狭心症奮闘記

怒涛の入院中編(中)


そうこうしているうちに検査の日は否応なしにやてきた。前日のUnder HairのSave Offは恥ずかしいというか情けなさの極地だったが、それより格好悪い○○帯の付け方わかんなかったので、看護婦さんにきいて付けたけど、造影室のベッドにの乗せられたら、すぐにとられて何の意味もなかった。

じゃ始めますの言葉で足の付け根に麻酔注射を打たれてイテテテと心の中でさけんだ。そもそも部分麻酔なので顔の横にある画面も丸見えで、ずっと見つづけていた。
「石川さん状況は悪いですね、今回は治療出来ないんで、今日は終わりにします。心カテでは治療不可だって!!」

古い血管の狭窄があって、それが75%閉塞状態でやばいです。バルーンなどの治療も古い狭窄を広げるのは無理だそうです。そのかわり私の場合は、細い血管が太くなり自然のバイパスになっていて冠動脈の役割をしていたのだった。(これは気合と根性の賜物だったのであろう?!)やはり気合と根性は死への発作と背中合わせだったのだ。そんなこと知ってたら絶対に運動なんかしなっかった。無知ゆえに出来たことだ。他にも細くなっているところもあります。とのことで、造影室でまだカテーテルが入っている間に先生に説明された。

事情がすぐに飲み込めてしまった自分の冷静さに驚きもしたが、父親の時の知識の積み重ねによるものだった。「ああ俺もバイパス手術しかないか、父親と同じだけどしゃーないか」。それも同じ新東京病院の天野先生で。良く考えて決めてくださいなんて言われても、他の選択肢はないんだから気持ちの整理だけだった

早く直して社会復帰しないと...。とあせる気持ちと合い交わり不て寝しかなかった。
翌日かその翌々日ぐらいにはお願いしますと、先生に返事をし後はその日を待つ長〜い日々が始まった。

手術待機入院。時のたつのは無常で師走に突入し手術の日程が決まるのを待つまいにちで、薬は心臓の動きが速くならず、負担がかからないような薬を与えられていた。そして病室は南向きの部屋で昼間はポカポカで天国へ行ってしまっていたようだった

先生に返事をしたあとは自分では意外と平静な毎日を送っていたつもりなのだが、廻りからはそうとも見られていなかったようで、看護婦さんにも何か心配ごとあったら言ってくださいね!などと同情されていた。やっぱ大変なことなんだよな〜。と余計に心配になったりと。今考えれば不安定だったのでしょう。

検査後1週間もすると、発作もなく症状も落ち着いてきたので、病院の中をあまり負荷をかけすぎない程度に歩き回るのを許され、シャワーもゆるされ退屈な日々が続き、やがて手術の日程も1月14日入院、21日手術と決まり正月は落ち着かないけど、家で過ごせるように一時退院が12月半ばに許されたのだった。





つづく