【2014年10月28日】

久留米市生涯学習センター主催
シニアカレッジ基礎講座

 
 テーマ:明治維新前後のくるめんあきんど

講義内容:明治6年、新政府の太陽暦採用を機に激変した城下町久留米。出番を得たあきんどの雛たちがいっせいに躍り出る。

配布資料:くるめんあきんど年表  古賀 勝の略歴 

挨拶・自己紹介・テーマ

学び舎の跡で、同年代の同郷の方々とお話が出来ることを嬉しく思います。

本日の話の要約をホームページに要約していますので、参考にしてください。

本日私に与えられたテーマは、明治維新時の久留米城下の有り様と、くるめんあきんどたちの活躍の様子を振り返ることです。そのことが、現代に生きる私たちに必要な歴史認識だと思うからです。

私の生まれは昭和13年(1938年)ですから、生まれた時から遡ること70年前に、我が久留米の町が武家社会から商都へと一変していったのです。

私の祖母は、明治7年生まれでしたが、その頃の男の髪形は丁髷で年増の女は丸髷が主流だったと聞かされました。映画の時代劇そのものです。

そしてあの忌まわしい太平洋戦争を挟んで、先人達が積み上げてきた尊い遺産が消えていき、個々に持つ価値観も一変してしまいました。

その直後の高度経済成長とやらで、古代から続いた衣食住全てが過去のものとなってしまったのです。

明治は完全に歴史の彼方に消え去りました。でも、私たちの記憶の中には、明治の先輩がいますし、彼らから沢山の知恵を受け継いでいることを忘れてはなりません。

その分、これから郷土を支えていく若い人たちに、貴重な文化遺産を伝えていく必要があります。

 

明治維新前の久留米商人

 

今から230年ほどむかしの久留米、つまり、井上伝が生まれた頃(1788年=天明8年)から話を始めます。伝女史の誕生とくるめんあきんどの産声が重なるからです。

当時、久留米藩領内は、米麦を主として生産する農家とそれを消費する武士、その武士を支える町民に分かれた構造でした。幕府は、増収のため米穀だけの産業から付加価値の高い産物を産み出す政策に転じていました。幕府の中枢(老中)が田沼意次から松平定信に代わる頃です。(寛政の改革)

偶然でしょうが、井上伝が5歳の折に、討幕運動の奔りとなる高山彦九郎が自殺しました。井上伝の墓や倉田雲平・石橋正二郎の墓所も、すべて隣近所の寺に集中しているのも面白いですね。

その頃です。久留米藩領内で、現在に直結する生産と商業が始ったのは。

大川の家具」、櫨栽培と生蝋の生産富安忠四郎右衛門が始めた酒造り(富の寿)、城島(久留米市城島町)の酒・有薫を造った首藤重之進などがその例です。

八女地方では、仏壇製造などが始まっています。

 
柳坂の櫨並木 

次から次に開発される付加価値の高い産物は、まるで「雨後のタケノコ」の呈をなしていました。

一方、藩では、町民に対して徹底した倹約令を発します。更なる徴税のためには、領民に節約させなければ、納税もままならなかったからです。絹織物着用は絶対だめ、自分の着るものは自分で織れと。遊興はもちろん、家の普請や神仏の祭礼・冠婚葬祭にまで、事細かく贅沢禁止を布令したのです。

贅沢ご法度の世の中で、庶民は必然粗末な木綿布を求めることになります。この頃、木綿問屋の機屋兼織屋を営む本村庄兵衛井上伝にかすりの進化を促し、大塚太蔵の絵がすり、牛島ノシの小がすりへと進んでいきました。 

この他にも一大飛躍の理想を抱く若者らが、出番を窺っていました。倉田雲平、宗野末吉、石橋徳次郎、赤司喜次郎、国武喜次郎、中村勝次、野村生助、川崎峰次郎などです。 

維新後の久留米 

明治維新の前後。ペリーの浦賀入港以来、久留米の城内も開国か佐幕かで大揺れしていました。そのために多数の犠牲者が出ています。また、戊辰戦争にも領民が駆り出されて、多くの死者を出しました。

