数学教育協議会
2001年3月24日・25日に、全国小学校集会を 名古屋で開くことになりました。この集会をお世話するのは3回目です。今やっと準備に入りかけたところです。こんなにのんびり準備しているのは初めてです。いつもは、必死に人集めするのですが、今回は討議内容を充実させたいので、特別な働きかけはあまりしていません(2月22日)。
討議テーマ「これからの基礎・基本」です。
わたしは、『基礎・基本の重視=読み・書き・計算」の発想が大嫌いです。現場は「算=計算」のイメージが強く、そうした認識に何の疑問も持ちません。やりにくいです。だから、理論的に、ちと武装をして、おきたいのです。
◎2002年.2月.7日
「ええ〜」という感じです。だって、1年間、眠ったままだったんです。気付きもしなかったのです。 でも、この間『数学教室』には2度書きました。「総合学習」がらみです。
2001年7月号 『数学の中の他教科』
2002年2月号 『総合学習をささえる算数・数学』
そして、10日・11日と、全国研究会議に出かけます。 しんどくなるかな?
また、2月17日には、12月の朝日新聞紙上の分数論議の当事者で、分数不要論のある福沢氏とひょんなことから顔を合わせることになりました。 約6時間くらいの学習会らしいですが、さてさて帯分数論者に属する私と、どんなことが起きるやら・・・ 興味津々ですね。
◎2002年2月17日
本日、福沢氏に会いました。福沢氏は「数学は道具であるから、使いもしない分数のわり算は小学校で教える必要はない」という主張のようでした。「かけ算は説明しやすいので、教えてもよい」とも言います。要は、「教えても、わかりにくいから、教えなくてもよい」というような主張にも聞こえました。
確かに、分数のわり算は説明しにくく、最後は『ひっくり返して掛ければよい」という結論だけが一人歩きするものだから、定着も悪く、「分数のできない大学生」が話題になるのでしょう。 まあ、できないから、教えなくてもよいとするならば、論外です。 できるように奮戦するのが教師です。
眠くて仕方ないので,続きはまた今度
習熟について
算数における習熟を考える partT 2003.10.25
計算力が極度に落ち込んでいる実態にぶちあたって、ちと頭を抱え込んでいます。今まで、計算の速さについては、ほとんど気にもせず、「分かること・理解することこそが大事じゃないか」と主張してきました。
ところが、今担任の子たち(3年)の実態をみると、その遅さは尋常ではありません。やっている内容は、水道方式では2年生の内容です(『計算書・加減乗除のすべて』友渕洋司)。それが、なかなか進まないのです。うわさでは、2年生の時、百マス計算もやっているらしいのですが(私が百マスを嫌っていることは周知のことで、正確な情報が掴めない。また。公文の連中も数人いますが・・・)、とっても計算速度が遅いのです。習熟訓練が適切になされていなかったからでしょうか。
まあ、単純には、指導要領の弊害をもろにかぶっての学力低下の表れであろうと考えるのですが、現場人としては、ほっておくことはできません。そうしたことを、マスコミ・NHKが先駆的に目を付け、ブームを巻き起こし、《?山メソッド》となっているのです。「法則化運動」以上に、教育界に悪影響をもたらしています。つまり、競争原理を再び教育の世界に持ち込むことにより、人間性の破壊を目論んでいるのです。即ち、学力低下の世論を巻き起こすことにより、習熟度別(能力別)や百マスのようなスピード競争こそが学力再生となるという思い上がりが、子どもたちから「考える楽しさ」を奪い、“右向け右”の人間を生み出していくのです。
ところで、悲しいことに《?山メソッド》なるものの源流は民間側にあるのです。20数年前、岸本裕史が提唱しているのです(雑誌『はぐるま』を見直せば、すぐ分かる)。《?山メソッド》にはなんの目新しさもありませんが、20数年前、新婦人を中心に親の中に浸透を図り、次々と地域の算数教室を陥落させていった戦略とは規模が違います。今や、行政まで巻き込んでいます。「わかる算数」側の第二の危機と言えます。
まあ、「わかる算数」=数教協側にも諸さがあったように思います。数教協の伝統・遺産が正しく継承されていないことです。70年代になり、“楽しい算数”のスローガンはよかったのですが、理解習熟の道筋や、苦しさの後の喜び・楽しさを味わわせることを回避してしまったように思っています。確かに、90年代に「教えと学びの接点」というような形での新しい提起はありましたが、あまり深く論議されることもなく、理解習熟の過程を注視することなく授業実践が語られてきたように思います。例え、文科省が問題解決学習を復権させ、暗記・しごきを嫌ったということがあるにせよ、対峙すべきところは厳しく対峙しなかったことが(「それはおまえだけのことだ」との批判の声が聞こえてきますが・・・) 尾を引いていると考えるのです。為に「数教協は系統学習の立場を捨てたのか」との批判もありました。
