幼稚園を卒園した春、少女は世界のすべてと信じていた街を離れた。仲良しだった友達と別れるのを拒み、何度となく泣いて抵抗を試みたが、少女の力では大人の事情に抗えるわけもなく、泣きべそをかきながら新しい土地、新しい街、新しい家へと足を踏み入れる。  失うものばかりと思っていた彼女の前には、新しい友達が待っていた。  隣家に住む同い年の少年は、いつも超然としていて子供らしさがなかった。少女にはよくわからなかったが、周囲の大人は彼を『神童』と呼び、褒めていた。  同じ小学校へと通うようになって、少女にも彼のすごさがわかった。彼女たちがてこずる難しい算数や漢字の読み書きを簡単にこなしている。  頭のいい子なんだとわかったとき、少女の目は少年を憧憬で追い、そして子供心に好意を持つようになった。  そうして彼の背中を見て数年、彼女は少年の弱さに気付いた。どんなときも平然とし、感情を大きく見せない彼が、独り、泣いていた。  少女は知る。少年もまた歳相応の子供だったのだと。少女は気持ちに従い、少年を背中から抱きしめた。  「いいんだよ」と、一言だけ添えて――    1 「――を解放する!」  新宮和人の指が秋穂こだまに向けられる。  夏休みがはじまってから半月、引きこもりを続けていた幼なじみに呼び出されたこだまは、いきなりの洗礼を受け、身をすくませ硬直した。 (なに、なんなの?)  心臓が激しく脈動し、呼吸も心なしか苦しい。何が起きる、何をされる、そんな不安に彼女は未だ動けないでいた。  が――  五秒……一〇秒……三〇秒……  時は確実に動き、こだま自身もまた金縛りから脱却していた。 「……何も起きない?」  長い緊張感の後に残ったのは、幼なじみの真剣な指差しポーズだけだった。  しかしながら違和感を覚えた。やたら足元が軽くて涼しい。いくらエアコンが効いているからといって、あまりに不自然な感覚だった。  が、原因究明の前に和人が「フ……」と息を吐いた。 「和人?」  彫像のように固まっていた彼の肩が揺れている。そして首をもたげ、笑いだした。 「フハハハハハ……! ついに、ついにやったぞ!」 「なに、なんなの?」  彼の奇行については充分な耐性を備えていたこだまも、今回は理解できなかった。 「この力は本物だ。ボクは神に近づいたのだ!」 「ハァ? アンタ、いいかげん現実を見なさい。毎度毎度ヘンな趣味に走るんだから」 「フン、その歳でネコなこだまに言われたくない」 「ネコ?」  こだまは首をひねる。今日の和人は、会話すら成立しないほど頭がおかしいらしい。 「どうせなら縞にすべきだ。需要は多いぞ」  一点を凝視する和人の視線をこだまが追う。彼女の首がほぼ九〇度下がったとき、目に映ったのはネコだった。  スカートに隠されていたはずのネコだった。 「あ、な、なん……」  言葉が出ない。自分がスカートも履かずに下半身をさらしている姿に、思考が追いつかずパニック状態に陥った。 「ネコ〜、ネコ〜、N・Y・A・N、ニャンニャンニャ〜ン」  和人が歌っている。ネコマークのワンポイントにそえられた『NYAN』の刺繍が一段と目についた。 「き、きゃああああああ!」  ようやく状況把握ができたこだまは、慌てて足元まで下がっていたスカートを引っつかみ、たくし上げた。 「見たか、我が解放能力の脅威を」 「解放能力ぅ?」  こだまはスカートを直し、真っ赤になりながら和人を睨みつけた。  そんな彼女を無視し、和人は平然とイスを引いて脚を組んで座った。黙ってさえいればカワイイ系容姿を持つ彼は、こういう仕草もなかなかに似合う。しかし語る言葉は意味不明。 「解放能力とは、つなぎ合わさるすべてを解放する力だ。例えば固く締まったビンの蓋、ほどけない結び目、さらには――」 「つまりヘンタイ手品かぁ!」  和人の側頭部に狙い済ましたヒールキックが叩き込まれた。彼の身体は簡単に吹き飛び、壁に激突してベッドに落ちた。 「お、おおぉ……」 「アンタのヘンタイ実験には慣れっこだけど、今回はサイアクだわ! 大方大声でわたしをビビらせて、その隙に脱がせたんでしょ。なぁ〜にが解放能力よ」 「ち、違うぞ。これは本当に……」  彼が言い終える前に、こだまの足が和人の顔を踏みつけていた。 「まだ言うか、万年発情奇人変態小僧が」  ぐりぐりとこねる。和人は呻くので精一杯だった。 「まったくアンタは、どうしてこうなっちゃったのかしら」  踏みつけるのも飽きて、主を失っていたイスに身体を預けた。這い上がろうとする和人をため息まじりに眺める。  ホントに、『神童』新宮和人の名前も地に堕ちたものだ。初めて出会った十年前の彼と、今の変態男子中学生との間には共通点が見えない。当時の天才少年はどこへ消え去ったのだろうか。今の彼は二次関数が描く放物線よりも三次元の女体曲線を好み、万有引力の研究リポートに『縄跳びによる乳揺れの軌跡と形状関係』を提出したりと、人としても終わっていた。  それでも長年のつきあいから彼が『神童』であった理由も、今の変人ぶりもわかるつもりだった。わかるだけにこだまは納得したくない気分にもなる。 「まだだ、まだ終わっていないぞ、秋穂こだまっ」 「お」  復活早々、バトル漫画のようなセリフを吐く和人。こだまに対して右手を伸ばし、指を向ける。 「こだまのブラウスを解放する!」 「何度も通用すると思うなぁ!」  ビシッと言い放つ和人に、こだまは真正面から蹴りを放つ。  和人は再び壁を経由してベッドに落ちた。 「ネタがバレた手品ほど惨めなものはないの。まったく、急に呼び出されて何事かと思ったら、夏休みの半分使ってスカートを脱がせる手品に熱中してたとは……」 「ぐ、うぅ……。まだまだ実用には堪えぬということか……」 「いい? 外でそんな手品やるんじゃないわよ。わたしはまだアンタに理解があるからいいけど、他人だったら即警察行きだからね。わかったらおとなしく夏休みの宿題でもやってなさい」  聞いているのかいないのか、幼なじみからの返事はなく、こだまはあきらめて「それじゃ」と部屋を出た。  和人からは見送りもあいさつもない。ため息をこぼしつつ新宮家をあとにし、十メートルと離れていない我が家へ向かった。  十年前、初めて和人と出会ったのがここ。大人たちに囲まれ、世辞と称賛の言葉を無感動に聞いていた姿は忘れない。ときおり、この人たちは何を言っているのだろうと怪訝そうな表情を見せていた。こだま自身なら、大人から褒められれば素直に喜んだであろう。が、和人は勉強ができるからと自慢したり威張ったりしなかった。そもそも、そういう考えすらなかったようだ。あるとき、こだまが「なんで勉強できるの?」と質問したが、彼はキョトンとしていた。  「なんでできないの?」と――  それから何年も過ぎ、彼を一番近くで見てきた彼女には、彼の『できる』理由がわかった。  彼は特別だった。  特別な能力があったのだ。  それは恐ろしいほどの集中力と、のめりこみ。つまり、好きこそものの上手なれ、を体現しているのである。  子供の頃は、何をするにもまず与えられることで始まる。彼の場合、親から『勉強』を与えられ、それだけを与え続けられたゆえに『好き』になった、もしくは好きと錯覚したのだ。  だからこそ『神童』と謳われるまでになった。  が、知識と見聞が広がり成長していくにつれ、彼も自分を知るようになる。  思えばあのとき、あの出来事がなければ、和人は『神童』のままでいたかもしれない。 「そしたらやっぱ、わたしのせいじゃん……」  その後悔で今も彼のお守りをしているわけではないが、そう思うほうが楽だった。でなければ、遠い昔の憧れを今も引きずっているという理由しかなくなる。是非、否定したいところだった。 「ただいま」 「おかえり」  リビングでローカル放送のワイドショーを観ていたこだま母が応える。テレビからこぼれる、盗難事件についてコメントするタレントの声と同じ不愉快さが込められていた。 「また和人くんのところ? やめなさいと言ってるでしょ?」  毎回のごとく唱えられる非難の言葉。和人が勉強を捨て奇行に走るようになってから、母親の態度は一変した。「あの子を見習いなさい。がんばりなさい」が口癖だったのが、今では「あの子はおかしい」と言葉を包もうともしない。 「ご近所であなたもウワサになってるのよ。お母さんも恥ずかしいの。わかってるわよね?」 「わかってる」  そう答えるのもいつものことだ。だから「部屋に戻る」と立ち去るも、ため息でしか送られない。 「今年は受験なんだから、しっかりしなさいよっ。あんなおかしな子にかまって受験失敗なんて恥ずかしいからね」  大人は大変だ。恥ずかしいことがたくさんある。あれもダメ。これもダメ。勉強はしっかり。いい学校へ行きなさい。友達は選びなさい。本当にいろいろと注文がある。ま、それが親の仕事ってものか。そう突き放して考える自分の賢しさも、けっこうおかしい。 「それじゃ、宿題でもやりますか。勉強をしっかりやって、いい学校へ行って、いい友達を見つけるために」  こだまは机の前で、やる気のわかないプリントに目を向けた。  またたく間に夏は過ぎ、二学期がはじまる。  ひさびさの制服はクリーニングの袋に包まれたまま折り目正しく硬化しており、着心地はよくない。  それでもこだまは学校という空間が好きだったので、自然、鼻歌をこぼしながら片道三〇分の徒歩通学を楽しんだ。自転車通学も許可されていたが、歩くほうが好きだった。偶然出会うクラスメイトとの会話や街の新しい発見がおもしろかった。  それに、突然のハプニングもあったりする。楽しい楽しくないは別として。 「きゃあ!」  校門近くで女子生徒の悲鳴があがる。  こだまはクラスメイトとともに駆け足で現場へ向かった。 「これは……」  つぶやく合間にも、あちこちで悲鳴が続く。その悲鳴の周囲では、男子生徒の歓声がわきあがっていた。  最も手近な人だかりに顔を突っ込む。  そこには制服を抱え込んで身をよじる女子生徒の塊があった。 「これって、まさか……」  下着姿で泣きそうな女子生徒の群れを守るように、他の女子生徒が壁を作っている。  が、そのうちの一人もまた、突然制服が滑り落ちていき、群れの仲間入りをすることになる。 「――を、解放する!」  朝礼台の上でポーズを決める男子生徒がいた。  こだまは確認するまでもなく、声の主がわかった。いや、わからないわけがない。こんなアホでハタ迷惑なことをするのは―― 「かァずとォォォォォォ!」  校内で十指に入るアスリート、秋穂こだまは最高のパフォーマンスを発揮した。 「ム、こだまか?」  和人もまた接近する暴走列車を視認した。 「この前の借り、今こそ返してやるぞ。こだまの制服を解放する!」  和人の指が目標に狙いを定める。瞬間、彼の脳裏にいくつかの鎖と、それを結ぶさまざまな形の錠が浮かぶ。  解放能力の発現。分離または解きほぐすことが可能なモノであれば、いかなるものも解放してしまう超能力。  しかしながら無条件で発揮されるわけではなく、錠を開け、鎖を解き放つ必要がある。錠を開ける鍵は幾つも存在し、かすかに視えるヒントを元に正解の鍵を探さねばならない。ガードが固いほど難度も高く、学校制服で言えばボタンの数やファスナーの長さに応じて難易度が異なる。また、同じ材質の同じ物であってさえ、錠の形は違ったりする。 「あのときは三〇秒かかった。しかし、ボクは常に進化する」  脳内で稲妻がほとばしり、二秒ですべてが開錠された。かつて『神童』と謳われた新宮和人の、ムダに高い学力と集中力が成せるワザだった。 「このボケぇ!」  今まさに跳躍し、蹴りを放とうとしたこだま。  が、いきなり制服がずり落ち、足に絡まった。  「きゃっ」と短い悲鳴をあげ、ハデに転倒する。 「見たか、解放能力の真価を!」  やり遂げた男の顔で拳を握る和人。最大の障害を排除した喜びは至福だった。  が――  コケたはずのこだまは、前方受け身の勢いを借りて立ちあがり、脱げ落ちた制服にかまわず跳躍した。 「女の敵めぇ!」  朝礼台に右足が乗り、さらに踏み込み大ジャンプ。 「う、わぁ」  頭上高くから襲い来るこだまに恐怖した和人が最後に見た物――  白と水色のストライプだった。  放課後まで逆さ吊りの刑で過ごした和人は、お目付け役のこだまと下校していた。顔面はまんべんなく腫れ上がり、綺麗な顔立ちは面影もなかった。 「よ、ヒーロー。また頼むぜ!」 「新宮、次は刺すからね」 「おまえはいつかやってくれる男だと思ってたぞ」 「死ね、ヘンタイ」 「秋穂って胸デカイな」 「ちょっとぉ、秋穂さんにあやまりなさいよ」  誰かにすれ違うたび、ウワサが飛び交う。入学して二年半、和人もこだまも慣れた風景だった。『奇行変人』新宮和人とその『お目付け役』秋穂こだまは、もはや学校の名物になりつつある。 「アンタさぁ、わたしに恨みでもあるわけ?」  沈黙したまま歩くのにも疲れたこだまが、ボロボロすぎて表情すらわからない和人に尋ねた。 「無きにしも非ずだろ。ボクの邪魔ばかりして」 「そりゃするでしょ。アンタ、自分のしてることがわかってるの?」 「自分の理想を果たすための実験だ」 「人の嫌がることして楽しいのかって訊いてんのよ」 「ヌゥ……」  さすがに思うところがあったのか、和人は口をつぐんだ。 「アンタは熱中すると周囲も顧みないですぐ暴走するんだから。目の離せない子供みたい」 「フン」  反論できなくなると、彼はそれこそ子供のようにすねて見せる。それでこだまはつい笑ってしまうのだ。 「ともかく、あのヘンな手品は金輪際使わないこと。いいわね?」 「だから手品じゃないって」 「じゃあ、何なのよ? どうしたらあんなことができるって言うの?」 「それは……」  解放能力者・新宮和人にも原理までは説明できなかった。 「ま、種明かししたら手品じゃなくなるしね」 「ぐ……」 「次はその程度じゃすまない――」  「からね」の語尾が、救急車のサイレンに掻き消される。二人は視線をめぐらせ、先を急ぐ車両が交差点で停止したのを確認した。 「事故?」  誰に問うまでもなく交通事故だ。トラックと乗用車が交差点で停止したまま動いていない。  現場を覗いてみると、乗用車のフロントから運転席側扉にかけて潰れている。対するトラックは左フロントを破損していた。右折事故か信号無視といったところか。  救急隊員が乗用車を覗き込んでいた。運転手が呻いているのがわかる。死亡事故だけは免れたようだが、いつまで経っても車から降りてこない。 「ドアが開かないのか、脚が挟まって動けないのか」 「え?」  和人の分析は当たっていた。救急隊員が乗用車のドアを必死に開けようとしていたが、ひしゃげて開きそうにもない。  「消防はまだか?」と言う救急隊員の声が聴こえる。ドアを壊す機材がなく手の打ちようがないらしい。その間も、乗用車の運転手は痛みに呻き続けていた。 「遅いね、消防車。すっごく痛そう……」  他人の怪我とはいえ、ハタで見ていても痛みが分波してこちらにも届きそうだった。 「……しかたないな」  和人は一息吐き、右手人差し指を乗用車のドアに向けた。 「ドアを開放する」  その一言の後、しばらく彼は硬直した。 「和人……?」  無表情で乗用車を見つめ続ける。しかし額にはかすかな汗が浮かんでいた。 「冗談……。アンタの手品なんかでドアが――」  乾いた笑顔でつぶやくこだまをヨソに、乗用車のドアが軋みながら開いた。  「ぶはっ」ほぼ同時に荒い息遣いの和人が上体を曲げ、膝に手をついて身体を支えた。 「形が歪むとそれだけ難易度があがるのか……。さすがに六七個は辛いな」 「和人、まさか、ホント?」 「言ったろ、解放能力だって。元が開けられる物なら何でも開放できるんだよ」 「……冗談、じゃないよね」  こだまの静かな疑問をヨソに、周囲は奇跡の超常現象に湧いていた。  和人は彼女を真正面から捕らえ、答えた。 「そう、冗談じゃない。この力は――」  視線が空に向かった。大空に何かを求めるかのように。 「この力はボクに、夢と希望を与えてくれたんだ!」  両拳を固く握りしめ、力説する和人。眼からは欲望が噴出し、身体からは邪念が溢れていた。 「この能力があればみんなヌギヌギ。ボクはワクワク。楽しい毎日〜」  妄想に浸りはじめたのか、和人は公衆の面前で踊りだす。  解放能力という未知の力にたじろいでいたこだまは、邪な目的しか考えていない変人に相対することで我に返った。それどころか、真逆の感情にたぎっていた。 「け……」 「け?」 「結局それかぁ!」  無事に負傷者を救急車へと乗り込ませた隊員たちの前に、新たな重傷者が堕ちてきた。  危うく救急車で連行されるところを、鷲づかみにして引きずり歩く。 「その解放能力がどういうものかよくわかんないけど、ま、アンタなら何でもアリだしね。認めることにしたわ」 「こだまに認めてもらう必要はないんだけど」 「ウルサイ。で、その能力、本気で女の子を脱がすために覚えたわけ?」 「もちろんだ! それ以外にどんな使い道があると言うんだ!」 「くたばれ、エロボケ」  こだまのため息はいっそう深くなった。そういえば、彼が女の子に目覚めたとき、はじめに起こした奇行は透視だったか。透視能力があればいつでもどこでも覗き放題とか言って、顔面が引きつるまで何時間も一点を凝視していた。それに懲りたかと思ったら、服だけ溶かす魔法の薬を作るとかマンガみたいな研究をはじめたり、服の上からでもスリーサイズがわかるメガネを作ろうとしたり、まともではない方向に情熱を傾けていた。  あげく手に入れたのが解放能力と呼ばれる変態超能力。コケの一念とはよく言ったものだ。 「アンタさぁ、女の子にモテたいなら昔みたいに勉強にでも励めばいいじゃない。今だって成績はダントツなんだし」 「中学レベルの課題は五歳で終わっている。できて当たり前じゃないか」 「くあ、嫌味かそれは」  『神童』時代末期に、大検すら余裕で受かると聞いたウワサは真実だったらしい。平均点がやっとの身には羨ましいやら妬ましいやらである。 「それに不特定多数にモテたいわけじゃない」 「え、そうなの?」  意外な言葉にこだまは驚いた。まさか何か崇高な理由があってのことなのだろうか。和人の思考は理解できない部分も多い。もしかしたら常人が考える以上の学術的目的があるのかもしれない。 「ただ女体が見たいんだ!」  こだまは無言で右拳を打ち込んだ。 「お、おまえはすぐに手を出すクセを直せ!」 「うっさい、変態チックなことを大声で言うな!」 「健全男子の当然の願望だ」 「エロ本でも観てろっ」 「あんな感情移入できない生のリアルさがまるでない熱も感じない無味乾燥な平面図、観てられるか!」 「つまらないところでこだわるんだ……」 「リアルだよ、リアル! たぷんとか、ぷりんとか、すべすべ〜とか、あるだろ、そういうの!」 「だから力説すんなっ」  「はぁ〜」と吐息して、やはりついていけない感に囚われる。言いたい趣旨はわからなくもないが、理解してやろうとは思わなかった。 「なら尚更、彼女でも作ればいいじゃない。そしたら思う存分、観たり触ったりできるかもしれないよ」 「それもお断りだ。ボクは一人に縛られたくはない。いろんな形を愛でたいんだよ。わかるだろう、そういう男気ってやつが」 「わかるかっ」  軽く蹴っ飛ばし、妄想少年を正気に戻そうとする。けれどその不毛さを身に沁みて知っているこだまは、別の質問で和人の意識をそらせた。 「……まぁいいわ。で、その解放能力ってヤツ、どうやって覚えたわけ?」 「こだまも覚えたいのか? それで男子を剥き剥きヤッホーしたいとか?」 「するかっ」  当然のツッコミを入れて、再度和人に質問した。 「本をもらった」  和人は隠すふうもなくあっさりと答える。黙っていてもウソをついても、こだまにはいずれ知られる。しかも暴力的尋問によって。ならば答えてしまったほうが被害は少ない。 「本?」 「夏休みのはじめ、駅前で配っていた。美少女ロボットが」 「……は?」  和人がごく普通に付け加えた一言に、こだまの脳が停止した。 「……ああ、美少女ね、美少女。うんうん、そっかそっか。美少女さんも大変だね、そんなアルバイト」 「いや、美少女ロボットだ。ロボット。R・O・B・O・T。労働を意味する――」 「わー、言うなぁ!」  理不尽な拳が和人の左頬に叩き込まれる。 「どうせアンタの妄想でしょ! もしくは上半身だけマネキン載っけたヤツとか」 「いや、自立思考および独立歩行していたぞ。モーター音もほとんどなく、遠目には人間にしか見えなかった」 「からかってる?」  こだまの眉間にシワが生まれた。 「無知だな。どこかの研究所ではすでに、人間と同じ身長と重さの二足歩行ロボットが発表されているぞ。ボクが見たのとでは完成度は異なるが、技術的にはもう不可能ではない」 「そ、そうなの?」 「ウソだと思うならインターネットで調べてみろ。ともかく、解放能力はその美少女ロボットが配布していたんだ」 「そこまで言うなら……」  実際、そのようなロボットが存在するのかも知らないこだまには答えようがなかった。それに和人はウソをつかない。突拍子もないことが多いので、その場その場ではウソと感じるときが多いのだが、結果的には本当だったりする。解放能力もその一つ。 「なんなら行ってみるか、その場所」 「あ、うん……」  和人に従ってこだまは小走りについていく。ふと昔の二人を思い出した。勉強以外の何事にも無関心に歩いていく少年と、その背中に憧憬を描く少女の姿を。  帰路とは離れ、数分ほど歩いた先に駅が見える。ローカル線上のオマケ程度に造られた駅は、当然のように快速電車の相手にされない不便なものだった。それでも周辺はずいぶんと賑やかで、生活と娯楽をまかなうには充分な環境であった。  