硝子張りの天使たち外伝
黒の章「誓い」




 澄み渡る空、押し寄せる波の音。どこからどう見ても、海である。普通ならサーファーが横行しそうな上天気の海に、一風変わった一団がいた。白い道着を身にまとい、狂ったように両手両足を繰り出している。
 横一列に整列した一団が、全く同じペースで空を突き、蹴りを繰り出す。その表情からも疲れがありありと浮かんでいるが、それでも行動を止めようとする者はいない。

「よし、今日の練習はここまでにしよう。学園に戻るぞ」

 低い声が響き渡ると、男たちが一斉に安堵のため息を吐いた。中にはそのまま座り込みかねないほどに疲れ切った者もいるが、それでもよろよろと立ち上がる。最後の仕上げが残っているのだ。

「では、行くぞ!」

 二列に整列し終わると、先頭の大男が声を張り上げた。無駄なく付いた筋肉、タレント的格好良さとは無縁のいかつい顔という、最近あまり見られない取り合わせを持っている。

『はい、威綱部長!』

 道着を来た一団は、全く同時に声を張り上げた。信頼されている証だ。タレントのようなチャラチャラしたものを徹底的に廃した、純粋な男としての魅力に皆惹かれているのだろう。

「戻ったら、休憩の後で組み手をやっておくように。俺は用事でこの後抜ける」

 一糸乱れぬ足並みで砂浜を走り抜ける道着姿の一団。その先頭に立つ威綱と呼ばれた男は、すぐ後ろにいる副部長に声をかけた。
「威綱部長。桐古を見たら言ってもらえますか。練習が終わったら、顔を出せって」

 すぐ後ろを走ってくる副部長の男が、威綱に向かってそう答えた。それに対し、軽く頷いて答える。

「腕がある分、責任感が足りんのが悔やまれるな。あいつも副部長だというのに」

 威綱の低い呟きは、潮騒の風に流れていった。



 古今例を見ない海上学術都市、四神風水都市の北側に位置する黒都。その中央部に位置する私立玄武学園は、内外共々に結構有名である。
 男子校(昨今の平等化の風潮により、今では共学が多い)であることに加え、その厳格な校風、対外試合における部活動の驚異的な成績。話題をかっさらわない方がおかしい。
 しかし、学生たちは結構普通に生活している。内部から見れば、普通の学校とさほど変わった部分は見えない。学校というのはそんなものだ。

「龍道先輩!」

 名前を呼ばれ、廊下を歩いていた威綱は思わず振り返る。視線の先には、彼にとってもはやおなじみの顔があった。
 150後半の背丈に、華奢な体型。男とは思えないほどに魅力的(この場合、綺麗と言うより可愛いと言う方が正しい)な顔立ち。首にかけた一眼レフ(年代物らしい)のカメラが、たっぷりしたシャツと灰色のジャケットという服装にアクセントを加えている。
 彼−岸野和也−を見た生徒は、皆そろって嘆息する。「あいつが女だったら良かったのに」と。そう言う意味合いでも、彼は有名人であった。

