第三章 思惑                  1  クロガミは拘束されたまま、窓一つない密閉された部屋でイスに座らされ、立ち上がれ ないように固定された。内部は殺風景この上なく、天井は配管が走り、壁紙や装飾品など 存在せず、照明も蛍光灯がむきだしだった。掃除すら満足に行われていないらしく、コン クリートにはカビが浮いていた。  部屋の隅には兵士が一人ずつ控え、クロガミが不審な動きを見せれば発砲するかまえで ある。その他にも二人の書記官と、白衣を着た数名が少年を囲んでいた。  身体が自由ならば、問題なく倒せる数だった。だが少年には、反抗する気持ちはなかっ た。五年前の任務は、当時のバリー中将の承諾を得たものであったからだ。まさか、こん なところで逢おうとは思いもよらなかったが。  一時間ほど待たされ、目的の人物が現れた。肥満気味で、頭髪が薄くなっているのをの ぞけば、彼は間違いなく少年の知る男だった。 「久しいな、クロガミ。まさか本当に生きておったとはな」 「オレはまだ、死ぬわけにはいかない」 「そのために、同志である我が軍の兵士も倒したというのか?」 「オレは軍に入ったつもりはない。だが、なぜオレのいどころがわかった?」  解答はごく簡単だった。クロガミには発信機となるチップが埋め込まれており、死亡す るか、地下にでもいないかぎり、衛星で所在を確認できるのだ。 「できれば穏便に連れてきたかったのだが、きさまのことだ、わたしの名前で呼びかけて もどうせ信じなかったろう?」  それについては、少年は逡巡なくうなずく。そんなクロガミの態度に、「だから強引に やったのだ」とバリーは笑った。  声を抑えると、総督は警護の兵を含めた全員を部屋から退去させた。ここから先は、一 般の兵士には聞かせられなかった。  部屋には二人だけが残り、バリーは少年の前にイスをひいた。 「で、この五年、消息不明だったおまえは、何をしていた?」 「地球に墜ちて、意識を失っていた。回復したのは、半年ほど前だ」 「なぜそうなった? なぜ〈フェンリル〉をしとめられなかった?」  当時クロガミは、〈フェンリル〉破壊の密命を受け、専用戦闘艇による単独任務につい ていた。撃墜する唯一の機会である、主砲の展開時を狙う一撃離脱作戦だった。  しかし少年は失敗した。砲弾の発射が、タイミングよりわずかに遅れたのだ。その原因 を、バリーは尋ねている。  クロガミにも、根拠のある理由が見つからなかった。ただあのとき、目標を確認したと き、声が聞こえたのだ。それが一瞬、行動を鈍らせた。 「声、だと?」 「ああ、女の声だ。『だれ?』と訊いてきた。それでオレは……」  バリーは信用せず、〈BIO〉特有の脳障害であろうと結論づけた。結果的に〈フェン リル〉は暴走し、計画どおり事が運んだのだから、過去を振り返る必要はないだろう。 「それで、おまえはあの街で何をするつもりだった?」 「オレの任務は終わっていない」  「任務か……」バリーはタバコを吹かしながら、少年の放つ懐かしい響きを楽しんだ。 「クロガミ、時代は変わったのだ。もうおまえが倒すべき敵はいない」 「ウソだ!」 「ウソではない。おまえの攻撃目標であった〈フェンリル〉は沈み、戦争は終わった。お まえの任務は完了されている」 「まだ二番艦〈ヨルムンガルド〉がある。あれにも〈惑星破壊砲〉が積まれている。オレ の任務は――」 「よさんか!」  バリーは怒気をこめて大声を発した。 「あれは我が軍の総旗艦であり、勝利を導いた艦である。きさまの古い脳ミソは、変化し た状況が理解できんのか? ……ともかく、おまえの任務はすでに終わった。明日にも次 の任務を与える。それまで部屋で休むがいい」  少年は深い沈黙を保ち、それから「わかった」とうなずいた。  バリーは本題にふれないまま、部屋を退出しようとした。その背中に、クロガミの声が 重なる。 「オレにも訊きたいことがある」  「なんだ?」総督は煩わしげに身体を向けた。 「フェラー博士はどうした?」 「……戦争終結直前に亡くなったよ。研究中の事故だった」 「そうか、ではオレの左眼は、作れないな」 「いや、以前フェラー博士とともに研究室にいた男がいる。彼なら作れるだろう。それだ けか?」 「もうひとつ。オレといたあの女はどうした?」 「ああ、おまえとは無関係だからな、ほうっておいた」 「あいつがT型〈BIO〉だと知っているのか?」 「知っている。だが、あいつはもうダメだ。完全に脳がいかれている」  少年は一拍おいた。 「……あいつは、何者だ?」 「訊くまでもないだろう? 地上いるT型は、おまえとあれの〈BIO〉しかおるまい」 「〈フェンリル〉!」  クロガミは立ち上がろうとして、前のめりに倒れた。だが意識はすでに過去の『敵』に 向けられており、無様な姿を気にもかけずに、ロジィに会わせるよう要求した。  