廃藩置県によって、久留米藩は久留米県に、更に三潴県を経て福岡県に吸収されることになりました(明治9年)。久留米の城下も三潴郡と御井郡に分割され(明治3年)、明治22年の市制施行でようやく久留米市が一本化するのです。

明治維新以後、急速に進められる西洋文化の取り入れ(文明開化)によって、出番を窺っていたあきんどの雛っ子たちが、維新の声を聞くと同時に動きだしました。


倉田雲平 

まずは倉田雲平

藩御用達の裁縫師修業に見切りをつけ、20歳で足袋師修業のために長崎に向かいます。修業を終えて久留米に戻り、足袋の製造販売店を開きます。お座敷足袋を1日に1足作って、それを売って次の材料費を賄うといったことからの出発でした。武家出身の妻を得て、西南戦争時の失敗を克服し、派手な宣伝手法で一躍日本を代表する足袋屋(槌屋足袋)に成長していきます。

そして、月星化成などを経て今日のムーンスターに至るのです。 

久留米商人の中でもユニークな存在は、宗野末吉です。

新政府の政策の目玉となる太陽暦の採用をチャンスと捉えた大工の棟梁。江戸周辺で得た技術と人脈で、久留米商人の先駆け的商人になります。末吉には、11代藩主有馬頼咸の援助がありました。


宗野末吉

 倉田雲平や国武喜次郎らから少し遅れて頭角を現すのが、石橋徳次郎です。飛ぶ鳥落としたブリヂストンタイヤの創設者石橋兄弟(重太郎・正二郎)の父親です。

武家の出ながら商家に弟子入りし、倉田と同じく足袋製造販売業(嶋屋足袋)からスタートしています。

広又の赤司広楽園を立ち上げたのが赤司喜次郎です。

今日では駐車場などに姿を変えていますが、広大な敷地に樹木と花卉が生い茂っていたのをご記憶の方も多いと思います。

庄屋の息子が、入院中の窓辺に飾った生け花を見て、花卉の持つ力を実感した赤司は、広楽園を起業します。ダリヤやチューリップの球根をオランダから輸入して、花屋の基礎を築きます。それが後の久留米つつじを世界的ブランドに育て上げる力になるのです。

ここにも、近所に住んでいた外国人牧師の援助が働いています。


赤司が開発した久留米つつじ「御代の栄」

 久留米地方が産み出した藍胎漆器の生みの親が川崎峰次郎です。

竹ひごを編んでいろいろな形を造り、これを漆で固めたもので、水も漏らさぬ上品な竹細工が出来上がりました。

明治284月、京都で開かれた第4回国内勧業博覧会に出品して、「籠を胎んだ漆器」に因んで「藍胎漆器」と命名されました。 

維新後の久留米商人と近江商人 

「久留米商人が歩いた後には雑草(くさ)も生えん」とは、私たちが子供の頃によく聞かされた言葉です。どういう意味かよく理解しないままに私は大人になったのですが、今さらながら、ふるさとの格言にこだわっています。 


国武倉庫

久留米を代表する商人を紹介するには、国武喜次郎を抜きにはできません。弘化3年生まれと言いますから、明治維新から遡ること21年前です。家は代々魚屋でしたが、父親が死亡したため、15歳にして家の大黒柱になりました。

父親譲りの魚の行商をしていましたが、ある時一転して魚屋を廃業し、かすりの行商を始めました。かすり屋に転身してからも「魚喜」の屋号を保ったのは、代々魚屋を務めた先祖に対する謝罪の念のためだったのではないでしょうか。

彼の行商は、11反売るか、それも売れない日があるほどに貧しい商売でした。それでも彼は、重い反物を担いで筑後一円の家々を回ります。苦しくても行商を止めなかったのは、そこで顔を売っておけばいつかは役にたつという、確信みたいなものがあったからです。