つまり、数教協の実践の全体像が一般には見えてこなくなっているのです。教師ならば、習熟活動にも奮戦しているのですが、あまりその面の実践報告は出されません。「水道方式」に対する過信、「タイル」に対する過信があったのかもしれません。文科省が言う「確かな学力」(知識や技能に加え、思考力・判断力・表現力などまでを含むもので、学ぶ意欲を重視した、これからの子どもたちに求められる学力)も、《問題解決の過程》《意味理解》《手で学ぶ(操作活動・体験活動) 》《思考する活動》などで存分にやってきましたが、習熟活動について、目に見えるものは少ない、少なすぎるのは確かでしょう。
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◎《10回たし・10回ひき》の取り組み
《10回たし・10回ひき》は、かつて岸本裕史が百マス計算とともにさかんにやらせた訓練です。やはり時間を競わせていますが、私は、時間を競わせてはいません。ただ、いじわるな私は、帰りの会の最後にやり、できた子から帰していますから、子どもにとっては無言の圧力となっているのは確かです。帰りたい一心で猛烈ながんばりを示す子、のんびりとやり、私に「早くやってよ、会議が始まちゃうよ」と急かされる子といろいろです。
算数における習熟を考える partU 2003.11.23
その後 しつこくというよりも、友淵さんの『計算書・加減乗除のすべて』を丁寧にやらせました。教科書にあるものにプラスしただけです。1枚20問程度ですが、全問正解する子は意外に少なく、イライラしていました。単純なミスが多いのです。公文や岸本のせいで速さばかり気にするからです。プリントを配るだけでパニック状態になる子もいるのです。 それでも、なんとか多位数×T位数までやり遂げて、テストをしました。うれしいじゃありませんか、ばっちりでした。
まあ、これくらいできないことには、先が思いやられますからね。
※プリント数16枚、問題数にすると、200問くらい。
算数における習熟を考える partV 2004.1.6
冬休みには、私の学校では『冬の生活』(日誌)を課題として与えなくしました。つまり、「自分で考えて過ごしなさい」というわけです。ですから、休み明けの宿題処理に要する時間は極度に減りました。すぐ、授業に集中できますが、やはり「忘れてしまう」のはやぬを得ないことでしょう。でも、確実に習熟し、定着していれば、たとえ忘れていても、すぐ思い出します。授業を進める上で大きな障害にはなりません。
この「確実に」習熟しているかどうか、どうすれば、「確実に」させることができるのか。ここが問題です。“数打ちゃ鉄砲もあたる”式なのが、?山式であり、公文です(もちろん、学力研の連中は、導入でタイル等を使って指導していると言いますが)。日本の伝統的な基礎基本=“読み・書き・計算<そろばん>”に寄り添えば、世間の受けもよろしいですからね。習熟度別が急速に小学校でも広がっているのは、文科省や教委の指導もありますが、計算領域にしぼれば、比較的区別しやすいのです。そして、計算力=速さという競争主義がはびこる。相手の蹴落とし合いが始まるのです。習熟度別指導とは心の教育を無視した教育です。文科省が「心の教育」を叫ぶこと自体矛盾しているわけです。『心のノート』のねらいは、子どもたちを心豊かにしたいというところにはないのです]
心の教育を無視しない習熟指導の筋道を明らかにしなければなりません。
数教協の任務です。 ただ、三重大のUさんは、さかんに珠算教育との連携を模索してみえますが(日本教育新聞紙上)、どうなのでしょうかね。以前にも、そろばんの珠=操作活動=5−2進法=タイル操作と結びつけた論議がありましたが、そろばんの操作活動は、5−2進法やタイルとは別箇の進化をしたものだと思います。やはり、習熟の過程で、大切にしなければならないのは、10進構造を踏まえたアルゴリズムの発見であり、シェーマを踏まえた理解・認識でしょう。そのための工夫・努力のない指導では、「確実な」習熟は望めないと思います。
小学校集会と東海地区協
小学校集会が初めて開かれたのは、1986年の3月です。全国大会ではなかなか深めきれない話題をテーマに集中討議をしようというわけです。第1回は「乗除のせぼね」でした。この時、「以後、春休みの土日曜に、新幹線沿線で開いていこう」と、話が盛り上がり、「第2回は東海で」ということになったのです。
第2回は「かけわりの徹底的解剖、わり算・わかり方の構図」で行いました《納屋橋・クラウンホテル》。東北から九州まで、参加者は64名と1回目より増やすことができました(東海からは17名の参加)。テーマがよかったこともありますが、地元・東海からの参加者数が期待できないという危機感が会場あふれんばかりの盛り上がりとなったのです。東海地区の存在感を大いに示しました。