和人は地下街につながる階段に目を向けた。 「そこに立って黙々と本を配っていた」 「一人で?」 「ああ。段ボール箱がけっこうな数あった。中身は本だろうな」 「今日はいないね」 「一月以上前だぞ」 「何が目的だったのかな」 「さぁ、ボクにとってそんなのはどうでもいい。面白い能力と現実的な習得方法が書かれていたというのが、ボクにとっては大切だった」 「でしょうね。でなければ夏休みぜんぶ使ってまで、のめりこむわけないもの」  こだまの嫌味には反論すらなく、「もういいだろ、帰る」ときびすを返した。 「待ちなさいよ。あの能力、もう使っちゃダメだからねっ」  そんな命令に従うわけもないと知りつつ、こだまは声を荒げる。和人はやはり無言だ。 「ダメだからね!」  少年を追いかける少女。そんな二人を無表情で見つめる人影が、すぐそばにある。 「能力者、確認」  ぎこちない日本語が喉奥から発せられる。それは声ではなく、音であった。    2  二学期二日目。本日の学校は平和にはじまった。  新宮和人は登校時から秋穂こだまに捕獲されており、奇行に走る余裕がなかったからだ。 「……パステルグリーンのクセに」  無言でこだまパンチが炸裂する。今朝も早々に一戦交えたあとだった。  鉄拳制裁が堪えたのか、和人は騒動を起こすこともなく一日を終えた。あまりの静けさにクラス中が毒気を抜かれた表情をしている。こだまだけは『嵐の前の静けさ』と、逆に不信感を募らせていたが。  のんびりと校舎を離れる和人を、こだまは習慣のように追った。 「で、今度は何を企んでるわけ?」 「別に」  目さえ向けずに答える。何となく不機嫌に見えるのは気のせいだろうか。解放能力の禁止を強く言い渡され、ふてくされているのだろうと思ったが、そういった表情ではない。訊くのをためらう深刻さがあった。それでも「なんかあった?」と尋ねたのは、こだまは彼との絆を信じていたからだ。 「別に」  同じ言葉が繰り返される。 「わたしにも言えないわけ?」 「……」 「ふぅん」  こだまの歩行速度が落ちる。二人の距離は徐々に離れるが、和人は振り返ったりしない。 「……視線を感じるんだよ」 「視線?」  こだまが倍速度で駆け寄る。 「きのうからずっと、誰かに観られてる気がする」 「そりゃ、アンタは奇人変人有名人だもん。どこ行っても軽蔑の目で見られてるわよ」 「違う、ジッと観察される目なんだ。でも、気配を感じても誰もいないんだ」  「ふぅん」先ほどとは異なるニュアンスでこだまはつぶやく。 「例えば――」  和人が指差す。 「うん?」 「あのドアを開放する」  通りかかったコンビニの自動ドアが開く。もちろん二人はセンサーの範囲外にいるし、店内からも誰も出てこない。和人の能力だ。 「そこ!」  和人が勢いよく振り返る。が、こちらに注目する人間はいない。 「気のせいじゃないの?」 「……こだまくらい無神経でいられたら、人生、楽でいいな」 「あんたのがよっぽど無神経よ!」  言い返すこだまも薄ら寒い視線を感じた。多分に思い過ごしだろうが、そうと言い切れない出来事がはじまっている予感もあった。和人といると何があっても不思議ではない。それだけは真実だった。  和人は数日、穏やかな学生生活をおくっていた。授業中はぼうっと外を眺めているが、妨害や奇行はなく、誰にも迷惑をかけずにただ席に座っていた。  その姿だけを見ていればそれなりに絵になる美少年だった。成績もトップ、運動能力は低いが欠点があるほうが可愛げがあってよい。そんなわけで女子の好感度が少しだけ上向いていたが、本人は知る余地もなかった。  その日も平和な一日として終わった。  和人はさっさと帰り、掃除当番で出遅れたこだまは一五分遅れで追いかけた。が、一流スプリンターとして通用する彼女の脚も、今回ばかりは無理だった。 「なぁによ、ちょっとくらい待っててくれてもよさそうなもんなのに」  隣の新宮家を一睨みし、ワガママなグチをこぼす。  と、美少女を発見した。 「……マネキン?」  和人の家を見上げてたたずむ彼女は、微動だにしていない。  赤色の長い髪、無感情でまばたきすらしない眼。生気を感じさせない一〇代半ばの少女は、人形のようだった。 「あのぉ……」  恐る恐る声をかける。間近で観察して、彼女が人間ではないのを確信した。  肌の質感はゴムっぽく、皺がない。爪もプラスチックのようなツヤを出しており、髪も安い作り物。当然ながら血管も産毛も見えない。  彼女はかすかな音も立てず、首を曲げ、追従するように身体の向きをかえた。 「こ、この家に何か用?」 「……」  質問の理解に時間がかかっているのか、彼女は動かない。  そういえば。  和人は解放能力を記した本を美少女ロボットからもらったと言っていたが、この子のことではないだろうか? 「もしかして、和人の解放能力って……」 「おまえも能力者か?」  初セリフは高圧的だった。  こだまはたじろぎ、「わたしは違うよっ」と手を振る。 「そうか」  赤髪の美少女ロボットは反転し、歩き出す。慌てて「待った」をかけるこだまを無視し、ブレのない歩調で去っていく。  追いかけようと思えば追いつける速度ではあったが、気後れからかこだまの足は三歩と進まなかった。  謎の美少女ロボットの背中が消えてしばらく、こだまはハッとして和人に電話した。 『この番号は現在使われておりません。電話番号をお確かめのうえ、再度おかけ直しください』 「ウソ臭い芝居はいいの。アンタのウチの前にロボットがいたわよ」 『あ、そう』 「そうって……。アンタ言ってたじゃない、『観察されてる』って」 『ああ、その犯人がわかればいいよ。わからなくて気持ち悪かっただけだし』 「アンタねぇ! 能力者かって訊いてきたのよ? 怪しくない? いいの、放っておいて」 『興味ない。ボクはあの能力が「使える力」だから覚えたのであって、それがどんな目的で誰が開発したかなんてどうでもいい』 「わたしは気になるの! アンタにヘンタイ能力を授けてしまった悪の組織の全容を解明したいの!」 『悪って決め付けるのはどうかと思うが』 「アンタに味方するすべては悪! これは世界の決定!」 『それじゃ、こだまも悪だな』 「ふぇ?」  あまりの返し技に、こだまは素っ頓狂な声を上げた。 『なんだかんだでこだまはボクの味方をしてるじゃないか。だから悪だろ』 「そ、そんなわけあるか! わたしはアンタの味方なんか――!」 『ともかく興味ない。じゃ、忙しいから』  こだまの抗議も待たず、電話は切れた。  こだまはしばらくどうしたものか悩んだが、このまま外にいても仕方がない。和人の家はこだまの部屋からも見える。部屋に戻って様子をうかがう選択をした。  「ただいま」とリビングにいるだろう母親に声をかけ、呼び止められる前に部屋へと駆け込む。外にはさきほどのロボットの姿は見えなかった。今日はもう来ないのだろうか。  一時間が過ぎ、二時間が過ぎる。  いいかげん飽きたので、ベッドに転がって固まった身体と緊張をほぐした。 「ふぅ……」  和人を見張っているのは間違いないと思われるが、何が狙いなのだろう? 解放能力とやらが絡んでいるのも疑う余地はない。能力者を見張っている? けれど本は不特定多数に配布されたらしい。この街にどれだけの能力者がいるか知らないが、ピンポイントで捜せるものなのだろうか。 「こだま、ちょっとー」  階下から母親の呼びかけが聞こえ、こだまは跳ね起きる。 「なに?」 「さっきニュースでやってたんだけど、駅前の宝石店に泥棒が入ったみたいよ。犯人はまだ捕まってないらしいから、気をつけなさいよ」 「きのう駅に行ったときは何もなかったのに」 「深夜から明け方にかけてらしいわよ。学校から何も聞いてない?」 「ううん、ぜんぜん」 「いいかげんねぇ。ニュースにまでなってるのに生徒に報せもしないなんて、安全をどう考えてるのかしら」  母親の不満相手などしたくもないので、こだまは「わかった」と打ち切り、階段を上がった。  確認のため部屋の窓にへばりつく。やはり誰もいない。  かすかに見える和人の部屋を覗くと、彼は部屋で大小さまざまな箱を並べて睨みつけていた。解放能力とやらの特訓だろうか。 「もう今日はいいか」  こだまは深く考えず、自分の時間を満喫しはじめた。  そのころ、新宮家を離れた少女ロボットは駅前の人ごみにまぎれていた。黄色のテープで仕切られ、たくさんの人間が出入りする店を見つめている。  ガラス張りの自動ドアも内部のガラスケースも、傷一つなく綺麗なままだ。床に置かれた番号札のそばには、ガラスケースの錠が落ちていた。鍵穴をこじった形跡もない。 「能力使用、確認」  赤髪の少女はつぶやき、その場から立ち去った。目的地があるかのように、足取りにブレはなかった。  その日から毎日、こだまは和人を見張るロボット少女を眼にした。彼女は和人が家に着くと即座に尾行をやめ、街を歩きまわった。  こだまは彼女を追跡し、住処や目的を探ろうとした。が、毎回途中で見失ってしまう。 「今日も逃げられたー」  電話でグチをこぼす相手はもちろん和人だ。欠かさず謎のロボット少女追跡記録を報告しているのである。 『知らないって。どうしても気になるなら本人に訊けよ』 「訊いたわよ。でも、聞こえているのかどうかもわかんないんだもん」  彼女と出会って一週間が過ぎている。相手がロボットだという違和感にも慣れて、こだまは接触を試みていた。が、彼女のほうはこだまに興味を示さず、和人の動向だけをうかがっていた。そして何事もないと判断すると、あっさりと彼の元を離れていくのである。 『じゃ、あきらめろ』 「アンタ絡みのことじゃない。当人が他人事でどうするわけ?」 『ボクの邪魔さえしなければどうでもいい。それに――』 「なによ?」 『……こだまに話す必要はないな。それじゃ』  電話が切られる。いつもながら一方的だ。 「くぅ、ストレスたまるぅ! 和人もホントは気になってるんだ。だからここのところ大人しいんだわ」  頭よりも身体を使うほうに傾斜しているこだまには、今の状況はまったくもって面白くなかった。和人が騒動を起こし、ロボ少女がリアクションを見せるのさえ期待しているのである。  制服から着替えもしないままベッドに倒れる。枕元に常備されているテレビのリモコンを無意識に押していた。  夕方のニュース番組が映る。キャスターの無個性な声がこだまを跳び起こさせた。 『――市では、この一月ほどの間に八件の盗難事件が起きています。手口はいずれも裏口など人目のつかない扉から侵入、保管庫などを開錠して金品を奪っており、内部事情に詳しい者の犯行ではないかとの見方が出ています』 「開錠……。解放……?」  連想ゲームのようなヒラメキがこだまの頭に浮かび、切ったばかりの電話をもう一度つなげる。が、和人は取るつもりがないようだ。  「もうっ」携帯電話をカスタネットのように閉じ、部屋を飛び出る。  玄関を開け、歩道を走り、隣家の都合も考えずドアを打ち破り、和人の部屋になだれ込む。 「……を解放す――」  闖入者に向けて伸ばされる手よりも速く、こだまの蹴りが和人を吹き飛ばす。 「遊んでる場合じゃないの! さっきのニュース観たっ?」 「み、観てません……」  ベッドに頭を突き刺したまま和人は答えた。 「アンタの他にもそのヘンテコ能力者がいるのっ。しかも犯罪者!」  目前の性犯罪者は置いておき、こだまが指摘する。 「……盗難事件のこと?」 「何よ、知ってるんじゃない」 「ずいぶん前から騒いでるじゃないか。あの手口を聞いたとき、すぐにわかったよ」 「なら――!」 「どうしようっての?」  「うぐ」こだまは言葉につまった。ベッドから這い起きる彼を睨みつける。 「もちろん、その、捕まえるとか……」 「ボクには捕まえる理由がない。それに、どうやって捜すんだ?」 「それは、その……」  冷静な言葉にこだまは沈黙する。たしかに犯人が解放能力者だとして、なぜ犯人探しをする必要があるのだろう。義務でも責任でもない。単に犯行手口のカラクリを知っているだけの一市民に過ぎないのだ。正義感ゆえと言えなくもないが、それはこだま自身の問題であり、和人には関わりはない。 「よしんば犯人を特定できたとしよう。でも、捕まえるのは至難の業だ」 「……どうして?」 「拘束できないからさ」 「え?」 「相手は解放者だ。どうやって拘束するんだよ」  「あー!」こだまは得心の叫びをあげた。  和人の指摘を裏付けるように、その男は警察の追跡を振り切っていた。家賃五万五千円の築三五年風呂なし二階建てアパートの一室で戦果にほくそえんでいた彼は、警察からの唐突な訪問を受けた。  小暮昭雄、三八才。独身、無職。不景気な顔でパチンコと酒だけを頼りに生きていた男が、急に金まわりがよくなり、借金を一度に精算したとなれば勘繰りたくもなる。ましてやクラブで豪快に金をばら撒くようでは、疑えと言わんばかりだ。  何より、防犯カメラの映像から割り出した外見もほぼ一致していた。過去七件にはなかった決定的証拠が、今回に限りはっきりと残っていた。まるで、誰かが作為的に彼を陥れるかのように。  小暮は扉をノックされたときから嫌な空気を感じていた。獲物を隠し、持ち出せそうな宝石と現金をポケットに突っ込んで、ドアを開ける。  見慣れたくもない警察の身分証を提示され、内心で舌打ちした。 「同行をお願いできますか?」 「どういうワケで?」 「ここのところ頻発しています、窃盗事件について少々……」 「ふ〜ん」  無関心を装い、小暮は部屋を出た。  三名の刑事に前後を挟まれ、任意同行に従うフリでアパートから離れる。待機していたパトカーまで数メートルを残して、小暮は走り出した。  当然のように追ってくる刑事たちに、小暮の解放能力が発動する。  和人がこだまにしたのと同じように、服を剥ぎ取り、靴ヒモをほどく。  複数の対象をまとめて解放した速さは和人にも劣らない。突然のことに転倒する追っ手を尻目に、小暮は揚々と走り去った。  彼は過去、転々とした職場で必ず暴言を吐かれていた。  『頭のいい役立たず』と。  他にも『自己中心的天才肌』『口だけ男』『無器量不器用』などがある。その言葉は的確に彼を表しており、それが災いしてか世間に馴染めず、今のような生活を送るようになっていた。  が、ほんの一月前、あの本を手に入れてから世界は変わった。自分の望む世界へと。自分が中心になれる世界へと。 「この力があれば、オレはどこへでもいける。何でもやれる」  「ザマァミロ!」と天に唾する小暮の前に、メタリックレッドのスポーツカーが停車した。 「乗れ」 「お、悪いな」 「誘ったのはわたしだからな」  小暮は相手の笑みを受け、「そうだな」と乗り込む。  もう追っ手の姿は見えなかった。 「いや、助かった。逃げるのは難しくないが、楽に越したことはない」  運転席の青年に、小暮はおどけて見せた。 「ああ。わたしとしても捕まっては困る。まだまだ先があるのだから」 「だよな。まだまだ稼げるぜ。この能力は天がオレに与えた贈り物だ。いや、そうするとアンタがオレの神様ってことか。感謝してるぜ、いい物をくれてよ」 「なに、わたしもキミのような人材に会えてよかった。この能力を使いこなせる人間はほとんどいないのだから」 「ま、これでもオレは天才だからな。解放能力なんてパズルだと思えば楽勝よ」  上着をまさぐり、タバコに火をつける。車内に紫煙が広がった。  「……っ」青年の顔が曇る。小暮は気付いて、手の中のタバコと見比べた。 「タバコはダメだったか? 悪いがこの一本だけは見逃してくれ。安堵の一服だからな」  小暮の笑い声に、青年も表面上微笑んでみせた。 「緊張をほぐすのは悪いことではない」 「さすが相棒だ。……で、どこへ行くんだ?」  車は山に向かって登り続けていた。人目を避けるため、県越えをするつもりだろうか。 「この先にわたしの別荘がある。そこでしばらく様子を見ようかと思っている」 「なるほど。なんなら宿泊料を払うぞ? ……なんてな」  シラフで酔っ払いのようなことを平気で言う。相当に気分がよさそうだ。 「いや、それには及ばない。その金はキミの物だ。好きに使うといい」 「そうか? いや、悪いなぁ」  ますますご機嫌になる小暮の耳に、かすかなつぶやきが聴こえた。 「……解放」 「え?」  瞬間、二人の身体に急激な横Gがかかる。山間道路特有の急カーブだった。  青年はスピードを乗せたまま、ハンドルを切る。身体ごと吹き飛ばされそうな勢いは、シートベルトによって守られていた。  青年だけは。  小暮のベルトは外れ、あろうことかドアも大きく開いていた。 「お、おい、まさかぁ!」  一秒もせず、小暮の声も姿も消えていた。深い崖に重い物が転がっていく音がしたようだが、青年は気にもとめなかった。 「さて、次の被験体のところへ行くか」  青年は車を停止させ、扉を閉める。小暮という存在は、もう彼の記憶から消えていた。 「能力者、確認」  山道を見下ろす展望台に、赤髪の少女が一人たたずんでいた。    3  連続窃盗事件の容疑者が逃亡中とのニュースが流れ、数日が過ぎた。容疑者は未だ発見されず、街には警官の姿が増えていた。それでも人々は普段の生活を繰り返し、何事もないように暮らしている。  そんな中、今まで沈黙を守ってきた新宮和人が動き出す。こだまの意識は謎のロボットに傾いており、今こそ本懐を果たすときだと確信していた。 「この日のために黙々と特訓してきたんだ。ボクならやれる。ボクならやれる。ボクならやれるぅ!」  学校へ一番のりした和人は、作戦を実行すべく屋上へ上がる。ヘッドマウントの双眼鏡を装備し、校門を凝視した。 「距離、一五六メートル。風速……関係なし。ターゲット発見!」  和人の指が目標を捕らえた。不幸な第一号は、同クラスの人気ランキング三位、古賀好美だった。 「古賀好美の制服を解放する!」  まさに瞬間芸であった。脳裏に浮かぶいくつかの錠がコンマ数秒で解かれ、同時に古賀好美の制服が滑るように身体から離れていった。 「ぐれぃとぉ!」  予想通りの結果に、和人は拳を握る。解放能力は目視可能の対象にならば発動する。その仮定は立証され、また解放速度も段違いに上がっていた。何より、美少女のヌギヌギだ。熱狂・完勝・大爆笑である。 「また新宮なの!」 「神キター!」 「秋穂こだまはどうしたの!」 「新宮がんばれー!」  校門から怒声と歓声が響く中、和人は次の獲物を嬉々として探した。 「見つけた。一年B組・相川みどり。学年ランキング二位の大物……」  和人が指先を彼女に伸ばす。あとは一言、解放を唱えればいい。 「相川みどりの制服を――」 「能力者、能力使用確認」  万感を込めて打ち出されるはずであった魔法の言葉がとまる。  和人が振り返ると、赤髪の美少女が立っていた。和人は動揺もせず、双眼鏡を外した。 「やっぱり、監視なのか?」 「……」  彼女は答えない。 「ボクは興味ないんだけど、こだまが知りたそうだからあえて訊く。キミの目的は?」 「……」 「ボク自身はとても感謝している。あの本はとても興味深く、かつ有用な技術だ。そう、魔法や超能力の類ではなく修練しだいでは誰もが身につけられる技術だ。これを考えた人間をボクは心から尊敬する」  大げさだが、偽りのない言葉を送る。けれど彼女の表情は崩れない。 「不特定多数への本の配布は、能力者を量産するためだろう? そして監視をするのは覚醒した能力者を研究するためか、能力が世間に及ぼす影響を調べるため。どれをとってもまっとうな実験とは思えない。でもさっきも言ったように、ボク自身はそんなのに興味はない。答えるつもりがないなら、せめてボクの気づかないところで観察してほしいんだけど」 「……おまえは、その能力をどう使う?」  まばたきすらしない黒い瞳が和人を見据える。表情はないのに、威圧感すら発しているようであった。  和人は突然の質問にも動じない。 「見ての通り、ヌギヌギしてもらうためさ」  激しく格好悪いセリフを、ポーズをつけて言い放つ。 「そうか。不思議なものだな、個体によってそうまで意識が異なるとは」 「他の能力者とも話したのか?」  和人は『個体によって』という言葉に引っかかりはしたが、言及しなかった。  彼女は質問に応じない。 「おまえは観察対象から外す。底が知れた」 「ボクは観察する価値がないということか。むしろ願ったり叶ったりだ」 「……」  彼女は長い髪をなびかせ、綺麗なターンできびすを返す。 「最後に一つだけ。キミの名前は?」  赤髪が再度振り返った。 「名前……? 種の識別用途に使われる記号のことか」 「いや、できれば種じゃなくて個体別のほう」 「種別名称ではなく、個別名称が必要なのか?」 「名前がないと呼びにくいだろ。キミに関わるつもりはないけど、必要になるときがあるかもしれない」 「興味深いな。なるほど、おまえたちはやはり『個』なのか」 「……?」  今回ばかりは和人も首をかしげた。まるで彼女は人間を一くくりで考えていたような口ぶりだ。ロボットにとっては『個人』など必要のない概念なのかもしれないが。 「そうか、わたしもまた『個』として扱われるのだな。だが、わたしに名前はない。好きに呼ぶがいい」 「じゃあ、赤髪ロボ子」 「わかった。今後同様の質問をされたときは、そう名乗るとしよう」  「マジか……」冗談半分につけたものが通ってしまった。自己のセンスのなさを疑い、激しく後悔したが、ロボ子は意外と喜んでいるように見える。 「アカガミロボコ。ふむ、個体らしくなった」 「あ、あのさ……」 「能力者としてのおまえには興味はないが、種の一部としては興味が出てきた。シングウカズト、いずれまた会うこともあろう」  ロボ子は颯爽と屋上の縁まで進み、柵を越えて飛び降りた。  