バリーは取り合わなかった。いまさらそれに何の意味があろうか。ポンコツとなった少 女を倒すとでも言うのか。総督は鼻で笑った。  少年は言葉につまり、唇をかんだ。バリーの言葉は正しい。〈フェンリル〉は墜ち、戦 争も終わり、ロジィはすべてを忘れている。会うことに、意味はなかった。 「どうもまだ精神的におちついていないようだな。悪いが拘束は解けん。明日までゆっく り頭を冷やすがいい」  クロガミは反論せず、独り、部屋に残された。                  2  執務室に戻ったバリーは、クロガミの扱いに少々不安を覚えていた。彼の計画にはT型 〈BIO〉が絶対に必要であった。現存するT型は、ロジィとクロガミ、それに〈ヨルム ンガルド〉の『パウ』だけである。当然だが、パウはブルックナー総統のもと、月面で総 旗艦〈ヨルムンガルド〉を守護している。である以上、壊れたロジィを消去すれば、クロ ガミを使うしかなかった。  クロガミは戦術的状況判断力には優れており、生身の戦闘力も高い、優秀な人材といえ るだろう。だが反面、攻撃的であり、広い範囲を見渡す能力が欠落している。元来T型は、 〈惑星破壊砲〉実装型戦艦――ロキ級戦艦――の複雑な火器管制や自動防衛、運航システ ムを脳波コントロール〈BIOS〉で操作する、戦術サポート用に開発された〈BIO〉 である。ゆえに戦略レベルの判断力は、個人の資質に帰する問題であった。バリーはクロ ガミに、艦隊司令や参謀を期待しているわけでないが、精神的不安定さをときおり露呈す るのが心配なのである。一歩間違えば、〈フェンリル〉のように暴走してしまうおそれす らあるのだから。  バリーは乱暴に、タバコを灰皿へ押しつけた。  扉がノックされると、いらだたしげに「入れ」と怒鳴り、副官のレイモンド・コックス 中佐の入室をうながした。今年二六歳になるコックスは、地球降下作戦のおり、ブルック ナー司令官の推薦でバリー中将の副官となった。まだ佐官ですらなかった彼だが、バリー を良く補佐するだけでなく、参謀としての才もかいま見せ、味方を救ってもいる。それ以 降、バリーは彼を高く評価し、副官として重用していた。  中佐は手にした書類を、不機嫌な上官に差し出した。かたい文字で記された内容は、ロ ジィの検査報告書である。難しい医学用語と不確定な文章の羅列が総督を過敏に刺激した が、一五分かけて読みあげ、ため息とともに紙の束を机に投げた。 「なんの実りもない報告だな。やはり使い物にならんということか」 「では、クロガミですか?」  中佐の言葉に、総督は歯切れの悪い返事をした。  副官は思案にとらわれる上官を、いぶかしげに眺めた。  視線に気づき、バリーはクロガミの不安要素について語った。信頼のおける部下である コックス中佐は、論理的に物事を考察し、処理ができる人間だ。適切なアドバイスを期待 するくらいは、しても良いと思えた。  副官は上官の懸念にバカバカしさを感じたが、口に出しては過去の例を用いて、迷いの 森を歩む総督を出口へと導いた。 「洗脳して、過去を消すしかないでしょうな。〈フェンリル〉墜落後、パウに対して行っ たように」  〈フェンリル〉の暴走は、〈BIO〉であるロジィの精神異常によるものと断定されて いた。艦橋に設置されたブラックボックスに、記録が残っていたのだ。〈BIO〉の開発 チームは同じ失敗を防ぐため、〈ヨルムンガルド〉に搭乗するパウに徹底した洗脳を施し、 感情を完璧に取り去ってしまった。結果として、パウは効率よく〈ヨルムンガルド〉を運 用し、軍部も研究者も大いに満足するデキとなった。それにならい、クロガミが精神的に 弱いのなら、パウと同様、人形にしてしまえばよい。 「たしかに〈フェンリル〉との相性はロジィが一番でしょうが、壊れたものが直るのを待 つのは愚策です。ノーマンにロジィをあずけて回復を待ち、もうどれだけの年月をムダに したとお思いですか? クロガミが現れたのは絶好の機会です。計画を進めるべきでしょ う」 「そのとおりだ」  バリーは深くうなずき、副官の案を是とした。  コックスは、計画の進行をゆだねられると、力強く諒解した。そして新しいファイルを 開いて、読みあげた。 「次の報告です。〈地球〉の反乱分子が、このところ活発になっているようです。どうや ら彼らを糾合する者が現れたらしいのですが、詳細は不明です。以後、情報が入りしだい ご報告します」 「モグラどもめ、まだ反抗するか。ヤツらを一掃するためにも、アレは必要になるな」 「はい。総統閣下にも、それを口実として計画の許可をいただいたのですから」 「うむ。あとはソフトウェアだけだな」  バリー総督のつぶやきに、副官は控えめに肯定を示した。 「ところで閣下、〈月〉から配属されてきた者たちが妙なウワサをしていたのですが、ご 存じですか?」  