喜次郎の周囲には、商売の初歩を教えた先輩がいたはずです。喜次郎17歳の折には、努力が稔り56人の職工を雇って綿を紡がせ、その糸を持って農家に出かけます。かすりを織ってもらうためです。所謂「織替制度」です。(農家などに糸を持ちこみ、織り上がったかすりと糸を交換する、その差をリベートとして渡す制度)

ここで、行商で顔を売っていた無形財産が生きるのです。

久留米地方で織るかすりに「久留米絣」の名称がつけられたのは、江戸時代も末期の元治元年(1864年)といいます。喜次郎がかすり屋を始めた頃です。それまで日陰にあった久留米のかすりが、久留米藩の国産品の指定を受けて、他の国(藩)にまで売り出されるようになりました。(取引は藩が直接)

明治維新を翌年に控えた慶応3年、国武喜次郎が21歳になった年、近江商人から1万反のかすりの注文を受けます。喜次郎と近江商人との運命的な出会いがこの時期になされたようです。

魚屋からかすり売りに転向する時以来、行商の有り様やかすりの知識・織替制度など、商売のいろはを事細かに教えた人物とはいったい誰のことでしょう。一人前に成長した喜次郎に近江商人を紹介したのは・・・。その人物を、仮に本村織物商店の本村庄兵衛だとして物語を繋ぐと、うまい具合に真実味を持たせることができました。 

近江商人の実像と精神 

少し横道にそれますが、国武に1万反ものかすりの調達を依頼した近江商人とはいったい何者なのでしょう。 

江戸時代、普通の人間が国境(藩と藩の境)を跨ぐ場合、各地に設けられた関所で通行手形を示さなければなりませんでした。また、領内で収穫した農産物や魚介類、反物や工作物などを勝手に他藩で販売することも許されない時代です。でも、近江商人だけは例外でした。幕府から特別の通行手形を得ていて、日本中どこででも、国境を越えて自由に商いが出来たのです。

近江商人とは、滋賀県の琵琶湖一帯を本拠にして全国に出かけ、地元でとれた産物やそれを加工した物産を売り歩いたあきんど群のことをいいます。何故幕府は彼らにそのような優遇措置を図ったのでしょう。

遡ること関ヶ原合戦の直後、江戸の城下が出来上がる頃です。徳川幕府は、近江・松坂・京都など主だった都市の商売人を城下造りに駆り出しました。その時真っ先に手を上げて幕府に協力したのが、安土や近江の楽市楽座で活躍した商人たちだったと言います。


近江商人の行商スタイル

織田信長が安土の城下に「楽市楽座」を出して、商工業者に自由な営業活動を許可しました。信長没後秀吉の時代になり、秀吉の甥の秀次が近江八幡の城主となって、信長の楽市楽座を踏襲します。関ヶ原の15年前のことです。その時の秀次の筆頭家老格が、筑後国の城主になる田中善政だったのです。

江戸幕府が近江商人に特別手形を出したわけと、善政が筑後赴任の時連れていった町民の子孫が、うまく噛み合って久留米商人と近江商人の接点が浮かび上がってきます。 

近江商人とは 

近江商人をもう少し掘り下げていきます。

近江商人とは、本宅・本店を琵琶湖周辺に置いて、他国に出ていって行商した商人の総称をいいます。個別には「高島商人・日野商人・八幡商人・湖東商人」などと呼ばれ、それぞれ特定の地域から発祥し、活躍した場所や取り扱った商品にもさまざまな違いがあります。

琵琶湖周辺で採れるもの、それは魚介類であったり雑草であったり泥であったり、様々です。それが他国で売り物にする時、薬や畳表、釣鐘など様ざまな商品に変化するのです。

楽市楽座の自由商業主義のもと活発に活動を続けた八幡商人たちは、天領となった近江八幡の町から、全国行き来可能な通行手形を待ち、天秤棒を肩に担いで全国に散らばります。

当時まだ発展途上であった江戸にもいち早く店を出しました。彼らは、買い手よし、売り手よし、世間よし三方よし理念を商売の基本とし、自らの利益のみを追求することなく、社会事業にも大きく貢献しました。

