シリーズ
「久留米商人魂」B
古賀 勝(59回生)
『久留米つつじの赤司喜次郎』
前回までに、倉田雲平(ムーンスター創業者)と国武喜次郎(明治期のかすり業者)という傑出した久留米商人を紹介しました。いずれも、明治維新直後に走りだして商都久留米の礎を築いた先輩方です。両人に共通していえることは、商売に人一倍どん欲だったこと、目的のためには失敗を恐れなかったこと、そして、他国(他地域)の優れた技術や商法を、迷うことなく採り入れたことなどです。今回は、彼らと同時期に花卉販売業を起こした赤司喜次郎について。
御井郡東久留米村(現久留米市東町)で庄屋の家に生まれた喜次郎は、入院していた福岡の病院で、窓辺に飾られた生け花に心を癒されました。たった一輪の小さな花が、人間に与える計り知れない力を知ったのです。彼は屋敷の庭に種々の花を植え、「赤司広楽園」と名付けて商いをスタートさせました。
開業後は、江戸時代の藩士坂本元蔵に倣ってキリシマツツジの交配を繰り返し、色彩と花弁多彩な独特のつつじを生み出すことに精力を費やしています。今に伝わる「御代の栄」などは、彼の情熱がもたらした最高傑作です。
久留米地方で活動するフランス人の神父から譲り受けたダリヤやチューリップなど、大変珍重された西洋草花と合わせて、自ら開発したつつじ(当時は「小霧島」又は「錦光花」と称していた)を大阪市場に出荷して、少しずつ愛好家の目を惹くようになりました。喜次郎50歳に達した明治24年の頃です。
それでも「ぼち、ぼち」の域を出なかった商売が、ある発想の転換を機に一大飛躍の時を迎えます。全国に先駆けて発行した「苗物定価表」と商品カタログを武器に、業者や愛好家に向けて通信販売を始めたのです。大変な決断だったと思います。
更に喜次郎は、明治36(1903)年に大阪で開催された内国勧業博覧会に出品して二等賞を受賞します。それからです、業者や愛好家が、「小霧島」のことを「久留米のつつじ」と呼び、いつしか「久留米つつじ」の名称が定着していきました。全国の園芸家は、競って公園や自宅の庭に久留米つつじを植えるようになりました。
時は進んで大正8年。久留米つつじに惹かれたハーバード大学のアーネスト・ニッチ教授が、アメリカに持ち帰って新聞や雑誌で紹介しました。更にボストン博覧会にも出品されたため、いよいよ海外の愛好家にも親しまれるようになりました。
赤司喜次郎は大正10年に亡くなっています。享年79歳でした。久留米つつじが世界の有名ブランドとして歩き出した直後のことです。【敬称略】
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