和人は慌てて追うが、地面にも周囲にもすでに姿はなかった。 「……ロボットじゃないのか。なんなんだ、彼女は」  ロボ子同様、和人もまた彼女自身に興味が湧いてきていた。  古賀好美を公衆面前で脱がせた罪により、こだまから鉄拳制裁を六ダースほど喰らった放課後、新宮和人は駅前をぶらついていた。神秘系美少女ロボット・赤髪ロボ子がいるのではないかと考えて。 「この前はいなかったよね?」  当然のようにこだまが隣を歩いている。口を滑らし、赤髪ロボ子について話してしまったのが運のツキだった。 「市内を騒がせた窃盗事件の最後も駅前だし、他に手がかりもないしな」 「ふぅん。急に気になりだしたんだ? ロボットだけどかわいかったもんね」  こだまの声にはトゲがあったが、和人は気付かない。 「可愛かろうが人外に興味はない。胸もなかったし」 「あ、そうなんだ」  こだまが明るい返答をする。もちろん和人は変化を感じない。 「ただ、ロボットと考えると納得いかない部分が多々あって面白い。調べてみたくなるだろ?」 「ぜんぜん。『技術の進歩はスゴイね』で終わり」 「これだからこだまは……」 「それって差別だからね」  言い返すのも面倒になり、和人はこだまを無視して周囲を探った。が、目立つ赤髪は見えない。 「いないみたいね」 「……」  真剣な表情でロボ子さんとやらを捜す和人に呆れ、こだまは少し離れたガードレールに腰を預けた。カバンの中からとっておきのチョコ菓子を出して咥える。 「今度はロボットにハマリましたか……」  眼をギラギラさせてチョコマカと動く彼を視線で追い、付き合ってる自分も自分だと肩をすくめる。 「なぁ、そろそろだろ?」  二本目のチョコ菓子を口に運んだところで、若い男性二名が目の前を通過する。 「予告だとこのへんだよな。ホントに起きるのか?」 「騙されるのは承知の上だろ。けど、実際おきたら祭りだぜ」 「だな」  二人は携帯電話を取り出し、操作をはじめた。カメラ機能だろうか。 「……なんだろ」  声の届く範囲から遠ざかった二人の背中に疑問符を投げかける。と、別の声が聴こえた。 「ここでしょ? あの掲示板にあったヤツ」 「そうそう。ほら、あそこ、画像そっくりじゃん」  今度は近くの高校の制服を着た女子三人組だった。彼女たちは携帯電話を広げて周囲の風景と見比べている。足がとまっているため、会話は筒抜けだった。 「一六時だっけ。あと三分」 「でもさぁ、あの掲示板、ウソ情報満載じゃん? それに本当だとしたら警察動いてんじゃないのぉ?」 「ないない。あんなバカなカキコ信じるほうがムリだって」  どうやらこのあたりで何か起きるらしい。しかも警察が動きかねない事件が。こだまはチョコ菓子を無造作にしまい、和人を捜した。 「あれ、いない」  先ほどまで目の前をウロウロしていた彼の姿がない。慌てて携帯電話を取り出し、和人にコールした。  呼び出しはするが、出る気配はない。 「まったく、さっさと出てよ……」  留守電に切り替わったのを確認すると、一旦電話を切る。そして再びコール。 「時間じゃん?」  側にいる女子高生三人組の声に顔をあげる。  すると、ロータリーのほうから多くの驚きが起こった。  自動販売機の外カバーが開き、缶ジュースや小銭が勢いよく転がり出している。  続いて周辺の店の扉が一斉に開き、ガラスケースや箱から次々と商品がこぼれ、レジがお金をばら撒く。  パチンコ店では銀玉と札がなだれを起こし、ファミレスのドリンクバーが色とりどりの液体を噴きだしていた。 「なに、なに、なんなの……?」  呆然とするこだまをヨソに、女子高生たちが甲高い声ではしゃいでいた。 「マジぃ? ホントに起きたよ!」 「スゲ、お金落ちてるよ! 早く拾おうよ!」 「駅前で事件が起きるってこういうことだったんだ!」  全速力で駆けていく彼女たちの言葉を反芻し、こだまは落ち着いて考える。こんなバカげたことができるのは、解放能力しかない。駅前のあらゆる物を開き、騒乱を起こす。何が狙いかは見当もつかないが、彼女たちが言っていた掲示板とやらに書き込んだ人間は能力者だ。和人を含め、ロクな人間ではないだろう。  このとき、こだまの頭には今回の件に和人が関与している、という考えはなかった。和人の興味外だからである。 「だから電話に出ろっての。能力者が近くにいるのに!」  騒ぎはますます大きくなり、道には降ってわいたお金や商品に群がる人たちの喝采に溢れていた。近隣の店は今日の売り上げに嘆くことだろう。誰もがそうと知りつつ、店と無関係な人間は小銭をかき集め、札を跳びつかんで歓喜している。さらに酷いところとなると、火事場泥棒さえ起きていた。人の醜さを目前にして、こだまは吐き気さえ覚えた。  人の波は道路にも溢れ、交通機能も麻痺してしまった。交番に詰めていた警官がハンドスピーカを持ち出して事態の収拾を図ろうとするが、金銭が絡んだ群集にはまるで効果がない。  こだまは人ごみを避けて移動しながら、和人へのコールを続けた。五度目にしてようやくつながった。 「……ああ、やっと出た! 和人、何してんのっ。タイヘンだよ!」 『わかってる。みんな目の色が変わって危ない。合流もできそうにないから一人で帰れ』 「うん。和人もすぐ逃げるのよ。アンタ要領悪いんだから、気をつけて」 『大丈夫』  こだまは電話を切り、駆け出した。異様な熱気に包まれた人々の隙間を抜け、役立たずになった信号を渡り、発狂寸前の警官の怒号を背にして、とにかく逃げた。 「解放能力って何なのっ? 和人も本気になればこれくらいできちゃうってこと?」  そうなのだろう。彼は自分の変態的趣味にしか力を使わないだろうが、もし悪意に向かえば、これ以上の事件だって起こせてしまう。どんなに堅牢な保管庫も能力者の前には薄紙同然なのだ。大金庫だろうと、兵器や細菌の保管場所だろうと簡単に開けられる。もし、そんな物騒な考えを平気で実行できる神経の持ち主がいたら……  こだまは頭を振って思考を停止させた。今はまず、身の安全を確保してからだ。  彼女と同様に、一変した街に危機感を抱いた人たちがいた。その波に乗ると少しだけ安心できた。少なくとも皆が皆、欲に駆られる人間ではないとわかったから。  安堵したこだまの眼に、光が差した。偶然なのか運命なのかはわからないが、それがこだまに彼女を気付かせた。  光はビルの屋上から伸びていた。太陽光がガラスか鏡に反射して輝いたようだ。 「あれ、誰かいる……?」  光から逃げ、そこに立つ人物に眼を凝らす。赤色の長い髪がなびいていた。 「あのコ……!」  こだまは逃げるのも忘れ、彼女目指して駆け出していた。  同じ頃、和人は不審な少年に眼をつけていた。  騒ぐ群集に混じるでもなく脅えるでもなく、平然と歩みを進めている。この状況でも落ち着きはらえるのは、能力者くらいなものだ。  和人は面倒に巻き込まれぬうちに帰るつもりだったが、自分以外の能力者に興味がないわけでもない。  年齢は二、三年上だろうか。地味な半そでシャツにジーンズ姿。外見はやや痩せ気味で猫背。学生だとすれば目立たない一生徒と評される容貌。  彼は人波を抜け、ブランドショップを見つけると足を止めた。 「やるのか……」  和人のつぶやきを肯定するように、次の瞬間、暴動を恐れ閉じかけていたシャッターが物凄い勢いで開いた。続いてガラス扉、ケース、レジ、在庫倉庫が一斉に開放され、商品や売り上げが転がり落ちていった。  新たな獲物に群がる人々。  少年は嘲笑い、そして寂しそうな眼をした。  和人とは別の視点で少年を見つめるモノがいる。赤髪ロボ子はビルの屋上で能力者の動きを観察し、周囲の動向を記録していた。  騒動を起こした少年は、彼女の願望に近い能力の使い方をしていた。良い記録である。少なくともシングウカズトなる人間よりは能力者として面白い。  少年は観察されているのにも気付かず、哄笑した。 「いいぞ、所詮世の中なんてのはこんなもんだ。自分さえよければいいのさ。この浅ましい姿が人の本質なんだよ」  顔を歪ませ、少年は嘲る。 「学歴? 友人? そんなの無駄なんだよ。今、この場でそんなのを大切に思ってるヤツがいるか? みんな金しか見えてない。稼いだ金を取り戻すことしか考えてない。そうさ、理想や道徳なんて、何の役にも立たないんだよ」  佐伯孝次は大学受験を控え、ストレスを抱えていた。有数の進学校に入学して三年、自分の限界を知り落ち込んでいた。中学までは学校一の秀才であったが、高校に入学してからは中位にすら届かなかった。努力も報われず、支えてくれる者もなく、ただひたすらに勉強をしてきた。結果は伴わず、両親は『努力が足りない』『がんばれ』と声を大きくするだけ。  何もかもがイヤになったある日、校門に落ちていた本を拾った。  何人もの生徒が踏みつけていったみすぼらしい本が、彼にとっての救いになった。  『解放』の言葉が彼の心を軽くした。解放されたかった。重圧からも、順位からも、閉鎖された自分の小さな世界からも。  解放能力というマンガのような力が使えるようになったとき、彼は知りたくなった。両親や教師が語る『世界』が真実なのかを。学歴が低いとロクな仕事にも就けず、立派な人間にはなれない。友達とは助け合うもので、信頼にたる友人をつくるには自分も信頼される人間にならねばならない。偉そうに、恥ずかしげもなく言い放っていた。  今、目の前にいる人間たちは庶民だ。両親のいう立派とは遠うかもしれない。だが、大多数が庶民である以上、この光景は統計的に無視できない人間の姿なのだ。 「これが現実なんだ!」  佐伯孝次は満足しながら街を闊歩し、目についた店という店を開放しまくった。そのたびに商品が転がり、金が舞う。そして罪悪も感じず群集に流され、餓鬼のように飛びつく人間たち。 「みんながやっているから自分もと、自己弁護が働く。それはすでに思考と理性を持つものの考え方ではない。そう、これが……!」  孝次は当初の高揚感が失せ、唾棄したい気分になってきた。軽い気持ちで匿名掲示板に犯行予告を書き込み、反応を見たときと同じだった。 『マジでやれよ?』 『ツーホーしますた』 『神キター』 『どうせかまってちゃんのウソ予告だろ』 『現場ドコー?』  ロクな返信がなかった。誰も本気にはせず、面白さだけを期待している。とめるつもりなんてない。誰かを親身になって助けようなんて思わない。自分に被害がなければよい。そんなコミュニティー。  無論、孝次も期待はしていなかった。匿名で書き込まれるイタズラ予告に、本気になるほうがおかしいのだ。そうとわかっていて、彼は片隅で期待していた。 「つまんね……」  すべてに落胆した少年は、駅前を離れた。背後の騒ぎからできるだけ遠ざかりたかった。  いつの間にか走って裏道を抜けた先で、赤い高級車が急停止する。 「はじめまして、佐伯孝次くん」  運転席の青年が、薄い色のサングラスを外して声をかけてきた。 「……誰だよ、アンタ?」  孝次は反射的に身構える。 「キミに本をあげた者だよ。拾ったろ、解放能力の本」 「アンタが……」  孝次の警戒が緩んだ。本の存在を知り、自分を知っているのなら半ば共犯である。勝手な心理ではあったが、彼はそう信じた。 「とりあえず乗りたまえ。ここじゃ話もできないだろ」  孝次はうなずき、車に乗り込んだ。自分の足で走るより何十倍も早くこの場を去れるだけでも乗る価値はあった。このままずっと遠くへ行ってしまいたいと漠然と思うのは、彼がまだ少年である証であった。  全速力で目的地に辿りついた秋穂こだまは、数度の深呼吸をして彼女に近づいた。  ロボ子はこだまの接近にもかまわず、下界をジッと眺めている。騒乱は落ち着きつつあり、人々は足早に散開をはじめていた。後ろめたさと罪から逃れるための行動であるのを、ロボ子が理解しているのかはわからない。 「能力者、移動。トレース開始」  「待って」脇を抜け、屋上から去ろうとするロボ子の腕をこだまは捕まえる。 「わたしは秋穂こだま。前に一度会ってるでしょ? 新宮和人の家の前で」 「……ああ」  ロボ子は振り払おうとした手を下ろし、こだまに正対した。 「少しでいい、話を聞いて欲しいの」 「おまえは解放者ではないな」 「う、うん。でも、だからこそあなたに言いたいことがあるのっ」 「ふむ、聞こう」  ロボ子は興味を持ったらしく、こだまにつめよった。 「お願い、解放能力とかいうの、やめさせて」 「……理解不能。やめさせるとはどういうことか?」 「えと、能力を使えなくして欲しいの。できればなかったことにしたいくらい」 「一度学んだ能力を忘れるに、人間の脳は単純ではない。能力者が自らの意思で使用しないというのなら、それは能力者に問うべきことだ」 「つまり、あなたからは何もできないってこと?」 「そうだ」  こだまはいきなり手詰まりに陥った。解放能力を広めたのが彼女であるなら、彼女にならば能力を失わせる術なり技なりがあると思っていたのだ。 「でも、このままじゃみんな狂っちゃうよ。解放能力が無差別に発動したら、この街だけじゃなく、日本中……ううん、世界中おかしくなっちゃう」 「おかしくなるとは?」 「あなたも見てるでしょ? みんながお金や物を等価もなく奪っていく姿。これが広まれば、誰もまともに働かなくなってしまう。社会が崩壊して、無秩序な世界に変わってしまうの」 「社会……。人間の生活を根本から支える秩序というものか」 「解放能力は個人が持つには無責任で強すぎる。和人みたいに趣味に走るくらいなら可愛いもんだけど、今回のような大きな犯罪にだって転用できてしまう。だから、これ以上の騒ぎになる前に何とかしないといけない」 「ふむ」  ロボ子は無表情な顔を逸らし、考えるしぐさをした。人間のフリを学習しているのだろうか。 「アキホコダマと言ったな。良い話をしてくれた」 「それじゃ、どうにかしてくれる?」 「それはまた別の話だ」 「ちょっとぉ!」 「わたしは強制しない。わたしは観察者だ。社会が崩壊するというのなら、それが人間の望んだことだ」 「ごく一部の望みが全体の望みじゃない!」 「おまえの望みもまた、全体の望みとは限らぬ。わたしの目的は人間を知ること。この星の生物でもっとも異端なるモノを理解すること。わたしの興味はそれだけだ」  赤髪ロボ子は軽く跳躍し、隣接するビルの屋上に降り立った。 「待って!」 「アキホコダマ、多くの意思の一つ。他の意思をとめたいならば自らで行うがいい。わたしはただ見届けよう」 「何様のつもりよぉ!」  こだまの絶叫を聞き流し、ロボ子はビルからビルへと渡っていった。  屋上に残された彼女は、唯一の相談相手へと電話する。 『どうした?』 「なんなの、あのロボ子って。人の話をまともに聞こうともしない!」 『会ったのか?』 「うん。このバカ騒ぎを何とかしてって頼んだのに、見てるだけだって。フザケンナァ!」 『怒鳴るなよ。とりあえずウチに来い。こだまが興味持ちそうな写真が撮れたから』 「わかった」  相変わらずの飄々とした態度に苛立ちはあったが、ここで叫んでいてもどうにもならない。  電話を切り、こだまは消えたロボ子の影を探した。けれどもう、どこにも見えない。  眼下では何台ものパトカーが集結しつつあり、人々は面白がって見学を決め込んでいた。中には突然の祭りに便乗し、落ちていた現金や商品を着服した者もいるだろう。もしかすると熱が冷めて返還を申し出る人もいるかもしれない。けれど大半は何事もなかったような顔で高みの見物をしている。カバンを慌てて開け閉めするスーツ姿の中年男性も、大笑いしながら友達とハンバーガーショップに向かう女子高生も、自転車でさっさと現場を離れる子供連れの主婦も…… 「なんでみんな、平気でいられるんだろ……」  こだまは自分の素朴な疑問に、胸が痛くなった。    4  駅前の事件は特番としてテレビで放映された。被害にあった店主や、リポーターに囲まれて面白おかしく答える若者、ヘリから俯瞰された街の様子があわただしく流れていた。  「こんなの許していいわけ!」こだまはテレビを指して和人に食ってかかる。 「元はといえばそのロボ子が蒔いた種でしょ? それを自分で何とかしろって無責任すぎじゃない?」  こだまの怒りは理解できた。和人もまたそう思わないでもないからだ。だからといって和人自身は能動的にどうにかするつもりはない。第一に面倒くさく、第二に自分に被害が及んでいない、第三に解決策がないからだ。 「実際、ロボ子の協力が得られないならどうしようもない。犯人は特定できるかもしれないが、抑える術がない」 「犯人を知ってるの?」  こだまが驚いて和人に迫る。  和人は圧力を感じ、顔を背けて携帯電話を取り出した。 「こっちの少年が解放能力者だよ」  赤い車に乗り込もうとする少年と、運転する青年の横顔がはっきりと写っていた。 「なんでわかったの?」 「能力を使うところを見た」 「その場で叩き伏せなさいよね!」 「ボクにできるわけないだろっ」  「虚弱ゥゥゥゥ」こだまが歯を食いしばって唸る。 「ま、いいわ。ともかくこの写真を持って警察に――」 「行っても無駄。証拠もないし、解放能力なんて信じてくれない」 「だよね」  今回ばかりは和人が正しいとこだまも思う。 「彼の暴走を止めたいなら、自力でやるしかないよ」 「って、なんでアンタは他人事なのよっ」 「他人事だし。前に言ったとおり、捕まえるのは不可能。気を失うまで殴り倒し、深い穴の底にでも落とさないかぎり逃げられて終わり」 「むむぅ。近くに古井戸あったかしら……」 「本気で考えるなよ。というわけで、これでお手上げ」 「ちょっと、それでいいわけ?」 「何度も言うけど、ボクらじゃどうしようもないんだって。それともこの二人を捜す? 捜してどうする?」 「……むぅ」  こだまは反論できない。写真はあるのだし、駅前で聞き込みをすれば彼らを特定できるかもしれない。が、そのあとはどうしていいかわからない。今回の事件も、シラを切られたらおしまいなのだ。  「けど――」無理、無駄、無謀、無策、無茶であろうと、こだまはあきらめきれなかった。能力者のせいだとしても、それに便乗して自己の欲求を満たし、高笑いする人たちを許す気にはなれなかった。その裏でどれだけの人が嘆いたか、考えるだけで怒りが湧いてくる。 「わたしはイヤだ。このままになんかできないよっ。放っておいたらこの先もっともっと酷いことが起きる。他の能力者だって真似をしだすかもしれない。とめなきゃいけないんだよ、こんなふざけたことっ」 「……」  拳を握り震える彼女を、和人は複雑な想いで見つめる。彼女は昔から変わらない。正義感が強く、楽しいことが大好きで、悲しいことに素直に泣き出す。感情丸出しのバカでお人好しのままだった。  「まぁ、いいけどさ」と、少女と長年過ごしてきた少年は、あきれたように息を吐いた。 「なによ?」 「いや、まぁ」  あいまいに答え、和人はパソコンを立ち上げた。インターネットにつなぎ、有名な大型掲示板を呼び出す。 「こだまの話を総合すると、この掲示板に犯行予告が出され、みんなそれを見てあの駅に集まった。だとすれば、また何か書き込まれているかもしれない」 「……手を貸してくれるの?」 「犯人には興味ないけど、ロボ子には興味がある」 「うんうん、さすがだね。なんだかんだでアンタいいヤツだよ」 「おまえ、こういうときだけだな」 「普段から真面目な生活をしてくれれば、ずっと褒めてあげるよ」 「フン」  和人は鼻を鳴らし、マウス操作を続けた。実況板に駅前事件のスレッドが立っていた。書き込みが多いらしく、すでに三二番目の板らしい。 「ふーん、こういうのあるんだ。うわ、なに、この顔文字。ヘンな日本語だし、みんな頭悪いの?」 「こういうノリなんだって。年齢も性別も職業も関係なく、みんな素の自分ではしゃぎたいんだ」 「なるほど。こういうところでしかストレス発散できないんだ。世知辛い世の中だね」 「オバアチャンか、おまえは」  マウスホイールが高速で回っていく。和人は一気に読み進め、過去ログや関連スレッドも洗っていく。もはやこだまには追いつけないレベルなので黙って見守ることにした。  一五分ほどが経過して、和人の手が停止する。 「……有益な情報はないな。祭りの戦果を自慢したり、犯人を煽ったりする書き込みばかりだ」 「そう。でも、今回ので味をしめたとすれば、また予告するよね?」 「まぁ、人が集まらなければ騒ぎにならないわけだし。でも……」  和人はふいに思い出した。能力者の少年がブランドショップを開放したとき、彼はたしかに哀しげな顔をした。後悔なのか落胆なのか、和人にはわからない。けれど自分の行いに対して自信を持っていたわけではないだろう。だとすれば、もう事件は起きないのではないだろうか。 「でも?」 「いや。しばらくは掲示板を張ってるよ。何かわかれば連絡する」 「うん、ありがとね」  無邪気に微笑むこだまに和人は顔をそむける。無防備な人間は苦手だった。 「ね、考えたんだけど、この掲示板にさっきの写真貼れば人物の特定とかできない?」 「……は?」 「書き込みしてる人たちって、現場にいたんでしょ? だから知ってる人がいないかなって」 「いや、まぁ、いるかもしれないけど、やめたほうがいい」 「どうして?」 「こんなところで個人情報を流すのはよくない。もし特定されて彼の名前や家がわかったとする。そうすると面白半分で乗り込んだり、イタズラする人だっている。家族や近所を巻き込むのは本意じゃないだろ?」 「あ、そうか。じゃあ、やめ」 「とりあえず待つしかない。後手に回るけど、どうしようもない」 「うん」  和人の本音を言えば、このまま何事もなく事件は終わって欲しかった。解放能力の危険性から鑑みるに、この程度すんでよかったとすら思っていた。