八幡商人たちが残した財産は、形に残るものばかりでなく、むしろ、その精神に大きく価値があったといえます。商いの本務 

近江商人は、要領の良い商法を極端に嫌う伝統が出来上がっています。例え品不足が生じても、そのことによって値を吊りあげたりはしなかったと言います。

例えば伊藤忠商事の前身である伊藤中兵衛(湖東商人)は、投機的商売、不当競争、買占め、売り惜しみなどによる荒稼ぎや山師的商売、政治権力との結託による暴利を得ることはしないことを旨としていたと言います。 

町並み


森五郎邸の見越しの松

 最近訪れた近江八幡市の街並みと、建造物の保存の良さに圧倒させられました。

永原町通りや新町通りなど市内に残る古い商家の町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。その新町通りの江戸末期から明治にかけて建てられた家々は、屋根に「うだつ」を上げています。家並みの塀越しにのぞく「見越しの松」がひときわ風情を添えていました。 

国武喜次郎の浮き沈み 

江戸時代、国境の壁を気にせず、自由に商いを展開した近江商人。その近江商人と関わることで、大きく羽ばたいた国武喜次郎。

でも、そこに行きつくまでに国武は、いくつもの障害物を乗り越えなければなりませんでした。

最大の障害は、明治10年に勃発した西南戦争です。熊本県を主戦場にした内戦は、15000人もの戦死者を出すほどの悲惨なものでした。この内戦が、実は久留米の商業にとっても、分岐点になったのです。全国から動員された官軍兵士は、終戦後報酬を手に帰路に着くのですが、その途中の久留米でみやげ物を買い込みます。買い物の大半が久留米絣でした。売れに売れて品不足に悩むかすり商人たちが、原料も染料も手抜きのままで売り捌いたものですから、故郷に帰った兵士や家族から大ブーイングが起こりました。

『戦争戻りに久留米でかすりを買うたれば、紅殻染めとは露知らず、男なりゃこそ騙された』と、よからぬ歌まで流行り出し、久留米のかすり業界は、一気に火が消えてしまったのです。 

国武や本村庄平(庄兵衛の養子)ら業界連中は、朝晩議論を重ねたうえで、同業組合を組織することを決めました。同業組合には、かすり販売業者と染物・織物業者全員を加入させます。結成後は、すべての行動を組合の名前で実行する。違反者には必要な罰措置を講じる、といった厳しい規範でした。

粗悪品の原因の一つである原料糸について、今後は国内の紡績会社が作った糸(紡績糸)に限ること。紡績の技術を最大限活用することで、品質の均一化と原料糸不足の解消が可能になる。

粗悪品の原因の中でも最も評判の悪かった染料については、今後は久留米周辺と阿波国産の地藍使用を徹底する。織替制度の廃止も考えました。

こうして、同業組合が軌道に乗ると、国武は一気に大商人への道を駆け上がっていきます。 

第一は、京都の太物問屋としては日本一とうたわれた辻忠郎兵衛や大阪の外村商店などと結んで、万反単位の大きな商売を成立させます。辻忠郎兵衛や外村商店は、いずれも近江商人の流れであったりその出先です。ここでも国武は、近江との人的縁故を掴んでいたのです。

当然のことながら、久留米絣が爆発的に売れれば、生産者側で材料不足や品不足が起こります。特に、内戦後の信用失墜の要因となった原料糸と染料についての対策は緊急課題でした。

国武は近江商人のふるさとに出かけ、近江上布の織り方を学ぶと同時に、近江式板締め器械の技術を久留米絣に取り入れました。

 

国武工場(荘島町)と玉島紡績全景

 

木綿の原料である綿糸は、鹿児島紡績・堺紡績・倉敷の玉島紡績などに取り入り、独占的な買い付けに成功しています。特に玉島紡績では、取締役にも名を連ね、実際に中国に渡って綿花の買い付けまで行っています。

織り手不足の問題は、自ら久留米に工場を建設し、農村の二男坊や三男坊、小作人などを取り込んで自前生産を軌道に乗せました。マニュファクチュア(工場制手工業)を久留米で初めて取り入れたのは、国武喜次郎です。 

