月のワラウ夜
〜一握の夢〜





 幾つかの音の後、恐ろしい勢いで鉛の弾が周囲を削ってゆく。
 それは、まるでミシンのように。ばらばらではあるが、ある一定の規則にしたがってぱらぱらと音を鳴らす。その様子を確認するでもなく、俺はゆっくりと歩き出した。
 風もないのに何故か着ているローブがはためくのは……。何かの仕様、と言う奴だろうか。
 以前、そんなことをのたまっていた男がいたような気がする。そんな覚えはあるが、結局顔は思い出せもしなかった。

「ひ、ひひ、雹さんっ! 危ないですよっ!?」

 背後からかかる声。彼女には自分がどういう存在であるか忘れてさえいる様子だ。
 こちらは構う事なく前に進み……。ローブの裾を引っ張られて結構無様に転んだ。いや、転んだと言うより倒れたと言う方が正しい。流石に、全力でローブを後方に引っ張られれば倒れもする。地に足をつけている以上、ある程度物理法則というものは働いてしまうのだ。
 それが良きにしろ、悪きにしろ。今回の場合は後者だ、しかもすこふる悪い。

「……痛いな」
「痛いな、じゃないですよっ! 銃ですよ、撃たれたら死んじゃうんですよ?」

 俺は至極冷静に、彼女に対し声を上げる。妙にエキサイトしている風情があるが……。
 まあ、まだ昔の感覚が抜けないのだろう。これは仕方ないと言う所か。
 彼女には、現在の状況を認識するための時間が、あまりにも足りない。悲しすぎるほどに。

「全く……。何考えてるんですか一体!?
 こんな銃撃戦の中に出てきちゃった事は確かに不運ですけど……。
 でもそれだって、なんで銃弾の嵐の中に出て行こうって思うんですかっ!?」

 考えているのを無視したとでも決め込んだのか、何やら凄まじい勢いで説教をされている。
 多分原因は俺だろう。価値観の相違と言うものは、民族間で殺し合いをさせるほどに強烈なものまであると聞く。ここまで怒られても仕方ないと言うものだ。
 とりあえず、懐から携帯を取りだし、右手には銀の棒を引き出す。
 俺にとっての仕事道具。これをみて、さすがに裾を取った少女の顔色も、変わる。

「……仕事だ、急がなくてはならない。たどり着く前に死なれては元も子もない」
「でも……」
「それに、そもそも俺達は実体を持たない存在だ。どうやって銃弾に当たるって言うんだ?」
「………………あっ」

 そこでようやく納得が行ったのか、しぶしぶ……。本当にしぶしぶと言った風情で彼女が手を離す。
 それをローブの感覚で察知した俺は、ゆっくりと前に出た。急がなくてはならない、仕事を遂行する時間が、あまり無いかも知れない。
 少しでも、急がなくてはならなかった。こんな所で足を止めている暇はない。
 目的地にたどり着くまでに、俺は少し思い出す。こうなるに至った、様々な事柄を。

 今更ながら、自己紹介をしておこう。
 俺の名は雹。職業は魂運び。
 分かりやすく言えば、死神だ。
 先ほどから騒々しい彼女の名は真木。俺に、取りついた幽霊。
 死神に付き合う、変わり者だ。その気持ちはうれしいが。



 野生動物と人との違いは、知性の有無だと言う声がある。論理的思考とかそういう部類の考えは、確かに人間以外の生物には簡単に立証出来ない。
 だが、それで知恵が無いとは言えない。例えばカラス。彼らは、自分のくちばしで突き破れないクルミを、食べる術を知っている。その高低に差はあれど、やはり全ての生物に知恵はあるのだ。
 故に、人が他の生物と違う最大の点と言うのは、本能を理性で封じ込めていることだと思う。
 生きるが為の力を、自らの手でいけない事だと制限する。己に枷を与えなければ、自分達が生きていく事が出来ない事を、本能で理解している。それが人間の強さであり、弱さだ。
 そのために、本来できない形での団結を可能とする。時を、距離を、時間をも越えて共感し、ひとつの事柄に執心して解き明かしたり、何かを築き上げたりできる。
 そして、当然のことながら。ルールを外れた者たちには、制裁が待っている。もしかしたら、人が貸した理性の鎖によって、最も強くあるのは彼らかも知れない。

