自 己 紹 介
私の名前は、渡辺靖敏といいます。年齢は、あまり言わないことにしています。子どもたちがしつこく聞きますし、このホームページを覗いたという子も増えてきました。いろいろなことを資料にして、年齢を予想しているようです。 ただ、顔つきに似ず、年を重ねているのは事実です。結婚している二男の家庭に,2003年4月子どもが生まれました。私、おじいちゃんになっちゃいました。 でも、孫って可愛いものですね。そして、遂に先年には、わが子たちが「還暦パーティ」をやってくれました。そして、「退職記念の石垣島ツアー」も企画してくれました。わが子もちゃんと成長してくれました。
さて、私は名古屋生まれの名古屋育ち、愛知県外で生活をしたことはありません <厳密には、西春日井郡楠村生まれです。楠村が1955年に名古屋市に合併しただけのこと>。
保育園・・・徳風幼児園。民間の保育園です。当時、私の住む村には幼稚園・保育園はありませんでした。 当時としては、珍しく電車に乗って通園しました。 今話題の「羊神社」の近くにあります。
※その後知ったのですが、園長は知る人ぞ知る節談説教の第一人者・祖父江省念師、そして、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と言っていたのが、先ごろ亡くなった児童虐待ネットワークの祖父江文宏氏でした。
小学校・・・・西春日井郡楠村立楠小学校 (入学時は2学級で64人だったと思う。卒業時は1学級50人くらいいた。未だに同窓会が続いている不思議な仲間です。
中学校・・・私立東海中学校。「ドラキチ」は、この頃から。少年ドラゴンズに入会していました
高校・・・・・・私立東海高校 (高2の時に、親父が亡くなりました) ここで、お受験 失敗! うえー、そんなはずじゃなかったのに・・・・・
大学・・・・・・愛知教育大学歴史教室・中学校課程、近世史専攻
※卒論は近世史「尾張藩における百姓普請役の研究」でした。尾張藩には「三日役」という労働地代が存在したことを論じました。この支配構造が、現代まで封建遺制として残っているのです。 この研究の基盤は、佐々木潤之介氏の『軍役論』です。結構、歴史学会で発表させてもらうくらいの研究でしたが、こっそり私が卒論を家に持ち出してしまったので、「見せてほしい」と訪ねてきた人は1人しかいない。この時の指導教官も福山大学へ行かれたので、もはや忘れられた存在になってしまった。そうしたのは私自身ですから何も言えない。
デモシカ教師スタート
1年目は、大学院に行きたくて、名古屋大学の公開講座?などを聴講していた。6ヵ月後に日作の石黒さんと出会い、文集づくりを始める。地域の教育懇談会や地域サークルに顔を出すようになった。この1年目末に、研究指定校を受けるかどうかの職場討議の最中、「私は、言われないとできませんから、指定校は受けたほうがよいと思います」というゴマすり発言にムカムカ・・・・・・。「おまえ、何年教師をやっとるんだ。そんなんで、よく教師が勤まるな。」と怒鳴ったのが運のつき。以後,悪徳教師のレッテルを貼られ、就職時の保証人(県校長会の副会長の伯父さん)の威光もなくなりました。
※新聞に初登場は、5年目 中日新聞紙上で「集合の導入について」論じたもの。
※雑誌の初登場も、5年目 なんと「潮」で「教科書問題について」発言したもの。
歴 任 校・・・・・楠 小(4年)、楠西小(8年)、老松小(9年)、城北小(7年)、東山小(9年) 2006年3月退職
2004年度より、愛知県立大学で非常勤講師を勤めている。以後、名古屋経済大学、日本福祉大学でも非常勤講師を勤め、2013年度より 日本福祉大学の専任(招聘教授)となる。
サークル・・・・いろいろ入っていましたが、今は数学教育協議会、教育科学研究会だけにしました。
教育運動・・・・教科書裁判支援運動、民間教育運動、法則化運動批判運動、今は授業づくり運動に力をいれている。
蔵 書・・・・・教育雑誌 多数。多いときは20数種定期購読していた。『数学教室』など創刊号から。この蔵書は、自分でいうのもおかしいが、異常に近い。もうぼつぼつ経費も節約し、老後に備えなくてはならないのにねえ。30年以上取っていると、なんだか惜しくて購読を止めら れない。でも、もう決断すべき時でしょう。そして、退職を機に決断しました。『数学教室』と『教育』だけにしましたが、とても寂しい気分です。 教育雑誌も近々処分します。 「あなたが死んだ時、遺族が処分に困らないように蔵書を整理しなさい」と厳しい妻からのお達しが出ていますから・・・。
<通信活動>