「岸野か。どうした、そんなに慌てて?」

 ある意味学園内の話題を一気にかっさらう存在を前にしても、威綱の対応は普通と変わらない。岸野と呼ばれた少年は首のカメラを持ち上げて、

「新聞部が人を呼び止めるなんて、取材以外に何があるんですか龍道先輩? それから、逃げようとしたって無駄ですよ。ボクからは逃げられませんから」

 自信ありげにそう言って、カメラを構えてみせる。和也の言うことに間違いはなく、彼の追跡を逃れた存在は玄武学園内に存在しない。

「分かった。取材は受けるが後にしてくれ。今日はこれから用事がある」

 困惑顔で威綱がそう言うと、和也の方も納得したように頷いてからカメラを直した。

「先約じゃ、仕方ないですね。取材をいつにするかは、端末で連絡しますから」

 そう言って、うっすらと微笑を浮かべてみせる。魅力的としか言いようのないその表情に、威綱の方も口の端をゆがめた。

「早めの方がいいぞ。他の奴から同じインタビューを先に受ける可能性もあるからな」

 威綱が微笑を浮かべながら答えると、和也の表情が青ざめる。

「う〜、龍道先輩の意地悪。早めにしますから、ボクが先約だって事忘れないでくださいよ」

 わたわたと手を振り回しながら抗議する和也に、威綱はしょうがないなと言いたげな表情で頷いてみせる。そこまでやってようやく納得したのか、和也はようやく表情をいつものものに戻して歩き去った。
 その背中をひとしきり見送ってから、威綱は再び前を向いて歩き出した。廊下に革靴の音を響かせ、制服(一応あることはあるのだが、私服も認められているため着ている者は少ない)姿の威綱は悠然と歩いていた。前を見据え、無言のまま。その足取りが、巨大な扉の前で止まった。
 190センチに届きそうな威綱よりも大きい、二メートルはあろうかという大扉の横には、一切の迷いなく彫り込まれた看板がある。

 ―黒都帝武会、執務室―

 生徒会長であり黒都を治める黒帝が組織する、スペシャリストの集まり。まあ一般的な生徒会である。しかしこういう書き方をされると、何故か威厳が出てくるから不思議だ。二回ノックし、反応を待つ。

「入りたまえ」

 少しして、中から低い声が聞こえた。それを確認すると、威綱は大扉を開けて中に入る。巨大な机の向こう側では、理知的な風貌の青年が静かに本を読んでいた。

「黒帝、河野実経殿とお見受けする。俺は……」
「とりあえずかけたまえ、龍道威綱君。立ち話も何だ。用件を聞こう」

 威綱の言葉をやんわりと返し、実経は近くの席を勧めた。威綱が席につくのを待ってから、本を閉じる。

「黒帝、四神都市間移動許可書を発行してもらいたい。場所は玄武−青竜間。期間はできるだけ長く」

 前置きをすべて無視し、威綱はいきなり本題を切り出した。
 四神風水都市は、各都市が独立国家という形を取っている。都市間の行き来には許可書が必要であり、そうでない場合は容赦ない罰則が下されるのである。誰であろうと、例外なく。

「……弟がそんなに心配かね?」

 実経の言葉に、威綱は脳天をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。間違いない。この男は、すべてを知っている。

「家を飛び出し、この黒都に流れ着いた君にとって、家族は敵意外の何者でもないはず。それが弟を心配するとは、何か事情でも?」

 ほんのわずかに身を乗り出し、実経が尋ねる。しかし、威綱はそれに対して沈黙を守ったまま立ち上がった。

「都合が悪くなったから逃げるのか?」

 そのまま歩き去ろうとする威綱の背中に、実経が声をかける。それに対して、威綱はようやく振り返った。

「話せば長くなる事だ。それに加え、黒帝は分秒刻みの生活を送っていると聞く。俺一人のエゴのために、黒都の政治を傾かせるわけにはいかない」

 威綱の言葉に、嘘偽りの響きは感じられない。そもそも自分の事情と黒都の政治をはかりに掛けるあたりからして嘘とは思えない。そう思ったからこそ、実経は懐から携帯端末を取り出した。

