揮卓を叩き、手をこまねいている博士らを導いた。 「このビデオをできるかぎり送信するんだ。本当の意味で戦争を終わらせ、世界を再建するた めに」  信じない者もいるだろう、許せない者もいるだろう、それでも世界中に真実を伝え、手探り でもいいから平和を模索していかなければいけないんだ。クロガミはそのために、戦っている のだから。  ノーマン博士は「そのとおりだ」と拳をにぎり、〈月〉第一艦隊司令官ガロアは黙然とうな ずいた。艦橋で働く〈月〉軍兵士たちも、賛同に声をあげている。  クロガミの意志を伝えた青年は、満足して艦橋内を見回したが、いるべき人間の不在に首を かしげた。  その人物は、部屋の隅で震えていた。 「どうした?」 「ラッシュさん…、あの……」  ロジィのおびえは尋常ではなかった。青年は彼女をおちつかせ、理由を訊いた。 「あの艦、三番艦〈ヘル〉の〈BIO〉は…、こ、子供、なんです。一〇歳くらいの、子供な んですよぉ……!」  少女の嗚咽は艦橋を満たした。そして言葉の意味を理解したとき、すべての人間が心臓をに ぎりつぶされる感覚をあじわった。  「本当か?」と聞き返すラッシュの手には、汗と力がこもっていた。少女がうなずき、肩を ふるわすのを、慰める余裕すらなかった。 「クロガミくんは、知ってるのか?」  ノーマンが投げかけた質問にも、ロジィは肯定を表した。クロガミとパウの会話を、衛星を 通してヴィーザルへアクセスして聞いたのだから間違いはない。パウはクロガミを、両親の仇 と刷りこまれている。少女はのどを酷使して、ようやくすべてを伝えた。  スクリーンに映るヴィーザルは、もはや飛んでいるのが奇跡なほど、輝きを失っていた。                  3  クロガミには、パウを救ってやるだけの力が残っていなかった。ヴィーザルの燃料も少なく、 〈ヘル〉の動きをとめる策もなく、疲労も頂点にさしかかっている。活動時間はせいぜいあと 六〇分、持っても九〇分が限界だった。  荒い息の中で、少年はもう一度パウに呼びかけた。彼の心の底に侵入し、昔の記憶を取り戻 そうとしたのだ。だが、幼き者は敢然と拒否した。それでもほんのわずかだが、パウの心を覗 けた。垣間みた記憶によれば、洗脳をきっかけとして、彼は自らの意志でクロガミと戦ってい た。両親の死を小さな胸に精一杯抱きしめ、幸福な日々が二度と戻らないと理解しながらも、 生きていたのだった。パウは他人の幸せを、うらやみ、憎んでいた。 「だから、戦えるのか」 「そうだよ! 誰もボクに優しくしてくれないなら、ボクはぜんぶ壊してやるんだ!」 「すべてを壊せば、おまえは幸せになれるのか? 満足するのか?」 「しないよ、するわけないよ! ボクのお父さんとお母さんは、もうどこにもいないんだから ぁ!」  激しさを増す砲撃に、ヴィーザルの左エンジンは殺された。クロガミは左足の激痛に耐えな がら強制排除し、爆発をまぬがれた。推力と機動力の半減は、やむを得なかった。 「だったらもう戦うのはやめろ。おまえは、殺しあいをするために生まれてきたわけじゃない。 おまえにはまだ幸せになる権利がある。そして生きる権利と、生きる義務があるんだ」 「わかんないよ、そんなの!」  ヴィーザルの回避運動は、すでに一般の戦闘艇より劣っていた。T型〈BIO〉の能力も、 機体がついていけなければ意味がない。間断ない攻撃に対して、黒の宇宙戦闘艇は、距離をと って逃げるのが精一杯だった。  ダメだ、このままではいずれ撃墜される。せめて〈ヘル〉を足止めし、パウと話しあう時間 をつくろう。最良策としては、艦内に潜入して強引にでもパウを連れ去り、艦を破壊すること だが……。  ひらめきに近い作戦だが、選択の余地はなさそうであった。しかし〈ヘル〉の足止めからし て、今の戦力では不可能と思えた。接近してミサイルを撃ちこもうにも、その前に撃墜される だろうし、遠くから発射しても命中するわけがない。左義眼を用いて運航システムに細工をす るのは、パウに察知されておしまいだ。 「策は一つか……」  クロガミは逃げ回りながら、地上の〈フェンリル〉へ向けて直接通信を送った。〈惑星破壊 砲〉で、〈ヘル〉の機関部を破壊してくれ、と。  驚いたラッシュは、メンバーを代表して訴える。〈惑星破壊砲〉を使えばエンジンどころか 艦そのものが吹っ飛ぶ。