学びの園 へのおさそい
渡辺靖敏・植村 修
このたび、学びの園“あしたば”を立ち上げることにしました。約30数年間、教科サークルに携わってきましたが(渡辺は算数、植村は国語)、小学校教師は、ひとつの教科だけでなく、どの分野に対しても教育的力量を高めていかねば、子ども・親の信頼も支援も得られない厳しい状況になっています。
そのためにも、一人だけで悩むのではなく、ともに語りあい、ともに学びあう場があったら、どんなにかよいだろうかと考えるのです。 その手助けを、退職教師の2人がさせていただこうというサークルです。
本音は、「市教委の『教師塾』に対抗して・・・」と言いたいところですが、あまり構えるのではなく、気楽に参加でき、教師の輪が広がることを期待しています。
◎会の運営としては、・当面、偶数月の第3土曜日。
・話題を1〜2決めて、学び、深め合う。
・持ち寄った話題について、実践交流・意見交流をする。
・1つの話題は、30分程度として、1回に4つ、5つの話題を採り上げる。
・時には、共同研究者を招き、見聞を広める。
◎会場は、渡辺靖敏宅とする。(裏面参照)
〒462−0013 名古屋市北区東味鋺二丁目2310番地
TEL・FAX 052−901−0291 Eメール nabetyan@mwb.biglobe.ne.jp
◎特典:『教育書』貸し出し ・冊数 制限なし
・貸し出し日数 次に借りたいという人が出るまで
※「教育雑誌」の希望者は、事前に連絡する。
基礎・基本と系統学習について 2001.8.
聞くところによると、基礎と基本を分けて論議することについて、柴田義松氏が「・・・それぞれの教科において基本的な内容を精選すれば、前に学んだ基本的内容が後の学習の基礎となります。同一の内容が、基本となり、基礎ともなるという系統性が、教科の本来の指導のあり方ではないかと私は考えるのです。」「教科は、本来このようにして系統的に指導されるべきものですが、教科内容の研究がそこまで十分にゆきとどいているとはいえないのが実状でしょう。」と、ヴィゴツキーの有名な『思考と言語』を引用して異議を唱えているそうだ。
まあ、従来の教育学からすれば、そうでしょう。基礎・基本を今更分けたりするのは意味ないかもしれないが、スパイラル学習とか三浦つとむの「上り下り理論」にも示されているように、繰り返し?のなかで、子どもたちの認識が深められていくと考えるのは常識でしょう。それを前提として、基礎・基本論は進められているものと思っています。だから、「系統性」にしても、学問の体系に依拠すべきなのは当然です。私はヴィゴツキーの難しい理論はわかりませんが、彼の主張する『発達の最近接領域』=子どもたちが発達するためには、基礎(学び)の周辺をより豊かに耕さねばならないという論には甚く心酔しているのです。そのため、当然の帰結として、管理体制とぶつかることにもなったりします。「自由」のないところに教育はないのですから。
いずれにしても、柴田氏は現場の実態がみえていないらしい。つまり、たとえば、「読み・書き・算」における計算を基礎学力と決め付けることに抵抗があり「基礎」「基本」と分けることは時代に逆行した提起であると批判しているようです。 しかし、とかく現場では、「計算」と言えば、公文や落ち研のレベルです。(民教連も同レベルかもしれないと、最近思っていますが・・・)。計算指導の内容分析がなされないで、「計算=基礎」。行き着く先は繰り返し学習・ドリル・数打ちゃ鉄砲も当たるなのです。これを職場から打破していくためには、きめ細かな教材分析が不可欠なのです。「基礎とは何か」「基本とは何か」を考えて、授業づくりをしていく必要があるのです。「基礎」「基本」をひとまとめにしているようでは指導のポイントは明確になりません。
かつて、愛知教育大の子安潤さんは、私に「その教材の歴史的価値は何か」としつこく迫りました。それまで1時間1時間の授業の価値を厳しく考えていなかった私は、困ってしまいました。まさに、現場教師の弱点を見据えての仕掛けだったと気づかされました。
そこで、計算指導で具体的に考えてみると、「計算ができるようになること」「計算ができること」「計算がわかること」とは違います。また、「計算力」と言っても人によって、「答えさえ出せればよい」「活用できることまで視野に入れて考える」のか捉え方はずいぶん違います。銀林先生は、基礎学力の例として、「計算力」を挙げていますが、中学以降では計算力は獲得されてしかるべきですから、はっきり基礎学力と言えましょうが、小学校では計算力を獲得していく過程に着目して「基礎」「基本」を分けて分析した方が指導のポイントも明確になると考えるのです。銀林先生の「21世紀はいかに基本学力をつけるかが勝負どころである」とは、計算指導においては、10進位取り原理とかアルゴリズムとか応用問題とかを重視して論理的思考力をつけるような授業展開をしろと言うことだと理解するのです。