バリーは首を振り、コックスをうながした。  聞き終えた総督は、内容の危うさに焦りの色を濃くしていた。 「本当か、それは!」 「いえ、あくまでウワサです。正式なルートからの連絡はないので、風聞だけと思います が」 「風聞にしては危険すぎる。すぐに情報を集めてくれ」  青ざめる総督に敬礼をして、中佐は退出した。 「これくらいで動揺するようではな」  二人の間に壁が立ちはだかると、コックスは口元をゆがめた。                  3  痛い。  頭が、痛い。  死んでしまいたいくらい、痛い。  でも、わたしは生きている。生きていく。  イヤな思い出ばかりだけど、  本当は独りでいたいけど、  いつまでもここにはいられない。  誰かが側にいてくれるなら、  わたしを解放してくれるなら、  わたしはすべてを受け入れて、  もっと強く生きていく。  同じ敷地の、異なる階層では、ノーマンがロジィの看病をしていた。  暴走し、麻酔で眠らされた彼女の意識は、まだ回復してはいない。  ノーマンは背後の兵士に監視されながらも、ロジィの手をとり、片時も視線をそらさな かった。  おちつき、呼吸音も正常に戻ったのはもう二時間も前だ。そろそろ目覚めるだろう。し かし彼女は、今後もこのような発作を繰り返し、けして安息をえる日はないのだ。そう思 うとノーマンは、あの日を深く後悔するのだった。  〈地球〉との開戦から四〇日後、〈地球〉艦隊による〈月〉の第五都市への砲撃が過ぎ 去ったあと、マービン・フェラー博士をはじめアーサー・ノーマンを含む一五名の医学者 は、戦術サポート用〈BIO〉の開発にかり出された。  非人道として反対するメンバーに対し、軍部は〈BIO〉の候補として、五〇名の重傷 患者を見せつけた。 「きのうの砲撃で死にかけている者ばかりだ。拒否するのもいいが、放置すればいずれ死 ぬだろう」  医術を心得るノーマンたちに、無視できようはずがなかった。少なくとも軍は、T型〈B IO〉の適正に当てはまらなかった者を、治療ののち病院へ搬送するのを認めた。  そして最後まで残った候補の中に、ロジィがいた。 「あのとき、この娘は死ぬべきだったのだろうか?」  ロジィの肉親はすでに亡く、彼女も戸籍上は死者の列に加わっている。それでも彼女は こうして、苦しみながらも生きていた。〈フェンリル〉を操る能力を刷り込まれ、したく もない戦争を強制され、多くの人間を殺し、あげくに心まで壊してしまった少女。彼女に、 このさき幸せなどあるのだろうか? 夢も、感動も、過去すらも持たない少女に……。 「イキテイタホウガ、イイトオモウ」  ロジィが博士を見つめ、そっとほほえんだ。錯覚でも、彼はそう思いたかった。 「センセイ、ユメヲミマシタ」 「夢?」 「ワタシハイキタイ。ワタシガイキタイ」  少女の言葉は相変わらず不可解であった。それでもノーマンは、「生きる」と口にした 少女に胸が熱くなった。 「くろがみ、イナイノ?」 「あ、ああ、彼は帰ってしまったよ」  他に言いようもなく、博士はロジィにウソをついた。彼は明日にもロジィと同じ運命を たどる。誰でもない、博士自身の手によってだ。目の前の、満足に笑うこともできない少 女を護るために。  人が何かをなすのに犠牲が必要だとすれば、その判断基準はいったいどこにあるのだろ う。道徳だろうか、金銭だろうか、愛情だろうか。博士は少女を生かすために、別の命を 代償にしようとしている。それは許される行為であろうか。脅迫の上の選択とはいえ、人 が人の命を犠牲にする権利が、果たしてあるのか。  博士はロジィの手を、強く握った。 「……わたしにはわからない。ロジィは、どうしたい?」  彼自身も意味のない質問だと知っていた。しかしこうしてだれかに答えを求めなければ、 自分を支えられないほど心が弱かった。 「ワタシハ――」  心が壊れてしまったはずの少女は、さきほどと同じ言葉を、力を込めて吐き出した。 「イキタイ」                  4  「隊長、いいんですかぁ?」  待ちくたびれたその男は、黒鉄色の戦闘艇で寝そべるバンダナの青年にぼやいた。  「あん?」と気のない返事をして、彼は視線を手にした本から男へと向けた。 「他の部隊はもう集結場所に向かってる頃ですよ」 「ああ、かまわんかまわん。オレたちが行っても、邪魔者扱いされるだけだ」 「まったくいつもながらラッシュ隊長は……」  男は肩をすくめて、ため息をついた。あきれた表情も、口もとが笑っていては説得力が ない。 「どうせオレたちは正規の軍じゃない。あいつらがはじめたら、それに便乗して戦うだけ さ。ところで、あいつからの連絡はないか?」  ラッシュの問いは、否定で返された。  金髪の青年は頭をかきながら上体を起こし、足もとの機体を眺めた。  