「私だ。……ああ、定例会議には影武者を立てておいてくれ」

 それだけ言って、端末を再び懐にしまう。威綱は苦笑しながら、再び席に着いた。

「黒都の政治よりも、俺一人のエゴをとるというのか……」
「定例会議というのは、退屈かつ不毛なものでね。君の話の方が数倍は聞く価値があるというものだ」

 苦笑いを浮かべながら言った威綱に、澄まし顔で答える実経。少しして、威綱が大きく息を吸い込んだ。

「俺が家を出たのは、今から8年前のことだ。12歳になるまでずっとサーカス芸を学んでいたが、俺は満足に一つもこなせなかった……」



 来る日も来る日も続く練習。しかし俺には全く身に付かない。それに比べて明人はどうだ、もう一輪車に乗りながら球を投げている。
 違う、ここは俺の生きるべき場所じゃない。そう考えた俺は、ありったけの金(と言っても、子供のありったけなどたかが知れているが)を持って、家を飛び出した。ここを抜ければ、自分らしさが見つかると信じて。
 激しい雨の降る夜に家を抜け出し、とにかく俺は走った。走りついた先は海。この向こうに、俺が俺でいられる場所がある。そう思った俺は、壊れかけたボートに乗って海へと出た。
 もちろん海の上でボートは壊れ、俺がたどり着いたのは黒都の外れにある海岸線。どうにか、国境を越えることはできたらしい。見知らぬ町、見知らぬ人の群れ……。不安と期待に胸が躍った。
 しかし、人間当然腹が減る。海の上で難破しかかっていた子供ならなおさらだ。雨に打たれ、衰弱しかかっていた俺の前に、あの人が通りかかった。昔も今も変わらない、俺の養父が。(と言っても、あの頃はまだ40代後半で髪は黒かったが)

「この辺じゃ見ない顔だな。どうした、坊主?」

 答えたくても、答えられなかった。疲労と雨で体力を失った俺には。あの時、もしかしたら肺炎を起こしかけていたのかもしれない。彼は俺を片手で担ぎ上げると、自分の家へと連れ帰った……。



「それが、長寿庵の店主、源造殿との出会いなわけか」

 実経の言葉に対し、軽くうなずく威綱。

「源さんには、数え切れぬほど世話になっている。俺を何も言わずに引き取り、学校にも通わせてくれている。なぜあの時、父に知らせなかったかが不思議なくらいだ」

 威綱はそういうと、妙に誇らしげな顔になっていた。そういう人が俺を育ててくれたのだ、そんな思いが今の彼を満たしている。

「それで、それと弟とどう結びつくのだ?」

 実経の問いかけに、威綱は表情をいつものものに戻した。

「俺は、夜逃げ同然に家を飛び出した。自分の権利と義務をすべて放棄して。他の者にはそう思われても構わない。だが、せめて明人にだけは見ておいてもらいたいのだ。逃げ去った卑怯者ではなく、一人の男として大地に立てるようになった俺を」

 威綱の答えに、実経は少しの間考え込むような仕草をした。その様子を、威綱は固唾を飲んで見守っている。

「許可書は、出せん。私にも、対外的な権力というのはまるでない。許可書には両都市指揮者の許可がいる。しかし青帝に話を通せば、君の立場が危うくなる。黒都に帰ってこれるように計らうことは可能だが、許可書発行は実質不可能だな」

 実経の答えに、威綱は落胆したと同時に納得もした。今の生活を守るためには、両親に知られてはならないというのは絶対条件である。そう考えると、自分の浅はかさを改めて実感してしまった。

「だが、普通に黒都市民書を出すのでは時間がかかりすぎるし、これまた面倒だ。そこで、君に頼みがある。黒都帝武会に、入ってもらいたい」

 実経の言葉に、威綱は我が耳を疑った。

「それとこれと、一体どういう関係がある?」
「四神都市の各所のトップには、四都市間移動を罪に問われないという特権がある。そして、その権利は確定から密命を受けた者にも適用されるのだ。今のところ、君が両親に察知されず青龍に行くには、これが一番合理的なやり方だと思うのだが」

 実経の説明を、威綱はしっかりと聞いていた。始めの方は耳を疑った提案が、説明を受けてから考えると合理的なものに思えてくる。

「黒武会は、各部門の専門家がいると聞く。俺無しの方がよりよく機能するのではないか?」

 額に手を当てて考え込みながら質問を返す威綱に、実経の眼が細められた。銀縁眼鏡の中央部に手をやり、位置を直す。

「そうだ。我々黒武会には、現在各役職のエキスパートがそろってはいる。しかし。それを束ねる者がいない。エキスパートだけでは駄目なのだ。結束を固め、象徴となるべき存在がいなければ」

