2018月02月07日

小松内府の古塔について

FKさん(男性) 佐賀県基山町在住

突然のメールで失礼します。
 私は基山町の小松の隣集落「黒目牛」という所に住んでおります。
 実は私の家のルーツに関係すると言われている平重盛の事についてネット検索をしておりますと、偶然古賀様のブログを発見した次第でございます。その中に小松内府についての記載がありましたので驚いてこのメールを書いております。
 実は我が家は地元では「古家」(ふるいえ)という屋号で呼ばれておりまして、私も子供の頃古い麦わら家に住んでおりましたので確かに古いのかなとは思っておりました。
 私が小学生の頃(昭和39年頃)、親戚筋の子孫の方が、自分がいなくなるとわからなくなるのでと50年ほど前に我が家の新築の時、昔の大興善寺仁王門(現在長野商店付近)にあったと言われる千年杉の枝といわれる幅1m位の板に我が家のいわれを書き残してくださいました。
 それによると、我が家の先祖は平重盛公もしくはその高名な武士であるとのことで明治初めまで家系図と永光作の大小二振の刀や鎧馬具等があったと書かれており、明治政府になったとき県の寺社職員に持ち出され紛失したと記されています。
 そこで気になったのが、さすがに平重盛公が基山には来ないだろうと思っておりましたが、古賀様のブログに治平太という人物の名前が記されていたため気になってメールを書いた次第です。
 伺いたいのはこの人物は実在した人物なのか、物語として創作された人物なのかということです。
またもし実在するのであれば姓やどういう人物なのかがわかればご教示ください。お忙しいところ誠に申し訳ありません。


古賀 勝から返信

FKさま
 懐かしい基山の里からのお便りに、感動を覚えました。貴町へは伝説紀行の取材などで何度も訪れています。見上げる周囲の山々や、大興禅寺をはじめとするお寺さん、路傍の祠など、自分が日本人であることを誇りに思える数少ない場所です。
 お尋ねの「小松内府の古塔」につきまして、ご先祖への思いを込めておられるのに、ご期待に添えそうにないことを心苦しく思います。
 登場人物の「治平太」は、ご推察の通り、物語を進行させるための設定人物です。原資料には、「忠臣たちが主人たる重盛の遺髪を抱いて四国から九州へ・・・」、更に基山にたどり着いたとありました。
 それでも、禅寺の山号が「小松山」だったり、「小松」の地名が現存したり、基肄城址(きいじょうし)にみられる古代史などから、ここが平家名残りの場所であっても不思議ではありません。
よろしければ、伝説紀行の中の「宵のカワタリ(川渡り)」も読んでいただけれると嬉しいのですが。ご近所の皆さま方によろしくお伝えください。


古賀様
早速お便りくださいましてありがとうございます。
 私も二年ほど前に仕事を退職し多くの人が思うようにかねがね気になっていた我が家のルーツについて考える余裕も出てました。特に今はインターネットという昔は思いもつかなかった道具が使えるようになり、手始めにと検索をしてみたところでした。
 ただ私は歴史に対する見識も無く父や祖母が話してくれたことを思い出しながら、色々想像するしか手立てがございません。手近な資料としては自宅にある墓で寛延三年(1750年)、亡くなった先祖の墓くらいしか見当たりません。お寺の過去帳も寺を変えていて、資料としてみあたりません。位牌についても薄板短冊に書いた物が一抱えあったそうですが虫食いで読めなかった為処分したとのことでした。
 ただ平家のつながりがあるだろうと考えられるのは、父が子供の頃、学校教師を退職された方が自分のルーツを探して鹿児島から来られ、代々当主は佐賀県の基山町を向けて埋葬するように言われていたため基山で古い家系のF姓ということで家を訪ねてみえたとのことでしたので。
 鹿児島の硫黄島に有るような俊寛伝説を考えると、追っ手を恐れ熊本五木村辺りから鹿児島より旅した人たちがいたように密かに暮らしていたのは想像ですが考えられないことでは無いと思っております。
このたびはお手を煩わせ誠に申し訳ございませんでした。

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