もし能力を一〇〇パーセント発揮したなら、国家レベルの事件だって起こせるからだ。そう考える一方、そこまで行われる可能性の低さに楽観もある。和人が予測する最悪のシナリオを実行するには、狂人レベルの精神力が必要だからだ。恐ろしくてできない、そういうレベルだった。  佐伯孝次を乗せた車は市外の高級ホテルに到着した。青年に促されるままスイート・ルームに通され、呆然と外を眺める。 「落ち着いたかい?」 「え、あ、はい、どうも……」  差し出された缶ジュースを受け取り、青年を見つめる。付いてきたものの、迷いは晴れなかった。 「解放能力は――」  「は、はい?」ぼうっとしていたため、青年の言葉に驚き、缶を落とす。フタは開けていなかったのでシミは広がらなかった。 「すみません、工藤さん」  転がった缶を拾って渡してくれた青年に礼をいう。工藤は安心させるように微笑んだ。 「まずは飲むといい。脳が疲れているはずだ」  工藤の眼が一瞬だけ厳しくなった。缶のプルトップが手もふれずに開き、甘い匂いを立ち昇らせる。  孝次は工藤に従いジュースを呷った。染み渡る冷たさと甘みに、安堵の息が吐き出される。 「解放能力とはすごい物だろ? 胸の痞えがとれたんじゃないか?」 「あ、はい。ムシャクシャしてた気持ちが発散された気がします。でも……」 「うん?」 「虚しくもなりました。あんなことをしたって何かが変わるわけじゃない。あそこで金品をかき集めるバカなヤツらと、それを見て喜んだ自分は同じだって」 「……」  孝次は自分の言葉を胸中で反芻し、確信したように熱弁した。 「理想が欲しいわけじゃない。清廉潔白な自分とか、綺麗な世界とか欲しいわけじゃない。世界はつまんなくて、人間は醜くて、自分勝手でワガママで、どうしようもないんだってわかってて……!」  孝次の手のアルミ缶が音を立てて潰れた。残っていたジュースが溢れ、彼の手を濡らす。  ベタつく手から缶を放し、テーブルに置いた。 「でもあれは、人の姿じゃない。あんなものになりたくてオレはがんばっていたのかと思うと、なんか無性に悔しいんだ」 「そうか……」  工藤に差し出されたタオルで孝次は手を拭った。湿り気はとれたが、ベタつきは拭いきれない。心中と同じで、何かが落ちて、何かが残っている。 「工藤さんはどうなんです? 解放能力を使ったときの気分は?」 「わたしはキミほど大げさに使ったことがないから何とも言えないな。ましてや他人を巻き込んだりしていない」 「それじゃなんでオレを連れてきたんですか? オレのことを気にかけたからじゃないんですか?」 「気にはかけているよ。わたしの本を拾った相手なのだからね。だが、それ以上ではない」  「え?」孝次は工藤の笑みに陰を感じ、一歩退いた。 「キミは解放能力で実験をしたのだろ? 人の本質とは何かを知りたくて」 「……はい」  受験や交友関係に悩み、のしかかる重圧の正体――社会の構図を知りたかった。教師や両親の言葉の真実を知りたかった。それは人の本質だ。彼らが語る立派な人間とは何か、存在するものなのか、孝次は知りたかった。だから多くの人間が求める物欲をエサに試してみた。だが、結果は……  落胆する孝次の肩に、工藤は手を置いた。 「わたしも知りたいんだ、人の本質を。それを知った上で、わたしは未来を構築する」 「未来……ですか」 「そう。人が根本から腐っているなら淘汰し、マシならば生かす。わたしたちはその選別ができる能力者なんだよ」 「そんなの……」 「試してみるかい? 解放能力の真の使い方を」  孝次は工藤に見据えられ、指先すら動かせなくなっていた。暗転する意識の奥で、封じられていたカギが音をたてて開いていった。  夜、掲示板を適当に流していた和人は、新たな事件予告を七つ見つけた。場所は日本全国バラバラで時間もまちまちであった。  うち二つは一時間もせずに消されたが、どうやら警察に通報されてあっさり身元が判明したらしい。掲示板情報なので本当かどうかは確認しようもないが、ともかく和人は残りの五つを検証しだした。  五つのうち、少なくとも一つは本物の犯行予告と断定して行動するつもりであった。しかし和人は、その書き込みを犯人が書いたものとは思っていない。  理由はこうだ。今の段階でネットに書き込むのは人物特定の危険を伴う。回避する方法もあるだろうが、そこまでして自分で書かなくとも面白がる人間はいる。現に七つもあがった。だからこの予告はぜんぶ能力者じゃない一般人が、事件を期待して書いたものだろう。  和人はマウスをクリックして掲示板を随時更新する。新たな祭りに盛り上がるだけで、犯人特定のヒントはない。 「だけど、否定できない可能性もある。例えば五つすべてが本物であること。解放能力者は全国にいて、昼間の事件を模倣しようとしているとか。……だとしたら、こだま一人がいくら奮戦しても焼け石に水だな」  和人自身は未だに乗り気ではない。勝算もなく、抑止意欲もないからだ。熱血潔癖純情派の幼なじみがやる気になっているので、仕方なく手を貸しているだけだ。 「可能性を考えたらキリがない。ともかく写真の彼が現れそうな場所へ行くとするか。おあつらえ向きに電車で三駅の場所が予告にあがっている。ここに的を絞ろう」  考えるのが面倒になり、和人は結論だけをこだまにメールした。すぐに彼女から「なんとしてもとめようね!」と意気込みを感じる返信が届いた。  前騒動から二四時間も空けず、和人とこだまは現地の繁華街にいた。  書き込み犯の特定ができなかったのか、やたらと警官の姿が目立つ。ロータリーにはマスコミ関係者が中継車を待機させていた。そしてその数十倍にも及ぶ人間が、事件を期待してたむろしている。 「すごい人ね」  人波に押しつぶされ、こだまはアタフタしていた。 「店の多くはシャッターを降ろしているな。実際に騒動が起きたら今日一日分の損害じゃすまないだろうし、当然か」 「他の予告現場も似たようなもんみたいね」  こだまは駅ビルに設置されている巨大モニタを見上げる。どこかのテレビ局が借りたのか、ワイドショーを放映していた。話題はもちろん昨日の事件と、これから起こるだろう事件のことだ。  作られた深刻な表情を浮かべるリポーターの背後で、無邪気にピースサインを並べる若者たちが映っている。カメラを前にはしゃぐ彼らに、事の重大さはまるで感じられない。 「なんでみんなそんなに気楽でいられるんだろ。困る人がたくさんいるのに」 「他人事だからな。むしろ自分たちにとっては利益になる。だから無邪気にもなれる。そんなもんだよ」 「とめなきゃ。絶対にとめる」  こだまの決意は、刻一刻と迫る予告時間へのカウントダウンにかき消される。  二人は歩道橋に上がり、上から能力者を捜した。  「あ!」残り時間が三〇秒を切ったとき、こだまの声が一オクターブ高くなる。和人の袖をひき、斜め上を指差した。 「あのビルの変なオブジェのところ」 「ロボ子……?」  ビルの屋上に飾られた、不定形な銀色のオブジェクトの上にロボ子が立っていた。 「やっぱりここに能力者がいるんだよ。……和人?」 「ボクは彼女に話がある。こだまは彼を捜して。ただし、見つけても一人でどうにかしようとは思うなよ」  和人が人の渦に巻きこまれながら遠ざかる。  「うん、わかった」こだまは三六〇度監視を再開した。気ばかりが焦る中で、カウントダウンはついに完了する。  大歓声があがった。  何かが起きると期待する人々の熱狂は、だが、数十秒後には収束に向かっていた。 「なんだよ、何も起きねーじゃん」 「おいぃぃ、金、降らせろよ!」 「せめてそこのショップだけでもぉ」  不満者の声は大きいが、自ら率先して暴動を起こす気概はないようだ。  リポーターは真剣に実況中継をしているが、取り囲むスタッフには落胆顔が多い。スタジオのキャスターも、「何も起きてはいないですか?」と繰り返すばかりだ。  反面、彼らを厳しい視線で睨んでいた警官たちは、あからさまな安堵の表情で状況確認を行っている。 「よかったぁ……」  こだまは気抜けして歩道橋の柵にもたれた。駅ビルのモニタに映し出される他の予告現場も、今のところ動きはなかった。  視線をあげる。  ロボ子は変わらずヘンテコ・オブジェの上を陣取っており、微動だにしない。和人はまだ到着していないようだ。  しかし、変化は始まっていた。皆がカウントダウンを終えた瞬間から、彼は実行していた。それが表に現れるまで時差が生じたのは、解放能力の発揮される規模があまりにも大きかったからである。 「キター!」 「すげぇ、シャッター全開じゃん!」 「突撃ぃ!」  局所地震を彷彿させる地響きをたて、人間という獣が走りだす。前にいる者を突き飛ばし、殴り倒し、転倒者を踏みつけ、飛び越え、欲望を隠す素振りもなく目的地へと突っ込んでいく。  見える範囲のすべての店が閉ざされた門を開き、カギを外し、中身をさらし、おののく従業員の姿を見せていた。  警官の怒声は抑止力にもならず、リポーターは待ってましたと言わんばかりに絶叫する。  金欲に溺れた餓鬼たちの狩猟場と化した街で、こだまは戦慄を覚えた。 「ダメだよ……。こんな、ダメだって。やめなよ、やっちゃいけないよ。ねぇ!」  目の前を通過しようとする女子高生の服をつかむ。 「あんだよ、テメ、放せよ!」 「ダメだって。悪いことなんだから、やめようよ」 「うっせ、死ね!」  「うぁっ」彼女の持つスポーツバックがこだまの横顔を殴りつける。こだまの手が離れると、彼女は「バァカ!」と言い捨てて走っていった。  こだまは呆然として、しゃがみこんだまま歩道橋の柵の隙間から街を見つめる。  店のシャッターは強制的に開かれ、閉じる気配はない。従業員が突き飛ばされ、暴徒が店内の品を手当りしだいかき集める。  商品は落ちているわけではない。店員が配っているわけでもない。店に展示してあったものだ。お金は開放されてレジから落ちたかもしれない。けれど、店の中にあるのだ。にもかかわらず、人々はさも当然のように奪い去っていく。  強盗ではないか。  開放されたのをきっかけにして、集団略奪をしているだけではないか。  みんなだってわかっているはずなのに! 「大変な事態になっています。この街は暴徒と化した市民による略奪行為が始まっています。警官が必至に食い止めようとしていますが、数の暴力には抗えない模様です」  冷静な女性リポーターの生の声がこだまにも聴こえる。すぐそばで実況をしており、その姿は駅ビルのモニタにアップで映っていた。 「とめなきゃ、こんなバカなこと……」  こだまは我知らず走りだしていた。みんなきっとわかってくれると、無知な子供のような純粋さを疑いもせずに。  息を切らせた和人に気付いても、ロボ子は振り返らなかった。彼女の目的は解放能力者の観察とその影響であって、能力を使いもしない少年に興味は抱けなかった。 「ロボ子、話が――」  訴えかけようとした和人は、地上に響く怒号と激しい揺れに気付いた。  屋上の縁まで走り、下を覗き込む。  暴徒の群れが走り、叫び、暴れ、混沌とした街に悪意を糧にした人の渦ができていた。 「いくらなんでも、これは……」  理性のタガが外れているとしか思えない。もしくは誰かが扇動しているのだろうか? 「まさか!」 「心の解放」  頭上より聴こえた少女の声に、和人が顔をあげる。澄ましたままの赤髪ロボ子がこちらを見ていた。 「解放能力の正しい使い方を、サエキコウジは理解しているようだ」 「サエキコウジ? 能力者の名前か」 「……」  ロボ子は肯定も否定もしない。和人も確認はしたが、ロボ子がウソをつくとは思っていない。 「店だけでなく、人の理性まで解放したってのか。ここにいる全員のカギをたった一人で……」  能力者だからこそわかる凄さがある。和人は試そうとも思わなかったが、心を解放するのは、制服のボタンを外すのとは比べ物にならない。人には意識があり、抵抗力がある。踏み込まれたくない心の領域がある。それをあっさりと解いてしまったのだから、サエキコウジは和人とは比較にならない能力者であり、狂人だった。 「違う。サエキコウジが解放したのは数名のみだ。それに被解放者はこの状況をはじめから望んでいた。願望を後押しされた程度に過ぎぬ」 「なるほど。願望を抑える理性は強くない。むしろ自らカギを開けたいはず。それなら難しくはないか。そして先陣を切る者がいれば、あとは簡単につられるわけだな」 「『個』であるはずの人間も、こうなれば『集』だな。ふむ、生物の姿だ」  人間のように深くうなずくロボ子に和人はいぶかしむ。 「おまえが見たかったのはこの光景なのか?」 「これも一つではあろう。答えを出すには、まだ材料が足りない」 「答え?」 「アキホコダマにも言ったはずだ。わたしは人間を知りたいだけだ」 「え?」 「知るためにわたしは観る」 「止める意思はないんだな」 「ない」 「それはこの先もか? こだまに言ったように、社会が崩れようが人間が死に絶えようが傍観を続けるのか?」 「うむ」  彼女の返事に、下界の歓声が重なった。和人は屋上の柵に顔を寄せ、何事か確認する。どうやら標的となる店が追加されたようだった。 「おまえは何なんだ?」 「何とは?」 「ロボットなのか生物なのか、なぜそんなに人間を知りたがるのか、なぜ解放能力なんてものを知っていたのか、いろいろぜんぶ含めて何なんだ?」 「ではおまえは何なのだ? 人間とは何だ? なぜ知りたがる? 解放能力は特別な力ではなく、おまえたちが気付かなかった技術に過ぎぬ。ではなぜ気付かなかったのか?」  畳み込まれて、和人は返答に詰まった。 「シングウカズト、今一度問おう。人間とは何だ? 答えを得ればわたしの興味も薄れ、研究も終わりとなる。そのときはおまえたちに協力することも考えよう」 「人間とは……」  和人は考える。何だろう? 哲学者の言葉を並べてみようかとも思ったが、自分が信じていない言葉は自分にとってのウソである。説明しても相手が納得するはずもない。そもそも相手はロボットだか何だかわからない物体だ。普通の言葉だってまともに届くとは思えなかった 「……ボクにはわかりそうにない。考えたこともない」 「そうか」  ロボ子は興味を失い、和人から下界に視線を移した。  無視された和人は「だから嫌なんだ」とつぶやく。面倒くさい。やってられない。なんでボクが必死にならないといけないんだ。バカらしい。くだらない。こだまなんかに乗せられて―― 「こだま?」  人嫌いの天才少年は柵に張り付き、二人でいた歩道橋を見下ろす。こだまはまだ、そこにいた。思いもかけない行動に出て。  彼女は街の実況をしていたリポーターに駆け寄り、マイクを奪った。  そして叫ぶ。 「みんな、やめてぇ!」  駅前ビルから流れたこだまの叫びは、悲壮感に溢れていた。その場違いさが耳障りであったのか、暴動が一瞬だけとまった。 「やめようよ、こんなの! おかしいよ、ゼッタイ!」  唖然とする人々は、駅ビルのモニタに映る一人の少女の姿を眼にする。  リポーターがこだまの手からマイクを取り戻そうとするが、彼女は抱え込むようにして言葉を続けた。テレビカメラは二人をそのまま撮影し続ける。 「こんなのまともな人がやることじゃないよっ。みんな困ってる、辛い思いしてるよ。わかるでしょ、冷静になってよ!」  こだまの声に落ち着く者がいたとして、数は少ない。むしろ興ざめして舌打ちする者や、あからさまに反感を叫ぶ者のほうが多かった。大半はこの騒乱を楽しみにしていた者であり、安っぽい正義感やお涙ちょうだいを振りかざされては憤りが先にたつ。 「バーカ、なに語ってんだよ、ガキ!」 「はいはい、正義正義。カッコイイね」 「キミ、いくらー?」 「テレビ局で雇われたんだろ、がんばれー」  嘲笑と侮蔑の的にされ、こだまは真っ赤になって涙を浮かべた。それでもマイクを放そうとはせず、震えながらも一歩踏み出した。 「フザケンナ、コノヤロー!」  肺活量のすべてを解放して、こだまは叫んだ。 「本当にわかんないの? きのうと、今と、どれだけの人が苦しんだのか、困っているのか、ぜんぜんわかってあげられないの!」 「わかんないねー」  ヤジが飛び、便乗する一団をこだまは睨む。 「自分たちのしていることが恥ずかしくないわけ? 周囲に流されて、たくさんの人に迷惑かけて、それでいいと思うわけ?」 「そのとぉーりー」  別の場所で爆笑が起きた。  こだまは歯を食いしばる。言ってもわからないヤツは本当にわからないんだ。殴って、力づくで身体に教え込まないと反省なんかしない。でも、だからこそ…… 「言ってわかる人間になってよ!」  巨大モニタを見上げる全員がキョトンとした。続いて周辺を覆いつくす笑いが起きる。 「満足に説得もできなくなったのかよ。どーする、おい?」 「あーあー、泣き出しちゃった」 「子供の理想はイタイね」 「この番組、全国ネットだろ? 恥ずかしい」  こだまが涙を見せたのは、恥ずかしさゆえではない。悔しさだった。それもバカにされた悔しさではなく、自分の心を伝える術がわからず、空回りしている自分自身へのものだった。もっとうまく伝えたい。わかってもらいたい。それだけなのに、自分はなんてバカなんだろう。言葉すらうまく扱えない。そんな自分が情けなかった。  孤立した少女に心苦しさを覚える人もたしかにいた。しかしそれ以上の悪意が、彼女を嘲笑い続けた。 「マイク、返してね」  女性リポーターが気遣うように優しく伝える。こだまはあきらめて、手を緩めようとした。  かすかな振動。  ポケットの中のそれが震えていた。  無造作に携帯電話を取り出し、通話ボタンを押す。 『メチャクチャでも、支離滅裂でも、こだまの言葉は必ず届く。だから思ったまま言えばいい。ボクが聴いている』 「和人……」  一方的に言い連ね、電話は切れる。 「何よ、いつもいっつも、わたしの言葉なんて無視して突っ走るくせに……!」  こだまは目許を拭い、携帯電話とマイクを握りなおした。 「ロボ子、よく見ておけ。たぶんこれが人間だ」 「ふむ」  ビルの屋上で、新宮和人と赤髪ロボ子は歩道橋に凛と立つ一人の少女を見つめた。  少年は知っていた。  彼女こそが解放者であることを。  数年前のあの日、少年の心を解放してくれた少女は、今もそこにいる。 「わたしは勉強が嫌いです」  再び立ち上がった少女の一言目は、誰にとっても意表をついた。「自分語りキター!」のツッコミも、やや遅れている。 「正直、連立方程式とか化学反応式が将来役に立つなんてとても思えません」 「オレもー!」 「実際役に立たねーよ」  こだまの視線は泳がなかった。彼女の眼は、もっと遠くを見ていた。 「それでもクイズ番組なんかで答えられると嬉しかったりするし、わからない問題を友達と唸りながら解くのも楽しいと感じるときがあります」 「あー、それはあるな」 「でもやっぱり勉強は嫌いで、テスト前は最悪な気分になります。そうまでして勉強して、わたしは将来どうしたいんだろうなんてよく思います」  共感する学生がうなずいていた。同じなんだ、と、こだまは感じた。 「将来の夢なんて、何にも知らない幼児が無邪気に答えるもので、今のわたしにとっては訊かれて困る質問の上位に食い込みます。小さい頃はそれなりに夢もあって、ケーキ屋だとか看護師だとか好き勝手に言ってました。お嫁さんなんてのもありましたが、今のところ相手のいないわたしにはそれこそ夢のまた夢です」  小さな笑いが起きる。  「オレがなってやろうか!」というヤジも、こだまは笑って返せた。伝えたいことは一つ。それがわかった今、彼女の意志はブレない。誰が何を言おうと、どんなに笑われようと、幼なじみの少年が見てくれているから。  暴徒と化していた人々は、いつの間にか巨大モニタに映る彼女に注目していた。彼女の言葉に引き込まれたわけではなく、周囲が静まり、自分から率先して動くことをためらったためである。先ほどまでの暴挙が流された結果であるなら、静寂もまた、流された結果である。  それに、突発的な自分語りをする少女の結末を見たいという欲求がないわけでもなかった。  そのイベントも、終幕を迎えようとしていた。 「……もし十年前に戻れるなら、と想像することもあります。でも現実には無理で、せいぜい今の自分を後悔しないようにがんばるしかできません」  薄く眼を閉じて、そっと眼を開く。今、生きているこの時間と空間を見据えて。 「わたしは、昔の自分が見て恥ずかしくない人間でいたいです。昔の無邪気な笑顔の前で、同じ笑顔を返せるような自分でいたいです。勉強もできない、夢もない、言葉一つうまく伝えられない自分だとしても、自分のやってきたことを笑顔で伝えられる自分でいたいです」  少女の言葉には重みも、強さもない。まさに理想を固めてハチミツをかけたような甘い夢想だった。  当然のように反感が飛び出す。 「フザケンナ、大人の世界はガキの妄想とは違うんだよ!」 「大人にはな、常に重圧がかかるんだよ。家族だとか、会社だとか、上司だとか。何かと言うと責任だ、社会的義務だと騒がれて疲れるんだよ!」 「子供だってそうだ。受験だ、いい学校だ、あれはするな、これはダメ、いいかげんウンザリだ!」 「甘いことが言えるのは安定した家庭に育ってるからだろ。ウチのように片親でボケたバーチャンがいるところで、笑顔だなんだって言ってられるかっ」  不満は伝播し、こだまはなじられ、嘲られる。  それでも少女はたじろがなかった。 「確かにわたしは子供で、厳しい社会なんてわかりません。両親も健在だし、生活苦ということもありません。それぞれに抱え込んでいる不満や辛さをわかるなんて言えません。でも、今、あなたたちのしていることだけはどんな理由があれ、いえ、どんな理由があったとしても絶対に肯定できません」 「う……」  こだまを批判した男は、手にしていたブランドのカバンを背中に隠した。