〈月〉で建造されたという宇宙戦闘艇。発見当時はスクラップ同然だったものが、今で はエンジンも装甲も塗装さえも新品同様によみがえっている。足りないパーツがあるとす れば、コクピットにおさまる人間だけだ。 「クロガミめ、何してやがる」  もとより連絡など期待してはいないのだが、単独で出ていった少年が、気になっている のは確かだった。  ジャック・バン・ラッシュ率いる反〈月〉勢力ゲリラの一つ、キャメル部隊は、〈地球〉 側の大攻勢を応援すべく、敵軍基地から一五〇キロの廃墟に身を潜めていた。武装兵器は 戦闘機が三、ヘリが二、あとは単車かジープだ。敵と比較すれば小規模だが、今の地上に は貴重な戦力だった。そのなかに、ラッシュが座っている黒の戦闘艇は含まれない。宇宙 専用のため、重力下では役に立たないからだ。 「隊長も物好きですな。あいつのためにわざわざ修理してやるなんて」  ヘリの整備員が、汗を拭きながらラッシュに言った。  ラッシュたちキャメル隊とクロガミの出逢いは、偶然の産物でしかない。半年前、土砂 に埋もれた兵器の発掘作業中に、たまたま少年の機体を見つけたのだ。ラッシュはその黒 い戦闘艇を記憶しており、中のクロガミごと地下基地へ連れていき、蘇生させたのである。 そのときすでに、クロガミの左眼はつぶれていた。 「あいつは〈フェンリル〉に独りで向かったヤツだ。今度もきっと、役に立つさ」 「そうだといいんですがね。しかし、帰って来るんですかねぇ?」 「こなきゃこっちから迎えにいくさ。修理代をもらわないとな」  周囲は笑ったが、ラッシュは時計を見ると口をつぐんだ。  時が迫っている。今度の作戦目標は、地球の首領バリー総督のいる地上最大の軍事基地 である。ただでさえ戦力不足の〈地球〉側には、局地戦を繰り返す余裕などなく、また宇 宙で睨みをきかせる〈ヨルムンガルド〉の存在が、正規軍の無理な軍事行動をあおってい た。この一戦に敗れれば、今後十年はまとまった抵抗は不可能になるだろう。  だがそれ以前に、前大戦の敗因を彼らは理解しているのだろうか? 〈地球〉側が負け たのは〈フェンリル〉のせいではなく、〈月〉がつねに上空から艦隊を掣肘していたから なのだ。いわば地上戦における制空権を奪われた状態であり、重力と敵艦隊に挟まれ、艦 隊の行動を著しく制限されてしまったのだ。そして物資および兵員を送るシャトルは狙い 撃ちされ、補給もなく戦い続けるハメに陥ったのも忘れるわけにはいかない。しかも現在 は、〈惑星破壊砲〉を装備した〈ヨルムンガルド〉が地上を監視している。これの排除な くして、勝利はない。  正確な情報と綿密な作戦。戦力の糾合と優秀な人材の登用。補給の手配および補給線の 維持。宇宙における拠点の確保と防衛。戦争に勝つつもりなら、これらは最低限必要だ。  ラッシュは、クロガミを思い出した。少年は〈惑星破壊砲〉を持つ、すべての戦艦をつ ぶすのが任務だと語った。そのためには戦闘艇――ヴィーザル――を宇宙へ戻し、装備を ととのえなくてはならない。それにヴィーザルを操縦するのに左眼がいる、と。それ以上 は説明せず、彼はキャメル隊を抜け出して消えてしまった。「いっておくが、オレは〈地 球〉のために戦うわけじゃない」それがクロガミの最後の言葉だった。「では何のために 戦うのか?」という呼びかけにも、彼は答えなかった。 「同じ〈月〉の仲間なんだから、すこしは頼れっての」  ラッシュは思考を中断し、助けた恩も忘れて去っていった身勝手な少年に愚痴った。そ れでも、助けたのも縁だと思い、もう一つお節介をやいてみることにした。  赤いバンダナの義眼の青年は、通信機を持ってこさせた。    第四章 〈フェンリル〉再び                  1  クロガミは唯一の出口の扉が開かれるのを、感慨もなく眺めていた。逆光に人影が浮か び、背の高い男が一人、部屋に入る。扉が重い金属音とともに閉ざされると、天井の蛍光 灯が一斉に点灯した。  クロガミは反射的にまぶたを閉じた。これは〈BIO〉となる前の、人間としての生理 現象であった。 「博士、行動はすべてこちらでモニターしている。忘れるな」  コックス中佐の声が、壁のスピーカーを通して流れでた。  少年が目を開くと、男が立っていた。クロガミには覚えがあった。ロジィが『センセイ』 と呼んだ人間である。彼は壁際のイスを二つひき、一つを自分が、空いたほうに持参した ハンドコンピュータを置いた。 「初めまして、かな、クロガミくん。わたしはアーサー・ノーマン。きみの主治医になっ た」 「主治医だと?」 「ああ、ともかくその格好じゃ話もできないな」  クロガミは昨日からイスに固定され、横転したままで時を過ごしていた。どのような姿 でも彼本人は気にかけないのだが、確かに人と話すには不向きといえる。 