「……本当に、ここなんですか、雹さん?」

 ふと、真木が聞いて来る。俺は予定者のリストが入った携帯をもう一度確認してから、ゆっくりとその建物を眺めた。
 死神が携帯など、と思うかもしれない。しかし、死後の世界とは常にその時代を生きる生者によってその形を幾重にも変える。神話、教義、信仰、精神状態……。それによって移ろう世界の中で、生み出された科学技術など持ち込まれて当然なのだ。まあ、俺たちが持っている物は少々動力などは違うが、使い方が同じだからこの場合同種のものと見るべきだろう。

「何か殺しても死にそうにないイメージあるんですけど。ここの人たちって……」
「人である以上、誰だって死からは逃れられない。俺たちのような者以外はな」

 真木にそう返し、ゆっくりと接近を開始する。生命の終焉云々については、俺より真木の方がリアルに感じているはずだ。何より、俺よりそれを感じてからの時間が短い。
 どんな経験であろうと、いずれは記憶の中に埋没し、風化する。死というものは命の風化なのかもしれないとは、思う。
 しかし、真木が疑うのも、何となく分かる。最近は、彼らが死ぬ事も少なくなった。だが、どんな職業にも死の可能性が転がっているように、この職業だから安全、と言うものはありえない。
 まして、この建物にいる者たちは、本来ならば最も危険な立場にいる。それは、真木も分かっているはずだ。

「……確認した。間違いない」

 俺は黒一色の携帯をローブにしまい、ゆっくりと今までいた場所……。街燈の上から立ち上がり、目前にある建物をもう一度眺める。赤い照明と、金色の桜を模した印が燦然と輝くそこは、彼らが誇るべき職業である事を悠然と語っていた。
 最近は汚職が目立つというが、それは上の話。どんな組織も長く続けば腐敗するというのは至極ありがちだ。
 大切なのは、実際に働くものたちがいかにその職務を理解し、実行するか。職務を実行する鉄の意思さえあれば、腐り果てていようと治安は守れる。
 まあ、腐っていないほうがよりよいのは至極当然だが。
 とん、と街灯を蹴ると、俺は窓から施設の中に足を踏み入れる。真木も少し躊躇しているようだったが、やがてしぶしぶという具合に俺に従った。


 施設の中は、文字通り混乱の様相を呈していた。それぞれがそれぞれの目的を持って、行くべき場所に行っているのだから統制が取れているかと思いきや、施設の通路の狭さがそれらを全て台無しにしている。
 結果、目の前にあるのは右往左往する人の群れにしか見えない移動する人々だった。

「……この中から、目標の人物を見つけるんですか?」

 どこかうんざりした口調で聞いてくる真木。まあ、俺もこの中からうまい具合に目的の人物を探し当てる自信はあまり無い。まさかこれ程の混雑ぶりとは思わなかった。認識が甘かった、としか言い様が無い。
 しかし、それを口に出すのも、諦めるのもどうにも癪だ。ここで情報の一つも入手して置けば、役にも立つだろう。
 こちらが分かっているのは、死ぬ人の名前だけ。いつ、どのように死んでしまうのかは分かっていない。

「まあ、名前は分かっている。そこから調べ上げよう」

 俺はそう言って、窓から部屋の中に入り込む。窓そのものはしっかりと閉まっているがそんな事はお構いなしだ。
 厳密なことを言うと少々ややこしいが、死神と言うのは元々この世界の住人ではない。それ故にこの世界の物理法則に従わなくても一向に構わないのだが、あまりにそれをやりすぎると自分の存在が原因でこの世界に『死神の世界の常識』を流入させ、世界を混乱させてしまう。
 大概の死神はそんなこと構いもしないのだが、流石に長いことこの仕事をしているとこういう影響と言うのも少々考えてしまうのだ。
 だから、俺は部屋などに入るときは極力『人が通り道として使えそうな場所』を使うことにしている。窓しかり、ドアしかり、だ。
 どうやっても法則を曲げてしまう道しかないとしたら、極力少なめに。そうでなければ俺は何のためにここを彷徨っているのか分からなくなってしまう。無用な混乱は避けねばならないだろう。
 ともかく部屋の中に滑り込み、人々の様子を確認する。とりあえず携帯を取り出して人相を確認しようとするも、さすがに施設内は人通りが激しく、うまく人の動きを察知しきれない。
 そう思っていると、人の流れが一つであることを確認した。とりあえず天井際まで跳躍し、一同が出て行く様子を確認する。そのまま、ゆっくりと手を伸ばして携帯を取り出し、名前を割り出した。机の上に乗っかっていた名簿を開き、ここにいる人間を確認する。