・ 授業実践論集 1 集~9集 【今までに活字になったものを集めたもの】
・ 『授業技術運動研究』(法則化批判) 86年11月より、275号でストップ
・ 『授業づくり通信』 94年1月より月1回の発行、 139号2350ページで終刊
・ 『ヒラ教員知的生活のススメ』 89年4月より200数号のあと、パソコン上の「教育日記」へ
・ 「学級通信・あゆみ」 「退職までに2000号を」と言っていましたが、ここ2年間は日刊に近いペースでがんばり2185号で終刊。
2012年度の活動
大学講師* 愛知県立大学、日本福祉大学、名古屋経済大学、同大学院
ボランティア* 明治村(金曜日)、リトルワールド(火曜日)
サークル* 学びの園・あしたば、 算数授業づくりの会
2013年度から、日本福祉大学の専任教員となりました【客員教授】。
大学講師* 愛知県立大学、名古屋経済大学、同大学院、
ボランティア* 明治村(金曜日)、リトルワールド(火曜日)
サークル* 算数授業づくりの会に一本化
2014年度 名経大の仕事はなくなりました。
自 分 史
※以前『授業づくり通信』に、楠小時代から老松小頃までを、18回にわたって書いたが、その後、ストップしている。 そこから、再開したいと思っているのですが、なかなかその態勢がとれないでいる。退職後の仕事かな? 若干、整理したけど・・ 退職を機に、あいち民研から「卒論を書け」との依頼があり、以下のような文を書きました。
戦 中 派 教 師、総 退 場
・・・・・できたこと。できなかったこと。さてさて、どうするか・・・・・
0.デモシカ教師誕生
私は、1969年に母校である北区のK小学校へ赴任した。そこでの4年間のうち2年は『研究指定校』、1年は『開校百年誌』に取り組んだ。次の8年間は、K小から独立したK N小学校へ。ここでも『研究指定校』にあたった。1981年からは、中区O小学校(9年間)。そして、再び北区に戻り、J小学校で7年間。またまた『研究指定校』であった。最後は、千種区H小学校に9年間在職し、定年を迎えた。
とにもかくにもデモシカ教師が、よくぞ定年まで「生涯ヒラ教員」を貫けたものである。これも、太平洋戦争下を生き抜いてきた根性の為せることなのかなと思う(ちと、大袈裟。私は45年5月生まれ。3ヵ月後に敗戦。戦争中のことなんて知ってるわけない)。
1.何がそうさせたのか
第一次デモシカ教師である私は、職に就いても、教師を続ける気持ちもなく、教科書べったりの授業をしていた。ところが、1年目の年度末に≪研究指定校≫問題が起きた。≪研究指定校≫は有難くお受けするのが当たり前、≪研究指定校≫を受けるかどうかの職場討議をするなんて尋常のことではないが、青年部が半数を占め、意気揚々とした職場でしたから、延々5~6時間にも及ぶ職場討議が2~3回行われた。一人ひとりの教師は、「今後、どんな立場で教師をしていくのか」を迫られた。そんな中で、「言われないとできませんから、指定校を受けた方がよいと思います」という発言に「おまえ、教員、何年やっとるんじゃ!」と、新卒の若造である私は声を発してしまった。これで、私の教員人生の運命は決まった。
さて、この≪研究指定校≫の時から、デモシカ教師は、猛烈に≪教育学≫の学習を始めることになる(始めざるを得なくなった)。当時の歴教協委員長・高橋磌一氏の『不退転の論理』に学ぶと言えば、カッコいいが、動機は不純である。反論する力量をつけるためでしかなかった。理科の指定校であったので、科教協、仮説研、極地研等の民間教育の実践を必死に学び、一方では、教科書分析を職場の仲間と始めた。1年生から6年生まで、単元ごとに教材批判を書いてまとめた〔社会・理科・算数・国語・道徳と3年間続いた〕。家の裏のおばさんに「先生になると、そんなに遅くまで勉強しなくちゃあならんの?」と言われるほど、努力したのは確かであり、教師として生きていく勇気もちょっぴりつけることができた。
2年間の≪研究指定校≫が終わると、今度は『開校百年誌』の編纂があった。本来なら、≪研究指定校≫に反対した奴なんか外したかったであろうが、歴史専攻、学閥本流、しかもK校の卒業生である私を外せなかったらしい。ここでの執筆は、家永教科書裁判支援に関わりかけていた私には、貴重な検閲体験の場となった(その様子は、「戦争表現にブラジャーが必要か」というパンフを作って暴露した)。