次に小学校集会を受けたのが、1996年の11回大会です《犬山・犬山館》。新学力観にどう対峙するかを問われている状況での開催であったので、集会テーマも「整数の乗除の世界、子どもたちは乗除の世界をどうつくりあげているか」としました。東海地区でのサークルが停滞していたこともあり、猛烈な宣伝活動をしました。7名の参加申し込みを確保し、30〜40名に定着しつつあった集会に活を入れる形となりました。ただ、「子どもの内面に迫る」という課題提起で、教材論から授業論への転換を画策したのですが、かえって数教協内部の論争?を持ち込む形となり、うまくいきませんでした。多くの参加者を得、大成功と言えますが、後味はよくなかったです。
なのに、2001年の16回大会を引き受けることになったのは、前回の北陸へ、名古屋算数サークルから5人も参加し、元気のよいところを見せたから、白羽の矢が当たったのでしょう《栄・不二パークホテル》。 ここでの討議テーマは、「これからの基礎・基本」としました。宣伝活動はほとんどしませんでした。そのため、参加者は27名とこじんまりした集会となりましたが、数教協に似ず豪華な会議室で行い、評判は上々でした。テーマは、学力低下問題とも関わり、これからの教育界での基礎・基本論争に一言申す基盤となる充実したものでした。
以上、3度も小学校集会の裏方として関わってきて思うことは、その時々の教育状況を的確につかみ、討議テーマを決めることでしょう。やはり、学び場としての期待が大きいからだと思います。
<渡辺靖敏>
2004年2月8日 全国研究会議の討議より 2004年3月号
降りかかる火の粉は振り払わなくちゃあ
近頃、数教協が日本の教育に果たす役割は日増しに低下しているように思えてならない。日本の子どもたちの低学力に対して、「量」という武器で颯爽と切り込んだ数教協は、真の学力獲得のためには「量」に基づくカリキュラムを貫徹させることであることを内外に知らしめた。だから、教科書編集にも多大な影響を与えたと思っているのですが、よくわからない主張(ウイルス)が数教協を侵しはじめているように思える。このところ、聞いているだけで、私の戦闘意欲はすっかりなくなってしまうのだが、批判を恐れず少し触れてみたい。
〇 大筋は「数教協の小学校の人は、量×量(量÷量)と量×数(量÷数)の2元論になっていて、両者を統一的に指導する観点がないのである」「量×量(量÷量)と量×数(量÷数)を分離して別の時期に指導し、その統一を図らない立場である。つまるところ2元論である」という批判です。まあこれに似たような批判は、官制研ではよく耳にしますが、「量」が算数と実生活との結合を促し、生きる力を育んでいることを主張すれば、一件落着するのですが(官制の方でも分かっていただけるのですが)、相変わらず、数教協中枢部はむにゃむにゃ・・・。これでは、今後、数教協は民主的教育運動に貢献することは難しいと思いますね。
少し、批判の内容に立ち入ってみましょう。
〇 「かけ算なのか、わり算なのかが自信を持って判定できない大勢の子どもを作ってしまっている」と言う。その通り。子どもたちはひどくできません。でも、その責任の一端を数教協が持たねばならないのか。文部官僚が現場教師に責任を押し付けるのと同じ。手弁当で研究会に参加しているのに、何故そんな言われ方をしなくてはならないのでしょうかね。愕然とします。全く不愉快極まりないです。
〇 福岡の板垣さんの「割合測定器」による実践こそ、量×量と量×数の統一的指導の典型であると賞賛されるが、板垣さんの教具製作の発想はそうだったのでしょうかね。「割合測定器」を使って、倍・割合を指導したら、うまくいった。小数の乗除もできそうだという程度ではないのですかね。「割合測定器」は、水槽やBBとちがって、実に簡単に製作できる代物です。この手軽さが受けたのだと思っています。
この「割合測定器」は、線分図を体験できるものと思っています。先の札幌大会で「倍・割合・分布・比の指導」の分科会のメインレポーターを務めたのですが、「割合測定器」の実践は出てきませんでした。話題にしようと考えたのですが、大阪の亀谷さんから問題点が指摘されるに止まりました。まあ、これを、小数にまで拡大していけば、操作は包含除優先の主張になりましょう。多くの教科書がやっと等分除優先に変わってきた昨今、包含除優先に引き戻せのごとき主張は如何なものでしょうか。
・新居信正さんの『割合分数の世界』『割合分数のすべて』という授業書がある。もう30年くらい前のものであ るが、一読の価値はあります。
〇 2年生のかけ算の導入時においても、「<1あたり量>にそれが<いくつあるかの数>をかけている」と教えられないはずはない。量×数・量÷数を許容しないのは、不自然なことが起こる。低中学年でも量×数・量÷数をきちんと教えることを研究した方がよいのではないか、いうもでもなく量×量・量÷量を否定しているのではない」に至っては、首を傾げたくなる。