ブルックナーや軍人はともかく、パウを殺すつもりか。それに発射角 度の調整はできないし、なにより操る〈BIO〉がいない。オレはロジィに、二度と〈フェン リル〉を使わせる気はない。  いきり立つラッシュの問題など、クロガミには予想済みだった。 「〈BIO〉が乗っている艦なら、エンジンに異常が起これば切り離すくらいはする。発射の タイミングはオレが指示するから、まっすぐ撃てばいい。だからおまえでもできるはずだ」 「そういうことか」 「ああ、やれるか?」  左だけにT型義眼をつけた男は、クロガミの作戦にのった。おとり役の少年は、早速〈惑星 破壊砲〉の準備にかかるよう指示した。 「そうはいかないよ!」  子供の声が、突然クロガミの脳へ響いた。彼がパウへ侵入したように、幼き〈BIO〉もヴ ィーザルへ侵入して、出力される情報の一部始終を盗み聞きしていたのだ。  しまった、と通信を閉ざしたときはすでに遅く、〈ヘル〉の〈結界磁場〉と通信妨害波が宙 域を満たした。両者ともにレーダーや遠距離通信システムを無効としてしまうもので、前者は とくに艦を中心に強く発生し、後者は広域にわたって密度の薄い妨害波を出している。  「クロガミ!」ラッシュの呼びかけに応えたのは、スクリーンのノイズだけであった。少年 は完全に、孤立してしまった。 「これじゃ〈惑星破壊砲〉を撃つにしても、タイミングがわからないぜ」 「レーザー通信はダメか?」 「〈月〉の軍事衛星でも中継しないかぎり無理に決まってる。その衛星だってパウが支配して るだろう。片眼のオレには、何もできない」 「だがクロガミくんなら衛星を操ってでも、発射タイミングを知らせてくれる」 「信じるしかないか……」  自分ではどうしようもない歯がゆさが、ラッシュは口惜しかった。くわえて、〈惑星破壊砲〉 を制御できる自信も、本当はなかった。素質があるなら、彼もT型として選ばれていたはずな のだから。コックスの時は運良く成功したが、あれだけでは自分を完璧に信じる根拠にはなら なかった。今回は運に頼るわけにはいかない、たぶん、たった一度きりのチャンスだ。そう思 うと、わずかばかりの自信さえ薄れていきそうであった。  気持ちを重くする青年は、背中に小さなあたたかい感触を覚えた。  紅い瞳に、決意の色が見えた。                  4  心臓の鼓動が、強い。  恐怖と興奮の、混じりあう気持ち。  わたしの掌に、『力』が生まれていく。  二度とふれたくなかった『力』、破壊と悲しみしかつくらない『力』。  解き放てばきっと後悔する。  でも撃たなければ、もっと後悔するような気がする。  だからわたしはここにいる。  わたしは護りたい。わたしを愛してくれる人を。  わたしは助けたい。わたしが好きな人を。  わたしは救いたい。わたしと同じ運命を背負った人を。  わたしも、生きていくために。  わたしも、強くなるために。  わたしも、幸福になるために――  光の柱が、天空を突き抜け、星の大海を渡り、巨大な物体を貫通する。  〈ヘル〉という名の物体は、突如おこった衝撃に、秩序と静寂の正反対のものに内部を制圧 されていた。  クロガミでさえ想像もできなかった光景に、ヴィーザルともども動きをとめた。何が起きた かは、すぐに諒解できた。地上の〈フェンリル〉が〈惑星破壊砲〉をはなち、〈ヘル〉の機関 部を貫いたのである。ラッシュの仕業にしては、正確な砲撃であった。確実にエンジンだけを 的に絞り、最小出力で射抜いている。とても片眼の彼ができる芸当ではなかった。 「クロガミさん」  少年は声を感じた。しゃくりあげるような、弱々しい女の声だった。 「ロジィか? これをやったのは、おまえなのか?」 「うん……」 「なぜこんな無茶を。おまえはもう、戦うべきじゃない」 「だって、わたししか、できないことだから。わたしがやらなきゃいけないことだから」  嗚咽の混じる少女の声に、クロガミは何も言えなくなった。彼女は彼女なりに決心をつけ、 勇気を出したのであろう。怖ろしく、辛く、悲しい記憶を蘇らせながら、少女はみずからの意 志で引き金をひいた。彼女にとってそれは、過去との決別だろうか、それとも深い後悔のはじ まりだろうか、少年にはわからなかった。  〈ヘル〉の艦内で、ブルックナーは状況を聞き、怒りに震えていた。五年かけて完成させた 最高傑作が、こざかしい連中によって傷つけられたのが許せなかった。