だから、私は、指導の順序として、基礎的事項が先に扱われることもあるし、基本的事項が先に扱われることもある。いつも、基礎→基本とはかぎらないと思っています。
授業づくりの観点からも 「基礎」「基本」は分けて考えるべきです。
教材の精選の観点からも 「基礎」「基本」は分けて考えるべきです。
時間数減の観点からも 「基礎」「基本」は分けて考えるべきです。
算数における基礎・基本の重視 2002.7
「基礎・基本の重視」というごまかしの文科省の姿勢に対して、◎基礎と基本は分けて考えるべきである。◎分けて考えることによって、教材の重要度は明らかになり,真の精選も可能となる。という提起は、残念ながら、なかなか受け入れようという雰囲気が出てきていない。基礎と基本とを分けて考えてみることによって初めて、「評価規準」が「基準」として機能すると思うのであるが、世の動向は《読み・書き・計算》のレベルに止まり(新指導要領の立場から見れば、算数を計算のレベルに止めた)、なんと30年前の落ち研がもてはやされる事態となった。完全にTV・マスコミにやられてしまったのです。
かつて、NHKの『お母さんの勉強室』で、星野和夫さんと岸本裕史が対決し、《東海・近畿教育サークル合同研究集会》で亀谷義富さんが「落ち研批判」のキャンペーンを張り(私が「公文批判」をした)、算数の学びの楽しさとは何かを追及し、一定の成果を得ていたと思うのですが、星野・亀谷両氏が組織内でのゴタゴタに巻き込まれている間に、再び「落ち研」(名称を「学力研」と変える)が学力論争の主導権を取ってしまったのです。
「計算力は大切だ」という単純明快な主張は、確かに受け入れやすい。繰り返し繰り返し訓練すれば、一定の目に見える成果も出る。公文の主張と変わりません。また、計算特訓だけならば、教師の指導力不足も関係ない。ちょっとしたマニアルさえ身に付ければ、誰だって同じように出来、同じような結果が得られます(まさに、公文教室の運営マニュアルと同じなのです)。子どもたちも「丸がもらえることはこの上ない喜び」ですから、一見“算数大好き”となります。
《好きこそものの上手なれ》とはうまいこと言ったものです。
しかし、これで、“考える力”は付くのでしょうかね。ここを触れもしないで学力云々するのは止めたほうがよいと思うのですが、官も民も抜け出られない実態は憂うべきことです。21世紀の日本に未来はなくなると断言できてしまうほど重大なことだと思うのですがね。 最近の明治図書としては珍しく良心的に編集している柴田義松氏の『教科の基礎・基本と学力保障シリーズ』でさえ、基礎・基本の内容を一派一絡げにしている。従来の形と変わっていないのです。
※ただ、この著の中で、鈴木一巳さんは
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と、基礎的な学力と基本的な学力を区別している。
今一度,言いたい。「基礎」「基本」を分けて考えてみるということは、教材を固定的にとらえてしまうことではない。教材を見直し、授業の質を高めるために必要なことなのだ。 ひょっとすると私だけの課題かもしれないが、1時間1時間の授業の意義・価値を常に問い詰めながら、授業を組み立ててきたのかという反省でもある。1単元の意義や価値を考えてはいたが、1時間1時間の授業まで常に考えて教室に出向いていたのかと自問すれば、自信を持って“YES”とは答えられない。「全教科担任制の小学校では無理ですよ」と言いたくなってしまいます。ただ、「基礎」「基本」を分けて考えてみると、今 流行の『評価基準』もバッチリ設定できてしまいます。
ところで、「基礎」と「基本」を分けるという提起に対して、一番の批判は基礎的事項が、次の教材のときには基本的事項となったり、基本が基礎になったりすること。つまり、基礎・基本は固定して位置付けられる性質のものではないので、わざわざ分けることにエネルギーを使う必要がないという見解であるが、授業が動き、教材が動くものであるかぎり、「基礎」「基本」も位置付けが変化するのは当然です。授業を見直し、授業を変革するためには、「基礎とは何か」「基本とは何か」を分けて考えてみることが、授業づくりの上ではポイントになると考えるのです。
また、授業の中で、子どもたちの認識の過程を追い求める場合も、認識の各段階を分析する場合も、きめ細かなチェックをするべきでしょう。そのチェックこそ「基礎とは何か」「基本とは何か」と考えることに他ならないのです。
まあ、今後は授業の中で「評価基準」づくりをしていけば、自ずと「基礎」「基本」のことを考えざるを得ないと思いますが・・・・。