ここの文面の「数教協は1000円×3とか6dl×3という式を使わないし教えないというのは不自然ではないか」とは、量×数・量÷数の式を導入時に教えろと言うものである。これで、「量×量・量÷量を否定しているのではない」と言えるのですかね。今までに、ディメンジョン論議がどのようになされてきたのか、まさかご存知ないとは言わせませんぞ。銀林先生などへの殺し文句のように「現場をよく見なさい」なんて言われるが、地域の算数教室や私学よりも公立学校が現場らしい現場です。この言葉は言わない方がよろしい。公立学校の現場へ来たら笑われますぞ。 まあ、研究局のみなさん、ご苦労様ですが、日本の子どもたちを低学力から救った「量の理論」を守るために頑張ってください。公立の小学校教員はうんざりです。「量の理論」が失われれば、数教協は解散した方がよろしい。
それにしても、ここあたりの論法は「数教協は暗算を否定している」と攻撃を受けた時代を思わせるものがありますね
〇 この「割合測定器」を単なる教具からシェーマにしようと考えて、小数分野に議論の場が移されているのでしょう。確かにシェーマは様々あってもよいとは思いますが、そこには「量」が踏まえられたものであるべきです(少なくとも小学校では)。つまり、タイルの発展したものです。タイル図・テープ図・面積図・分数水槽・かけわり図・ベキタイル・・・すべてそうです。そして、線分図にも展開していくのでしょう。多分に「割合測定器」も線分図化の前段階に位置付けられるもののように思うのですが、量×数・量÷数の発想に基づいたシェーマというならば、カリキュラム論として、私には受け入れられません。上からのカリキュラムではなく、下から積み上げられるカリキュラムでなくては、子どもたちの認識構造は無視され、落ちこぼれを拡大するだけだからです。
〇 7.68dl÷3.2m=(7.68dl÷3.2)/m=(7.68dl÷32×10)/m=2.4 dl/mという立式(これらを思考経過を叙述する式というのだそうな)を持って、「量÷量の根幹は量÷数」との主張は不可解です。3.2mという量で割る時、操作として÷3.2 (÷32×10)とします。このとき、「子どもが÷3.2の3.2って数だと言った」とか。だから、量÷数と短絡的に結びつくものでしょうかね。3.2mを量としてとらえている子が「÷3.2」と言ったとしても、子どもは3.2mと認識しているはずです。小学生の書く式は文章題等の言葉の翻訳であって、抽象化の結晶とはとらえていないと思いますね。量÷量を量÷数にすりかえる、姑息な式変形です。この7.68dl÷3.2m=(7.68dl÷3.2)/mの式を見て、量÷数(7.68dl÷3.2)と意識したことになるのでしょうか。上記の式変化を示したところで、子どもには理解できません。量を理解し、ディメンジョンを使いこなせる子なら、納得すると思いますけれど・・・。
◎ 今回の全国研究会議のテーマは「私たちの考える算数・数学のカリキュラムーーー指導要領を乗り越える」でした。折りしも、文科省が改定指導要領を通知し、歯止め条項を緩和したのですから、いよいよ個々の教師の力量・教育課程編成能力が問われる時代に突入したように思われます。 でも、現場は「歯止め条項はあった方がよい」が支配的空気です。同一歩調でなければ困るというのです。教師自らが、夢とロマンを語ろうとしていない時代になってしまったのです。だからこそ、数教協の中枢は、現場が元気の出るような提起をしなくてはならないと思います。
そして、今回の早期改定の背景・学力問題も、かつての学力問題と質が違います。かつての学力問題では、数教協の出番でした。量の理論が圧倒しましたが、今回の学力問題は、習熟・定着が話題の中心です。この学力問題を学習・授業の質(内容)の問題に引き戻さねばなりません。「新学力観」以降の授業批判をもう一度きちんとすべきでしょう。そうしないと、教師は夢もロマンも持ちえません。(向山洋一だって、「百マス計算を批判しているのですぞ)
Mさんから反論がきました。 そこで、2004年4月号で
「降りかかる火の粉は、振り払わなくちゃあ」PARTU
久しぶりに波紋をかもし出すことになりました。3月号で発信した後、SさんやTさんやHさんから、賛意を表するメールやら手紙をいただきました。私の指摘はそれほど異常なものではないことを確信しました。これは「法則化運動が民間教育運動つぶしの役割を担うであろう」と警鐘した1986年を思い出すものです)
その後、今回は『ウイルス』呼ばわりしましたから、暗に批判された方から、当然のごとく反論がきました。指摘されてきた6点について、見解を述べていこうと思います。
【この間の経過としては、研究局会議の席上、全国研究会議の感想を出し合っていたが小学校の感想が少なかったので、MSさんが「こんな感想もある」という形で紹介した結果、広まることになったようです】
一応、3月号の文面を再掲します。《指摘のあった部分に下線を引きました》
降りかかる火の粉は振り払わなくちゃあ 《中略》
改めて読み直してみると、刺激的であったかもしれません。このところ、『通信』の内容は冴えませんでしたからね。年賀状にも「ちょっとつまらないよ」なんて指摘もありました。これで、また息を吹き返して、今年度がんばれるというものです。感謝!
