狭心症奮闘記

手術を乗り越えて復帰を目指す根性のリハビリ編

苦痛で悲痛な一夜がどうにかあけ、相変わらずICUの中では計器や呼吸器、などピコピコうるさかった。
朝までの間に随分と点滴の数が減った、そこそこ元気そうな顔をしている私には看護婦さんが厳しかったようなきがした。

白衣の天使さんには、腹に刺さったホースの痛さはどうにも分ってもらえないようで、若い人ほど過敏で痛がるんですよね〜って感じで実際ヒトゴトだからしょうがないけど、はいベッドを起こして薬を飲みましょう!!ベッドが動くと自然に腹に力がかかりイテテテと騒ぐことになる。

いたみが落ち着いたところで水のみで水を飲ませてもらったが、自分で出来そうですね、って言われれば『ハイ』て言ってしまうしかない。もっと甘えれば良かったのだろうが...。赤白黄色など色とりどりの薬10錠位をプラスチックの容器に入れてあって、飲めそうですねって言った。

そしてそのまま私の口に一気に入れようとした。チョットまってくれ、ここに置いてくれ〜。て布団の上を指差し、一錠づつ飲み込んだ。
なんて残酷な看護婦さんなんだろうと今でも覚えている。

その後、チョット恥かしかったが、体を拭いてもらい、ついでにで下半身に刺されていた管が一気に抜かれた。う〜ちびりそう!という感じの気持ち悪さであった。
そうこうしているうちに天野先生の回診があり、痛いですか?すごくいたいで〜す! と言うと、ポンタール飲ませてと、指示してた。4〜5人の先生が立ち代り覗いていった。

その後、予定ではICUにもう一泊の予定だったのが、落ち着いてるからと、術後24時間も経ってないのに、一般病棟でもないがそれに近い部屋に移ることになった。
11時が面会時間だったのだが、その時間に合わせたように、身支度をさせられ、と言ってもしてもらい、ベッドからストレッチャーでいくとおもってたら、石川さん車椅子で引越ししましょう!。だって。ホントかよ?!ベッドが立てられ、苦痛に耐えながらシミジミト自分の胸を見ると、テープが胃の辺りまで張ってあり、こんなもんじゃ開いちゃうんではないかと、心配するほどの簡単なものだった。そして胃の左右の辺りに胸中ドレーンホース直径4〜5ミリはある管が2本刺さって、ばんそうこうでとめてありその先は、袋がついて、チョット血が溜まってた。

そんな色々とぶら下がって重い体を起こして、肩は貸してくれたが、立ち上がって足踏みをするようにしろと言われた。もし傷口が開いて中身が出てきたらどうするんだ!! と思いながらも、フラフラする体をどうにか奮い立たせ立ち上がった。胸の傷は全体的にシビレタ感じでなんとも変な感じだ。胸が張れず必然的に猫背になった。そのときはまだパンツをはいてなかったような気がする。そして2から3回足踏みをして、パンツをはきパジャマ(?)に着替えて、車椅子に座らされた。点敵などをくっ付けて、チンドン屋のような車椅子が、昨日は天井を見ながら移動していった廊下を、前を向きながら移動していった。父親がICUにいた時に毎日来た廊下と変わってなかった。なんか名残おしく、看護婦さんと仲良くなろうと思ってたのに、ダメだった。
そういえば朝ご飯は食べたかどうか覚えていない。

母親と弟が昨晩は近くのホテルで待機宿泊をしていて、朝11時の面会をして家に帰る予定をしていた。だが11時の面会時間にきたら外で待ってるように言われたらしい。もうICUから同階の病室に移ると聞いて、そんなに早く出されて逆に不安になったのではないか?実際そうだったらしい。

移されてベッドに落ち着いたら、母と弟がきて驚いていた。それで、せっかく昨日手術前にまとめた荷物を、持ってきてもらった。PCなどはコインロッカーに入れておいたのを持ってきておいてもらった。少し話しをして安心して2人は家え帰っていった。でもやはり昨日の今日で傷も痛いし動脈をとった左手もシビレれ痛くホースもいたく熱もある。6人部屋の窓際にはモウ一人いて2人で占領していた。

もう管も入ってないし、トイレは行きたいが、その晩は尿瓶ですませるしかなかった。そう簡単に尿瓶の中になんか出せるものではなく、したいが出せないこの辛さ、膀胱炎にでもなりそうだった。立ったら出来るかと、ベッドサイドに立たせてもらったのもその時のような気がする。鮮明に覚えてるが、依然起き上がろうものなら激痛の走る腹を抑えながら、立てないと力無くいったら看護婦さんはやさしく、ここを持ってと、首の後ろに手を回すように言い、ウブなわたしは躊躇しながらも、そっと手を回して力強く抱きつく形になった。一瞬、双方気まずい感じになったような気がしたのは、私のかってな思い違いだったようだ。