 実経の説明からは、隠していた彼の本音が伺えた。黒帝として、一つの都市を任される重責。その責務をこなすには、黒武会というサポートだけではあまりに不足しているのだろう。

「……束ねるのは黒帝、あなたの仕事だ。皆黒帝たるあなたを信頼して集まっているのだから、俺が指揮するのは不適切だし、俺にそんな力はない」

 それを感じたからこそ、威綱はそう答えた。自分が入ったところで、この黒都が格段に良くなると言うわけでもないのだ。

「正論だな。だが、自分の力を過小評価しすぎるのは止めた方がいい。人とは弱い生き物だから、一人では何もできん。私とて同様だ。しかし弱さを知る者は、えてして他の者より強い」

 実経はそう言うと、革張りの椅子から立ち上がった。そのまま威綱の元へと歩み寄り、彼に向かって手を差し出す。

「龍道威綱君。私一人では、この黒都という器を支え切れん。できることなら、君にも手伝って欲しい」
「……本気か?」

 実経の言葉を聞き、威綱が低い声で尋ねる。聞く者全ての心胆を寒がらしめるであろうその呟きにも、実経は動じようとしなかった。威綱はそれを見て、大きく息を吐く。

「……本気で差し伸べられた手を振り払うなど、俺にはできん。足を引っ張ることも多いだろうが、よろしく頼む」

 威綱はそう答えると、実経の手を取った。



「……というわけで、本日より龍道威綱を黒武会黒帝補佐官に任命する。皆、仲良くやってくれ」

 威綱と実経の会話から、およそ一時間ほど後。黒武会執務室には、数人の生徒が集まっていた。全員が黒武会の関係者らしいその中で、威綱は緊張の面もちで周囲を見回していた。

「そんなに緊張なさらなくとも結構ですよ。私たちは、今日から同じ部署に属する仲間なのですから」

 緊張で全身をがちがちに硬直させていた威綱に、横から優しい声がかけられる。思わずそちらを向いた威綱の顔が、違う意味で固まった。

「こ、黒帝!」
「役職の呼称ではなく、本名で呼んでくれ。我々は仲間だろう?」
「じゃあ……。河野、これはどういうことだ? 玄武学園は男子校のはずだ。それと、任命されるかどうかはまだわからん。信任が集まらない場合だってあり得る」

 抗議の声をやんわりと訂正され、威綱は鋭鋒をそらされながらも疑問の声を上げた。横を向いた彼の目に、信じられない存在が映っているからだ。
 肩まで伸びた、癖のないつややかな髪。その上に乗っかった、楚々とした顔立ち。極めつけは身にまとった紺のブレザー(ちなみに、玄武学園の制服は黒の学ラン)である。どこからどう見ても、部外者の女生徒が紛れ込んでいるとしか思えなかった。

「それは大丈夫だろう。この玄武学園にも、事なかれ主義は横行している。悲しいことだがな。それに、彼はれっきとした男だ。将来、この学園の共学化に対するテストケースとして、女装してもらっているに過ぎない」

 実経の回答に、威綱は我が目を疑った。どこからどう見ても女性にしか見えない彼が、れっきとした男とは……。

「会計監査担当の、石動蓮(いするぎ れん)と申します。以後、よろしくお願いいたします」

 そう答えて、優雅に礼をする。その様子からは、男っ気はみじんも感じられない。
(世の中とは、奧が深いな……)
 当然であるかのような立ち居振る舞いに呆然としていると、いきなり肩を叩かれた。驚きながらも振り返り、小さな手の主を見据える。
 やや小さめの背丈に、子供っぽい顔つき。身体を見る限り強そうな感じは受けないが、事実とは小説より珍奇な場合が多いものだ。油断はできない。