さて、[第一項]は
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この部分の「『その責任の一端を数教協が持たねばならないのか』とレポートのどこに書いてあるか」との指摘ですが、レポートには書いてありません。報告された時「数教協にも責任がある」とポツリと言われたことですからね。この一言を全国研究会議の席上で耳にするなんて思いもよらない私には衝撃が走りました。今回のことは、すべてここから始まっていると言っても過言ではありません。
だから、「降りかかる火の粉は、振り払わなくちゃあ」という拙文を書いたのですが、「私は毛頭このように考えていません」「そんなことは書いていない」「言っていない」と主張されるのであれば、「私の空耳でした」と謝罪すれば、終わることかもしれませんね。しかしながら、今は「私の勘違いでした」という気はさらさらありません。私の問題意識は、冒頭に書きました。
| 近頃、数教協が日本の教育に果たす役割は日増しに低下しているように思えてならない。日本の子どもたちの低学力に対して、「量」という武器で颯爽と切り込んだ数教協は、真の学力獲得のためには「量」に基づくカリキュラムを貫徹させることであることを内外に知らしめた。だから、教科書編集にも多大な影響を与えたと思っているのですが、よくわからない主張(ウイルス)が数教協を侵しはじめているように思える。このところ、聞いているだけで、私の戦闘意欲はすっかりなくなってしまうのだが、批判を恐れず少し触れてみたい。 |
学力低下が叫ばれているのに、数教協の出番がないというのは異常です。また、「数教協の最近の研究の到達点を示す出版物を教えて」と言われてもさっと答えられないもどかしさ。現場に居て辛いものがあります。研究と運動の両面が機能してこそ、数教協(民間教育研究)の存在価値はあると思っています。そうしたことへの苛立ちが、私をして「ウイルス」と言わしめているのです。
次に、MTさんが“主観読み”だと指摘された以下の項についてですが、
第二項
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「ごとき主張」とあるので、これは解釈の入る曖昧な指摘。「割合測定器で3用法をやると包含除優先になってしまう」という指摘だと解釈するが、これは随分一方的な解釈である。そうならないように指導できることを提案しているのだということだそうです。 とすれば、私は「そうですか」と言います。でも、そういう指導計画で実践できる人もいるでしょうが、「割合測定器」という教具は、包含除優先に陥る危険性のある道具だと言いたいのです。「割合測定器」は割合の学習のおいて威力を発揮する教具だと思っています。
第三項
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量×数は量×量に内在していて、この2つは、かけ算という統一物の2側面という捉え方を私はしているのです。この2側面を低学年で同時に教えろと私は言っておりません。しかし、適当に時期をずらせば、教えられると指摘されています。「適当に時期をずらしてもよい」と言われるのなら、「数教協は2元論」なんて言わないでほしいものです。
第五項
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「量÷量の根幹は量÷数」などと私はどこにも書いていません。「量÷量に量÷数が内在している」と私は言っているのです。 「根幹」は私が言ったまでのこと。「内在している」との認識ならば、誰もがそう思っているのではないでしょうかね。まあ、数教協内での近年の論争は「内在している」とのイメージの域を越えているのではないでしょうかね。私は、そう思っています。
第六項
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ここも事実と違います。子どもが言ったのは食塩水の濃度の時と私は文に書いてあります。
私は、食塩水の濃度は基本的には扱わないので、その操作方法を「3.2mという量で割る時」という場面に置き換えて考えてみたのです。小数の導入に何を持ってくるのかは、人様々でしょうが、いろんな場面に適応できるものでなくては典型になりませんから。
これらの指摘について、本腰を入れて、いちいち反論するつもりはない。なぜなら、私の大前提として 次のことを記している。
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現場では、決して 量×数を全く無視するような実践はしていない。なのに、「数教協の小学校の人は、量×量(量÷量)と量×数(量÷数)の2元論になっていて、両者を統一的に指導する観点がないのである」「量×量(量÷量)と量×数(量÷数)を分離して別の時期に指導し、その統一を図らない立場である。つまるところ2元論である」というレッテル貼りをされるのかということに、私の反発があるのです。
第四項
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ここは「量÷小数の導入法がここに書いてあります。現場の実践に学んでください」と言われたのだそうです。
まあそうだとしても、「現場に根ざす」ことは、民間教育研究運動の中では大前提です。それをあえて使うことは、大学の研究者や現場を離れてもなお頑張っておられる方々の口封じに他なりません。そう考えています。「地域の算数教室や私学よりも公立学校が現場らしい現場です」と書いたのは、MT先生の実践が地域の算数教室や飛び込み授業が多いことを意識した受け言葉に買い言葉でもあったのです。研究者と実践家との共同作業によって、真の研究活動が成り立つと考えています。東海地区協には理論面を支える研究者が居らず、東京地区協には理論面ばかりで、実践家が急速に減ってきているように見えますけど・・・。
