【2012年05月01日】
久留米商業高校同窓会機関紙
近江商人と久留米商人 古賀 勝(59回生) 母校・久留米商業高校は、明治29年に久留米簡易商業学校として発足した。それは、倉田雲平(ムーンスター創業者)や石橋徳次郎(二代目徳次郎・石橋正二郎兄弟の父)らが活躍する時期と重なる。私は、その頃日本全国に商売の網を張り巡らせていた近江商人と久留米の関係を確かめたくて、琵琶湖の東岸に出かけた。 近江商人が扱っていた商品といえば、麻布から畳表、更に蚊帳、簾、煙草、呉服、瓦、鍋・釜から釣鐘までさまざま。それらはすべて琵琶湖周辺で得た自然の恵みを加工したものだった。近江商人の流れをくむ企業(高島屋・大丸・西武百貨店・ヤンマー・東レ・ワコール・西川産業等)は、先祖のたゆまぬ商品開発と営業努力を受け継いできたことで、今日の繁栄があるのだと聞く。 JR湖東線の近江八幡駅を降りると、一○○年以上も昔にタイムスリップしたような、スケールの大きな白壁屋敷群が出迎えてくれた。ここが全国を旅しながら商いをした商人たちの本拠地だった。西の湖から琵琶湖に通じる運河(八幡堀)の岸辺に建ち並ぶ土蔵群は、往時の商人の逞しさを物語っていて圧巻だ。 江戸時代末期(慶応3年)に、近江商人が久留米のかすりを大量に買い付けたことから、久留米商人との関係が深まった。その後久留米絣は、丈夫で上品な木綿織物として、京都や大阪の巨大な太物(綿・麻布)問屋との取引を可能にし、(明治5年)全国ブランドへと登りつめた。 国武喜次郎ら久留米の商人たちは、より高度な織物技術を学ぶべく、近江の地に足を運んだ。中でも上布(麻布)織りの技術を吸収することにはどん欲だったようだ。そこで得たものが、例えばかすり織りの大量生産を可能にした「板締め器械」(染色)だった(明治12年)。帰郷した彼らは、早速近江で得た技術を自前工場の生産過程に適応した。 明治初期に久留米の商人たちが学んだ足跡を辿っていくと、近江商人が持つ崇高な精神を読み取ることができる。各屋敷には、「商家としての心得」(家訓)が掲げられていて、『商売は、人のため世のためになすべし』と記されている。儲けた金は、形を変えて、必ず世間さまにお返ししなければならないとも。江戸初期から続いた彼らの商いの伝統が、全国の商人から鑑だと称えられた所以であろう。 久留米には、近江商人との結びつきを証明する「もの」は少ない。だが、その「こころ」は確かに息づいているはずだと、我がふるさと久留米と母校の未来に思いを馳せながら、美しい琵琶湖畔を後にした。(文中敬称略) |