「あんた、あのロジィという〈BIO〉とどういう関係だ?」  少年のイスを起こすと、ノーマンも自分の席に腰かけなおした。 「答えられない。わたしの仕事は、きみがT型として働けるかどうか調査するだけだ」 「なぜ?」 「答えられない」  ノーマンは表面ほど冷静ではなかった。監視さえなければ、もっとなめらかに言葉をだ せただろうに。  無論、少年に彼の心中など覗けはしない。オレに何をする。何をさせる。バリーはどう した。おまえは何者だ。拘束を解け――  いくつもの疑問、質問、命令がクロガミから発せられたが、博士は少年の意志にそわな かった。いらだたしく「クソッ!」と吐き捨てた相手に、「では今度はこちらの番だ」と ポケットからそれを取り出した。 「それは!」  クロガミの右眼が輝いた。望遠と調査モードが瞬時に作動し、ノーマンの掌にある球体 を凝視する。  博士はクロガミが解答を口にする前に、うなずいた。 「そう、ロジィの左眼だ」 「……!」 「なぜ、と言いたそうだね? それには答えるよ。彼女がきみに貸すと言ったからだ」  クロガミはまたとっさに反応できなかった。あれほど拒んだ彼女が、どういう心境の変 化なのだろうか。 「あの娘は、きみと逢った日から少しずつ変わった。彼女はきみに何かを感じているのか も知れない。だから――」 「博士、余計なおしゃべりはやめてもらおう。あなたの仕事を続けなさい」  スピーカーからの命令に、ノーマンは内心で頭を振った。 「これをきみにつけて、テストをする。もちろんT型としてのだ。その後、データをもと に完璧な義眼をつくる予定だ」  クロガミは博士を通してロジィを感じ、ロジィを通して博士を知ったような気がした。 少なくとも、ノーマンと名乗る男は『敵』ではない。論理を無視した感情が、彼に訴えて いた。  紅い瞳の義眼は、ノーマンの手でクロガミの眼窩に収まった。  大きさがあわないが、少年に身体的影響はなく、第一次接続は無事完了した。 「では、テストをはじめる。まず右眼からいこう。わたしの端末には文字が書いてある。 それを読みとってくれ」  クロガミはうなずき、右眼のTモードを立ち上げた。その黒い瞳で、端末の背面にある 拡張スロットを見つめる。クロガミの視界に、コンピュータ内の電気信号が映し出された。 そのまま内部に侵入し、映像をつかさどる記憶回路に接触する。 「データ読みだし」  〈BIO〉の命令は疾く実行され、結果を彼の脳へ伝える。  イスに置かれたコンピュータのディスプレイには、アルファベット二六文字から『T』 だけ抜いた二五文字が表示されていた。少年は一文字ずつ発音し、『T』をとばして答え た。 「次は左眼だ。端末にきみの名前を表示させてくれ」  博士がすべてを言い終える前に、少年は『KUROGAMI』とディスプレイに書きこ んだ。 「うん、いい調子だ」  感心したように、博士は微笑した。  これが通常の義眼とも、〈BIO〉とも異なるT型特有の能力であった。彼の右眼は、 情報の検索・分析・照合など入力に関わる事柄を処理し、脳へ伝達する。左は逆に、他の 電気信号を扱う機器を操作できるのだ。ロジィがクロガミを止めたのも、質問に答えさせ たのも、Tモードの左眼によって、少年の〈BIOS〉にハッキングをかけたためである。 ただロジィ本人は、それを意識して行ったわけではなかったが。 「あとはどれだけ高速に、ミスなく扱えるか、また持続できるかを検査しなければならな い。しばらく端末を使って会話をしよう。ただしモニターしている人間にも伝わるよう、 声も同時に出してほしい」  ノーマンは監視カメラに向けて頭を下げて見せた。了解を得るためだろうと隣室のコッ クスは思い、スピーカーを通して承諾した。  博士はハンドコンピュータを膝にのせ、キーボードを叩く。  二人の会話は、天候からはじまった。 「今日は暑いな」 「オレにはわからない」 「きみは暑さを感じないのか?」 「ちがう。ここにいるからわからない」  ノーマンは笑いをこらえた。会話の内容より、クロガミが素直に従ってくれるのが、予 想外で楽しかった。ノーマンの持つクロガミの予備知識は、フェラー博士が個人で内密に 造ったT型〈BIO〉だということ。全身の八〇パーセントが機械で補われ、性格は攻撃 的で、協調性を持ち合わせていないことくらいであった。フェラー博士の目的、クロガミ の身元、詳しい能力その他は、ノーマンには情報がない。それでもフェラー博士の人柄を 知り、交流もあった彼には、博士が何を思い、何を成そうとしていたのか、想像はついて いた。それを裏付けるように、博士自身は戦争末期に何者かに暗殺されたとのウワサもあ った。ノーマンはフェラー博士の意志を継ぎ、クロガミを真の目的へと導いてやりたかっ た。  だからクロガミを信じなければならない。