「元気の出る算数・数学」と言われる。しかし、過去のすばらしい数教協の財産を提起されても、現場は、そのプランを追試できる状態ではない。つまみぐい的に実践できるのがせいぜいでしょう。評価規準・少人数指導・習熟度などは、数教協のプラン(民教連のプラン)を見事なまでに押し潰しているのです。だから、全国研究会議でも、「元気の出る算数・数学」の新たな実践プランがほしいのです。元気の出なくなるような論議をしている情勢ではないはずです。仲間うちで足の引っ張り合いをしているような情勢ではないはずです。
『学力』と『授業』を問い直す 2004.9.25 一部
0. 問題の所在
近年の「学力問題」は、学校五日制と『総合的な学習の時間』導入による授業時間数減→学習内容削減にともなうところが大きいと考える。つまり、作りだされた「学力低下」の責任はだれが負うべきかということである。
こうして「学力低下」論争なるものも起きたが、国・教委・学校・教師の責任のなすり付けあいで、授業づくりに役立つ論争には発展していません。
それは、「基礎・基本の重視」なる言葉が、いつの指導要領改定のときにも強調され、なんの目新しさもないばかりか、少しの重みもない空念仏なのに、日本古来の“読み・書き・そろばん=計算”への回顧が猛烈に始まり、果ては、文科省の「少人数指導→習熟度別指導→能力別指導」の流れに、右も左も巻き込まれている憂うべき状況であると考えています。
1.「基礎」と「基本」を分けて考えてみることの意味
・ 初めて提起したのは、2000年3月 数教協小学校集会北陸)で行ったが、振り向きもされなかった。
・ 2000年12月に、銀林さんが、中数協の大会で、理論付けて、提起された。
・ 2001年3月の小学校集会(名古屋)で、『教育評論』2001年6月号で発表された素原稿に当たる論文を報告された。
・ その後は、数教協の論客・増島さんが重要性を指摘してくれ、東京の鈴木一巳さんが具体化を試みられた程度である。
※2002年2月 志談塾企画
《分数のわり算不要論》の福沢伸一氏と・・・
※2003年5月 研究局主催
「教科の『基礎・基本』と学力保障」シリーズの柴田義松氏と・・・
基礎・基本と系統学習について 2001.8
聞くところによると、基礎と基本を分けて論議することについて、柴田義松氏が「・・・それぞれの教科において基本的な内容を精選すれば、前に学んだ基本的内容が後の学習の基礎となります。同一の内容が、基本となり、基礎ともなるという系統性が、教科の本来の指導のあり方ではないかと私は考えるのです。」「教科は、本来このようにして系統的に指導されるべきものですが、教科内容の研究がそこまで十分にゆきとどいているとはいえないのが実状でしょう。」と、ヴィゴツキーの有名な『思考と言語』を引用して異議を唱えているそうだ。
まあ、従来の教育学からすれば、そうでしょう。基礎・基本を今更分けたりするのは意味ないかもしれないが、スパイラル学習とか三浦つとむの「上り下り理論」にも示されているように、繰り返し?のなかで、子どもたちの認識が深められていくと考えるのは常識でしょう。それを前提として、基礎・基本論は進められているものと思っています。だから、「系統性」にしても、学問の体系に依拠すべきなのは当然です。私はヴィゴツキーの難しい理論はわかりませんが、彼の主張する『発達の最近接領域』=子どもたちが発達するためには、基礎(学び)の周辺をより豊かに耕さねばならないという論には甚く心酔しているのです。そのため、当然の帰結として、管理体制とぶつかることにもなったりします。「自由」のないところに教育はないのですから。
いずれにしても、柴田氏は現場の実態がみえていないらしい。つまり、たとえば、「読み・書き・算」における計算を基礎学力と決め付けることに抵抗があり「基礎」「基本」と分けることは時代に逆行した提起であると批判しているようです。 しかし、とかく現場では、「計算」と言えば、公文や落ち研のレベルです。(民教連も同レベルかもしれないと、最近思っていますが・・・)。計算指導の内容分析がなされないで、「計算=基礎」。行き着く先は繰り返し学習・ドリル・数打ちゃ鉄砲も当たるなのです。これを職場から打破していくためには、きめ細かな教材分析が不可欠なのです。「基礎とは何か」「基本とは何か」を考えて、授業づくりをしていく必要があるのです。「基礎」「基本」をひとまとめにしているようでは指導のポイントは明確になりません。
かつて、愛知教育大の子安潤さんは、私に「その教材の歴史的価値は何か」としつこく迫りました。それまで1時間1時間の授業の価値を厳しく考えていなかった私は、困ってしまいました。まさに、現場教師の弱点を見据えての仕掛けだったと気づかされました。
そこで、計算指導で具体的に考えてみると、「計算ができるようになること」「計算ができること」「計算がわかること」とは違います。また、「計算力」と言っても人によって、「答えさえ出せればよい」「活用できることまで視野に入れて考える」のか捉え方はずいぶん違います。銀林先生は、基礎学力の例として、「計算力」を挙げていますが、中学以降では計算力は獲得されてしかるべきですから、はっきり基礎学力と言えましょうが、小学校では計算力を獲得していく過程に着目して「基礎」「基本」を分けて分析した方が指導のポイントも明確になると考えるのです。銀林先生の「21世紀はいかに基本学力をつけるかが勝負どころである」とは、計算指導においては、10進位取り原理とかアルゴリズムとか応用問題とかを重視して論理的思考力をつけるような授業展開をしろと言うことだと理解するのです。
だから、私は、指導の順序として、基礎的事項が先に扱われることもあるし、基本的事項が先に扱われることもある。いつも、基礎→基本とはかぎらないと思っています。
授業づくりの観点からも 「基礎」「基本」は分けて考えるべきです。
教材の精選の観点からも 「基礎」「基本」は分けて考えるべきです。
時間数減の観点からも 「基礎」「基本」は分けて考えるべきです。
3..教科書に見る学習内容の低下
| 現日 | 旧日 | 韓国 | 米国 | 仏国 | 独国 | 英国 | |
| 整数の加減 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 |
