月のワラウ夜


「ちょっと待てえええっ!」

 夜のとばりの下りきった、静かな森を引き裂く、絶叫。
 文字通りの近所迷惑を引き起こす人影は、地団駄を踏みつつ手にした電話にわめく。
 年の頃は二十歳にわずか届かぬほど。しっかり着込んだフード付きの黒ローブから僅かに覗く顔は、判別が難しいが六対四で男の逃げ切り勝ちと言ったところ。黙ってればそこそこ美形だろうが、きつ い眼差しと雰囲気が相当プラス要因をつぶしていた。
 ましてや、わめき散らす今とあっては。

『まあ落ち着け、雹。この近くで動けるものがお前しかいないのだよ』

 電話の向こうの声が何とかなだめにかかるものの、それさえも意に介されていない。

「労働基準法ってのがあるだろう? せめて週一で休みをよこせっ! 何でこの辺一帯を俺一人でやらなくちゃならな……」

 もっともな言い分を述べる雹ではあるが、電話のほうは何も気にしてない様子で、

『では、任せたぞ』

 とだけ無情に告げて沈黙する。
 ご丁寧に、ツーツーという音まできっかり三回言ってから。

「……あの、くそ上司っ!」

 言いざま、携帯を思いきり地面に叩き付けようと腕を降り上げ、しばし迷った挙げ句に懐にしまう。
 ストレスの捌け口にするには、携帯は高価すぎた。

「さて、ちゃっちゃと終わらせるか……!」

 ぐ、と身をたわめ、木々を見下ろせる位置まで舞い上がる。音も、気配もなく。

「死神は、多忙だな……」

 ため息付きながら舞う黒い影。
 糸のような細い三日月だけが、その姿を見つめていた。


 暗闇に沈む、白亜の建築物。消毒液の匂い漂う、生命の砦。
 もはや人の気配も薄いそこを、黒い影は行く。

「命を救う場所で、一番俺らがよく働くってのは皮肉かね?」

 ため息付きながら歩く雹。こつこつと靴音が響いてはいるし、看護婦とも数度すれ違っているものの、その誰もが彼の存在に気付かない。否、気づけない。
 僅かな例外を除いて、彼らはこの世界との関わりを持たない。見えたとしても、路傍の石程度の認識しかもたらさない。相互不可侵、それが二つの世界の決まり。
 魂の輪廻という二つの世界の連結を司る者たちしか、その二つを知る者は居ないのだ。

「さて、ここだよな……」

 呟きながら、やって来たのは一つの部屋。壁にへばりついたプレートで部屋の主を調べ、その身をドアにぶつける。
 水音のような小さな音の後、彼は部屋の中に滑り込んだ。

「もしも〜し。聞こえますか〜?」

 集中治療室に入るなり、気楽に声をかける。
 瞬間、部屋の端から飛んでくる影。女の子の部屋によくいるぬいぐるみ。1メートルはあるナマケモノの直撃を受け、流石の死神も倒れる。
(な、何故ぬいぐるみ? しかも、ナマケモノとはレアリティの高い……)
 完全に不意を突かれ、首をぶんぶん振る。

「な、何ですかあなたはっ!」

 そんな彼に、ちょっと焦ったような声が掛かる。とりあえずぬいぐるみを退けて、その顔を見る。
 背にかかるストレートヘアは手入れされていて、焦っている顔のほうは落ち着いたらそこそこのものだと推測できる。
 そして、来る前に確認した顔と、特徴はぴったり一致していた。

「……俺は雹。職業は魂運び。ま、簡単に言えば死神だな」

 体を起こしながら名乗り、床に座り込む。
 目の前に居る少女は、顔こそ清楚だがこの顔で巨大ぬいぐるみを投げつけてきた。この事実は忘れないようにしよう、と心に言い聞かせる雹。

「死神……? そんな……」
「嘘だと思うなら、見回してみな。見慣れたものがあるはずだ」

 胡散臭そうな言葉を投げかけられても、雹は余裕の表情を崩さない。
 そして、少女は後ろを向いたまま、ぴくりとも動かなくなる。息を飲む音が、聞こえたような気がした。

「な、何で私か……?」

 呆然とした声が響く。目の前に眠りこける自分が居るとなれば、非常事態だと言うのはすぐにわかってもらえる。
 安直に見えて、この手の方法は特に良く効いた。

「信じるかどうかはお前次第。けど、あんまり時間もないってのは覚えときな」

 きっぱり言ってのける雹。同情やら何やらを一切排した済まし顔。
「えっと、橋口三咲。現在持病で心臓をおかしくしてる。回復の見込み皆無。間違いない?」
 懐から手帳を一つ、取り出し読み上げる。そうしてる間に、三咲の顔からは驚きや怒りが消えて行く。
 代わりに出るのは、軽い諦め。