他の批判者もこだまの視線に気がつくと顔を背ける。 「あなたは自分のとった行動を、胸を張って多くの人に語れますか? 乳児の小さな手に指を握らせて、笑顔で言えますか? たくさんの子供の前で、あなたの大切な人の前で、尊敬する方の前で、今の自分を誇れますか?」  静まり返る。反論をあげようとする者もいたが、弁明できない現実に声が出なかった。 「わたしは小さいころ、大人はみんな立派だって思ってました。大きくなるにつれ、少しずつ現実を学んできたつもりです。立派ではない大人もたくさんいるってわかりました」  喉が疲れ、唾を飲み込んだ。 「でも、落胆して、あきらめて、いつか自分もそういう大人になってしまうんだって認めたくありませんでした。だからわたしはわたしなりの理想を持ちました。悪いことを悪いと言える人間でいよう、昔の自分にまっすぐ向き合えるような大人になろうって」  テレビカメラが角度を気にして前方に回り込もうとする。  気付いたこだまは、自分からカメラの正面に立った。 「あなたは自分を誇れますか? 昔の自分が自慢したくなる大人になりましたか?」  彼女の笑顔は、電波に乗って日本中を駆け巡った。    5  こだまは歩道橋から降り、ヘンテコなオブジェを飾るビルへと走っていた。面白ネタを追いかけるリポーター陣を撒くのに、てこずっている。 「これで何が起きるのだ?」  ロボ子は首を傾げる素振りをした。たしかに騒乱は収まったようだが、少しずつざわめきは大きくなりつつある。しばらくすればまた略奪行為がはじまりそうであった。 「奇跡かもしれないし、暴動の続きかもしれない。どちらも人間の一面には違いない」 「奇跡とはなんだ?」 「……騒ぎを起こしていた人たちが改心するってことだ」 「ふむ、心変わりというものか。面白い」 「何でも面白いんだな、おまえは」 「うむ、だからこそ興味深い」 「それに振り回されるほうの身になれ」  こだまが聞いたら首を絞められそうな発言を平気で吐き出す。 「動いた」  和人はロボ子と並んで地上の様子をうかがう。彼らは手にしていた商品を本来あるべき店に返し、謝罪を繰り返していた。その後、金銭に余裕のある者は商品を改めて買いなおし、ない者は気持ちばかりの慰謝料を置いて去っていく。  無論、全員が改心したわけではない。後日の統計では、店に直接返品されたのが四割、商品を投げ捨てて逃げた例を含めると八割近くにおよぶ。残りの二割は、完全に持ち逃げされたこととなる。なお、前日の略奪行為の被害現場でも、ほぼ同比率の商品返還が記録されている。 「これが改心というものか。どういう変化なのだ? 彼らは欲を満たすために略奪行為に及んだはず。が、直後に理性的行動をとろうとする。人間の思考はわからない」 「人間というのは流されやすいものなんだ。周囲と交わろうとする意識が強いのさ。こだまの説得に反省した人が多く、つられるように自分も罪悪感を覚えた、そんなところだな」 「ふむ、『個』でありながら『集』を欲するか。面白い」 「気になってたんだが、その『個』というのは、人間一人一人が『個人格』を持っているという意味だよな?」 「そうだ。この星の生物でこれほど特殊なモノはない。一体一体が突出した個体である。種の一つであるにもかかわらず、なぜこれほどまでに『個』であるのか、実に興味深い」 「人が特殊?」  特殊だと言われればたしかにそうであろう。言葉と歴史を持ち、創作と制作をする生物は人間だけだ。 「種としての『個』は単なる数量であるが、人間という種だけは数量では収まらぬ。面白いではないか」 「えーと……?」  和人はロボ子の言葉を理解しようとしたが、考えがまとまらない。 「ふぅ、やっと着いた……」  全身で疲れを表現し、秋穂こだまがやってくる。  和人はニヤリとして携帯電話を振った。 「録画しておいたぞ」 「わー、消せぇ!」 「ボクが消してもどこかにはきっと残るさ。もしかすると動画共有サイトにアップされ、全世界にこだまの勇姿が流れるかもな」 「サイアク……」  本気で落ち込むこだまの肩を叩き、励ます。もちろんからかい半分である。 「ともあれ、もう今回のような騒乱は起きないだろう。あとはサエキコウジなる人物に接触しないと」 「誰それ?」 「写真の少年で今回の犯人。ロボ子が教えてくれた」 「ふーん」  こだまのロボ子を見る眼は冷たい。小一時間ほど説教したいくらいだった。 「ま、いいけど、そのサエキって人をどうやって捜すの?」 「……考えてなかった」 「アホ、ボケ、クズ」  神経が高ぶっているためか、こだまの言葉は容赦がない。  「捜すまでもない」二人のやりとりを無言で眺めていたロボ子が割り込んだ。  当然の反問をこだまがしようとする前に、「来た」とロボットは階段室に身体ごと向いた。  扉が開き、正気とは思えない眼の色をした少年が現れる。 「よくもオレの邪魔を……!」  佐伯孝次の殺気がこだまを貫いた。歯軋りし拳を固く握る少年は、写真の面影を残すのみでまるで別人のような形相であった。 「な、なに……?」  あとずさるこだまの前に、和人が立った。 「ロボ子、彼も解放されているのか?」  孝次のあまりの様子に和人はいぶかしんだ。解放能力で扇動されていた人々と同じ雰囲気がある。 「そのようだ。理性が跳んでいる。ためらいの感情もない」 「誰かに利用されていたってことか」 「……」  ロボ子の解答はない。彼女にとって興味のないことなのだろう。 「オレの、邪魔、しやがって。こんな世界、誰も、ウソばかりの世界、誰も……!」 「勝手に絶望するのはかまわないが、巻き込まれるのはゴメンだ」 「おまえも、おまえも、みんな思ってる! 理想なんてない。自分がよければいい。勉強も、仕事もしたくない。生きることすら面倒だと思ってる!」 「そんなこと!」  聞き捨てならず、こだまが飛び出す。孝次はさらに強い眼光で彼女を睨んだ。 「おまえの言葉はウソばかりだ。理想の自分、自分に恥ずかしくない自分、そんなのは綺麗ごとを並べて陶酔しているに過ぎない。自己満足だ。本当のおまえはどうなんだ? 本当に今の自分を恥ずかしくないと自信を持って言えるのか?」 「……!」  こだまは言い返せない。完全な自信なんてありはしない。自信とは、自分を揺るぎなく信じること。それは自身に課す問題であり、他者の眼から判断されることではない。が、人は他者の眼からの自分を信じてしまう傾向がある。こだまもまた、そうと指摘されれば揺らいでしまう人間だった。 「勉強できないんだろ? 頭悪いと将来ロクな仕事につけないぞ? その尖った性格じゃ結婚だって無理じゃないか? 両親はどうだ? 善人で完璧なのか? 父親は外で家族のグチをこぼしているんじゃないか? 生活だって本当に潤っているのか? 実は母親はパチンコ狂で借金があるかもしれないぞ? 友人はどうだ? みんなおまえの味方か? 陰では誰かにウザがられたりしてるかもよ? これでも本当に疑いないほど、おまえの世界は輝いているのか? なぁ!」  「そんなの……」根拠のない猜疑を並べただけであっても、根拠のない否定では対抗できない。こだまは少しずつ疑い、自分の世界が本当は歪んでいるのではないかと思いはじめていた。 「そんなのあるわけないだろ」  膝から倒れかけるこだまを和人は抱きとめる。孝次を睨みつける和人は、こだまでさえ知らなかった怒りの感情を表していた。 「言葉に解放能力を乗せたな。でなきゃこだまの図太い神経が崩れるもんか」 「おまえも能力者か。さてはおまえがオレの能力を打ち消したんだな?」 「打ち消す?」 「オレが理性を解放した扇動者のことだ。誰かが彼らを狂気から解放しなければ、暴動は収まるはずなかったんだ」 「ああ」  こだまを座らせ、和人は孝次と一対一で向き合う。 「そんな面倒なことするわけがないだろ。解放能力にも欠点はあるのさ」 「ほう」  感心したのは佐伯孝次ではなく、ロボ子のほうだった。無表情で興味津々という稀なしぐさで和人の解説を待った。孝次も同様で、攻撃的な動きを抑えていた。  和人は内心でニヤリとした。 「解放能力はたしかに解放できるモノなら何にでも有効だ。が、それは能力が発動される時点での形状のみだ。例えば、このカバン」  和人は自前のセカンドバッグを床に置いた。 「そのカバン、開けられるか?」  孝次に尋ねる。 「舐めるなっ。解放!」  挑発と知りつつ、孝次は解放能力でカバンのファスナーを瞬時に開けた。  和人は相手の力量を見極め、頭に刻み込んでおく。 「こうして開いたカバンに解放能力をかけたら、どうなると思う?」 「開く対象がないのだから、発動するわけがない」 「そう。ではあれは?」  和人は眼下のコンビニを指差す。 「自動ドアだ。まぁ、試す必要もないから要点だけ言おう。自動ドアを解放能力で開放しても、センサーを操作しているわけではないからすぐに閉じてしまう」 「それがどうした?」 「その差がわかるか?」 「……!」  孝次もロボ子も思考回路をフル活動するが答えを出せなかった。 「簡単だろ。閉まれば開けられる。それだけのこと。つまり、状態しだいで能力の結果は変化してしまうんだ。開いていたところが閉まってしまえばまた能力を使える。が、開きっぱなしなら能力は意味を持たない」 「当たり前だ」 「当たり前だが、これで能力はその時点の形状で発動するという証明ができた」 「それと扇動者の能力が解けたこととどう関係する? 彼らは能力を受けた。解放されたままだ。解けることはない!」 「まだわからないのか? 能力は発動時点でのみ有効なんだ。その後に変化があれば能力は意味を持たない」 「あ……」 「カバンのような物なら一度開ければ自らの意思で閉まることはない。でも自動ドアは閉まる。人の心も同じだ。常に変化するんだよ。解放能力は感情増幅器じゃない。変化に対しては役に立たないんだ」 「ほほう」  これもロボ子の感心だ。 「もしこだまがマイクを持って一喝しなかったら、彼らは現状維持のまま感情の変化もなく暴動を続けただろう。でもこだまが立ち、時間をかけて演説をした。つたなくて、みっともない言葉をダラダラと」 「悪かったわねっ」  和人への怒りによって解放能力が解け、こだまはツッコむ。  和人は彼女に軽く笑い、「でも」と続けた。 「だからこそ普通の人に届いたんだ。庶民の代表みたいな小娘だからこそ、夢とか理想を語ってよかったんだ。彼らもまた庶民で、かつては同じような夢を見た。それが心に響き、優しい感情を生み出せたんだ」 「……本気で言ってる?」  こだまの眼は半信半疑だった。和人がこだまを褒めたことは一度たりともなかったのだから、疑いもする。 「もちろん。こだまは解放者だよ。ずっと昔から天然の心の解放者だ」 「そ、そう?」  こだまは真っ赤になって顔を背けた。 「その証拠に、彼も解放された」 「え?」  和人にうながされ、こだまとロボ子は孝次を見る。たしかに、先ほどまでのまがまがしさが消えている。  それは本人も感じているらしく、穏やかになっていく自分に当惑していた。 「心は変化する。サエキコウジ、キミも解放能力から解放されたんだ」 「どうして……」 「こだまがやったことと同じだよ。長い時間をかけてワザと話をした。説明だけなら一言で済むところを、実験を交えて長々とね。考える余地を与え、気持ちをスライドさせたのさ」 「そういうことか」 「ああ、でもボクの予測は外れていたな。心の解放は永続的だと思っていた。実際そうであったらこんな怖い力はなかった。ハズレでよかったよ」  もし、永続的に心が解放されていたら? こだまは想像してみる。理性を失わされた人間は何をするだろう? 暴動・破壊・略奪、何でもありだ。道具を使い、数が多いだけに被害は留まることを知らないだろう。それこそ人類滅亡プログラムだ。 「さて、改めて話をするとしようか」  和人が孝次とこだまをうながし、仕切りなおした。  大通りを外れた駐車場に、赤いスポーツカーが停まっていた。防犯機能をリモコンキーで解除し、青年は乗り込む。 「なかなか興味深い結末だったな。解放能力も万能ではないということか」  ブラックの缶コーヒーを開け、一口含む。苦味だけが目立つ安い味だった。 「あの少女は能力者ではないようだが、行動を見るに能力自体は知っているのではないか? でなければ身体を張ってとめるわけもない」  思いつきを口にしただけだが、あながち間違っているとも思えなかった。第一、能力者がどれほどの数いるものか知りようはないのだから。 「背後に能力者がいる、か。面白い状況だな。使える人間であればいいが」  エンジンをかけ、クラッチをつなぐ。 「解放」  駐車ロックが外れ、車はスタートする。  次の実験はすでに決まっている。しばらくは解放能力の更なる可能性を研究し、成果はまたこの街で試すとしよう。あの少女が次も障壁となりえるか、楽しみであった。  佐伯孝次の話から工藤についての情報を得て、和人は重い表情をした。というよりも、イヤそうだった。 「なんかメンドくさそうな人だな。関わりたくない」 「メンドくさがるな! アンタがやらないで誰がやるの!」 「ボク以外の誰か」  「アホ!」こだまが蹴っ飛ばす。和人は柵の形のアザを顔に残すハメになった。 「だいたい、なんでボクなんだよ! ボクは警察でも正義の味方でもないぞ!」 「そのどっちもアテにできないからやるんでしょうが! ここまで関わったなら最後までやり通しなさいっ」 「最後までって……。解放者全員相手にしろってのか?」 「相手が悪なら」 「うわ、勝手なことを」 「できる人がやるしかないの。和人、アンタの力が必要なのよ。だからやろう。後悔しないために」 「……ボクの人生、後悔ばっかりだ。こだまに関わったばかりに……」 「何かしら?」  拳を鳴らす絶対君主から、天才少年は眼をそらせた。 「ふむ、解放能力者は常人をはるかに超える存在になりえると考えていたが、そうではないのだな」  ロボ子の面白くもない感想が聴こえ、和人が突っかかる。 「そもそもおまえのせいだっ。だれかれかまわず解放能力を広めるからこんなことになるんだっ。ボクにだけ教えてくれれば、今頃ウヒョーだったのに!」  「くたばれ」こだまが暴走する妄想少年の後頭部を殴る。 「でも実際、一部の人間が強すぎる能力を持ったらバランスは狂う。ロボ子さんの目的はいったい何なの?」 「前にも言ったはずだ。人間を知ること。それがわたしの目的」 「知るために何でこんな力がいるのよ? 観察したいなら黙って見てればいいじゃない」 「それでは情報が足りない」 「情報? なんの?」 「生物としての情報だ」 「生物……として?」  こだまが首を傾げる。和人と孝次も顔を見合わせていた。 「人間は特殊な種だ。生物として存在するにもかかわらず、生物として存在していない。実に面白い」 「えーと……?」 「その答えを得るのがわたしの目的だ。今回も答えは出なかった。……ふむ、動いたか」  ロボ子は屋上の縁に立ち、跳躍した。 「待ってよ、話終わってない!」 「アキホコダマ、おまえには期待しておく。次には答えを見せてくれ」 「お〜い!」  勝手な期待を残して、ロボ子は人ごみに紛れた。  彼女の疾駆する先には赤いスポーツカーがいた。素材としてシングウカズトと同じくらい面白い存在が、その中にいる。 「行っちゃった……。もう、なんて勝手なのよっ」 「ロボ子からうまく話を聞くのは難しいぞ。正直、何を考えているのかわからない。謎が多すぎる」 「気になるぅ〜」  こだまのイライラを放置して、和人は孝次に話を振った。 「で、キミはどうする?」 「ちょ、キミって……。いちおう先輩よ?」 「たかが三つ上なだけで敬う必要を感じない。というか面倒」 「ああ、いいよ。で、この先だけど、警察に行って、きのうと今日の騒動について話すよ」 「行っても無駄だよ。解放能力なんて信じてもらえない。タダでさえ解明に躍起になってるところに、そんな話を持っていったら逆に怒られる」 「そうかもしれないな。なら、きのうの掲示板への書き込みだけでも話してくる。証拠もあるわけだし」 「そうか。それはとめない。……今日の予告は、やっぱり赤の他人が?」 「ああ、便乗しただけ。スゴイな、そこまでわかったのか」 「難しくはないだろ」  「スゴイな」孝次はもう一度繰り返した。 「解放能力はどうするんだ?」 「もう使わないよ。家のカギを失くしたとき以外はね」 「あは」  ささいな冗談に、こだまが笑う。孝次は彼女に阻止されてよかったと心から思う。誰にも理解されないと決め付けていた暗い世界を大なり小なりみんなが持っていたとわかり、そして彼女の前向きな強さに救われた。だから、これからはがんばれる気がした。 「ありがとう、秋穂さん。それじゃ」  深く一礼して、孝次は屋上から出て行った。 「……お礼言われちゃったよ」 「それだけのことをしたからな」 「そ、そっか。えへ、わたしスゴイな」 「ああ、明日から楽しみだよ」 「なんで明日?」  和人は答えず、いやらしげに笑った。  明日を待つまでもなく、帰宅した瞬間からこだまの受難は始まっていた。 「ちょっと、こだま、どういうことなの!」  第一弾は母親の青ざめた顔だった。 「え、なに? どしたの?」 「こっちが聞きたいわよ! テレビに映って、ワケわかんないこと言って、お母さん恥ずかしいわ!」 「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」  リビングのテレビでは、まさにその場面が放映されている。駅ビルモニタとは映っている角度が違うので、別のテレビ局であろう。 『あなたは自分を誇れますか? 昔の自分が自慢したくなる大人になりましたか?』  星が流れ、キラッという効果音さえ聞こえてきそうな爽やかな笑顔だった。が、当人にとっては、顔を覆いたくなるほど恥ずかしい光景だ。 「あんな危ない場所に行って、しかもこれはなに? ちゃんと説明しなさい!」 「あ〜、え〜」  説明のしようがない。眼を逸らせて何とかやりすごせないものか悩んでいるところに、家の電話が鳴った。 「そこで待ってなさいよ」  母親が電話をとっている隙に逃げようとしたこだまだが、すぐに「待ちなさい!」と怒鳴られた。 「アンタによ! 何とかテレビの何とかだって言ってるけど」 「い〜〜〜? 何で家がわかったのぉ!」 「知らないわよっ。ともかく出なさい」  「う〜」唸りつつも、逃げ隠れできない状況に受話器を受け取る。 「もしもし……?」 『秋穂こだまさんですね? わたくし、木の葉ミックステレビの杉山と申しますが、今回の連続暴動事件につきましてお話を少々うかがいたく存じまして』 「あ、あの、けっこうです!」  一方的に電話を切る。  ふぅと安堵する間もなく、また電話が鳴る。 「こだま、アンタ出なさい!」 「え、ヤだよ。きっとまたさっきのトコだもん」 「違ったらどうするの? ほら、早くっ」 「……」  仕方なしに受話器を取る。 『もしもし、わたくし、日刊スポーツバンザイ新聞の滝沢と申しますが、この度のこだま様のご活躍について取材をさせていただきたくお電話を――』  ガチャン。 「も、やだぁ……」 「こっちもイヤよ。もう、電話線抜いてちょうだい。とりあえずカーテンも閉めて」  そんなアタフタに追われ、一日が終わる。いつもなら一九時には帰宅する父親も、メール一本送ってきたきり帰ってこなかった。 「そりゃ家の前まで報道陣がいたら帰ってこれないよなぁ」  ベッドで寝転がるも、まるで落ち着かない。友達からもひっきりなしに電話やメール攻勢だ。説明できないので「忙しい」を理由に話を打ち切っていた。  そうしてようやく落ち着いたかと思ったときに、和人から電話が来た。どうせまたからかうつもりなのだろうが、出ないわけにもいかない。 「……もしもし?」 『疲れてるな』 「あったりまえじゃない。わたしはアイドルかっつーの」 『よ、シンデレラ・ガール』  一夜かぎりのお姫様か。一夜で済めばいいが、これが続きそうならノイローゼになりそうだ。 「そんな嫌味を言うために電話してきたの? だったら切るよ」 『本気でまいってるなら、少しくらい気休めしてやるぞ』 「へぇ、珍しい。アンタがわたしのために何かしてくれるっての?」 『いや単に隣としてはウザったいんだ。だけどおまえが喜んでいるなら手出ししないでおこうと思って電話したんだ』 「ああ、そう。じゃ、好きにやんなよ。わたし疲れた」 『了解。一時撤退していただこうか』  電話が切れる。  こだまは不安を感じ、窓の側に寄った。外は少数だがマスコミがたむろしている。近所迷惑もはなはだしい。  と、外がにわかに騒がしくなる。 「なんだ、カメラのカバーが全部開いた!」 「ライトつかないぞ」 「ケーブル抜けてるわよ?」 「中継車のタイヤが全部外れたぞぉ」  蜂の巣を突付いたような騒ぎになっている。さすがに近隣住民もうるさく感じたか、怒鳴りこむ姿が多々見えた。  再び電話が鳴る。 「もしもし?」 『少しは気が紛れたか?』 「うん、ありがと。この調子で明日以降もお願いね」 『……』  電話の先でイヤそうな顔をする和人の姿が眼に浮かび、こだまは笑った。誰のせいでこんな目にあっているのかわかっていながらも、彼女はけっこう楽しかった。  翌日以降もこだまはマスコミにつきまとわれ、タレントとしてスカウトすらされた。 「あの笑顔、最高だったよ。『あなたは自分を誇れますか?』いや、可愛かったなぁ」 「……っ」  穏便に済ませたかったこだまも、さすがに恥ずかしさが頂点に達し、怒りさえ覚えた。  その直後に和人がスカウトの靴ヒモを緩めて転倒させたおかげで、彼はこだまの鉄拳を喰らわずにすんだ。こだまパンチを身体で知る和人としては、彼から礼の一つも欲しいところだ。  