何よりも看護婦さんは私のオシッコにしか興味がなく、オシッコをするのをただ待ってたみたいだ。なぜなら、手術では輸血しないかわりに薬を一杯血液の中に混ぜて、血液量を増やしていたのだ。2〜3キロ体重が増えてたような記憶がある。
それにまだ点滴してるから、それに見合った量を排出しなければならなかったのだ。
やっとのことで出したら、アー良かったと言ったかどうか忘れたが、なんか看護婦さんがホットしたようなことを言ってたと記憶する。

食事はホントにお湯のようなおかゆでとても食えたものではなかった。それに熱もあり食べるきもしなかった。とにかくモウロウとした一晩がすぎた。

そして、その翌日(手術が月曜日で2日後の水曜日)はトイレまで歩いていった。滑車付きの点滴をつるした物をコロコロと転がしながらフラフラしながら歩いていった。途中ドアの枠に引っかかり、普段は全然気がつかなかったところだが、こんなにもバリアになっているとは、建築にかかわってきた者として考えが甘いと感じた。

途中夕べの看護婦さんが夜勤開けで帰るところに出会い、昨日とは全然顔色が違って、楽そうな顔をしてると言われた。夕べはお世話になりました...。といった。

天野先生の回診が終わり11時頃だったろうか、一般病棟に行くことになった。
その前にはあまり触れなかったが、親指の下あたりから腕の関節あたりまでトウ骨動脈というのを取ってバイパスに使っていて、大きく傷があるそれもまた、ちょっとしたきっかけで電気が走るように激痛が走っていた。

一般病棟にうつるにあたり若い2人の先生が、胸中ドレーンをはずしに来た。ぬくんでチョットi痛いですよ!それと肩がだるくなりますよ〜。といわれて歯を食いしばった。本当に肩がドーンと重くなって、苦しかった。そしてドサクサにまぎれてチクッとしたと思ったら、穴を×に縫っていた。その後腕のバンソウコウを躊躇なくビッとはがし悲鳴を上げそうになったがグッと飲み込んだつもりだったが。気が付くとイテテテテと叫んでいた。

でも先生はそんなのお構いなく、今朝あそこでこんな事があった。などと世間話をしていた。

なんと8人部屋だったので術後は個室を予約していた。といってもそんな良い部屋じゃないが、十分である。電話がついていたし、テレビも見放題、きのうテレビカードを補充してもらはなくてよかった。わざわざ公衆電話までいかなくても済むようになったのより、TELジャックでパソコンにつなげてインターネットやメールをコッソリと携帯電話から繋げなくても堂々と出来るようになったことだ。

部屋にもどったが相変わらず微熱は続くし胸の突っ張った気持ちと、腕の痛さ、これからはこれが和らぐのをジッと待つしかないのだ。少しずつ歩く訓練も始まっていた。見ていると退院間近の人は一周出来る廊下を何十周もしている。早く俺もそうなりたい。

術後のリハビリプログラムは以下のようでした。
入院時に渡された予定表では、術後3日目で3階病棟に移りその後6階の病棟へ移るになっていたので、2日くらい早く一般病棟に戻ったわけです。まあ若さによるものでしょう。

3月17日(水)6階病棟1周、部屋にも付いているがワザワザ公衆電話まで歩いて行って、家に電話した。もう一般病棟に戻ったと聞き母親には安心と不安があったようだ。

会社にも電話した。術後に○×の電話だけ弟に頼んでおいた。ので加藤さんに報告しっかり直すように言われたと思う。

社長の平川さんは海外にいたのでメールでの報告をしておいた。


一般病棟に戻ったその夜、菊池のチーちゃんが夜這い、いや面会に来てくれた。ベッドに寝ているほうが苦痛だったので、椅子に座って、ボーっとテレビをみていたら”3階の部屋でくたばっているはずだと、3階に行ったら、もう6回の一般病棟に戻ってると聞いて、びっくりしてたらしい。しかも椅子に座ってテレビなんか見てたもんだから...何してんの?って感じでしょうか。

お見舞いに来てくれた方には癖のように、『これですと!』胸をはだけて、自慢気に見せていた。
しゃべったりするのがやはり息を大きくすえないのでか細い声しかだせなかった。

18日は病棟2〜3周、と一階の売店までのお許しが出て、愛読書のジャングジャンプと文春を買いにいったのだった。

19日は病棟4周と階段10段その後20段30段と増やし、21日土曜日ころには天野先生にどんどん歩いて、もう1階から9階(屋上)位までガンガン歩くように言われた。
そう言われればやらざるをえず頑張った。でもまともに胸が突っ張り痛くて呼吸ができなかったように記憶する。

つづく