不器用ながら、少年を助けるために義眼を差 し出した、ロジィと同じように。 「外は三〇度をこえているよ」  ノーマンは何気なく文字を打っているようだが、これが特殊コマンドになっていた。入 力が完了すると、さきの文章の下に別の文字列が出現していた。 『きみに関して話がある。とても重要なことだ。この会話を続けながら、ハードディスク のテキストファイルを開いてほしい』  クロガミは半瞬の自失ののち、「三〇度などめずらしくもない」と書きつつ、右眼の作 業を開始した。  二人は内心が現れないよう神経を使いつつ、会話を続けた。  少年が得た情報は、驚愕すべきものだった。 『バリーが〈フェンリル〉を蘇らせようとしており、その〈BIO〉にきみが使われる。 きみが承諾しないと見越し、彼はわたしに洗脳を依頼してきた。わたしは断ったのだが、 ロジィを盾に脅迫された。わたしは従わざるをえない。かといって何らかの仕掛けを施す 時間もなく、きみを逃がすこともできそうにない。すまない』  以降、博士の後悔と謝罪が数行にわたって記されていたが、クロガミには興味がなかっ た。少年よりも、再び起こるだろう世界の混乱よりも、大切なものがあったというだけだ。 彼を責めようとは、思わなかった。追伸文の、『今は無理だが、チャンスがあればきみを 解放し、目的達成のための手助けをするつもりだ』という言葉を信用したわけではないが、 気休めになったのはたしかだった。  その心情は、昔の彼と明らかに違っていた。五年前なら、「手を貸したくなければ死ね ばいい」「自分がかわいいだけだ」「信用できない」とでも答えていたところだ。それが この心境の変化は、いったいどうしたのであろうか。 『おまえは何のために戦うんだ?』  クロガミを助けたラッシュの問いかけが、不意に胸をついた。あのときからではないだ ろうか、自分のなかに強い疑惑がわきあがったのは。  戦う理由は任務だから、と決めつけ、それ以上の思考に時を費やしたりはしなかった。 〈フェンリル〉や〈惑星破壊砲〉の処理だけを目標としていればよかった。それがふと浮 かんだ、『なぜそんな任務を請け負っていたのか?』という疑問が、クロガミの心を動か しはじめた。任務の達成以外を必要としなかった少年の内に、消去されたもう一つの記憶 が、徐々に蘇っていたのだ。  だが、クロガミの記憶は難解なジグソーパズルであり、組みあげるどころか、断片すら そろってはいなかった。 「どうした、この計算はできないのかい?」  少年の脳に、ノーマンの声とディスプレイの文字が同時に入力された。彼は今、会話中 に出題された複雑な軌道計算を解いている最中だった。少年の脳は、並列処理が不可能な ほどの難問にぶちあたり、博士に向けるべき心の余裕を失っていた。 「疲れたかね?」  ノーマンには他に訊きようがなかった。  少年は「ああ」と答え、「きのうから食事をとっていない。エネルギーが不足している」 と身体面のストレスだけを告げた。  コックス中佐の許可を得て、二人は二時間の休息についた。  一三時二〇分、ノーマンとクロガミは、同じ場所で再会した。  さきの続きをうながし、博士は端末のスイッチを入れる。新たな隠しファイルを作成し たが、怪しまれないために、通常の会話を二時間にわたって続けた。その間、本来の仕事 であるクロガミの機能チェックも忘れなかった。  クロガミもさきほどのようなミスを恐れてか、ファイルの存在を知りつつデータを引き 出さなかった。行動を開始したのは、博士が実験を終了する言葉を口にしたときだった。  少年の右眼が、誰にも気づかれぬうちに端末を駆け抜け、データを読みとる。 『きみのアイデアは不可能ではない。だが、きみの言うように、肝心のロジィがうまく働 いてくれるとはかぎらない。だが、それでもやるしかない。本当にすまない」  彼の秘密文書はそれだけだった。クロガミが顔をあげて博士を見ると、彼はかすかにほ ほえんだ。  時をさかのぼり、休憩を与えられたノーマン博士は、データの整理をすべく端末を開い た。電源を入れられたコンピュータは、電子メールの存在を発信した。  クロガミが別れ際に書き込んだのである。 『洗脳から助かる方法が一つだけある。洗脳といっても、オレの頭は機械じゃない。完全 な記憶の除去などできるわけがない。ロジィがオレの記憶を掘り返せばいい。あいつに期 待するのは問題があるが、他に方法はない』  ロジィによる記憶の復帰。それはクロガミがロジィに対して提案したものである。左眼 を使って、〈BIOS〉を経由し、脳に刺激を与えて記憶を取り戻させる方法だ。その対 象者を、交換して行おうと少年は言うのである。  理論的には可能だろう。ただクロガミの懸念のとおり、ロジィが積極的に動けるだろう か。また、二人を逢わせられるだろうか。