狭心症奮闘記

怒涛の手術編

「ついにその日は来た!!」

振り返れば小学校の入学式からだが、入社式、協力隊での出発の日など節目節目の日は必ず雨で多分に漏れず手術の日も雨だった。
前日はメールを入れついでに座薬も入れられ、寝た。

入院中は公衆電話及び、海外に滞在中の社長や会社とのやり取りはコッソリとトイレに携帯電話を持っていきスイッチを入れてモバイルPCと接続してメールのやり取りをした。心疾患の患者の病棟だから携帯には一応気をつけていた。

朝はいつもと同じに起き、顔を洗い鬚も剃りサッパリとしてその時を待っていたと記憶する。
手術、ICUとベッドを空ける為に荷物をまとめた。後は、付き添いに来てくれた母と弟に託したのであった。麻酔の予備薬、を看護婦さんからもらい飲んで最後にトイレに行った時は弟が付き添ってくれた。実は弟は私が逃げ出さないように監視をしていたような気もした。

8時半頃だったろうか、少々麻酔導入材のせいかもうろうとしながらストレッチャーにのり、肩に痛かった筋肉注射をされ、パンツ一枚の布団の下で、最後のパンツも看護婦さんにスルッとぬがされ、じゃ行きましょうか!と、とうとうその時が来てしまった。

ストレッチャーに乗ったまま、廊下を抜けエレベーターに乗り3階の手術室へと向かった。手術室の入り口で家族と別れ何度も本人確認をされ(数ヶ月前に心臓と胃だったか他臓器の患者を取り違えた事件のせいでもないだろうが何度もされた。)テレビで見たようなライトがあって殺風景な手術室に入り何人ものスタッフの人がいる中素っ裸のまま手術台に乗り移り、モウロウとしながらも怯えながら横になった。

術前最後の記憶は麻酔の点滴の針を手首に入れるとき『チクッとしますよ〜』といわれ『イテッ』といったのは覚えているが、その後は何も覚えていない。

 術中 》

『石川さーん、石川さーん何回も肩を叩かれ起こされた。意識は戻ったが目が開かず体も動かなかった。口には呼吸器が付けられ妙の周りでピコピコと呼吸きのシューっと言う音が響いていた。
以下、決して作り話ではありません。
いまだに覚えているのが呼ばれて起こされる前に、何と二股の道があり片側には父親が立っていました。そしてもう一つの道にはとくに誰かいたか覚えてないのですが、その頃病床でラジコンの模型を作っていて、その模型と何かがあって、父親の方へはヤッパリ行ったらまずいよな〜と思って、ラジコンカーの方へ行ったら『石川さーん、石川さーん』の声が聞こえてきた。
当時もですが未だに父親が夢に出てきたのが、その時だけだったんです。
始に起こされたときにはICUに戻ってすぐの面会時だったようですが、覚えていません。

その後は心臓が止まらないように一所懸命呼吸をしなくちゃと思い、呼吸をし夕方の面会時には呼吸器もはずれ、母親と弟が来てくれたのを記憶しています。そして、もう麻酔もほとんど抜けて、サッパリした感じでやっと終わったという充実感と。左手に傷がありチャント動脈が使えたと自分でもほっとした。あとは根性で直して早く復帰しないとと、心に誓った。母も弟も父の件もあって心配だったろうが、ほっとしたように見えた。安心させるように繕った部分もあったが。
だがそれからが地獄であった。手首、首、眉間のあたりにも点滴の管が刺され、小便の管も刺され、ベッドの周りは機会と点滴だらけで、心電図、血圧計等もありホントに騒がしかった。

特に、腹にはドレーンホースが刺され、それがちょっと腹に力が入ると、これがモウどうにでもしてくれ〜と叫びたくなるほど痛く体を少しでも動かそうものなら、ググっともっといたくなる。腹筋をツッタ痛さです。

それが一晩中つづき、どこか痛かったら痛み止めをあげますよ、と看護婦さんに言われ、何度かポンタールという薬を飲んだが、眠くなるだけで一向にそのツリそうな痛さは変わりなかった。

術中その後と寝むり過ぎて、夜9時頃から全然眠れなくなった。痛いしだるいし、眠れない、うるさいで、何度も看護婦さんに時間を聞いたが、1時間しか過ぎてなかったり、と一番辛い一夜だった。あと喉もカラカラだった。
ただただ、朝11時の面会が待ちどうしいだけだった。

ついでに足元のほうにあったテレビモニターには誰かの開胸手術部分のアップ映像が流れていた。ひょっとしてビデオにとって退院の時にくれるのかと思ったが、ただ経過を流して、そろそろICUに来るとか、状況を見るだけなんだとさ。

つづく