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第1回演奏会プログラムより

「早稲田の杜金管合奏団 (ワセキン) 誕生記」  坪井 賢一

 早稲田の杜金管合奏団。おお。なんと良い名前だ。衆議一決した金管アンサンブルの名称。当初の案は、 早稲田の杜中年金管合奏団と、「中年」が入っていたが、つごうによりやめました。デビューは2000年8月の 「早稲田大学交響楽団OB会総会」時の室内楽演奏会。結成はその2か月前、突然。
 どうしてかって? よく聞いて下さった。

 今を去ること3年半前。1997年のことである。おりから金融システム危機が進み、一部大手金融機関が破綻するという噂がマーケットをかけめぐっていた。そのころ、トロンボーンの赤尾達也は山一証券北九州支店副支店長として小倉に赴任していた。
 10月。私(坪井)はそのとき経済雑誌の編集者。小倉出張のおり、赤尾と20年ぶりに再会し、現下の金融情勢などについて議論していた。「年末にまた来るので会いましょう」「おお。待ってるぞお。ガハハハハハ」。 証券会社の営業幹部らしいド迫力の笑い声に送られて、小倉をあとにした。

 それから1か月。米系格付け会社は山一証券や北海道拓殖銀行などの格付けを引き下げ、株式市場では 両社が売り浴びせられていた。またたくまに資金調達の道が閉ざされ、拓銀が11月14日に破綻、1週間後に 山一証券が自主廃業した。
 年末。出張した私は赤尾に再び会った。「元気ですか」「まあな。いま、後始末に追われているんだ」「どうするんですか」「東京に帰る。なんとかなるさ」「そうだ。6月のババカン(高田馬場管絃楽団)の演奏会にぼくも出ますから、聞きにきてくださいよ。ワセオケ時代の仲間もいますから」「うん。もう20年、楽器に触っていないけどねえ。たまには聞きにいくかあ」。目はつり上がり、蒼白で緊張感漂う赤尾の表情に気押されながら、帰京した。

 半年後の1998年6月。ババカンの演奏会。すっかり健康を取り戻し、目がやに下がって上気した赤尾がやってきた。野球帽をかぶっている。「元気そうですね」「うん。再就職先も決まってね。もう東京で働いているぜ」 「そうですか」「しかし、だ。いいなあ。きょう聞いて、またトロンボーンを吹きたくなったよ」「またやりましょうよ」。
 赤尾はその後、楽器を押入れから引きずり出し、なんと2つのアマチュア・オーケストラに入って音楽活動を再開した。エキストラにも積極的に参加し、あっというまに20年前のライフスタイルに戻ってしまった。
 それから1年後の2000年初頭。楽器から遠ざかっていた赤尾の周囲のOBが、再び楽器をケースから出し、赤尾の狂気にかられた演奏活動に巻き込まれはじめた。卒業後も演奏を続けていた者、まったくやめていた者を問わず、少しずつ集まりはじめた。2000年夏。ちょうどOB会総会がある。「演奏しましょう」「やろうやろう」。すぐにエントリーすることになった。

 本番直前の練習後。秋葉原の飲み屋での会話。「来年、自主演奏会をやりましょうよ」「そうだそうだ」。なんの根拠もなく盛り上がり、会場のあてもなく計画だけが進行した。3日後の電子メールで(メーリングリストをつくっていた)、滝口弘光(トロンボーン) が「会場予約しましたよお。ルーテル市谷センターでえす」「おお」「なんと」 「ほんまかいな」と、勤務中にメールが飛び交い、第1回演奏会を3月11日(日)に開くことに決まってしまった。 以来、ワセオケOB以外の音楽仲間も加わり、半年間の練習が進んだのである。

 長くなりましたが、ようするにワセキンを生んだのは、1997年の金融危機と、その渦中から脱出した赤尾の帰京なのである。

(さて、実はメンバーそれぞれに、それぞれ面白いエピソードがあります。第2回演奏会以降、順次ご紹介したいと思います。完了するのは17年後になるでしょう。)

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