こうして地域サークル≪あしたば≫を基盤に、愛知民教連事務局員や教科書県連委員として、活動の場が拡がっていった。学生時代に≪教育学≫を熱心にやっていなかった付けは、「数学教室」「算数教育」「作文と教育」「歴史地理教育」「理科教室」「たのしい授業」「体育とスポーツ」「美術の教室」「子どもと教育」「教育法」「日本の民間教育」「国民教育」「演劇と教育」「教育」「教育評論」「現代教育科学」「授業研究」「授業づくりネットワーク」等々、20種を越え、雑誌購読は多岐に亘ることになってしまった。小学校教師として、創造的な授業を展開し、楽しく教師生活を送るには、情報源は不可欠であるが、小学校教師の研修権を認めようとしない体制は、昔も今も変わらず、薄給の我らにはつらかった。 こんな頃より、ちょっぴり自慢?したくなるようなこともちらほら。
・ 名古屋で初めて図書室の床に前面カーペット敷きにし、図書館コンクールに入賞した。
・ 蔵書の点検がし易いように、図書の登録番号の表示場所を変えたら、北区だけでなく、予想以上に広がった。
・ 全校遠足など“たてわり集団”の形をK N校で確立できた。
・ 週案の手抜きの書き方を提起した(この形式は、裁判の参考資料にもなった)。
・ 交通標語日本一の子が出た。≪急いでも きちんと見ます みぎひだり≫
でも、2回目の研究指定校のとき、“土曜日をノー・カバンデーに!”の提起は、時期尚早と教委に蹴られたが、教委にもっと度量があったら、一代旋風が起きてたかもしれないのに・・・・・。
2.『教科書のオニ』から「法則化批判」。そして、「授業づくり通信」へ
私の活動の基盤は『教科書問題』であった。当時、この問題を扱う小学校教師は手薄だったので、私の名前はどんどん広がる。『教科書のオニ』はいいけれど、実践が伴わないもどかしさに悩まされた。研究会で颯爽と報告する人を見て、「どこから、あんな自信たっぷりになれるのか」と、不思議でならない。実践は“失敗から学ぶべきだ”と、心底思うようになったものである。
ところで、私の教員人生において、大きな転換期になったのは、1986年である。
愛読していた『日本の民間教育』が休刊となり、日教組は分裂。国民教育研究所も解散。それとともに、急速に頭をもたげてきたのが、≪法則化運動≫である。特に≪管理教育≫で名を馳せていた愛知と千葉で広がったのは、何かの因縁であろう。もともと「愛知には、岐阜・恵那や三重・員弁のように地域に根ざした教育はないし、組合活動で主導権を取れないばかりか、組合教研でも主導権がとれない。愛知の教育運動の先輩どもは何をやっていたのか」という思いを不遜にも抱いていたので、私の通信活動も“学級通信”“職場通信”の域から、全国に打って出ることにした。それが、『向山洋一・教育技術の法則化運動を追って』(後に『教育技術運動研究』とする)である。1986年11月のことである。体育研究同志会の出原泰明さんが『体育の授業方法論』(大修館書店1991年初版)で、次のように紹介してくれた。
「教育技術の法則化運動」が「草の根保守主義」運動としての役割を果たすことを予見したのは、渡辺靖敏氏であった。氏は『向山洋一・教育技術の法則化運動を追って』という個人通信を出しているが(1986年11月創刊、1990年4月ですでに200号を超えている)、その2号で、「法則化運動の担っている役割は何か。臨教審後の教育界で、国鉄における動労と同じ役割を演じるための準備であると。向山氏は、その尖兵の役割を着々と果たしていると思われるのである。(この予測は数年後に明白になるであろう)」
こうした追跡をするために、またまた書籍費は増え、発送のために通信費は毎月1万円を超え、妻からは「郵政省の回し者か」とののしられながらも、275号まで約8年間続けた。おかげで、全国の様々な立場の人たちとの交流もでき、また、授業というものを見つめ直すきっかけにもなったと思っている。
そして、1994年1月よりは『授業づくり通信』として、日頃の実践を書き綴る内容にした。愛読してくれる人も多くなり、初期は“1000頁まで頑張って書こう”と始めたが、なんと139号、2350ページまで続いた。時には、「通信の記事にするために実践をしなくちゃあ」なんて、行き詰まった時もあったが、これに没頭することによって、気を緩めることなく、精一杯の教師人生を送ることができたと思っている。
【通信活動】※
『学級通信』は、1970年4月より →→2185号で終刊。
※『法則化批判通信』は、1986年11月より →→275号で終刊。
※『授業づくり通信』は、1994年1月より →→139号をもって終刊。
※ 『知的生活をするための教育日記』は、1989年4月より →→今も進行中。
※『ボクの教育実践論集』は、1984年3月より →→現在 第9集
※ 『資料研究の研究』は、2005年8月より →→今、2号まで作成。
3.アジは、遠声にしかならなかった?