しかも砲撃の主が地に 墜ちた宇宙戦艦〈フェンリル〉であり、戦術サポーターが出来損ないのロジィとあっては、総 統の自尊心は踏みにじられたも同然だった。それでも感情にまかせて報復したりせず、緊急処 置をとり、被害を最小限におさえようと働いたのは、最高司令官としては立派である。 「パウ、機関部を排除し、サブエンジンに切り替えろ」  パウは反応しなかった。普通の人間のように、彼は痛みにあえぎ、涙を流した。  T型〈BIO〉は、性質上、艦と神経が結合される。カメラの映像は視界となり、主砲を放 てば掌に感覚が残り、エンジンを動かせば走っているような気持ちになる。逆に、装甲が傷つ けば皮膚が痛み、カメラを壊されれば眼がつぶれ、動力炉が異常を起こせば心臓に影響する。 〈フェンリル〉によって機関部を打ち抜かれたパウは、両脚をもぎとられたのと同じ苦痛をあ じわっていたのだった。  総統はパウ開発チームの主任へつめよった。納得のいく説明を受け、苦々しく舌打ちすると、 博士らに処置をするよううながした。  背後の〈BIO〉パウは、機関部の排除と神経回路の接続が切れるまで、助けを求め続けた。 「お母さん」と。  クロガミは好機を悟り、完全に動きをとめた〈ヘル〉へヴィーザルを係留し、拳銃だけを武 器に移乗した。ハッチを外部から開いたためか、警報が鳴り響き、兵士の声が聞こえてきた。  広い艦内ゆえに隠れる場所には事欠かなかった。少年は兵士たちを何度となくやりすごし、 逃げながら艦橋を目指した。  しかしそれも限界がある。パウが落ち着き、艦内が正常に機能しはじめると、少年はたちま ち居所を知られ、包囲された。  戦って、突破するしかなかった。  〈BIO〉というより機械人間に近いクロガミに、通常の人間は相手ではなかった。速さで 翻弄し、力で圧倒し、技でかいくぐる。  一〇分のうちに装甲兵を一個大隊ほど病院送りにしたクロガミだが、艦橋への道は敵によっ て埋め尽くされていた。  「いくしか、ないんだ」ヘルメットを脱ぎ、熱い呼気を吐きだして、少年は走った。                  5  「ブルックナー……!」  クロガミの始末は装甲兵に任せ、パウの完全回復と〈ヘル〉の修理状況に気をやんでいた総 統は、まったく予期せず現れた少年に眼を見張った。  血まみれの宇宙服に、撃ち落とされた左腕、おぼつかない足。満身創痍の黒と蒼の瞳を持つ 少年は、だが、戦いをあきらめてはいなかった。 「あの兵士の中を、突破してきたというのか?」  艦橋から廊下を覗いた一人の兵士は、地獄絵図を見た。もだえ苦しむ人の列が、延々と続い ていた。  艦橋のクルーは、少年の凄惨な姿に、行動の判断がつかなかった。護るべき総統へ一歩ずつ 近づく彼を、掣肘できなかった。  指揮卓で驚愕する総統の首に、少年の残った腕が伸ばされる。 「終わりだ、ブルックナー」  将兵たちは、ようやくやるべき仕事を思いだした。  副官が銃を引き抜き、少年の腹部へ銃弾を放った。  クロガミは、パウの前で、救いたかった小さき者を瞳に映して、倒れた。  パウは殺したかった相手の無様な姿に、嗤おうとして失敗した。かわりに、胸をしめつける 感覚がわき、無意識の涙を流させていた。彼にはやはり、理由はわからなかった。  ブルックナーはヒステリックに哄笑し、クロガミの身体を何度も蹴りつけた。  パウは、深い深い意識の底で、声を聞いていた。あたたかくもなく、優しくもない、ぶっき らぼうな男のものだった。知っている人間だった。殺したい『敵』のものだった。それでも彼 は、耳をかたむけた。 「パウ、一つだけ頼みがある」 「頼み?」 「あいつに逢ってやってくれ。おまえの悲しみをわかってくれる、優しい女がいる。オレやお まえと同じように利用され、心を壊してしまった少女だが、いまは強く生きている。だからお まえも、昔を取り戻せ。オレとおまえがともにいた頃を、思いだしてくれ……」  クロガミの義眼は、輝きを失った。  パウは呼びかけた。『敵』に対して不思議な感情が生まれた。胸が痛み、苦しくなった。泣 きたくなった。だが、『悲しみ』とはわからなかった。  激しい頭痛がおき、パウは狂わんばかりに絶叫をあげた。助けてほしかった。抱きしめても らいたかった。失ったぬくもりが、恋しかった。  再び声が聞こえた。