それでも計画を実行しなければ、どのみち三人 に未来はない。回避できない選択肢を前に、ノーマンは少しでも未来が見える道を決断し た。 「最後の質問だ、クロガミくん」  ノーマン博士はキーボードを叩かなかった。 「きみは死んでもいいと思ったことはあるかね?」 「ない」  少年の赤と黒の義眼が、星のように瞬いた。 「たとえばオレが犠牲になることで多くの未来が残ったとして、それにどれほどの意味が ある」 「ありがとう」  博士はクロガミの左眼を、取り外した。  退出したノーマンの前に、コックス中佐が立ちはだかった。 「最後のあれは、なんですかな?」 「興味があったんですよ。〈BIO〉とは人間なのか、機械なのか」 「ほう、それでどちらでしたか?」 「人間でしたよ」  博士は眼光を鋭くする中佐の脇を抜けた。背中に強い視線を感じたが、ノーマンは振り 返らなかった。  彼の手にある端末に、クロガミからのメッセージが残されていたのを発見したのは、そ れから三時間後である。                  2  翌一〇時三〇分、クロガミの洗脳手術がはじまった。拘束具も解除されず、麻酔によっ て抵抗もできないまま、彼は特別室のベッドに寝かされた。うつぶせで首筋から切開され、 少年の〈BIOS〉チップに端子が刺される。  あとはデータを送りこみ、〈フェンリル〉の操船プログラムを書きこみ、不用な記憶を 削除すれば完成である。  〈フェンリル〉用戦術サポーターとして生まれ変わろうとする少年を囲む医師団の中に、 ノーマン博士の姿はなかった。  彼は今、自室で軟禁されていた。洗脳の行われる研究室へと向かおうとしたとき、コッ クス中佐によって道をふさがれたのだ。 「あなたには、ここでおとなしく待っていてもらいましょう」 「なぜだ」 「あなたを信用していないからです。義眼の開発もわざと遅らせているようですし、あな たに頼るのはやめにしたのです。無論、バリー閣下の承諾は得ています」 「バカな、わたし以外の誰にできるというのだ」 「フェラー博士の研究データを発見しました。クロガミに関しても、T型〈BIO〉にし ても、たっぷりとね」  データさえあれば、心得のある医師ならば洗脳手術を行える。義眼の複製も可能だ。コ ックスの表情には、間違いなく嘲笑が含まれていた。 「あなたは最終調整だけしてくれればよいのです。これだけは経験者でなければできない ですからな」  兵士の銃に背中を押され、ノーマンは口惜しさに奥歯をかんで部屋へ戻った。外からカ ギがかけられ、数名の足音が遠ざかっていく。  ノーマン博士は怒りを持続させず、変化する状況に対応するべく、外部への通信機能を 持った端末を開いた。そして、急いである場所へ向けて電子メールを送ったが、相手には 届かなかった。  原因は、外部へとつながる通信網の断線である。昨夜は同じ場所への送信ができたのだ から、これは故意によるものだ。油断のならないコックスあたりの差し金と考えてよいだ ろう。 「まずいな、きのうの情報を信じてここへ来たら、大変なことになる」  博士は汗をぬぐった拳で、机を殴った。 「どうにか、この事実を伝えねば……」  焦る気持ちに、妙案など浮かぶはずもなかった。                  3  博士の不安は現実のものとなっていた。  〈地球〉正規軍は、現存する戦力の集結を急いでいた。昨夜、ゲリラ部隊の一つキャメ ル隊より、〈フェンリル〉復活の報が入ったからだ。当初三週間後を予定していた総督府 軍事基地への襲撃は、こうして早まったのである。  キャメル隊隊長ジャック・バン・ラッシュは、情報の発信源を攻撃目標である軍事基地 と、発信者を基地に侵入した部下のクロガミと報告した。正確には発信者名は異なるのだ が、緊急ゆえ余計な説明をはぶくために、あえて『キャメル隊特殊工作班クロガミ』から のものとしたのである。  本当の発信者はアーサー・ノーマンという、聞き覚えのない名前の人物からだった。キ ャメル隊の者以外にはほとんど知られていないラッシュ専用回線に、その男からメールが 届いたのは、夜食を終えた頃である。内容は、『クロガミから連絡するように頼まれた。 〈フェンリル〉が復活する。クロガミは基地に捕らえられている』という三文だけであっ た。  ラッシュは疑いをもったが、情報が情報だけに、正規軍への連絡をしないわけにはいか なかった。  正規軍の将帥たちは、悪夢を見たように絶句し、顔面を蒼白にしたという。天上には〈ヨ ルムンガルド〉、地上には〈フェンリル〉。北欧神話を知るものならば、世界の終末を連 想しただろう。実際、話を漏れ聞いた兵士が、恐怖のあまり夜中に脱走したというウワサ もあったが、信憑性に欠けるとは誰も思わなかった。  いち兵士がそうであっても、彼らを束ねる士官までが、怯えて戦いを放棄するわけには いかない。