国語における「基礎」「基本」を考える     

銀林さんの「基礎」「基本」を分けて考えてみようという提案は、「基礎・基本」を特集した『教育評論』20016月号の中でも、異彩を放っている。つまり、どの論文も最前線に立つ現場教師に、具体的な方策を提起していない。これでは、学力低下論議も不毛のものになりかねないと思う。

例えば、6月の数教協研究局の公開シンポジウムで、柴田義松氏が、

銀林氏は、「読み書き」を「識字力」と同一視していますが、私は、これをたんに仮名・漢字の読み能力ととらえるのではあまりにも狭隘であり、現代的な「リテラシー」概念に改めるべきだと思います。民間の「読み方」研究では、文学作品の深い読み取りを図る三読法(構造読み・形象読み・主題読み)とか、説明的文章についても内容の「吟味読み」まで含んだ読み方教育の研究が行われています。いずれも「メタ学習」を必要とするものです。生活綴り方の教育についてはいうまでもないでしょう。これらを「基礎学力」として「基本学力」とはたして分ける必要があるのか、疑問に思うのです。

と批判している国語について、「基礎」「基本」を考えてみたい。

 私は、「読み・書き・算」において、「書き」=「漢字が書けること」とみるならば、それは「基礎学力」であると思います。ただし、漢字指導、つまり、「どのように漢字能力を獲得させていくのか」という授業づくりの観点からみると、漢字の成り立ち・語彙なども扱い、漢字を豊かに学ばせます。漢字の教え方・学び方については、岡田進さんの『水道方式による漢字の教え方』をはじめ、『○○方式』と言われる書籍が実に多くあり、「基本学力」にあたると考えます。つまり、「計算力」は基礎であるが、十進位取り記数法やアルゴリズム発見ということは「基本学力」に当たると考えるのと同じです。

しかし、多くの現場では、漢字が書け、計算ができるということが「基礎基本」とされているのです。だから、「授業崩壊」とか「不登校」「ひきこもり」というようなことが、授業のつまらなさから派生して起きてくるのです。豊か     な、楽しい、魅力的な授業を職場のみんなで創り出していくためには、「基礎」「基本」を分けて教材研究をするようにした方がよいと考えるのです。

 文学作品の読み取りについても、三読法で実践すれば、「基本学力」獲得を目指したとは思いません。「読み」も一読法・二読法・三読法があり、近頃は、三読法の系統の「科学」読みとか分析批評とかもある。それらすべてが、「基本学力」に当たるとは言えないと思っています。

ましてや、文部科学省は教科書から文学作品をどんどん削っていますし、法則化は「感動は教えられない」と勝負を放棄していますから、学者先生のように「メタ学習を必要とします。読み=基本学力ですよ」なんて悠長なことを言っておられません。文学作品の読み取り学習こそ国語らしい基礎基本の活動であると考えてきた者にとっては、国語の授業なんて・・・・。本当につまらない内容に成り下がっているのです。 形式よりも、国語を通して、子どもたちの人格形成に国語はどう役だっているかが問題なのです。なかなか見えてこないのが現実なのです。見えてくるようにする手立てのひとつとして、「基礎」「基本」を意識的に分けて教材分析をしてみたら どうか、ということです。

 作文もしかり。私も生活綴り方こそが作文教育だと思っています。しあわせなことに、私は小学校時代「綴り方教育」らしきことを受けているのです。小学校6年間毎日日記を書きました。今も、そのときの日記が残っています。そのために? 私に担任されると、必ず日記を書かされます。私の国語教育の基盤なのです。日記に始まって、日記に終わるわけです。

 文部科学省は「作文の時間を3分の1とれ」と、作文重視のような姿勢をとっていますが、世は短作文・スキル作文全盛です。愛知県の校長会がやってきたことは、『作文のひろば』なる副読本の押し付けでした。これで、「書く力」がつくとでも思っているのでしょう(事実、綴り方に熱心だった校長は「採択をしなくてよい」と言いましたが、そうでない校長は執拗に採択を迫りました。今夏の「つくる会」採択と同様です)。

 柴田氏の言うように、学校ぐるみで生活綴り方をやってる所が、今、どれだけありますか。スキルや短作文は書く技術の伝授=「基礎」であって、「基本学力」に値しないと思うのです。

    何が「基礎」で、何が「基本」かは、教師の教材解釈で決まる。

    何が「基礎」で、何が「基本」かと分けるのは、指導のポイントを明確にするためにする。

 基礎学力・・・識字力や計算力のような要素的な能力・・・要するに「土台」

基本学力・・・物事の意味と本質を弁えている・・・・・・・・・・「骨格」

 

 

国語の基礎・基本について PARTU  2003.8.19

 国語の基礎・基本を具体的に示すことは、極めて難しい。かつて《到達度評価》研究の折り、順調?に進んだのは、算数や体育のように「できる」ことが捉えやすいものであった。しかし、国語は、「話す」「聞く」「書く」「読む」は“基礎の基” “基本の基”ですよという共通認識は持てても、「何が基礎か」「何が基本か」を具体的に示すことは難しいが、本年度私の勤務校の研修テーマでもある「話す・聞く」領域で考えてみたい。

まず、指導要領の目標を見てみると、

◎前指導要領「聞く・話す」・正確、的確な話し方の項

1年 2年 3年 4年 5年 6年
経験した事の順序を考えて話すこと。 事柄の順序を考え整理して話すこと。 話の要点が分かるように、区切りを考えて話すこと。 話の中心点が分かるように、筋道を立てて話すこと。 意図をはっきりさせて根拠を明らかにしながら話すこと。 目的や意図に応じて適切に話すこと。