「やっぱり、そうなの。もしかしてとは思ったけど……」

 三咲の声には何か妙な諦めにあふれている。

「……知ってたのか」
「大体は。話してるの、聞こえたから」

 三咲の言葉にわずか、表情を変える。しかしそれを悟られる前に、ひらりと右手を閃かせ、白銀の棒を手にとった。

「さて、本題に入ろうか。あんたにはいくつか、行く道がある。肉体が滅びるまでこっちに居て、行く当てなくさ迷うか。魂をここで刈り取って、世界を越えるか。存在を失う代わりに、誰かを冥土に落とすか。選ぶのは、お前だ」

 淡々と、言葉を紡ぐ雹。感情を凍り付かせた声を放つ彼に、三咲は少し、考えたあと。

「……一つ、注文付けてもいい? 最後に一つ、したい事有るから」

 そして、三咲は一つ、死神に告げた。

「……奇麗……」

 ため息交じりに出た声を、どこか呆然と聞いている雹。
 三咲が出した条件、それは至極単純だった。

「飛びたいの、空を」

 無論、死神だからといってほいほいと空が飛べるわけではない。重力に逆らうのは死神でも高位の技だ。
 そう説明しても納得しなかったから、こっちも少々荒業を使った。
 魂には重量がないのを利用して、雹は三咲の体を担ぎ上げて空を飛んだのである。もっとも、慣れるまでに多少の時間はかかったが。
(けど……)
 自分の肩の上でうっとりとしている三咲の声を聞きながら、ふと、考える。何で自分は、彼女の願いを聞き入れたのか。
 別に叶える義理はない。魂運びは仕事に徹するものだからだ。
 しかし、ならば何故叶えたのだろうか?
(魂持ってく為だ。この位サービスはしないとな…)
 自分に言い聞かせながら、眼下に広がるネオンの海を眺める。
 普段は感慨一つ感じないそれが、今に限って奇麗に見えて。

「ありがとう、死神さん」

 淡いピンクのワンピースに着替えた三咲が、そう言って頭をちょこんと下げる。

「気にするな。これも仕事だ……。もう、いいのか?」

 静かに問う雹。三咲は少し考えてから、小さく一度うなずいた。
 それを見て、近くのビルの屋上に降り立ち、三咲と向かい合う。
「まあ、向こうも悪いとこじゃない。……せいぜい、向こうで頑張れよ」

 一度だけ、小さく笑ってみせる雹。右手に持った棒から、じゃきりと音立てせりだす鎌の刃。
 そして、小さく降りかぶってからその刃を、三咲の胸にたたき込んだ。姿が薄くなり、消えて行く三咲。
 その姿を、じっと見送って。立っていたビルの屋上で、一人口笛を吹く。悲しげなその旋律を、月だけが聞いている。

「好きになれないな。やっぱり……」

 呟き声は風に溶ける。今まで、幾つもの仕事をこなしてきても、この孤独感は慣れるものではない。
 ふう、と息ついて一歩を踏み出そうとし、けたたましい音に顔をしかめる。
 仕事を告げる、呼び出しのサイン。
「はいはい……。また仕事?」
 ぶつくさ呟きながら、懐の電話に手を伸ばす。

『……すまん!』

 慣れた手付きで電話をとると、大音響の謝罪が飛ぶ。

「何があった? 耳が潰れる前にすぐ要点言ってくれ」

 ため息交じりに説明求める雹。それに対して、電話の向こうは相当へこんだ声出して。

『伝達ミスだ……。同姓同名の別人が、対象だった!』
「待てよ……。じゃあ、俺と同じかよ!」

 月を見上げて、顔を手で覆い嘆く。
 全く、今日はえらい日だ。
 ついてない。本気で。

「……また、一人か」
「もう、一人ですよ。死神さん」

 背中から帰ってくる声。さっきも聞いたそれには答えない。
 細く輝く月が、何故だか今は笑ってみえた。

「俺の名は……。雹、だ」




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