小川トクの先見性 

明治維新以降の久留米の商業を語る時、欠かせないのが小川トクの存在です。皆さんは、小川トクの名前と、彼女の功績である「久留米縞」をご存じか。

久留米縞は、かつて絣と並ぶ久留米の一大特産品でした。その久留米縞を創織した小川トクは、遠く関東の武蔵国(埼玉)から江戸を経て久留米にやってきた女性です。

「久留米縞」の特徴 

そもそも「しま」はどんなものか。それは、織物紋様の一種で、縦または横の方向に直線で構成されます

色の異なる糸を経(縦)糸に配合したものを「縦じま」、緯(横)糸に配合したものを「横じま」、経糸・緯糸両方に配合し交差したものを「格子じま」といいます

小川トクが創織した久留米縞の優れた点は、木綿織物特有の強靭性と価格の低廉、藍染色による染色堅牢性の高いことです。従って、庶民性と色彩的優雅さが売りの織物といえます。

織り方は、タテ糸(縦縞)又はヨコ糸(緯縞)に多色の糸を絡めるだけですから、タテ・ヨコ双方の糸を模様に従って括り、寸分たがわず織りなしていくかすりに比べて、仕上がりが早いのです。縞織の中の「双子織」は、小川トクが生まれ育った地方で創られ、江戸市民に好まれたことで、全国的に普及しました。小川トクも、久留米に来て真っ先に双子織を採用し、「久留米縞」のブランド名を勝ち取ったのです。

それは、撚った単糸を更に撚り合わせて、タテとヨコの糸に整えます。かすりのように絵を描いたり複雑な模様や文字を演出することはありませんが、単純な筋模様の柄は、かえって多くの女性の好奇心を刺激しました。

小川トクの最もすぐれた功績は、彼女が生まれ故郷で経験した機織りを、閉鎖性の強かった地方都市・久留米で発揮したことだと思います。 

長機・撚り機・投げ杼

小川トクが、縞織物の店を始めるにあたって先ず取り組んだことは、それまで窮屈な姿勢で使われていたいざり機を、埼玉流に造り替えることでした。図面もなく、記憶だけの機の再現は大変なことだったと思います。地元の大工の協力もあって、何とか長機(高機)は出来上がりました。

長機の次は、撚り器です。京都から来た婦人から古い撚り機を譲り受けて試作しますがうまくいかず、田中久重(からくり儀右衛門)の知恵を借りて完成させました。

撚り糸車:糸に撚りを加える器械。昔から使われていたものは、糸紡車(いとひきくるま)で、紡ぐ糸に錘(おもり)の数が一本だが、「八丁車」は、多くの錘を具えて、一時に多量の糸を撚り掛けすることができる。ともに竹の車で、早糸を持って錘と連絡させ、竹車を回すことで錘が回転し、撚りを加える仕掛け。(昭和9年発行、日本繊維新聞社発行『染織辞典』より)

井上伝が使用していた杼は、大きくて重いものです。そこでこれまた記憶にある「投げ杼」を採用します。

次に、双子織りに欠かせないのが、機械で紡いだ紡績糸原料の調達です。

双子織とは、慶応年間に輸入糸(唐糸・洋糸)を応用した最新の流行綿織物として、颯爽と都市市場に登場しました。明治維新の後、明治10年代以降になると、「唐糸双合織」や「双子織」などの工夫を凝らした新製品として改良されています。

小川トクは、通町で古着屋を営む中島屋武助に依頼して、絹糸を肥後・熊本から、唐糸(輸入した紡績糸のこと)の32番・22番を大阪から取り寄せてもらいました。

日吉神社の裏手に出来た街・新廓で小川トクの縞織物店が動き出したのです。

お気づきのように、小川トクが機屋稼業を始めるまでに、多くの商人が手助けをしています。無一文の流れ者女が、10年間で一人前の店を出すのには、それなりの資金と生活環境が必要です。これまた、バックに大物実業家が控えていたことは容易に推察できます。

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