◎現指導要領での「話すこと・聞くこと」の目標

.2年 .4年 .6年
相手に応じ、経験した事などについて、

事柄の順序を考えながら話すことや

大事な事を落とさないように聞くことができるようにするとともに、

話し合おうとする態度を育てる。

相手や目的に応じ、調べた事などについて、

筋道を立てて話すことや

 

話の中心に気を付けて聞くことができるようにするとともに、

進んで話し合おうとする態度を育てる。

目的や意図に応じ、考えた事や伝えたい事などを

的確に話すことや

 

相手の意図をつかみながら聞くことができるようにするとともに、

計画的に話し合おうとする態度を育てる。

 

 二つの指導要領を比べてみると、目標設定が複数学年になったまでで、大きくは変わってはいない。「事柄の順序を考えながら」()「筋道を立てて」()「的確に」()話すこととは、具体的に何をもって到達できたと判断するのか、つまり、それぞれの評価基準は何になるのかが明らかにならねば、「授業と評価の一体化」など絵に描いた餅にすぎない。そんな危惧に答えるかのように、指導要領も触れ

ている。

「話すこと・聞くこと」の内容

         知らせたい事を選び、

         事柄の順序を考えながら、

          

         相手に分かるように話すこと。

       

      大事な事を落とさないようにしながら、

      興味をもって聞くこと。

       

       

  身近な事柄について、

   

  話題に沿って、話し合うこと。

         伝えたい事を選び、

         自分の考えが分かるように筋道を立てて、

         相手や目的に応じた適切な言葉遣いで話すこと。

       

      話の中心に気を付けて聞き、

      自分の感想をまとめること。

       

  互いの考えの相違点や共通点を考えながら、

  進んで話し合うこと。

          考えた事や自分の意図が分かるように話の組み立てを工夫しながら、

          目的や場に応じた適切な言葉遣いで話すこと。

       

      話し手の意図を考えながら話の内容を聞くこと。

 

 

 

      自分の立場や意図をはっきりさせながら、

      計画的に話し合うこと。

 

・「話すこと・聞くこと」の内容の取扱い<言語活動の具体例>

・尋ねたり応答したりすること、自分が体験した事などについて話をすること、友達の話を聞くこと、読んだ本の中で興味をもったところなどを紹介することなど ・身近な話題についてスピーチをすること、要点などをメモに取りながら聞くこと、身近な出来事や調べた事柄について説明したり報告したりすることなど ・自分の考えを資料を提示しながらスピーチをすること、目的意識をもって友達の考えを聞くこと、調べたことやまとめた事を話し合うことなど

 ここまで見ても、「基礎とは何か」「基本とは何か」は分かったような気にもなるが、やはりよく分からない。でも、授業の価値・質を高めるためには、この単元、この授業では、「〇〇〇〇のようなことに取り組む」そして「□□□□がわかる、できる」という到達目標を明確にしなければならない。つまり、方向目標から到達目標に切り替えこと=教材研究をして教室に向かうことが、教師としての最低限の仕事である。これは、譲ることのできない一線であると思う。しかし、学校運営に当たるものは、何が何でもそうしたことが可能になる環境を保障するために奮闘しなくてはならないのに、近頃は、「研修しろ、研修だ」と喚くだけで、研修できる環境を奪っていくだけだから始末が悪い。

「勉強」は「強いられて勉める」ものだが、「研修」は自覚的であることが必要条件になる。

 ところで、国語の「基礎・基本」を論じる時、「読み・書き」では論じられるが、「話す・聞く」で論じることは少ない。

例えば、指導要領では、「話し合おうとする態度を育てる」()「進んで話し合おうとする態度を育てる」()「計画的に話し合おうとする態度を育てる」()と「聞く・話す」態度を問題にしている。こうした態度をどう評価するか、いつの時代も話題になるため、教委も止む無く次のような資料を出したものだ。

◎先生や友達の話を注意して聞くことができる     1年 2年 3年

友達の話も最後まで真剣に聞くことができる。  
話し手の方を見て、姿勢よく聞くことができる。
先生の話は聞くが、友達の話はあまり聞こうとしない。
人の話を聞こうとするが、あまり長続きしない。
静かにはしているが、話を聞いていないことが多い。
勝手な行動が多く、人の話が聞けない。

◎自分の考えを進んで発表することができる      1年 2年 3年

よく発表し、内容や話し方もよい。  
人の意見もよく聞いて、活発に発表できる。
挙手をして発表できる。
時々は、自分から発表することがある。
指名されないと発表しない。
指名されても発表しない。

55年度「通知表作成のための参考資料」

 各々の到達段階を示せば、「そうなるかな?」「そんなところかな?」と納得してしまいそうであるが、こうした学習態度は、教師の主観に陥りやすいと言われて、「評価に適さない」ことが指摘されている(現行の“関心”“意欲”“態度”の項と同じ。これを北陸の大森さんは“意欲”“関心”“態度”だから、“”“カン”“タイ”と関西弁で揶揄した)

それでも、現場では、やらざるを得ない。この悩み・苦しみを解消するために?

人をモノとして扱うパソコンの導入が名古屋では大流行。恥ずかしい行為が罷り通っている(文科省も東京も、さすがに評価にパソコンをとは言い出さないのにね)

もう一度、教育の原点にかえって、授業を見つめなおすためにも、基礎と基本は分けて考えるべきなのです。