「……長瀬 卓也(ながせ たくや)。階級は警部補……。当たりか」

 携帯で割り出した情報に偽りは無い。言うならばこれは死神の名簿帳。近い将来に死ぬ人間が記載され、その中で自分の範囲にいる者が優先的に表示される仕組みだ。最も、これをいじるたびに真木からは色々と文句を言われるのだが、便利なものを使わない方が冒涜と思う。
 まあ、俺としても確かに、矢文のほうが情緒があって好きなのだが。どうも、電子音で呼び出されるのには何年たっても慣れない。
 使いこなせても慣れはしない。この辺がギャップと言うものなのだろう。

「……結果が出たぞ。出発だ」

 とりあえず名簿を閉じて、跳躍。窓から外へと飛び出し、真木の待つ街灯の隣、三色の信号機の上に降り立つ。ほどなくして、一つの方向に走って行く車の群れを確認した。
 ちらりと見えたダッシュボードの上、赤いパトランプが見える。覆面パトカーと言う奴なのだろう。あれが大挙して行く場所といえば、一つ。

「……何かすごい大事のような気がしません……?」
「それでも、狩るのが俺たちの仕事だ」

 俺は真木にそう言うと、思い切り跳躍する。最初の一歩で真木の手を取り、そのまま覆面パトカーの一台、屋根の上に着地する。元々質量がない存在である。乗られたほうも何も感じてはいないだろう。
 まあ、霊感があるならば、多少の寒気くらいは覚えたかもしれないが。


「たどり着いてみれば、いきなり銃撃戦……。日本でこんな事ってあるんですね」

 真木はそう言いながら、周囲をおっかなびっくりついてくる。時折聞こえるパンパンと言う乾いた音が一つ鳴るたび、耳を塞ぐのは慣れていない証拠だろう。たとえ当たらないとしても、あの音が人の命を理不尽なまでに奪うものだということは知っているらしい。

「法を無視した者の制裁に当たるのが、彼らだ。戦う覚悟がないのならばつける任務ではない。
 彼らも、それは承知しているはずだ」

 俺はそう言いながら、ゆっくりと進んで行く。別段、当たらないと分かっていれば銃弾の嵐など怖くは無い。俺がまだ生きていたころ、この程度の修羅場ならば経験している。あの最悪の合戦場、関ヶ原に比べればこの程度どうと言うこともない。
 もう一度携帯を取り出し、相手の情報を確認する。目的の人物が近いことまではわかるが、さすがにどこにいるかまでは分からない。その辺りが技術の限界という奴だ。さすがに目的の人物だけを追いかける事は出来ない。これでもかなり便利にはなったが、それでも最後は両足で稼ぐしかないのだ。この辺は昔も今も、変わらない。
 まあ、その割合が多少でも減り、足労が減ったことを少しはありがたく思うべきだろう。そう思って、ゆっくりと歩く。時折こちらにやってくる銃弾を、自分の鎌ではじきながら。
 別段死にはしないが、何かのはずみで当たったりするとやはり痛い。この事を言うと真木には止められそうなので、さすがに言うのはやめにした。

「………………! 雹さん、あれ!」

 真木が声を荒げる。何かと思って前を見ると、彼女が叫んだ理由が良く分かった。
 そこに転がっていたのは、よれたスーツの男。年齢にして大体40台と言うところだろうか。胸の辺りを打たれているらしく、周囲には血が飛び散っている。
 即死では無いが、長くはあるまい。そう判別すると、俺は相手の苦悶にゆがんだ顔を確認し、照合する。そして、彼が今回の対象であると確認した。
 どうにか間に合った。その事実に内心安堵しながら、俺は鎌をゆっくりと振る。その一振りで、表情から一切の感情を消して。

「長瀬 卓也。お迎えだ」

 淡々と声をつむいでやると、長瀬はゆっくり目を開けた。渋みのある顔に短い髪。まだ禿げてはいない。この表情が痛みに歪んでいなければ、なかなかの良い男だったろうな、とはぼんやり思う。