学校でも彼女の安息の場はない。  もてはやす友人と、なぜか敵視する一部の女子と、モノマネでからかう男子に頭を抱える。 「わたしにかまうなぁ!」  キレて怒鳴ってみたものの、効果はまったくなかった。こだまという女の子を皆はよく知っていたからだ。彼女は友人相手に本気で怒ったりしない。相手が新宮和人であってもその兆候があるのもわかっていた。優しくて朗らかで気のいい女子生徒。それがクラスメイトの認識である。  彼女の受難はこのさき一週間続くことになるのだが、もっとも困った事態は、総選挙で政権をとったナントカ党の代表が学校に来たことである。  今さら選挙活動でもないだろうに、彼はこだまと固い握手を交わして言った。 「あなたの言葉はわたくしどもの大きな希望となりました。我々、大人がきちんとした社会をつくり、あなたたち子供に未来を見せなければいけないと強く感じました。よい言葉ですね、『あなたは自分を誇れますか? 昔の自分が自慢したくなる大人になりましたか?』。これを新体制の謳い文句として掲げたいと思います」  内心でいくら「や〜め〜て〜」と叫んでも、多くのカメラに囲まれては「がんばってください」と硬質な笑顔しか返せないこだまは小市民だった。  ちなみにこのセリフは今年度の流行語大賞に選ばれることになるのだが、それは少し先の話である。  そんな一般少女のスーパーヒロイン報道も、一週間と持たずに廃れた。  はじめに政治献金と大手商社の騒動がもちあがり、次に元清純派アイドルの麻薬事件。三つ目に異常気象による大雨と洪水被害が各地で起きており、マスコミは日本全国あちこち走り回る忙しさに見舞われていた。  そんななか、街にはあるウワサが広まる。  バケモノが出たと――    6 「最近できたバイパスあるだろ、山のほうの。あそこで出たらしいぜ」 「民家を襲った二本足のヤツ? あれってサルだったんじゃないの?」 「違う違う。ボロの下着をつけていたって。で、食料と服を盗んで逃げた」 「なんだそれ? ただの浮浪者じゃん」 「ところがさ、体つきが人間とは思えなかったんだと」 「襲われた民家の主人は、クードって呼んでるらしい」 「なんだその名前。あの辺ならオシゲ岳付近だからオーシゲンとかじゃねーの?」 「いや、そのケモノが口癖のようにつぶやいていたんだって。『クードクード』て」  どこから流れてきたものか、その日、こだまが登校したときには怪物クードの話題でもちきりだった。皆、本気で信じているわけではないが、硬い社会派ニュースよりも学生には刺激的で好まれるのは当然である。  それについ先週も未解決の連続暴動事件が起きたばかりだ。次なるミステリー事件に期待を高めるのも無理からぬところだった。 「ま、わたしには関係ないからどうでもいいや。むしろ話題が変わってよかった」  鼻歌さえこぼれそうなご機嫌のこだまを、和人がからかう。 「さて、そう簡単にこだまに平穏が訪れるものかな」 「アンタがバカなことさえしなければ、わたしはいつだって平和よ」 「そうかい」  おざなりな返事をする和人に鼻を鳴らし、こだまは授業の準備に入る。平和が一番、このまま静かに暮らしたいわ、などと年寄りくさい願望はさすがに口にはしなかった。  不運なことに秋穂こだまには新宮和人という凶星がついてまわり、今回も巻き込まれるハメになる。  彼女の平和は数日も続かなかった。  赤いスポーツカーが街へ向けて走る。  ここしばらく、工藤は人目のつかない場所で解放能力の研究をしていた。解放能力が及ぼす精神的・肉体的変化調査と、自在に操るコントロールが主であった。山間部にある彼の別荘では連日若者の悲鳴が上がったが、訴える者はいない。完全防音の地下室は彼の聖域であり、被験者は周辺を眠れぬ夜に変えていた暴走集団である。地元住民は静かな夜を送れるようになったのを喜びこそすれ、彼らが消えたのを残念がる者はいない。  異常な研究は確実に成果を残した。すぐにでも実地試験をしたい衝動に駆られ、彼は急いでいた。  小暮昭雄が転落した山道を通り過ぎる。覚えていれば黙祷の一つもしただろうが、彼は小暮の存在を記憶に留めていない。無能者を脳に刻み付けるほど、彼の記憶スペースに余裕はなかった。  しかし、加害者は忘れても被害者は忘れない。それこそ怨霊になってでも復讐したい気持ちは残り続ける。  ドンッ!  ボンネットに何かが堕ち、くぼみを作った。  工藤は舌打ちして車を停めた。 「クドォォォォ……」  腹の底から響く声と同時に、ボンネットが叩かれ、凹む。  青年は飛び出し、車から距離をとって振り返った。  ボンネットを占拠していたのは二メートルを超えるゴリラのような体格の人型だった。 「クドォ、ようやく会えたぜぇぇぇ」 「……なんだ、コイツは」  服を着て話すことから人間と認識できる。が、スケールが違う。筋肉が異常に発達しており、パーツの一つ一つが常人よりも太く硬質だった。 「おいおい、ヒデェなぁ。かつての相棒をコイツ呼ばわりかよ」 「相棒?」 「もっとも、おまえはオレを道具にしか思ってなかったんだろうがな!」  ボンネットから跳躍し、怪人は工藤の前に着地した。 「どうよ、いい動きだろ? この力を手にするきっかけをくれたことは感謝してやるぜぇぇ」 「まさか」  工藤は目を見開いた。信じられない事例に、驚きと興奮が湧き上がる。 「そうよ、小暮だよ。よくもオレを殺そうとしやがったな。今度はこっちの番といこうか」 「小暮……。あの小悪党がなぜ」 「小悪党とは言ってくれるな。だが、今後は大悪党さ。おまえを殺したあとは、また好き勝手やるぜぇ」  小暮が青年の胴よりも太い腕を振り上げる。 「待て、どうしてそんな姿になったんだ?」 「あ〜ん? 死ぬおまえには関係ねーなぁ」 「死ぬのはかまわない。だが、これほど研究しがいのある素材は滅多にいない。是非教えて欲しい!」  工藤の眼は子供のように純粋だった。彼は命乞いをするつもりも、小暮の裏をかこうとも思っていなかった。好奇心がすべてを上回っていたのである。  小暮は工藤の様子に打算がないのを感じとった。純粋な願いであれば最期を前に叶えてもいい、と思ってしまう。そういう人間臭さは抜け切っていなかった。 「転落する瞬間、オレは思ったんだよ、このまま死ねるかってな。少なくともテメェに復讐だけはすると誓った。で、死を前にして物凄い集中力が発揮されたんだろうな。自分が堕ちていくのをスローモーションのように感じながら、一つ浮かんじまった」  小暮は自分の拳を握って見つめる。人間のものとは思えないほどのゴツくてデカい拳を。 「全身の筋力を解放すれば助かるんじゃないかってなぁ!」  拳が振るわれ、工藤の足元のアスファルトを砕いた。破片が飛び散り青年の頬を掠めたが、彼は動じなかった。 「人間は無意識に力をセーブしている。その解放した姿がこれだ。転落のダメージは最小限に抑えたものの、急激な肉体変化の反動で数日は動けなかった。動けねぇぶん、考えちまうんだよなぁ。この最強の身体を維持する方法はねぇかって。それからしばらくは地獄だったぜ」 「解放能力の効果は生物には永続しない。精神はもちろん、肉体もだ。わたしの実験ではそう結論が出ている」 「ハッ、おまえは人間の執念を知らねぇんだ――と言いたいところだが、これは執念の結果じゃねぇ。オレの研究結果だ」 「ぜひ聞かせて欲しい。頼む」  頭を下げる工藤に小暮は気分がよかった。それに殺すのはいつでもできるという自信が、余裕を生んでいた。 「おまえの言うとおり、オレの身体は転落直後には元に戻った。なぜかを考えたよ。得た答えは、解放能力は変化に弱い。解放された力も、新しい変化には対応せず状態維持できずに消える」 「そうだ、それをどうやって解決した?」 「……心はどうかしらんが、肉体ってのは勝手に定着する。知ってるだろ、細胞が身体の構成を覚えてるんだよ。だから毎日毎日教え続けた。急激な変化に身体が軋み、痛んでも、これが本来の形だと細胞に記録させたのさ」 「なるほど、代謝を逆手にとるわけか。すばらしい発想だ」  工藤は感激の動作としてパンと手を叩いた。心底から感心する男に、小暮は原型を留めない顔をニヤつかせた。 「それじゃ、くたばれ!」  改めて振り回される豪腕。外すはずのない距離からの攻撃だったが、手ごたえはなかった。空気が断裂し、風が唸りをあげる。 「な……?」  腕の通過地点に工藤はいなかった。それどころか先ほどまで自分がいた赤い車のボンネットに、彼は着地していた。 「言ったろ、研究したと。一時的な肉体解放はわたしにだってできる」 「へ、そうかよ。だが、外見に変化はねぇなぁ。ビビッてほんの少ししかパワーをあげてねーんだな? しかもおまえには短時間しか効果はねぇ」 「どうかな? 先ほどの講義はとても参考になった。すぐにでも活用できそうだ」 「バカが、定着には数日がかかる。おまえにその時間はねーんだよ!」  跳んでくる小暮をきわどく回避する。質量と速度と重力によって、工藤の車は大破した。 「やれやれ、これはもう廃車だな」 「おまえも同じスクラップにしてやるよ!」  次の攻撃も工藤はギリギリで避ける。小暮が青年を捕えるのも時間の問題だ。工藤の動きが鈍っているのはあきらかだった。 「そぉら、身体がもう悲鳴あげてんじゃねぇかぁ!」 「いや、計算どおりだよ」  直線的に伸びてくる小暮の拳を、一瞬だけ筋力解放された工藤の右腕が内に払う。身体の構造上、内側に払われると次の攻撃は難しい。  戸惑う小暮に青年の「解放」が届く。 「しまっ……!」  同じ能力者として、解放能力を使われたときの対処は即時可能だと自負していた。だが、一瞬の隙をつかれた。  その一瞬は、工藤にとっては一分以上の余裕と同じだった。 「……あ?」  しかし、小暮は正気を保ったまま違和感を覚えなかった。  五歩離れて立つ工藤に、怪人は不信の眼を向ける。 「キミの講義はとても役に立った。今回はこれで手打ちとしないか?」 「テメェ!」 「わたしはキミに能力を教え、裏切り、そして今見逃した。一回多くキミを助けている」 「フザケンナッ。納得できると思うか!」 「納得したほうがいいよ。今後はおたがいに干渉しないとすれば、キミはその力を自分のために揮える。だが、わたしの邪魔をしようというなら、キミは再び奈落に堕ちることになるだろう」 「……ッ」  小暮は二回り以上も小さな青年の眼に恐怖した。眼光が鋭いとか、殺気がこもっているというレベルではない。常軌を逸した狂気と理性を感じる。大きな野望を持ち、障害を力づくで排除しようとする意志の力だ。 「……へ、まぁいいだろ」 「理解に感謝するよ」 「一つ聞いておきたい。おまえは解放能力で何をしようってんだ?」 「人間の存在意義というものを考えたことはあるか?」 「あ? ねーよ。くだらねぇ」 「そうか、そう思うのも人間だな。しかしそれに意味を見出そうとするのも人間だ」 「我思う、てのがあったな。哲学者か、おまえは」 「哲学者を気取るつもりはない。わたしはもっと無粋だよ。気に入らなければ排除したいと考える俗物だ」 「なるほど、おまえには関わらないほうがいい。適当にがんばってくれや」  小暮は工藤に背を見せた。 「そうそう、一つだけ面白い情報をあげよう」 「ん?」 「街に下りればわかると思うが、一〇日ほど前、別の解放者が事件を起こした。それを解決したのも解放者だ。気をつけたほうがいいぞ」 「フン、能力者の街か。面白そうだな」  小暮は振り返らず、山に消えた。 「さて、自信過剰な男だ、きっとあの娘に接触するだろう。人間の偽善が上か、怪物の暴力が正しいか、楽しみにさせてもらおう」  ほくそえむ工藤は携帯電話を取り出す。今、彼にとっての重大案件は新たな足を手配することだった。 「我、思う……」  遥か頭上から見下ろすロボ子は、小暮の言葉をつぶやいていた。人間の存在意義に意味を見出そうとする人間がいる。ロボ子もまた同じであった。人とは何か、生物でありながら生物たる役目を担わない存在。ロボ子の研究はまだまだ中途である。  本日のこだまの充実した学校生活はほとんど終わりかけていた。和人を追って下駄箱で靴を履き替え、あとは五〇メートルもない校門から出れば終了だった。  それが校庭からの悲鳴で破られ、当然のように見に行ったのが運のツキである。  グラウンドで部活動に励む生徒たちが騒いでいた。 「なに、あれ?」 「プロレスラーじゃないかな」 「こんなところにいるわけないじゃん」  巨体を揺るがす男は、サイズがなかったのか窮屈なシャツとズボンを身につけ、手には写真週刊誌を握っている。かなり好意的に見て誰かの父兄と言えなくもないが、不審者の確率が圧倒的に高い。  怪物のような男は遠巻きにする生徒を見渡し、こだまに目をつける。写真週刊誌と何度となく見比べており、彼女は嫌な予感がした。 「まさか、ねぇ?」 「いや、どう見てもこだまを捜していたってカンジだね」  和人が楽しそうに言う。 「ちょっと、わたしあんな人知らないよ!」 「アイドルは大変だね」  そんな実入りのない会話をしているうちにも、超筋肉ダルマ男――小暮昭雄が近づいてきていた。 「おまえが解放者か」 「!」  二人は身構える。よもやそちら関係とは露ほどにも思っていなかった。 「わたし違うよ! 解放者はこっち」  鋭角的な動作でこだまは和人を指差す。和人はボケッとしただらしない顔で作り笑いを浮かべた。 「……ありえないだろ、こんなバカ面」 「ホントだってば! これでも『神童』だったんだよ? 高校の修業課程だって三歳で終わらせたんだから!」 「マシなウソをつくんだな」  三歳は言い過ぎにしても、和人は間違いなく『神童』で解放能力者だった。しかし、バカ面した和人に『天才』のイメージを重ねるのは誰にとっても難しい。  「この件だが――」小暮は週刊誌をこだまに突きつけた。例の連続暴動事件の記事と、彼女の活躍が綴られていた。 「わー、人の話を聞け!」 「おまえはどれやってこれだけの人間を解放した? ……いや、それはいい。おまえは能力者をどうするつもりだ?」 「どうするって……」 「正義の味方のつもりか? 利己的な能力者をことごとく排除するつもりなのか?」 「そりゃ、みんなが迷惑するような人はいなくなれって思うけど……」 「そうか」  小暮は遥か下の目線にいる少女を睨みつけ、拳を振り上げた。 「ちょっと……?」 「理想を振りかざし、英雄気分でいるヤツはぁ!」  力任せに堕ちてくる拳を、こだまはバックステップでかわした。機敏さのない哀れな和人が衝撃で吹き飛んでいる。 「何すんのよ! アンタ、何なの!」 「能力者だよ。おまえの大嫌いなクズと呼ばれる側のなぁ!」 「誰も言ってなーい!」  第二撃もなんとか回避する。 「……ようやく思い出した。この人、小暮だ」  転地逆さまのまま和人が声を割り込ます。 「誰よ、それ」 「宝石店連続窃盗事件の犯人。指名手配されてただろ」 「ウソ、こんな目立つ人が何で捕まんないの?」 「体格が別人だからだよ。パーツで絞って見ると、たしかに小暮だ」  和人が言うのなら間違いはないだろう。だとして、あの最後の事件からまだ二週間ほどではなかったか。プロテインを何リットル飲めばこうなるのだろうか。 「フン、隠すつもりもなかったが、よくわかったじゃねぇか。タダのバカ面じゃなかったか」  「いや、だからそっちが本命だってば……」こだまのささやかなツッコミは両者に無視された。 「こだま、気をつけろ。彼は解放者だ」 「あ、そっか」  改めて身構える。目的はわからないが、ともかく捕まったら最後だった。それどころか能力を使われたらこだまには防ぎようもないのだが、彼女は気がまわっていなかった。 「能力者同士じゃ防ぐ手立てが知れてるから勝負はつかねぇ。だがよ、体力なら圧倒的にオレのほうが有利だぜ。なぁ、アイドルさんよ」 「……」  小暮は決め付け、自ら縛りルールを作っていた。何もわからないこだまには助かるが、実際には勝機が数パーセント上がった程度に過ぎない。 「こだまー、警察呼んだからぁ!」  ありがたい友人の声。校舎から教師が、校門からは不審者目撃情報を追っていた報道陣が集まりつつある。 「そ、そうよ、ここで暴れたらすぐに警察が来るからね! マスコミにもバレて、大変なことになるから」 「今さら警察に何ができる? オレは無敵だ。この身体と解放能力があれば、誰にも屈せず生きていけるぅぅ」  それこそが小暮の望んだ人生だった。誰にも媚びず、頼らずに生きる。陰口を叩くしかできない無能な連中に合わせる必要もない。自分の有能さに嫉妬して正当に扱おうとしなかったバカ者どもに関わらず、好きに生きていける。 「オレの人生はここからはじまるんだぜぇぇぇ!」  陶酔し、大声で喚く小暮に、こだまは「またか」と言いたくなる。  なんで能力者って、こうも鬱屈しているのだろう。和人くらいバカになってるほうがまだマシだった。頭の中で甲高く鋭いキレる音がして、恐怖心が吹き飛んだ。 「……はいはい、スゴイスゴイ。小暮さんは偉い人ですねー」 「ん?」 「アンタ幾つよ?」 「はぁ?」  「38」和人がボソッと言う。小暮が睨むが、少年はそ知らぬフリだ。 「38ぃ〜? バッカじゃないの? アンタの人生、とっくに終わってんじゃん。いい歳してなぁにが『はじるまるんだぜぇ!』よ。マンガの読みすぎ」 「おまえ……!」 「青春を謳歌したいなら青春時代にしとけっての。夢を叶えたいなら努力しろっての。がんばってる人はいくらでもいるわよ? それがなに? 拾ってきた力で自分はスゲーって、アホじゃない?」 「小娘ェ!」 「人を下に見ないと生きていけないわけ? 自分は偉いって褒めてもらわないと自信もてないわけ? なにそれ、ガキかっつーの」  身体中を震わせ怒りを溜め込む小暮は、傍目には悪鬼であった。証拠に、報道陣も教師たちも、彼らを取り囲むだけで何もできなかった。  それでもこだまは凛としていた。小暮の眼を見て、まっすぐに立っていた。 「週刊誌、読んだんでしょ?」 「あ、ああ?」  小暮が週刊誌とこだまを見比べる。 「ならわかるでしょ。みんな不安なの。イヤなこともいっぱいあるの。でも、気持ち一つで優しくなれたりするの。アンタは納得できないかもしんないけど、みんなはわかってくれたから謝罪してくれたんだよ。あなたは何になりたかったの? どうしたかったの? その力がないと何もできないの?」  「出た、こだま節」和人のつぶやきが届いたわけではないが、マスコミもカメラをこだまに集中させていた。 「オレは……」 「大丈夫とか無責任に言えないけど、気持ち一つで変えられるものは確かにあるの。わたしだって変えたいものがあるし、変わりたいって思ってあがいてるよ。だからさ――」  急激にパワーダウンする小暮に、誰もが『こだまトーク第二弾』の見出しが浮かんでいた。しかし、かすかに聴こえた一言がすべてを変えた。 「解放……」  たしかに和人は聴いた。道路に停まっていた白い車が走り去る。遠目だが、運転手の顔は見覚えがあった。 「工藤……?」  少年の思考はそこで断ち切れた。周囲から悲鳴があがり、地面が揺れた。 「コムスメぇ!」  小暮の拳が地面を砕いていた。興奮状態で闇雲に攻撃を繰り返している。  こだまは逃げ回っていた。彼女にとっても予想外である。説得できるとは思っていなかったが、急に暴れだすとは考えていなかった。 「ちょっと、急になにぃ!?」 「理性が解放された。思考力も落とされてる。おまえの言葉を考えようとせず、ただ表面をなぞっているんだ。ガキにバカにされたと思ってるんだよ!」 「そんなぁ!」 「とにかく逃げろ。一撃で死ねるぞ」 「他人事かぁ〜!」  和人への文句もそれまでだった。こだまは本気で逃げ回るしかなかった。  急変し、生徒を襲う暴漢に教師たちは果敢に挑む。が、一瞬で跳ね飛ばされて終わった。  マスコミは興奮しながらリポートするだけで手を貸そうともしない。  もし追いかけられる人間が和人であったなら、とっくに惨劇となっていただろう。 「おまえに何がわかるぅ! 偉そうに説教か、そんなにおまえは偉いのか! 今のオレは人類の頂点に立つ男だぁぁ!」 「頂点に立つ人間が小娘の言葉に取り乱すんじゃないっ。冷静になってよ!」 「ウルセェ! バカにすんな、バカにすんな、バカにすんなぁぁぁ!」  類稀な運動能力を誇るこだまも、怪物相手では分が悪かった。しだいに疲れが現れ、きわどい場面も見られるようになった。  和人はある決心をして構えた。 「こだま、援護する。覚悟はいいか?」 「え、ちょ、覚悟ってなにぃ!」  逃げ回りながら反問するこだまに、頼れるはずの相棒は「まかせろ」とニコやかに親指を立てた。 「メチャクチャ嫌な予感がするんだけど……」 「要は意識を別に向ければいいんだ。それによって感情に変化が生まれ、解放能力は――」 「解説いらないから早くしてぇ〜」 「よし、任されたぁ! ――を解放する!」  和人の指針が小暮に伸び――たように見えてこだまをロックオンした。 「和人ぉ、アンタまたぁぁぁぁ〜!」  こだまの制服が弾けるように彼女の身体から離れていく。 「お、おおおおおお、久々に神キタァ!」 「これはどういうことでしょう、こだまさんがいきなり脱ぎだしました!」 「けしからん、実にけしからん!」 「こだまちゃん、恥は知ろうよ……」  「もぉ、ヤダぁ!」さまざまな感想が飛び交う中、下着姿のこだまが身体を隠して座り込む。  怪物と化した小暮は、動かなくなった標的に拳を上げる。  が。  小暮もまた動きをとめた。ヒクヒクと痙攣した直後、彼は失神した。  小暮昭雄、38才。彼女いない暦=年齢の彼は、実にシャイな男であった。  このアホらしい事件は全国放映され――もちろん放送後半はモザイク処理が成されている――、指名手配犯逮捕に貢献したこだまは、いろいろな意味でまたも一大ブームを築く。  