退路はすでになく、あるとすれば敵に頭をさげ、白旗を掲げる以外にはないの だ。それができないから、彼らは作戦を修正し、勝つための努力をするのである。結果、 〈フェンリル〉が起動する前に撃沈する案が採用され、決行は一〇日後と定まった。 「作戦はそれしかないだろう。だが、勝てそうにないな」  ラッシュは愛機である戦闘ヘリのなかで、あわただしく走りまわる部下たちを眺めてい た。このうち何人が、生きて再会の喜びを交わすのだろう。勝利の美酒を味わうものは、 果たしているのだろうか。彼はめずらしく悲観的であった。なにしろ準備は性急であり、 作戦はずさんであり、戦力は少ない。これでどこに勝機をみいだせというのか。 「隊長、のんびりしてないでくださいよぉ。午後には出ないと、間に合いませんよぉ」 「お〜、そうだな」  答える声も、覇気がかけていた。できれば今回は出撃を見送りたい、とは言えなかった。 「もしかして、まだクロガミを待っているのですか?」 「シャンドか。……ああ、それもあるかな」 「よほど気に入ったようですね、隊長」  ラッシュはシャンドに、皮肉まじりの笑みを見せた。彼がクロガミを気に入ったのは、 同じ義眼を持つ者どおし、だからではない。ましてや覚醒したばかりの少年が、左眼がつ ぶれているのを知り、代わりを求めてラッシュと友情を深めあうようなケンカをしたから、 では絶対にない。二人を結びつけているのは、間に一人の人物が挟まれているからだ。ク ロガミの義眼と、半壊した戦闘艇を見たとき、ラッシュはそれに気づいたのである。だか ら彼は、つきあいの浅い彼を信頼できるのだった。 「隊長、トラックが来ました」  「わかった」知らせを受け、ラッシュは外部のトラックを出迎えた。  トラックが誘導された先には、現在は戦力外の兵器があった。 「こいつを頼む」  ラッシュがたった一つ希望を抱いているとすれば、これと、これの持ち主だけであった。 何とも頼りない希望の光だが、真っ暗な道を歩くよりはマシというものだ。  「ロウソクよりは明るいだろうしな」という冗談は、彼のワースト記録に残るくだらな さだった。                  4  遠のく。  見えた光が、遠のいていく。  消えていく。  切れていく。  だれも側にいてくれない。  だれも助けに来てくれない。  わたしはいつまでこうしてる?  誰かが扉を叩くまで?  誰かが呼んでくれるまで?  わたしは強くならなきゃいけない。  もっと強く、ならなきゃいけない。  呼んでる声に、こたえるために。  ロジィは目を見開き、心に漂っていた不思議な気持ちを確かめた。冷たいようであたた かい、表現できない鼓動の高鳴りだった。  彼女はそっと左眼に触れた。クロガミに貸した義眼が、いつの間にか戻っていた。一時 的に外していたためか、軽い違和感があった。 「くろがみ、イラナイノ?」  つぶやいたが、答える者はいない。  体を起こし、周囲をうかがった。高い位置からの日差しが、部屋を明るく照らす。ベッ ドと事務机の他に、物も人もなかった。  ロジィはベッドから降りて、ノーマンからもらった『お気に入り』のクツをはいた。  窓を開け、風を入れる。熱い空気の流れが、少女の白い肌をなぶった。  かなたに、夕焼けの海を貫く〈フェンリル〉があった。彼女は自然と、忌まわしい記憶 の源泉である巨大な艦を凝視していた。意識して義眼を操作できたなら、圧倒的な破壊の 象徴をこまかに観察できたであろう。五年の歳月経て、外装は潮と熱に崩れ、砲塔は錆び つき、宇宙戦艦としての能力は無に等しくなっていた。  ロジィの頭の中に、光の蛇が這いずり回った。〈フェンリル〉主砲、〈惑星破壊砲〉が 大地を灼きつくした場面が、はっきりと思い出されていた。 「ウ、ウアァ……!」  少女は膝をつき、嗚咽と涎と涙をあふれさせた。これまで〈フェンリル〉を見て変調を きたしたことはないのだが、そもそもロジィの発作については不明な点が多く、ノーマン 博士ですら明確な解答を得ていないのだ。 「コワイ……。シンデルケド、イキテル……。コドウガキコエル……」  『鼓動』が〈フェンリル〉から発せられているのを、少女は感じていた。彼女は知りよ うもなかったが、〈フェンリル〉の改修作業は、正午をもって完了していた。古い殻の内 側では、新たな命の胎動がはじまっていたのだ。長い時間をかけて、外部に悟られぬよう、 バリー総督は〈フェンリル〉を復活させたのである。  死んだはずの〈フェンリル〉が、目覚めようとしている。『鼓動』が少女の胸に響き、 激しく脈打つのだ。不快どころではない、恐怖と嫌悪の毒酒を無理やり飲まされたような、 拷問であった。 「タスケテ、センセイ……。タスケテ、くろがみ……」  少女は救いの手を伸ばしながら、失神した。