| 整数の乗法 | 2 | 2 | 2 | 2 | 1 | 2 | 1 |
| 整数の除法 | 3 | 3 | 3 | 3 | 3 | 3 | 1 |
| 小数の導入 | 4 | 3 | 3 | 3 | 3 | 6 | 3 |
| 小数の加減 | 4 | 3 | 3 | 3 | 3 | 6 | 3 |
| 小数の乗法 | 5 | 4 | 5 | 5 | 3 | 6 | 3 |
| 小数の除法 | 5 | 4 | 6 | 5 | 3 | 6 | 3 |
| 分数の導入 | 4 | 3 | 2 | 4 | 3 | 6 | 3 |
| 分数の加減 | 5 | 3 | 3 | 4 | 3 | 6 | 3 |
| 分数の乗法 | 6 | 6 | 5 | 5 | 中 | 6 | 3 |
| 分数の除法 | 6 | 6 | 6 | 5 | 中 | 6 | 3 |
4.学力調査に見る学力低下
名数研実態調査という名の「学力テスト」
|
5、授業づくりの新たな道すじ
・授業の三角形・二谷貞夫さん)
・授業づくり 〜60年代 「教材」主体 ・ わかる授業
『高い水準の科学を やさしく教えよう』
70・80年代 「教師」主体 ・ 楽しい授業
90年代 「子ども」主体 ・ 新学力観の出現
※水戸黄門的授業
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◎ 「子ども」「教師」主体の授業づくり
21世紀 「生きる力」→「確かな学力」
※コミュニケーション能力
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◎「子ども」「教師」「教材」主体の三位一体の授業づくり
※話し合い・協同の授業
6. 授業と評価の一体化(90年学習指導要領から)
※到達度評価・1968年京都府教委
・新学力観 「生きる力」「確かな学力」← 授 →「生かす力」
↓
「生きて働く力」 「学ぶ力」
「総合的な学習の時間」← 業 → 「総合学習」
評価規(ノリ)準 ← → 評価基(モト)準
基礎的・基本的な力を確実に (算数) 2002.4
1. はじめに
『総合的な学習の時間』の導入が決定的になると、どこからか『学力低下』が問題視されるようになり、様々な発言が続いている。ただ、「学力低下はない。現代の子は、以前の子よりも、IT能力などすぐれている。学力の質の変化に過ぎない」という主張はいかがなものか。実際にできなくなっている(できなくさせられている)子どもたちと接している現場教師は現状をそのまま見過ごすことはできないのです。
ここでは、学力低下の原因を追求することが主旨ではないので、深入りしませんが、文部科学省が急に「基礎基本の重視」を言いかけたのは学力低下の事実を認めているからに他ならないのです。
2 「基礎・基本重視」のまやかし
「小学校では基礎基本をきちんと押さえるべきである」ということには、誰も異議をはさまない。しかし、具体策として提示されるのは、計算力向上と称する計算特訓ばかりです。『数打ちゃ鉄砲に当たる』式の古典的手法です。世の中、『創造性』が強調されているのに行われていることは、何ら『創造性』もないとは・・・。だから、学校の魅力がなくなり、『荒れ』が生じてくるのです。
何故、そんなことになってしまうのか。それは、「国民の共通教養としての基礎・基本とは何か」「一時間一時間の教材の歴史的価値はどこにあるのか」がはっきりしていないからです。いま要求されることは、「基礎・基本の重視」の内容を検討してみることが必要です。つまり、「基礎」と「基本」を分けて、教材をもう一度捉えなおしてみることが大切なのです。
3 どんな力をつけていくか
四年生の学習は重要教材が目白押しで、すべての子にわかりやすく、責任をもって、学力をつけることは至難に近く、でき得ることならば、担任希望を避けたい学年でした。ところが、新指導要領では、別表のようにごっそりと教材のさしかえが行われ、少しは余裕ができるのかな?と思えます。しかし、その内容を分析してみると、ぞっとしてきます。二十一世紀の日本に夢もロマンもありません。困ったことですが・・・。教師は、文部科学省の言う「指導要領は最低基準です」を踏まえ、子どもたちの学力保障をしていくべきでしょう。つまり、教科書をこなすだけの姿勢では夢も希望も持てません。指導力不足です。
では、どのようにして授業づくりを進めていけばよいのでしょうか。大きく変更した教材にしぼって考えてみます。
※指導要領における変更点
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◎わり算について
3年ではわり算の筆算をしなくなるので、わり算は、4年からの学習ととらえて進めるべきでしょう(わり算の意味をつかんでいる子がいれば好都合ですが、期待しないで進めたい)。
先ず、等分除・包含除の混同をなくすように、わり算の意味づけをしなくてはなりません。<全体量>÷<いくつ分>=<1あたり量>を基本ベースに展開したいものです。「1あたり量」が見抜けるかどうかが学習の第一ポイントです。できていなければ、『九九カルタ』(姉妹誌『小学校3年生の大研究』の中で紹介)で早急に習熟を図った方がよいでしょう。いつまでもひきずっていては、内包量の世界(学習)へ進めることはできません。
また、四年生は÷T位数、÷U位数の筆算指導が中心になっていますが、『わり算=分け算』という認識からの脱却をじっくり図るべきです。計算力は<たてる→かける→ひく→おろす>のアルゴリズムを習得すればよいのですが、教科書では、V位数÷U位数で四則計算の完成となってしまいます。これでは「最低水準」にもなりません。わり算の計算を型分けすれば、V位数÷U位数に限定していては十分でないことは明らかなことです。発展教材・総合学習ネタとしてでも、W位数÷V位数まで挑戦させたいものです。
また、時間数減による習熟不足を、「虫食い算」の活用で、補っていくことも大切です(総合の時間の活用を)。少し慣れるまで難しいかもしれませんが、是非やらせたいものです(いきなりわり算でなく、加減算から積み上げた方がよい)。わり算のアルゴリズムをとらえるには最適です。