車中でワンセグ放映を見ていた工藤は、あまりの結末に口をアングリと開け呆然としたが、それは彼しか知らない裏話である。    7 「しらない。もうしらない」  「新宮のお守りやめたの?」とクラスメイトに訊かれ、こだまはそう答えた。  小暮逮捕から、こだまは和人を無視するようになった。さんざん殴り飛ばしたが怒りは治まるどころか溢れ続け、金輪際の絶交を言い渡している。  和人は表面上普段と変わらず、朝に会えば適当にあいさつし、帰りは彼女とつかず離れずに歩いていた。  あれから二週間が過ぎ、マスコミも次の話題にさっさと移っている。にもかかわらず、背後の聞きなれた足音にすらこだまは過敏に反応した。 「ついて来ないでよ!」 「と、言われても方向いっしょだし」 「じゃ、先に行けば」  「はいはい」和人は素直に従い、こだまの脇を抜け先に進んだ。 「許すもんか、絶対許すもんか……」  彼女から漏れる呪文のようなつぶやきに、和人はため息が出る。 「助けてやってなんで怒られないといけないんだ?」 「そもそもがアンタの能力のせいじゃない」 「……」  会話終了。  一分ほど沈黙を保ち歩いていたが、和人がワザとらしく声をあげた。 「……ま、こだまの邪魔がなくなるならボクとしてはラッキーか。これからは何でもし放題だなぁ」 「しらない。わたしはしらない。関わっちゃいけない」 「……」  張り合いがなかった。 「そういや、最近ロボ子を見ないな。どうしてるんだか――」 「……」  聴いてもいない。  家に着き、こだまは幼なじみだった人間を無視したまま「ただいま」と玄関をくぐる。 「おかえり、こだま。今日は何もなかった?」 「うん、だいじょうぶ」  事件以来、過剰に心配する母を安心させる。わからないでもない。後にして思えば、少し間違えれば死んでいたのだ。和人といたばかりに、解放能力を知ったばかりに…… 「そう。あとでオヤツ持って行くわね」 「うん、ありがと」  異常に優しくなった母に、申し訳ない気分がわいてくる。もし死んでいたら、どれほど両親を哀しませただろうか。想像できない歳でもないだけに、心苦しかった。  着替えもせず、ベッドに寝転ぶ。大きく息を吐いた。  ポケットの携帯電話が振動した。  ウィンドウに浮かぶ名前に顔が曇ったが、通話ボタンを押す。 「……」 『今、気付いたんだけど、まずいんだよ。この前の件のビデオを観てたら、あるチャンネルにボクの姿が映ってて――』 「わたしなんか全部に映ってるわよ!」  電話を切り、投げる。  特大のため息がこぼれた。怒っていないと言えば大嘘になる。けれど、怒っていたいわけでもなかった。内容はどうあれ、和人の能力のおかげで生き延びたのだ。今回のみならず、それまでの精神的苦痛を考えれば和人との交友を断ち切るのは、むしろ遅かったとすら言えるだろう。  でも―― 「何よ、あやまりもしないじゃん……」  何に腹を立てているのかすらわからなくなり、こだまは苛立ちに叫んでいいのか泣いていいのか混乱していた。 「グッチャグチャだよ、もう」  涙がこぼれてくるのも、抑えきれない衝動だった。とめたいとも思わなかった。  再び電話が鳴る。  床の端に転がるそれを拾ったのは、和人からではないかと淡い期待があったからだ。  知らない番号だった。 「テレビ局が友達に番号を聞いてかけてきたとか……」  泣いている自分を振り切って冷静なフリをする。普段なら出ないはずの知らない番号との通話を認めたのも、気晴らしが欲しかったせいだ。 「もしもし……?」 『秋穂こだまさんですね』 「そうですけど、取材とかならお断りですよ」 『いえ、むしろそちらがわたしに会いたいのではないですか?』 「……何の冗談です? 警察に連絡しますよ?」 『無理ですね。警察にわたしたちはとめられない』 「わたし……たち?」 『ええ。能力者はとめられない。そうですよね?』 「!」  こだまは咄嗟に窓を見た。カーテンを閉めていなければ、窓を通過して和人の姿があったはずだった。 『申し遅れました、工藤と言います。佐伯くんから聞いているとは思いますが』 「あなたが佐伯さんを操った……」 『人聞きが悪いですね。解放能力は催眠術ではない。彼は自分の願望を解放しただけです』 「言いようね。で、わたしに何の用があるの? わたしは能力者じゃないわよ」 『やはり。あなたの言動は能力者にしては幼稚すぎる。それに小暮が襲撃したとき、あなたの服を剥いだのは解放能力者だ。あれにあなたの意思は感じられなかった』  当たり前でしょ、と内心でツッコむ。誰が好きこのんでテレビの前で服を脱ぎたがるか。 『しかしながら、わたしは能力者よりもあなたに興味がある。一度ぜひお会いしたく電話をしたしだいです』 「わたしは会いたくない」 『本心ですか?』 「……っ」 『あなたは正義感と責任感が強い。佐伯くんの話を聞いているなら、悪の総大将に会ってみたいと思うはずです』 「……悪の総大将なんですか?」 『その判断はあなた自身ですればいい。どうしますか?』 「……わかった」 『では明日の日曜午前11時、あなたが演説したトミカド駅・駅ビル屋上でお待ちします。それとあなた一人で来てください』 「女子中学生に一人で来いって、危険すぎるんだけど」 『身の安全は保証します。信じられないなら来なくてもけっこうです。では』  電話が切れた。 「和人に相談――」  しようとして、こだまはやめた。  工藤の声は事務的で淡々としていたが、それだけに感情が見えなくて怖い感じがした。もし約束を破り二人で行こうものなら何が起きるかわかったものじゃない。それに、これは和人には関係ない話だ。 「話をするだけ。別に戦うわけじゃない」  言い聞かせてみるが、後ろ盾のなさにこだまは身震いする。夜も寝付けぬまま、見知らぬ不安と戦い続けていた。  完全な寝不足にフラつきながら、待ち合わせの場所にたどり着いたのは二〇分も前だった。  寂れた屋上遊園地にはまばらながら親子連れがおり、子供たちは無邪気にアトラクションを楽しんでいる。奥に設営されたステージでは新人アイドルのイベントがあるようで、ファンであろう男性たちが開演前に座席を埋めていた。マイクテストの声と、デパートの店舗案内アナウンスがかぶって聴こえる。  工藤の姿はない。こだまは適当なパラソル付のテーブルにつき、缶ジュースを飲みながら携帯電話をいじる。  思いのほか、待つ時間は短かった。 「こんにちは」  こだまが顔をあげると、写真で見た赤い車の運転手がいた。  「……どうも」携帯電話をスカートに押し込め、お辞儀する。 「よく来てくれたね」  工藤は微笑を浮かべた。 「話はしてみたかったですから」 「そう。では、訊きたいことがあればどうぞ」 「あ、えと……」 「時間はあります。ゆっくりでいいですよ」 「わたしにはないです!」  とっさに出た言葉だった。実際の予定表は真っ白である。 「はは、そうですか。では早めにどうぞ」 「じゃ、まずはあなたの目的」 「目的?」 「解放能力で何をしようと言うんですか? やっぱり騒乱とか、強盗ですか?」 「強盗はないな。騒乱はあるかもしれない」 「あいまいにしないでください。呼んだ以上、きちんと答える義務があると思います」 「ああ、すまない、そのとおりだ」  律儀にあやまり、工藤はしばし言葉をまとめた。 「解放能力は人間の本質を暴く力がある。わたしは見てみたいんだ、人間というものを」  似たような話をロボ子もしていた。彼も同じなのだろうか。 「なぜです?」 「なぜ? なぜだろうね。ずっと思っていたからだろうか。わたしは子供のころから興味があるとのめりこむタイプでね、今は人間というものが気になっている。生物のなかでこれほど特殊なモノはない。研究のしがいがある」  性質的には和人と同じようだ。だとするとロボ子と和人を足して二で割れば彼のような人間になるのだろうか。 「人なんて特殊じゃないと思いますけど。感情でコロコロ変わる程度で」 「そう、それだ。人は感情で動こうとするが、それを理性で律しようともする。もしくは自ら創った規律に沿い、自らで定めた上位の人間の言葉に従う。個を持つ人間がなぜ、別の人間に縛られるのか、なぜ縛られたがるのか」 「……決まりがないと社会って成り立たないんじゃないですか?」 「そのとおり。けれどその社会とは誰が何のために作ったのだろう? 効率よく人同士の折り合いをつけるため? 都合よく人を使役するため? 生物として脆弱だから? 社会がないと人間は不安になるだろうか。個人で生きる力はないのだろうか」 「よくわかんないですけど、例えば無人島で一人で生きるとしますね?」 「うん」  工藤は子供のように興奮して顔を寄せてきた。和人に似てると思ったが、口にはしない。 「するとまず生きるために狩りをしたり果物を採ったりしないといけない」  こだまはゆっくり想像しながら話す。生活は原始的にならざるを得なく、それは他の動物と同じ環境になるのではないかと。 「そのような環境であっても人間は生きていけると思うかい?」 「たぶん……。それこそ他の野生動物のように病気になっても治せなくて死んでしまったり、より強いものに襲われてしまう危険はあると思いますけど。だけどそれって人間の生活じゃないですよね?」 「問題はそこだ。人間の生活、人間らしさという定義と考え方が面白いんだ。他の動物は例えばサルらしいとかネコらしい生活なんて考えない。なぜ人間だけ特殊なのだろう?」 「それが特殊という意味ですか?」 「そう。個人であれば『ケモノ』でしかないものが、集団であると複雑なコミュニティを形成する『人間』になる。では、その人間の本質はケモノに近いのであろうか、それともやはり理性ある生物なのだろうか、それをわたしは知りたいんだ」 「そのための解放能力……?」 「解放能力は人を自由にする。本質を見極める実験にはぴったりの力だ。そう思わないか?」  こだまは背筋がゾクッとした。「どうでしょう……」とあいまいに答え、顔を背ける。 「もし、人間の本質がケモノであるなら――」  工藤はイスに深く座りなおした。彼女に聞かせるふうではなく、独り言のように話している。 「ケモノらしく生きるべきだ。他の生物を征服するのではなく、循環の中に身を置くべきだ。それには増えすぎたな。1/1000でも多すぎる」 「ちょっと……!」 「うん? 生物として存在しなければならないモノが、生物の枠を超えているなら邪魔じゃないか? 不純物が混じって入れば不快になる。そういうものだろ」 「それ極論です!」 「そうかい?」  こだまは怖くなって立ち上がった。彼はそもそも人間の本質を知りたいのではなく、自分の描いた想像の人間が『不純物』であって欲しいと考えている。何かを実行するために、自分の考えを正当化したがっているようにしか見えなかった。  こだまはそれを言葉で説明できなかった。話し合いを続けたかったが、つたない知識と語彙では彼に対抗できる気がしなかった。  歓声が聞こえた。  背後のステージでイベントが始まったようだ。若くハキハキとした女性の声と、男性たちのオクターブの上がった声援が耳についた。エコーがかかって聞こえるのは、ビルの巨大モニタに中継されているからだろう。  「帰るのかい?」工藤の声がよりいっそう暗く重く感じる。 「もう少し話をしたかったんだが」 「わ、わたしがあなたに言いたいことは、解放能力を使わないで欲しいってだけです!」 「なぜだね?」 「解放能力は普通の人が使う力じゃないと思うからです。他人の心をもてあそぶ力です。そんな力で今まで築いてきたものを壊すなんてダメです」 「今まで築いてきたものか……。もしそれが間違いであれば壊すべきでは?」 「間違いって何ですか? 誰がそれを決めるんです? 少なくともあなたに権利があるとは思えません」 「わたしはそこまで傲慢じゃない。人間全員で考えるべきことだからね。本質をさらけ出した人間が」 「解放能力で開かれた心は、本質じゃない!」 「では何を持って本質とする? 鬱屈して凝り固まった心の奥底のヘドロこそが人の本質であり、生物としての根源だ。キミにもあるはずだ。その聖女のような理想を語る心とは別の、もっと奥にある根源が!」 「あったとしても、それはわたしの根源じゃない!」 「さて、それはどうだろうか?」  工藤の手がゆっくりとこだまを指した。 「やめてよ……、そんなの……」 「さらけだせ、本質を。解放する!」  和人は全速力で自転車を走らせていた。まったく、無茶をする幼なじみを持ったものだ。彼女が聞けば激怒しそうなセリフを胸中に吐き出し、少年はひたすらペダルをこいでいた。  こだまから電話があったのは11時45分ごろ。通話ボタンを押したときから彼女との会話はなく、遠くに誰かと話すこだまの声が聞こえていた。  断片的な会話だが、人間がどうの、本質がこうの言っている。相手はロボ子かとも思ったが、男の声であったのは間違いない。  まさか、と不吉な予感に押されて家を飛び出した和人だが、目的地がわからなかった。 「せめて場所を言ってくれっ」  半分ふてくされながらも、集中して音を拾う。聞き覚えのある店名やアナウンスが会話に混じって流れている。 「あの駅ビルか……!」  目星はついたがアナウンスが聞こえる範囲は広い。特定はまず不可能だ。 「そうだ……!」  和人は通りかかった店のドアを片っ端から開いていく。鈴が鳴り、チャイムが響き、店員のあいさつが次々と流れていく。  一つ目の駅を通過するころには、目的物が降ってきた。 「シングウカズト、どういうつもりだ?」  店を開けていくだけの行動に、ロボ子は不信に思ったのだろう。それこそが和人の狙いだった。 「頼みがある。こだまを捜してくれ。このまえの駅ビルあたりにいるはずなんだ!」 「なぜわたしが?」 「頼む! また何かに巻き込まれているんだっ」 「……」 「アイツがいなくなったら人間を知る機会はなくなるぞ。確実になくなるからな!」 「……わかった」  和人の必死さが伝わったのか言葉を信じたのかは不分明だが、ロボ子はうなずいた。 「ありがとう」 「ついて来い」 「もう居場所がわかったのか?」 「先ほどまで観察をしていた」 「先に言え! で、なんでこだまを観察してたんだよ? アイツ、能力者にでもなったか?」 「能力者を観察していたところにアキホコダマがいた」 「……!」  和人は不吉な予感を確定させた。彼が知る残りの能力者は工藤だけであり、佐伯や小暮を操っていた黒幕とも言える人間だけだ。そんな男となぜいっしょにいるかはわからなかったが、あの暴走娘のことだ、誘いを受けノコノコついて行ったのだろう。 「ともかく、こだまが危ない」  和人は15年の人生の中で、はじめて本気になった。  こだまは眼を開けた。自分の何かが変わってしまったと思ったが、実際にはいかなる変化もなかった。 「見ろ、人の本質を」 「え?」  工藤のうながしに振り返る。アイドルイベントが行われているステージで、騒乱が起きていた。 「ニィニはオレのもんだぁ!」 「フザケンナ、ニィニちゃんはオレの嫁だ!」 「ニィニちゃ〜ん」 「ヒャーハハ、脱がしちまえェ!」  狂った集団がアイドル歌手を求めてステージに跳びあがり、襲いかかろうとしていた。一部の客は一番のファンである証明をしようとたがいに殴りあう。  アイドル歌手は脅えて逃げようとするが、すでに数人に囲まれ脱出不能であった。 「力を誇示するもの、女を求めるもの、脅えて逃げるもの。理性の外れた人間はケモノと同じだ。サル山のボスを決める行動と変わりない」 「やめさせて!」 「やめさせる理由がない。自然に戻るとすれば何らかの欲求が満たされたときだ」 「講釈なんていいの! 意識を他に向ければ治るんでしょ? 何とかしなさい!」 「次は子供で試すか。子供の一番の欲求とは物欲か、食欲か、たのしみだな」 「待ちなさい!」  力づくでも止めようとこだまは拳を振るった。しかし工藤は人外の速度でかわし、掠りもしない。 「小暮を見たはずだ。解放能力にはこういう使い方もある。実験したところ、五階建てのビルから飛び降りてもタイミングしだいでは無傷でいられたよ。ここまでいくと超能力だな」 「バケモノ……!」 「それはいい。人間であるよりバケモノであるほうがよほど価値がある。濁った精神の生物でなど、わたしはいたくもない」 「精神含めてバケモノだって言ってんのぉ!」  あきらめず蹴りを放つ。工藤は片手で受け止めた。 「スジは悪くないがシロウトの蹴りだな。武道経験者には通用しないよ」 「う〜……」  脚を戻し、睨みつける。 「では次は、キミを解放してみよう。キミの本質はどうなのだろうな? 理想の自分だろうか、それとも彼らと同じケモノだろうか」 「いや!」 「知ってみたいだろ、自分と言うものを。人間というものを!」 「そんなの……!」  工藤の指は、今度こそこだまに照準を合わせていた。 「キミの理性を、解ほ――」 「おまえの能力を解放する!」  早口にまくし立てた声は、和人のものだった。少年の頭に複雑な鎖と錠が浮かんだ。コンマ1秒かけてようやく二つの錠を開いたが、それまでだった。  工藤が抵抗したのである。解放能力への抵抗は能力者にとってたやすい。工藤はその研究も怠らなかった。 「新宮和人くん、だったね」 「よくご存知で」 「こだまくんとテレビに映ったキミに注目していた。キミが能力者だとそのときわかったよ。昔は『神童』と呼ばれていたそうだね」 「よく調べてる」 「観察は好きだからね。さて、役者が揃ったところでどうする? キミ程度の能力者では、わたしの相手にはならないと思うが」 「相手をするつもりはない。こだまを連れて帰るだけだ」 「彼女は貴重なサンプルだ。キミ一人で帰るがいい」 「そんな暴力暴走娘、なんのサンプルになるんだよ……」  和人は素でため息をついた。 「かぁずとぉぉぉ!」 「ほらほら、凶暴なだけじゃないか」  睨みつけてくるこだまを指差し、和人はアピールする。 「表面に興味はない。わたしが知りたいのは本質なのだから」 「あ、そ……」 「ついでにキミの本質も探ってみるか。飄々とした態度の奥を覗いてみたくなった」 「気持ち悪いこと言うな」  「それより和人っ」二人に割り込み、こだまが後ろを指差す。 「あれ何とかして、あれ。あのコ、襲われちゃうよ!」  すでに半分剥かれている女の子がステージにいる。和人の眼が輝いた。 「……ボクも混ざろうかな」 「蹴るよぉ!」 「冗談だよ。ちぇ」 「ちぇってなに?」  和人はこだまの抗議にかまわず、集団に向けて大声で呼びかけた。 「みなさーん、ここにいる男性、その彼女の交際相手ですよぉ!」  こだまは「はぁ?」と呆れたが、工藤は真剣に驚いていた。  乱闘に明け暮れていたファンの眼が、ギラリと光る。 「この人です、この人! きのうの夜もいっしょだったそうですよー!」  乱闘はとまった。 「なんだとぉ?」 「アイツがウワサに流れていた彼氏……!」 「殺す!」 「何をしたかジックリ訊こうじゃねぇかァァァ!」  数十人の男たちが工藤に向かって突撃する。  当の工藤はすでに冷静さを取り戻していた。 「理性がないからといって思考が停止するわけでもない、か」 「みたいだね。さて、どうする?」 「問題ない」  「解放」迫り来る暴徒たちを眺めやり、一言唱える。それだけで彼らはバタバタと倒れていった。 「なにをしたの?」  こだまは苦しそうに呻く一人に駆け寄り、様子をうかがう。 「少し休めば回復する。神経を軽くいじっただけだ。」 「そんな細かい操作まで……」 「だからキミはわたしに勝てない」 「……」  和人の表情は重い。たしかに能力では彼に勝る自信はなかった。  対峙する二人の側で、急激な眩暈から立ち直った暴徒たちは正気に戻っていた。駅ビルのモニタで事件を知った警備員と警察官が駆けつけ、彼らを取り囲む。 「和人、あの人たち、捕まっちゃうよ!」 「どう説明しろって言うんだよ? 解放能力でおかしくなりました、なんて言ったらボクたちのほうが病院へ連れて行かれる」 「いっそ見せてやればどうだ?」  「え?」こだまと和人は同時に工藤を見た。 「解放する!」  「あ……」と思ったときには、こだまの意識は千切れ飛んでいた。何か考えていたはずだった。どうにかしたい出来事があったはずだった。しかし思い出せない。ただ胸の奥で、甲高い音を聴いた。 「こだま!」  和人は工藤の解放能力に抗う術を知っていた。開こうとする無意識への扉を押さえつけ、外されかけた錠をかけなおしていく。抵抗は成功し、彼は正気を保ったままでいられた。 「隙をついたつもりだったが、さすがと言うべきか」 「おまえ、いったいいくつのカギをこじ開けた!」 「ほう、気付いたか」 「理性だけじゃなく、トラウマまで引き出そうとしたろ? ついでに感情もいくつか奪おうとした!」 「本質を知るためには感情は邪魔だ。心の傷を浮かび上がらせればより真実に近づく。そうだろ?」 「おまえ、こだまを何だと思ってるんだ!」 「サンプルだよ。多くの者の心を開いた聖女がどれほど崇高な魂を持つのか知りたいのさ。もし本質が俗物であれば、それに踊らされた人間も俗だという証明になる」 「おまえ……!」 「そら、答えが出る」  フラリと立ち上がるこだまに、和人は手を伸ばした。  パンッと高い音がして、和人の手は宙をさ迷った。うっすらと赤い腫れが現れていた。 「さわんないで、ムシズが走る」 「こだま……」 「アンタのおかげでわたしがどれだけ苦労してると思ってるの? いいかげんにして。わたしはアンタのお守りじゃない。みんなも勝手に決めつけて、押しつけて、冗談じゃないっ」  睨みつけてくるこだまは、和人の知らない彼女だった。 