様々な形で綴るうちに法則化運動は、国鉄問題における動労の役割と同じである」のようなアジをいくつか発した。
◎1970年代「通塾率は、教師不信のバロメーター」
“高い水準の科学をやさしく教えよう”とは、50年代、60年代の民間教育運動華やかなりし時代のスローガンであるが、それを頑なに信じ、子どもたちを賢くするのが教師の仕事。それなのに、担任する子たちが学習塾へ行くなんて、教師として信用されていない証拠だと考え、数教協の全国大会で提起した。そしたら、遠山啓さんに「君、それは見方が狭すぎる」と指摘された。確かに、様々な学習塾があるから、決め付けはまずい。でも、今も“高い水準の科学をやさしく教えよう”の信念は変わらない。“授業を大切にする子になってほしい”という願いは、ますます強くなっている。
◎1990年代「公教育は、学習塾に負けた」
これは、「総合学習!」「総合学習!」と騒ぎまくり、本格的な授業研究を行わない現場の不甲斐なさに苛立ち、アジった。投げ込み教材すら、さっぱりやろうとしない教師たち。『教育課程編成能力』は劣り、評価権も放棄してしまった“ほうれんそう教師”たち。一方、金儲けとはいえ、必死に個別指導をする塾。これでは勝負にならない。教師の自立なくして、子どもたちに『考える力』をつけることはできないはずなのに、教師のプライドはないのかと息巻いた。そしたら、「学校が元気でなくちゃあ、塾は成り立たん」と励まして下さったのは、学習塾の方であった。
◎1999年「基礎学力と基本学力は、分けて考えよう」
この提起をしたのは、実は、愛知教育大の子安潤さんが、私に「その教材の歴史的価値は何か」としつこく迫っていた時期がある。それまで1時間1時間の授業の価値を厳しく考えていなかった私は、落ち込んだ。それが、現場教師の弱点を見据えての仕掛けだったと気づくには時間がかかった。つまり、「基礎・基本の重視」と言っても、算数でさえ曖昧なまま。「基礎・基本」といえば、「読み書き計算」の域をさっぱり乗り越えられない日本の教育界。その起爆剤として、
・授業づくりの観点からも 「基礎」「基本」は分けて考えるべきです。
・教材の精選の観点からも 「基礎」「基本」は分けて考えるべきです。
・時間数減の観点からも 「基礎」「基本」は分けて考えるべきです。
と、北陸での数教協全国小学校集会で提起してみた。銀林先生が「21世紀はいかに基本学力をつけるかが勝負どころである」と理論付けをして、『教育評論』などに次々と発表した。しかし、思ったほど広がっていない。「基礎学力」「基本学力」の違いを具体的に(教材ごとに)示すことができていないからである。ただ、習熟度別指導や少人数指導で、系統だった実践が難しくなっている現状だからこそ、子どもたちの豊かな学びを保障するためにも「基礎」「基本」を分けて考えることは避けて通れない課題であることを現場教師は忘れないでほしいものである。
4.夢とロマンを求めて、これからも・・・
『いつでも何でも精いっぱい 素早く正しくにこにこと 用が済んだらサッサと次へ』を学級のスローガンに突っ走った教員生活であった。親しみを込めて「おはよう先生」「ナベちゃん」「テスト星人」と呼ばれ、しばしばカッカする私を「ナベちゃん、今日のおなべの湯加減、どうですか」と素敵に慰めてくれる子どもたちに囲まれての日々であった。卒業式の日には、私にも手づくりの≪卒業証書≫をプレゼントしてくれた。「♪仰げば尊し♪の歌詞は、嫌いだ」と言って憚らない私に、「仰げば尊し わが師の恩」と歌って、彼らは去っていった。
私も小学校教師生活を卒業したが、「愛知民教連」の再出発や「あいち民研」設立準備という時期に愛知の教育運動に関わる機会があったように、「バイパス理論の再構築で、教育(算数)に光明を!」を目標に 地域キャラバン隊を組織して、崩壊する日本の教育に歯止めをかけたいと思っている。『ゆっくり 急ごう』 (会員)
ある父親が卒業式の日に贈ってくれた
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