「僕は、葉霧雅人(はぎり まさと)っていいます。黒武会、内政事務担当です」

 そう言って、にっこり笑いながら手を差し出してくる。威綱はやや困惑しながら、その手を六割ぐらいの力で握り返す。

「いてててて……。威綱さん、力込め過ぎなんじゃないですか? 手がしびれて言うこと聞かないんですけど」

 威綱に握られ、赤くなった手を見つめて文句を言う雅人に、威綱はもっともそうな視線を向けた。

「これでも六割だ。全力だと手を握りつぶしかねないし、力無い握手では誠意が感じられない。そうだとは思わないか?」

 丁寧に説明すると、雅人の方も了承はしてくれたようで小さく頷き返す。しかし、相変わらず恨めしそうな視線のままだが。

「さて、それでは黒武会定例会議に移ろう。今日の議題は……」
「黒帝! 大変なことになってるぜ!」

 それまで静かだった執務室に、悲鳴にも似た男の声がこだました。ドアを開けきるのももどかしいと言わんばかりの形相で、一人の男が執務室に転がり込んでくる。
 180を越す、すらっとした長身。切れ長の眼を中心とした顔立ちは中性的だが、全身から発散される気配は野生の息吹に満ちあふれている。長めの黒髪を首の後ろで束ね、頭に巻かれたバンダナが印象的だ。

「……桐古? どうしてお前がここに……?」

 騒々しく室内に飛び込んできた男に対する威綱の声に、珍しく驚きの響きが混ざった。桐古の方もそれは同様らしく、苦しそうな表情ながらも両目が見開かれている。

「り、龍道先輩こそ、どうしてこんな所にいるんですか?」
「本日付けで、彼は黒都帝武会黒帝補佐官に任命された。我々の仲間だ」

 驚きの多分に混じった口調で話す桐古に、言い聞かせるように答える実経。緊迫しかかった雰囲気の中でも自分を崩さないところは、さすが黒帝と言うべき所だろう。

「桐古、まずは落ち着け。そして、筋道を立てて内容を伝えるんだ。回り道のように思えるかも知れんが、この場合それが一番早い」

 赤ん坊をあやすかのような口調で言う威綱の言葉に落ち着きを取り戻したのか、桐古は小さく頷いてゆっくりと深呼吸を始める。いつの間にやら蓮が持ってきた水を飲み干すと、桐古の表情が一瞬にして緊張を取り戻した。

「過去のつけが回ってきましたよ。編入事件のことに周りが勘付いて、えらい騒ぎになってます」

 桐古の台詞に、河野たちの表情がこわばった。

「編入事件?」

 ただ一人事態の分からない威綱が、きょとんとした表情で声を上げる。周囲の空気を察知し、蓮が口を開いた。

「今から10年前。先々代黒帝の判断により、玄武学園に女子生徒を入学させたのです、もちろん男子として」

 静かな蓮の言葉が、威綱に与える衝撃を数倍にもふくれあがらせた。実経がそれに頷き、眼鏡を右手で直す。

「当時、彼女は自分を含めた女性不信に陥っており、精神療養が必要だった。そのため、生活から女子を締め出さねばならず、結果として玄武学園の入学を例外的に認めたのだ」
「当然、他の三都市には秘密にしてました。ところが最近誰かがその噂を流したらしくて、三都市が騒ぎ始めてるんです。あいつら、考え方が古いんだよ」