「母さんは母さんで、勉強しろ、友達は選べ、いい高校へ行けって毎日毎日そればっか。わたしの意見なんて頭から否定して、何もわかってくれない」  こだまはつぶやき、時に叫んだ。溜め込んだヘドロのような陰湿な心を開放して。 「所詮はただの小娘か。表面では聖女を気取り理想を語っていても、一皮むけばこの程度か。興ざめだな」  あからさまな落胆を浮かべる工藤に、和人はカッとなった。 「こだまは聖女なんかじゃない、普通の女の子だ! 人間なら誰だって不満を持ってる。言いたいことだってある。でも、人間だからこそ言えないんだろ!」 「だから本質をさらけださせるのだろう? 奥底にしまいこんだ欲望を吐き出せ! 叫べ! 人間が持つ負をすべて見せてみろ!」  工藤に従うかのように、こだまは喚き続けていた。 「キライなの、本当にイヤなのっ。勝手にわたしを作らないで! 押し付けないで! いい子だとか、強い子だとか、自分のイメージを定着させようとするのはやめて! 比べたりしないで! わたしはできないの、頭良くないの! なんで比べるの? わたしだってがんばってるのに、なんでいちいち和人と比べられるのぉ!」 「……!」 「勉強できるのがいい子なの? できなきゃダメなの? お母さん、褒めてよ。わたしがんばってるよ。言うこときいてるよ。ちゃんとあいさつもできるし、歯も磨いてる。一人で着替えられるし、服だってたたんでるっ。なのになんで当たり前なんていうのぉ。勉強できないと全部ダメなのぉ!」 「彼女のトラウマらしいな。母親は相当厳しいらしい。子供に理想を押しつけて、できる子供以外認めようとしなかった」 「……」 「それもこれも、キミのせいのようだな」  工藤の笑みを、和人は睨むしかできなかった。そうかもしれない。小さい頃、『神童』と呼ばれていたのを自分でも知っている。隣に住む明るい少女は、ときどき羨ましそうに自分を見ていた。『どうしたら勉強できるの?』と何度となく訊かれた覚えもある。彼女は比べられていた。天才少年であった自分と。ずっとずっと、比較されて生きていた。 「こだま……!」  和人が再度手を差し伸べ、肩に触れる。拒否はされなかったが、矛先がまたも彼に移った。 「何でもできるくせに、いつも何もしようとしない。そのくせくだらないことにハマってみんなに迷惑かけて。わたしにアンタほどの頭があれば、わたしはなりたい者になれるのに。理想の自分にだってなれるのに。アンタ、ズルイよ。都合のいいときばかりわたしに頼って。あのときだって、勝手に泣いてればよかったのよ!」 「……!」  夕暮れの景色が脳裏に浮かぶ。その日も塾へ向かうところだった。  同級生の母親たちが井戸端会議をしていた。  気にもかけず通り過ぎようとしたが、一人があいさつをしてくる。 『こんにちは、和人くん。今日も塾?』  「はい」と答え、歩みを戻す。 『可愛げがないわね』 『あそこのウチは子供に勉強しか教えてないのよ』 『あれじゃダメねぇ。受験マシンて感じ』 『学校でもあんな感じらしいわよ。ウチの子も気味悪がってた』  彼女たちは声を潜めたつもりであったろうが、筒抜けだった。  振り返ると、視線に気付いたのか愛想笑いを浮かべてそそくさと離れていく。  少しだけ、胸が苦しくなった。  翌日、学校で実力テストがあった。自己採点をしてみると三問も間違えていた。なぜ間違えたのかわからない。  さらに次の日、答案が戻り、テストの結果順位を発表される。  満点を取った少年は同級生に自慢しだした。 『新宮なんてこんなもんだよ。オレのがスゲェんだって』  彼の周りには人が集まった。みんなが彼を褒め称え、ここぞとばかりに自分はけなされた。 『アイツ、前からムカついてたんだよ』 『ウチの親、何かというとアイツと比較すんだぜ』 『サッカーじゃミソのくせにな』 『笑いもしないし、気持ちワリィ』 『ゲームの話したら「なにそれ?」だって。言うことが違うよ』  針で突付かれている気分だった。  夜。答案を見た両親は怒り狂った。凡ミスだっただけに激しく。 『小学校程度のテストでこんなミスをするようじゃ、このさき期待できんな』 『つまらないミスをするような子は晩御飯ヌキよ。部屋に戻って復習なさい』 『おまえ、最近あまやかしすぎだったろう?』 『あなたはどうなの? このところ勉強を見てやってないでしょ!』 『オレは仕事で忙しいんだっ』 『わたしもそうでしょ!』  わずか数問間違えただけで彼らはケンカをはじめた。今までの仲の良さはなんだったのだろう?  胸の痛みが酷くなった気がする。  あくる日、朝から気持ちが悪かった。けれど両親はすでに仕事へ出かけている。朝ごはんは半分も食べられなかった。  授業中も苦しくて保健室へ行った。少し寝ているように言われ、それでも復調しなかったので家に帰された。  そして母親に怒られた。 『ズル休みなんてどこで覚えたの! 塾には行くのよ!』  部屋で勉強をして、夕方、塾へ向かう。  途中でまた胸が苦しくなって、近くの公園で休んだ。  遅刻したらまた怒られると思い、がんばって行こうとした。でもベンチから離れるとまた胸が痛くなった。  どうしようと悩み、いつの間にか泣いていた。意味がわからなかった。泣く理由が思いつかなかった。  泣き続けた。  彼女がそこに来るまで―― 「こだま!」  和人の腕が、こだまを抱きしめようと伸びる。あのとき彼女がしてくれたように、今度は自分が支えたいと思った。 「さわんな!」  左頬を殴られ、和人は床を転がった。殴られたことは何度もあるが、これほど強い力は初めてだった。 「ああ、ついでに身体のリミッターも解放しておいた。彼女が心のままに暴れやすいようにね」 「なんてことを……!」  工藤に食ってかかるが、それどころではない。こだまがこのまま暴れ続けたら、限界を無視して肉体に一生のダメージだって負いかねない。 「こだまの怒りを解放する」 「新宮和人の判断力を解放」  和人の解放能力と工藤の解放能力が同時に発動した。和人がこだまを冷静にさせようと放った解放能力は、工藤の解放能力により阻止される。解放能力でもっとも大切な錠を外す作業には、高い計算能力と判断力が必須である。しかも和人はこだまに集中しているため、工藤の解放能力にはまったくの無防備であった。簡単に封じられ、和人は解放に失敗した。 「邪魔をするな!」 「ほう、キミでも憤ることがあるのか。それともそれがキミの本質なのかな」 「ウルサイ、こだまを解放しろぉ!」 「すでに解放しているじゃないか。よく観るがいい。あれが彼女の本性、人間の本質なんだ」 「こだま!」  こだまはやりきれない怒りの矛先を周囲の器材に向けていた。 「みんな、みんな、勝手ばかり! 和人のバカに関わってからわたしの人生メチャクチャよぉ!」  スチール製のテーブルを蹴り潰し、イベントステージを殴り壊す。イスを四方八方に投げ捨て、迂闊な警備員たちを突き飛ばす。  手持ちぶたさになり、視線をあげたところに和人がいた。 「アンタよ、アンタのせいなの! 比較されるだけの毎日だったのも、厄介ごとを押し付けられるのも、テレビで大恥かいたのもアンタのせい。それなのに一言の詫びも、感謝もない。いるのが当たり前だとか、世話役だとか、子分だとか思ってんでしょ!」 「そんなことは……」 「ふざけるな、ふざけるなぁ! わたしは、アンタの、奴隷じゃないんだぁ!」  こだまの姿が消える。  次の瞬間、和人は空中を舞っていた。蹴り上げられたとわかったのは、頂点に差しかかったころだった。  とっさに頭だけはかばった。背中を打ち、呼吸が止まる。 「何様だ、アンタは。人に心配かけても迷惑かけてもヘラヘラして反省もしないで。わたしがどれだけ……!」  起き上がれない和人を、こだまがサッカーボールのように蹴る。屋上のフェンスに叩きつけられ、転がった。 「妬み、恨み、憤り。いいね、その素直な感情。人間の本質をよく表している。人間はやはり、くだらない」  工藤はゾクゾクしていた。予測どおりの反応、希望どおりの展開、実行すべき計画。すべては彼が描くシナリオをなぞっていた。 「これでもう観察の必要もない。すべての人間を解放し、自滅するさまを見届けてやる」  狂笑する工藤に抗う、ささやかで弱い声が聞こえた。 「……なにが、本質だ。こんなの、本質と言えるか……」 「あ?」  柵にもたれ、和人が立ち上がる。 「こだまの本質……いや、人間の本質じゃない。こだまはただ、本音を語っているだけだ。バカな幼なじみにグチを吐いてるだけじゃないか」 「子供の不満など身近なものだ。世界規模の不満を吐き出すほうがよほど不自然だよ」 「それこそ本質じゃない証だろ。人間の本質であるなら、老若男女問わないはずだ」 「それは屁理屈というものだ。むしろ個人的不満を吐き出し他者を攻撃するのは、本質が利己的で好戦的な証。それは否定できまい」  「だからそれが――」和人はこだまに向けて一歩踏み出した。 「こだまという女の子だって言うんだよ」 「話にならないな。先ほども見ただろう? そこにいる男たちは欲求を満たすために殴りあい、女を襲った。その暴力に傾向する行動は、秋穂こだまだけに見られるものではない」 「それもそいつらの個性だよ。本質なんていうあいまいなもの、誰にも証明できやしない」 「個性? 個性か! 便利な言葉だな。全体を隠すに個性とは!」 「アンタが人間の本質にこだわるのは、アンタ自身の中にある破壊願望を正当化したいからだ」 「な、に……?」 「人間の本質が破滅を願うのだから、自分の願望も間違っていないと思いたいんだよ」  自分を見据え拳を握りしめる少女に、和人はまた一歩近づく。 「アンタ言ったよな、理性を解放すれば本質が見えてくるって」 「ああ、人間の持つ理性という檻は、生物の一種でしかないはずの人間を、『人間』という種に変えている。ならば生物としての人間を観るには理性を解放すればいい。そうだろう?」 「違うね。アンタがいうそれは人間じゃない。人間とは、理性を含めて人間なんだ。何かを欠いて調べてみたって、それは本物じゃないんだよ」 「……!」 「ロボ子の言葉の意味がようやくわかった。生物でありながら、集団でありながら、『個』であるモノ。生物の連鎖から外れ、『個』を貴重にする生物。たしかに人間以外が観れば面白いかも知れないな」  少年は微笑み、数歩の距離のこだまを見つめた。彼女は攻撃態勢で彼を睨んでいる。 「……では本質はどうなのだ? 人間が人間であるというなら、その人間の本質はどうなんだ! 理性的に残虐で、本能的に横暴な人間は、本質はやはり悪ではないのか!」 「知るかよ、そんなの。自分の都合のいい本質に納得してろ。ボクにとって今、大切なのは、こうすることなんだ」  新宮和人は秋穂こだまの前で膝を折り、頭を下げた。髪の毛が床に触れるほど、深く、深く。 「悪かった。今までずっとこだまに甘えていた。ゴメン。それと、ありがとう」 「……!」  こだまは眼を見開き、自分の膝よりも低くなった和人の後頭部を凝視した。踏みつけようとした足が、震えてとまる。 「こだまに支えられたあの日から、ボクはボクでいられた。ボクが望む、ボクの理想のボクになれたんだ。だけどその陰でこだまがこだまでいられなくなっていたんだな。ゴメン。昔からこだまは変わらなくて、明るくて、強くて、優しくて、だからこだまは……ボクの中の理想のこだまはそれでいいんだと思っていた。勝手に決め付けていたんだ」 「か……」 「ボクはずっとお礼を言いたかった。けど、ボクはお礼を言うことすら、どうすればいいかわからなかった。感謝のしかたも、謝罪のしかたも思いつかなかった。ボクはそんなものなんだ。成績がよくたって、解放能力なんてあったって、ボクはこだまより偉いとかスゴイとか思ったことはない」 「かず……」 「もしこだまがいなかったらと想像したことがある。ゾッとした。はじめて怖いと思った。そしてこだまがいないとダメだって、改めて思ったんだ。だからボクは親の勧める中学をわざと落ち、こだまと同じ学校を選んだ。両親に嘆かれても怒鳴られても、こだまと離れるよりマシだった。こだまの気を引きたくてバカもやってきた。そんなやりかたでしか、こだまと関わる方法を思いつかなかった。たくさん迷惑かけて、ゴメン」 「かず……と……」  少年の頭に雫が落ちる。はじめに一滴、続けて二滴、三滴、それから滝のように。 「……こだま?」  和人が顔をあげると、初めて見る少女の姿があった。顔を紅潮させ、涙をボロボロとこぼし、鼻水をすすり、歯を食いしばって泣きやもうとする幼なじみの姿。 「……わたしは、アンタが、迷惑だった。本当に迷惑で、何度も絶交したかった。頭がよくて、大人に褒められて、妬ましくて、羨ましくて、スゴイって思ってた。バカやり出してからはサイテイで、昔のカッコよさなんて欠片もなくて、関わりたくなかった」 「……」 「でも、見ちゃったから。アンタが一人で苦しそうに泣いてるの、見ちゃったから。わたしと変わらないって安心したし、それ以来バカするようになったのはわたしのせいだし、だからしょうがないって、そう思ってた」 「……」 「けど、それだけじゃなかったんだよ? 迷惑だったけど、楽しかった。毎日アンタのバカを見て、追いかけて、懲らしめて、でもぜんぜん堪えてなくて、またバカやって……。そんなのわたしの理想じゃない。自慢できる自分じゃない。だけど……、うん、ホント、楽しかったよ」  涙が途切れ、笑顔が浮かぶ。 「こだま……」  差し伸ばされた少女の手を、少年は掴んだ。まるで長年の友に感謝する握手のように。この先もいっしょにいるという誓いの儀式のように。 「……解放能力を、自力で解いたのか? 本質以外を残さなかったはずなのに……。ありえない。人の本質は……!」  頭をかきむしる工藤に、二人は真正面から向き合った。 「まだ言ってるのか。あなたが観たかったのは本質じゃなく、他人の中にある自分の願望だ。人の醜い部分だけを観て、知った気になりたかっただけなんだ」 「あなたは自分の考えを肯定して欲しいだけの子供。わたしや和人と同じ、自分を知ってもらいたい、認めてもらいたい、わかって欲しい、そう心の中で訴えるワガママな子供なのよ」 「違う、違う……! わたしは崇高な想いで人間の本質を探り、世界に破滅を……!」  工藤はよろめき、柵に背を預ける。ズルズルと腰が落ち、頭を抱えて座り込んだ。 「まず、自分を知ることからはじめるべきだな。……けどそれは、ボクも同じか」 「うん、和人はぜひ知っておくべきだよ」 「ぐ……」  こだまが泣きはらした眼を細め、笑顔を作る。和人が抵抗できない最強の必殺武器だった。  「今こそ問おう」空から赤い糸束が舞い降りてきた。それは二本足で立ち、和人とこだまを指差した。 「人間とは何だ?」  二人は赤髪ロボ子の急襲に驚き、そして顔を見合わせ微笑んだ。 「そうだな、ケンカしても仲直りできる生物かな」  和人の手が、こだまの手を強く握る。こだまも少しだけ力を加えた。 「ふむ、新たな謎だな」 「個性があって、理性があって、感情があって、本能を持って、知識をたくわえ、言葉で伝えられる生き物」  こだまは真面目に答える。  ロボ子は二度うなずいた。 「なるほど、これで終結としよう」  ロボ子が微笑む。ぎこちないが、確かに笑っていた。 「ロボ子……?」 「わたしの宿題は終わった。真実にはまだ少し遠そうだが、わたしは納得できた。シングウカズト、アキホコダマ、面白かったぞ。よい観察ができた」 「おい、おまえは一体なんなんだ!」 「赤髪ロボ子だ。解放能力は回収しよう。人間には過ぎた力と理解した」 「できないって言ってたじゃない!」  「……」ロボ子は眼をそらせ、素知らぬ顔をした。 「無視かよっ」 「……ではな」  ロボ子の身体から光が溢れ、天へと伸びて行く。消えてしまうのだと、二人は瞬時に理解した。 「待って、もう少し話しようよ! いきなり消えるってなしだよ!」 「アキホコダマ、能力者ではないおまえに一番教わったぞ。理想の自分になれ。自慢できる自分になれ。アキホコダマは本当の解放者だ。できぬことはない」 「ロボ子!」 「シングウカズト、名前をくれたこと、感謝する」 「礼はいいから待て!」  和人はロボ子の腕をつかむ。ゴムのような感触に、彼女の身体がただの人形であるのに気付いた。 「我、思う。我は我である。そして、人は……」  身体から流れ出た光は、天空に吸い込まれて拡散し、消えた。  ゴトンという鈍い音とともに赤い髪の人形が崩れ落ちる。抱き起こすが、中身のない空洞の身体があるのみで、無表情な顔を横に向けたまま何も答えなかった。 「解放……」  うつろな眼で和人は扉を指差した。反応はない。 「解放、解放、解放!」  ヤケになって叫び、そのたびに胸が熱くなった。 「……なんだよ、ワケわかんないヤツだな。結局正体を明かさずサヨナラか。そんなに大層な秘密なのか? 伏線でも張ったつもりか? 後になって宇宙からの転校生でしたとかベタなオチが待ってるんじゃないだろうな」 「でも、ロボ子さん、いい顔してたよ。ロボットみたいだったのに、笑えるようになってた」 「……ああ、もうロボ子じゃないな。赤髪人子だ」 「センス悪すぎ」 「アイツならきっと喜ぶぞ。間違いない」  「かもね」こだまは笑い、和人も微笑む。  落ち着きを取り戻した二人は、背後の影に気付いた。  二人の驚いた表情は、街行く人々にアップで晒されていた。    * * *  後日。  アイドルへの暴行事件は、工藤による集団催眠という形で収拾された。今後の争点は催眠術を裁判で証明できるかである。ごく短時間に数十人もの相手を、しかも遠くから相手に気付かれずに催眠状態に陥らせるのは可能なのか、今頃検察側は頭を痛めているだろう。 「もしできたら世界は終わるって」  和人が写真週刊誌の記事を読みながらツッコむ。 「すでに解放能力もないわけだしね。本人もほとんど廃人だし、精神鑑定でダメ出しされるんじゃない?」 「そうだな。……しかし」  ページをめくった和人は、その被害者となったアイドルの記事を流し読む。 「あれを機に一気にブレイクか。健気・気丈・勇敢・元気か。転んでもタダでは起きないの見本だな」  「いいじゃない」こだまが笑う。 「トラウマになって心を病んだりするよりよっぽどいいよ。わたしは好きだな」 「それもそうだ」  苦笑し、雑誌を投げ出した。表紙を見てこだまが渋い顔をする。  始業のチャイムが鳴り、慌てて駆け込んでくるクラスメイト。 「こだまー、何とかしなさいよ! 危うく遅刻するところだったじゃん!」  息を切らせた女子生徒が彼女に不平を漏らす。こだまはため息で答えた。 「知らないわよ、勝手に集まってるんだもん。わたし知らない、み〜んな知らない!」 「無責任〜! だったら新宮が何とかしなよっ。アンタも同罪でしょ!」 「ボクには何のことやら」 「トボけて……て、これを見ろぉ!」  彼女は和人が投げ出した雑誌を突きつける。  そこには秋穂こだまの、泣き顔のあとに浮かんだ最高の笑顔が写っていた。 「ウワサだと、こだまの演説三部作をまとめた映画ができるって話じゃん。そんでマスコミが本人出演があるかないかで校門埋めてんのよ? 何とかしろ!」 「……お願い、それは言わないで」  こだまがガックリと肩を落とす。第一部・連続暴動事件編、第二部・連続窃盗事件犯逃亡編、第三部・アイドル暴行集団催眠事件編。三つの大事件を一つにまとめた映画を製作したいという話は、こだまにも直接連絡が来ていた。なんだそりゃ、と呆れ、本人出演を依頼されたときはキレたものだった。当然ながら彼女は映画に出るつもりはない。 「よかったな、こだま。自叙伝を書いたら印税で生活できるかもよ」 「うがぁ、和人ぉ、なんでアンタ他人事なのよ!」 「ボクは端役だし」 「土下座シーン、本人にやらせろぉ!」 「こだまが出るならいいけど?」 「ぐ……」  言葉に詰まる。こだまが嫌がっているのを知りつつ、彼はからかっている。  「……ハァ、バカらしくなってきた」クラスメイトが毒気を抜かれた顔で息を吐く。 「結局ラブラブですか? はいはい、ごっそさん」 「おいー!」  こだまが聞き捨てならぬと全力でツッコむ。 「いいじゃん、別に。『青春は青春時代にしとけ』でしょ」 「ぐぐ……」  彼女はいやらしげに笑う。そしてちょっとだけ真面目成分を込めて言った。 「新宮がバカやって迷惑かけてもさ、アンタがそういう人間だから、みんな何か許しちゃうんだよ」 「え……?」 「みんなの心を和ませるって意味じゃ、あたしはこの映画、アリだと思ってるよ。『こだまの解放者』。実際はアンタが解放者なんだけどね」  数か月が過ぎ、こだまと和人は地元の高校へと通うようになった。真新しい制服はまだ着慣れないが、そこそこ忙しい毎日を送っている。  和人がバカをやり、こだまが追いかける姿はここでも見慣れた風景になりかけていた。 「まったく、いいかげん大人になれ。あれで奇行も収まると思ったのに」  和人は市中引き回しの刑よろしくこだまに引きずられていた。顔を腫らして原型を留めていない少年に、駅前の通行人は誰もがギョッとしていた。 「ボクは真面目にデータを集めているんだ!」 「あー、はいはい、たいへんですねー。……次は死なすからね」 「ぐ……」  こだまの本気を鋭敏に感じとり、和人は黙る。 「どうぞ」  不意に、横から青い物を突き出された。  駅前では珍しくもない無料冊子だった。学生に渡すくらいなので、近隣店のクーポン券だろうか。  和人とこだまは一冊づつ受けとり、タイトルを読んだ。  『思考伝達能力について』  二人は不信と期待を抱き、配布者を見る。 「次の疑問だ。二人には期待しているぞ」  赤い髪の少女は、ニッコリと笑った。                            「こだまの解放者」 了