「もう分かっているとは思うが、お前の体は限界だ。肺に食らった銃弾が原因でお前は死ぬ。防弾ベストを着なかった事が敗因だな」

 淡々と、事実を確認するように述べてやる。真木はもうすぐ終わると言うことを確認してしまったからか、俺に口出しすることは無い。
 素人目である彼女にも、分かってしまったのだ。長瀬がもう、長くはなかろうと言うことを。

「……交渉役が、そんな重武装……。するわけにいかねえ……」

 かすれた声でそう言って、一筋の血を吐く長瀬。声をつむぐだけでも辛いに違いない。

「……立派な心がけだ。そしてその結果がこれだ。納得はしてないだろうが、察しろ。そして、俺は選択肢を持ってきた。選ぶ道は三つ。このままこの世界に霊としてとどまるか、審判の門から再生を待つか。誰か一人を呪い、人格ごと消えるか……。選ぶといい」

 俺はそう言って、相手の反応を待つ。そして、帰って来た答えは思った以上にシンプルだった。

「誰かを、呪い殺せるんなら……。一人、そうして欲しい奴がいる」

 それはシンプルで、だからこそ直線的だった。まあ、この状況では恨みもあるだろう。誰か一人と聞いて、自分を殺したやつを殺すと言うのは酷くありがちな話だ。

「お前を撃った男か?」
「いや……。違う」

 俺の問いに、首を振る長瀬。なら誰だ、と聞こうとした俺を、さえぎるように話し始める。

「……今、俺達が。追っている……。シンジケートのボス……。あいつが死ねば、少しは……」

 そう言って、長瀬は震える手を動かした。力ない手が引きずり出したのはパスケース。それを開くと、赤く染まったそこに、小さな子供の写真が入っている。
 六歳くらいの男の子と、長瀬と同じ歳くらいの女に抱かれた、赤ん坊。
 一目見て、それが彼の子供だと、分かった。

「可愛い……だろ……? 俺の宝だ。未来に、希望が残せるなら……」
「警官として、父として。平和な世界を作りたいのだな」

 言葉を継いだ俺の言葉に、力なく頷く長瀬。彼は元々正義感が強かったのだろう。
 だから警察官になり、悪を倒そうと頑張ってきた。危険な任務にも、率先して頑張った。
 全ては自分のため、だったのだろう。悪を憎む心がそうさせたのだろう。
 だが、子供が出来てから少し、変わったに違いない。自分の息子のために、平和を作る。

 ほんの少し形は違うが、それもまた父の愛だ。平和な世の中を、子供達に残そうとしたのだろう。
 そのために、自分の命すら賭けて。いまわの際までそれに費やそうとしている。
 今、分かった。彼も俺と同じものなのだと。
 理想に全てを賭け、命まで賭ける。古いタイプの男……。侍なのだと。

「頼む……」

 俺の沈黙を、迷いと判断したのか。長瀬がゆっくりと声をかけてくる。
 それに対し、俺はゆっくりと。右手を額に持っていった。指をそろえ、曲がらないように。びしりと立ち、敬意を忘れないように。相手を見やる。

「俺の時代は、太刀に誓ったものだが……。お前には、この方が良いだろう」

 それは、酷く不恰好な敬礼だったに違いない。見よう見まねに過ぎないし、なにより黒ローブは敬礼に向かない。あれは洋装だから合う、しぐさなのだ。
 だが、長瀬は俺の方を見て、笑った。嫌な笑みではない、好意の笑み。
 そのまま、ゆっくりと右手を上げて、俺に敬礼を返した。震える指先も、倒れていることも、全身が血まみれであることも。全てが関係なかった。
 それは、酷く綺麗なものに見えたから。