 実経の後を継いだ桐古が、不満の色を表していた。威綱も黙って考え込んでいたが、やがて意を決したように口を開く。

「確かに、女子のいない環境と言われれば男子校ぐらいしか思いつかん。だが、今更問題にすると言うのも妙な話だ。……何かあるな」

 顎に手を当てながら、威綱が考え込む。そんな中、執務室に備え付けられた端末の呼び出し音が無数にこだましていた。

「どうやら、考えてる余裕はないみたいですね」

 いまいち緊張感に欠ける声で、雅人が周囲に呼びかける。蓮がすぐに頷き、一同は一斉に対策を練り始めた。

「仲のいい青都はどうにかなるけど、問題は赤都だな。あそこはこっちを目の敵にしてる。下手すりゃ、責任取って全員退学もあり得る」

 大きくため息をつきながら言う桐古の言葉には、声色からは想像もつかないほどの深刻さがあふれていた。それが事実であると言うことの、何よりの証明である。

「……赤帝を止めれば、どうにかなる。ここは二面作戦で行こう」

 威綱の言葉に、桐古と雅人が同時に顔を上げた。

「そうだな。私が赤帝を説き伏せる。その間に……」

 威綱の言葉に頷いた実経は、そう言って全員に作戦を説明した。黙って聞いていた三人の顔に、ほんのわずかな希望が浮かぶ。

「それしか、手はなさそうですね。やるからには全力を尽くしましょう」

 蓮の言葉が、全員に決意と覚悟を与えた。今まで初めて見る彼らの表情に、実経は自分の読みが当たったことを確信していた。



 執務室での作戦会議から数十分後。実経と威綱は赤都に足を踏み入れていた。古風なたたずまいを誇る黒都に比べると、赤都の方は最先端の町並みといった感じがする。

「……どうも、こういう空気はなじまんな。黒都の方が落ち着く」

 赤都に踏み込んで開口一番、周囲の様子を見ながら威綱がため息をついた。わずかに笑ってから、隣の実経が頷く。

「確かに。新しければいいというものではない。古い町並みが放つ威厳や落ち着きというものが、ここには全く感じられんな」

 そう答えると、実経は威綱を促して歩を進めた。実経の少し後ろを、威綱はファイルの束を持って付き従う。曲がりくねった道筋を、実経は迷うことなく歩いていた。その足取りが、急に止まる。

「着いたぞ。あれが私立朱雀学園だ」

 実経はそれだけ言うと、クリーム色の校舎へと歩を進める。慌てて後を追う威綱の目前で、校門が音もなく開く。吸い寄せられるように校舎を進む実経の足が、急に止まった。彼の目前に、黒服の男たちが立ちはだかっている。

「黒帝、河野実経だ。赤帝に話がある、通してもらおう」

 落ち着いた実経の物言いに対して、黒服の男たちは口元に下卑た笑みを浮かべた。
「黒帝? 現在赤帝様は、黒帝失権文書の制作中だ。通すわけにはいかんな」

 黒服の男の言葉に、実経の表情が厳しくなる。そのまま威綱の方を向き、口元に薄い笑みを浮かべた。

「……だそうだ。礼も法もない人間に、人の言葉で呼びかけても無駄だな」
「同感だな。こいつらには、人語を解する知恵もないように見える」

 実経の言葉を受け、威綱がいつもは使わない侮蔑的な言葉を口にする。黒服二人は額に青筋を浮かべ、実経に向かって殴りかかる。その動きを、彼が見逃すはずはなかった。
 威綱は殴りかかってきた男の拳を掴み、体を縮めて懐に潜り込む。男が状況を把握する頃にはもう遅く、堅いリノリウムの床に投げ倒されていた。もう一人の男は実経の目前で宙を舞い、何が起こったのかも判らないままに倒される。

「……合気道か。見事なものだ」
「趣味で、少々かじっているだけだ。ここまでうまくいくとは思わなかった」

 二人の軽口を聞き、残った黒服は自分が一体どういう相手と向かい合っているかをようやく悟った。しかし気づいたところでもう遅く、突っ込んできた威綱の正拳突きを鳩尾に叩き込まれて悶絶する結果になった。

