【2012年04月01日】

久留米商人魂
久留米商業高校同窓会東京支部
機関紙「斗南の翼」への投稿(2012年4月1日発行)

第4回 藍胎漆器と川崎峰次郎

「久留米商人魂」C

藍胎漆器と川崎峰次郎

古賀 勝(59回生)

 

久留米に伝わる伝統工芸といえば、久留米絣と久留米つつじ、それに「藍胎漆器(らんたいしっき)」を思い出す。中でも藍胎漆器は、お盆から重箱・応接台まで、どこの家庭でも重宝がられてきた漆塗りの竹製品である。

この貴重な工芸品は、江戸時代の久留米藩御用塗師だった川崎峰次郎が、明治の世になって考案したもの。

江戸幕府が崩壊した直後、30歳の峰次郎は通町に漆器具店を開いた。足袋製造業の倉田雲平や石橋徳次郎(二代目徳次郎・正二郎兄弟の父)、久留米絣を世に広めた国武喜次郎などと同世代の、典型的な明治の久留米商人である。

ある時峰次郎は、茶人で骨董蒐集が趣味の友人に、中国製の竹籠(支那カゴ)を見せられた。峰次郎は、この籠を、なお強固で美しい家庭用品にして、売りものにできないかと考えた。そこで、御用塗師時代に京都の太刀漆工から教わった、優雅な「堅地(かたち)塗り」技法の適応を思いついた。

竹細工師に編ませた籠の隙間を砥の粉(とのこ)で塞いで、水がこぼれないようにする。その上に漆を何回も塗り重ねて磨く。気の遠くなるような試行錯誤を繰り返していくうちに、漆塗り独特の、品位を具えた竹籠ができあがった。その時峰次郎、48歳であった。

そこからが、久留米商人としての本領発揮である。明治28年、京都で開催された内国勧業博覧会に、創作した竹籠を出品した。すると主催者から、「久留米藍胎漆器」の称号が与えられた。

藍胎漆器の評判はたちまち全国に広がり、宮内省や宮家、更には大阪陳列所・百貨店などからまで注文が相次ぐようになった。以後峰次郎の藍胎漆器は、足袋やかすりと並ぶ久留米地方の特産品として、君臨することになった。

そして藍胎漆器は、海外へと飛躍する。峰次郎は、明治37年に開かれた米国セントルイスでの万国博覧会に、漆器14点を出品して、見事銀牌を受賞した。

峰次郎が67歳で死去した後、藍胎漆器は戦争の度に存廃の危機にさらされる。しかし、跡を継いだ商人や職人たちの努力で苦難をはねのけてきた。

昔ながらの手作業に励む工場を見学させてもらった。そこでは、材料を整える人、竹籠に漆(最近では代替漆や合成樹脂塗料が多用されている)を塗る人など、多くの職人が黙々と励んでいた。その工程は20以上にも及ぶという。

戦後、プラスチックなど化学製品の出現で、藍胎漆器の需要は少なくなった。だが、久留米絣と同様、久留米藩時代から受け継がれてきた伝統工芸は、少しも色褪せすることはない。少しずつではあるが、姿を変えながら、より広範の人々に愛され続けている。(敬称略)

 

写真説明:

@   川崎峰次郎

A   作業風景(井上藍胎漆器)

  

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