鍋島閑叟人物評
【読者より】
鍋島閑叟(直正)について一言。
領民思いの「名君」ということになっている。本当にそうかな?
手づかみでもとれそうな魚の群れを大名だけが独占していた時代だった。そ の大名が、庶民が描いた皮肉絵を見て過ちを正したとなれば、佐賀の鍋島さま
はやはり名君だったのだろう。でも、信じられない。そんな物分りのよい権力 者が、江戸時代に存在したなんて。
(閑叟は)領民思いの名君に間違いないと思います。幕末史上でも、殿様クラスでは伊達宗城(宇和島藩主)、松平慶永(福井藩主)と並んで傑出した名君といえるでしょう。もっとも、この3人は、大名ゆえに中央政界で大久保や木戸のようなスタンドプレーないし軽業に走れず、結果的に保守的な行動に見え、新政府では名誉職に祭り上げられてしまうのですが。
鍋島閑叟が地元で名君と称えられている背景の一つは、『葉隠』に象徴される超保守的な風土に対して、貧農ばかりか豪農(地主)層もかなり強く圧迫を感じていて、西洋かぶれの閑叟がそれを打破しようとした点にあります。西洋かぶれというのは、要するに合理的なものの考え方、進め方をするということ。物語に表れている彼の思考は、体制保守的な藩士たちをはるかに飛び越えていますよね。
もちろん、彼が西洋文化と接触できたのは、長崎警護という佐賀藩の特別任務にも由来しますが、歴代の藩主にはできなかったのだから、それは時代というものです。いろいろ問題はあったにせよ、島津斉彬、伊達宗城またしかりです。とにかく、開国以前からオランダ式の軍備を整えたり、精錬所をつくったりするのは、やはりただものではなかったということですね。そして、忘れてならないことは、超保守の肥前にいつづけた家来の武士ら(自分が鮎を盗んじゃうような連中やその上司)と違い、彼は19世紀の江戸で生まれ育ち、中央の急変を体感していたということ。
こういう変革期の名君としては、何もない鎖国時代の殿様と違って、領民の支持が何より重要であることをよくわかっていたと考えるべきでしょう。庶民階級からかなり人材を登用していますし。ただし、殿様本人が優秀すぎて、それをサポートすべき家臣が育たなかった(江藤新平や大隈重信が出てくるのは明治維新の後)。土佐の山内容堂と似ています。
閑叟は維新後、有力大名としては真っ先に廃藩置県に賛同し、佐賀藩を解体しています(これが佐賀の乱の伏線になります)。権力欲がなかったわけではないだろうけれど、時代を読む眼は、最後まで確かだったのではないでしょうか。
というわけで、幕末・維新期を取り上げるときにはちょっと視点を変えたほうがいいかもしれません。「江戸時代に存在したなんて」というけど、江戸時代ではなくなりつつあったので。
(T.Kさん 早稲田大学講師)
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