「長瀬 卓也警部補に、敬礼……。こんなセリフしか贈れないが」
「十分だ」

 けほ、と血を吐く長瀬。本当にもう長くない。
 俺は右手を振り上げ、鎌を取り出し。長瀬の胸に振り下ろす。
 そしてまろび出た魂を、左手で掴み取った。

「真木、いつもの場所で待っていろ。俺には少し仕事がある」

 背後の真木にそう言ってから、俺は長瀬の魂を口に含み、飲み込む。
 死神にとって、食事と呼べるものは生者の魂だ。送るものとは別に、月にいくつかの魂を食べる事が許可されている。それにはいくつかの条件があり、死ぬ者のリストに掲載されているものを食べることを、基本的には推奨される。
 だが、例外がいくつかある。その際たる物が『呪い』だ。
 この執行者になった死神は、一つの魂を食らうことを認められる。呪いの対象になった者の。
 呪いとは、一つの魂を食べる代わりに、一つの魂の消滅を示す言葉なのだ。そして、死神にとっては合法的に食事をする機会であり、それを誘導するものも数多い。
 死神が暴走する理由もさまざまだが、飢餓によるもの、鎌の威力に酔い痴れる者、この二つが上位を占める。そして、それを招く最たる原因が、この呪いなのだ。
 一つの魂を消滅させ、一つの魂を食らう。結果的には同じ原理なので、二つの魂を食らうものが数多い。いや、それが主流と言えるだろう。
 そして俺は、飛んだ。呪いの対象にされた存在の場所はもう分かっている。
 長瀬の魂が、それを俺に教えてくれた。


 その風景は、いかにも悪趣味、と言うものだった。
 革張りの椅子に大きな机。一見して学校の校長室のようだが、屋敷の中の雰囲気からはまったく逆のものを感じる。
 希望ではなく絶望を。陰謀と暴力で己のやり方を通す、悪の砦。俺の目には、ここはそう写った。
「もうそろそろ、裏切り者の始末も終わったか?」

 太い指を動かし、電話を取る男がいる。こいつがボスだと、俺には分かった。
 黒ローブの中を探ると、昔からの取り決めに従ってあるものを取り出す。
 それは、骸骨を模した仮面。それを身につけた時、呪いの執行が開始される。

――意を賭けて さんざめき鳴く 蝉時雨 岩に染み入り 人に染み入り――

 俺は句を呟き、仮面を顔に装着した。目の前の男が、急に目を見開く。
 俺の姿は、いまや黒ローブに骸骨と言う、文字通りの死神に見えるはずだ。最も、教養がなければそれはただの趣味の悪いコスプレにしか見えない。この男についても、そうだったらしい。

「……な、なんだテメーは!」

 慌てふためく長瀬。しかし俺は、それに関わる理由は無い。
 くるり、と鎌を動かし。振りかぶる。この瞬間は好きにはなれない。長瀬が望んだこととはいえ、それは変わらない。

「……契約に基づき、お前の始末を行う」

 恐怖に顔をゆがめる男に向かって、俺は鎌を振り下ろした。何の情け容赦もなく、無慈悲に。
 人の都合も考えず、それはある意味平等に、最後の審判を下す。理不尽である運命であったとしても、それを納得しろとばかりに。
 文字通り……。死を招く、神のように。
 机に突っ伏し、息をしなくなった男を見もせず、俺はその場を後にする。
 最も自然な方法でもって、この鎌は人に死を運ぶ。今回の場合ならば、心臓発作で死去。そんな紙面が踊るだろう。
 人が生きる匂いさえしなくなったそこから、俺は一刻も早く離れたかった。顔についた仮面を、引き剥がしながら。


 いつもの場所に行く途中、俺は不意に月を見上げる。
 夜の空が深い藍色ではなく、にごった黒になってからどれくらいが経つだろう。それでも、月の明るさだけは変わらない。星々が見えなくなっただけだ。
 今日の月は、下弦。下振りに弧を張ったその空は、まるで笑っているように見える。

「……いや、嘲(あざけ)っているのか」 

 人の魂を狩る存在でありながら、割り切れない自分を。
 人でもなく、死神でもない。そんな道を好き好んで歩き、人を狩ることを嫌う死神を。
 
「だが、まだ俺は辞められん。哀しい運命(さだめ)を背負うのは、俺一人でいい」

 もうじき、真木と落ち合う場所だ。彼女には知られてはならない、死神が背負う業を。
 だから、この悲しみも胸の奥に押し込み、俺は空を飛ぶ。
 漆黒の空を、飛ぶその中で。月だけが俺を笑い、嘲笑う。辞めようと思うたび、自分の背負った業を思い出し、立ち直る。
 誰にも、この業を背負わせることはできない。俺の誇りが許さないから。
 不器用ながらも、俺はまた空を飛ぶ。
 




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