「さて、私は赤帝と話してくる。ここは任せた」

 実経はそう言って、扉の奧へと消えてゆく。威綱はそれを確認すると、閉じられた扉の前に立ちはだかった。少しして、執務室の周りにたくさんの女子生徒−おそらく朱雀学園の者たちだろう−が集まってきている。

「皆さん、落ち着いてください。現在、赤帝と黒帝による話し合いが行われており、赤帝執務室に対する立ち入りを禁じさせてもらっております」

 懐から取り出したハンドマイク(石動に持って行けと指示されたもの)を使い、威綱は周囲を納得させるべく説明を始めた。

「その際、意見の相違から警備員に手傷を負わせてしまったことについては謝罪させていただきますが、現在は赤帝と黒帝による重要な話し合いが行われています。赤帝執務室への立ち入りを厳禁させていただくことをご了承下さい」

 威綱の説明に納得したのか、朱雀学園の生徒たちの動きが少しおとなしくなった。威綱は密かに安堵のため息をつきながら、直立不動の体勢で扉を守り続ける。

(黒帝の話し合いを邪魔させない、それが俺の仕事だ。後は、実経がどうにかしてくれる)

 扉の後ろの実経を信頼しながら、威綱は自分の仕事に没頭していった。



 周囲から、歓声が上がった。割れんばかりの拍手と賞賛の声の中、今まで演技していた猛獣使いは舞台袖へと引っ込む。
 青龍の郊外に作られた、特設サーカステント。円形に作られた舞台の中央では、きらびやかな衣装を身にまとったピエロが3メートルはある巨大な玉の上で軽業を披露している。その様子を、威綱は客席の片隅で眺めていた。

(お前も強くなったな、明人。もう、誰の支えもいらないだろう。これで安心できる)

 舞台で演技するピエロを見ながら、威綱は感慨深く考え込んでいた。目の端に、感涙の涙さえ浮かぶ。

「サーカス見て何泣いてるんですか、龍道先輩?」

 感涙に浸る威綱の耳に、歯切れのいい声が飛び込んでくる。思わず隣に目をやると、そこには一眼レフを構える和也の姿があった。

「涙というのは、意志とは無関係に出てくるものだ。それより、何でお前がここにいる?」
「我々が連れてきた」

 言い返した威綱の質問に、冷静な言葉が答えた。嫌な予感を覚えながら反対側に視線を向けると、そこには顎に手を当てながら舞台を見つめる実経の姿がある。周囲を見渡せば自分の上の座席には桐古が、下には蓮と雅人がちゃっかりと座席を確保していた。

「実経、お前は気を利かせるという言葉を知らないのか?」

 皮肉のたっぷり含まれた威綱の視線と言葉を真っ正面から受け、実経は手元の扇子を広げる。

「君をつけてきた彼女を止めるために、我々もここに来ることになってしまっただけだ。それに、我々がサーカスを見に来てはいけないという決まりはどこにもない」

 大安と書かれた扇子で表情を隠し、実経はいつも通り理論に裏付けられた屁理屈−と皆は呼んでいる−を口にする。いつもは苦痛に感じないそれが、今回ばかりは威綱の頭を痛めた。

「全く、確信犯とはこのことだな……」

 威綱はため息をつきながら、それでも舞台に集中する。足下にいる雅人が、しきりに歓声を上げていた。

「葉霧、今からそんなに声を上げていると、喉をつぶすぞ。叫びたかったら、最後の空中ブランコまでとっておけ」

 興奮気味の雅人をたしなめ、自分も舞台に集中する。必死に演技する自分の弟の晴れ姿を、その目に焼き付けようと努力しながら、自分がここを出ていった時のことを思い出していた。

(一人前の男になって、家族の皆に再び会う。それまで、まだまだ時間がかかりそうだな。ここまで、明人に先を越されては)

 大玉の上で歓声を受けるピエロの姿に、威綱は人知れず涙をこぼしていた。



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