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[問題例]
◎分数について
とかく話題になることが多い「分数」の扱いは、見事に減量され、3年生では分数も小数も扱わないで、4年で分数概念を獲得するように変更されている。 そのため、4年では、当然のことながら、『はしたの数』をどう表すか、小数の構造とのちがいをじっくり考えさせなければなりません(三年生で扱っていた内容)。
折り紙を操作して、小数・分数の違いを図1をベースに理解を深めていきます。学習の時期を一年間遅くなっても、進度を上げることはできないと思います。
次に、図2のような問題を提示し、問う。今までは、分割分数と量分数の混同して、すべてを「T/7」と主張する子も多く、おもしろい論議ができていたけれど、今後は生活用語としての1/2や1/3程度の子たちでは論議が深まるかは疑問ですが、是非とも提示して、意外性の中から興味・関心を引き出していきたいものです。不思議さの中に本質が見えてくるはずです。
そして、図3のような問題で量としての分数をとらえさせます。「もとのする量を1とみる」ことしかやっていないため、1/2mT/3mとしか答えません。量(m)への着目がさっぱりです。メートル法を削除した新指導要領下では、量にこだわって指導することがポイントになります《文章題への思考の基礎》。
<2図> <3図>
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、「分数の三者関係(数・タイル図・言葉)」を押さえ、分数イメージを持たせるようにします(操作は折り紙で)。これは、分数の数字とタイル図と言葉との関わりを曖昧にしている限り、真分数・仮分数・帯分数の関係も、また、約分・倍分、さらに計算もすっきり理解することはできません。「分数の変身」はできても図4のようにイメージを形成できていないことが往々にしてあるのです。タイル図書きをたっぷりやります《計算問題への基礎》。
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あと「等しい分数」なども扱うことになっていますが、これらは「倍分・約分ゲーム」で遊べば十分でしょう。必死になって勝とうと工夫する時、自分なりの策が「変身の術」として、思 <4図>
考活動を促して楽しく学ぶことができます。
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このように「分数の意味と表し方」を学び量に基づいて理解を深めておきます。つまり、分数を教材として、どんな思考活動をしたのかがポイントです。 なお、「エジプト分数」を『総合的な学習の時間』に扱えば、基本学力を支える総合学習になると思います。
<6図>
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4.おわりに
いずれにしても、学習内容3割削減といっても形式的(一律的)ですから、算数の授業時間の減は否めません。ですから、教師は一時間一時間の学習内容を厳選し、子どもたちに提示する。そして、子どもたちは授業で学んだことをきちんと学習日記にまとめる。つまり、一時間一時間、教師の意図が子どもたちに伝わっているかをチェックする。つまり、子どもたちが授業のポイントを正しくつかめるような授業をしているかをチェックすることです。
さらに、教科エゴではありませんが、「基本学力を支える総合学習」として、総合的な学習の時間枠を確保していく必要があると思います。
8. .少人数指導→習熟度別指導という流れに抗するには・・
TTの原点にかえって考えてみる 2004.8.28
「桑名教研で、文科省の学力向上フロンティア指定を受けて取り組んでいる学校の報告を聞きました」と書きましたが、その内実は、20年ほど前にブーム?となったオープンスクール・個別化教育の流れに乗っかったものです。ですから、「基礎・基本の重視」にあたっては、「完全習得学習」なる懐かしい言葉が出てきます。指導のパターンは、以下のようになります。
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「均質少人数授業」というのは、一斉指導が大原則で、『学習の個性化』にかなりこだわっているという話です。
「習熟度別」というのは、「個別化」であって、「能力別」ではなく、子どもたちと相談して、コースを 決めているので、差別意識は出ていないそうです。ですから、「習熟度別授業」と言っても、能力別というイメージではなく、わからない子を個別指導する場です。 ちなみに、できる子は、オープンスクールの特徴とも言える「プログラム学習」で「自学」です。
この学校に指導に入っている国研の高浦氏は、「均質少人数授業」と「習熟度別授業」の場面で、同じ教具などを使って指導していると、“不快そうな態度”になるそうです。「習熟度別授業」は、単なる一斉指導を補うためのものではないというのでしょう。「個別化授業」論者としては、『学習の個性化』が保障されていなくては、個別化授業の質を問われますからね。
ここが、「個別化」と「能力別」の分かれ道です。ここに教師が執着して、授業づくりにこだわれば、少人数指導の分野に、新たな波紋を起こすような気がしました。 ただ、学力向上フロンティアなる研究指定校の宿命で、1時間ずつ・1単元ずつ評価基準を苦心して創りあげ、授業の質を高めていることも、個別化=プログラム化が完成したときには、生き生きした授業が成り立たなくなる危険性は大きい。 私も、過去に3度も研究指定校に関わってきた(関わらされてきた)経験からも危惧するのです。どう克服されていくのか注目に値しますね。
さて、10年ほど前に、当時の文部省が「TT加配を、6年で一巡させる」と言ってTT加配を始めた頃にも、注目しました。 現在、習熟度とセットでTTが行われていますが、TTの本来の姿に引き戻す運動も、少人数=差別教育に対抗する取り組みになると思います。