知らない女の嘆きだった。パウは、彼女がクロガミのいう女だと直感し、 必死に意識をつなげた。 「そこにいるのは、パウ?」  泣きくずれる少女の問いに、彼はうなずいた。 「クロガミさんの声が、聞こえない……。聞こえないよぉ……」 「悲しい?」 「あなたは…、悲しくないの?」 「よく、わからない……。こいつ、『敵』だし」  さびしいことをつぶやくパウを、ロジィは抱きよせた。彼の欲しかったものが、そこにあっ た。 「あなたも過去を思いだして。嫌なものだけでなく、楽しかったことや、嬉しかったこと。そ れから、あなたのした悪いことも全部」  絶対的な正義を信じるパウに、彼の行いを客観的な悪だと認めさせるのは、残虐である。過 去のロジィのように精神が耐えられず、崩壊してしまう可能性もあった。しかしこれがパウを もとに戻す唯一の手段であり、クロガミの最後の願いであった。  パウはぬくもりを失うのを怖れ、素直に従った。二人の瞳が、人が歩むにはあまりにも遠い 距離を隔てて、交差した。  パウは記憶を掘りおこす。父と母と、もう一人の家族がみえる。優しかったり意地悪だった りした、背の高い人。それに、友達と遊んだ楽しい日々や、大嫌いな算数のテストで百点をと った喜び、はしゃぎすぎて窓ガラスを割ってしまい怒られたときなど、短い人生のなかの多彩 な歴史が、懐かしく脳裏を埋め尽くした。  ロジィは彼に、彼女とクロガミの記憶も一部あたえた。醜く、汚く、怖ろしい戦争の実態を、 無理やり心に植えつけた。パウは蒼白となり、何度も拒絶しようと叫んだ。  苦悶する小さな身体を、ロジィは強く抱きしめた。悪いことだから、やめなければいけない。 怖いことだから、終わりにしよう。パウは独りじゃないから大丈夫。わたしがそばにいる。わ たしが護ってあげる。わたしといっしょに生きよう。少女は左眼に想いをこめて、パウの右眼 を見つめ続けた。 「……うん」  パウの心は、ロジィのあたたかさに護られて、はじけた。憎しみは薄れ、悲しみと痛みが、 彼のなかに残った。  ロジィは泣きじゃくるパウを抱きしめ、頭をなでた。  二人の眼には、人間としての涙が、あふれていた。  そして、彼らのながい戦争は終わった。  勝者も敗者もない対等の歴史が、今、はじまる。    付記  〈月〉で建造されたロキ級戦艦一番艦〈フェンリル〉、二番艦〈ヨルムンガルド〉、三番艦 〈ヘル〉は、同日、破壊された。原因・目的・首謀者は不明である。  総統を名のり、〈月〉と〈地球〉を征服していたラルフ・ブルックナーは、総旗艦〈ヘル〉 の艦橋にて死亡。死因は公表されなかった。  戦争および独裁政治は、こうして数多くの秘密を隠したまま終結する。  なお、公式記録には、元・〈月〉軍地球方面第一艦隊司令官ガロア中将と、元・反〈月〉勢 力武装ゲリラ・キャメル隊隊長ラッシュの名が、戦争終結の功労者として残されている。  その他の人物、アーサー・ノーマン、ロジィ、パウ、それにクロガミについては、一部の軍 関係者がささやかに語り継ぐだけであった。  余談ではあるが、記録されるべき人物に、地球方面総督ルイス・バリーの副官、コックス中 佐がいる。彼は総督殺害の指名手配を受けていたが、逮捕されることなく一生を終え、歴史に 悪名を記した。  現在、〈月〉と〈地球〉のあいだでは、平和へつながる道が模索されていた。         *        *        *  小さな山村に、三人づれの家族がやってきた。彼らはそれぞれ、髪も瞳の色も異なっており、 顔立ちもまるで似ていなかった。二人の子供のうち、長女はルビーのような瞳を持ち、弟は漆 黒であった。  父親は医師として村で尊敬され、姉は看護婦として働き、弟は勉学に励んだ。  平凡で、平和な日々のなか、少女は空を見上げた。星の大河に、月が淡い金色を輝かしてい る。  独りになると、彼女はつい過去を思いだし、一人の名をつぶやいてしまう。  悲しみに負けそうになり、彼女はかぶりをふった。  あの人は、こんなわたしを見たくはないだろう。わたしは二人に誓ったんだ、強くなろうと。  彼女は月を眺めた。寂しいけれど、優しくなれる力を、天空の果てにあるものは与えてくれ た。  黒と蒼の瞳は、いつもそこにある。それを知っているから、少女は生きていける。  クロガミという名の少年は、いつも彼女とともにある。 61